噺の話

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カテゴリ:落語家( 59 )

 いわゆる“爆買い”も落ち着いてきて、明日の春節がそれほど話題にならないが、今日が旧暦の大晦日、明日が元旦だ。

 ようやく、春らしくなるかな。

 前の記事で当代の正蔵のことを書いたつながりというわけでもないが、1月29日の祥月命日を前に、八代目林家正蔵について書いてみたい。

 彦六の正蔵は、昭和57(1982)年の1月29日に旅立っているので、丸35年経ったことになる。

 24日には、彦六追悼の落語会も開催されたようだが、残念ながら行けなかった。

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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

 これまでも何度か暉峻康隆『落語藝談』からは引用している。

 正蔵に関しては、彼から露の五郎兵衛を経て露の新治に伝わっている『中村仲蔵』に関し、この本を元に以前書いたことがある。
2014年7月8日のブログ

 暉峻さんの聞き書きによる本書は、初版が昭和51(1976)年三省堂から単行本、その後二十年余りの時を経て、平成10(1998)年に小学館ライブラリーで再刊。

 命日を前に読み返してみて、印象的な部分があった。

 正蔵が五代目小さんを襲名し損なった(?)のはよく知られたことだが、名人と言われる師匠だった三代目小さんについて、興味深いことを語っている。

暉峻 最後のお師匠さんは、三代目小さんですよね。
正蔵 ええ、そうですね。
暉峻 この人の芸風はどうでしょう。
正蔵 この方の芸風はねえ、あたくしはこれは正岡容さんにそう言いましたらねー(カメラマンに)こんど目がねを取りますからね、目がねかけた顔は、あまりふだんの顔とちがうから。ちょっと待ってください。いま拭いて、つや出しますから(笑)。(ハンカチを出して顔を拭く)-正岡容さんにそう言いましたら、三代目小さんは、三遊派の人情咄を落語のなかにそっくり取り入れたんだから、あくまで人物描写だと。これは当時の柳派としては得がたい演出なんですよ。
 柳派の人のその時分の芸風というか、お家風というのは、膝を着くとすぐしゃべるのが柳派の演り方ですよ。三遊派のほうは懐から紙入れを出したり、いろいろ段取りがあって、お湯をひと口飲んでからおもむろにやるというのが三遊の・・・・・・だから片方が端唄なら、片方は義太夫の型でいったわけです。ところが、三遊派の型を三代目が咄のなかに取り入れたんです。あの方の落語というものは、二人の人物はピタッと描写するんです。あとはぼかすんですよ。そこが小さん芸術のよさですね。
暉峻 そうですか。いちばん中心になる二人の対話はカチッとやって・・・・・・。
正蔵 ええ、与太郎と大家さんとか。そのほかのおばさんやおじさんなんかはぼかしちゃって。
暉峻 そうすると、焦点がはっきりするわけですね。
正蔵 これが小さん芸術ですよ。ですから、そのものはといえばね、やっぱり三遊派の人情咄に、当人はここだなってメドをつけたわけですよ。 
 明治三十八年三月に「落語研究会」ができたときに、柳派からただ一人ではいってきたんですからね。三遊派のほうは円喬・円右・小円朝・円蔵と多士済々で、五本の指以上に人数がそろってるところへ、柳派からただ一人。あの自信力てえものは、自分の芸ができているという・・・・・・もうそうなると創作ですからね。ほかの者がべらべらしゃべったって、とても三遊派の者にはかなわない。だが自分はこれでやれると、そういう決意ではいってきたんですからね。
 小さん師匠の咄は三遊派の手法を学んでいる。これが人情咄でなくて、落語だからびっくりするわけですね。

 片方が端唄、もう片方が義太夫、という喩えがいいねぇ。

 なるほど、三代目小さんは、当時隆盛を誇った三遊派に対応するため、柳派と統領として敵(?)三遊派の芸をとことん研究し、自分の芸を磨き上げたということか。
 加えて、多くの上方落語を東京に移したことで知られているが、もちろん、上方の芸から吸収したものもあるだろう。

 今につながる柳派の隆盛は、三代目小さんの存在を抜きに語れないことを再認識した、正蔵の芸評である。

 第一次落語研究会は、速記者の今村次郎、歌舞伎演出家で作家の岡鬼太郎が顧問。
 「レギュラー出演者」に相当する「発起人」の顔ぶれは、正蔵が語るように次の通り。
------------------------------------
初代三遊亭円左
四代目橘家円喬
三代目柳家小さん
四代目橘家円蔵
初代三遊亭円右(幻の二代目円朝)
二代目三遊亭小円朝
------------------------------------

 なるほど、三遊派の錚々たる顔ぶれに囲まれ柳派からは三代目小さんが一人。

 ちなみに、来週正蔵の命日の翌日30日に、第五次落語研究会の第583回目が開催される。
 BS-TBSのサイトから、出演者と演目を引用。
BS-TBSサイトの該当ページ
「動物園の虎」 柳家喬の字
「鼓ヶ滝」   三遊亭歌奴
「雪とん」   入船亭扇辰
「羽織の遊び」 柳亭左龍
「三軒長屋」  柳亭市馬

 扇辰も大師匠が五代目小さんだったことを考えると、柳派四人に三遊派が一人という、まったく逆の状況。

 これが、たまたま、とは言えないほど、柳派が三遊派を圧倒しているのが今日の東京の落語界と言えるだろう。

 また、今では、三遊派と柳派の芸における違いが、そう明白ではなくなってきたように思う。
 たしかに、柳派には滑稽噺が多いし、私も好きだが、人情噺だって柳の噺家さんは積極的に手がけるし、円朝作品は三遊も柳も関係なく演じられる。

 あらためて正蔵が語る三代目が築いた“小さん芸術”というものが、現在までの落語の歴史における大きな転換点のように思える。

 中心人物に焦点を当てて、他はぼかす・・・なるほど。
 今度自分が余興で演じる時の参考にしよう。
 でも、全員がぼけたりしてね^^


 よく引き合いに出されることだが、夏目漱石は『三四郎』の登場人物に、「彼(三代目小さん)と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」と語らせた。

 果たして、今、同じ空間と時間を共有する幸せを感じることのできる噺家さんは、どれほどいるだろうか。

 正蔵の命日を前に、そんなことも思ってしまった。

 来週は、何とか寄席に行くつもりであるが、“小さん芸術”を彷彿とさせるような高座に、果たして出会えるかな。


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by kogotokoubei | 2017-01-27 19:54 | 落語家 | Comments(4)

 前回の記事で、桂米朝が春団治に送った『親子茶屋』の台本が三代目の遺品から発見され、姫路にある兵庫県立歴史博物館の特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」で一般公開されることを紹介した。

 その後、この催しの背景には、米朝のご子息との不思議な縁があることを知った。

 日刊スポーツの記事から引用する。
日刊スポーツの該当記事

 同展を開催する歴史博物館の担当学芸員は、米朝さんの三男で、米団治の実弟・中川渉さん(56)。兵庫県職員の渉さんは、一昨年3月19日、米朝さんの故郷である姫路市の同館への異動を伝えられ、その5分後に父の危篤を知らせる電話を受け、同日に米朝さんは亡くなった。

 「本当に偶然、たまたまでした。姫路か…昔、よく行ったな~なんて考えながら、周囲にいた同僚に転勤の話をしていたところに、危篤の電話でした。そこからこの2年、怒濤(どとう)のようでした」と話していた。

 亡くなった3月19日に内示、それも異動先が姫路・・・・・・。

 これは、やはり“縁”なのだろう。

 米朝は大連生まれだが、実家は姫路の九所御霊天神社の神職。祖父の死去により父親が実家を継ぐために、米朝五歳の時に一家で大陸から姫路に帰郷している。米朝自身も神職の資格を取得しており、実家の神社の禰宜を務めたこともあったという。
 旧制姫路中学(現在の姫路西高等学校)の卒業。

 その姫路に、結果として父親の命日に異動を伝えられた三男の渉さんとしては、この特別展の開催に向けた思いは相当深いものがあるだろう。

 兵庫県立歴史博物館のネット・ミュージアム「ひょうご歴史ステーション」の学芸員紹介ページに、渉さんのプロフィールが掲載されている。
「ひょうご歴史ステーション」の該当ページ
 先日の記事で動画も掲載したが、長男の米団治の横で、父親そっくりな方が、渉さん。

 考古学が専門で、埋蔵文化財の調査、つまり古代の遺跡の発掘調査にかかわってこられ、以前は県立考古博物館での学芸員として展示を担当されていたらしい。
 担当された展示会の名が数多く掲載されている。

 「埋蔵文化」か・・・・・・。

 まさに、この度の『親子茶屋』や『一文笛』の手書き原稿は、重要無形文化財保護者によって遺された埋蔵文化に違いなかろう。
 
 上方落語については、まだまだ“埋蔵”されたままの文化遺産があるように思う。

 ぜひ、発掘調査の熟練者である中川文芸員の手で、それらの文化遺産が今後も世に出ることを期待したい。


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by kogotokoubei | 2017-01-16 12:39 | 落語家 | Comments(0)

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森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)

 さて、本書から初代燕枝についての記事、後編。

 前編は、森さんが明治三十三年二月十三日、初代燕枝が亡くなって二日後の「東京朝日新聞」を踏まえて書かれた内容から紹介したのだが、この東京朝日という新聞を読み調べることで、森さんは“今一つ拾いもの”をしたと書いている。

 いったい、どんな拾いものだったのだろうか。
 明治三十年代の同紙には、弥生山人という人が、飛び飛びに随筆を連載しているが、その弥生山人の何人かは、ついに知るべくもない。ところが、三十四年の九月二十日と二十一日との両日に、「弥生の弟」という別人が、その随筆に割り込んで、円朝、燕枝両人のことを併叙しているので、「弥生の弟」の署名がおかしい。これもまた何人なのか、分かりっこないものとして、それを読んだのであるが、文中に、筆者は円朝とも燕枝とも面識があったので、追善かたがた、その二人のことを、少しばかり書くとしようと断っている。そんなことから、「弥生の弟」というのは、『明治世相百話』の著者山本笑月老ではなかったかという気がして来た。あるいは間違っているかも知れないが、ひょっとしたら笑月さんではなかろうかとだけいわせて貰って、その文の中から、一二条をここに紹介して置きたい。
 森さんが推理した山本笑月は、木場の材木商の長男として明治6(1873)年に生まれ、東京朝日の記者をしていた人のようで、長谷川如是閑や日本画家大野靜方の兄にあたるらしい。

 さて、その笑月さんと思しき「弥生の弟」さんの円朝と燕枝の評とは。
「高座に於ける燕枝が、到底円朝の敵ではないことは、世上既に公論ありだが、其代り酒間茶後、膝組みの話と来ては、また所詮円朝の及ぶところではなかった。要するに円朝は、芸に於て名人と呼ばれただけ、物事に分別があつて、随つて人と対話の際も分別臭く、且つ芸人気質あると免れなかったが、これに反して燕枝といふ男は、真率洒脱、些の俗気なしで、しかも滑稽百出、談論風発といふたちであつた。」
 記者は燕枝の話が、円朝に一籌を輸したことを認めている。しかしこれは、円朝の方が並外れた芸の持主だったからで、円朝一人を除いたら、燕枝が第一位を占めることになる。その一事は、記者も十分に認めていたことと思われる。

 “酒間茶後”とか“膝組み”の話という表現は、要するに、酒や茶などを飲みながら、くつろいで聴く話、という意味なのだろう。
 円朝の高座は、“分別”ある円朝の姿に合わせて客の側も膝を正し、飲食などもってのほか、という空気の中で聴いていたような印象だ。一方、燕枝のそれは、肩の力を抜いて、軽い気持ちで楽しく聴く、ということか。

 芝居好きの燕枝の一面については、「弥生の弟」さん、こう書いている。

「或時彼がいふには、どうかして勧進帳がして見たいが、おいらはトコトンが利かないから、舞になつてからが困ると。すると座に円遊があつて、言下に答ふるやう、いいぢやァげえせんか。舞のところから、あッしが代つて出やせうと。
 これを聴ける燕枝は、世にも苦々しげな顔をしていへるやう、お前達はそれだから困る。さういふチョンキナだから、ほんとの芝居が出来ないといふ。畢って気を吐く、虹の如しであつたといふことだ。なるほど弁慶のステテコもあやまるが、燕枝にまじめで勧進帳をやられても、見物は頗る恐れるであらう。」
 その見物の恐れるに違いない「勧進帳」を、まじめに演じてみたいと思っていたというのだからおかしい。
 円遊は師匠の円朝の歿後、三遊派の第一人者だったのであるが、他派の燕枝から、お前扱いされていたこと、右に記されたるごとくだったのであろう。

 この“トコトンが利かない”とは、“飛び六方”ができない、という意味なのだろうなぁ。
 “チョンキナ”は、調べてみると、狐拳(きつねけん)を打つ際に唱える言葉らしい。「ちょんきなちょんきな、ちょんちょんきなきな、ちょんがなのはで、ちょちょんがほい」と唱え,その終わりを合図に拳を打つ、と説明がある。
 上の文脈では、せいぜい狐拳の合いの手程度だから、ほんとの芝居ができない、の意かと思うが、自信はない。

 次に、この章の題である“文才”に関わる部分。
 燕枝は円朝と同じく、話の新作をした。それについて、弥生の弟氏は、また次のようにいっている。
「燕枝はこれらの材料に用ひるために、古板の本や、芝居関係の噺書籍類を夥しく所蔵して居つた。其中にも、元禄板の『にぎりこぶし』の如きは、稀世の珍書である。」
 『にぎりこぶし』は、その書名から考えて、話本だったかと思われるが、さような本のあることなどこれまでついぞ耳にしない。燕枝旧蔵のその書が、その後いかが成り行いたかが気にかかる。
 燕枝の蔵書家であったことは、右の記述にみ見えているが、その蔵書印のある古書を、今でも時々みかけて、なつかしい感じに打たれることがある。書巻の気を有した一事においても、燕枝は一層の親しみの持たれる芸人として、私等の眼に映ずる。
 弥生の弟氏は、「気が楽のつらね」に拠って、燕枝の文才を称し、それについで、また次のようにいっている。
「此頃或処で燕枝のしやれ手紙を加藤漣西が見て、燕枝はこんなものを書くと、魯文よりも旨いといつたが、実によく出来たのは、魯文を凌ぐほどである。」
 加藤漣西という人物は、私は知らない。魯文はその本筋の戯作よりも、即興的な引札の文などに面白いものがるのであるが、燕枝も魯文の向うを張るだけの文才の持主だったのである。

 博覧強記の森さんにして『にぎりこぶし』という、弥生の弟さん曰く“稀世の珍書”を知らなかったようで、逆にどんな本なのか興味が募る。また、加藤漣西とは、どんな人物だったのだろう。
 いずれにしても、燕枝の文才は高く評価されていたのは間違いなさそうだ。円朝の作品のほとんどが高座の速記であることを考えると、燕枝の方が才能の幅は広いと言えるのではなかろうか。

 さて、次は、弥生の弟さんが紹介する、燕枝の好事家としての逸話など。
「享保中に八十の高齢で歿した俳諧師岩本乾什といふは、河東の浄瑠璃を多く作つた竹婦人だといふことだが、浅草の奥山に、其辞世の碑が建ててあつた。
『雪解けや八十年の作り物』とあつて、昔は三尺の童子も知つた碑であつたが、どうしたわけでか、久しい跡に石屋の手へ渡つて、すんでのことに磨り潰されて、庭石か何かになるところを、燕枝が発見して大いに慨嘆し、数金を抛つて、本所の自宅の庭へ建てて置いたが、これをば彼れのいまはに、如電老人が所望して、譲り受けたさうだ。此一事を以て、彼れはまた好事家であつたのを見るに足るべしだ。」
 燕枝の好事家であったことの知られるのは、いかにも嬉しい。如電老人も大槻修翁であることは、註記するまでもないだろう。私なども、この如電翁の顔だけは知っている。
 最後に、弥生の弟氏は、その文の結びとして、次のようにいっている。
「要するに円朝は、徹頭徹尾まじめに一生を送った男で、燕枝は人生を遊戯場としたものと思はれる。」

 如電老人、大槻修翁について、私のような凡人には註記が必要だ。
 Wikipediaの「大槻如電」から引用。
Wikipedia「大槻如電」
大槻 如電(おおつき じょでん、弘化2年8月17日(1845年9月18日) - 1931年(昭和6年)1月12日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍した学者・著述家。本名は清修。字(あざな)は念卿。通称は修二。如電は号。仙台藩士大槻磐渓の子。

略歴・業績

仙台藩の儒学者大槻磐渓の次男として江戸に生まれる。『言海』の執筆で著名な大槻文彦の兄にあたる。

家学をうけて林家で漢学を学び、仙台藩の藩校養賢堂では国学も学んだ。明治4年(1871年)海軍兵学寮の教官となり、文部省に勤務して仙台藩から文部省に引き継がれた『新撰字書』編集事業にたずさわる。1874年(明治7年)、文部省を退官したのちは在野の学者として著述に専心した。明治8年には家督を弟の文彦に譲っているが、これは自由奔放な生き方の自分よりも、弟に家を任せた方が適切だと考えたことによる。

和漢洋の学や文芸に通じ、『東西年表』や『洋学年表』、『駅路通』などの著作があり、父大槻磐渓の著作『近古史談』の改訂をおこなっている(刪修標注および刊行は弟の大槻文彦)。また、祖父大槻玄沢と親交のあった工藤平助の小伝も著している。

如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊や雅楽、また平曲から俗曲にいたる日本の伝統音楽には精通しており、『俗曲の由来』や日本の雅楽研究の嚆矢となる『舞楽図説』を発表している。また、博識とともにその奇行で知られた。1931年(昭和6年)、腎炎のため87歳で没した。

 弟の大槻文彦の名は知っていたが、お兄さんは知らなかったなぁ。

 弥生の弟さん、山本笑月と思しき人は、円朝を“徹頭徹尾まじめに一生を送った男”と形容したが、どうもこういう人たちの評が、円朝という人の像を実物よりも一層大きなものとして世に印象づけてきたように思う。
 私は、松井今朝子の『円朝の女』や、小島政二郎さんの『円朝』に描かれるような、一人の出淵次郎吉という男の姿にこそ、親近感もわくのだが・・・おっと、円朝のことではなく燕枝のことだった。

 ちなみに、二年前の円朝の命日に、あえて円朝の“まじめ”ではない面を中心に短い記事を書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年8月11日のブログ

 さて、森銑三さんは、新聞のみではなく、ある貴重な本も題材としている。
 以上は「東京朝日新聞」に出た二つの記事を主として書いたのであるが、燕枝についての第一資料としては、明治の雑誌『歌舞伎』に連載せられたその自伝『燕之巣立実痴必読』というもののあるのを閑却してはならぬ。ただしそれは、明治十三年に草して人に贈ったもので、その後の二十年間の動静のそれでは知るべくもないことを遺憾としなければならないが、落語家などという稼業は、明治に入ってから、社会的に認められるに至ったので、旧幕時代には小間物業とか、貸本屋だとか、時の物売だとか、曖昧なことを人別帳に記して、お上をごまかしていたのだったという。だから落語家の内にも、話を専一にせず、他にも手を染めた者が多かったのであろうと思われる。
 陸軍医総監の松本順は、よく芸人達を庇護した人だったが、明治十年に自邸で狂言二幕を演ずるようにと、人を通じて円朝に依頼した。しかし円朝は、自重するところがあるものだから、それを断った。すると順は、自ら円朝を本所二葉町のその宅に訪うて、親しく懇願した。それには円朝も恐縮して承諾に及び、燕枝にすべてを一任して、己れも一役を演じて、興を添えた。燕枝の自伝には、そうしたことなども見えている。
 『古今東西落語家事典』にも書かれていた、『燕之巣立実痴必読』、通称『燕枝日記』が登場。

 私にとっては懐かしい松本順の名も出てきた。
 2013年の命日3月12日に、松本順(良順)を主人公とする吉村昭の『暁の旅人』と司馬遼太郎『胡蝶の夢』を比較する記事を書いた。
2013年3月12日のブログ
 
 その松本順が直々に訪問しての依頼を受け、円朝が松本邸で催す狂言を燕枝に一任したというのは、円朝と燕枝との関係を知る有益な事実であろう。

 
 森さんは、『燕枝日記』から二人の親愛の度合いを物語る内容を紹介している。
 両雄並び立たずというが、円朝と燕枝とは、円満な交際を続けていた。年齢では燕枝の方が上だのに、自伝では円朝を「業兄円朝」とも「円朝業兄」ともして重んじて居る。「円朝は一見識ある人ゆゑ」云々ともしている。そんなところにも、燕枝の人物に、対抗意識などというべきもののなかったことの知られるのが快い。

 この部分を読んで、たとえば、円朝一門を中心とする三遊派に“抗する”柳派の頭取燕枝、というような表現は、あくまで芸に関することであり、円朝と燕枝の人間同士の付き合い方には、対抗する、というよりお互いを尊敬し合うような関係を察することができる。
 
 森さんが言うように、たしかに“快い”ところで後篇はお開き、としたい思いもあるのだが、最後にあのお寺のこと。
 燕枝が葬られた源空寺は、幡随院長兵衛のほかに、高橋東岡、伊能忠敬の墓があり、谷文晁一家の墓もあるので、私はこれまで何度か往訪して居るが、燕枝の墓は、さらに記憶に存しない。それで去年もあと三四日につまった日の午前に、わざわざ往訪したところが、燕枝の墓は、大正の震災に痛んで、片附けられてしまったらしく、本堂の前に、新しい「談洲楼燕枝之塚」という自然石の碑が建って居るのに過ぎなかった。しかもその碑は、雅味も何もないものなのに、失望してしまった。

 40年ほど前のことなので、今も源空寺の燕枝の塚が同じ状態なのかは、分からない。
 
 もしそうならば、円朝の全生庵とは、あまりにもの違いだ。

 毎年、円朝の命日近くには、三遊派のみならず、柳派も含む噺家さんが全生庵にお詣りしたり、円朝の作品を奉じたりして、盛大に名人と呼ばれた噺家を偲んでいる。

 しかし、燕枝に関しては、どうだろう。

 柳派の方々は、二月二十一日の命日に源空寺で初代燕枝を偲ぶことのできる、少しは雅味のある石碑でも建ててあげてはどうか、と思う。

 三三の『嶋鵆沖白浪』最終口演から発した初代談洲楼燕枝シリーズ的な記事、これにて、ひとまずお開き。

p.s.
この記事を書いた後で、本書の「文筆家悟道軒円玉」の章に、こんな文章を発見した。
追記 先に書いた「談洲楼燕枝」の中でその所蔵した『にぎりこぶし』という書物を、話本かなどとしたのは大間違いで、それは役者評判記で、『歌舞伎評判記集成』の第二巻中に収められていることを川崎氏から教えられた。
 燕枝の墓は、私の探し様が悪かったので、源空寺に現存している。その外いろいろのことを、柳亭燕路氏から教えられた。柳亭さんは、現に燕枝の研究を熱心に進められて居る。遠からずその詳伝の刊行せられる日が来よう。私の文ははなはだ不確なものだったが、それが縁になって柳亭さんという特別の研究家を知ることを得た。私はそれを大きな喜びとして居る。
 森銑三さんという人の真摯なお人柄が偲ばれる追記と言えるだろう。なお、川崎氏とは川崎市蔵さんのこと。邦楽研究家の方かと思う。柳亭燕路は、『落語家の歴史』や『子ども落語』などの著書があり落語研究家としても著名だった六代目だろう。
 遅ればせながら、拙ブログでも、以上を追記とします。
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by kogotokoubei | 2016-12-14 21:36 | 落語家 | Comments(0)
 またか、との声が聞こえてきそうだが、懲りずに、また初代談洲楼燕枝のこと。

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森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)
 
 初代燕枝のことを語る上で、肝腎な本を見逃していた。

 森銑三著の『明治人物閑話』である。

 この本は三遊亭円朝も取り上げているが、初代燕枝も忘れてはいなかった。

 私が読んでいるのは平成19(2007)年発行の中公文庫の改版。文庫初版は昭和63(1988)年の発行、単行本は昭和57(1982)年に発行されている。

 ちなみに、この改版では内田樹が解説を書いている。

 「談洲楼燕枝の文才」の冒頭部分から引用する。
 明治の落語界は、三遊、柳の二派が対立の形を取ってうた。そして三遊派の円朝に対して、柳派には燕枝があって、よく円朝に拮抗した。ところがその没後七十年余年を経た今日になってみると、円朝一人が云々せられて、燕枝の方は一般からは忘れられ、そんな落語家もあったのかというくらいになってしまっている。

 この文章は、昭和50(1975)年の「歴史と人物」5月号・6月号に「談洲楼燕枝」の題で掲載されたものだが、40年後の今も、円朝に比べて燕枝はほとんど忘れられ、せいぜい“そんな落語家もあったのかというぐらい”であるという状況には変わりがないだろう。
 次に、燕枝の生い立ちなど。
 燕枝は天保九年十月十六日に、小石川表町の伝通院前に酒商を営む長島清助の子として生れた。円朝よりは二歳の兄になる。幼名伝之助、長じて伝二郎といった。落語で立とうと決意したのは十九の歳で、初代春風亭柳枝の弟子となって、初め伝枝といった。通称の伝の一字を取ったのである。数年にして柳亭燕枝と改名し、二十五歳で真打となり、かような若さで真打となったのは珍しいと評判せられたようである。師匠の柳枝も人情噺の名人と呼ばれた人で、燕枝はよい師に就いたわけであるが、柳枝は明治元年に歿したところから、以後は燕枝が柳派の牛耳を執ることとなり、多くの弟子達をも養い、円朝の一門で固めた三遊派と、落語界を二分した形で、芸人の社会に大きな勢力を持った。
 生まれ年は、たぶん、天保8(1837)年の誤りかと思う。
 本書は、著者が過去の新聞を丹念に読むことなどで書かれているのだが、確認した新聞に誤認があったのだろうか。改版の改訂版で修正されているのかどうかは、未確認。

 師匠の初代柳枝は、文化10(1813)年生まれなので、燕枝とは干支で二回り上になる。
 燕枝の才能は、単に落語に限ったものではないことなどが記されている。
 燕枝自身もまた人情噺、芝居噺をよくしたのであるが、兼ねて文筆の才があり、仮名書垣魯文の門に入って、あら垣痴文の名を貰っていた。それで一二の紀行文などもあることが知らされているが、それらは私はまだ見ていない。
 燕枝は文芸の嗜みのあったところから、多くの文人墨客達の知を得ていたが、さらにまた芝居好きとして知られた。その方面にも顔が売れていて、三升会の取締などをもして、団十郎一門の俳優達からも重んぜられていた。

 以前、代々の団十郎のことについて記事を書いたことがあるが、初代から十二代目までの生存期間は、次のようになっている。
 十二代目が亡くなった後、“成田屋は短命”、とか、ケネディ家のように呪われている、などと書かれた記事に接して疑問に思い書いた記事だった。
2013年2月4日のブログ

 各代の生年と没年、( )内は亡くなった時の満年齢。

初代 1660--1704(44)
二代目   1688-------1758(70)
三代目*    1721-1742(21)
四代目*   1711-------1778(67)
五代目      1741---------1806(65)
六代目        1778-1799(21)
七代目         1791------------1859(68)
八代目            1823--1854(31)
九代目              1838-----------1903(65)
十代目*                  1882-------------1956(74)
十一代目*                   (56)1909--------1965
十二代目                       (67)1946------------2013

「*」は、先代から血のつながりのない養子。

 初代燕枝が贔屓にした団十郎は九代目。年が一つ違い。
 芝居好きの燕枝は、明治14年の暮れ、春木座で、講釈師、落語家連中による年忘れの素人芝居、今でいう“鹿芝居”を行った際に団柳楼の名で団十郎張りの曽我五郎を演じ、「白浪五人男」では日本駄右衛門に扮して評判を取ったようだ。
 つい、嬉しくなった燕枝は、その後も何度も舞台に上がっている。
 とにかく、芝居が好き、そして、団十郎が好きなのである。
燕枝は、歌舞伎役者の内でも、団十郎を最も重んじ、その人に傾倒すること、むしろ崇拝というに近かった。それで江戸時代に烏亭焉馬が市川贔屓で、自らを談洲楼と号したのが羨ましくて、明治十八年に、その号を襲うて、自分も談洲楼と名のり、「暫」のつらねに倣って、「身が楽のつばめ」という戯文の一篇を書いたのを版にして、知人に配った。「つばめ」は燕枝の「燕」で、自分をいうのである。そして江東の中村楼で披露の宴を張った。そうしたことから、なおゆくゆくは、烏亭焉馬の名を襲ぎたいつもりでいたのだったが、そのこをは果たせぬ内に、あの世へ旅立ってしまった。

 烏亭焉馬は、落語愛好家の方ならご存じかと思う。
 彼が贔屓にしていたのは五代目だ。焉馬は、六代目団十郎に先立たれた五代目団十郎の没後は、まだ幼かった七代目団十郎の後見役を引き受けている。

 燕枝が贔屓にした九代目は「劇聖」と言われた人だが、燕枝の団十郎贔屓は、落語中興の祖と言える、烏亭焉馬への追慕の念にもつながっていた。

 次に、燕枝晩年の逸話など。
 明治三十二年九月、燕枝は動脈瘤という、厄介な病に冒された。それでも押してあちこちの席に出ていたところが、三十三年の一月、人形町の末広亭で口演最中に気分を悪くし、急いで本所区南二葉町の自宅に帰ったが、そのまま病床に呻吟する身となった。燕枝自身も覚悟するところがあったのであろう。
  動脈瘤に罹りて
    動くもの終りはありて瘤柳

 と口ずさんだのが、ついに辞世の句となった。「動」「瘤」の二字に「動脈瘤」を現し、「柳亭」の「柳」の字まで取入れている。

 この部分を読んで、「あっ!?」と思った。

 六年前に初代燕枝のことを書いた記事で、関山和夫著『落語名人伝』から、次の円朝と燕枝の辞世の句に関する文章を引用していた。
関山和夫『落語名人伝』
 三遊亭円朝の辞世の句「目を閉じて聞き定めけり露の音」には仏教的な“悟り”が感じられて感銘深いものがあるが、談洲楼燕枝が残した「動くもの終りはありてこぶ柳」には悲痛な感じがただよっている。

 関山さんは、燕枝の辞世の句について、“悲痛な感じ”と評された。
 しかし、森銑三さんが指摘するように、彼の辞世には、自分の病でさえ茶化してしまう遊び心をこそ見い出すべきなのかもしれない。

 引用を続ける。
 そして同年二月十一日の午前三時というに、息を引取った。享年六十三歳、中二日置いた十四日に、浅草清草町の源空寺に葬られた。
 その源氏空寺は、幡随院長兵衛の墓があるので知られている寺であるが、その長兵衛とのことについて一話がある。
 燕枝は歿する前年の明治三十二年に、自ら祭主となって、長兵衛の二百五十年忌の法要を、源空寺に営んだのであるが、知人に寄附を仰ごうと、尾上菊五郎を訪うたら、菊五郎は気乗りしない様子で、長兵衛の法事なら、親玉が一人で背負って立つのが当り前だろう、という。親玉は、いうまでももなく団十郎である。その時燕枝は透かさずにいった。親方、そうはいわせませんよ。お前さんだって、白井権八の時には、長兵衛の家へ転がり込んで、厄介になっていた。その義理もあるじゃありませんか。
 菊五郎思わず噴出した。そういわれちゃ叶わねえ。それじゃ寄附につきあいましょう。そういって、いわれるままに、百円の金を投げ出した。
 燕枝は、さような奇才をはたらかせることのできる人だった。
 楽しい、また、いい話だなぁ。
 この菊五郎は五代目。九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに、いわゆる「団菊左」の黄金時代を築いた人だ。

 相手が年下とはいえ、大看板の音羽屋に向かって、「鈴ヶ森」の白井権八を持ち出し幡随院長兵衛の法要の寄附を出させるなんて、芝居が好きで、自分自身でも演じていた燕枝ならでは、と言えるだろう。

 引用を続ける。
 燕枝は晩年には、渋好みとなって、質素な生活をしていたが、若い頃にはそうではなかった。万事に派手で、ことに真打となってからは、仲間の附き合その他に、金を出すことを惜しまなかった。それには円朝も驚いて、よくもあのように金を蒔かれるものだ、といったという。それで燕枝も後には、近頃の芸人のように、己れ一人が勝手なことをして、人の上を顧みないのはみっともないなと、嘆ずるのだったそうである。
 以上の略歴と逸事とは、大体を明治三十三年二月十三日の「東京朝日新聞」の記事に拠ったのであるが、この明治三十三年は、落語界の厄年だったといっていい。燕枝と並び立っていた円朝も、燕枝よりも僅か六箇月後れで、八月十一日に歿している。
 
 明治三十三年、西暦1900年は、たしかに落語界にとって厄年だったかもしれない。
 なお、六代目円生は、その年の九月三日に生まれた。

 著者森銑三は、この後に続く第二章冒頭で“右の記事を得た「東京朝日新聞」からは、私は今一つ拾いものをしている”と記している。

 その“拾いもの”を含めて、本書からもう一度初代燕枝について紹介するとして、今回はこれにてお開き。

 知れば知るほど、円朝の十分の一でもいいから話題になって欲しいと思うのが、初代燕枝だ。

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by kogotokoubei | 2016-12-13 12:50 | 落語家 | Comments(2)

 柳家三三の『嶋衛沖白浪』の楽日の高座に間に合って、本当に良かった。

 今後は定席寄席での十日間通しを希望すると記事に書いたが、三三のホームページによると来年は「たびちどり」と題して、名古屋の大須演芸場で五月から六回公演の予定らしい。
柳家三三サイト「三三時代」の出演情報のページ

 これはこれで名古屋の落語愛好家の方には朗報だろう。

 関東での次の公演は、今しばらく待つとしよう。

 三三には、もっと待ってもいいので、初代談洲楼燕枝の他の代表作に挑戦して欲しい。

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 円朝と同時代、柳派の頭取として円朝と競った初代燕枝の十八番について、平凡社から平成元年(1989年)に発行された『古今東西落語家事典』から引用する。

 得意のネタは、師匠柳枝譲りの『おせつ徳三郎』『子別れ』などのほか、『雁風呂』など既成の噺も演じているが、『嶋衛沖白浪』『天保奇談孝行車』などの自作物、『侠客小金井桜』『岡山奇聞筆之命毛』などの翻案物、『あわれ浮世』『仏国三個男』などの外国種と演目は幅広い。


 まったく内容は知らないが、燕枝の作品『天保奇談孝行車』など、実にそそられるお題で、ぜひ聴いてみたい。
 他にも「水滸伝」の花和尚魯智深の件を翻案し、それに曲亭馬琴原作の「西海屋騒動」をとり合わせた『御所車花五郎』という創作があるらしく、こちらも興味津々だ。
 
 また、翻案物、外国種にだって、今では聴くことができないので、知りたいものだ。

 当代の柳派の噺家さん、円朝作品はよく演るが、柳派の大先輩の作品にも、ぜひ目を向けて欲しいものだ。

 三三の『嶋衛沖白浪』が、そのきっかけになることを期待する。

 もちろん、三三にも燕枝作品の持ちネタを増やしてほしいし、同じ柳の喬太郎などにも、円朝のみならず、燕枝十八番を取り上げて欲しいものだ。

 なお、燕枝は、自分で筆をとった人だ。
 仮名垣魯文門下で痴文と名乗ったくらいだから、噺本にしても、雑誌・新聞の連載にしても自筆が多く、速記による三遊亭円朝とは対照的である。噺以外の著作としては、『燕之巣立実痴必読』(通称『燕枝日記』)が、幕末から明治初期の落語界を知る上の貴重な資料である。

 凄い存在だったのだよ、落語界にとって。 
 神保町で『燕枝日記』を探さなきゃ。
 燕枝は円朝とともに明治の落語界をリードした偉大な人物であったが、もし没後運という言葉があるなら、円朝に比べて運の悪い人で、膨大な作品はもちろん、その伝記さえ一般には知られていない。
 明治三十三年二月十一日に動脈瘤破裂により死去。辞世の句は「枯れるものの終わりもありて瘤柳」。墓は浅草源空寺にある。戒名は柳高院傳誉燕枝居士。

 まったく、この指摘の通りで、円朝と比較して、あまりに知られていないのが残念でならない。

 柳派の噺家さん、ぜひ、燕枝十八番を演じることで、その名をもっと知らしめてもらいたい。
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by kogotokoubei | 2016-12-10 11:50 | 落語家 | Comments(4)
 昨日10月1日の祥月命日を一日過ぎたが、古今亭志ん朝にちなむことを、ある本からの引用を中心に書きたい。

 志ん朝ご本人のことというより、今まさに襲名披露興行中の三代目橘家文蔵が語る志ん朝のこと、および彼の師匠先代の文蔵のことが中心。

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河出書房新社サイトの該当ページ
Amazonの本書のページ

 KAWADE夢ムック・文藝別冊の「永久保存版 古今亭志ん朝」のことは、発行されてしばらくして記事に書いた。
2014年10月28日のブログ

 あらためて、目次をご紹介。
未公開音源より初公開(聞き手 清水一朗)
志ん朝芸談
 -落語のこと、三木のり平のこと、親父のこと

古今亭志ん朝 生涯最後の対談 未収録部分を初公開
古今亭志ん朝x林家こぶ平(現・正蔵)
 親父は親父、芸は一代

古今亭志ん朝コレクション
【志ん朝の談話】
一つ屋根の下に
赤の他人三家族が住んだ
少年時代


【志ん朝インタビュー】
仲入り前に

対談
山本進x清水一朗
 若き日の古今亭志ん朝

インタビュー(聞き手 石井徹也)
噺家が見た
古今亭志ん朝

 古今亭志ん橋・三遊亭好楽・春風亭一朝・柳家小満ん・五街道雲助

インタビュー
二ツ目勉強会と古今亭志ん朝
 柳家三三・桃月庵白酒・入船亭扇辰・橘家文左衛門

対談
古今亭志ん朝x早川東三
 独語と落語とコンサイス

エッセイ
立川談志 志ん朝へ
中条省平 『仮性文藝時評』より
八木忠栄 『ぼくらの落語ある記』より

古今亭志ん朝
演目一覧


石井徹也 志ん朝の演目

古今亭志ん朝略歴

 「二ツ目勉強会と古今亭志ん朝」の章、当時の文左衛門のインタビューからご紹介。

文左衛門 志ん朝師匠とうちの師匠(故・橘家文蔵)は仲が良かったから、僕も前座の頃から志ん朝師匠には、よくかわいがってもらいました。
 志ん朝師匠は前座の頃の最初二年くらい、先代(八代目)の林家正蔵師匠のとこへ一日おきに出入りされてたみたいで、そのときにうちの師匠や先代の(五代目春風亭)柳朝師匠と仲良くなった。「ときには取っ組み合いの喧嘩もした」と、うちの師匠も言ってました。うちの師匠が二年ぐらい先輩ですけど、志ん朝師匠は御曹司なんで「朝さん、朝さん」と呼んでましたね。

 この後、志ん朝と文蔵の二人の仲の良さを物語る逸話が、弟子文左衛門によって語られる。

 志ん朝師匠はうちの師匠と噺の交換もされていたみたいです。僕が二ツ目で『蒟蒻問答』を教わったとき、「これは朝さんから教わったんだ」と師匠は言ってました。逆に『粗忽の釘』は「柳朝師匠から教わったのを朝さんに教えた」とも聞きました。志ん朝師匠は「お前の師匠はねェ、林家(八代目林家正蔵)に稽古してもらうだろ。帰り、上野駅まで歩くんだけど、その間ブツブツ演るともうできてる。本当に覚えるのが早ぇんだ。だからこっちが忘れることがあっても、あいつに聞けばすぐ教えてくれるからいいお前の師匠は便利だよ」ともおっしゃってました(笑)。

 以前二代目文蔵について書いた記事で、円生譲りの『団子坂奇談』を入船亭扇橋に伝えたのが二代目文蔵であることや、柳家喬太郎は文蔵の高座の袖で『竹の水仙』を聴いて覚え、了解をいただき自分のネタとしてたということを紹介した。
2016年7月30日のブログ

 志ん朝とはネタの交換をし合う仲だったんだねぇ。

 志ん朝が「便利」と表現したが、その典型とも思われる逸話を弟子が披露している。

 そういえば、朝、師匠のところに僕がいたら、電話がかかってきたことがあります。「志ん朝だけど、勢(文蔵師匠)ちゃんいる?」「はい。師匠、志ん朝師匠からです」「何?」「今度新しく弟子が来たから『寿限無』を教えたいんだけど、俺忘れちゃったから、勢ちゃん、すまないけど教えてくれ」「いいよ、いつ?」「今」「ええっ!?朝さん何、今なの?」「うん、電話で教えてちょうだい!」。仕方なく、師匠がずっと電話で『寿限無』を演って(笑)。たまに「朝さん聴いてる、ちゃんと?」「あ、聴いてる聴いてる」。なんてやってるから、傍で見てておかしくておかしくて。

 文蔵の前の名が勢蔵だったから「勢ちゃん」ということだろう。

 それにしても、志ん朝が文蔵に助けを求めたネタが『寿限無』で、すぐに電話で一席語らせるとは・・・・・・。

 その文蔵と志ん朝は、ほぼ同じ時期に旅立っている。
 
 当時の文左衛門の回想。

 志ん朝師匠と最後に話をしたのは、うちの師匠が亡くなった直後です。いろんなところから電話があると思って自宅に帰らず、師匠のうちにいたんです。そうしたら、通夜の前の日に志ん朝師匠から電話がかかってきました。病院のロビーからで、もう弱々しい声で「志ん朝だけど、勢ちゃんが死んだんだって」「はい」「ああ、そうかぁ。うーん、いや俺もねぇ、もうそろそろ・・・・・・」なんてぼそぼそしゃべって、「いやもうね、ヤバいんだよ、そのうち行くからよ」とガチャッと切られた。うちの師匠は九月十一日に亡くなって、志ん朝師匠もそのあとすぐ亡くなったのが十月一日ですから、ひと月足らずですよね。


 志ん朝と文蔵の交流は、相当深いものがあったのだろう。
 
 いくら「便利」とはいえ、電話でネタを教わろうとする者、そしてその願いを受けて教える側、これは普通の関係とは言えない。

 この本には、当代文蔵自身と志ん朝の思い出も興味深いことが語られている。
 しかし、今回は、あくまで同時代を生きた志ん朝と二代目文蔵とのことにとどめたい。

 あれから、十五年だ。

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by kogotokoubei | 2016-10-02 21:41 | 落語家 | Comments(2)
 落語協会ホームページの文左衛門による三代目文蔵襲名披露興行の案内には小言を書いたが、襲名そのものは実に良いことだと思っている。

 これまで、拙ブログの記事の中で、数少ないながらも、二代目文蔵に関することを書いてきている。

 まず、2013年10月24日の記事。
2013年10月24日のブログ

 この記事は、深川で行われた道楽亭さんの出張寄席、扇辰と兼好の二人会について書いたものだった。

 扇辰の二席目『竹の水仙』のことに関し、このネタを十八番にしている喬太郎は、彼の本『落語こてんパン』の中で、二代目橘家文蔵から了解を得て文蔵の高座を袖で聴いてネタにした、と書いていることを紹介した。

 喬太郎が“盗みたい”と思ったほどの文蔵の『竹の水仙』には、逸話があった。
 文蔵が二ツ目の勢蔵時代、東宝名人会の若手勉強会で『竹の水仙』を演じたところ、聴いていた審査員の円生が、『三井の大黒』を教える代わりに文蔵の『竹の水仙』を教えてくれと頼んだというのだ。

 あの円生が、である。
 
 文蔵は正蔵の弟子ながら、円生との関係は悪くなかったようで、他にも二人の間をつなぐネタがあった。

 今年1月の記事で、入船亭扇橋の『団子坂奇談』は、円生から文蔵、そして文蔵から扇橋に伝わったものであることを、矢野誠一さんの本から引用して記事に書いた。
2016年1月7日のブログ

 実に貴重な逸話だったので、あらためて『落語家の居場所』から引用する。
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矢野誠一著『落語家の居場所』

 『落語家の居場所』は1997年に日本経済新聞社から単行本が刊行され、2000年に文春文庫の仲間入りした本。

 「わが愛する藝人たち」という副題がついている。

 この本には、かつて矢野さんが毎日新聞に書いていた「寄席」と題するコラムの一部も収められており、91年7月25日付けのコラムに次のようにあった。
 入船亭扇橋という落語家は、おかしなはなしを知っていて『茄子娘』だの『鼻きき長兵衛』なんて、ほかに誰も演りてのない演目を思いだしたように高座にかけてくれる。十四日の「第31回紀伊国屋寄席」(紀伊国屋ホール)でも、この季節をあてこんだ怪談『団子坂奇談』を出したが、初めてきく客が多かったのではあるまいか。
 このはなし、三遊亭圓生が時どき演っていた『猫怪談』などもはいっている『谷中奇聞』のひとつだそうで、圓生から教わった橘家文蔵が扇橋に伝えたのだという。舞台になっている団子坂や動坂、さらには谷中にかけたあたりは、いまなお東京の面影を残すところだが、そんな土地に対する演者自身の愛着が一入(ひとしお)であることが伝わってくるのが面白い。主人公が、本所の屋敷から団子坂まで花見に出かける行程を、浅草、田原町、稲荷町、上野、不忍池、七軒町、根津と町づくしでいいたてる。浪花節の道中づけや、『曽根崎心中』の「観音廻り」を思わす趣向で、『黄金餅』にも見るようなこうした遊びが、落語にはしばしばある。 
 それにしても、この『団子坂奇談』のサゲだが、他愛なさすぎて、いっそ爽快である。そういえば『茄子娘』にしても、『鼻きき長兵衛』にしても、決して上等のサゲとはいいかねる。そんな拙劣なサゲを、あえて改良しようとはせず、演者自身がてれてみせることで処理できるあたりに、落語がパーソナルな藝である一面をうかがうことができるのだ。

 この『団子坂奇談』、弟子の扇辰の高座を初めて聴いたのは2013年5月、道楽亭さん主催の文左衛門との二人会だった。
 記事には、途中までの筋書きも書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2013年5月24日のブログ
 扇辰は、師匠扇橋にこのネタを教えたのが文左衛門の師匠の文蔵であったことは、きっと知っていたのだと思う。
 
 当時、扇辰の師匠扇橋は、病の床にあった。
ある意味で、師匠への感謝に加え、二代目文蔵と弟子文左衛門にお礼を込めての高座だったのかもしれない。

 二代目橘家文蔵は、昭和14(1939)年8月25日生まれで、平成13( 2001)年9月10日に満62歳で亡くなっている。

 昭和14年生まれは、小三治、枝雀と同じ、志ん朝の一つ下。

 八代目正蔵門下。
 柳朝の弟弟子で栄枝の兄弟子にあたる。
 昭和57(1982)年1月に師匠亡き後、桂藤兵衛や正雀を預かっている。

 文蔵の生の高座も音源も聴いたことはないが、同業の噺家の中で評価が高かった人と聞く。
 
 私は三代目文蔵となる文左衛門の『竹の水仙』は聴いたことがある。
 2012年2月の、喬太郎、扇辰との三人会だった。
2012年2月18日のブログ

 その時の記事に、当日の文左衛門の声の調子が今ひとつだったこともあるが、十八番としている喬太郎を意識して演じたのか、などと書いている。
 また、舞台を鳴海宿をしているのは喬太郎と同じだが、五代目小さんは藤沢、果たして誰の型だろう、などといただいたコメントへの返信で書いていた。

 当時、喬太郎のこの噺が文蔵の型であったことを知らなかったのだが、今読むと暑い夏でも、冷汗が出るなぁ^^
 
 二代目文蔵が亡くなって9月10日で丸15年。
 鈴本で披露目が始まるのが9月21日。
 きっと師匠の墓前に報告をしてから披露目をしよう、ということなのだろう。

 
 落語協会のホームページでは、ポスターの各寄席の披露興行日程を確認せよ、とばかりに不親切なのだが、披露目は次のような日程になっている。

  9月21日(水)~30日(金)   鈴本演芸場 夜席
 10月 1日(土)~10日(月・祝) 新宿末広亭 夜席 
 10月11日(火)~20日(木)   浅草演芸ホール 昼席
 10月21日(金)~30日(日)   池袋演芸場 昼席
 11月 1日(火)~10日(木)   国立演芸場 昼席
                    *4日(金)のみ昼夜二回公演

 たった、これだけの内容なのだから、落語協会は案内の記事中に書いて欲しいものだ。


 『竹の水仙』や『三井の大黒』『ねずみ』といった甚五郎ネタは、最初の師匠桂三木助から入船亭扇橋が継承し、弟子の扇遊や扇辰に伝わる一門の噺になりつつある。
 しかし、二代目文蔵も、それらの甚五郎ものを十八番にしていたことを考えると、ぜひ、三代目文蔵にもそれらの甚五郎ネタを得意ネタにして欲しいし、師匠が扇橋に伝授したとされる『団子坂奇談』だって、入船亭ばかりではなく聴きたいものだ。

 それらの噺はすでに文左衛門は演じているのかもしれないが、文蔵を名乗ってから、あらためて聴いてみたい。


 私は、師匠二代目文蔵という噺家のことを、これだけ振り返る機会になっただけでも、この度の襲名は価値があると、思っている。

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by kogotokoubei | 2016-07-30 22:36 | 落語家 | Comments(6)
 落語協会ホームページでは、現時点で案内されていないが、日経に掲載されていた。

日本経済新聞の該当記事

故柳家喜多八氏のお別れの会 落語家
2016/6/10 12:45

故柳家喜多八氏(落語家)のお別れの会 7月11日午後6時から東京都千代田区一ツ橋2の1の1の如水会館。

 
 日経が間違うことはないとは思うが、いつ出るか分からないけど、落語協会HPでもご確認のほどを。

p.s.
確認すると、毎日や産経でも告知されていた。
なぜ、落語協会のホームページで案内されていないのか。
相変わらずだ・・・・・・。
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by kogotokoubei | 2016-06-10 12:58 | 落語家 | Comments(0)
 私が先月入院した際、手術前も後も落語を聴いていたこと、そのおかげなのか術後もほとんど痛みはなく、順調に快復したと書いた。

 おかげさまで、その後の外来診察でも、きわめて順調と担当医が言っているし、ヒノキ花粉がまだ飛んでいる時期なのに、何年ぶりになるだろうか、鼻で普通に呼吸ができることが嬉しくてならない。
 
 笑いが健康に良いことは、噺家がマクラでよくふるネタでもあるが、笑うことがストレスの解消になったり免疫力が高まることは事実だろうと思う。
 
 私などの経験など足元にも及ばない体験を元に、落語の笑いで健康になることを実証されている方がいらっしゃる。

 ご自身の癌との闘病体験を元に、「笑いは最高の抗がん剤」と唱え、毎年がん患者を招いて「いのちの落語」と題する落語会を開いている、社会人落語家の樋口強さんだ。

 「樋口強のいのちの落語」というホームページに、樋口さんのプロフィールや、落語会開催の意図などが詳しく紹介されている。
「いのちの落語」公式ホームページ
 
 このホームページの存在は、拙ブログへのコメントをきっかけにメールでの交流を続けている方から以前に教えていただいて知っていた。

 そして、柳家喜多八のことをネットの検索で調べているうちに、同ホームページで喜多八に関する、新たな発見があった。

 ぜひ、拙ブログで紹介したいと思い、メールで依頼したところ、すぐに、樋口さんの温かい人柄が伝わる丁寧な返信にてご快諾をいただいた。
 
 まず、ホームページから、樋口さんの「ごあいさつ」を引用したい。

ごあいさつ

みなさま、こんにちは。いのちの落語家・樋口強です。お変わりありませんか。

私の「いのちの落語」は、いつもこの言葉で始める
ことにしています。今日が昨日と変わらない、明日も今日と同じ日でありますように…。
これがいのちの原点だと思っております。

突然ですが、あなたは生きて何がしたいですか。
私は43歳のときに「3年生依存率5%」というがんに出会って、それでも生きたい、と切ないまでに思いました。でもその次に、では生きて何がしたいんだろう、と病室のベッドの中で問い続けました。そして、たくさんのことに気づきました。

このホームページには、樋口強がいのちをかけてつかんだ「輝いて生きるたくさんの知恵」が詰まっています。生きることにつらくなったとき、苦しくなったとき、一歩も前へ進めなくなったときにお立ち寄りください。

樋口強が二つ目のいのちを生きる信条は、

①笑いは最高の抗がん剤
②自分の生き方は自分が決める
③「普通のことが普通にできる」が一番
④そして、『生きてるだけで金メダル!!』


ほかにも、元気になれるたくさんの著作があります。
思いっきり泣いて笑える「いのちの落語講演会」で全国各地へ伺います。
いつも扉を開けてお待ちしています。私と一緒に笑ってみませんか。

いのちの落語家  樋口 強

 私より少し年上だが同世代の樋口さんが訴える信条の言葉は、強く心に響く。
 社会人として、これから、という四十代で発病・・・・・・。
 私など並みの人間ならば自暴自棄になるかもしれない状況から、自らを鼓舞して立ち直ってこられた、ご本人しか分からない体験が、言葉の背景にあるのだろう。

 喜多八と「いのちの落語」とのつながりを、ホームページの樋口さんの記事で知った。

 喜多八は、この落語会に出演していたのである。

 樋口さんの特別寄稿の全文をご紹介したい。

特別寄稿 柳家喜多八師匠に捧ぐ-噺家の美学-
「いのちの落語独演会」主宰  樋口強

 喜多八さんと出会ったのが今から35年前。
 まだ二つ目で「小八さん」と名乗っていた頃だ。
 社会人落語の会で楽屋にフラッと顔を出して、私の出番の前に一言、
 「聞かせてもらいます」
 礼儀正しい人だった。

 2001年、私が生きるはずがないというがんに出会って5年が経ったとき、
 「がんの仲間を招待して落語会をやりたい」と喜多八さんに話したら、
 「アタシも(その高座に)上がらせてよ」
 と、特別出演を買って出てくれた。

 会場は上野広小路亭。
 ここは落語芸術協会が定席として開業した場所で上野鈴本とは目と鼻の先。
 落語協会の噺家さんが出演してはいけない高座である。(喜多八さんは落語協会所属)
 「気にしなくていいんですよ。アタシでお役に立つんなら」
 初回から13年間、毎年しびれるような迫真の高座であった。
 博品館(毎回切符が取れないことで有名な喜多八独演会)でも見せたことのない落語の楽しさとすごさを、全国から集うがんの人たちに教えてくれた。

 そして、2012年の高座でこう切り出した。
 「アタシもね、この度、皆さんのお仲間に加えていただくことになりまして・・・」
  会場から拍手が起こった。
  喜多八さんがあとになって述懐する。
 「がんを告白して拍手されるのはこの会だけだよ。けど温かいね」

  一年に一度、東京深川に集う全国のがんの仲間たちが、喜多八さんの至芸に酔いしれ大笑いした。
 喜多八さんがこの高座に掛けた噺の数は18席。
 初回が『小言念仏』。そして、『粗忽の釘』、『やかんなめ』など大爆笑の得意ネタが続き、『明烏』、『船徳』と絶品芸がかかる。
 そして、2013年。この会を卒業する最後のネタに選んだのは、とっておき『鰻の幇間(たいこ)』であった。

  会場のがんの仲間たちは、「笑うと元気になれる」と、その高座から生きる希望と勇気をいただいた。
 しかし、2013年の春、新幹線で移動中の私の携帯に喜多八さんから電話が入った。
 「今年で終わりにさせてほしい」
 「わかりました」
 多くの会話は必要なかった。
 喜多八さんは病気のつらさや苦しさを決して高座には出さなかった。
 噺家としての美学を貫き通した人であった。

 その柳家喜多八師匠が育ててくれた落語会が、今年も9月に全国からがんの仲間が駆けつけて、東京深川で16回目を迎える。

 柳家喜多八師匠のご冥福をお祈りいたします。

 最初に読んだ際、目頭が熱くなった。

 特に、2012年の会での冒頭の挨拶と、お客様の反応・・・・・・。

 他の方のブログなどを拝見すると、2011年、あの震災の頃に手術で二十日間入院し、その年には、再入院もしていたようだ。

 それから、五年・・・・・・。

 一昨年から昨年にかけて、私や居残り会仲間の人たちの、喜多八の高座の印象は、だいたい似ていた。
 驚くくらい痩せていたが、声も良く出ていて、しっかりした高座だったし楽しめた、という内容。
 
 しかし、病魔は休むことなく、喜多八の体を蝕んでいたのだろう。
 
 邪推だが、昨年末から正月にかけての入院は、樋口さんと私が偶然同じ言葉で形容した、「美学」を貫くための最後の“燃料補給(ピットイン)”だったのだろうか。

 喜多八の美学、あるいは哲学は、決して独演会やホール落語の高座でのみ発揮されたものではなく、日常の考え方や行為のすべての底流にあったことが、樋口さんの文章でよく分かる。

 社会人落語会における“「聞かせてもらいます」”の言葉、そして、「気にしなくていいんですよ。アタシでお役に立つんなら」と、上野広小路亭という落語芸術協会の定席にも関わらず、「いのちの落語会」に出演した行為、それらが、まさに喜多八という噺家の“美学”の現われだと思う。

 最後の最後まで噺家として高座にが上がることを貫いたために、喜多八が「いのちの落語」の客席の側で落語を聴き笑うことは、実現しなかったようだ。

 しかし、喜多八は、樋口さんが挙げる信条の一つ、「自分の生き方は自分で決める」ことを実践したに違いない。

 だから、もし、彼が休養をとっていれば、「いのちの落語」の客席側にいたならば・・・と考えるのは、喜多八にとって実に失礼になるのだろう。

 あらためて、柳家喜多八のご冥福をお祈りする。

 そして、樋口強さんの「いのちの落語」の活動が、今後も一人でも多くの方の支えになることを、お祈りしたい。


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by kogotokoubei | 2016-05-29 21:03 | 落語家 | Comments(6)
 流行り言葉を使うなら、「キタハチ・ロス」は、まだ尾を引いている。

 ただし、いただいたコメントの中には、その音源を聴くことも躊躇われる方もいらっしゃるようなので、『欠伸指南』を聴きながら、来月のテニス合宿の一席はこれだ、などと思っている私は、間違いなく「昨日今日」の喜多八ファンなのだと思う。 

 音源も聴くし、喜多八という噺家さんのことを、今こそいろいろと考えてみることで、逆に悲しみを忘れたい、などと思っている。

 一昨日25日に開催された第575回の落語研究会では、会場に在りし日の喜多八の写真が掲載され、花が手向けられていたと、居残り会仲間の佐平次さんやI女史からご連絡をいただいた。
 
 その写真にご興味のある方は、佐平次さんのブログをご覧のほどを。
「梟通信~ホンの戯言」の該当ページ

 先日、博品館の<膝栗毛>のネタをご紹介したが、落語研究会では喜多八がどんなネタを演じてきたのか、気になった。

 そもそも、「落語研究会」とは・・・・・・。

 落語研究会については、現在の“第五次”研究会の500回記念の放送について書いた記事で、その歴史について少し触れた。
2010年5月29日のブログ
 重複する部分もあるが、あらためて落語研究会の沿革について、少し記したい。
 第一次は明治38(1905)年から始まった。
 速記者の今村次郎、歌舞伎演出家で作家の岡鬼太郎が顧問。二人は第二次でも顧問を務める。

 今なら「レギュラー出演者」に相当するだろう、「発起人」の顔ぶれが凄い。
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初代三遊亭円左
四代目橘家円喬
三代目柳家小さん
四代目橘家円蔵
初代三遊亭円右*幻の二代目円朝
二代目三遊亭小円朝
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 これまで五次に渡る研究会の歴史の各時代の期間は次のようになっている。

◇第一次 明治38(1905)年~大正12(1923))年:18年
◇第二次 昭和3(1928)年~昭和19(1944)年:16年
◇第三次 昭和21(1946))年2月~8月
◇第四次 昭和23(1948)年~昭和33(1958)年:10年
 
 第三次は落語会の開催を目指したものというより、敗戦後に落語界の結束を意図したものだったらしく、会長が久保田万太郎、参与に正岡容、安藤鶴夫の名が並んでいる。
 第四次は、今村次郎の子息で『試し酒』などの落語作家としても著名な今村信雄が主事として世話人を務めていた。出演者のギャラのことでもめて解散したらしいので、第三次で確認した“結束”は、徐々に失われてきた、ということか。
 第五次は、当時TBSにいた川戸貞吉の発案で昭和43年に再開。
 だから、今年で49年目になる。
 昭和43年3月14日の第五次落語研究会第一回目の出演者とネタは次の通り。
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柳家小さん 『猫久』
三遊亭円楽 『花見の仇討』
三遊亭円遊 『小言幸兵衛』
林家正蔵  『三人旅』
(中入り)
柳家さん八(後の扇橋)『千早ふる』
桂文楽   『明烏』
三遊亭円生 『妾馬』
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 第500回記念の会は、この第一回を意識した構成になっていた。

 さて、由緒正しい、歴史と伝統のある落語研究会、数年前に年間会員になる抽選があり、実は居残り会仲間の佐平次さんI女史、M女史は、涙ぐましい(?)大変なご苦労の末に、会員になられている。
 当日券も販売しているが、数は少ない。年季の入った(?)落語愛好家の方がお客さんの中心、と言えるだろう。テレビの収録もあるから、いわゆる、ゲラ男さんやゲラ子さんがいても困るしね。

 さて、五十年近くの歴史を誇る第五次の落語研究会で、いったいどんな出演者により、どんなネタが披露されたのか・・・・・・。

 それを知るには、実に素晴らしい情報の宝庫がある。

 過去のホール落語や名人たちの音源のことなどを調べる際に訪問している「手垢のついたものですが」サイト内の「落語はろー」だ。
 他のホール落語会のデータとともに、過去の落語研究会の出演者とネタの情報が掲載されている。
「手垢のついたものですが」サイトの該当ページ

 同サイトの管理人さんから、掲載内容の引用をご快諾いただいた。加えて、今年最後の出演情報も教えていただいた。

 この情報を元に、落語研究会で喜多八が披露したネタを列記したい。

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( 1)第234回 昭和62(1987)年10月20日 だくだく
( 2)第243回 昭和63(1988)年 7月18日 蜘蛛駕籠
( 3)第249回 平成 元(1989)年 1月17日 初天神
( 4)第258回 平成 元(1989)年10月30日 ぞろぞろ
( 5)第267回 平成 2(1990)年 7月23日 弥次郎
( 6)第275回 平成 3(1991)年 3月29日 巌流島
( 7)第296回 平成 5(1993)年 2月23日 やかんなめ
( 8)第303回 平成 5(1993)年 9月28日 首提灯
( 9)第317回 平成 6(1994)年11月29日 七度狐
(10)第323回 平成 7(1995)年 5月 9日 にせきん
(11)第381回 平成12(2000)年 3月31日 ぞめき
(12)第388回 平成12(2000)年10月10日 一つ穴
(13)第396回 平成13(2001)年 6月27日 三味線栗毛
(14)第402回 平成13(2001)年12月26日 睨み返し
(15)第416回 平成15(2003)年 2月27日 幇間の炬燵
(16)第431回 平成16(2004)年 5月31日 乳房榎(上)
(17)第438回 平成16(2004)年12月24日 仏の遊び
(18)第445回 平成17(2005)年 7月27日 将棋の殿様
(19)第461回 平成18(2006)年11月30日 鈴ヶ森
(20)第467回 平成19(2007)年 5月30日 付き馬
(21)第473回 平成19(2007)年11月26日 居残り佐平次
(22)第485回 平成20(2008)年11月20日 二十四考
(23)第493回 平成21(2009)年 7月 9日 煙草好き
(24)第504回 平成22(2010)年 6月30日 鰻の幇間
(25)第518回 平成23(2011)年 8月23日 死神
(26)第524回 平成24(2012)年 2月23日 鼠穴
(27)第538回 平成25(2013)年 4月26日 五人廻し
(28)第547回 平成26(2014)年 1月21日 二番煎じ
(29)第559回 平成27(2015)年 1月20日 盃の殿様
(30)第566回 平成27(2015)年 8月31日 らくだ
(31)第572回 平成28(2016)年 2月26日 明烏
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 この三十一席、なかなか興味深い。
 ネタ選びはプロデューサーの意向があるのだろうが、大半は喜多八の十八番が並んでいる。

 しかし、「えっ、これを、研究会で?!」というネタも含まれている。

 由緒ある落語研究会で、寄席でも滅多に聴くことのない艶笑噺『にせきん』を演じた噺家は、他にいない。
 三年前、池袋で当代円遊のこの噺を聴いた際は、ネタの名が分からなかった。いただいたコメントで教えていただいた。
 なぜか1990年代後半に喜多八の出演がないのが、このネタに関係しているのかどうかは、分からない。
 この噺や『旅行日記』は、落語芸術協会の噺家さんの持ちネタと言ってよいのかと思うが、喜多八は、協会の枠などには執着しない自由な考えがあったように思う。

 <膝栗毛>で聴いたことがある『一つ穴』は、あの「禁演落語」五十三席の一つであったネタで、喜多八ならでは、という気がする。この噺、長井好弘著『新宿末広亭のネタ帳』では、2001年から七年間に渡る末広亭のネタ帳の分析の結果で一度もかからなかったネタの一つとして紹介されている。
 
 2004年の「12月24日」という日に、本田久作の新作『仏の遊び』という選択は、なかなか洒落ている(^^)。

 これらのネタを眺めることは、実際にお聴きになった方にとっても懐かしいだろうし、私のように、地上波やBS、そしてCSの放送で観たことのある人にとっても、喜多八の姿を思い出すよすがとなるのではなかろうか。

 なお、地上波のTBSおよびBS-TBSの落語研究会では、喜多八追悼的な放送があるようだ。
地上波「TBS落語研究会」のサイト
「BS-TBS落語研究会」のサイト
 地上波から、まず引用。
演目・出演
「らくだ」柳家喜多八

解説:京須偕充
聞き手:長岡杏子(TBSアナウンサー)
.
放送予定時間
6月19日(日)あさ4:00~
※放送時間は変更になる場合がございます。
(18日土曜日の新聞などでご確認ください)

 次にBSのサイトから。
第137回落語研究会
6月24日(金) 深夜3:00~4:00
内容:「らくだ」柳家喜多八
お話: 京須偕充 長岡杏子(TBSアナウンサー)

第119回落語研究会(2時間版)
6月25日(土) 深夜3:00~5:00
内容:「二番煎じ」柳家喜多八、「猫怪談」柳亭左龍、「花見酒」柳家小満ん
お話: 京須偕充 外山惠理(TBSアナウンサー)


 137とか119の回数は、同番組の回数。同じ回で、違う時期の複数の高座が放送される。
 地上波も含め、喜多八の『らくだ』は、昨年第566回の高座、BSの『二番煎じ』は、一昨年第547回。
 ちなみに、6月25日放送の柳家小満ん『花見酒』は、2014年3月28日の第549回の高座。こちらも楽しみだ。

 研究会で最後の高座となった、本年2月26日の『明烏』は、今年の高座がみなそうであったように、板付きだったようで、さすがにTBSも再放送は躊躇ったのだろう。

 TBSには、その最後の高座を含め、三十一席の映像と音声の記録があるわけだ。

 人によっては、聴くことも見ることも、今は辛い方も多いかもしれない。
 しかし、『やかんなめ』じゃないが、悲しみには、時間というありがたい“合い薬”がある。

 今後、落語研究会における喜多八の置き土産を、ぜひとも落語愛好家、そして喜多八を愛する多くの方が共有できるようになることを期待している。


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by kogotokoubei | 2016-05-27 12:27 | 落語家 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛