噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:落語のネタ( 89 )

 今日三月十三日は、旧暦二月十六日、西行忌だ。

e0337777_11134083.jpg

矢野誠一_落語歳時記

 座右の書、矢野誠一さんの『落語歳時記』から引用する。
 旧暦二月二十六日、西行法師の忌日。建久元(1190)年のこの日、河内弘川寺に入寂した。「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という歌は有名。釈尊入滅の日に死ぬことを願っていたのである。二十三歳出家してより諸国行脚して歌道にその名を知られた。家集『山家集』のほか、その歌を集めた『聞書集』『聞書残集』がある。

    *
 あの西行法師が未だ佐藤兵衛之丞則清といった北面の武士時代のエピソードを綴ったのが、地ばなしによる『西行』で、故柳亭痴楽や三遊亭円歌などがしばしば高座にかける。昔、摂津泉つまりいまの大阪近辺から千人の美女を選び、さらにそのなかの一人選び抜かれたという染園内侍に、佐藤兵衛之丞則清が恋をしたはなすだが、落語では、この恋に破れたため、かざりをおろし、名も西へ行くべき西行と改めることになっている。
 有名な歌は、如月の望月のころだから、二月十五日頃の花の咲く春の日に死にたいということ。釈尊入滅、つまり釈迦が亡くなった二月十五日に自分も死ぬつもりでいたわけだ。
 ほぼその通りに旅立つとは、描いた通りの人生のクロージングの姿ではないか。

 なお、佐藤則清の「のり」の表記は、以降で引用する本やサイトで「義」や「憲」も使われており、混在したまま引用するのでご容赦のほどを。

 西行が登場する噺として『鼓ケ滝』は何度か聞いているが、『西行』を聴いたことがない。
 
 あの「柳亭痴楽はいい男」の四代目痴楽が十八番とし、二代目円歌、そして当代円歌も持ちネタとしているようだ。

e0337777_11133886.png

矢野誠一 『新版 落語手帖』

 同じ矢野さんの本『落語手帖』から、『西行』の「あらすじ」をご紹介。

 北面の武士佐藤兵衛尉憲清は、染殿の内侍に思いをかけていたが、内侍から「この世にては遭わず、あの世にてもあわず、三世過ぎての後、天に花咲き、地に実り、人間絶えし後、西方阿弥陀の浄土にて我を待つべし。あなかしこ」と手紙がくる。則清は、これをいまから四日目、空に星が輝き、草木に露を含む頃、西の阿弥陀堂で待てとのことと解釈した。内侍がなかなか来ないので居眠りをしていると、内侍がやってきて「我ならば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみけり」といって帰ろうとした。とび起きた憲清は「宵は待ち夜中はうらみ暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返歌した。内侍は機嫌をなおし、うちとけた。鶏鳴暁を告げる頃、「またの遭うせは」と憲清が聞くと「阿漕であろう」と袖を払われる。「伊勢の海阿漕ヶ浦に曳く網も度重なればあらはれにけり」の古歌を知らぬ則清は、武門を捨て剃髪、名を西行と改めて歌修行の旅に出る。伊勢の国で、馬方が「われのような阿漕なやつは・・・」と馬を叱るので、西行がその意味をたずねると、「あとの宿で豆食っときながら、まだ二宿も稼がねえのに豆を食いたがるだ」「ああ、してみると二度目のことが阿漕かしらん」

 なるほど、内容やサゲを考えると、今日では聴くことができなくなった理由が分かる。

 ネタ調べをする際にたびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」には、前段の美女選びのことなども含む円歌の高座の概要が説明されている。

 同サイトから、「染殿の内侍(ないし)」について引用。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ
染殿の内侍(そめどののないし);内侍=伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれた。記紀伝承では崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。また、斎宮に関する一切の事務をつかさどった役所の女官。町屋風に言うとお染さんというが改まって染殿と言った。


 次に、サゲにつながる「阿漕」を含む、内侍が謎をかけた古歌について「故事ことわざ辞典」で調べてみた。

「故事ことわざ辞典」サイトの該当ページ

阿漕が浦に引く網
【読み】 あこぎがうらにひくあみ
【意味】 阿漕が浦に引く網とは、人知れず行う隠し事も、たびたび行えば広く人に知れてしまうことのたとえ。
【阿漕が浦に引く網の解説】
【注釈】 「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所。
特別の漁業区域で一般人の漁は許されていなかったが、阿漕の平治という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をしていて、ついには見つかり簀巻きにされたという伝説から。
「あこぎなまねをする」などと用いる、強欲であくどいさまをいう「あこぎ」も、この伝説から出た言葉。

 この伝説を知り、落語の『二十四孝』を思い浮かべてしまった。
 秦の王祥が、母親が寒中に鯉を食べたがったが貧乏で鯉を買う金がなく、氷の張った沼に出かけ、裸になり自分の体温で氷を割って鯉が飛び出した、という噺は美談。
 しかし、阿漕の平治の密漁は罪となり簀巻きか・・・・・・。


 「阿漕」という言葉ができた背景に、こんな伝説があったことを、初めて知った。

 そして、この噺、少しバレがかってもいて、それも現在では演じられにくい理由の一つか。

 しかし、知れば知るほど、この噺は奥が深いと思う。
 染殿の内侍と彼女が謎かけをした阿漕が浦の古歌という内容と、サゲ近くの馬方と西行のやりとりの落差は、実に興味深い。

 たしかに、今では演りにくい噺には違いないが、埋もれてしまうのは惜しい。
 地ばなしとして噺家さんそれぞれの現代風の工夫も活きるだろう。

 誰か、復活してくれないものだろうか。

 西行忌に、今は聴くことのない、味わい深い噺のことに思いが及んだ。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-03-13 12:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 先日、今松は『品川心中』のマクラで、吉原は“きぬぎぬの別れ”だが、品川は少し下がって“もめんもめんの別れ”というクスグリで笑わせたが、吉原と品川では、たしかに大きな違いがあるのだろう。

e0337777_08560187.png


 安藤鶴夫さんの『わが落語鑑賞』には、文楽、三木助の十八番が並ぶ中で、円生のこの噺が挟まれている。
 ちなみに、私が持っているのは、この表紙画像の筑摩叢書版。その後、ちくま文庫でも発行され、新しいところでは河出文庫からも出ている。
 なお、あとがきでアンツルさんが書いているように、筑摩叢書版は、『落語鑑賞』(苦楽社)と『名作聞書』(創元社)の中から十六篇を選んだものだ。

 さて、アンツルさんは、吉原と品川との違いを、このように書いている。

 おなじ遊び場でも、吉原は大門までで駕籠をおろされたという話だが、品川は海道にそった宿場である、駕籠が通る。
  売れぬやつ馬の尻ばかりかいでいる
というわけで、化粧をすました女が立て膝をして、朱羅宇(しゅらお)の長煙管から煙を吹いている目の前には、田圃で狐に化かされたご仁がいただくぼた餅のたぐいも、ところかまわず落ちていたことであろう。
 本来、きぬぎぬの別れなどというものは、あけの鐘がゴンと鳴るとか、あるいは鴉カアの声とかがその別れをいっそうあわれにするはずの音響効果があるのにかかわらず、
  品川は烏よりつらい馬の声
などといわれて、きぬぎぬの別れにはヒヒン、ブルルという艶消しな馬のいななきが、その枕もとに響いたものとみえる。
 だから、品川の女郎ともなれば、なんだかそこに色っぽいとかあわれというよりは、一種の滑稽感がつきまとうようだ。
 
 なるほど、鐘の響きや、烏カアの音響効果(?)をバックにした“きぬぎぬの別れ”と、“ヒヒン、ブルル”の音響に、あの“ぼた餅”という小道具を目の前に配した“もめんもめんの別れ”では、大きな違いだ。

 『品川心中』という噺は、なるほど、「品川」でなければならない理由がある、と得心する。
 それは、『居残り佐平次』も然りで、吉原にあの噺は似合わないだろう。
 
 二つの苦界の違いは、紋日にもあったらしい。
 アンツルさんはこう説明している。
 江戸の吉原にはやれ恵比須講だ、やれ初午だ、やれ花植えだ、やれ衣替えだ、やれ八朔だと、一月から年の暮までいわゆる紋日といわれた年中行事がひっきりなしにあって、そのたびに馴染の客はさまざまにしぼり取られたものだが、そこへいくと品川の紋日は二十六夜待ちを最も盛んなものとして、正月の月待ち、八月の十五夜、九月の十三夜というふうに、海を背景としたお月様ばかりがだいたい紋日とされていたようである。
  また九月きなと品川にくて口(ぐち)
 月見がてらに品川の宿に一夜を明かすのも、あるいは江戸人の市井風流であったかもしれない。品川とはざっとこんなところである。

 なるほど、それだけに、少ない紋日に、移り替えができないことは、おそめにとってプライドが許さなかったのたろう。

 ない、二十六夜待ちについては、以前に杉浦日向子さんの本から紹介したことがある。
2015年9月27日のブログ

 「二十六日」は、旧暦の七月二十六日である。
 月の出が遅いので、“待ち”なのである。待つだけの、ご利益がある、と信じられていた。

 ちなみに、八朔については、ずいぶん前になるが、2011年の八朔に記事を書いた。
2011年8月1日のブログ

 昭和40年発行のアンツルさんの本に、これらの言葉の注釈はつかない。
 必要なかった、ということだ。
 とにかく、落語でしか聞くことのなくなった言葉が多くなった・・・・・・。
 
 もちろん、品川には吉原にはない良さもある。

 一方にそうした海道を持つそのかわりには、遊女屋の裏にはまた、冬ならあくまでくっきりと晴れ渡った安房、上総の見える海を持っている。
 安い鬢つけ油の女の髪のにおいがする部屋のなかには、汐の香もまた漂っていたことであろう。
  いうことがなさに初会は海をほめ
という川柳は、はじめて品川の宿で遊興の一夜を明かした若い手代風の男なんかが、房楊子を使いながら、宿酔の顔を朝の汐風にふかしている景色がよみがえるようだ。
 この文章を読んで、ある本を思い浮かべた。

e0337777_13304924.jpg

松井今朝子著『幕末あどれさん』

 それは、松井今朝子さんの『幕末あどれさん』。
 「銀座開花おもかげ草紙シリーズ」全四巻の第一巻と位置付けることができる本。
 旗本の次男である主人公の久保田宗八郎は、幕府の行く末に疑問を持ち、芝居に興味を抱いて河竹新七に弟子入りするのだが、その頃、品川によく出入りするようになった。

 私がアンツルさんの文を読んで思い出すのは、この光景だ。

 女は出窓の欄干にひじをかけ、ぼんやりと外を眺めている。風が左右の髪をなびかせて、女は先ほどから何度もうるさそうに髪をかきあげるしぐさをする。そのつど、ふとした向きによって、宗八郎がまじまじ見つめてしまうほど、女の顔は寿万によく似ていた。障子の開け放たれた出窓から海風が吹き抜けて、宗八郎の火照った膚を冷ました。
「やはり夏はここにかぎるなあ」
「生意気おいいでないよ。まるでよそをたくさん知ってのようじゃないか。ここしか知らないくせによう・・・・・・」
 出窓から離れた女は、やおら宗八郎の手を取ると、おのれの股ぐらに差し入れて、ふふふと下卑た笑いを漏らした。宗八郎は急に味気ない気分に襲われて、女の顔から目を背けた。
 ここ品川の相模屋抱えの花紫とはちょうと丸一年の仲になる。

 読んでいて、相模屋の窓から品川の海が見えるようではないか。
 ちなみに、「あどれさん」はフランス語で「若者たち」の意。

 幕末に生を受けた若者が、その運命に翻弄されながらも懸命に生きようとする姿を描く作品として、松井さんのこのシリーズと杉浦日向子さんの『合葬』は、どちらも傑作だと思う。
 このシリーズ、完結版は『西南の嵐』。そう、西南戦争が舞台となる。

 NHKの来年の大河、私は林真理子が描く西郷隆盛などにはあまり興味がなく、この「銀座開花おもかげ草紙」シリーズで久保田宗八郎を主人公にしたほうが、よっぽど、あの時代の姿を適切に描くことができるように思うがなぁ。

 さて、話は品川だった。

e0337777_15094826.jpg

*歌川広重「品川(日之出)」(東海道五十三次)
Public Domain Museum of Artサイトの該当ページ

 品川には、おそめと金蔵の物語に限らず、花紫と宗八郎の物語もあれば、他にもたくさんの男と女の話があったに違いない。

 それは、浦里と時次郎や、喜瀬川と五人の男などの物語とは違って、馬の嘶(いなな)きとともに、汐の香りに包まれていたことだろう。

p.s.
初めて使う女性が手紙を書いているようなデザインスキン(テンプレート)は、おそめにちなんでいるのだが、どれほどの人が察してくれるものやら・・・・・・。
e0337777_18052600.jpg

[PR]
by kogotokoubei | 2017-02-24 20:45 | 落語のネタ | Comments(4)
 旧暦一月二十日の義仲忌に関し、『源平盛衰記』を含んだ矢野誠一さんの『落語歳時記』の記事を紹介したが、あのネタを十八番とする大事な噺家さんのことを忘れていた。

e0337777_11125583.jpg

矢野誠一著『落語讀本』(文春文庫)


 同じ矢野さんの本、『落語讀本』の同ネタの内容から引用する。

味わい
 落語は耳学問。むかしのひとは、うまいことをいった。ありとあらゆる教えが、落語のなかにこめられているのだが、歴史だってそうで、あの膨大なる源平の合戦の模様をば、わずか二十分そこそこで林家三平が語ってくれちゃったのである。
『源平盛衰記』は、林家三平の数少ない古典落語のレパートリーのひとつであった。やはりごくたまに演じていた『浮世床』『反対車』『湯屋番』などと同じく、父親ゆずりのネタなのである。1949(昭和24)年に没した三平の父、七代目林家正蔵も三平に劣らぬ人気者だった。その父親の十八番だった『源平盛衰記』が子に伝えられる。源平の合戦に限らず、歴史というものは、古来親から子へと伝えられたものだろう。
 林家三平の高座を「あんなもの落語じゃない」の一言でかたづけてしまうことを悲しむ。三平のためにではない。落語のためにである。誰もが、物語のはこびのほうに汲々として、かんじんの豊かな語り口の創造を忘れてしまっていたとき、十年一日のごとき高座ではあったが、ただその場の客を楽しませることに徹しきっていた林家三平が、いま、とてもなつかしい。


 私は生で三平の源平を聴いてはいないが、テレビでは何度も見た記憶がある。
 NHKで過去の三平の落語の映像としてこのネタの高座がよく使われるので、お馴染みの方も多いだろう。

 『源平盛衰記』は『平家物語』の異本とされるが、実は、どっちが歴史上先に世に出たかは、諸説あって定まっていない。
 そのあたりは、Wikipediaに詳しいのだが、「語り物」が『平家物語』で「読み物」が『源平盛衰記』とされる。
Wikipedia「源平盛衰記」

 Wikipediaには、「読み物」であった源平の落語版について、次のような説明があった。

元々は「源平盛衰記」といえば7代目林家正蔵の十八番であり、これを東宝名人会で聞き覚えていた息子の初代三平が後輩の柳家小ゑん(後の談志)に伝授した。これにより、「源平」は多くの落語家に演じられるようになった。 演者ごとのストーリーの例を大まかに記すが、実際には筋はないので、口演ごとに異なっていた。特に談志のものは初代三平から教わった「源平」に吉川英治の「新・平家物語」のエッセンスを加えたものである。
林家三平版…平家物語冒頭→平家追討令下る→義仲入京→義経頼朝黄瀬川対面→義仲討ち死に→オイルショックの小噺→扇の的→交通事故にまつわる小噺→壇ノ浦合戦[3]
立川談志版…マクラ(歴史上の人物の評価の変遷について)→平家物語冒頭→平清盛と常盤御前→袈裟御前と文覚→平家追討令下る→義仲入京→義経頼朝黄瀬川対面→義仲討ち死に→扇の的→ソビエト崩壊についての小噺→壇ノ浦の戦い

なお、談志が演じた源平盛衰記にはサゲが無く平家物語の冒頭部分を最後に再び語るが、元の三平や文治が演じた源平盛衰記には地口落ちのサゲが存在する。

派生の噺として那須与一の屋島の戦いでの扇の的の下りを詳しく話す春風亭小朝の『扇の的』という演目がある。この噺の場合、サゲは初代 林家三平が演じるサゲと同じである。

上方落語では『袈裟御前』という演目の落語があり、その名の通り袈裟御前に焦点を当てた形となっているが、挿話の方に重点が置かれる地噺という点では『源平』と同じである。笑福亭鶴光が得意としている。
 
 そうなのだよ、談志には三平から伝わっているのだ。
 私の記憶では、三平が高座で演じようとして、談志に逆に教わりに行ったはず。

 一時、三平を義理の父としていた小朝の『扇の的』、鶴光の『袈裟午前』は、生で聴いている。

 さて、当代の正蔵や二代目の三平が、源平を演じるのかどうかは知らない。

 しかし、必ずしも血筋のみならず、こういう噺は、途切れることなく語られ続けて欲しいと思う。

 『平家物語』や『源平盛衰記』は、能や文楽、謡曲など幅広い芸能で演じられるが、壮大な歴史絵巻を、その時代に応じたクスグリを交え、聴く者が笑いながら短時間で学ぶことができるのは、落語だけである。
 
 そして、この矢野さんの文を読んで思うのは、「豊かな語り口」のこと。

 三平の語り口を「豊か」と表現できる落語評論家は、そう多くないだろう。

 しかし、それこそ、落語というものを知っている者の証なのだと思う。
 単に、ギャグを飛ばしまくることを言うのではない。

 あくまで、リズムがあって心地よく、味わいのある・・・なかなか形容が難しい。

 とにかく、なかなかいないのだよ、そういう噺家さん。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-02-19 17:38 | 落語のネタ | Comments(2)
e0337777_11134371.jpg


 前の記事で書いたようの、加太こうじさんの『落語ー大衆芸術への招待ー』では、『一眼国』の後に、『死神』が登場する。
 最初の部分から、あらためて引用するが、あの噺で初めて知るサゲに、実に驚くのだ。

体制と反体制
 道徳というものは、その時代の価値基準の大きな目もりである。支配者はつねに支配者の道徳を作り出して、支配される者に押しつける。支配される側も自分たちの道徳を持ち、その立場から支配者の道徳を批判する。支配者の道徳と支配される者の道徳が一致する場合もあるが、多くは相反するものである。落語はいつも、支配される側ー民衆の立場に立っていたから支配者の道徳を批判する話が多い。ここでは、直接、支配者の道徳に対して別の道徳を提示した落語について考察してみよう。
 「死神」という落語は、同内容のものがグリム童話集にある。また、「死神」は明治時代に、イタリアのオペラから改作したものだといわれている。いずれにしてもヨーロッパの民話が落語「死神」の原典であることにまちがいはない。
   珍八という幇間は陰気でひねくれた男だった。あるとき、死神が
  あらわれて「お前のような男が好きだ、仲良くしよう」という。
  珍八は死神から人の生死の秘密をきいた。それは、病人の枕元
  に死神が坐っていれば病人は死に、足の方に坐っていれば、
  その病人は助かるということであった。
   (中 略)
  居ねむりからさめた死神は自分が足の方にいたので、病人を
  助けてしまう。珍八は莫大な礼金をもらったが、あとで死神は
  珍八の計略を知って怒った。珍八を地獄へつれていった死神は、
  地獄のおそろしいようすを見せる。珍八は人間の寿命の灯を見て、
  消えかかっているのやパッと明るいのがあるのを知った。珍八は
  死神が油断しているすきに、どれもこれも長生きするように、みんな、
  燈芯をかき立てて明るくしてこの世へ帰ってきた。

 今日演じられる「死神」では、一度ももお目にかかったことのない、ハッピーエンドなサゲ。

 この後に、加太さんは、こう続ける。
 「死神」という話は<人間を支配しているものは人間の力の及ばぬところにある>という考えをみごとにひっくり返して<人間を支配するものは人間である。その知恵と勇気によってこの世の中の主人公になるのだ>と主張している。すなわち、神とか、強力な力を持つ支配者の支配に抗して、弱者とされている者の力を人間尊重の立場から誇示しているのである。<人間の生きる喜びを尊重しない者は、いかなる絶対的な権力者といえども、だましても、反抗してもかまわない>と、落語「死神」は語っている。

 悩ましいのは、円朝の原作は、こんなハッピーエンドなものではないということだ。

 加太さんは、紹介した内容の「死神」が、どの噺家のものなのか書いていないが、“鼻の円遊”こと初代三遊亭円遊だろう。
 「誉れの幇間(たいこ)」、または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えていたらしい。

 元となったと言われるイタリアのオペラ「クリスピーノと死神」が、ハッピーエンドらしいので、先祖がえりと言えないこともない。

 サゲについて、この噺ほど噺家による工夫を求めるネタもないだろう。
 加太さんは、円遊版を元に、支配者に抗する人間の知恵、という視点でこの落語を評しているが、まさにサゲには知恵を絞る噺家さんが多いだろう。

 蝋燭の灯が、どうやって消えるかで工夫をする噺家さんが多い中、いっそ円遊のように、窮地を脱して生き延びる物語にする人がいても、それもまた結構ではなかろうか。

 もちろん、通常のサゲでも、この噺が聴く者に与える深い味わいは残る。
 しかし、それは権力者に抗する人間の知恵の素晴らしさと言うより、その知恵の使い方をめぐる道徳的な戒めになるかもしれない。

 そのうち、円遊版に負けない、ハッピーエンド版の「死神」に出会ってみたいものだ。
 
[PR]
by kogotokoubei | 2017-02-11 15:02 | 落語のネタ | Comments(2)
 加太こうじさんとなると、やはり紙芝居作家としての印象が強い。
 その加太さんは、落語に関しても一家言持つ評論家であり、著書も少なくない。

 本名は加太一松(かぶと かずまつ)らしいが、名門加太家の血筋を誇る父に反発して、尋常小学校5年の時から自ら「かた」と名乗るようになった、と言われている。

 私の好きな加太さんの著作に『落語-大衆芸術への招待-』(社会思想社・現代教養文庫)がある。

e0337777_11134371.jpg

 昭和37年1月15日に初版が発行された本。上の表紙は、本牧亭での林家正蔵の高座。

 この本については、「落語は文学である」という加太さんの主張について、以前記事にしたことがある。
2015年3月14日のブログ

 先日、矢野さんの本から、香具師や『一眼国』について記事を書いた後で本書をめくっていたら、「道徳について」という章で、このネタを取り上げていた。

 興味深い内容だったので、ご紹介したい。

 この話には、見世物にしよう思っていた男があべこべに見世物にされるこっけいを通して、価値というものが、立場を変えれば、まったく反対になることもあると語っている。
 それは<武士が支配する国では、金銭にかかわりを多く持つ町人はいやしいとされるが、金銭が支配する町人の国なら、武士は金銭にうとい者としていやしめられる>という寓意ともとれる。そのように解するとき、この話は、落語の多くが持っている共通の内容<封建社会にあって未来ー資本主義社会の到来ーを指向する>を象徴している。あるいは、体制側の英雄が反体制側の悪人であったり、反体制側の英雄が体制側の法律に照らすと罪人になることがあるのを象徴しているようにもとれる。そして、その価値観は、<物ごとにかかわりのある人間の多数決によって正邪、善悪、高下などの価値が定められるのだ>という考えかたによっている。

 この部分を読んで、つい、最近の文科省の組織ぐるみの天下り斡旋のことを思い出していた。
 
 現役の役人が斡旋の窓口になることは違法だがOBなら問題ない、とばかりの役所の姿勢に、多くの国民はあきれ返っているはずだ。
 参考人質疑で、前川前事務次官は「万死に値する責任」と言っていたが、その男は、その舌の根も乾かないうちに、隣に座った仲介役OBの嶋貫と顔を見合わせてニンマリしていた。何が「万死」だ。

 彼等にとってOBの嶋貫は、英雄とまでは言わないが大事な人物なのだろう。

 その嶋貫が財団法人から年五百万、社団法人からも七百万、顧問となった生命保険会社から、月二日の出勤で一千万円という報酬を得ていると聞いて、国民の大多数が、不合理であると考えるだろうし、怒りを覚えるはずだ。
 しかし、文科省、あるいは霞が関の人たちにとっては、それは“常識”なのだろうか・・・・・・。
 残念ながら、国民の大多数の価値観が、「文科国」では通用しないようだ。

 落語は文学であり芸術であると考える加太さんは、次のように続けている。

 芸術というものはすべて、作者が意識しようがしなかろうが、作者の物ごとにつけた価値が作品や演技を通して受け手にどう考えられるかという働きを持っている。それは、一見無意味で、価値という概念とは関係のないように思える抽象絵画や音楽でもおなじである。それは<雲のように漠たる形や色がうつくしい>と抽象画家が提示していた価値を、見る側が<その通りだ>と共感するか、ときには<わからない>と拒否するか、<こんな非現実的な絵画は社会において人間生活に直接働きかけるものもないから価値は低い>とか判断することっである。落語も、演ぜられるとき、ひとつの価値を受け手に提示し反応を求めることに変わりはない。ただ、それは、つねに他の芸術とおなじように、それとは直接に提示しない。寓話だけが直接に、なにかにたとえて価値を問うのである。たとえば、イソップの寓話は動物にたとえて人間生活における教訓を直接に語って受け手に共感を求めている。「一眼国」も、ひとつ目とふたつ目の世界があると仮定して価値の転換を問うているわけである。「一眼国」は落語中の特例である。他の落語は人間描写を主眼とし、それを通してこのようなことに共感するかと、問いかけている。

 最近では入船亭扇辰をはじめとして、このネタを聴く機会も少なくないが、初めて、八代目正蔵の音源を聴いた時は実に新鮮だった。
 サゲの後に一瞬、自分の脳裏に静寂が訪れたような、そんな感覚があった。

 それは、きっと加太さんの言う、受け手への問いかけが、あまりに強かったからかもしれない。
 映画やミステリーのドンデン返しのようなエンディングは、たしかに他のネタとは一線を画すものがあるだろう。

 「そうか、一つ目国では、二つ目は“化け物”だなぁ・・・・・・」
 という聴いた後での感覚は、たしかに強く道徳、いや哲学的な色合いを持つ。

 
 落語には、ただ面白おかしさに笑ってさえいられればいい、という純粋な娯楽としての存在意義もあるが、滑稽噺に笑っているときも、登場人物のしくじりや会話の可笑しさ、仕草、行動の奇抜さなどは、「それ、あるある!」という共感性があればあるほど、笑いも度合いも深まるのだろう。

 加太さんは、次のネタ『死神』へとつなぐ部分で、こう記している。
 道徳というものは、その時代の価値基準の大きな目もりである。支配者はつねに支配者の道徳を作り出して、支配される者に押しつける。支配される側も自分たちの道徳を持ち、その立場から支配者の道徳を批判する。支配者の道徳と支配される者の道徳が一致する場合もあるが、多くは相反するものである。落語はいつも、支配される側ー民衆の立場に立っていたから支配者の道徳を批判する話が多い。ここでは、直接、支配者の道徳に対して別の道徳を提示した落語について考察してみよう。

 この後の『死神』に関する部分は、後日ご紹介するとして、この反体制、民衆側の落語、という概念は、実に重要だ。

 『一眼国』の、一つ目の国こそ、民衆の世界であり、見世物小屋の主人を代表とする二つ目の国こそが、文科省などの支配者側であるわけで、その逆ではない。

 やはり、悪い奴はとッ捕まえて、こっちの見世物小屋で晒し者にしなければならない。
 彼らが、仲間たちとの村芝居で謝ったところで、それは、『一分芝居』の権助よりも下手な、言ってみれば楽屋の馬鹿話の延長でしかない。「万死に値」すると言ったところで、その科白には何ら説得力がない。もう、下手な芝居は見飽きた。
 まだ、忠臣蔵の七段目で、高みから飛び降りる権助の方が、役者は上だ。

 『一眼国』に関する加太さんの文章から、こんなことまで、思いが至った。

 それにしても、加太さんの落語への思いは、熱いねぇ。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-02-10 20:57 | 落語のネタ | Comments(0)
 桂小南治が今秋襲名する師匠小南の十八番の中に『鋳掛(いかけ)屋』がある。

 このネタでは、得意にしていた三代目春団治、そして喜多八のことにも思いが及ぶ。

 今ではなくなった商売のことを題材にした噺だ。
 私が子供の頃には、さすがに道端で鋳掛屋さんは見かけなかったが、家の近所に鍛冶屋さんや刃物の研ぎ屋さんを兼ねる鋸の目立屋さんなどがあったなぁ。
 
 落語の『鋳掛屋』の主役は鋳掛屋をからかう子供たちと言ってよいだろう。

e0337777_14560514.jpg

矢野誠一著『落語長屋の商売往来』(文春文庫)

 矢野誠一さんの『落語長屋の商売往来』は2003年文春文庫からの再刊で、私が持っている初版は、白水社から1995年に『落語商売往来』として発行された単行本。

 「店構え」「小商い・手職人」「飲物・食物」「遊楽・乗物」の四つの章に分かれ合計34の商売について書かれている。
 
 この中の「いかけ屋」では、冒頭、矢野さんが結局は実現しなかったある出版物のための大阪での取材における、楽しい逸話が紹介される。

 その実現しなかった「寄席百年アルバム」の大阪取材で、上方落語協会事務局長桂米紫に案内をたのんで天王寺付近を歩いていたときである。突然、米紫の、
「ちょと、ごらんなさい。あれ、『鋳掛屋』の餓鬼でっせ、ほれ」
 という声に、指さす方をながめて思わずふき出した。ひっきりなしに車の通る道路の横断歩道を、黄色い小旗を手にした十人足らずの子供の集団が渡ろうとしてるのだ。覚えておられるだろうが、その時分信号のない横断歩道には、両側に黄色い交通安全の旗が用意されていて、歩行者はそれを手にして横断することになっていたから、それ自体はごく日常的な光景といってよかった。問題はその渡り方である。たくさんの車の流れを停めた彼らの、ある者は国会議員の牛歩戦術よろしくこれ以上ゆっくり歩けないくらいゆっくり歩くし、ある者はいらいらしてやけ気味にクラクッションを鳴らす運転手に赤ンベイをしてみせる。なかには道路のまんなかで、旗振りながら踊り出す者ありといった按配で、いやはやたいへんな騒ぎ。
 なるほど「鋳掛屋の餓鬼」とは言い得て妙で、大人をからかう子供の悪戯に手を焼くのは落語ばかりではないと、つくづく感心した。
 明治百年を記念した企画だったということだから、1968年の少し前、昭和40年頃の小学生となると、私とほぼ同じ年頃。
 私も、「鋳掛屋の餓鬼」だったかもしれないなぁ^^

 本書から、元となった(?)落語の方の子供たちの悪童ぶりをご紹介。
 道端で鋳掛屋が店をひろげ、鞴の火をおこしていると、悪餓鬼どもがやってくる。鋳掛屋のたくみな仕事ぶりをば静かに鑑賞するなどという、なまやさしい神経など持ちあわせているわけがない。鋳掛屋をおちょくるのである。
「オッタン、あんた、えらい御精が出まんな」
「・・・・・・えらい御精が出ますな、て、お前、精出さな、どんならんやないけェ」
「とら、とでごだいまンな、オッタン。この世の中ナ、働いた上にも働いた上にも働かんならんいうたかて、体が弱かったら、働かれしまへんが、ナ、オッタン。その点、オッタンら、体がお達者なだけ結構でござりまんナ、オッタン」
「ようしゃべるな、エエ。ひとこと言うたら、あんだけ引っかかってきやがんね。・・・・・・うかつもの言えんな」
「オッタン。あんたとこで、火ィブウブウやっとるが、そらどういう目的や」
「こらまた大層そうに吐(ぬ)かすなァ・・・・・・。どういう目的・・・・・・どういう目的て、お前、ただ、金属(かね)を湯ゥに沸かしてんのじゃい」
「ただ金属を湯ゥに沸かしてやんのやて、オッタンとこは、造幣局やおますまいな」
「ゾ・・・・・・ぎょうさんそうに吐かすな、アホ。造幣局やなかったら、金属、湯ゥに沸かされへんかェ」
「とらとやな、オッタン」
「おお、おお。小さい柄さらしやがって、他人(ひと)のはなし横手からそらそやなて、なにがそらそやィ」
「とらとや、オッタン。造幣局やなかったら、金属、湯に沸かされん。とんなことあらへんナ、オッタン。造船所かて、金属、湯に沸かしてるがナ、オッタン。鉄工所かて、金属湯に沸かしてるがナ。オッタン。鋳物屋かて、金属、湯に沸かしてるがナ、オッタン。・・・・・・ホナ、オッタンとこ、それ、造船所の方か」
「じぃわり嬲(なぶ)ってけっかる。アホンダラ。こんな小さい造船所があるかィ。・・・・・・アホ、モ、あっちけ、あっちけ、あっち行け」

 この子供たちが、あっちへ行くはずがない^^

 人によって、また持ち時間によって、鋳掛屋を相手にしてサゲる場合もあれば、その後に鰻屋に行って、また悪餓鬼軍団が活躍(?)することもある。

 矢野さんの本には、次のような説明もある。

 三谷一馬『江戸物売図聚』(立風書房)によると、鋳掛屋のかつぐ天秤棒は「常より一尺五寸長く七尺五寸」だったという。江戸の頃、軒下七尺五寸以内の地べたで火を用いるこちが禁じられていたため、測定用に長尺の天秤棒を使用したので、これはやっぱり鋳掛屋の知恵というものだろう。

 なるほど、知恵、だね。

 鋳掛屋には、もう落語でしか会うことができない。
 「鋳掛屋の餓鬼」たちにも、落語でしか出会えないかもしれない。
 今の子供たちは、どこへ行ってもゲームかスマホだ。
 懐かしい悪童たちに出会えるその落語を得意にしていた達人たちが、次第に少なくなっていく。

 今秋の襲名後、ぜひ三代目小南のこの噺を聴きたいものだ。

 では、その師匠の『鋳掛屋』をお聴きのほどを。
 鰻屋まで含む、実に楽しい高座。




[PR]
by kogotokoubei | 2017-02-05 17:54 | 落語のネタ | Comments(8)

 昨日は、12月14日。

 今はなにごとも新暦がまかり通っているので、一応、赤穂浪士討入の日としておこう。

 ちなみに、旧暦では昨日が11月16日であり、旧暦の12月14日は来月11日。

 国立劇場が開場50周年記念ということで、大劇場では歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」を10月から三ヵ月かけて通し公演を開催中で、今月は最終月で八段目以降だ。

 小劇場では、文楽の仮名手本、二部に分けての通し公演中。

 私の落語愛好家のお仲間の皆さまの何名かが、どちらにも行かれている。
 
 私は、もっぱら忠臣蔵は落語。
 ということで、いったい忠臣蔵にちなんだネタがどれ位あるのだろうかと思い、ある本をめくった。

e0337777_11113093.jpg

今村信雄 『落語の世界』

 今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)に、「忠臣蔵の落語」という短い章があり、六代目円生の話として、次のようなネタが紹介されている。
 円生の話ー落語には忠臣蔵が沢山使われている。大序兜改めは「田舎芝居」に、三段目の喧嘩場は「浮世風呂」や「よいよいそば」に、四段目の判官切腹は「四段目」「淀五郎」「辻八卦」などに、また五段目の山崎街道は「とけつ」に、七段目の茶屋場は「七段目」に、九段目の本蔵も「九段目」に、十段目の討入は「角兵衛の妻」に、そのほか二段目、六段目や八段目も、マクラばなしに用いられている。

 これを読んで、結構「ゲェッ!?」と唸った。
  
 これだけ円生が挙げている中で、まったく聴いたことのない噺、知らない噺が、多いこと。

 「四段目」「七段目」は、もちろん知っている。

 「よいよいそば」は、一昨年、真打昇進前で夢吉時代の夢丸が、一之輔との二人会で演じた高座を聴いた。
2014年9月20日のブログ

 今思うと、実に貴重な噺を聴けたものだ。


 大序の兜改めを素材にした「田舎芝居」は、八代目正蔵が手掛けていたようだ。
 現役の噺家さんでは聴いたことはないのだが、上方の桂文我が演るらしい。

 文我は、今年2月に大阪で「忠臣蔵通し落語会」を開催した後、7月には京都でも実施し、なんと来年1月14日、紀尾井ホールでも開催予定。
 紀尾井ホールの公演情報から引用する。
紀尾井ホールのサイトの該当公演情報
上方落語会 初春! 桂 文我の「忠臣蔵落語」通し口演
2017年1月14日(土) 開演:10時30分
出演者 桂 文我、桂 米平
曲目「田舎芝居(大序)」「芝居風呂(二段目)」「質屋芝居(三段目)」「立体紙芝居」「蔵丁稚(四段目)」「五段目(五段目)」


 「田舎芝居」も、しっかり予定されている。
 興味津々なのだが、私が行けるかどうかは、今の時点ではなんとも言えない。
 いろいろ野暮用があるのだよ。

 東京地区では、歌や鹿芝居を含むバラエティとしての忠臣蔵落語会はあっても、通し口演的な試みは聞いたことがない。

 それとも、誰か演っているのだろうか。

 史実としての赤穂事件と比べると、いろいろ小言も言いたくなるのが「仮名手本忠臣蔵」を筆頭とした物語の忠臣蔵なのだが、芝居は芝居として楽しむものなのだろう。

 また、それを落語の世界で味わうのも、なかなかオツと言えると思う。

 「四段目」「七段目」のみならず、今後は、さまざまな段を素材とした噺を聴いてみたいものだ。


[PR]
by kogotokoubei | 2016-12-15 20:54 | 落語のネタ | Comments(4)
 前回の記事で、三三の『嶋鵆沖白浪』に限らず、初代談洲楼燕枝の作品を現役の柳派の噺家さんに演ってもらいたい、と書いた。
 同記事にいただいたコメントで、柳家さん助が『西海屋騒動』の通しに挑戦しているとの情報をいただいた。

 先日の記事で、この噺のことに触れた。知ったきっかけは、六年前、紀尾井ホールで三三の嶋鵆に最初に出会った後で、初代燕枝のことに関心を抱き記事にした際に読んだ本だった。
2010年11月19日のブログ

 あらためて、暉峻康隆著『落語の年輪-江戸・明治篇-』から引用する。
暉峻康隆『落語の年輪-江戸・明治篇-』
 もともと彼は俳諧をたしなみ、仮名垣魯文に師事して戯号を“あら垣痴文”と称して狂文を作った。かつ芝居好きであったから、その交際の範囲も円朝と異なり、演劇関係が多く、また森田思軒、饗庭篁村、幸田露伴、久保田米僊、幸堂得知、須藤南翠、関根黙庵などという、いわゆる根岸派の文士と親交を結んでいた。
 したがって円朝にはおよばないにしても、演し物に工夫をこらし、佐原の喜三郎や海津長門の活躍する「島千鳥沖津白浪」(明治二十二年六月春木座上演)や、「水滸伝」の花和尚魯智深の件を翻案し、それに曲亭馬琴原作の「西海屋騒動」をとり合わせた「御所車花五郎」など、彼の苦心の作である。あるいはまた円朝の翻案物に対して、彼もまた『レ・ミゼラブル』を脚色した福地桜痴の「あはれ浮世」を人情咄として高座にかけたりしている。

 この書から、『御所車花五郎』の存在を知ったのだ。
 しかし、いただいたコメントでは、さん助の演目は『西海屋騒動』らしい。
 さて、馬琴の本を元にしたのか、それとも燕枝の創作に沿っているのか、疑問を抱いた。

 こういう時に頼りになるのが、円朝作品などでもお世話になる「はなしの名どころ」さんのサイトだ。

 期待通りに、関連した記事が見つかった。
「はなしの名どころ」さんサイトの該当ページ
 同サイトから引用する。
春風亭柳枝(3),唐土模様倭粋子,滑稽堂 (1883, 84)

 3代目春風亭柳枝[嘉永5~1900]は,初代柳亭(談洲楼)燕枝の弟子で,燕枝に代わり,柳派の頭取として一派を率いた.百花園の速記など20席あまりが復刻されており,没後,三芳屋から個人集『柳枝落語会』(1907)が出ている.「七面堂の詐偽」が他と重複しない噺.

 唐土模様倭粋子(からもようやまとすいこ) 速記本文 は,伊東専三編集.前後編の2冊.全34回,通しで73丁.登場人物の口絵1枚,挿絵32枚.伊東専三の序文.「怪談牡丹燈籠」出版よりも古く,速記ではない.談洲楼燕枝(1)の代表作で,『名人名演落語全集』 第1巻に,「西海屋騒動」の題で,導入部の速記とその後のあらすじが載っている.本作の出版よりも後,1897年に毎日新聞に連載したもの.「唐土模様倭粋子」は,その名の通り,「水滸伝」の登場人物名を取り入れている.花五郎改め魯心が花和尚魯智深,九紋龍新吉が九紋龍史進,黒船風理吉が黒旋風李逵,金髪挿のお蓮が潘金蓮,一丈背の小さんが一丈青扈三娘,林屋忠右衛門が林冲など.「西海屋騒動」では,この趣向はなくなっている.

 その『名人名演落語全集』にリンクすると、次のように説明されている。
62. 名人名演落語全集,10巻,立風書房 (1981~82)  ☆☆☆☆

 斎藤忠市郎・保田武宏・山本進・吉田章一編.時代ごとに明治から昭和末期までの範囲の速記を集成したもので,出典・解題が明記されており,表記法がしっかりしている.圓朝の全集未収録作品が載っている.戦後期の人選が,他の時期に比べて甘めではあるが,読者と同時代ということでやむないか.
 初代談洲楼燕枝の代表作「西海屋騒動」の速記は導入部までで,その後のあらすじが載っている.春風亭柳枝(3)が演じた「唐土模様倭粋子」で全部を読むことができる.「続噺柳糸筋」は,毎日与えられた三題噺を連作して新聞連載したもの.彰義隊の戦乱を背景に,御家人の近藤甚三郎が,堺の偽坊主,実は団五郎と組んで悪事を行う.庄屋の山田正作を殺し,息子の直次郎を色仕掛けでたぶらかした上,座敷牢に閉じ込めて殺そうとする.悪計を盗み聞きした忠僕清助が直次郎を救い出す.清助が捨てた子供が今の団五郎だとわかり,善にかえった団五郎と清助,直次郎は,近藤を討つ.

 なるほど、燕枝は『西海屋騒動』の名のままで演じていて、弟子の三代目柳枝が、先祖帰りし水滸伝の型で『唐土模様倭粋子』として演じた、ということか。

 暉峻さんの本にあるように、『御所車花五郎』という主人公の名を演題としたことがあるのかどうかは、もう少し調べてみる必要がある。

 水滸伝、そして馬琴を経由した噺、ますます興味が湧いてきた。
 さん助の高座、なんとか聴きたいものだ。


[PR]
by kogotokoubei | 2016-12-11 16:52 | 落語のネタ | Comments(2)
 いわゆる「流行語大賞」が、「神ってる」、に決まったとのこと。

 私は、広島の監督が、単に「神がかってる」を言い間違えてしまったのだろうと思っているのだが・・・・・・。

 今回は、言葉も時代によって変わるが、落語も、時代や噺家さんによって違う、というお話。

e0337777_11113093.jpg

今村信雄 『落語の世界』

 三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名するというニュースを目にしてから、あらためて今村信雄の『落語の世界』(平凡社ライブラリー、初版は青蛙房から昭和31年発行)を読み返していた。

 本書で、初代橘之助に可愛がられた三代目三遊亭円馬のことに関する章に、今ではお目にかかることのない『文七元結』の演出があるのに気づいた。

 以前も読んでいるはずなのだが、まったく忘れていたなぁ。

 「むらく芸談」の章から引用する。

 昭和五年の六月、数年振りで上京したむらく改め三代目円馬が、当時神田の立花亭でやっていた第二次落語研究会の第二十六回に出演した。-かつてむらく時代に出ていた時とは内容は違っていても落語研究会という名は、なつかしいものだったし、会員の連中も文治、円生、小さん、文楽、円蔵、小円朝など昔なじみの者ばかりだ。それに自分の芸を慕って旅を一緒にまでした金馬が、今日は自分の出番を譲ってくれたと聞いた。何もかも嬉しいことだらけー。これから年に一回はぜひ出てほしいとみんなが云うし、円馬自身も東京に来る度に出たいといっていたのだが、縁がなく、第二次の研究会出演はついにその時だけで終った。


 文中の文治は八代目、俗に山路の文治のこと。円生は五代目、小さんは四代目、文楽は八代目だ。円蔵は六代目で後の六代目円生であり、小円朝は三代目である。
 金馬は、もちろん三代目。

 円馬は、最初に上京した時に初代三遊亭円左に師事して立花家左近を名乗り、第一次落語研究会の準幹部に抜擢された。
 上方の噺を東京向きに演じ、三代目小さんとともに、東京落語のネタを飛躍的に増やした功績は小さくない。
 大阪弁、京都弁、江戸弁を見事に使い分けた唯一の噺家とも言われている。
 
 引用を続ける。
 現在金馬がやっているはなしは、すべて円馬から教えられたものばかりだ。「唐茄子屋」にしても「佃祭」にしても「孝行糖」にしても、その他数々の落語は、みんな一緒に旅をしている間に円馬から教えられたものだ。一席の落語ばかりではない。はなしのイキとかコツとかいうものを教えてもらった。それが今日の金馬を作り上げてくれたのだ。金馬はこういっている。「私はね、酒が飲めるおかげでずいぶん得をした。酒の強かったむらく師匠のお相手をするのは大概私でしたが、飲みながら話してくれた芸談は、改まって教えてくれる時とはまた違って、大変に薬になりました。師匠は芸が好きだったんだなァ、飲みながら話をするのはたいてい芸談だった。もっとも私の方からそのように持ちかけたせいもあるが、面倒がらずに喜んで話をしてくれました」
 「文七元結」というはなし、左官の長兵衛が、バクチで着物も何もなくしてしまい、年の瀬をこせない。
  (中略)
 女の着物だから身幅が狭く、ややともすると膝小僧が出るから、絶えずそれを気にしていなければいけない。また佐野槌のおかみさんに懇々と意見をされて、恐縮しながら、新しい畳のケバを骨を折ってむしって叱られるところがあるが、これは単なるクスグリと思ってはいけない。帰る時に長兵衛はシビレが切れて立てない。そこで前にむしった畳のケバの落ちているのを拾って唾をつけて額にはるという大きなクスグリの伏線になっている。また帰りの吾妻橋の上で空を見上げて思わず「明日は雨だな」というのは、始終天気を気にしている職人を現すために必要なセリフだから落してはいけない。空に水気(すいき)があるから、下のあかりが映って赤い。まして吉原方面は真っ赤だ。それを見て長兵衛が今別れて来た娘のことを連想するという段どりになるのだから、ここらは一言一句おろそかには出来ないと、円馬は丹念に教えた。

 足のシビレを治すのに、指に唾をつけて額(眉間)にあてたり足の裏にあてるというおまじない(?)は、もはや過去のものとなりつつあるので、このクスグリはなくなってきたのだろう。

 また、吾妻橋で長兵衛が空を見上げる演出も、現役の噺家さんで出会うことは稀有だ。
 
 『文七元結』は、以前からあった噺を円朝が磨き上げたと言われる。

 果たして円馬が重要視した演出は円朝からの継承なのかどうか気になり、青空文庫で円朝のこの噺を確認した。
青空文庫 三遊亭円朝「文七元結」

 実は、畳のケバをむしって、足がシビレたまじないにつながるという演出は、存在しない。
 吾妻橋で、空も見上げない。

 もっと、驚いたことがあったので、引用する。
 角海老の内儀と長兵衛との会話部分だ。

内儀「百両で宜いのかえ」
長「へえ…」
内儀「それではお前に百両のお金を上げるが、それというのも此の娘の親孝行に免じて上げるのだよ、お前持って往って又うっかり使ってしまっては往けないよ、今度のお金ばかりは一生懸命にお前が持って往くんだよ、よ、いゝかえ、此の娘の事だから私も店へは出し度たくもない、というは又悪い病でも受けて、床にでも着かれると可哀そうだから、斯う云う真実の娘ゆえ、私の塩梅の悪い時に手許へ置いて、看病がさせ度いが、私の手許へ置くと思うと、お前に油断が出るといけないから、精出して稼いで、この娘を請出しに来るが宜いよ」
長「へえ私(わっち)も一生懸命になって稼ぎやすが、何うぞ一年か二年と思って下せえまし」
内儀「それでは二年経って身請に来ないと、お気の毒だが店へ出すよ、店へ出して悪い病でも出ると、お前この娘の罰は当らないでも神様の罰が当るよ」

 あら、円朝においては、長兵衛が借りるのは百両で、その返済期限は二年。

 今日演じられるこの噺では、大半が五十両で一年。

 円馬のこの噺が円朝->円左->円馬と伝わったのかどうかは、不勉強で分からない。
 だから、畳のケバ、空を見上げる、といった演出が円馬によるものなのかどうかは不明なのだが、私は、どちらも円馬の工夫ではないかと思っている。

 それにしても思うのは、なるほど、落語は生きているなぁ、ということ。

 同じ噺でも、その時代によって、そして、噺家さんによっても内容は変わる。

 それは、悪いことではないだろう。

 円馬が、左官職人の長兵衛が吾妻橋でつい空を見上げる場面を大事にするように、人それぞれ、譲れない演出やクスグリがあって良いだろう。
 
 また、その噺のどこを変えるか、また、どこを変えないか、ということで噺家は自問自答を繰り返すのかもしれない。

 その噺の本質的な部分を壊さない限り、同じネタでも十人十色で良いだろうし、それが、落語の魅力でもある。

 大事なことは、伝承されてきた原典を分かった上での工夫なのか、どうか。

 「昔は、こう演じていた」ということを分かった上での改作なのか、原典を知らずに自由気ままな変更なのか、には大きな違いがあるだろう。

 自分の師匠はもちろん多くの先輩噺家からネタを教わり、芸にまつわる様々な話を聞くことが、噺家の糧、財産となる。

 そして、一人一人が得た財産が、その弟子や後輩たちに伝わっていくことで、落語という芸が長らえてきたと思う。

 それこそが、伝統の継承ということだ。

 だから、金馬が酒の相手をしながら聞いていた円馬の芸談が、金馬がその後一枚看板になるためには、実に重要だったのだと思う。


 まさに、伝承の芸、落語。

 しかし、伝承されてきた基本の筋、型、了見といったものに、どのように時代の空気を反映し、自分なりの解釈や感性で創作をほどこすかが、噺家一人一人に重要な仕事なのだろう。

 伝承と創作、その積み重ねが、数々の古典落語の名作を残してくれたのだと、一つの噺からも痛感するのだった。
[PR]
by kogotokoubei | 2016-12-01 21:09 | 落語のネタ | Comments(2)

 昨夜は、落語愛好家仲間、いわゆる「居残り会」の仲間六人が集まった。
 とはいえ、落語会の後の「居残り」ではなく、仲間に二人、「横浜DeNAベイスターズ」の熱狂的なファンがいらっしゃるので、関内のスポーツカフェで、「ベイスターズファンを囲む夕べ」という趣向での集まり^^

 お店のテレビで「日本ハム vs. 広島カープ」を観ながら、野球のことや落語のことなど、久しぶりに集まった同好の士、四方山話で盛り上がった。
 その話題の中で、国立劇場開場50周年記念ということで、今月から三ヵ月かけての通し公演が始まった「仮名手本忠臣蔵」のことも、酒の絶好の肴になった。

 同劇場のサイトにあるように、今月は「大序」から「四段目」まで。
国立劇場サイトの該当ページ

 昨夜の話題の一つは、先日観に行かれたKさんの悲惨な(?)体験。
 「四段目」のラスト近くを固唾をのんで観ていたら、近くの席の女性の携帯が鳴ってしまい、大星由良之助役の松本幸四郎から、まるで自分が睨まれたようだった、という話。

 Kさん、どうしても残念でならず、もう一度隼町に行っている。

 休憩中に携帯やスマホをONにして、そのままにしている人って少なくないと思う。
 その結果、肝腎な場面で携帯を鳴らしてしまうのは、中年から高齢の女性が多い。

 寄席や落語会でも携帯の音には困ったものだが、歌舞伎で、それも「四段目」だよ。
 「出物止め」だし、もちろん、「鳴り物止め」だろう!
 この人の名前を記録し、劇場が出入り禁止にしても、不思議はない。

 それにしても、居残り会の皆さんは、落語に限らず伝統芸能がお好きで、行動力もある。
 昨夜のメンバーでは、M女史もI女史も、我らがリーダー佐平次さんも、すでに国立劇場で観劇して、感激しているのだ^^

 何と言っても「四段目」の最後の場面が良かった、と佐平次さん。

 そんな名場面での携帯とは・・・・・・。
 Kさんが仕切り直しした気持ちも分かるなぁ。


 さて、『四段目』(よだんめ)は、ご存じのように落語になっている。

 仕事をさぼって芝居小屋で「仮名手本忠臣蔵」を観ていた定吉が、主人に蔵に閉じ込められて、つい、観てきたばかりの「四段目」を一人で演じる場面が、とにかく楽しい。

 柳家喜多八の「落語研究会」でのネタを調べた際にもお世話になった、「手垢のついたものですが」さんのサイトに「落語はろー」というコーナーがあり、「落語速記編」として、さまざまな落語全集の内容が掲載されている。

 私が大好きな八代目春風亭柳枝の『四段目』も、弘文出版の全集を元に掲載されているのが嬉しい。
「手垢のついたものですが」サイトの該当ページ

 同サイトから、引用させていただく。なお、ルビを少し割愛している。

「(べそをかいて、大声で)旦那ァッ、相すいません、明日っから一生懸命に働きますから勘忍してください。
ねえ旦那ァ……気味《きび》が悪いなァこのォォ蔵ァ――嫌《や》だなァ本当にィ……
第一《だいち》ィあのォ朝おまんまァ食べたっきりでお腹ぺこぺこなんです。
こん中ィ入れなきゃァ気がすまないと思ったらば、表ェ出してご飯を食べさして、あらためてこん中ィこうしまってもらうような具合にならないんですか旦那ァ?……旦那ァ……勘弁してくれねえなァ。
けェどもいくら小言をいわれてもやまないのが芝居。どうしてあたしゃァこんなに芝居が好きなんだろうなァ……
(太鼓の口真似で)てん、すってん、てん……着到を聞くってえとぐうゥゥッと体が吸込まれるようだ。
何度見ても飽きがこないのが忠臣蔵、大序から幕数《まくかず》が、十二段目までずいぶんあるけれども気が入って見るのがたった二幕。四段目に六段目《むっつめ》、六段目《むっつめ》のほうは小身者の腹切りだけに、楽屋で三味線弾いたり笛が入る。
そこいくてえと四段目、これァご大身《たいしん》の切腹だけに、出物止《でものど》め。合間に太棹《ふと》が(口真似で)でえーんでえーんッとあしらうだけだ。
一杯の見物人手に汗を握って、幕の開くのを待っている。そのうちに三っつめの拍子木《つけ》がちょーんと鳴ると、柝《き》なしでもって、幕がつつつつつつつつつ、平舞台周囲《しらぶたいぐるり》に襖《ふすま》、丸に違い鷹の定紋、下手に、斧九太夫《おのくだいう》原郷右衛門《はらごうえもん》上使《じょうし》受けに出る。
そのうちに揚《あ》げ幕の内《うち》で上使触《じょうしぶ》れてえのがある。出て来るのが、石堂右馬之丞《いしどううまのじょう》薬師寺次郎左衛門《やくしじじろうざいもん》、石堂ってえ人《しと》ァ色白ないい男だ、薬師寺てえ人ァ真ッ赤な恐い顔ォしてえる。
上手へ直る、正面の襖を開けて、出ていらっしゃるのが塩冶判官高貞《えんやはんがんたかさだ》。
黒二重《くろはぶたい》の五所紋付《いつところもんつき》、同じ羽織を着て、『(芝居調で)これはこれは、ご上使とあって、遠路のところご苦労に存じたてまつる。
なにはなくとも粗酒《そしゅ》一献《いっこん》。たそあるか、酒《ささ》の用意』、『(大声で)なに酒? こりゃよかろう、この薬師寺もお相手《あいて》ないたそう。が、今日《こんにち》の、上使の趣うけたまわりなば、酒も咽喉ィは、通りますめえ』――憎《にく》らしいことをいう。
これに構わず立ちあがるのが石堂右馬之丞。懐から書付《かきつけ》のお父《と》ッつァんみたいのを出してな、『(扇子をばっと広げて声を張り)上意《じょうい》』ッという――座がしいーんとするなァ。
『しとつこの度、伯州《はくしゅう》の城主《じょうし》、塩冶判官高貞儀、私の遺恨により、執事たる師直に傷を負わせ、殿中を騒がしたる科《とが》により、国郡家《くにこうりいえ》没収《ぼっしゅ》し、その身切腹、申しつくるものなり』、読みあげといて判官さんのほうィきっと見せる。
心得《こころい》たという思《おも》い入れがあって、『お役目相すまば、まずゥうち寛《くつろ》いで粗酒一献』、『(大声で)黙れ伯州! またしても酒々と、自体、この度の科というのは、出頭《しゅっとう》たる師直に傷を負わせ、縛《しば》る首にも及ぶべきところを、格別の憐愍《れんびん》をもって、切腹仰せ付けらるるを、ありがたし、かたじけなしと三拝なし、早速用意もあるべき筈を、見れば、当世様《とうせえよう》の長羽織、ぞべら、ぞべらとしめさるるは、うん、よめた、おん身は血迷うたか、いやさ狂気召されたか?』

 定吉の文字通りの一人芝居によって、結構、その映像が浮かんでくるではないか。

 「ぞべら、ぞべら」という科白、結構インパクトあるなぁ。

 続ける。
『あいや、伯州の城主《じょうし》、塩冶判官高貞、血迷いもせず、まった狂気もつかまつらん。今日《こんにち》お上使とうけたまわるより、かくあらんとはかねての覚悟』、すばやく着物を脱ぐ、下《した》ァ無紋の上下《かみしも》。
見ている者《もん》も驚いたが薬師寺てえ小父さんいい過ぎたもんだから目ばかりぱちくりやってる。これを見るなり石堂右馬之丞が、『ご用意のほど感じいったり、いい残さるることあらば、うけたまわるものもあり』、『こは、ご親切なるお言葉、ただ恨《うら》むべきは殿中にて、(力入れて)本蔵ッとやらに抱き留められ、(膝をうって、身をかきむしって)無念――』 
『ああいや……ご用意よくはお心静かに』。
所司《しょし》が畳を二枚、裏返《うらがい》し、白木綿、四隅《よすみ》に樒《しきび》。その上に判官さん、ぴしゃりっと座を構いる。
上手《かみて》から大星力弥、九寸五分を三方《さんぼう》の上へ乗せて、検使の前《まい》へ出す。目でよろしいと知らせる。判官さんの前《まい》へ据えて、下手へさがる……いいとこだなァ
(太棹の口真似で)でえーん――こら一人《しとり》で忙しくなってきたなァこらァどうも……でえーん……でえーん……肌を脱いでお腹をこうさするんだ――(と仕草をする)固いと切り担《そくな》うといけないッてなもんでな。九寸五分を半紙ィくるくるッと包ンで、三方を押し戴いてお尻《けつ》ィ支《か》う。お腹を切っても形のくずれないよう――細かいとこィ注意するもんだなァ……でえーん。
『力弥、力弥』『はァはァ』、『由良之助は?』、『いまだ参上、つかまつりませぬ』、『由良之助まいりなば、存生《ぞんじょう》に対面せで、残りおおいッと申し伝えよ』――
いいとこだなァどうもな……(べそをかいて)お腹がへっちゃァしょうがねえなァどうも……(声を張って)旦那もういいでしょ――いいかげんにおまんまァ食べさしてくれてもォ……先ァ演《や》っちゃうぞォ畜生《ちきしょう》……『力弥力弥由良之助は?』言葉せわしゅう問いかける。力弥もたまりかねて花道の附際《つけぎわ》、揚《あ》げ幕をきっと睨ンで、『どうしてお父ッつァんがこんなにおそいのだろう』て思い入れがあって、『いまだ参上』、つッつッつッと元ィ来て、『つかまつりませぬ』。『ご検使、お見、届けくだされ』。(力を入れて)右の手へ刀を持ちかいる。もうこれで口のきけないのが法だそうだなァ。
脇腹ィぶすっと刺すのがきっかけ、揚げ幕からばたばたばたばたッ、出てくんのァ大星由良之助、七三《しちさん》のとこまで来てひょいッと見ると検使がいるので、思わず平伏『はァッ……由良之助ただいま到着』。これを見ンなり石堂右馬之丞、舞台|端《ばた》までつかつかッと出て、
『おお、国家老、大星、由良之助とはその方か、苦しゅうない近う、近う』、
『はァはァ、はァァ』……じいっと頭を上げる。ご主人はお腹《はら》召されたあと、
『(膝を打って)ああおそかったか』という思い入れがあって、懐《ふところ》ィ手を入れるてえと腹帯《はらおび》をぐうゥッと締めて、すり足で、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ、つッ……
『ごぜん』、
『由良之助かァ』 
『はァはァァ』、
『待ちかねたァ……』、(と急に力がぬけて) つ、つ、つ、つ、つ、つゥ……
(べそをかいて)いいとこでお腹ァへっちゃァしょうがねえなァどうも……
(声を張って)旦那もういいでしょ――ずいぶん入ってるんですからァ……ご飯食べさしてくださいよおまんまをォ……

 この後、蔵の中にあった本物の刀を使って切腹の芝居をしている定吉を女中が見かけて・・・・・・。

 私は、生の歌舞伎を観たことはないし、今回の通し公演も、諸般の事情で行かないだろう。

 歌舞伎は、あと数年したら、連れ合いと一緒に行こうか、などと思っている。
 しかし、あのお方は、落語に何度も連れて行ったが「何が面白いか、分からない」ということで、同行するのを諦めた過去がある。歌舞伎も・・・・・・。
 
 『四段目』は、柳枝が私にとってベスト音源だが、大須での志ん朝の音源もある。
 最初の年、平成2(1990)年の三日目の高座で、まくらを含め50分を超える。これは、まくらがとりわけ楽しいのだ。そのうち、書き起こそうと思っている。

 今年の通し公演には縁がないが、『四段目』に限らず『七段目』や『中村仲蔵』『淀五郎』など、落語で忠臣蔵を楽しむことができるから、私は今のところ不満はない^^


[PR]
by kogotokoubei | 2016-10-27 21:18 | 落語のネタ | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛