噺の話

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カテゴリ:落語家( 64 )

桂春団治と吉本せい(3)

 このシリーズ三回目。

 少し復習と補足。

 春団治は、先妻と別れ、彼の後ろ盾になった岩井志うと一緒になるが、志うは大阪道修町の薬問屋の岩井松商店の後家だ。
 ちなみに、奈良出身の志うは、岩井松商店の女中だったのだが、主人の岩井松之助が前妻を失った後に後妻となっていた。

 志うが岩井家の蓄財を湯水のように使うので岩井家は絶縁を迫り、手切れ金を支払った。その金額は諸説あるが、もっとも少ない六万円としても、現在の貨幣価値で四千万ほどになる。

 その金を元に、浪花亭という席を本拠として春団治は自分の一派を立ち上げたものの、春団治も志うも、とにかく締まりのない夫婦で、上がりで連日のようにドンチャン騒ぎ。そのあげくに浪花亭を失い、旅興行に出るが金を貯めるどころではなく連夜の宴会で、元手となった手切れ金は三年ほどで使い尽くしたと言われる。
 
 吉本せいは、そうなることを見越して、月給七百円と借金の肩代わりをして、大看板の春団治を吉本興行部の専属にした。

 この七百円は、当時のサラリーマンの月給が四十円から五十円、千円あれば家が建つと言われる時代だったので、破格だ。

 しかし、春団治夫婦の金遣いの荒っぽさは変わらず、財布の中身が少なくなったことも、あの事件につながっていたのは、間違いないだろう。


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富士正晴_桂春団治

 まず、富士正晴の『桂春団治』から、その事件の背景について。

 昭和も五年となってくると、ラジオの普及ははなはだしく、丁度、映画界がテレビに対して抱いたような恐怖を持つようになって来ていた。それで、落語家のラジオ出演を吉本興行を通じての許可制にして制限した。その制限に対してJOBKの方が面白くない感情を持つのも当然であった。その上、吉本興行部を通じて落語家をBKに出演させると、そのギャラを吉本興行部が受けとり、その何割かを落語家の前借の返済金として差し引き、残りを落語家に渡すというふうなやり方で、BK側の若いディレクターなどの目には不快に映ったことであろう。結局、吉本興行部のこの仲介が、何はともあれ、芸人側にとっても、JOBK側にとっても、感覚的にも実質的にも、はなはだ不都合に見えたのであろう。芸人側にとっては圧政に見えたし、また、出番表の横に「無断休席は容赦なく下記の如く給料より差し引くことを厳守いたします」といったきつく感じられる注意書きをそえるようであれば、ラジオ無断出演を禁止する文体も高圧的峻厳な文体であって、芸人に恐喝と共に反感の念も与えたと思われる。そこでBK側の反感と芸人側の反感との握手がこの春団治の無断出演であったと見てよく、そのやり口には幾分感情的なからかいの気分が見られる。

 吉本せいの、ラジオへの恐怖感は実に強いもので、その思いがラジオ出演への許可制となり、加えて、出演した場合でも、そのギャラを芸人の前借りへの返済に充てるという処置になったわけだ。
 
 そして、ついに、春団治の反抗(?)となる。

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山崎豊子著『花のれん』

 吉本せいに関わることを書くのなら、やはりこの『花のれん』を外すわけにはいかない。
 昭和33年上半期の直木賞受賞作である。

 吉本せいは、本書で多加と名を替えている。
 花月亭は、花菱亭である。
 ちなみに、姉と弟の三人きょうだい。

 春団治のラジオ出演による騒動の部分を引用する。

 多加が太夫元になり花菱亭に出演している芸人は、ラジオに出られない約束になっている。ラジオで寄席演芸を聞けるなら、わざわざ寄席まで足を運ばさず、家でお茶漬けでもかき込みながら聞く客が多くなる。そうなると誰よりも大阪、京都に十六軒の寄席(こや)を持ち、寄席一本でたっている自分が真っ先に参るというのが、多加の考え方であった。
 ガマ口が春団治のラジオ出演を知って、三津寺筋の多加の家へ駆け込んで来たのは、その日の四時過ぎであった。多加は大学の春休みで帰省している久男と向い合って夕食をしていたが、知らせを聞くなり、
「しもた!」
 男のような声で、手に持っていた箸を刃物のように食卓の上に突ったて、敷居際にたって息を切らしているガマ口に、
「あこぎなこと(むごいこと)しはるやないか!それほんまか」
 眼を血走らせて憤りながら、まだ半信半疑で、もう一度、ガマ口に念を押した。
「今、人に聞いたとこだす、間違いおまへん」
「ラジオなんかで落語(はなし)されたら、花菱亭(うち)が一番こたえるのや、あんなお客の顔を伺えんようなところで、ろくな芸が出けるもんか、春団治はんは、みすみす、花菱亭との一礼を破りはったわけやな」
 多加はこれからの寄席(こや)の入りを考えると、体が細って行きそうだった。
「お母はん、そやけど、ラジオの落語もなかなかいけるで、そない血相変えんときいな」
 紺絣の着物を着た久男が、上目遣いの気弱な笑い顔で、多加のいきりたった気を柔らげるように云った。
「あんたは何も知らんのや、黙っていなはれ、寄席商ひはそんななまやさしいもんやあらへん」

 ガマ口は、吉本吉兵衛(本書では河島吉三郎)が贔屓にし、また遊び相手にしていた剣舞士で、吉兵衛とせい夫婦が寄席商売を始める際に、何かと奔走してくれて、開場後は番頭役となった男。久男は、吉三郎と多加の長男。

 主人公や家族の名は替えているが、芸人の名は、そのままになっている。

 さて、この後、多加とガマ口は春団治の家に乗り込んだ。
 そこで、ガマ口が、活躍(?)する。

「夜分に御無礼さんでござります」
 くそ丁寧なあ挨拶をした。
「なんや、お前、ぬうっと入って来て、まるで居坐り強盗やないか。それにしては修繕のきかんガマ口みない何時見ても面白い面さらしとるな、これでは威しも利きまへんわい。ヒヒ・・・・・・」
 春団治は、黄八丈の丹前の膝に酒をこぼしてせせら笑い、銚子を持った手を宙に浮かせている女房に、酌を促した。ガマ口は、その間に割って入り、女房の手から銚子を奪い取り、火鉢に際へ膝を寄せて、春団治の盃に一杯、お酌をした。
「師匠、夜分、居坐り強盗みたいに参上致しましたのは、今日、師匠が出はったラジオ出演のことだす、あれは、ちゃんと一本、約束が入ってるやおまへんか、これでは約束を反故にして、花菱亭の首絞めはったのと同じや、師匠が、そんな気でいてはるなら、花菱亭(こっち)も、その気で勘定さして貰いまっさ」
 と云うなり、皮の手提げ袋の止め金をはずし、中から白い紙片を出したかと思うと、紫色の長い舌で唾をつけ、眼の前の長火鉢の上でペタリと貼り付けた。幅八分、縦一寸五分位の長方形の和紙に、花菱亭と墨で記した上から、印肉の判を捺している封印であった。
「ガマ口はん、一体、これなんやねん」
「へへ・・・・・・、高利貸しやおまへんけど、貸金と損害賠償の抵当(かた)に、家財道具を差押えさして貰う次第でおますわ」
「そんなえげつない!御寮人(ごりょん)さん、何とかー」
 春団治は、一言も口をきかないでいる多加の方へ向いた。多加は無表情な顔で、春団治の眼をじろっと一瞥しただけで、答えなかった。
 (中 略)
「御寮人さん、これで家財道具一切、差押えだす、あとは三度のご飯を食べる鍋、釜と茶碗だけということですわ、宜しおますか」
 ガマ口が帳面を多加に示すようにして、尋ねた。
「ご苦労さん」
 と頷きながら、多加はいきなり、つかつかと長火鉢の傍まで近付いた。多加の白い手が大きく伸びたかと思うと、寝そべりかけている春団治の口の上へ、ピタリと封印紙を貼りつけた。春団治は跳ね起きざまに自分の口に手を当てた。
「殺生な!口まで差押えせんかて借金は返したるで」
 封印紙が下唇だけはずれて、春団治の上唇の上でヒラヒラした。
「師匠、わては借金の一寸の証文が三寸になるより、ラジオが一番こわい、家財道具より師匠の口を、差押えさして貰いまっさ」

 春団治のラジオ出演の後に、吉本せいが自ら春団治の家に乗り込んで差押えをした、というのは山崎豊子の脚色だ。
 実際には、ラジオ出演の翌日、吉本興業が訴えて財産差し押さえの仮執行が行われたが、家に乗り込んで家財道具に封印紙を貼ったのは、執行官である。
 そして、口に貼ったのは、春団治自身。差押えの紙を奪って、「もしもし、この口押えはらしまへんのか。これあったら何ぼでもしゃべりまっせ。」と自分の口へ貼り付けた一件は、次のように、写真付きで新聞に大きく取り扱われた。

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(Wikipedia「桂春団治」より)
Wikipedia「桂春団治」

 山崎豊子の吉本せいと番頭のガマ口が直接春団治の家に乗り込んで差押えをしたという脚色は、私は“あり”だと思う。
 許容できる脚色と、できないそれがあるが、“史伝”ではなく“小説”として、実によく出来ている。さすが、直木賞受賞作。

 舞台にもなったし、昭和34(1959)年に映画化されているが、主人公の河島多加役は淡島千景、ガマ口役が花菱アチャコ、吉三郎は森繁久弥が演じた。

 『花のれん』の多加には弟がいるものの、実際の林正之助のように、姉と一緒に吉本の経営に携わる役としては描かれていない。
 その点に関しては、私は脚色の行き過ぎだと感じているが、主役を中心にするためには、小説やドラマは、そういうオミット(省略)をすることが少なくない。

 NHKの『わろてんか』も、オミットだらけ。主人公には弟すら、いない。

 小説もドラマも、史実では重要な“脇役”を外す傾向があるが、その“脇役”も、見方によっては“主役”なのであるんだがなぁ。

 「わろてんか」の主人公が、女学校に通っているお嬢さんで、いいとこのボンと見合いする展開になっている今、私はこのドラマを見る気力を失いつつある。
 奉公に出ているのだよ、吉本せいは。

 繰り返しになるが、あのドラマは決して吉本せいの人生を語っていない。

 つい、朝ドラのことに脱線してしまったが、それは、あの番組の主人公が吉本せいであると勘違いする人が多いだろうから、あえてこのシリーズを書いたのでもある。

 それほど裕福とはいえなかった幼年期や、吉本の発展のためには、いわゆる裏社会との接点も必要であったこと、春団治などの芸人を縛り付けるため、雇用契約として労働者には酷な条件なども、吉本せいの姿を知る上で欠かせない要素なのである。

 史実は、そんなに「わろてんか」とは言えないことが多いのだよ。

 まだ、『花のれん』の方が、はるかにモデルの人生と相似している。
 また、この本は小説としても良く出来ているし、当時の大阪の庶民生活や、上方演芸界を知る上でも貴重な本だと思うので、別途記事を書くつもりだ。


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by kogotokoubei | 2017-10-10 12:54 | 落語家 | Comments(0)

桂春団治と吉本せい(2)

 さて、このシリーズの二回目。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)
 矢野誠一さんのこの本から、大正十年に、初めて南地花月の春団治が出演した時のことの、続き。

 その少し前、春団治が、ある寄席を本拠として自らの一門である浪花派を立ち上げたものの一年ほどしか続かず借金を残して旅興行に出たが、放蕩の結果、借金まみれで窮地に追い込まれていたことは、前回紹介した通り。

 吉本せいは、春団治がそうなることを読み切っており、まさに、その時期が到来したところで、吉本専属の話を持ちかけた。
 まず高額な月給を提示。
 そして、借金の肩代わりを申し出た。

 芸人への月給制は、当時は珍しいことだったが、吉本せいは、どうしても花月に出て欲しい芸人を、高い月給で勧誘した。
 たとえば、春団治の前に、三升家紋右衛門を月給五百円で専属にした。

 富士正晴の『桂春団治』では、吉本の月給七百円のことは書かれていたが、借金の肩代りのことは、あくまで空想するにとどまり、金額なども記されていなかった。
 矢野さんは、その肩代わりの金額を明らかにしている。
 しかし、富士正晴の作品の価値が下がることはない。
 矢野さんは、この本を書くための取材で、『桂春団治』を持ち歩いていた。また、矢野さんの本では、同書から数多く引用があり、まるで、二冊の本を楽しめて徳した感じがする。
 では、矢野さんの本から、引用。

 前貸金二万円、それに月給七百円、これが桂春団治が吉本興行部に身を投ずるにあたっての条件であった。三升家紋右衛門を二百円上まわる七百円という月給もさることながら、二万円の前貸金というには破天荒な金額であった。春団治が、浪花派でこしらえた借金の肩がわりだが、これだけの大金をいかに春団治といえどもおいそれと返金できるはずもなく、いわばこの二百円は春団治をしばりつけておくための身代金であった。
 桂春団治と、吉本せいのあいだをとりもった人物がいたとして、その人物が、
(栗岡百貫ではあるまいかという感じを持っている)
 と、富士正晴は『桂春団治』に書いている。「並々ならぬ業師」だといわれる栗岡百貫なる人物は、
(南に事務所兼住所をもち、若い者を数人ごろごろさせ、三百代言のようなことや、金融の世話のようなことに関係していて、後に出て来る吉本興行部の紅梅亭乗っ取りにも、裏でゆっくり工作したようにも見える一種の怪物)
 で、春団治の、
 (大口の借金が栗岡百貫の手を通じてなされており、それがかねがね、吉本に線が通じていたのではないかというふうに、これは空想だが、思われてならない)
 と、いうのである。
 富士正晴の「空想」は、空想として、かなりいい線をついているように思われる。

 私も、富士正晴の「空想」は、当たる確率が高いように思う。
 引用を続ける。

 びっくりするくらい短い期間に、吉本吉兵衛が沢山の寄席を手中にしていくには、かなり危ない橋も渡ったものに相違なく、その過程でうさんくさい人物や、いうところの怪物が介在してきたのは充分考えられることである。そうした人物との交際が、決してきらいではなかったように思われる吉本せいが、なんとしても手に入れたい桂春団治を引き抜くために、それを利用しなかったわけがない。だいいち、大阪の演藝界を席巻していた桂春団治という超大物が、いかに急激に勢力をのばしつつあったとはいえ、この世界ではまだかけ出しの吉本せい個人のちからで、どうにかなるというものではあるまい。まして春団治の目から見たら、そこらの小僧っ子にすぎなかった林正之助のはたらきなど、取るに足らないものであったと考えるほうが自然だろう。


 当時の“超大物”春団治と、新興勢力吉本の関係を考えると、やはり、何らかの仲介者の存在は疑いようがないだろう。

 そういう力も利用し、ついに春団治の看板を南地花月に掲げることができた吉本せい。
 その後のこと。

 春団治を得てからの吉本花月連の勢いは、まさに一気呵成であった。大正十一年(1922)八月には、ついに三友派の牙城法善寺裏の紅梅亭が傘下に身を投じ、大阪の寄席はほとんど花月一色にぬりつぶされたことは前章で記した。この年九月一日からの「花月連・三友派合同連名」というのが『大坂百年史』に載っていて、得意の演目なども記されているのだが、まさに壮観というほかにない。
 直営席亭、提携演藝場が、大阪十八、堺一、京都五、神戸一、三宮一、名古屋一、東京一の計二十八軒。連名にある落語家七十三名、色物十四名と二十組、ほかに東京交代連として八名の名があがっている。まさに吉本は大阪の演藝を支配したといっていい。この連名で見ると桂春団治は正式に「2代」と記してあり、得意の演目として『いらち車』と『金の大黒』が載っている。
 こうした一覧表を見てすぐ気がつくことだが、この時代の大阪の寄席演藝はまだまだ落語が主体であった。


 春団治を得、順風満帆だった、吉本せいと吉本興行部。

 しかし、この二人の間には、その後に有名な事件が起こる。

 最終回では、その件について書くつもり。

 
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by kogotokoubei | 2017-10-08 17:31 | 落語家 | Comments(0)

桂春団治と吉本せい(1)

 今日十月六日は、初代(正確には二代目)桂春団治の祥月命日。
 明治十一年八月四日生まれで、昭和九年十月六日に旅立った。享年五十七歳。

 「わろてんか」のチェックポイント、という題で矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』を元に記事を書いたが、吉本せい、あるいは吉本興業にとって、春団治は実に重要な芸人さんだった。

 命日を機に(?)、春団治と吉本せいに関し、少し振り返ってみたい。
 
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富士正晴_桂春団治

 矢野さんも、あの本の中で、富士正晴の『桂春団治』から何度も引用している。
 その引用は、本文のみならず、貴重な上方落語界の史料である「桂春団治を書くために出来上った上方落語年表」も多い。

 その年表の大正十年の部分から、まず、引用したい。

吉本派(南地花月亭ヲハジメトシテ二十ノ席)
 春団治の出演歴で、吉本の名が出る最初である。

 その前後のことを、富士正晴はこう書いている。

 『落語系図』174頁に「大正十年九月十一日浪花三友派出番表の写し」というのがある。克明に見ると、三代目円馬の前名の川柳があり、また大正十年には二代目小春団治となっている筈の子遊の名がある。円馬の川柳時代は大正五年(月不詳)より、大正七年五月までなので、これは大正十年ではなく、大正五、六年の浪花三友派の出番表とわかるが、そこに挙げられている浪花三友派の席は紅梅亭、瓢亭、延命館、あやめ館、松島文芸館、堺寿館、京都芦辺館の七つである。これが浪花三友派の勢力範囲なのだろう。
 これを吉本興行部は次々に食っていった。先ず真打連を浪花三友派よりもぎとっていき、大正十年には春団治一門も加わっている。春団治は月給七百円という約束で、吉本の花月連というのに加わったというが、その他にそれまでの借金を吉本に肩がわりしてもらったのであるまいか。大口の借金が栗岡百貫の手を通じてなされており、それがかねがめ、吉本に線が通じていたのではないかというふうに、これは空想だが、思われてならない。
 
 富士正晴の空想は、まさに事実だったということだろう。

 春団治を獲得するための高い月給も借金の肩がわりも、吉本せいの計らいである。
 
 せいは、とにかく春団治が欲しかった。
 そのチャンスをじっと待っていた。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 その当時、吉本せいの春団治攻略までのことを、矢野さんの本から引用したい。

 春団治は、贔屓の後家、岩井志う(じゅう)の資金によって、元第一文芸館であった内本町演芸場を借り浪花亭と名づけて、自らの一派を立ち上げたのだが、毎夜のごとくのドンチャン騒ぎなどの浪費により、浪花亭は一年ともたなかった。

 本拠地を失った春団治の一行は旅に出た。二十数人の一座で、中国筋から九州にかけて約一年の巡業である。春団治の名前で、充分商売になったはずだが、なにせ湯水の如くに金を使うことを覚えた座長の一行である。行く先々で派手な遊びをくりかえし、結局莫大な借金だけが残った。
 こうして桂春団治が無一文になるのを、吉本せいはじっと待っていた。金のあるうちは、どんな大金をつんでみたところで、天下の春団治、それほど有難がるわけじゃない。春団治という大きな看板だけが残って、しかも無一文、のどから手が出るほど金がほしい・・・・・・そういう状態になる日がいずれきっと来る、とふんだせいは、いささか無分別にすぎた春団治の浪花派の旗あげを、醒めた目で見つめていたのである。
 大正十年(1921)初席、桂春団治の看板が、南地花月の木戸口の上にかかげられた。木戸銭は、なんと一円である。十銭の木戸銭で出発したのがわずか三年前であったことが、せいには信じられないような気分であった。それよりなにより、「花月派 桂春団治」と、大阪を代表する落語家を自分の傘下におさめた事実が、大阪の落語そのものを手にいれたような気がして、満足であった。それは、何軒もの寄席を手にいれたことより、もっともっと大きな意味があるように思われた。

 ついに、吉本せいは、春団治という大看板を手に入れる。

 春団治と吉本せいについては、もう少し書きたいので、これにて前篇の、惜しい切れ場^^

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by kogotokoubei | 2017-10-06 22:40 | 落語家 | Comments(0)

桂文字助のこと。

 桂文字助のことが、ニュースになっていた。

 スポニチから引用。

スポニチの該当記事
「笑点」初代・座布団運びを務めた落語家の現在…酒に溺れ、生活保護に

 国民的人気番組「笑点」の初代座布団運びを務めた桂文字助(もじのすけ、71)が22日放送の「爆報!THEフライデーSP」(金曜後7・00)に出演。笑点から降板した後に、落語界から“追放”された理由を告白した。

 46年生まれの文字助は18歳で落語の道へと進み、20歳のときに師匠・立川談志さんと運命的な出会いを果たす。気配り屋の文字助はある日、打ち合わせ中の師匠のもとへお茶を運ぶと「こいつを座布団運びにどうだい?」と談志さんの声が。このときの打ち合わせが、笑点の番組構成会議だった。異例の抜てきに喜び、芸に精進する文字助だったが1年半後、師匠に突然呼ばれて「毒蝮三太夫にやってもらうことになったから」と降板の宣告を受けることに。

 降板に納得がいかない文字助は酒に逃げ、借金は気づけば数百万円に。愛想を尽かした妻も出ていき、どん底の日々を過ごすようになる。酒量は増えて感情のコントロールができなくなる“異常酩酊”になり、些細な事でケンカをしては警察に連行された。悪評は広がり営業の数は激減。ついには談志さんにも喧嘩を売ってしまう。落語界で師匠に逆らうことはご法度。居場所がなくなり、落語から離れていった。

 現在の生活について尋ねると、自宅に番組スタッフを招待。家賃5万6千円というが「俺は払っていない。生活保護を受けているんだよ」と明かした。月に12、13万円の支給で、家賃や光熱費が引かれて手元に残る6万円で生活。5年前から近所の公園で毎朝掃除をし、近隣の人々から食料品や生活品をもらっているという。

 だが、酒量は今も減らず1日1升。飲酒中には“異常酩酊”になり、撮影する番組スタッフに突っかかることも。すると、文字助の話を聞いた2代目座布団運びの毒蝮が、番組にサプライズ出演。後輩にあたる文字助と久々の対面を果たした。思い出話に盛り上がるも、酒を飲もうとする文字助を見た毒蝮は「生活保護受けてんだろ!」「文句がくるぞ。生活保護を受けてるのになんで酒を飲んでいるんだと」と説教。“兄弟子”の言葉が効いたのか、文字助は神妙な表情を見せた。

 その後、毒蝮との再会に刺激を受けたのか、5年ぶりに高座へ。長年、談志さんに鍛えられた落語は錆びついておらず、客の笑いを誘って場を盛り上げていた。
[ 2017年9月22日 21:26 ]

 残念ながら、このテレビ放送は見逃した。

 しかし、文字助の日常は、立川談四楼のツィッターで適宜(?)報告されており、よく目にする。
 公園の清掃のことや、近所の人々との交流なども書かれていて、談四楼のツイッターの重要な登場人物^^

 結構、近所では人気者になっているようだ。家財道具は、ほとんど拾った物か、もらい物。
 たまに電話に出ないので談四楼が心配し、共通の友人が様子を見に行く、なども少なくない。

 「だんしろう商店」から「談四楼の日々のつぶやき」にリンクされている。
立川談四楼オフィシャルサイト「だんしろう商店」

 あら、ツイッター見たら、しっかりこのテレビのこと案内されていたなぁ。
 読み忘れていて録画もしていない。まぁ、しょうがない。

 談四楼の著作にも、たまに文字助は登場するが、正直なところ、あまり良いことは書かれたいない。とにかく、酒が好きで、飲むと喧嘩を売るのである。
 
 『古今東西落語家事典』から引用。
【桂文字助】
 松田治彦。昭和21年2月13日生まれ。昭和39年4月六代目三升家小勝に入門して勝松。43年5月同名で二ツ目。46年の師匠没後、立川談志門に移り談平と改名。55年9月四代目桂文字助を襲名して真打。

 私が持っているのは平成元(1989)年4月7日発行の初版第一刷。

 もちろん、生活保護を受けている現在の生活は、この事典には書かれていない。

 
 今の文字助が幸せなのかどうか・・・・・・。
 大好きな菊正宗で一杯やっている時は、間違いなく、幸せなのなのだろう。

 文字助が相撲噺の名手なので、談志が相撲噺を演らなくなった、と言われる。

 残念ながら、生の高座に出会っていない。

 談四楼の4月の独演会に助演したようだ。
 また出演の予定があれば、なんとか駆けつけたいものだ。
 
 今では、ほとんど見当たらない、貴重な(?)無頼派芸人の姿、それが文字助と言える。

 テレビに出たことで、生活保護が停止されるようなことがないことを祈る。
 保護の必要のない人を選ぶより、彼こそ、無形文化財の候補ではないか、などど思っている。

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by kogotokoubei | 2017-09-23 10:43 | 落語家 | Comments(6)
 亡くなった円歌の享年がメディアによって違っているので、実際の生年月日がいつだったのかネットで調べてみた。

 一昨年、円蔵が亡くなった際に円歌に取材したスポニチの記事があったので、引用。
スポニチの該当記事

 落語協会のホームページには「1932年1月10日」と表記されているが、以前に取材をした際「終戦のときは国鉄の社員で、東京で駅員をしていた」と語っていた。

 表記の通りなら、圓歌さんは13歳で当時の国鉄に勤めていたことになる。東京は相次ぐ空襲で混乱を極め、成年男性の多くが兵隊にとられていたとはいえ、13歳の少年が国鉄に就職できるのだろうか。

 いぶかしく思い、もう一度、本人に連絡をしてみると「実は1929年なんだよ。戸籍のあった役所が空襲で焼けちゃったんです。それで再度届けたときに家族が間違えちゃって。だから戸籍上は3歳若くなっちゃった」と少し笑いながら答えてくれた。度重なる空襲をかいくぐった生粋の江戸っ子らしいエピソードだった。

 頭を低くして、ただただ恐怖におびえながら戦争末期を生き延びたわけではない。

 「上野の鈴本演芸場には防空帽をかぶってよく通いましたねえ。寄席で笑ってると空襲警報が鳴るんですよ。そしたらみんな、サァーっと引けて防空壕や安全そうな所に向かう。サイレンが鳴り止むとまたみんな寄席に戻ってくる。そんなことばかりしてました」

 圓歌さんの思い出話は実に貴重だ。戦争に日常性を奪われることに抗い、戦争を笑い飛ばしてやろうというたくましい江戸っ子はたくさんいたのだ。

 戦後70年。そしてまた、師匠も芸能生活70年。終戦と同時に鉄道員を辞め、落語家に転身した。当然ながら親は猛反対。ついには勘当される。戦争が終わり、誰もが定職を探している中で、いとも簡単に最も安定していると思われた職を捨てる息子の気持ちは、親に理解できるはずもなかった。しかし、空襲の中でも命がけで笑い続けた寄席での強烈な体験は、思春期の青年の将来像に劇的な影響を与えたのだろう。

 ということで、昭和四年生まれが正解のようだ。
 朝日新聞の訃報も、届け出の間違いのことを踏まえ、昭和四年生まれとしている。
朝日新聞の該当記事

 落語協会のホームページは、前最高顧問の生年月日を間違えたまま。

 これは修正すべきではないか、と思う。
 その内容を含め、相変わらず事務的で愛想のないものだが、ホームページの小言を書き始めたら終わらなくなるので、これ位で。


 さて、円歌の国鉄勤務は、数年のことだ。
 その短い体験から「新大久保~」の名調子が出来たわけで、創作力の高さは凄いと思う。

 『授業中』も『中沢家の人々』も、傑作。

 しかし、円歌は古典もしっかり演じていた。

 今年の旧暦の西行忌の日、『西行』について書いた。
2017年3月13日のブログ


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矢野誠一_落語歳時記

 その記事と重複するが、矢野誠一さんの『落語歳時記』から、このネタについて書かれた部分を引用する。
 旧暦二月二十六日、西行法師の忌日。建久元(1190)年のこの日、河内弘川寺に入寂した。「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という歌は有名。釈尊入滅の日に死ぬことを願っていたのである。二十三歳出家してより諸国行脚して歌道にその名を知られた。家集『山家集』のほか、その歌を集めた『聞書集』『聞書残集』がある。

    *
 あの西行法師が未だ佐藤兵衛之丞則清といった北面の武士時代のエピソードを綴ったのが、地ばなしによる『西行』で、故柳亭痴楽や三遊亭円歌などがしばしば高座にかける。昔、摂津泉つまりいまの大阪近辺から千人の美女を選び、さらにそのなかの一人選び抜かれたという染園内侍に、佐藤兵衛之丞則清が恋をしたはなすだが、落語では、この恋に破れたため、かざりをおろし、名も西へ行くべき西行と改めることになっている。
 
 『西行』の代表的演者、三遊亭円歌という名前の前にも、「故」がつくことになってしまった・・・・・・。

 北面の武士から出家した西行。
 噺家から出家した円歌には、西行への思い入れがあったのではなかろうか。

 この噺、あらすじやサゲから、現代では演じられにくいネタではあるが、佐藤則清という武士のことや、「阿漕」という言葉の意味などをたどるきっかけにもなる噺。
 
 音源を師匠円歌は残してくれている。
 ぜひ、一門の人に継いで欲しいと思う。

 『授業中』や『中沢家の人々』は、本人限りのネタ。
 しかし、円歌が手掛けた古典は、後世に伝えることが出来る。


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by kogotokoubei | 2017-04-27 12:41 | 落語家 | Comments(8)
 いわゆる“爆買い”も落ち着いてきて、明日の春節がそれほど話題にならないが、今日が旧暦の大晦日、明日が元旦だ。

 ようやく、春らしくなるかな。

 前の記事で当代の正蔵のことを書いたつながりというわけでもないが、1月29日の祥月命日を前に、八代目林家正蔵について書いてみたい。

 彦六の正蔵は、昭和57(1982)年の1月29日に旅立っているので、丸35年経ったことになる。

 24日には、彦六追悼の落語会も開催されたようだが、残念ながら行けなかった。

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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

 これまでも何度か暉峻康隆『落語藝談』からは引用している。

 正蔵に関しては、彼から露の五郎兵衛を経て露の新治に伝わっている『中村仲蔵』に関し、この本を元に以前書いたことがある。
2014年7月8日のブログ

 暉峻さんの聞き書きによる本書は、初版が昭和51(1976)年三省堂から単行本、その後二十年余りの時を経て、平成10(1998)年に小学館ライブラリーで再刊。

 命日を前に読み返してみて、印象的な部分があった。

 正蔵が五代目小さんを襲名し損なった(?)のはよく知られたことだが、名人と言われる師匠だった三代目小さんについて、興味深いことを語っている。

暉峻 最後のお師匠さんは、三代目小さんですよね。
正蔵 ええ、そうですね。
暉峻 この人の芸風はどうでしょう。
正蔵 この方の芸風はねえ、あたくしはこれは正岡容さんにそう言いましたらねー(カメラマンに)こんど目がねを取りますからね、目がねかけた顔は、あまりふだんの顔とちがうから。ちょっと待ってください。いま拭いて、つや出しますから(笑)。(ハンカチを出して顔を拭く)-正岡容さんにそう言いましたら、三代目小さんは、三遊派の人情咄を落語のなかにそっくり取り入れたんだから、あくまで人物描写だと。これは当時の柳派としては得がたい演出なんですよ。
 柳派の人のその時分の芸風というか、お家風というのは、膝を着くとすぐしゃべるのが柳派の演り方ですよ。三遊派のほうは懐から紙入れを出したり、いろいろ段取りがあって、お湯をひと口飲んでからおもむろにやるというのが三遊の・・・・・・だから片方が端唄なら、片方は義太夫の型でいったわけです。ところが、三遊派の型を三代目が咄のなかに取り入れたんです。あの方の落語というものは、二人の人物はピタッと描写するんです。あとはぼかすんですよ。そこが小さん芸術のよさですね。
暉峻 そうですか。いちばん中心になる二人の対話はカチッとやって・・・・・・。
正蔵 ええ、与太郎と大家さんとか。そのほかのおばさんやおじさんなんかはぼかしちゃって。
暉峻 そうすると、焦点がはっきりするわけですね。
正蔵 これが小さん芸術ですよ。ですから、そのものはといえばね、やっぱり三遊派の人情咄に、当人はここだなってメドをつけたわけですよ。 
 明治三十八年三月に「落語研究会」ができたときに、柳派からただ一人ではいってきたんですからね。三遊派のほうは円喬・円右・小円朝・円蔵と多士済々で、五本の指以上に人数がそろってるところへ、柳派からただ一人。あの自信力てえものは、自分の芸ができているという・・・・・・もうそうなると創作ですからね。ほかの者がべらべらしゃべったって、とても三遊派の者にはかなわない。だが自分はこれでやれると、そういう決意ではいってきたんですからね。
 小さん師匠の咄は三遊派の手法を学んでいる。これが人情咄でなくて、落語だからびっくりするわけですね。

 片方が端唄、もう片方が義太夫、という喩えがいいねぇ。

 なるほど、三代目小さんは、当時隆盛を誇った三遊派に対応するため、柳派と統領として敵(?)三遊派の芸をとことん研究し、自分の芸を磨き上げたということか。
 加えて、多くの上方落語を東京に移したことで知られているが、もちろん、上方の芸から吸収したものもあるだろう。

 今につながる柳派の隆盛は、三代目小さんの存在を抜きに語れないことを再認識した、正蔵の芸評である。

 第一次落語研究会は、速記者の今村次郎、歌舞伎演出家で作家の岡鬼太郎が顧問。
 「レギュラー出演者」に相当する「発起人」の顔ぶれは、正蔵が語るように次の通り。
------------------------------------
初代三遊亭円左
四代目橘家円喬
三代目柳家小さん
四代目橘家円蔵
初代三遊亭円右(幻の二代目円朝)
二代目三遊亭小円朝
------------------------------------

 なるほど、三遊派の錚々たる顔ぶれに囲まれ柳派からは三代目小さんが一人。

 ちなみに、来週正蔵の命日の翌日30日に、第五次落語研究会の第583回目が開催される。
 BS-TBSのサイトから、出演者と演目を引用。
BS-TBSサイトの該当ページ
「動物園の虎」 柳家喬の字
「鼓ヶ滝」   三遊亭歌奴
「雪とん」   入船亭扇辰
「羽織の遊び」 柳亭左龍
「三軒長屋」  柳亭市馬

 扇辰も大師匠が五代目小さんだったことを考えると、柳派四人に三遊派が一人という、まったく逆の状況。

 これが、たまたま、とは言えないほど、柳派が三遊派を圧倒しているのが今日の東京の落語界と言えるだろう。

 また、今では、三遊派と柳派の芸における違いが、そう明白ではなくなってきたように思う。
 たしかに、柳派には滑稽噺が多いし、私も好きだが、人情噺だって柳の噺家さんは積極的に手がけるし、円朝作品は三遊も柳も関係なく演じられる。

 あらためて正蔵が語る三代目が築いた“小さん芸術”というものが、現在までの落語の歴史における大きな転換点のように思える。

 中心人物に焦点を当てて、他はぼかす・・・なるほど。
 今度自分が余興で演じる時の参考にしよう。
 でも、全員がぼけたりしてね^^


 よく引き合いに出されることだが、夏目漱石は『三四郎』の登場人物に、「彼(三代目小さん)と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」と語らせた。

 果たして、今、同じ空間と時間を共有する幸せを感じることのできる噺家さんは、どれほどいるだろうか。

 正蔵の命日を前に、そんなことも思ってしまった。

 来週は、何とか寄席に行くつもりであるが、“小さん芸術”を彷彿とさせるような高座に、果たして出会えるかな。


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by kogotokoubei | 2017-01-27 19:54 | 落語家 | Comments(4)

 前回の記事で、桂米朝が春団治に送った『親子茶屋』の台本が三代目の遺品から発見され、姫路にある兵庫県立歴史博物館の特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」で一般公開されることを紹介した。

 その後、この催しの背景には、米朝のご子息との不思議な縁があることを知った。

 日刊スポーツの記事から引用する。
日刊スポーツの該当記事

 同展を開催する歴史博物館の担当学芸員は、米朝さんの三男で、米団治の実弟・中川渉さん(56)。兵庫県職員の渉さんは、一昨年3月19日、米朝さんの故郷である姫路市の同館への異動を伝えられ、その5分後に父の危篤を知らせる電話を受け、同日に米朝さんは亡くなった。

 「本当に偶然、たまたまでした。姫路か…昔、よく行ったな~なんて考えながら、周囲にいた同僚に転勤の話をしていたところに、危篤の電話でした。そこからこの2年、怒濤(どとう)のようでした」と話していた。

 亡くなった3月19日に内示、それも異動先が姫路・・・・・・。

 これは、やはり“縁”なのだろう。

 米朝は大連生まれだが、実家は姫路の九所御霊天神社の神職。祖父の死去により父親が実家を継ぐために、米朝五歳の時に一家で大陸から姫路に帰郷している。米朝自身も神職の資格を取得しており、実家の神社の禰宜を務めたこともあったという。
 旧制姫路中学(現在の姫路西高等学校)の卒業。

 その姫路に、結果として父親の命日に異動を伝えられた三男の渉さんとしては、この特別展の開催に向けた思いは相当深いものがあるだろう。

 兵庫県立歴史博物館のネット・ミュージアム「ひょうご歴史ステーション」の学芸員紹介ページに、渉さんのプロフィールが掲載されている。
「ひょうご歴史ステーション」の該当ページ
 先日の記事で動画も掲載したが、長男の米団治の横で、父親そっくりな方が、渉さん。

 考古学が専門で、埋蔵文化財の調査、つまり古代の遺跡の発掘調査にかかわってこられ、以前は県立考古博物館での学芸員として展示を担当されていたらしい。
 担当された展示会の名が数多く掲載されている。

 「埋蔵文化」か・・・・・・。

 まさに、この度の『親子茶屋』や『一文笛』の手書き原稿は、重要無形文化財保護者によって遺された埋蔵文化に違いなかろう。
 
 上方落語については、まだまだ“埋蔵”されたままの文化遺産があるように思う。

 ぜひ、発掘調査の熟練者である中川文芸員の手で、それらの文化遺産が今後も世に出ることを期待したい。


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by kogotokoubei | 2017-01-16 12:39 | 落語家 | Comments(0)

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森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)

 さて、本書から初代燕枝についての記事、後編。

 前編は、森さんが明治三十三年二月十三日、初代燕枝が亡くなって二日後の「東京朝日新聞」を踏まえて書かれた内容から紹介したのだが、この東京朝日という新聞を読み調べることで、森さんは“今一つ拾いもの”をしたと書いている。

 いったい、どんな拾いものだったのだろうか。
 明治三十年代の同紙には、弥生山人という人が、飛び飛びに随筆を連載しているが、その弥生山人の何人かは、ついに知るべくもない。ところが、三十四年の九月二十日と二十一日との両日に、「弥生の弟」という別人が、その随筆に割り込んで、円朝、燕枝両人のことを併叙しているので、「弥生の弟」の署名がおかしい。これもまた何人なのか、分かりっこないものとして、それを読んだのであるが、文中に、筆者は円朝とも燕枝とも面識があったので、追善かたがた、その二人のことを、少しばかり書くとしようと断っている。そんなことから、「弥生の弟」というのは、『明治世相百話』の著者山本笑月老ではなかったかという気がして来た。あるいは間違っているかも知れないが、ひょっとしたら笑月さんではなかろうかとだけいわせて貰って、その文の中から、一二条をここに紹介して置きたい。
 森さんが推理した山本笑月は、木場の材木商の長男として明治6(1873)年に生まれ、東京朝日の記者をしていた人のようで、長谷川如是閑や日本画家大野靜方の兄にあたるらしい。

 さて、その笑月さんと思しき「弥生の弟」さんの円朝と燕枝の評とは。
「高座に於ける燕枝が、到底円朝の敵ではないことは、世上既に公論ありだが、其代り酒間茶後、膝組みの話と来ては、また所詮円朝の及ぶところではなかった。要するに円朝は、芸に於て名人と呼ばれただけ、物事に分別があつて、随つて人と対話の際も分別臭く、且つ芸人気質あると免れなかったが、これに反して燕枝といふ男は、真率洒脱、些の俗気なしで、しかも滑稽百出、談論風発といふたちであつた。」
 記者は燕枝の話が、円朝に一籌を輸したことを認めている。しかしこれは、円朝の方が並外れた芸の持主だったからで、円朝一人を除いたら、燕枝が第一位を占めることになる。その一事は、記者も十分に認めていたことと思われる。

 “酒間茶後”とか“膝組み”の話という表現は、要するに、酒や茶などを飲みながら、くつろいで聴く話、という意味なのだろう。
 円朝の高座は、“分別”ある円朝の姿に合わせて客の側も膝を正し、飲食などもってのほか、という空気の中で聴いていたような印象だ。一方、燕枝のそれは、肩の力を抜いて、軽い気持ちで楽しく聴く、ということか。

 芝居好きの燕枝の一面については、「弥生の弟」さん、こう書いている。

「或時彼がいふには、どうかして勧進帳がして見たいが、おいらはトコトンが利かないから、舞になつてからが困ると。すると座に円遊があつて、言下に答ふるやう、いいぢやァげえせんか。舞のところから、あッしが代つて出やせうと。
 これを聴ける燕枝は、世にも苦々しげな顔をしていへるやう、お前達はそれだから困る。さういふチョンキナだから、ほんとの芝居が出来ないといふ。畢って気を吐く、虹の如しであつたといふことだ。なるほど弁慶のステテコもあやまるが、燕枝にまじめで勧進帳をやられても、見物は頗る恐れるであらう。」
 その見物の恐れるに違いない「勧進帳」を、まじめに演じてみたいと思っていたというのだからおかしい。
 円遊は師匠の円朝の歿後、三遊派の第一人者だったのであるが、他派の燕枝から、お前扱いされていたこと、右に記されたるごとくだったのであろう。

 この“トコトンが利かない”とは、“飛び六方”ができない、という意味なのだろうなぁ。
 “チョンキナ”は、調べてみると、狐拳(きつねけん)を打つ際に唱える言葉らしい。「ちょんきなちょんきな、ちょんちょんきなきな、ちょんがなのはで、ちょちょんがほい」と唱え,その終わりを合図に拳を打つ、と説明がある。
 上の文脈では、せいぜい狐拳の合いの手程度だから、ほんとの芝居ができない、の意かと思うが、自信はない。

 次に、この章の題である“文才”に関わる部分。
 燕枝は円朝と同じく、話の新作をした。それについて、弥生の弟氏は、また次のようにいっている。
「燕枝はこれらの材料に用ひるために、古板の本や、芝居関係の噺書籍類を夥しく所蔵して居つた。其中にも、元禄板の『にぎりこぶし』の如きは、稀世の珍書である。」
 『にぎりこぶし』は、その書名から考えて、話本だったかと思われるが、さような本のあることなどこれまでついぞ耳にしない。燕枝旧蔵のその書が、その後いかが成り行いたかが気にかかる。
 燕枝の蔵書家であったことは、右の記述にみ見えているが、その蔵書印のある古書を、今でも時々みかけて、なつかしい感じに打たれることがある。書巻の気を有した一事においても、燕枝は一層の親しみの持たれる芸人として、私等の眼に映ずる。
 弥生の弟氏は、「気が楽のつらね」に拠って、燕枝の文才を称し、それについで、また次のようにいっている。
「此頃或処で燕枝のしやれ手紙を加藤漣西が見て、燕枝はこんなものを書くと、魯文よりも旨いといつたが、実によく出来たのは、魯文を凌ぐほどである。」
 加藤漣西という人物は、私は知らない。魯文はその本筋の戯作よりも、即興的な引札の文などに面白いものがるのであるが、燕枝も魯文の向うを張るだけの文才の持主だったのである。

 博覧強記の森さんにして『にぎりこぶし』という、弥生の弟さん曰く“稀世の珍書”を知らなかったようで、逆にどんな本なのか興味が募る。また、加藤漣西とは、どんな人物だったのだろう。
 いずれにしても、燕枝の文才は高く評価されていたのは間違いなさそうだ。円朝の作品のほとんどが高座の速記であることを考えると、燕枝の方が才能の幅は広いと言えるのではなかろうか。

 さて、次は、弥生の弟さんが紹介する、燕枝の好事家としての逸話など。
「享保中に八十の高齢で歿した俳諧師岩本乾什といふは、河東の浄瑠璃を多く作つた竹婦人だといふことだが、浅草の奥山に、其辞世の碑が建ててあつた。
『雪解けや八十年の作り物』とあつて、昔は三尺の童子も知つた碑であつたが、どうしたわけでか、久しい跡に石屋の手へ渡つて、すんでのことに磨り潰されて、庭石か何かになるところを、燕枝が発見して大いに慨嘆し、数金を抛つて、本所の自宅の庭へ建てて置いたが、これをば彼れのいまはに、如電老人が所望して、譲り受けたさうだ。此一事を以て、彼れはまた好事家であつたのを見るに足るべしだ。」
 燕枝の好事家であったことの知られるのは、いかにも嬉しい。如電老人も大槻修翁であることは、註記するまでもないだろう。私なども、この如電翁の顔だけは知っている。
 最後に、弥生の弟氏は、その文の結びとして、次のようにいっている。
「要するに円朝は、徹頭徹尾まじめに一生を送った男で、燕枝は人生を遊戯場としたものと思はれる。」

 如電老人、大槻修翁について、私のような凡人には註記が必要だ。
 Wikipediaの「大槻如電」から引用。
Wikipedia「大槻如電」
大槻 如電(おおつき じょでん、弘化2年8月17日(1845年9月18日) - 1931年(昭和6年)1月12日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍した学者・著述家。本名は清修。字(あざな)は念卿。通称は修二。如電は号。仙台藩士大槻磐渓の子。

略歴・業績

仙台藩の儒学者大槻磐渓の次男として江戸に生まれる。『言海』の執筆で著名な大槻文彦の兄にあたる。

家学をうけて林家で漢学を学び、仙台藩の藩校養賢堂では国学も学んだ。明治4年(1871年)海軍兵学寮の教官となり、文部省に勤務して仙台藩から文部省に引き継がれた『新撰字書』編集事業にたずさわる。1874年(明治7年)、文部省を退官したのちは在野の学者として著述に専心した。明治8年には家督を弟の文彦に譲っているが、これは自由奔放な生き方の自分よりも、弟に家を任せた方が適切だと考えたことによる。

和漢洋の学や文芸に通じ、『東西年表』や『洋学年表』、『駅路通』などの著作があり、父大槻磐渓の著作『近古史談』の改訂をおこなっている(刪修標注および刊行は弟の大槻文彦)。また、祖父大槻玄沢と親交のあった工藤平助の小伝も著している。

如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊や雅楽、また平曲から俗曲にいたる日本の伝統音楽には精通しており、『俗曲の由来』や日本の雅楽研究の嚆矢となる『舞楽図説』を発表している。また、博識とともにその奇行で知られた。1931年(昭和6年)、腎炎のため87歳で没した。

 弟の大槻文彦の名は知っていたが、お兄さんは知らなかったなぁ。

 弥生の弟さん、山本笑月と思しき人は、円朝を“徹頭徹尾まじめに一生を送った男”と形容したが、どうもこういう人たちの評が、円朝という人の像を実物よりも一層大きなものとして世に印象づけてきたように思う。
 私は、松井今朝子の『円朝の女』や、小島政二郎さんの『円朝』に描かれるような、一人の出淵次郎吉という男の姿にこそ、親近感もわくのだが・・・おっと、円朝のことではなく燕枝のことだった。

 ちなみに、二年前の円朝の命日に、あえて円朝の“まじめ”ではない面を中心に短い記事を書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年8月11日のブログ

 さて、森銑三さんは、新聞のみではなく、ある貴重な本も題材としている。
 以上は「東京朝日新聞」に出た二つの記事を主として書いたのであるが、燕枝についての第一資料としては、明治の雑誌『歌舞伎』に連載せられたその自伝『燕之巣立実痴必読』というもののあるのを閑却してはならぬ。ただしそれは、明治十三年に草して人に贈ったもので、その後の二十年間の動静のそれでは知るべくもないことを遺憾としなければならないが、落語家などという稼業は、明治に入ってから、社会的に認められるに至ったので、旧幕時代には小間物業とか、貸本屋だとか、時の物売だとか、曖昧なことを人別帳に記して、お上をごまかしていたのだったという。だから落語家の内にも、話を専一にせず、他にも手を染めた者が多かったのであろうと思われる。
 陸軍医総監の松本順は、よく芸人達を庇護した人だったが、明治十年に自邸で狂言二幕を演ずるようにと、人を通じて円朝に依頼した。しかし円朝は、自重するところがあるものだから、それを断った。すると順は、自ら円朝を本所二葉町のその宅に訪うて、親しく懇願した。それには円朝も恐縮して承諾に及び、燕枝にすべてを一任して、己れも一役を演じて、興を添えた。燕枝の自伝には、そうしたことなども見えている。
 『古今東西落語家事典』にも書かれていた、『燕之巣立実痴必読』、通称『燕枝日記』が登場。

 私にとっては懐かしい松本順の名も出てきた。
 2013年の命日3月12日に、松本順(良順)を主人公とする吉村昭の『暁の旅人』と司馬遼太郎『胡蝶の夢』を比較する記事を書いた。
2013年3月12日のブログ
 
 その松本順が直々に訪問しての依頼を受け、円朝が松本邸で催す狂言を燕枝に一任したというのは、円朝と燕枝との関係を知る有益な事実であろう。

 
 森さんは、『燕枝日記』から二人の親愛の度合いを物語る内容を紹介している。
 両雄並び立たずというが、円朝と燕枝とは、円満な交際を続けていた。年齢では燕枝の方が上だのに、自伝では円朝を「業兄円朝」とも「円朝業兄」ともして重んじて居る。「円朝は一見識ある人ゆゑ」云々ともしている。そんなところにも、燕枝の人物に、対抗意識などというべきもののなかったことの知られるのが快い。

 この部分を読んで、たとえば、円朝一門を中心とする三遊派に“抗する”柳派の頭取燕枝、というような表現は、あくまで芸に関することであり、円朝と燕枝の人間同士の付き合い方には、対抗する、というよりお互いを尊敬し合うような関係を察することができる。
 
 森さんが言うように、たしかに“快い”ところで後篇はお開き、としたい思いもあるのだが、最後にあのお寺のこと。
 燕枝が葬られた源空寺は、幡随院長兵衛のほかに、高橋東岡、伊能忠敬の墓があり、谷文晁一家の墓もあるので、私はこれまで何度か往訪して居るが、燕枝の墓は、さらに記憶に存しない。それで去年もあと三四日につまった日の午前に、わざわざ往訪したところが、燕枝の墓は、大正の震災に痛んで、片附けられてしまったらしく、本堂の前に、新しい「談洲楼燕枝之塚」という自然石の碑が建って居るのに過ぎなかった。しかもその碑は、雅味も何もないものなのに、失望してしまった。

 40年ほど前のことなので、今も源空寺の燕枝の塚が同じ状態なのかは、分からない。
 
 もしそうならば、円朝の全生庵とは、あまりにもの違いだ。

 毎年、円朝の命日近くには、三遊派のみならず、柳派も含む噺家さんが全生庵にお詣りしたり、円朝の作品を奉じたりして、盛大に名人と呼ばれた噺家を偲んでいる。

 しかし、燕枝に関しては、どうだろう。

 柳派の方々は、二月二十一日の命日に源空寺で初代燕枝を偲ぶことのできる、少しは雅味のある石碑でも建ててあげてはどうか、と思う。

 三三の『嶋鵆沖白浪』最終口演から発した初代談洲楼燕枝シリーズ的な記事、これにて、ひとまずお開き。

p.s.
この記事を書いた後で、本書の「文筆家悟道軒円玉」の章に、こんな文章を発見した。
追記 先に書いた「談洲楼燕枝」の中でその所蔵した『にぎりこぶし』という書物を、話本かなどとしたのは大間違いで、それは役者評判記で、『歌舞伎評判記集成』の第二巻中に収められていることを川崎氏から教えられた。
 燕枝の墓は、私の探し様が悪かったので、源空寺に現存している。その外いろいろのことを、柳亭燕路氏から教えられた。柳亭さんは、現に燕枝の研究を熱心に進められて居る。遠からずその詳伝の刊行せられる日が来よう。私の文ははなはだ不確なものだったが、それが縁になって柳亭さんという特別の研究家を知ることを得た。私はそれを大きな喜びとして居る。
 森銑三さんという人の真摯なお人柄が偲ばれる追記と言えるだろう。なお、川崎氏とは川崎市蔵さんのこと。邦楽研究家の方かと思う。柳亭燕路は、『落語家の歴史』や『子ども落語』などの著書があり落語研究家としても著名だった六代目だろう。
 遅ればせながら、拙ブログでも、以上を追記とします。
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by kogotokoubei | 2016-12-14 21:36 | 落語家 | Comments(0)
 またか、との声が聞こえてきそうだが、懲りずに、また初代談洲楼燕枝のこと。

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森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)
 
 初代燕枝のことを語る上で、肝腎な本を見逃していた。

 森銑三著の『明治人物閑話』である。

 この本は三遊亭円朝も取り上げているが、初代燕枝も忘れてはいなかった。

 私が読んでいるのは平成19(2007)年発行の中公文庫の改版。文庫初版は昭和63(1988)年の発行、単行本は昭和57(1982)年に発行されている。

 ちなみに、この改版では内田樹が解説を書いている。

 「談洲楼燕枝の文才」の冒頭部分から引用する。
 明治の落語界は、三遊、柳の二派が対立の形を取ってうた。そして三遊派の円朝に対して、柳派には燕枝があって、よく円朝に拮抗した。ところがその没後七十年余年を経た今日になってみると、円朝一人が云々せられて、燕枝の方は一般からは忘れられ、そんな落語家もあったのかというくらいになってしまっている。

 この文章は、昭和50(1975)年の「歴史と人物」5月号・6月号に「談洲楼燕枝」の題で掲載されたものだが、40年後の今も、円朝に比べて燕枝はほとんど忘れられ、せいぜい“そんな落語家もあったのかというぐらい”であるという状況には変わりがないだろう。
 次に、燕枝の生い立ちなど。
 燕枝は天保九年十月十六日に、小石川表町の伝通院前に酒商を営む長島清助の子として生れた。円朝よりは二歳の兄になる。幼名伝之助、長じて伝二郎といった。落語で立とうと決意したのは十九の歳で、初代春風亭柳枝の弟子となって、初め伝枝といった。通称の伝の一字を取ったのである。数年にして柳亭燕枝と改名し、二十五歳で真打となり、かような若さで真打となったのは珍しいと評判せられたようである。師匠の柳枝も人情噺の名人と呼ばれた人で、燕枝はよい師に就いたわけであるが、柳枝は明治元年に歿したところから、以後は燕枝が柳派の牛耳を執ることとなり、多くの弟子達をも養い、円朝の一門で固めた三遊派と、落語界を二分した形で、芸人の社会に大きな勢力を持った。
 生まれ年は、たぶん、天保8(1837)年の誤りかと思う。
 本書は、著者が過去の新聞を丹念に読むことなどで書かれているのだが、確認した新聞に誤認があったのだろうか。改版の改訂版で修正されているのかどうかは、未確認。

 師匠の初代柳枝は、文化10(1813)年生まれなので、燕枝とは干支で二回り上になる。
 燕枝の才能は、単に落語に限ったものではないことなどが記されている。
 燕枝自身もまた人情噺、芝居噺をよくしたのであるが、兼ねて文筆の才があり、仮名書垣魯文の門に入って、あら垣痴文の名を貰っていた。それで一二の紀行文などもあることが知らされているが、それらは私はまだ見ていない。
 燕枝は文芸の嗜みのあったところから、多くの文人墨客達の知を得ていたが、さらにまた芝居好きとして知られた。その方面にも顔が売れていて、三升会の取締などをもして、団十郎一門の俳優達からも重んぜられていた。

 以前、代々の団十郎のことについて記事を書いたことがあるが、初代から十二代目までの生存期間は、次のようになっている。
 十二代目が亡くなった後、“成田屋は短命”、とか、ケネディ家のように呪われている、などと書かれた記事に接して疑問に思い書いた記事だった。
2013年2月4日のブログ

 各代の生年と没年、( )内は亡くなった時の満年齢。

初代 1660--1704(44)
二代目   1688-------1758(70)
三代目*    1721-1742(21)
四代目*   1711-------1778(67)
五代目      1741---------1806(65)
六代目        1778-1799(21)
七代目         1791------------1859(68)
八代目            1823--1854(31)
九代目              1838-----------1903(65)
十代目*                  1882-------------1956(74)
十一代目*                   (56)1909--------1965
十二代目                       (67)1946------------2013

「*」は、先代から血のつながりのない養子。

 初代燕枝が贔屓にした団十郎は九代目。年が一つ違い。
 芝居好きの燕枝は、明治14年の暮れ、春木座で、講釈師、落語家連中による年忘れの素人芝居、今でいう“鹿芝居”を行った際に団柳楼の名で団十郎張りの曽我五郎を演じ、「白浪五人男」では日本駄右衛門に扮して評判を取ったようだ。
 つい、嬉しくなった燕枝は、その後も何度も舞台に上がっている。
 とにかく、芝居が好き、そして、団十郎が好きなのである。
燕枝は、歌舞伎役者の内でも、団十郎を最も重んじ、その人に傾倒すること、むしろ崇拝というに近かった。それで江戸時代に烏亭焉馬が市川贔屓で、自らを談洲楼と号したのが羨ましくて、明治十八年に、その号を襲うて、自分も談洲楼と名のり、「暫」のつらねに倣って、「身が楽のつばめ」という戯文の一篇を書いたのを版にして、知人に配った。「つばめ」は燕枝の「燕」で、自分をいうのである。そして江東の中村楼で披露の宴を張った。そうしたことから、なおゆくゆくは、烏亭焉馬の名を襲ぎたいつもりでいたのだったが、そのこをは果たせぬ内に、あの世へ旅立ってしまった。

 烏亭焉馬は、落語愛好家の方ならご存じかと思う。
 彼が贔屓にしていたのは五代目だ。焉馬は、六代目団十郎に先立たれた五代目団十郎の没後は、まだ幼かった七代目団十郎の後見役を引き受けている。

 燕枝が贔屓にした九代目は「劇聖」と言われた人だが、燕枝の団十郎贔屓は、落語中興の祖と言える、烏亭焉馬への追慕の念にもつながっていた。

 次に、燕枝晩年の逸話など。
 明治三十二年九月、燕枝は動脈瘤という、厄介な病に冒された。それでも押してあちこちの席に出ていたところが、三十三年の一月、人形町の末広亭で口演最中に気分を悪くし、急いで本所区南二葉町の自宅に帰ったが、そのまま病床に呻吟する身となった。燕枝自身も覚悟するところがあったのであろう。
  動脈瘤に罹りて
    動くもの終りはありて瘤柳

 と口ずさんだのが、ついに辞世の句となった。「動」「瘤」の二字に「動脈瘤」を現し、「柳亭」の「柳」の字まで取入れている。

 この部分を読んで、「あっ!?」と思った。

 六年前に初代燕枝のことを書いた記事で、関山和夫著『落語名人伝』から、次の円朝と燕枝の辞世の句に関する文章を引用していた。
関山和夫『落語名人伝』
 三遊亭円朝の辞世の句「目を閉じて聞き定めけり露の音」には仏教的な“悟り”が感じられて感銘深いものがあるが、談洲楼燕枝が残した「動くもの終りはありてこぶ柳」には悲痛な感じがただよっている。

 関山さんは、燕枝の辞世の句について、“悲痛な感じ”と評された。
 しかし、森銑三さんが指摘するように、彼の辞世には、自分の病でさえ茶化してしまう遊び心をこそ見い出すべきなのかもしれない。

 引用を続ける。
 そして同年二月十一日の午前三時というに、息を引取った。享年六十三歳、中二日置いた十四日に、浅草清草町の源空寺に葬られた。
 その源氏空寺は、幡随院長兵衛の墓があるので知られている寺であるが、その長兵衛とのことについて一話がある。
 燕枝は歿する前年の明治三十二年に、自ら祭主となって、長兵衛の二百五十年忌の法要を、源空寺に営んだのであるが、知人に寄附を仰ごうと、尾上菊五郎を訪うたら、菊五郎は気乗りしない様子で、長兵衛の法事なら、親玉が一人で背負って立つのが当り前だろう、という。親玉は、いうまでももなく団十郎である。その時燕枝は透かさずにいった。親方、そうはいわせませんよ。お前さんだって、白井権八の時には、長兵衛の家へ転がり込んで、厄介になっていた。その義理もあるじゃありませんか。
 菊五郎思わず噴出した。そういわれちゃ叶わねえ。それじゃ寄附につきあいましょう。そういって、いわれるままに、百円の金を投げ出した。
 燕枝は、さような奇才をはたらかせることのできる人だった。
 楽しい、また、いい話だなぁ。
 この菊五郎は五代目。九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに、いわゆる「団菊左」の黄金時代を築いた人だ。

 相手が年下とはいえ、大看板の音羽屋に向かって、「鈴ヶ森」の白井権八を持ち出し幡随院長兵衛の法要の寄附を出させるなんて、芝居が好きで、自分自身でも演じていた燕枝ならでは、と言えるだろう。

 引用を続ける。
 燕枝は晩年には、渋好みとなって、質素な生活をしていたが、若い頃にはそうではなかった。万事に派手で、ことに真打となってからは、仲間の附き合その他に、金を出すことを惜しまなかった。それには円朝も驚いて、よくもあのように金を蒔かれるものだ、といったという。それで燕枝も後には、近頃の芸人のように、己れ一人が勝手なことをして、人の上を顧みないのはみっともないなと、嘆ずるのだったそうである。
 以上の略歴と逸事とは、大体を明治三十三年二月十三日の「東京朝日新聞」の記事に拠ったのであるが、この明治三十三年は、落語界の厄年だったといっていい。燕枝と並び立っていた円朝も、燕枝よりも僅か六箇月後れで、八月十一日に歿している。
 
 明治三十三年、西暦1900年は、たしかに落語界にとって厄年だったかもしれない。
 なお、六代目円生は、その年の九月三日に生まれた。

 著者森銑三は、この後に続く第二章冒頭で“右の記事を得た「東京朝日新聞」からは、私は今一つ拾いものをしている”と記している。

 その“拾いもの”を含めて、本書からもう一度初代燕枝について紹介するとして、今回はこれにてお開き。

 知れば知るほど、円朝の十分の一でもいいから話題になって欲しいと思うのが、初代燕枝だ。

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by kogotokoubei | 2016-12-13 12:50 | 落語家 | Comments(2)

 柳家三三の『嶋衛沖白浪』の楽日の高座に間に合って、本当に良かった。

 今後は定席寄席での十日間通しを希望すると記事に書いたが、三三のホームページによると来年は「たびちどり」と題して、名古屋の大須演芸場で五月から六回公演の予定らしい。
柳家三三サイト「三三時代」の出演情報のページ

 これはこれで名古屋の落語愛好家の方には朗報だろう。

 関東での次の公演は、今しばらく待つとしよう。

 三三には、もっと待ってもいいので、初代談洲楼燕枝の他の代表作に挑戦して欲しい。

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 円朝と同時代、柳派の頭取として円朝と競った初代燕枝の十八番について、平凡社から平成元年(1989年)に発行された『古今東西落語家事典』から引用する。

 得意のネタは、師匠柳枝譲りの『おせつ徳三郎』『子別れ』などのほか、『雁風呂』など既成の噺も演じているが、『嶋衛沖白浪』『天保奇談孝行車』などの自作物、『侠客小金井桜』『岡山奇聞筆之命毛』などの翻案物、『あわれ浮世』『仏国三個男』などの外国種と演目は幅広い。


 まったく内容は知らないが、燕枝の作品『天保奇談孝行車』など、実にそそられるお題で、ぜひ聴いてみたい。
 他にも「水滸伝」の花和尚魯智深の件を翻案し、それに曲亭馬琴原作の「西海屋騒動」をとり合わせた『御所車花五郎』という創作があるらしく、こちらも興味津々だ。
 
 また、翻案物、外国種にだって、今では聴くことができないので、知りたいものだ。

 当代の柳派の噺家さん、円朝作品はよく演るが、柳派の大先輩の作品にも、ぜひ目を向けて欲しいものだ。

 三三の『嶋衛沖白浪』が、そのきっかけになることを期待する。

 もちろん、三三にも燕枝作品の持ちネタを増やしてほしいし、同じ柳の喬太郎などにも、円朝のみならず、燕枝十八番を取り上げて欲しいものだ。

 なお、燕枝は、自分で筆をとった人だ。
 仮名垣魯文門下で痴文と名乗ったくらいだから、噺本にしても、雑誌・新聞の連載にしても自筆が多く、速記による三遊亭円朝とは対照的である。噺以外の著作としては、『燕之巣立実痴必読』(通称『燕枝日記』)が、幕末から明治初期の落語界を知る上の貴重な資料である。

 凄い存在だったのだよ、落語界にとって。 
 神保町で『燕枝日記』を探さなきゃ。
 燕枝は円朝とともに明治の落語界をリードした偉大な人物であったが、もし没後運という言葉があるなら、円朝に比べて運の悪い人で、膨大な作品はもちろん、その伝記さえ一般には知られていない。
 明治三十三年二月十一日に動脈瘤破裂により死去。辞世の句は「枯れるものの終わりもありて瘤柳」。墓は浅草源空寺にある。戒名は柳高院傳誉燕枝居士。

 まったく、この指摘の通りで、円朝と比較して、あまりに知られていないのが残念でならない。

 柳派の噺家さん、ぜひ、燕枝十八番を演じることで、その名をもっと知らしめてもらいたい。
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by kogotokoubei | 2016-12-10 11:50 | 落語家 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛