噺の話

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カテゴリ:ある芸人さんのこと( 8 )

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秋山真志著『寄席の人たち』

 さて、この本から二代目橘之助のこと、最終回。

 圓歌は先のおかみさんを亡くしてから、酒に溺れるようになった。
 ご多聞に漏れず、男は女房を亡くすと、からきし弱くなる。
 女は・・・・・・ここでは書かないことにしよう。

 橘之助(当時、小円歌)の内弟子時代の回想をご紹介。

「内弟子は、家のこと全般をするんです。まず、師匠が起きる十時ぐらいまでに新聞とお水を持って部屋まで届けるんです。
 (中 略)
師匠は師匠でおかみさんが亡くなって淋しかったのもあるんでしょうけど、毎晩夜中にベロベロに酔って帰ってくるんです。私と歌る多が両脇を抱えて二階の師匠の部屋まで連れて行って寝かせて・・・・・・お~って呼ぶから行くと、オレが寝るまでマッサージしろっていうんです」
 圓歌は当時の生活を自著の『これが圓歌の道標(みちしるべ)』の中で振り返っている。
「私は、いまでも思うんですよ。小円歌と歌る多がいなかったら、おまんまも食えなかったって・・・・・・。そのころは二階で寝てましたから、階下に降りてくる途中で、パンツからみんな脱いで風呂場へ入っちまって、出てくるとい、下着やなんか、そこに出してあるのを着て、部屋へ入ると、もう朝からすき焼きでビールでしたからね。それから寄席へ行って、ちゃんとつとめてたんですから・・・・・・。いまだったら、ひっくり返っちまいますよ。
 こんな生活を送っていたもんですから、いまでも小円歌と歌る多には言うんですよ、『おまえたちのおかげで、おれは生きられたって・・・・・・』ね」

 あの圓歌が、こんなことを書いていたとは。
 
 私は、橘之助、そして、歌る多と師匠と間にこのような師弟の絆があったことを、初めて知った。

 彼女たちが、師匠圓歌を失った時、どれほど深い悲しみに陥ったものかと察せざるを得ない。

 さて、あす歌から小円歌となって、彼女の修業は続く。芸に悩みもした。
 そんなある日、あの人から一喝されたらしい。

「すごくウケたときもかなりあったんです。でもどちらかというと、笑え、笑え、という感じで、笑いを強要してました。若かったからえげつなかった。ある日、小三治師匠に池袋演芸場の楽屋で叱られました。なんだ!あの高座は、なんなんだ!あのネタは。オレたちが聞いていて恥ずかしくなる。あんなネタやめろ、しゃべるな!オマエは高座に出てきて、ポロンと弾いて、踊ります、って踊って、ああキレイだなって、これでいいんだよ。ウケるようなヤツじゃないんだ!っていわれて・・・・・・そのときはすごく悔しかった。でもこの世界、裏で悪口をいってる人はたくさんいるけど、当人にピシッと直言してくださるのは貴重な方だと思って、小三治師匠には本当に感謝しているんです」
 それでしばらく、小三治のいう通りにやってみた。でもそれまでに、拙いながらもウケているというお客の反応を見てしまっているので、物足りなくてしょうがなかった。これだったらいっそのことやめたっていいな、とも思った。
「私はどちらかというと、三味線とか唄がへただから、しゃべりでカバーしていく、っていうのがあって・・・・・・それは間に合わせでやった初高座のスタンスから変わってないわけですよ。三味線は短くて、そのつなぎのしゃべりが長くて、どんどんウケるじゃないですか。そっちが楽しくなっちゃって、だから小三治師匠のいう通りにやってみても全然おもしろくないんですよ。こんなんだったらやめちゃってもいいな、どうせやめるのなら何いわれてもいいからもう一回もどしちゃえ、そう思ってもどしたんです。ただし、えげつないことをいうのはやめて自分の持ち味、江戸っ子のチャキチャキッとしたところを出していけばいいんじゃないかなと。それに師匠が、オレの悪口はどんどんいっていいから、あとでオレが出て行ってフォローするから、といってくれて・・・・・・そういた師匠の後押しにもずいぶん助けられました」
 それからお客が少し聴いてくれるようになり、だんだんと小円歌の芸風が浸透していった。
 小三治の一喝は、いずれにしても小円歌の転機となったと思う。
 
 もちろん、師匠圓唄のアドバイスも大きい。

 私は、小円歌の芸について批判的な声があるのを知っているが、もうじき、“偉大なくマンネリ”になる一歩、あるいは二歩手前位にあり、今後が楽しみだと思っていた。

 しかし、まさか橘之助の名を継ぐとは予想もしていなかった。

 この本では初代橘之助のことにも触れているので、ご紹介したい。

「大師匠の圓朝にも可愛がられ、真打の看板を上げたのが明治八年、なんと数え年八歳の時であった。とにかく大変な天才で、清元・長唄・常磐津・小唄・端唄・・・何でも自由に弾きこなし、自ら名付けた浮世節の家元となり、楽屋内でも女大名と言われて一世を風靡した」(文・都家歌六 『全集・日本吹込み事始』監修・都家歌六、岡田則夫、山本進、千野喜資)。山田五十鈴の代表的な舞台『たぬき』のモデルとしても名高い。圓生の『明治の寄席芸人』でも絶賛されている。「芸については申し分のない、たいした人だと思います。三味線を持って弾き違えをしたことがない。撥をはずしたことも、あたくしは一度も聞いたことがない。実にどうも大した名人でしたが」
 ただ大変な浮気者で別名“千人斬り”。(のちの)六代目朝寝坊むらくと駆け落ちしたり、艶っぽい話は枚挙にいとまがない。
 この六代目朝寝坊むらくという噺家は、何度も改名している人だが、永井荷風が弟子入りしたことでも知られている。

 さて、その恋多き初代橘之助の芸についての引用を続けながら、当代橘之助の言葉もご紹介。

 橘之助の浮世節はいまもCDやテープで聴くことができる。長唄かと思えば常磐津になり、いつしか小唄・端唄になったかと思うと清元に変わり・・・・・・変幻自在にさまざまな邦楽をつなぎ合わせて唄う“吹き寄せ”が特徴で、すさまじいテクニシャンだ。無論、明治・大正のお客は邦楽にもい通じており、耳が肥えていたからこそできた芸だともいえる。彼女のしゃべりが唯一入っている『文句入り都々逸』という唄が残っているが、なかなか諧謔味がある。橘之助は噺家の二代目三遊亭圓橘の門下であり、前座に噺を教えていたという伝説もあるほどなのでおそらくしゃべりも達者だったのではないか。この時代にもし三味線漫談という言葉があり、軽妙なしゃべりを挟んでいたとしたら、彼女が三味線漫談の嚆矢だったかも知れない。小円歌も「いまの人にもわかる音曲吹き寄せの現代バージョンをつくれないかと思っています」。これが完成したら、三味線漫談の新たなトビラを開くことになるだろう。

 たしかに、今の時代と明治、大正時代とは、客の邦楽の知識も大きく違う。

 しかし、寄席が好き、落語が好き、邦楽も好きという人も少なからずいる。

 私は、初代の芸を今に生かした、二代目橘之助のならではの“吹き寄せ”を聴いてみたい。

 そんな期待、希望をもって、このシリーズをお開きとする。

 今席の浅草の後、来月上席は池袋で披露目が続く。

 そう、小三治に楽屋で叱られた、池袋だ。

 なんとか行きたいと思っている。

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by kogotokoubei | 2017-11-26 15:20 | ある芸人さんのこと | Comments(4)

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秋山真志著『寄席の人たち』
 シリーズ三回目。

 将来、二代目立花家橘之助となる女性の高校時代のこと。
 女優かバレーボールの道か、あるいは学校で習っている和裁洋裁の仕事に進むのか、など迷った挙句、取りあえず短大に進んで二年生のとき、大きな人生の岐路に直面するのであった。

 短大生となってもバレーを続けていたが、二年のときに神楽坂にある俳優養成所の東京放映に入った。夏期ゼミナールに三遊亭圓歌が特別講師としてやってきた。運命の出会いだった。
「圓歌師匠のことは、小さいときにテレビで見て、黒縁の眼鏡をかけてやまのあなな・・・・・・っていうのを覚えていたけれど、あ、この人テレビに出ているすごく有名な人だ、ぐらいの認識しかなかったですね」
 そこで圓歌が小噺をみんなに教えてひとりずつ前に出てやらされた。落語というのはひとり芝居なので、こういうことも芝居の勉強になるからと、二、三日かけてひとりひとりにアドバイスしてくれた。圓歌はこの中でいいのがいたら弟子に取るよ、といって、古株の生徒を誘ったが逆に断られてしまった。いよいよ最終日の抗議も終わり、圓歌と生徒たちが連れ立って神楽坂を下っていった。タクシーの拾える広い通りまでくると、圓歌が「オレはこれから上野の鈴本まで行くけど、あっち方面のヤツがいたら乗せてってあげるよ」といった。そこで小円歌ひとりが手を挙げた。
 タクシーの中ですっかり仲良くなってしまった。圓歌には、ピンとくるものがあったようだ。まず、浅草育ちということ。江戸っ子は圓歌にとってもステータスだった。しかも日舞の名取で、母親やおばあちゃんも三味線をやっている。
「そんなに女優になりたいんなら、紹介してやるよっていわれたんです。どうだ、圓歌事務所っていうのがあるから、事務所に入ってオレ付き人をやってみたら。そのうちに女優さんを紹介してやるからさ。なんのツテもないのにそんなこといわれたら、あ~やりますって一も二もなく返事して、じゃあ、一週間後に来いよっていわれて、母親と行ったんです。母親はまた私に輪をかけてべらんめい調なんですよ。普通にしゃべっていても、するてえと、なんていう人で、とにかくまるっきり江戸っ子なの。師匠が私よりも母親を気に入っちゃって、親が三味線やってるならできるだろう。日本舞踊もできるんだし、じゃあオマエ、三味線漫談やれ、付き人じゃなくてオレの弟子になれって話になって、エ~ってビックリしちゃいました」
 一緒にタクシーに乗ったのが運の尽きだったのか幸いしたのか、あれよあれよという間に話しが進んでしまった。
 あら、マクラで彼女がいつも言っている「女優にならせてやる」と圓歌が言って騙された、というのはホントだったんだ。

 それにしても、本当に運命というものは、不思議なものだねぇ。

 柳家さん喬が、70年安保の頃の高校時代、大学生のアジ演説を聞いて大学への夢を失い、好きな落語の道を志してから、数々の縁に導かれて目白の小さん宅を訪ねることになったことは紹介した通り。

 小円歌にとっては、まさに師匠が神楽坂から乗るタクシーに同乗してから、運命の歯車が回り出した、と言うべきか。

 これも圓歌、もとい、縁か^^

 さて、この後どうなるのか。

 しかし、小円歌は三味線漫談のなんたるかを知らなかった。一方、圓歌はかつて前座時代、都家かつ江の家に居候するなどかわいがってもらっていたことがあり、三味線漫談の後継者を育てたいという気持ちがあった。当時、かつ江は寄席には出ておらず、そのあとがいない、という状況もあった。
「しょうがないからかう江師匠のテープを買ってきて聴いたんですけど・・・・・・エッ、こんなことやるのって感じで。かつ江師匠はそう三味線がうまいほうではなかったから、あ、三味線はこれでもいいのか、これならできるんじゃないのかと。三味線のうまさではなくて、話し口調とか、ネタのおもしろさとか、その人個人の魅力でいけるんだな、と思いました。けれど、弟子になれという話にはさすがに、考えさせてくださいと答えたんです。それで三日間考えてから入門することにしました。おじいちゃんがすごく乗り気で、一度師匠を家に呼んだらおじいちゃんと気が合ってしまって・・・・・・そのあともふたりでよく飲みに行ったみたいです。とはいえ急に入門というのは無理なので、大学を卒業してから入門することにしました」
 昔から三味線は好きではなかったが、家の中に身近にあった楽器なので、持って爪弾くことはできた。母親から教わったが、圓歌と仲のよい小唄の師匠のところに稽古に通った。三月に正式に入門して、五月二十九日の国立演芸場の圓歌独演会が初高座というスピードぶるだった。芸名は三遊亭あす歌。

 タクシーに一緒に乗ってから、なんというジェットコースター的な日々だったことか。

 それにしても、圓歌が、なぜそこまでに彼女の弟子入りを希望したのだろうか、というのは当然の疑問。

 まさか、俳優養成所での小噺の課題が良かったから、ということはあるまい。

 この本には、あす歌時代の写真が載っていて、結構可愛いのだが、だからつい傍におきたくなった・・・ということでもあるまい。

 実は、圓歌の周辺でのある出来事が、弟子、それも女性の弟子をとりたくさせる要因であると察するし、なんとも早すぎる初高座の理由だったのだ。

「師匠の先のおかみさんが癌でいくばくもなくて、おかみさんは私のことをかわいがってくださっていたんですが・・・・・・あす歌ちゃんの初高座を見たい、っていう話になりまして・・・・・・師匠が毎日マンツーマンで稽古をつけてくれました。踊りはできるので、小唄を二つか三つ覚えて来いといわれて、小唄の合間を持たす小噺を師匠が教えてくれました。小唄と踊りと小噺を組み合わせてひと高座。全然あがらなかったけど、人前に出てお金を取ってしゃべるという経験は初めてのこと。出番は七分だったのにやたらと長く感じて、笑わせているというより、笑われている、という感じでした」
 おかみさんが有名な呉服屋に頼んで色も全部決めて、着物をあつらえてくれた。入院先から点滴を打ちながら見にきてくれた。おかみさんはその年の八月六日に亡くなった。それから小円歌とお手伝いさんが交互に泊まって圓歌の世話をするようになった。
そのうちに歌る多(女性で初めて真打ちになった噺家)が弟子入りし、十月からふたりが本格的に内弟子になった。

 先のおかみさんの話、結構、目がうるうるするねぇ。

 さて、妻を亡くした圓歌は、その寂しさを酒で紛らわせるようになる。
 彼自身がその頃を著書で振り返っているのだが、その内容を含め、その後小円歌を名乗ることになる、あす歌の修業時代のことは、次回最終回でご紹介したい。

 今日も、土曜の浅草の二代目立花家橘之助の襲名披露興行はきっと大入りではなかろうか。

 もしかすると、今回の襲名を天国で一番喜んでいるのは、圓歌よりも、先のおかみさんなのかもしれない。

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by kogotokoubei | 2017-11-25 13:30 | ある芸人さんのこと | Comments(2)
 
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秋山真志著『寄席の人たち』

 この本から、二代目立花家橘之助のことについての二回目。
 一回目の記事に、浅草で披露目を見た佐平次さんからコメントをいただいた。
 先を越された^^

 さて、江戸っ子一家に生まれた少女のこと。

 まず、あの家族である、自然の流れとして習い事を薦められることになる。
 本人の談。

「女の子が生まれたたら、三味線をやらせようか、踊りをやらせようか、って話になったらしいんですよ。三味線は親がやているから、じゃあこの子には日本舞踊をやらせよう、ということになって、六歳の六月六日に習いに行きました。それから花柳流の名取を取って、いまの世界に入って師範になって、ずっと続けていますね」

 高座の最後に披露する踊りは、やはり素人芸ではないのだよ。

 とはいえ、小さな頃は、人前で芸を披露するような子ではなかったらしい。

 いまの小円歌からは想像もできないが、子供の頃は引っ込み思案で人前で話すことが何よりも苦手だった。舞台で踊るのは平気だが、授業中に手を挙げたり、発表することができない。理科の実験のときも、最初は一番前にいてもいつの間にか見えないところまで下がっていった。

 そんな引っ込み思案の女の子に、ある変化が起きる。

 中学は中・高一貫私立の和洋九段女子中学校に進学。ミュンヘン・オリンピックで男子バレーが金メダルを取った当時のバレーブームの影響を受け、バレー部に入部した。身長も中学に入ってから16センチも伸びて166センチになった(ちなみになぜか大人になってからも伸びて、いまは170センチ)。
 バレー部に入って引っ込み思案の性格が変わった。猛烈にしごかれた。ビンタは当たり前。声を出さないと意思の疎通ができないので、必然的に大きな声を出すようになった。思考回路も変わってきた。前向きに考えるようになり、人前で話ができるようになった。性格が劇的に変わった。本来持っている強情さ、強さ、我慢強さがバレーをやることによってムクムクと頭をもたげてきた。高校では都大会でベスト4.小円歌は第二エースでアタッカー。部活は年に二日の休みしかなく、踊りの稽古に行く時間がない。たまにおあさらいに付き合いで出るために、週に一、二度、稽古に通ったが、その頃の夢はオリンピック選手になること。
 あの「ミュンヘンへの道」の影響か^^

 準決勝のブルガリア戦は、これまで私が観たスポーツの中で、三指に入る大逆転と言えるだろう。

 運動部に入ることでの心身の変化は、私も実感しているので、よく分かる。
 
 しかし、多感な女子高校生は、別な道を進む刺激を受ける。

 高校二年のとき、山口百恵の赤いシリーズのドラマを見て、女優になりたいと思った。バレーをずっと続けるべきか、和裁洋裁の学校なので、その方面に進むか、役者になるか迷ったが、取りあえず大学を出てから考えようと思い、系列の和洋女子短期大学被服科に進学した。

 あらあら、山口百恵の赤いシリーズだよ。
 
 昭和49(1974)年から昭和55(1980)年に放送されたようなので、なるほど昭和35年生まれの多感な女子高校生時代のど真ん中で影響を受けたわけだ。

 さぁ、取りあえず短大に進んだのだが、その学生時代に起こった運命を変える出会いについては、次回のお楽しみ。


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by kogotokoubei | 2017-11-24 12:29 | ある芸人さんのこと | Comments(2)
 この記事は、実は、さん喬の本の記事より前に書こうと思っていた。

 つい、著者ご本人からサイン入り本を頂戴し、一気に読んだこともあって、あちらが先になった。

 ただ今、襲名披露興行の真っ最中。
 今月上席の鈴本、中席の末広亭に続き、現在は浅草だ。

 あらためて、二代目立花家橘之助について、ある本から紹介したい。

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秋山真志著『寄席の人たち』
 七年前に集英社から発行された秋山真志著の『寄席の人たち』(副題、現代寄席人物列伝)で取り上げられた十人の中に、三遊亭小円歌が含まれている。

 本書を読んで、まず彼女の家のことで、次のように著者も私も驚いた。

 小円歌は浅草生まれのチャキチャキの江戸っ子だ。家族構成を聞いておどろいた。両親と弟妹、母方の四人の兄弟とおじいちゃんとおばあちゃん、おじいちゃんの母親のひいおばあちゃんと、そのまた母親の当時百歳のひいひいおばあちゃん。なんと十三人家族である。おじいちゃんが合紙業を営んでおり、住み込みの職人も六、七人いて、大きな釜でご飯を炊いていた。食堂が開店できるぐらいたくさんの食器があった。

 橘之助は昭和35年生まれなので、私より五つほど下。
 たしかに、昭和30年前半には団塊の世代の兄、姉を含め大家族は普通だったが、この十三人というのは、なんともすごい。
 そして、人数のみならず、同居する大先輩たちのそれぞれが、なかなかはありえない経歴や個性の持ち主なのだ。

幕末生まれのひいひいおばあちゃんはキッコーマンの本家の血筋。おばあちゃんは深川の木場の材木問屋の娘で、シャキシャキした働き者。おじいちゃんが二号を持つと「私も働いているんだから、二号さんにも働かせておくれ」とキッパリといった。
 一方、おじいちゃんも三代続く江戸っ子で、吉原通いや芸者遊びが大好き。粋な遊びをする人だった。
「よく芸者さんを何人も呼んでお座敷に上げて、祝儀を切ってましたね。母の結婚式のときも浅草の芸者さんを披露宴に二十人も呼んだりして・・・・・・ホントにたいへんだったようです。お金ばっかりかかって。でも女性関係はさっぱりしていました。別れるときもあとくされないようにしていましたね」
 おばあちゃんは三味線で小唄を弾いていた。おばあちゃんの先祖は皇族に三味線を教えていた家系だった。母親は長唄を習っていた。小円歌が二、三歳の頃、おじいちゃんが酒を飲みながら小唄を唄って、おばあちゃんが三味線をつまびいていたのが最初の記憶。由緒正しき江戸っ子の家系で、周りも落語の世界の住人のような家族である。芸人になったのもムベなるかなという環境ではないか。
 ホントに、絵に描いたような、江戸っ子一家。

 著者の書くように、芸人になるための環境は、家のみならず、その周囲にも存在した。
 まず、家の裏に住んでいたのが、先代の鈴々舎馬風で、色川のおじさんを呼んで居た。

 おじいちゃんがいろいろなところに連れて行ってくれた。当時都電が家の前を通っていて、それに乗ってあちこちに出かけたが、寄席に行った記憶がない。寄席の存在自すら知らなかった。しかし、浅草は芸人の街。家のすぐ向こう側には初代の江戸家猫八が、そのまた向こうには紙切りの初代林家正楽が住んでいた。漫才のあした順子もご近所仲間。母親の幼馴染は浪曲の玉川勝太郎の奥さん、母の弟の同級生は尾藤イサオ等々、数え上げればそんな例は枚挙にいとまがない。

 凄い環境だ。

 初代正楽のことは、先日書いたばかり。

 とにかく、江戸っ子家族と芸人の街浅草に育った娘が、その後、どのような経緯を歩んだのかは、次回のお楽しみ。

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by kogotokoubei | 2017-11-23 14:18 | ある芸人さんのこと | Comments(2)

初代林家正楽のこと。

 紙切りの林家正楽、私は初代どころか二代目さえ生で見たことはない。

 しかし、先日書いた二代目正楽の記事には、二代目のみならず初代もご覧の方からコメントを頂戴した。

 ということで、やはり初代についても書かねばなるまい。

 とは言っても、初代正楽について書くのは、初めてではない。
 今年8月に、この人が残した貴重な戦争の記録(日記)について、小島貞二さんの二冊の本から、二回に分けて記事を書いた。
2017年8月21日のブログ
2017年8月22日のブログ


 あらためて、どんな方だったのか。
 『古今東西落語家事典』などによると、上方にも同じ名前があったので、正しくは「江戸の初代」としなければならないが、初代林家正楽は、明治28(1895)年11月18日生まれで、昭和41(1966)年4月15日に旅立った。
 長野県出身で、本名は一柳金次郎。
 生前は当時の日本芸術協会、現在の落語芸術協会に所属。
 大正6(1917年)に、後に六代目林家正蔵となる四代目の五明楼春輔門下となり、正福と名乗った。 大正8(1919)年1月に、睦会設立に合流して二ツ目となり、「睦」の字に因んで四代目睦月家林蔵(むつきやりんぞう)を名乗ったが、その翌年には、六代目桂才賀を襲名。
 二代目が春日部訛りで苦労したことは書いたが、初代も 出身地であった信州の訛りが治らず落語家としての将来に不安を抱いたことが、紙切りに転ずるに至った大きな理由だったようだ。

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今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)

 もう少し、初代正楽の人物像が推し量れる内容を紹介したい。

 初版は1956年11月に青蛙房から刊行され、平凡社ライブラリーから2000年3月に再刊された、今村信雄著『落語の世界』の「紙切りと正楽」の章より引用する。

 紙切りの林家正楽も、以前は桂才賀という落語家だった。趣味ではじめた紙切りが今は本職となり、余技と本芸とは入れ替ってしまった。過去四十年間に切った紙は実にお三十五、六万枚に及ぶという。今はまったく名人の域に達し、海外にまでその名が響いている。鋏で持って紙を切ることは昔も吉田小広などという人がいたがそれは文字を切ったもので、又おもちゃという紙切りもあったが、註文の通りに絵を切るようになったのは正楽がはじめてである。現在では三遊亭円雀ら二、三の人がいるが、その技術は正楽に遠く及ばない。

 ちなみに、当代の桂才賀が七代目なので、初代正楽は、先代の才賀ということ。
 円雀は四代目のことで、五代目は昨年旅立っている。

 引用を続ける。

 父は表具師であたが芸事が好きで、始終寄席や芝居に行っていた。正楽が傍で遊んでいると、父が木鋏で種々な物を切ってくれた。正楽はその真似をして様々な物を切ったのがはじめなそうだ。
 父は正楽が十三の時に死んだので、当時日本橋馬喰町で小間物屋をしていた兄の許に引き取られ、小僧と一緒に働いていたが、後には番頭として兄を助けるようになった。外に道楽はなかったが、親父譲りで寄席が大好き、近くの立花家へ定連のように通っていたが、お約束で、聞くだけでは満足出来ず、店の小僧や若い者を集めて、はなしをやって聞かせた。時には貸席を借りて近所の者を集めて煎餅などを出して聞かせることもあった。
 ちなみに、『古今東西落語家事典』では、十三歳で姉の嫁ぎ先のリボン問屋に奉公のため上京、となっている。
 いずれにしても、信州から東京に出たわけだ。

 そうか、お父さんの趣味だった紙切りの思い出が、金次郎少年の心に残っていたんだね。

 つい趣味が高じて他人にはなしをきかせたという逸話、旅行の宴会で下手な落語を友人に聞かせる私などは、大いに親近感を抱く^^

 天狗連からプロとなったのだが、その後に紙切りに替わるきっかけは、前述したように、睦会の二ツ目時代のこと。

 寄席で紙を切るようになったのはこの二ツ目時代で、四谷の喜よし亭で、暮れのある日珍芸会が催されて、皆歌ったり、踊ったり、ふだんやらない芸をやったとき正楽は、あいにく隠し芸が何もないので、紙切りをやって見せた。それが大好評で、「そんなに立派な芸があるのに、なざやらなかった。これから毎晩やれ」といわれて、その後は落語のあとで、二、三枚ずつ切っていた。当時大家が大勢そろっていたから、なかなか深いところへなぞはあがれなかったが、色物だから大家の間に挟まってかけもちをして歩いた。
 やがて先代文楽、後のやまとから、桂才賀という名をもらい、大正13年に林家正楽となった。一柳金次郎の名で新作落語を多く書いているが、落語家の上りだけにコツを知っているから、あの人の書くものはやりよいと皆がいう。傑作には『壺』『案山子』『さんま火事』などがある。

 落語作家でもあったわけだ。
 とはいえ、『さんま火事』は聴いたことがあるが、『壺』『案山子』は聴いたことがないなぁ。『峠の茶屋』というネタも作ったらしいが、知らない。
 そういった正楽作の噺、誰か、演っているのだろうか。

 信州訛りに苦労する金次郎少年を救ったのが、芸事の好きだった父親が見せてくれた紙切りだったわけだ。
 
 紙切りは、文字などを切る「切り絵」として最初は演芸の仲間入りをしたようなので、初代正楽のお父上は、切り絵の芸を真似ていたのかもしれない。
 その父の素人芸から、今につながる「紙切り」という確固たる色物につながったということか。
 林家系以外にも紙切りの芸人さんはいるが、初代林家正楽につながる系統は次のようになるはず。

             初代正楽
               |
               |
               ---------------
               |      |
            二代目正楽    今丸
               |      |
               |       -------------
               |      |      |
               |      花    今寿
               |
               ---------------
               |      |
             三代目正楽   二楽
               |
              楽一

 当代の正楽には、今後も頑張っていただきたい。
 あの話芸も、なんとも得難い味がある。

 また、二楽、楽一と若手が紙切りという芸を継承してくれているのは、嬉しい限りだ。


 三代目小南の誕生、そして、協会の壁を超えた弟二楽の披露目への出演で、二代目正楽や初代正楽のことが振り返られると良いなぁ、と思っている。

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by kogotokoubei | 2017-11-13 18:45 | ある芸人さんのこと | Comments(0)

二代目林家正樂のこと。


 三代目桂小南の襲名披露興行は、都内定席三つでの開催から少し間が空いて、国立演芸場の今月中席で再開される。

 小南、そして二楽の父は、ご存じのように、二代目の林家正樂。

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矢野誠一著『昭和の藝人 千夜一夜』

 矢野誠一さんの『昭和の藝人 千夜一夜』(文春新書)から、どんな人だったのかを紹介したい。

 
【二代目林家正樂】佐藤栄作作に可愛がられた紙切り紙ちゃん

  1935(昭和10)ー98(平成10) 埼玉県春日部生まれ。本名山崎景作。紙切り職人。
  54年八代目林家正蔵(彦六)に入門、正作。翌年紙切りに転じ、林家正樂に師事。
  56年小正樂、66年二代目正樂襲名

 二代目林家正樂の愛称は紙ちゃん。初代は「紙工藝」と称していたが、高座で一枚の白紙の注文に応じて鋏で切りぬく、「紙切り」の藝人だからである。この紙ちゃん、1954年に八代目林家正蔵(彦六)に入門したときは、落語家志望だった。
 生まれ育ったのが埼玉県の春日部。春日部といえば、いまでこそ東京の一大ベッドタウンと化しているが、紙ちゃんの入門した頃はのどかな田園風景のひろがる農村地帯だった。当然のことながら強烈な春日部訛りの持主で、師匠正蔵のつけた前座名が正作。これ落語では田舎者の代名詞なのである。
 上野鈴本で『本膳』を春日部訛りで演っていると、最前列に陣取った田舎の客が怒り出した。
「あまりオラたつをバカにするでねェ」
 すかさず答えた。
「バカにすてるでねェ。オラ、まずめにやってるだ」
 人形町末廣で、高座に穴があきそうになり、上野鈴本から誰か応援をたのむべく電話したとき、
「人形町に穴っこあいてるだ」
 とやった一件は、しばし楽屋の語り草になった。落語家の見込みはないと、師の正蔵が判断して、名人だった初代のところへ連れて行き「紙切り」の道へ。もらった名刺が小正樂、紙ちゃん誕生である。

 鈴本での客とのやりとり、なんとも笑える。

 私は、北海道生まれでそれほど訛りは強くなく、学生時代を関西で過ごし、就職してから新潟、そして今の関東と渡り歩いて(?)きたので、それほど訛りで苦労したことはないが、東北や北関東で訛りが体の芯まで染みついた人は、東京言葉の相手と会話する上で大変だろうと思う。

 特に、話すことを生業(なりわい)とする仕事で、いわゆる標準語や江戸弁を求められる場合は、その苦労は並大抵ではないだろう。

 ということで、ついに、落語家の林家正作は、紙切りの林家小正樂に転じたわけだ。

 引用を続ける。

 訛りもひどかったが、ふだんの身装(なり)も垢抜けなかった。兄弟子で身装のいいのが自慢だった春風亭柳朝に誘われて浅草に出かけたはいいが、人混みでまぎれてしまった。しかななく雷門の交番にかけこんだときいた正蔵が、
「藝人が浅草でお巡(まわ)りに道をきくとは・・・・・・」
 と嘆いてみせた。
 ケイタイはおろか固定電話だっていまほど普及していない時代とあって、春日部の自宅では農協が管理する有線による共同電話を使用していた。かかってくると「小正樂さん小正樂さん、受話器をお取り下さい」というアナウンスがなりひびき、会話のすべてが村中にきこえる。おかげで春日部のひとはみんな落語家の符牒をおぼえてしまい、東武線のホームで電車を待っている紙ちゃんに、顔見知りがニヤニヤしながら声をかけてくるそうだ。
「きょうの仕事のギャラがいいね」

 昭和30年代初頭の春日部の通信事情は、そうだったのだねぇ。

 村中にきこえたんじゃ、悪いことはできねぇや^^

 皮肉屋で知られた初代正樂の指導は、きびしいものだった。徹底的なスパルタ教育で、うまく切れないと、「明日から来なくていい」と言われた。技術もさることながら、この藝には知識が大切だから広く浅くでいいから本を読め、芝居を観る金がなければ小屋の前の看板だけでも見ておけと教えられた。
 教えをまもり、毎日欠かさずテレビのニュースを見て、新聞をすみからすみまで読むのだが、家から寄席に行くあいだに起こったことまでは手がまわらない。三島事件のあった日、三島事件を切れと言われて往生した。なかには意地の悪い客もいて、象の背中のノミだの、紅梅白梅なんて注文もある。紅梅白梅というのは洒落た題なので頓智をはたらけせて、急な坂を白バイがのぼっているところを切って喝采をあびたが、次のチルチル・ミチルの出題に、「どんな漫才ですか」とききかえし、客席を爆笑させた。

 たしかに、仕事がら、幅広い知識も求められるし、日々のニュースにも敏感である必要があるだろうなぁ。

 さて、努力の結果、二代目正樂は、ある人物に可愛がられることになる。

 宰相だった佐藤栄作のお座敷にはしばしばよばれた。あのひと、柄に似合わず犬だのライオンだのと子供みたいなものしか注文しない。しかたがないから、「似顔を切りましょう」と鋏を持って近くに寄ったら、言われたそうだ。
「総理大臣のそばまで刃物手にして行ったのはおまえくらい」

 なかなか洒落の効いた逸話^^

 現在の総理大臣には、お座敷に紙切りを呼ぶような遊び心などなかろう。
 
 二代目正樂は、終生、八代目正蔵の弟子と称していたらしい。
 
 矢野さんの短い文章からでも、二代目正樂の人柄が浮かんでくるようだ。

 噺家から紙切りに転じた紙ちゃんの子息は、一人は噺家になり、もう一人は紙切りを継いでくれている。

 実に親孝行な兄弟ではないか。
 
 国立での披露目、二楽は毎日ではないが、数日は兄の膝替わりを務める。

 末広亭の次に、なんとかこの披露目に行きたいものだが、野暮用続きでどうなることやら。

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by kogotokoubei | 2017-11-09 21:39 | ある芸人さんのこと | Comments(6)
 すでに昨日のことになってしまったが、7月16日は、トニー谷の祥月命日だった。

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矢野誠一著『酒と博打と喝采の日日』

 矢野誠一さんの『酒と博打と喝采の日日』(文春文庫)は、「オール讀物」に連載された内容が平成7(1995)年に文藝春秋から単行本で、二年後には文庫で発行。
 似た経緯で書籍化された『さらば、愛しき藝人たち』の続編といえる。

 私と同世代から上の方に、「トニー谷を知っていますか?」と聞けば、ほぼ全員が、知っている、と答えるに違いない。

 もちろん私も、「アベック歌合戦」で算盤を見事な楽器として、「あなたのお名前なんてえの」とやっていたトニー谷の姿は、脳裏に焼き付いている。

 しかし、あのトニー谷の晩年のことは、この本で初めて知った。

 矢野さんの本から引用する。

 永六輔が、新橋の地下鉄の階段をあがっていると、途中にひとりの老人が腰をかけていて、すれちがいざま、
「永ちゃん」
 と声をかけた。はて、誰だったかと、その顔をのぞきこむと、老人は言った。
「俺だよ、俺、トニー・・・・・・」
「なあんだ、久し振り。何してンの?」
「うん、ちょっと休んでんの」
 1986年の夏も終わりかけた頃である。

 トニー谷、本名大谷正太郎は、大正6(1917)年の生まれなので、1986年、満69歳の時のことになる。

 引用を続ける。

 それから永六輔との交際が復活して、「ボードビリアン、トニー谷の本領を、いまの若い連中に見せてほしい」との願いが実現し、渋谷のジャンジャンの小さな舞台で、満員の客を二時間抱腹絶倒させた。
 その年の暮、町おこし運動の一環として、永六輔が前座をつとめる『トニー谷ショー』が各地で行なわれたのだが、執念の舞台だった。ながいあいだの蓄積のすべてをはき出しているようだった。
「銀座の若旦那が戦争に敗けて、GIの姿になって、江戸っ子のやることじゃねえなと思ったときから、ねじれるだけねじれちまって、これからは村の爺さん婆さん相手に、江戸前の藝を楽しんでもらうからね」
 と言って、見事な三味線を披露したという。トニー谷の三味線・・・・・・一度聴いておきたかった。それにしても占領下のアメリカ文化の功罪の、軽薄さという「罪」のほうだけ背負って売り出したトニー谷が、晩年になって江戸前の藝に傾斜したという、その傾斜のしかたがひたむきだっただけに、どこか哀しくうつるのだ。
「お金のことはなんにもいわない」
 とも言って、事実ギャラのことはひと言も口にしなかったばかりか、あの売物でさえあった傲岸無礼な態度もまったく影をひそめ、ただただ藝に生きる老人の姿があるだけだった。

 銀座のど真ん中、その後玩具屋のキンタロウになった場所で生まれた大谷正太郎。その生家はランプ屋だったらしい。江戸っ子の生き残りと言える祖父が、電気が普及してからも電気屋に転業せず、ランプ屋を続けたらしい。
 その店も人手にわたり、父親の死もあって、幼い頃日本橋に引っ越す。
 矢野さんは、次のように書いている。

トニー谷が終生持ちつづけた反骨精神は、このランプ屋に固執した祖父の血を受けついだものかもしれない。

 さて、永さんとの縁から、人前で藝を披露する機会を得たトニー谷だったが、その後のこと。

 年があけて、入院した。肝臓癌で、たか子夫人は無論かくしていたのだが、当人はうすうす感ずいていたふしがあり、見舞に来た永六輔に、
「癌だと思うよ」
 と涙ぐんだ。
 いままでの台本、テープ、フィルム、スクラップブック、それにトレードマークだった算盤も大小とりまぜ五個ばかり、「新しい仕事の資料」として永六輔のところに届けられた。新しい仕事もなにも・・・・・・身辺整理であることは明らかだった。こんどは、永六輔が涙ぐんだ。
 1987年七月十六日午前零時十四分、肝臓癌で死去、六十九歳と訃報にある。
 十月の誕生日を前にしていたので、満六十九歳。

 子どもの誘拐事件は、私が生まれた昭和30年の事なので、ほとんど記憶になかった。
 
 トニー谷と言えば、とにかく、あの算盤と「あんたのお名前なんてえの」なのだった。

 そして、矢野さんのこの本を読んで知った、亡くなる直前、地下鉄の階段での永六輔との出会いが、蝋燭が最後の炎を輝かせるための天からの巡り合わせ、と言えば、あまりに作りすぎだろうか。

 永さんに渡されたトニー谷も遺品は、今どこにあるのだろうか・・・・・・。

 トニー谷が旅立った翌日の7月17日に亡くなった石原裕次郎と、同じ没後30年。

 裕次郎の記念番組はあちらこちらで放送されているが、トニー谷没後30年記念という声は、一切聞く事がなかった。


 私も、トニー谷の三味線、聴きたかったなぁ。

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by kogotokoubei | 2017-07-17 09:51 | ある芸人さんのこと | Comments(10)
 当代江戸家猫八の訃報には、驚いた。
 まだ、66歳。

 昨年9月12日の、むかし家今松独演会が、私が聴くことのできた最後の高座になってしまった。
 今松の会は、前年に続いての出演。
 ご本人も、この会に呼ばれるのを、心底喜んでいたことが、思い出される。

2015年9月14日のブログ
2014年11月9日のブログ

 昨年、私は次のように感想を書いた。
 昨年に続き、膝替りはこの人。
 猫の紋の着物で登場し、座布団に座った。かつて、祖父の初代猫八の時代には、もの真似も落語と同様に座って演じた、息子の小猫が洋服で立って演じているので、私は古風な形で、と説明。
 その表情が、ますます父親に似てきたなぁ、という印象。猫や犬、鳥などの「音をつかむ」コツを演技を挟んで解説。森の五種類の小鳥の鳴き声を交え、その覚え方のコツ(たとえば、三光鳥は「月、日、星、ホイホイホイ」と鳴くなど)を披露しながらの芸は、すでに父親と並んだか、もしかすると越えているかもしれない、と思わせた。
 「お後、今松師匠の大作がございます。準備もできたようですので」と下がった姿が、なんとも粋に感じたのは、私だけではないだろう。

 なぜ、座っての芸だったのか・・・・・・。
 もしかすると、立っての芸が、すでに辛かったのか、とも思わないでもないが、それは邪推か。

 昨年の高座における猫八の姿には、今思うと、与えられた高座を精一杯に努めよう、この時間を大事にしよう、というような思いが伝わってきた。

 いつも、そういう姿勢で臨んでいるのかもしれないが、何か、あの一期一会には、特別なものを感じていた。
  
 早い旅立ちで思い出すのは、父、先代の猫八のことだ。
 三代目猫八は、80歳で亡くなった。
 しかし、他人には見せない、病に苦しんでいた人なのである。
 一昨年の8月6日に、三代目猫八は広島で原爆に遭遇し、原爆症であったことなどを書いた。
2014年8月6日のブログ

 自分の記事だが、一部を引用したい。

-------------2014年8月6日のブログより---------------
 岡田六郎は戦後、原爆症に苦しんだ。そして、原爆投下直後の広島の惨状の記憶が、猫八のトラウマになっていたようだ。
 彼が意を決して戦争のこと原爆体験のことを語り出した(正式には「従軍被曝体験記」)のは昭和五十六(1981)年のことであり、『兵隊ぐらしとピカドン』が上梓されたのは昭和五十八年になってからである。

 四年前2010年8月のNHKの戦争特集の中で放送された「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いたことがあるが、あの映像の中で戦争の悲惨さを語っていた森光子さん、玉川スミさん、喜味こいしさんは、みな旅立った。
2010年8月11日のブログ

 先代猫八、かつての岡田六郎兵長も平成十三(2001)年に八十歳の生涯を閉じた。

 広島平和記念資料館のサイトに、以前に開催された企画展の紹介ページが残っており、昭和二十一年頃の猫八が奥さんと一緒に移っている下の写真が掲載されている。このページには、喜味こいしさんの戦争体験も掲載されている。
広島平和記念資料館サイトの該当ページ
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八重子夫人と猫八さん 1946年 (昭和21年) 頃ころ
猫八さんは、この頃、髪の毛が抜ぬけ落ち、
白血球は減へり続けていました。
提供/四代目江戸家猫八氏

*広島平和記念資料館のサイトより

 明治、大正生れの方から戦争体験をお聴きする機会が次第に失われていく。
 先月下旬、広島に原爆を投下したB29爆撃機“エノラ・ゲイ”の12人の搭乗者のうち最後の生存者が亡くなったというニュースを目にした。93歳だったようだから、原爆投下時点で、猫八とほぼ同じ年齢だったことになる。
 二十代前半の若者が、一人は空から原爆を投下する役目を持ち、もう一人は投下後の悲惨な光景を目にすることになったわけだ。
-------------------------引用ここまで-----------------------

 四代目猫八の死因は胃癌のようだが、原爆症だった父からの遺伝に関係があるのかどうかは、私には分からない。

 しかし、自分よりも早くやって来た息子を、父は喜んではいないだろうなぁ。
 
 とはいえ、あちらでは、親子共演で、天国寄席の重要な色物の看板になるに違いない。

 物まねの芸は、しっかり、継承されている。

 家業とも言える貴重な色物芸の継承者としての四代目の功績は、きわめて大きい。

 四代目江戸家猫八の冥福を心より祈る。

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by kogotokoubei | 2016-03-31 21:02 | ある芸人さんのこと | Comments(10)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛