噺の話

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カテゴリ:落語のネタ( 95 )

 私のブログは、時に“芋づる式”になる。

 加賀への旅から、加賀藩のことになり、今回は、落語のネタ『加賀の千代』。

 前田家、なかでも利常のことを中心に前回のシリーズで書いたが、彼の母親は、朝鮮出兵の前線基地となった肥前名護屋に、利家の洗濯女として出向いた下女の“ちよ”だった。
 そう、利常の母も、“加賀のちよ”ということ^^

 ということで、『加賀の千代』というネタについて。

 三代目桂三木助の十八番だった。
 逸話がある。浪曲師の二代目広沢菊春の得意ネタ「左甚五郎」を、三代目桂三木助が自分の十八番「加賀の千代」と交換した、とのこと。

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『落語の鑑賞201』延広真治編(新書館)

 『落語の鑑賞201』から、ご紹介。

【梗概】
 大晦日を間近にして、どうにも年が越せないで困っている夫婦。女房に加賀の千代の「朝顔に釣瓶とられてもらい水」の句を聞かされ、お前は旦那に、この朝顔のように可愛がられているから何とかなると言い含められて、金の借り方を女房から教わり旦那のところへ行き、まんまと成功。つい男が「やっぱり朝顔だ」とつぶやくと、旦那に訳を訊かれ、朝顔の句を説明する。旦那が、「ああ、加賀の千代の句か」と言うと、「かかの知恵だ」。

 内容は、『鮑のし』に似ているねぇ。

 少し頼りない夫と、しっかり者の女房の組合せは、落語の定番。

 千代のことや、この噺のことは次のように紹介されている。

 千代(元禄十六・1703~安永四・1775)は、江戸中期の俳人で、加賀国松任の人。「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」も千代の句として伝えられるが、実はこれは別人のものである。
 東京では、三代目桂三木助や七代目橘家円蔵が演じた。
 他にも同題の落語があるが、これは亭主が二階の女中部屋に忍んでいくので、焼き餅を焼き、二階に上がるはしごをはずしてしまう女房の噺。

 亭主が二階に忍んでいく、という型は、聴いたことがないなぁ。
 
 当代の噺家さんでは、何と言っても柳家三三の十八番と言えるだろう。
 寄席のみならず、落語会でも聴いている。
 春風亭一之輔も、寄席のネタの一つとしてしている。彼の高座も、なかなか楽しい。

 たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」のサイトでも三代目三木助版を元に解説がある。
「落語の舞台を歩く」サイトの該当ページ
 こちらのサイトからも、千代のことを引用したい。

経師表具師福増屋六兵衛の娘。母は村井屋の娘つる。幼名はつ。号は素園、草風。12歳ごろ同国本吉の北潟屋に奉公に出、主人岸弥左衛門(俳号は半睡、のち大睡)に俳諧を学ぶ。17歳の享保四年(1719)北陸地方巡遊中の芭蕉十傑の一人、各務支考(かがみしこう)に教えをうけ、秀句を詠んで人々を驚かせたという。
 18歳で金沢藩足軽福岡弥八と結婚、一児をもうけ早く夫と子に死別したというが確証はなく、未婚説もある。
 23・4歳のころ京に上り、さらに伊勢に麦林舎乙由(ばくりんしゃ_おつゆう。中川乙由)を訪ね師事する。25歳で実家に戻ったという。とかく伝説が多く、確証のあるのは少いが、美女であった。
 伝説が多く、美女。
 これが、後世に残るための重要な要素。
 
 前田利常の母、ちよが美人だったのかどうか・・・・・・。
 磯田道史著『殿様の通信簿』には、ちよ本人は、とりたてて器量よしではなかったらしいが、その母について、『天下一の美人にてまします』という記録(『三壺記』)が残っていると書かれている。
 
 美人の千代が教えをうけた各務支考といえば、二年余り前の柳家小満んの会、『江戸の夢』で、「宇治に似て 山なつかしき 新茶かな」という各務支考の句をはさんでいたなぁ。
2015年5月19日のブログ

 千代女は生涯に千七百句を残したと言われるが、「落語の舞台を歩く」には、代表的な句も紹介されている。朝顔の句のみ引用。

 「朝顔に つるべ取られて もらい水」(35歳の時に、朝顔や~ と詠み直される)
 「あさ顔や蝶のあゆみも夢うつゝ」
 「朝顔や宵から見ゆる花のかず」
 「あさがほや帯して寝ても起はづれ」
 「朝がほや宵に残りし針仕事」
   
 朝顔が、よほど千代の創作意欲を刺激した、ということか。

 ということで、拙ブログも、朝顔のデザインに替えた、というわけ^^
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by kogotokoubei | 2017-09-15 12:45 | 落語のネタ | Comments(0)
 どうしても、小のぶの『へっつい幽霊』のことが頭に残っている。

 あらためて、古今亭志ん生、志ん朝親子の音源を聴いた。

 主人公の相棒として若旦那は、登場しない。
 主人公が久しぶりに博打で勝ってからの行動、という設定は小さんとも同様。

 しかし、サゲは、やはり「足は出しません」である。

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柳家権太楼著『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫)

 またか、とお思いでしょうが、『へっつい幽霊』のサゲに関する続報(?)です。

 柳家権太楼の『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫への書き下ろし、2005年2月初版発行)から引用したい。

 「梗概」が説明され、サゲが「親方、あっしも幽霊です。決して足はだしません」と紹介された後の「権太楼のご案内」から。

 この噺にはサゲが二種類あります。梗概で紹介した「決して足はだしません」という型と、「寺だけでも造ってください」と、幽霊でお寺と博打の「テラ銭」と洒落てサゲるやり方です。五代目古今亭志ん生師匠や三代目桂三木助師匠は、前の形。小さんは後の形でやっていました。

 あら、しっかり二つの形の説明があるではないか。

 とはいえ、私が持っている小さんの音源は「足は出しません」だったなぁ。
 小さんも、分かりやすい形に変えたのか、あるいは、親友三木助に倣って変えたのか。
 しかし、この「寺を造る」も、小のぶは「寺を建てる」という表現を使っていたので、微妙に違う。でも、ほぼ同じ意味合いだな。

 引用を続ける。
 この噺は、三代目桂三木助師匠の十八番。明治から大正の頃の設定にして、へっついの売り値は三円、へっついから出てくるお金は三百円で演っていました。落語ファンの多くは「『芝浜』の三木助」を支持する方が多いようですが、私は「『へっつい幽霊』こそ三木助落語だ」と思っています。いや、三木助師匠の『芝浜』が悪いというのではありません。『へっつい幽霊』は上方のほうが味がある。一時大阪で落語をやってた三木助師匠がやると、その味が伝わってくる感じがあるからです。逆に『青菜』は上方より東京のほうが味がある。同じ噺を人で聞き比べるのも面白いですが、上方バージョンと東京バージョンを聞き比べるのも面白いと思います。

 この権ちゃんの意見、まったく道灌、いや同感!

 へっついを戻しに来た人物が関西弁を話し、「なぁ、道具屋」を繰り返す三木助版は、何度聴いても可笑しい。

 なお、小のぶの高座で、「寺」に因んだサゲを初めて聴いた、と書いたのだが、実は、二年前のむかし家今松独演会でも聴いていたのを、忘れていた。
2015年9月14日のブログ

 あの会は、長講の業平文治が印象深く、もう一席の高座を忘れていたが、しっかり「テラをお願いに参じました」でサゲていたのだった。

 勘当された若旦那は登場する。
 幽霊は翌日、再登場する。
 上方のオリジナルを尊重した、今松ならではの型、ということか。

 小のぶの高座の後には、今松のこの噺、まったく忘れていたなぁ。

 こういうことも(頻繁に)あるから、ブログを備忘録代りに始めたわけでもあるが。


 小のぶは、今日が楽日の国立演芸場上席にも出演していた。

 ということは、国立期間中に、納涼四景(四日)にも出て、独演会(八日)もあった、ということか。

 “幻の噺家”という形容は、もはや相応しくないかもしれない。


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by kogotokoubei | 2017-08-10 21:49 | 落語のネタ | Comments(2)
 先日の柳家小のぶの『へっつい幽霊』は、後で師匠小さんの音源を確認すると、主人公が博打の儲けで竃を買おうとすることや、仲間に勘当された若旦那が登場しないなどは、師匠譲りだった。
 ところが、小さんのサゲは、「幽霊ですから、アシは出しません」となっていた。
 小のぶのように翌日酒盛りの席に再び登場し、「寺を建てて欲しい」でサゲるのは、果たして彼自身の工夫なのかどうか・・・・・・。

 小のぶ、マクラで、賭場を開帳することを「寺を建てる」と言った、と丁寧に仕込んであったなぁ。

 『看板のピン』などのマクラでもよく聞くが、博打の言葉は寺の言葉が多く使われる。

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関山和夫著『落語風俗帳』(白水Uブックス)

 小のぶのサゲについての疑問からめくった本がこれ。

 落語と仏教や説教との関係に詳しい、関山和夫著『落語風俗帳』から、この噺の部分を引用したい。
 小のぶの高座の謎が解けたわけではないが、なかなかためになることが書いてあった。

 上方落語の『へっつい幽霊』のサゲに、
「まだ金に未練があるのか」
「せめてテラがほしい」
 というのがある。いうまでもなく、テラは寺とテラ銭の掛詞(かけことば)である。こちらの方が私には興味がある。寺の開帳や縁日には、よく博打場が開かれた。博打のことを開帳という。そして博打の場所代を寺銭と呼んだ。
 寺は、もと中国では外国の使臣を接待する役所の名だあった。漢語で「寺」というのは役所の意である。後漢の明帝の治世に、インドの僧・迦葉摩騰(かしょうまとう)、竺法蘭(じくほうんらん)の二人が中国に仏教を伝えるためにやって来たとき、はじめ鴻臚寺に置き、翌年白馬寺を建立して住まわせたといわれる。このときから仏教の道場を寺と呼ぶようになった。そして僧の住所(*住居か)をすべて寺というようになった。寺院を坊ともいうが、「坊」というのは区画、区院という意味で多くの僧坊がある区域をいった。日本では後世に坊と房の意味が混同されてしまった。坊主というのは住職の意味であったが、転じて一般に僧侶を意味するようになり、ついに男の子をさしていうようになった。真宗で住職の妻を坊守と呼ぶのも興味深い。寺男・寺子屋・寺侍などの寺をつけた呼称がたくさんあるのも仏教の庶民生活への浸透ぶりを示す。

 小のぶのサゲとは違うが、テラにちなんだサゲがあることは分かった。

 それにしても、落語のサゲを調べようとして、「寺」の歴史を学ぶことになった。
 へぇ、寺は外国の客の接待の場所だったんだ。

 迦葉摩騰、竺法蘭なんて難しい名前も初めて知ったなぁ。
 後漢時代のインドの僧らしいので、西暦で50年頃から70年頃の時代。
 
 そろそろ、お寺が一年中でもっとも忙しい日が近づいてきた。

 宗教法人ならお布施は非課税。

 お坊さんが羨ましくなる季節とも言える。

 こんなことを書くと、バチが当たるか^^
 

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by kogotokoubei | 2017-08-08 20:51 | 落語のネタ | Comments(4)
 今日は休みをとっていて、池袋演芸場の昼の部(柳家小のぶが主任)楽日に出かけようと思っていたのだが、ここしばらく続いた暴飲暴食などのせいで、体調が今一つ。
 実は、居残り会以外にも飲み会が続いていたのであった。自業自得だ。

 よって、静養日(?)として、遠出はせずに、家で本を読んだりしていた。

 先日の柳家小満んの会における『王子の幇間』について書いた内容の中で、ほぼ同じ筋立てで上方落語に『茶目八』や『顔の火事』という噺があることを、矢野誠一さんの本から紹介した。

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『米朝ばなし』(講談社文庫)

 『米朝ばなし』をめくってみると、「新清水」の章で、『茶目八』が紹介されていた。

 まず、冒頭部分を引用したい。
 昔の大阪のおもかげ

 大阪にも清水さんがある、と言うと、びっくりする人が多いのですが、天王寺さんと生国魂さんの間、安居の天神さんの裏手あたりに清水寺があります。
 いま大阪で、昔のおもかげが残っているのは、天王寺から一心寺、安居の天神、生国魂さんから高津へかけての一帯、いわゆる上町台地のこの一角でしょう。

 読んでいて、なんとも懐かしくなった。

 昨年11月に、「ブラ幸兵衛」と称して、拙ブログへのコメントをきっかけにメル友(?)になった山茶花さんの名ガイドで散策した上町台地一帯を思い出したのだ。

 そうそう、清水坂も歩いたなぁ。
2016年11月14日のブログ
2016年11月15日のブログ

 大阪の印象は、あの散策で一変した。
 坂の町であり、寺の町なのである。

 思い出に浸るのはこれ位で、『米朝ばなし』に戻る。
 京都の清水寺に対して「新清水」と呼ばれるここには、やはり小さいながら舞台があり、滝もあります。滝の下の方には今はないが、江戸時代から「浮瀬(うかわせ)」という名代の料理屋があり、これは「双蝶々」などの芝居にも出てきます。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という清水の舞台から飛ぶということにちなんで、しゃれてつけた名でしょう。
 この新清水は、落語には関係がないと思っていましたら、ちょっとだけですが、ここが登場する話があったので、ご紹介します。『茶目八』です。

 なんとも、興味深い導入部。
 さて、どんな噺なのだろうか。
 茶目八という幇間(たいこもち)、ロクなヤツではないんですが、とにかく口から出まかせにぺらぺらしゃべるのがおもしろいので、割にごひいきの客が多い。
 あるだんなの二号さんの家へ行って、だんなのことを歯の浮くようなベンチャラを言うてほめそやす。そのおてかけはん「ワテ、うちのだんさん、イヤになってるねん」「なんででんねん。あんなええ男やし、お金は持ってはるし、よう気がつくし」「あの人、あっちこっち浮気ばっかりしてるしな。それにな、ちょっと油断のならんところがあると、あんた、思わんか」
 こういうふうに持ちかけられると、この茶目八、すぐ乗って、「そういうとな。わたし、こないだ、だんなに殺されかけましたんや。わてがまだ寝てる時に、七時ごろだっせ。わてをたたき起こしに来はって“散歩に行かへんか”“へえ、おおきに”と飛び出したけども、朝めしも何も食べてえしまへんやろ。そやのに、どんどん、どんどん歩きはりまんねん。“わてお腹が減ってまんねん”言うたら“お、そんならどこぞ夜明かしの店が今時分までやってるやろ、そこで食べたらええ”ちゅうので、そこまで行ったら、店を閉めたところでんねん。そうすると“ついでやさかい高津さんから生国魂さんへ散歩しよう。運動になる”とこうおっしゃる」
「運動ちゅうのはね、お腹が大きいさかい、あれ、運動しまんねんで。ペコペコで運動したら、わたい、しまいに目がもうてきた。ほんなら“広田家のお定(き)まり食べよう”“あ、結構でんな”ち一心寺さんのとこをずーっといたら“本日休業”と書いたある。だんさん、知っててわたいをここへ連れて来はったんや。ほんで“清水さんへお参りしょう。お滝に打たれるねん。おまえも一緒に打たれえ”“もうかんにんしとおくなはれ”と言うのに裸にして飛び込まされた。さ、今やさかいそう寒いことはないけども、唇の色が紫色になってきて、目が回ってドタッと倒れた。だんさんは着物をぬごうともせんと、清水の滝へ手をのばしてしずくを受けて、ほいで頭の上へピシャピシャとしずくを乗せて“これでもおんなじこっちゃ”ーこんなこと言いまんねん」


 去年の“ブラ幸兵衛”では、清水坂を歩いたが、清水寺には立ち寄らなかったなぁ。
 次の機会には、茶目八が災難にあった(とされる?)滝を見に行かなきゃ^^

 せっかくなので、引用を続けよう。

「さあ、そういうところのある人やさかい、わたしが別れるちゅう気持ち、わかるやろ。わたしと一緒になって、連れて逃げてえな」「逃げまひょ」
 茶目八は、金と銀の延べ棒が入っているというえらい重たい箱を風呂敷包みにして背負わされ、値打ちもんの掛け軸や、骨董品の入った包み、鏡台まで背負う。そのうえ、おかあはんの形見やという宣徳の火鉢を手に、おとっつあんの形見の柱時計を首からぶらさげ、「子供同様にかわいがってる」という猫をふところに入れます。
「歩けますか」「へえ、どうぞこぞ歩けます」「まあ、おもしろい格好やこと・・・・・・。だんさん、ちょっと出てきて見てみなはれ」
「茶目八!ええ格好やな」「ワァー、だんな、居てはったんかいな」「なんやおまえ、まるで火事場の焼け出されやないか」「へえ、火事にもあいまひょかい。今、顔から火が出ました」

 『王子の幇間』とは、幇間を騙すのが旦那と女房ではなく、旦那とおてかけはん(二号)という違いがあるが、基本的な筋立ては、なるほど同じだなぁ。

 ようやく、小満んのサゲがこの上方落語を元にしていたことが、確認できた。

 『王子の幇間』の作者初代三遊亭円遊は、嘉永3年5月28日(1850年7月7日)生まれで明治40(1907)年11月26日に歿した。

 『茶目八』の作者と言われる二代目林家染丸は、円遊より17歳若く、幕末の慶応3年1月8日(1867年2月12日)生まれで、昭和27(1952)年11月11日に、85歳で亡くなった。
 
 昭和前半の上方落語界を語る上では欠かせない人物であり、奥さんの林家トミは、下座三味線の名手で人間国宝(無形文化財)だった方だ。

 その二代目染丸の墓は、天王寺の一心寺にある。

 去年の“ブラ幸兵衛”で立ち寄った一心寺では、「真田の抜け穴」を見たなぁ。見事な現代風の仁王像には圧倒された。

 染丸の墓があると知っていたら、手を合わせたものを。

 
 果たして、当代の上方の噺家さんで『茶目八』、あるいは『顔の火事』を演じる人がいるのだろうか。

 ぜひ、そのうち聴きたいものである。

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by kogotokoubei | 2017-07-20 15:17 | 落語のネタ | Comments(6)
 今日七月一日は、富士山の山開き。
 昨日から登り始め、ご来光を拝もうとした山好きの方も少なくないだろうが、残念ながら天候が悪かったらしい。

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矢野誠一_落語歳時記

 『富士詣り』という噺がある。
 矢野誠一さんの『落語歳時記』から引用。

富士詣り

 七月一日の富士山の山開きに、登山して頂上の富士権現に参詣することをいう。登山者は、白衣をつけて金剛杖をたずさえる。富士講と称し、団体をくんで登る人も多い。
  *
 「お富士様へ参りますに、近頃は山の登り口がたいそう変わりまして、昔江戸の道者はみな甲州へ行って、北口から登山いたしました」
 というのが、落語『富士詣り』のマクラだ。このはなし、富士詣りの途中で、山が無事にすむようにと、みんなが犯した罪をざんげする。湯屋で新しい下駄をはいてきたとか、色事のざんげなどがあって出かけると、一人が青くなった。
「この人は初山で酔ったな」
「酔ったかもしれねえ、ちょうど五合目だ」
 別題を『五合目』というゆえんだ。


 今日、どこかの寄席で、『富士詣り』を演る噺家がいるだろうか。

 『大山詣り』は、今の時代にも残りよく聴くことがあるが、『富士詣り』はまだ寄席で聴いたことがない。

 ネットで調べたら、Youtubeに柳家権太楼の音源があった。



 本来のサゲではないが、なかなかに楽しい。

 本編はちょうど寄席の尺。

 同じ矢野さんの『落語手帖』によると、かつて、七代目三笑亭可楽が得意とし、三遊亭小円朝に可楽から伝わったらしい。
 小円朝は、本来は柳派の噺、と言っている。
 権太楼は、小さんから習ってのだろうか。

 小円朝の弟子の朝之助から当時の若手にも伝わり、よく演じられたとのことだ。

 朝之助は、若くして亡くなった人で、談志との縁も深かった。
 酒さえ飲まなければ、次代を担う名手だったはず。

 朝之助がもう少し生きていてくれれば、この噺も今のように消えかかることはなかったかもしれない。

 富士山の山開きの日、今やなかなか聴くことのできない『富士詣り』という噺と、そのネタを得意としていた噺家のことを思っていた。
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by kogotokoubei | 2017-07-01 12:31 | 落語のネタ | Comments(12)
 座間で今松『お若伊之助』を楽しんだ。
 あの噺はあくまでフィクションで、御行の松の根方に「因果塚」などはないだろう、と思っていたら、なんとなんと・・・・・・。

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佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)

 佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)から、引用する。

 まずは、御行の松について。

 御行の松は根岸四ノ九ノ五、荒川区との境に近い御行の松不動堂の境内にあった名松。寛永寺の門跡、輪王寺宮が上野山内を巡拝されるとき、必ずこの松の下で休まれたことからこの名がついた。

 この由来については諸説あり、今松は、慈眼法師が若い頃に近くで修業した、と言っていたような気がする。勉強不足で、詳しいことは分からないがご容赦を。

 引用を続けよう。

 大正十九年、天然記念物に指定された当時は、樹齢約三百五十年、周囲4.09メートル、高さ13.63メートルもあり、枝が傘を広げたように垂れ下がっていた。堂のすぐ前を音無川の清流が流れて、まさに「呉竹の根岸の里」風情だったという。
 ところが、この松は昭和三年に枯死してしまった。昭和五年、傍らに「御行松」と彫った大きな石碑を建てるとともに、記念に幹のいちばん太い部分を保存して石の台座の上に置き、しめなわを張って屋根をかけた。が、この幹も戦災で堂もろとも焼けてしまった。
 戦争は、いろんなものを焼いてしまったのだ。
 戦後、今度は土中から根を掘り出し、台座の上に飾った。この根っこは風雨にさらされて年々風化しているが、いまも堂の左手にある。堂の中には、この根の一部で下谷二丁目の桜田幸三郎という七十歳の大工さんが彫った、身の丈およそ40センチの不動尊もまつられている。
 昭和三十一年、二代目の松を移植したが、すぐ枯れた。五十年、三代目を植えた。まだ若木だが、これはすくすく育っている。
 この本の元となった朝日新聞の連載が始まったのが昭和61(1986)年、私が持っている文庫の発行は平成3(1991)年。
 三代目でさえも、植えられてすでに四十二年が経過している。
 
 さて、御行の松の歴史はこれ位で、問題の“塚”のこと。

 ところで、この三代目、石碑、初代の根っこなどの周りをよくよく探してみたのだが、肝心の因果塚らしいものは見当たらない。戦後、無住になっていた不動堂は、近く(根岸三ノ十二ノ三八)の西蔵院の場外仏道になったが、同寺の住職も、因果塚なんて聞いたことはない、という。ま、考えてみれば人間が狸の子を産むわけがない。どうやら根も葉もないつくり話のようだ。
 ところが、である。その因果塚が建立されたのである。
 初代の根っこを掘ったり、三代目を植えたりして不動堂の運営に当たっているのは、地元の不動講の人たちだ。三代目を移植して十年目の昭和六十年、講の集まりに志ん生、円生の『お若伊之助』のテープを持ち込んだ人がいた。その席でテープを聞いて、せっかくこういう噺があるんだから、いっそ因果塚をつくっちまおう、ということに衆議一致した。落語好きの人たちが見にきてくれて、ついでにおさい銭をあげてくれれば堂の運営もいくらか楽になる、というわけだ。
 五年後の平成二年五月二十八日、不動堂の境内に紅白の幕を張りめぐらし、「狸塚再建披露式」が盛大に行われた。「因果塚」はイメージが暗いというので、「狸塚」にした。「再建」と銘打ったのは、江戸時代にあった塚が長い歳月の間に失われ、それを復活させたという思い入れ。落語を実話扱いした遊び心が、下町っ子らしくて粋なところだ。塚は秩父の赤玉という高さ70センチほどの自然石。そばにみかげ石で彫った夫婦の狸を配した。

 実に、い~い話ではないか。
 こういう下町っ子の粋なところ、見習わなくちゃねぇ。

 度々参考にさせていただく、「落語の舞台を歩く」のサイトから、この塚の写真をお借りした。
「落語の舞台を歩く」サイトの該当ページ
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 今度近くに行ったら、ぜひ手を合わせようと思う。
 御賽銭も忘れずに^^

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by kogotokoubei | 2017-06-15 12:36 | 落語のネタ | Comments(2)
 今日三月十三日は、旧暦二月十六日、西行忌だ。

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矢野誠一_落語歳時記

 座右の書、矢野誠一さんの『落語歳時記』から引用する。
 旧暦二月二十六日、西行法師の忌日。建久元(1190)年のこの日、河内弘川寺に入寂した。「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という歌は有名。釈尊入滅の日に死ぬことを願っていたのである。二十三歳出家してより諸国行脚して歌道にその名を知られた。家集『山家集』のほか、その歌を集めた『聞書集』『聞書残集』がある。

    *
 あの西行法師が未だ佐藤兵衛之丞則清といった北面の武士時代のエピソードを綴ったのが、地ばなしによる『西行』で、故柳亭痴楽や三遊亭円歌などがしばしば高座にかける。昔、摂津泉つまりいまの大阪近辺から千人の美女を選び、さらにそのなかの一人選び抜かれたという染園内侍に、佐藤兵衛之丞則清が恋をしたはなすだが、落語では、この恋に破れたため、かざりをおろし、名も西へ行くべき西行と改めることになっている。
 有名な歌は、如月の望月のころだから、二月十五日頃の花の咲く春の日に死にたいということ。釈尊入滅、つまり釈迦が亡くなった二月十五日に自分も死ぬつもりでいたわけだ。
 ほぼその通りに旅立つとは、描いた通りの人生のクロージングの姿ではないか。

 なお、佐藤則清の「のり」の表記は、以降で引用する本やサイトで「義」や「憲」も使われており、混在したまま引用するのでご容赦のほどを。

 西行が登場する噺として『鼓ケ滝』は何度か聞いているが、『西行』を聴いたことがない。
 
 あの「柳亭痴楽はいい男」の四代目痴楽が十八番とし、二代目円歌、そして当代円歌も持ちネタとしているようだ。

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矢野誠一 『新版 落語手帖』

 同じ矢野さんの本『落語手帖』から、『西行』の「あらすじ」をご紹介。

 北面の武士佐藤兵衛尉憲清は、染殿の内侍に思いをかけていたが、内侍から「この世にては遭わず、あの世にてもあわず、三世過ぎての後、天に花咲き、地に実り、人間絶えし後、西方阿弥陀の浄土にて我を待つべし。あなかしこ」と手紙がくる。則清は、これをいまから四日目、空に星が輝き、草木に露を含む頃、西の阿弥陀堂で待てとのことと解釈した。内侍がなかなか来ないので居眠りをしていると、内侍がやってきて「我ならば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみけり」といって帰ろうとした。とび起きた憲清は「宵は待ち夜中はうらみ暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返歌した。内侍は機嫌をなおし、うちとけた。鶏鳴暁を告げる頃、「またの遭うせは」と憲清が聞くと「阿漕であろう」と袖を払われる。「伊勢の海阿漕ヶ浦に曳く網も度重なればあらはれにけり」の古歌を知らぬ則清は、武門を捨て剃髪、名を西行と改めて歌修行の旅に出る。伊勢の国で、馬方が「われのような阿漕なやつは・・・」と馬を叱るので、西行がその意味をたずねると、「あとの宿で豆食っときながら、まだ二宿も稼がねえのに豆を食いたがるだ」「ああ、してみると二度目のことが阿漕かしらん」

 なるほど、内容やサゲを考えると、今日では聴くことができなくなった理由が分かる。

 ネタ調べをする際にたびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」には、前段の美女選びのことなども含む円歌の高座の概要が説明されている。

 同サイトから、「染殿の内侍(ないし)」について引用。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ
染殿の内侍(そめどののないし);内侍=伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれた。記紀伝承では崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。また、斎宮に関する一切の事務をつかさどった役所の女官。町屋風に言うとお染さんというが改まって染殿と言った。


 次に、サゲにつながる「阿漕」を含む、内侍が謎をかけた古歌について「故事ことわざ辞典」で調べてみた。

「故事ことわざ辞典」サイトの該当ページ

阿漕が浦に引く網
【読み】 あこぎがうらにひくあみ
【意味】 阿漕が浦に引く網とは、人知れず行う隠し事も、たびたび行えば広く人に知れてしまうことのたとえ。
【阿漕が浦に引く網の解説】
【注釈】 「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所。
特別の漁業区域で一般人の漁は許されていなかったが、阿漕の平治という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をしていて、ついには見つかり簀巻きにされたという伝説から。
「あこぎなまねをする」などと用いる、強欲であくどいさまをいう「あこぎ」も、この伝説から出た言葉。

 この伝説を知り、落語の『二十四孝』を思い浮かべてしまった。
 秦の王祥が、母親が寒中に鯉を食べたがったが貧乏で鯉を買う金がなく、氷の張った沼に出かけ、裸になり自分の体温で氷を割って鯉が飛び出した、という噺は美談。
 しかし、阿漕の平治の密漁は罪となり簀巻きか・・・・・・。


 「阿漕」という言葉ができた背景に、こんな伝説があったことを、初めて知った。

 そして、この噺、少しバレがかってもいて、それも現在では演じられにくい理由の一つか。

 しかし、知れば知るほど、この噺は奥が深いと思う。
 染殿の内侍と彼女が謎かけをした阿漕が浦の古歌という内容と、サゲ近くの馬方と西行のやりとりの落差は、実に興味深い。

 たしかに、今では演りにくい噺には違いないが、埋もれてしまうのは惜しい。
 地ばなしとして噺家さんそれぞれの現代風の工夫も活きるだろう。

 誰か、復活してくれないものだろうか。

 西行忌に、今は聴くことのない、味わい深い噺のことに思いが及んだ。

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by kogotokoubei | 2017-03-13 12:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 先日、今松は『品川心中』のマクラで、吉原は“きぬぎぬの別れ”だが、品川は少し下がって“もめんもめんの別れ”というクスグリで笑わせたが、吉原と品川では、たしかに大きな違いがあるのだろう。

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 安藤鶴夫さんの『わが落語鑑賞』には、文楽、三木助の十八番が並ぶ中で、円生のこの噺が挟まれている。
 ちなみに、私が持っているのは、この表紙画像の筑摩叢書版。その後、ちくま文庫でも発行され、新しいところでは河出文庫からも出ている。
 なお、あとがきでアンツルさんが書いているように、筑摩叢書版は、『落語鑑賞』(苦楽社)と『名作聞書』(創元社)の中から十六篇を選んだものだ。

 さて、アンツルさんは、吉原と品川との違いを、このように書いている。

 おなじ遊び場でも、吉原は大門までで駕籠をおろされたという話だが、品川は海道にそった宿場である、駕籠が通る。
  売れぬやつ馬の尻ばかりかいでいる
というわけで、化粧をすました女が立て膝をして、朱羅宇(しゅらお)の長煙管から煙を吹いている目の前には、田圃で狐に化かされたご仁がいただくぼた餅のたぐいも、ところかまわず落ちていたことであろう。
 本来、きぬぎぬの別れなどというものは、あけの鐘がゴンと鳴るとか、あるいは鴉カアの声とかがその別れをいっそうあわれにするはずの音響効果があるのにかかわらず、
  品川は烏よりつらい馬の声
などといわれて、きぬぎぬの別れにはヒヒン、ブルルという艶消しな馬のいななきが、その枕もとに響いたものとみえる。
 だから、品川の女郎ともなれば、なんだかそこに色っぽいとかあわれというよりは、一種の滑稽感がつきまとうようだ。
 
 なるほど、鐘の響きや、烏カアの音響効果(?)をバックにした“きぬぎぬの別れ”と、“ヒヒン、ブルル”の音響に、あの“ぼた餅”という小道具を目の前に配した“もめんもめんの別れ”では、大きな違いだ。

 『品川心中』という噺は、なるほど、「品川」でなければならない理由がある、と得心する。
 それは、『居残り佐平次』も然りで、吉原にあの噺は似合わないだろう。
 
 二つの苦界の違いは、紋日にもあったらしい。
 アンツルさんはこう説明している。
 江戸の吉原にはやれ恵比須講だ、やれ初午だ、やれ花植えだ、やれ衣替えだ、やれ八朔だと、一月から年の暮までいわゆる紋日といわれた年中行事がひっきりなしにあって、そのたびに馴染の客はさまざまにしぼり取られたものだが、そこへいくと品川の紋日は二十六夜待ちを最も盛んなものとして、正月の月待ち、八月の十五夜、九月の十三夜というふうに、海を背景としたお月様ばかりがだいたい紋日とされていたようである。
  また九月きなと品川にくて口(ぐち)
 月見がてらに品川の宿に一夜を明かすのも、あるいは江戸人の市井風流であったかもしれない。品川とはざっとこんなところである。

 なるほど、それだけに、少ない紋日に、移り替えができないことは、おそめにとってプライドが許さなかったのたろう。

 ない、二十六夜待ちについては、以前に杉浦日向子さんの本から紹介したことがある。
2015年9月27日のブログ

 「二十六日」は、旧暦の七月二十六日である。
 月の出が遅いので、“待ち”なのである。待つだけの、ご利益がある、と信じられていた。

 ちなみに、八朔については、ずいぶん前になるが、2011年の八朔に記事を書いた。
2011年8月1日のブログ

 昭和40年発行のアンツルさんの本に、これらの言葉の注釈はつかない。
 必要なかった、ということだ。
 とにかく、落語でしか聞くことのなくなった言葉が多くなった・・・・・・。
 
 もちろん、品川には吉原にはない良さもある。

 一方にそうした海道を持つそのかわりには、遊女屋の裏にはまた、冬ならあくまでくっきりと晴れ渡った安房、上総の見える海を持っている。
 安い鬢つけ油の女の髪のにおいがする部屋のなかには、汐の香もまた漂っていたことであろう。
  いうことがなさに初会は海をほめ
という川柳は、はじめて品川の宿で遊興の一夜を明かした若い手代風の男なんかが、房楊子を使いながら、宿酔の顔を朝の汐風にふかしている景色がよみがえるようだ。
 この文章を読んで、ある本を思い浮かべた。

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松井今朝子著『幕末あどれさん』

 それは、松井今朝子さんの『幕末あどれさん』。
 「銀座開花おもかげ草紙シリーズ」全四巻の第一巻と位置付けることができる本。
 旗本の次男である主人公の久保田宗八郎は、幕府の行く末に疑問を持ち、芝居に興味を抱いて河竹新七に弟子入りするのだが、その頃、品川によく出入りするようになった。

 私がアンツルさんの文を読んで思い出すのは、この光景だ。

 女は出窓の欄干にひじをかけ、ぼんやりと外を眺めている。風が左右の髪をなびかせて、女は先ほどから何度もうるさそうに髪をかきあげるしぐさをする。そのつど、ふとした向きによって、宗八郎がまじまじ見つめてしまうほど、女の顔は寿万によく似ていた。障子の開け放たれた出窓から海風が吹き抜けて、宗八郎の火照った膚を冷ました。
「やはり夏はここにかぎるなあ」
「生意気おいいでないよ。まるでよそをたくさん知ってのようじゃないか。ここしか知らないくせによう・・・・・・」
 出窓から離れた女は、やおら宗八郎の手を取ると、おのれの股ぐらに差し入れて、ふふふと下卑た笑いを漏らした。宗八郎は急に味気ない気分に襲われて、女の顔から目を背けた。
 ここ品川の相模屋抱えの花紫とはちょうと丸一年の仲になる。

 読んでいて、相模屋の窓から品川の海が見えるようではないか。
 ちなみに、「あどれさん」はフランス語で「若者たち」の意。

 幕末に生を受けた若者が、その運命に翻弄されながらも懸命に生きようとする姿を描く作品として、松井さんのこのシリーズと杉浦日向子さんの『合葬』は、どちらも傑作だと思う。
 このシリーズ、完結版は『西南の嵐』。そう、西南戦争が舞台となる。

 NHKの来年の大河、私は林真理子が描く西郷隆盛などにはあまり興味がなく、この「銀座開花おもかげ草紙」シリーズで久保田宗八郎を主人公にしたほうが、よっぽど、あの時代の姿を適切に描くことができるように思うがなぁ。

 さて、話は品川だった。

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*歌川広重「品川(日之出)」(東海道五十三次)
Public Domain Museum of Artサイトの該当ページ

 品川には、おそめと金蔵の物語に限らず、花紫と宗八郎の物語もあれば、他にもたくさんの男と女の話があったに違いない。

 それは、浦里と時次郎や、喜瀬川と五人の男などの物語とは違って、馬の嘶(いなな)きとともに、汐の香りに包まれていたことだろう。

p.s.
初めて使う女性が手紙を書いているようなデザインスキン(テンプレート)は、おそめにちなんでいるのだが、どれほどの人が察してくれるものやら・・・・・・。
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by kogotokoubei | 2017-02-24 20:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 旧暦一月二十日の義仲忌に関し、『源平盛衰記』を含んだ矢野誠一さんの『落語歳時記』の記事を紹介したが、あのネタを十八番とする大事な噺家さんのことを忘れていた。

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矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)


 同じ矢野さんの本、『落語讀本』の同ネタの内容から引用する。

味わい
 落語は耳学問。むかしのひとは、うまいことをいった。ありとあらゆる教えが、落語のなかにこめられているのだが、歴史だってそうで、あの膨大なる源平の合戦の模様をば、わずか二十分そこそこで林家三平が語ってくれちゃったのである。
『源平盛衰記』は、林家三平の数少ない古典落語のレパートリーのひとつであった。やはりごくたまに演じていた『浮世床』『反対車』『湯屋番』などと同じく、父親ゆずりのネタなのである。1949(昭和24)年に没した三平の父、七代目林家正蔵も三平に劣らぬ人気者だった。その父親の十八番だった『源平盛衰記』が子に伝えられる。源平の合戦に限らず、歴史というものは、古来親から子へと伝えられたものだろう。
 林家三平の高座を「あんなもの落語じゃない」の一言でかたづけてしまうことを悲しむ。三平のためにではない。落語のためにである。誰もが、物語のはこびのほうに汲々として、かんじんの豊かな語り口の創造を忘れてしまっていたとき、十年一日のごとき高座ではあったが、ただその場の客を楽しませることに徹しきっていた林家三平が、いま、とてもなつかしい。


 私は生で三平の源平を聴いてはいないが、テレビでは何度も見た記憶がある。
 NHKで過去の三平の落語の映像としてこのネタの高座がよく使われるので、お馴染みの方も多いだろう。

 『源平盛衰記』は『平家物語』の異本とされるが、実は、どっちが歴史上先に世に出たかは、諸説あって定まっていない。
 そのあたりは、Wikipediaに詳しいのだが、「語り物」が『平家物語』で「読み物」が『源平盛衰記』とされる。
Wikipedia「源平盛衰記」

 Wikipediaには、「読み物」であった源平の落語版について、次のような説明があった。

元々は「源平盛衰記」といえば7代目林家正蔵の十八番であり、これを東宝名人会で聞き覚えていた息子の初代三平が後輩の柳家小ゑん(後の談志)に伝授した。これにより、「源平」は多くの落語家に演じられるようになった。 演者ごとのストーリーの例を大まかに記すが、実際には筋はないので、口演ごとに異なっていた。特に談志のものは初代三平から教わった「源平」に吉川英治の「新・平家物語」のエッセンスを加えたものである。
林家三平版…平家物語冒頭→平家追討令下る→義仲入京→義経頼朝黄瀬川対面→義仲討ち死に→オイルショックの小噺→扇の的→交通事故にまつわる小噺→壇ノ浦合戦[3]
立川談志版…マクラ(歴史上の人物の評価の変遷について)→平家物語冒頭→平清盛と常盤御前→袈裟御前と文覚→平家追討令下る→義仲入京→義経頼朝黄瀬川対面→義仲討ち死に→扇の的→ソビエト崩壊についての小噺→壇ノ浦の戦い

なお、談志が演じた源平盛衰記にはサゲが無く平家物語の冒頭部分を最後に再び語るが、元の三平や文治が演じた源平盛衰記には地口落ちのサゲが存在する。

派生の噺として那須与一の屋島の戦いでの扇の的の下りを詳しく話す春風亭小朝の『扇の的』という演目がある。この噺の場合、サゲは初代 林家三平が演じるサゲと同じである。

上方落語では『袈裟御前』という演目の落語があり、その名の通り袈裟御前に焦点を当てた形となっているが、挿話の方に重点が置かれる地噺という点では『源平』と同じである。笑福亭鶴光が得意としている。
 
 そうなのだよ、談志には三平から伝わっているのだ。
 私の記憶では、三平が高座で演じようとして、談志に逆に教わりに行ったはず。

 一時、三平を義理の父としていた小朝の『扇の的』、鶴光の『袈裟午前』は、生で聴いている。

 さて、当代の正蔵や二代目の三平が、源平を演じるのかどうかは知らない。

 しかし、必ずしも血筋のみならず、こういう噺は、途切れることなく語られ続けて欲しいと思う。

 『平家物語』や『源平盛衰記』は、能や文楽、謡曲など幅広い芸能で演じられるが、壮大な歴史絵巻を、その時代に応じたクスグリを交え、聴く者が笑いながら短時間で学ぶことができるのは、落語だけである。
 
 そして、この矢野さんの文を読んで思うのは、「豊かな語り口」のこと。

 三平の語り口を「豊か」と表現できる落語評論家は、そう多くないだろう。

 しかし、それこそ、落語というものを知っている者の証なのだと思う。
 単に、ギャグを飛ばしまくることを言うのではない。

 あくまで、リズムがあって心地よく、味わいのある・・・なかなか形容が難しい。

 とにかく、なかなかいないのだよ、そういう噺家さん。
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by kogotokoubei | 2017-02-19 17:38 | 落語のネタ | Comments(2)
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 前の記事で書いたようの、加太こうじさんの『落語ー大衆芸術への招待ー』では、『一眼国』の後に、『死神』が登場する。
 最初の部分から、あらためて引用するが、あの噺で初めて知るサゲに、実に驚くのだ。

体制と反体制
 道徳というものは、その時代の価値基準の大きな目もりである。支配者はつねに支配者の道徳を作り出して、支配される者に押しつける。支配される側も自分たちの道徳を持ち、その立場から支配者の道徳を批判する。支配者の道徳と支配される者の道徳が一致する場合もあるが、多くは相反するものである。落語はいつも、支配される側ー民衆の立場に立っていたから支配者の道徳を批判する話が多い。ここでは、直接、支配者の道徳に対して別の道徳を提示した落語について考察してみよう。
 「死神」という落語は、同内容のものがグリム童話集にある。また、「死神」は明治時代に、イタリアのオペラから改作したものだといわれている。いずれにしてもヨーロッパの民話が落語「死神」の原典であることにまちがいはない。
   珍八という幇間は陰気でひねくれた男だった。あるとき、死神が
  あらわれて「お前のような男が好きだ、仲良くしよう」という。
  珍八は死神から人の生死の秘密をきいた。それは、病人の枕元
  に死神が坐っていれば病人は死に、足の方に坐っていれば、
  その病人は助かるということであった。
   (中 略)
  居ねむりからさめた死神は自分が足の方にいたので、病人を
  助けてしまう。珍八は莫大な礼金をもらったが、あとで死神は
  珍八の計略を知って怒った。珍八を地獄へつれていった死神は、
  地獄のおそろしいようすを見せる。珍八は人間の寿命の灯を見て、
  消えかかっているのやパッと明るいのがあるのを知った。珍八は
  死神が油断しているすきに、どれもこれも長生きするように、みんな、
  燈芯をかき立てて明るくしてこの世へ帰ってきた。

 今日演じられる「死神」では、一度ももお目にかかったことのない、ハッピーエンドなサゲ。

 この後に、加太さんは、こう続ける。
 「死神」という話は<人間を支配しているものは人間の力の及ばぬところにある>という考えをみごとにひっくり返して<人間を支配するものは人間である。その知恵と勇気によってこの世の中の主人公になるのだ>と主張している。すなわち、神とか、強力な力を持つ支配者の支配に抗して、弱者とされている者の力を人間尊重の立場から誇示しているのである。<人間の生きる喜びを尊重しない者は、いかなる絶対的な権力者といえども、だましても、反抗してもかまわない>と、落語「死神」は語っている。

 悩ましいのは、円朝の原作は、こんなハッピーエンドなものではないということだ。

 加太さんは、紹介した内容の「死神」が、どの噺家のものなのか書いていないが、“鼻の円遊”こと初代三遊亭円遊だろう。
 「誉れの幇間(たいこ)」、または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えていたらしい。

 元となったと言われるイタリアのオペラ「クリスピーノと死神」が、ハッピーエンドらしいので、先祖がえりと言えないこともない。

 サゲについて、この噺ほど噺家による工夫を求めるネタもないだろう。
 加太さんは、円遊版を元に、支配者に抗する人間の知恵、という視点でこの落語を評しているが、まさにサゲには知恵を絞る噺家さんが多いだろう。

 蝋燭の灯が、どうやって消えるかで工夫をする噺家さんが多い中、いっそ円遊のように、窮地を脱して生き延びる物語にする人がいても、それもまた結構ではなかろうか。

 もちろん、通常のサゲでも、この噺が聴く者に与える深い味わいは残る。
 しかし、それは権力者に抗する人間の知恵の素晴らしさと言うより、その知恵の使い方をめぐる道徳的な戒めになるかもしれない。

 そのうち、円遊版に負けない、ハッピーエンド版の「死神」に出会ってみたいものだ。
 
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by kogotokoubei | 2017-02-11 15:02 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛