噺の話

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カテゴリ:落語好きの人々( 2 )

 末広亭で柳家小里んの『山崎屋』を聴いた後で、ある本をめくってみた。

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 山田洋次の落語作品集『真二つ』は、単行本で大和書房から昭和51年に発行され、平成6年発行の新潮文庫版には、落語の他に著者と小さんとの対談なども収録されているが、その中の一篇が「あっぱれな親不孝『山崎屋』」である。

 昨日の記事にも少し引用したが、このエッセイには、映画「男はつらいよ」に、いかに落語に描かれる人間像が反映されているかが明かされている。

 「山崎屋」における「ああ、イヤだイヤだ」の内容は、もちろん、倅に対する嫌悪感の表現ではあるのだが、それと同時に、そのような愚かな倅を持っている自分自身への嫌悪感、愚かしさを承知しつつその倅を愛している自分の否定、すなわち、倅が嫌なだけでなく、自分も嫌なのだ、という表現であり、それゆえに、その気持がよく伝わるがゆえに、観客である私たちは思わず笑ってしまうのである。
 私の作品「男はつらいよ」の中で、寅さんの叔父貴を演じた今は亡き名優森川信さんが、寅の愚行を眺めながら思わずつぶやく、
「馬鹿だねぇ」
 という独り言のおかしさもまたそれと共通している。

 落語好き、そして寅さん好きの人は、この文を読んで森川信さんが「馬鹿だねぇ」と呟く姿が、目に浮かぶことだろう。

 引用を続ける。
 字句どおりに受け取れば、それは単なる寅への侮蔑の言葉でしかないのだが、森川信さんの表現には、もっと深い内容、この愚かしき甥を愛してしまっている自分への侮蔑、ないし嘲笑、つまり自己否定の要素が加わっていた。したがって彼の「馬鹿だねぇ」は寅への侮蔑ではなく、逆に愛情の表現であったのであり、そこに共感して観客はつい噴き出してしまったのである。

 この文章からは、「愛憎半ば」という」言葉」を思い浮かべる。

 憎らしいけど、愛(いと)しい・・・そんな思いこそが、ある意味、もっとも人間らしい心情なのかもしれない。

 「馬鹿だねぇ」の呟きは、決して侮蔑する思いだけが言わせるのではない。

 このあと、その一部を小里んの高座の感想で引用した、次のような文が続く。

 考えてみれば、落語の主人公にあまり親孝行な人物などは登場しない。忠義で勤勉で夫婦相和し、友人を信じ、兄弟仲良く、隣人とは平和にといった類の、教育勅語の手本のような人物は全く落語とは無縁である。
 だからといって、落語は民衆の封建道徳に対する抵抗の精神から生まれたと断定することには、いささか問題がある。道徳はもともと民衆が生み出した生きていくための知恵である。
 親には孝行しなければいけない、夫婦は仲良くしなければならないというきまりごとは、本来民衆が持っている健康な道徳意識である。それでいながら、時としてその道徳からひたすらはみ出して生きたいという願望を同時に民衆はかかえているのである。
 だからこそ山崎屋の若旦那の反道徳ぶりを楽しみ、怪しからぬ夢をはてしなく展開しつつ、ふと我に返って思わず「ああ、イヤだイヤだ」と溜息をついたり、「馬鹿だねぇ」と思わず自嘲の言葉を吐いたりするにである。
 つまり、山崎屋の若旦那とその父親は、両方とも民衆の心の中に矛盾しながら生きていると言っても良い。人間の意識をそのようにとらえて物語にして見せるところに、落語というリアリズム芸術の近代性があるのだ、と私は考えている。

 山田洋次が、どれほど落語を愛しているかが、伝わってくる。

 また、落語の登場人物の言葉や仕草などに、その心情を推し量る鋭い感受性があることもよく分かる。

 山崎屋の父親の「ああ、イヤだイヤだ」の言葉に潜む、回りまわって自分に返ってくる嫌悪感を読みとれなければ、映画監督などは出来ない、ということなのだろう。

 落語には、その舞台が江戸時代であろうが明治、大正であろうが、変わることののない人間の姿があるということを、このエッセイからも再認識させられた。

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by kogotokoubei | 2017-03-18 11:58 | 落語好きの人々 | Comments(2)

 いわゆる評論家と言われる人は掃いて捨てるほどいるし、その中の経済評論家も、中には政府の犬のような人物が多い中、浜矩子は異彩を放っていると思う。

 私より少しだけ年上だが、このおばちゃん(失礼^^)、権力に媚びないし、なかなか言うことが鋭く、気の利いた科白も多い。

 「アホノミクス」「ドアホのミクス」、さらには「妖怪アベノミクス」などの造語(?)は、なかなかのものだと思っていたら、落語がお好きらしい。

 ダイヤモンド・オンラインの「一人一話」というコラムで、佐高信が書いていた。
ダイヤモンド・オンラインの該当記事
落語と酒が好きなエコノミスト、浜矩子
佐高 信 [評論家]
【第64回】 2017年2月13日

「過激な論客ふたりが初めて手を組んだ!」という謳い文句の浜と私の『どアホノミクスの正体』(講談社+α新書)が、刊行2ヵ月足らずで5万部に達した。

 計4回8時間に及ぶ対談をまとめたものだが、私は何度か、「浜さん、私以上に厳しいことをおっしゃいますね」という驚きの声を発した。
 
 佐高信は昭和20年生まれなので、浜矩子は一回りほど年下になるのだが、対談では年の差を感じさせなかったようだ。

 その威勢の良い浜さんが、落語好きであることが明かされる。
とにかく浜との8時間の対談は濃密だった。そのメリハリの利いた言葉のセンスに私は感心したが、それは落語好きの影響もあるらしい。『どアホノミクスの正体』の対談の後に『俳句界』での対談をお願いして、「浜さんは落語が好きなんだって?」と水を向けると、彼女は、「大好きです。今は江戸落語なら古今亭志ん朝さん。上方なら、桂文珍さんが好きですね。子どもの頃は、それこそ志ん朝のお父さん・志ん生さんをよくラジオで聞いていました」と告白した。

 上方の好みは私と違うが、古今亭親子の好みは、同じだ。
 落語の魅力について、なかなか鋭い意見が披露される。
「落語の何が面白いかというと、“おかしい”からなんですけど、特に古典落語は人々の生態がにじみ出て来るし、あの頃の日本人はこういう感じだったのかというのがよくわかる。単一民族でみなが金太郎飴みたいだ、というのが日本人の本性ではないとわかる。実に多様な人々が共存していて、みんな勝手なことを言っているんです。人の顔色を見ているでもないし、あまり突出してはいけないという考えもないし、それでいて、長屋で絶妙な呼吸で共同生活をしていますよね。そういう姿が、すごくビビッドに出てくるので、猛烈に面白いです」と続けた。

 経済をめぐる話の時より、生き生きしている感じさえする。

 まったく同感。
 落語長屋の住人は一人一人、自分の了見をもって、権力に媚びずに生きている。
 二本差しが怖くては、鰻のかば焼きも田楽も喰えねぇ、のだ。
「落語の言葉づかいというのは、すごくうまいですよね。無駄がないし、諧謔というのはこういうものだなというのがにじみ出ていて。落語台本を書く人というのは冴えていたんだなと思います。ちょっとした綾のところに、猛烈なおかしさがある。言葉もそうだし、呼吸もそうですよね。うまい落語家は面白くするための呼吸を持っていて、えも言われずいいものだし、難しいものだし、張り詰めたものだし、でもそれが猛烈におかしいという。なかなか素敵に高度なものですよね」

 そうそう、諧謔精神が落語には溢れている。
 直球の野暮な言い方はしないけど、無駄のない洒落た科白が満載だ。

 権力に抗せず、思ったことを言う姿勢や、切れ味の鋭い啖呵や表現のセンスの良さは、落語がお好きだったからかと、浜女史の秘密を知ったような、嬉しい記事だった。

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by kogotokoubei | 2017-02-13 12:58 | 落語好きの人々 | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛