噺の話

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カテゴリ:落語評論( 2 )

 ブログを書いていることもあり、落語に関するニュースを日に一度はチェックする。
 今日、あの番組に関して、こんな記事を見つけた。
 「週刊ポスト」や「女性セブン」を発行している小学館のサイト「NEWSポスト・セブン」における「笑点」に関する記事。「週刊ポスト」6月17日号の記事らしい。

 番組そのものについては、司会者が替わろうが視聴率が高かろうが、まったく関心がなくて見てもいないが、この記事に、出演する噺家に関する広瀬和生という人のコメントがあり、それがどうもひっかかった。
「NEWSポスト・セブン」サイトの該当記事

 広瀬という人は、落語に関する本も書いているし、落語愛好家の間では有名だと思う。

 彼が、あの番組の出演者に関して、次のようにコメントをしている。

 まず、昇太について。
「もちろん好みはあるでしょうが、私は笑点メンバーだけでなく、今の落語家の中で昇太さんがトップクラスに面白いと思っている。彼は新作落語が得意といわれますが、実は古典も面白い。

 昇太師匠の信条に『人は追い詰めると変なことをする』というのがあるのですが、たとえば彼の演じる『時そば』は、『一人なのに二人連れのように振る舞う客に恐怖するそば屋』と『二人の客を一人で演じるプレッシャーに押しつぶされた客』という『二人の追い詰められた男』のドタバタの表現が絶妙です」

 『時そば』は上方版をベースにした昇太の生の高座を実際に聴いて感心した憶えがあるので、後半については同意できる。

 では、他のメンバーについて。
「林家木久扇師匠は、誰でも知っているあのキャラクターが魅力。三遊亭好楽さんは正統派の古典落語を手堅く務め、ネタ数が多い。三遊亭小遊三さんは滑稽話がものすごく上手い。

 三遊亭円楽さんは、先代の五代目・円楽のネタも引き継いで人情話から軽い話まで何でもできる。やっぱり先代の円楽師匠が『円楽』という名前を継がせただけはありますね。

 林家たい平さんは落語協会のホープとして、彼の本格的な古典落語の才能は春風亭小朝も高く買っていた。三平さんは、とにかく明るくて寄席を盛り上げる華があります」

 もちろん、最初に広瀬氏がことわっているように「好み」の問題はある。
 落語家の評価も人それぞれであって当然だと思う。 

 見解が違うことは悪いことではない、という前提で書くが、この記事の中の好楽、円楽、三平に関する評価は、私には同意できない。

 私が気になったのは、「この人、こんなコメントをする人だったのか?」ということ。

 「この落語家を聴け!」というような、刺激的なタイトルで落語評論の本を書いている人が、あの番組のあの顔ぶれについて、「ヨイショ」に近いようなことを言う人だったとは、どうしても思えなかったので、違和感を抱いたのだ。

 広瀬和生という人、落語については相当肥えた耳を持っていると思っていた。
 だから、好楽や円楽、三平について、こんな評価をする人だったっけ、と驚いた。

 そもそも、「笑点」出演者に関するコメントを受けるような人とも、私は思っていなかった。

 以前は、見解は私と違うことがあるが、数少ない硬派、辛口の得がたい落語評論家だと思っていたのだが、少し芸風が変わってきたかな。

 このコメントは、雑誌とネットに公開されている内容だ。
 最近になって落語に興味を持った人も、目にすることだろう。

 記事の冒頭には、小学館から発行されているこの方の著書の名前も出て来るし、同書のAmazonのバナーも表示されている。

 この方、最近は落語会も主催されているらしい。

 落語家への距離が近づくことが、彼の評論の切れ味に影響を与えているのか、と思うのは邪推だろうか・・・・・・。

 私は、職業として落語評論をしているわけでもないし、落語会を主催しているわけでもない。
 だから、自分の「好み」で、自分の思いを次に書く。

  好楽は、“正統派の古典落語を手堅く務める”噺家とは、思えない。
  円楽は、“人情話から軽い話まで何でもできる”、とは到底思えない。
  三平に、“寄席を盛り上げる華”などないことは、寄席で彼の高座を三分も聴けば分かる。

 これらは、それ相応の鑑識眼をもった落語愛好家の方と共有できる見解ではないかと思うのだが、果たしていかがだろうか。

 広瀬和生という人が、落語の指南役として少なからず存在感がある人だと思うからこその小言である。

 若手二ツ目を中心にした会に、若い女性客が駆けつけるなど、新たな落語ブームの到来かと、言われている。

 落語評論家と認められている方の言葉や著作は、それ相応の影響力を持つだろう。

 別に個人的な怨みなどは、いっさいないことを、おことわりしておく。
 
 どうしても、以前からのイメージでは、紹介したようなコメントをするような人に思えないので、つい、書いてしまった次第である。


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by kogotokoubei | 2016-06-13 21:29 | 落語評論 | Comments(18)
昨日1月16日は、榎本滋民さんの命日だった。
 2003年のこの日、火事で逃げ遅れて亡くなったので、十三回忌になる。

 落語評論をする人は、これまで多くいらっしゃったが、榎本さんは私の好きな評論家、あるいは、落語の優れた聴き手の上位に間違いなく入る。

 本来は敬称略の拙ブログで、どうしても‘さん’づけで呼びたい人の一人。

 生まれが早い順に、ざっと、私が知っている範囲で、副業であろうと落語に関して評論的な作品を残している人を並べてみる。明治生まれから、昭和は戦前生まれの人までとする。

□明治生まれ
 岡鬼太郎(M5年生まれ)、野村無名庵(M19生)、久保田万太郎(M20生)、
 今村信雄(M25生)、小島政二郎(M25生)、正岡容(M37生)、宇野信夫(M37生)、
 安藤鶴夫(M41生)、暉峻康隆(M41生)、宇井無愁(M42生)

□大正生まれ
 加太こうじ(T7生)、小島貞二(T8生)、興津要(T13生)

□昭和生まれ(戦前生まれまで)
 色川武大(S4生)、小沢昭一(S4生)、大西信行(S4生)、榎本滋民(S5生)、
 山本進(S6生)、江國滋(S9生)、矢野誠一(S10生)、保田武宏(S10生)、
 麻生芳伸(S13生)、川戸貞吉(S13生)、延広真治(S14生)、平岡正明(S16生)、
 京須偕充(S17生)

 抜けはあるかもしれないが、主だったところは並んでいるのではなかろうか。

 榎本さんは、岡鬼太郎、久保田万太郎、宇野信夫という、明治の劇作家や劇評家の流れを継承している人といえるだろう。
 自ら「花の吉原百人斬り」「愛染め高尾」や「たぬき」などの戯曲を書く人なので、「落語特選会」の解説では、落語の舞台となる江戸や明治の生活、文化や風習に関して詳しく説明してくれたし、頗る楽しく、そして勉強になった。

 榎本さんの本を読んだり、落語特選会の解説を聴くと、落語の聴き方や見方について、大いに参考になる。

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 何度か引用している榎本さんの『落語小劇場』(三樹書房)。
 劇作家らしい題名のついた本、下巻の巻末にある「はね太鼓」から引用する。

 以前の歌舞伎は、座頭役者が演出家をかねていたから、上演のたびに脚本の細部に変更があり得たが、現在では、せりふもほとんど一字一句まで定型化されていて、俳優のいわゆる仕勝手は非難されるし、久し振りに発掘された演目の場合は、かならず外部の識者に監修・補綴・潤色・演出を依頼して定本を作り、これに準拠するのが常識になっている。だから、「古典歌舞伎」ということばが、存在し得るわけなのである。
 落語も以前は、台本製作の才能や演出の適性に富んだ演者が多くいた。だから、つぎつぎに名作が生まれ、演出も改良されていたわけなのだが、現在では、演出者を完全にかねることのできる演者は、絶無ではないにしても、ごく少ない。
 もっとも、歌舞伎俳優と同様に、演者としてすぐれていさえすれば、それで十分に立派なのであり、演出者の力量が欠けていることを指摘されたところで、いささか悲しんだりくやしがったりするには及ばないのである。
 ことわっておくが、ここで私のいう演出とは、ちょっとした表現の工夫などではない。状況の把握、展開の調整、用語の選定、風俗の考証、その他、一編の落語を話芸として成り立たせるすべての要素を、統合し発揚する作業のことである。
 落語は、演者と演出家をかねる一人芸であるにはちがいないが、厳密な意味での演出力のない者が、演じにくいとか受けないとかいうくらいの理由で、勝手気ままにテキスト・レジイするのは、公共文化遺産の私有化であり、ゆゆしい破壊ですらある、といわなければならない。
 演劇と話芸、戯曲と演芸台本の次元の相違は重々承知しながらも、なおかつ私が古典落語の定本化をうながし、克明なテキスト・レジイの必要を主張するのは、以上の観察からである。とはいえ、これはもとより一朝一夕に成ることではなく、議論百出するところでもあるから、私はとりあえず、検討用の試案として、私見を提出してみたにすぎない。

 
 この本、私が持っているのは昭和58年の三樹書房版だが、最初は昭和40年代に寿満書店で発行されているらしい。

 だから、名人や実力のある中堅や若手が大勢いた昭和40年代の落語界について、榎本さんは、“現在では、演出者を完全にかねることのできる演者は、絶無ではないにしても、ごく少ない”と評しているのだ。

 だったら、今日の落語界で、演出者をかねることのできる演者は、存在するのだろうか・・・・・・。

 テキスト・レジイ(略してテキレジ)は、舞台用語で台本を変更することを意味する。

 紹介した文章において、“勝手気ままにテキスト・レジイするのは、公共文化遺産の私有化であり、ゆゆしい破壊ですらある”という指摘を、今日の噺家さんは、十分に噛み締めるべきではないかと思う。 

 榎本さんの“私見”は、落語の歴史を継承してきた数多の噺家さんに敬意を示せ、と言っている。
 噺の内容には、そうなった理由もあれば、多くの先人たちの苦労が背景にある、ということを演者側はもちろんだが、聴く側も肝に銘じたいと思う。
 
 一日遅れの榎本さんの十三回忌に、そんなことを思っていた。
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by kogotokoubei | 2015-01-17 08:37 | 落語評論 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛