噺の話

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カテゴリ:歴史ドラマや時代劇( 36 )

 能村庸一さんの訃報に接した。

 全国紙にも載っているが、「時代劇専門チャンネル」のサイトがもっとも詳しく業績などを紹介しているので、引用したい。

「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

お知らせ詳細
2017.05.22

【訃報】★・・時代劇プロデューサーの能村庸一さんがお亡くなりになりました(享年76)・・★

「鬼平犯科帳」を手がけられた時代劇プロデューサーの能村庸一さんが5月13日にお亡くなりになりました。76歳でした。

1941年東京生まれ。'63年フジテレビ入社。アナウンサーとして舞台中継などを担当した後、編成企画部へ。数々の番組に携わるなかとりわけ時代劇の制作に強くひかれ、「鬼平犯科帳」(中村吉右衛門主演)、「剣客商売」(藤田まこと主演)、「御家人斬九郎」(渡辺謙主演)、「八丁堀捕物ばなし」(役所広司主演)、「忠臣蔵」(北大路欣也主演)などレギュラー番組で20本、単発作品では映画も含め100本に及ぶ時代劇を手がけました。いずれもテレビ時代劇史に燦然と輝く名作です。

受賞も多数。
第20回ギャラクシー賞月間賞 「丹下左膳-剣風!百万両の壷-」('82年)
第31回ギャラクシー賞選奨 「八丁堀捕物ばなし」('93年)
第33回ギャラクシー賞奨励賞 「阿部一族」('95年)
など作品に対する受賞のほか、個人としても90年代・フジテレビ時代劇の企画・プロデュースに対して1999年には第36回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞を受賞。執筆活動も行い、2000年にはテレビ時代劇の歴史をまとめた著書「実録・テレビ時代劇史」(東京新聞出版局)で第13回尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞を受賞しました。

時代劇専門チャンネルには「時代劇ニュース オニワバン!」など情報番組・解説番組への出演から「鬼平外伝」シリーズをはじめとしたオリジナル時代劇の監修に至るまで大変なお力添えを賜りました。

深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

時代劇専門チャンネルでは能村庸一さん最後のプロデュース作品となった「鬼平犯科帳 THE FINAL」を放送します。
〈放送スケジュール〉
7月29日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 前編 五年目の客」  
8月5日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 後編 雲竜剣」


 「時代劇ニュース オニワバン!」の最終回に関するサイト内のページで、能村さんの、あの笑顔を拝むことができる。
「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

 「鬼平」「剣客商売」を代表とする能村さんプロデュースの作品は、多くの池波正太郎ファン、そして時代劇ファンにとって、大いなる楽しみであったと思う。

 「時代劇ニュース オニワバン」が昨年終了したのが能村さんの体調に関係したのかどうかは、詳しくは知らない。
 あの番組も、結構好きだった。
 えなりかずきや春風亭三朝(当時は朝也)と能村さんとの楽しいやりとりなども思い出す。

 不定期の放送だったが、「能村庸一がこっそり教える時代劇スターが愛した場所」なども楽しかった。


 自宅近所に高層マンションが建つことにより工事費無料で入会したケーブルテレビのおかげ(?)で、「時代劇専門チャンネル」が、テレビで私がもっとも好きなチャンネルになった。

 「鬼平」は、何度も繰り返し見て飽きない。
 また、池波に限らず、藤沢周平原作のドラマも好きだ。
 仲代の作品がまとめる放送されたりもしている。
 
 
 現在の地上波テレビはスポーツ、ニュースとドキュメンタリー、良質な歴史ドラマや時代劇以外は、滅多に見ない。見るに堪えない、と言った方が良いだろう。
 特に、一山いくらというお笑い芸人が出るバラエティ番組には辟易する。
 また、コメンテーターなどと称して、何ら専門的な知識を持たないタレントが時事問題やら、芸人のスキャンダルに物申すのは、目にするだけで嫌になる。

 要するに、今のテレビの現場には本物のプロがほとんんどいないと思う。
 そして、彼らは、視聴率は気にするが、視聴“質”には無頓着なのだ。

 過去に能村さんがプロデュースしたドラマが今でも鑑賞に耐えるのは、スタッフも俳優も皆がプロフェッショナルの仕事だったからだと思う。
 その現場を離れても、“御意見番”として存在感のあった能村さんだった。

 テレビが、そして時代劇が輝いていた頃のプロフェッショナルが、また一人去った。

 能村庸一さんのご冥福を、心よりお祈りする。

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by kogotokoubei | 2017-05-22 21:17 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 「真田丸」に関連して、優れた原作を元にしないドラマへの小言(?)を書いた。
 
 では、これまでの大河がどうだったかを知りたくなった。

 Wikipedia「NHK大河ドラマ」から引用。

 第一回「花の生涯」から再来年の第五十七回「西郷どん」までの、題名、放送年、原作、脚本、時代、の順。
Wikipedia「NHK大河ドラマ」
 
1 花の生涯 1963/4-12 舟橋聖一 北条誠 幕末
2 赤穂浪士 1964 大佛次郎 村上元三 江戸
3 太閤記 1965 吉川英治 茂木草介 戦国 - 安土桃山
4 源義経 1966 村上元三 村上元三 平安 - 源平内乱
5 三姉妹 1967 大佛次郎 鈴木尚之 幕末
6 竜馬がゆく 1968 司馬遼太郎 水木洋子 幕末
7 天と地と 1969 海音寺潮五郎 中井多喜夫・須藤出穂・杉山義法 戦国 - 安土桃山
8 樅ノ木は残った 1970 山本周五郎 茂木草介 江戸
9 春の坂道 1971 山岡荘八 杉山義法 安土桃山 - 江戸
10 新・平家物語 1972 吉川英治 平岩弓枝 平安 - 源平内乱
11 国盗り物語 1973 司馬遼太郎 大野靖子 戦国 - 安土桃山
12 勝海舟 1974 子母澤寛 倉本聡 中沢昭二 幕末
13 元禄太平記 1975 南條範夫 小野田勇・小幡欣治・土橋成男 江戸
14 風と雲と虹と 1976 海音寺潮五郎 福田善之 平安
15 花神 1977 司馬遼太郎 大野靖子 幕末
16 黄金の日日 1978 城山三郎 市川森一 長坂秀佳 戦国 - 安土桃山
17 草燃える 1979 永井路子 中島丈博 源平内乱 - 鎌倉
18 獅子の時代 1980 なし 山田太一 幕末 - 明治
19 おんな太閤記 1981 なし 橋田壽賀子 戦国 - 江戸
20 峠の群像 1982 堺屋太一 冨川元文 江戸
21 徳川家康 1983 山岡荘八 小山内美江子 戦国 - 江戸
22 山河燃ゆ 1984 山崎豊子 市川森一 昭和
23 春の波涛 1985 杉本苑子 中島丈博 明治 - 大正
24 いのち 1986 なし 橋田壽賀子 昭和
25 独眼竜政宗 1987 山岡荘八 ジェームス三木 安土桃山 - 江戸
26 武田信玄 1988 新田次郎 田向正健 戦国
27 春日局 1989 橋田壽賀子 橋田壽賀子 安土桃山 - 江戸
28 翔ぶが如く 1990 司馬遼太郎 小山内美江子 幕末 - 明治
29 太平記 1991 吉川英治 池端俊策・仲倉重郎 鎌倉 - 南北朝
30 信長 KING OF ZIPANGU 1992 田向正健 田向正健 戦国 - 安土桃山
31 琉球の風 DRAGON SPIRIT 1993/1-6 陳舜臣 山田信夫 安土桃山 - 江戸
32 炎立つ 1993/7-1994/3 高橋克彦 中島丈博 平安 - 源平内乱
33 花の乱 1994/4-12 なし 市川森一 室町 - 戦国
34 八代将軍吉宗 1995 なし ジェームス三木 江戸
35 秀吉 1996 堺屋太一 竹山洋 戦国 - 安土桃山
36 毛利元就 1997 永井路子 内館牧子 戦国
37 徳川慶喜 1998 司馬遼太郎 田向正健 幕末
38 元禄繚乱 1999 舟橋聖一 中島丈博 江戸
39 葵 徳川三代 2000 なし ジェームス三木 安土桃山 - 江戸
40 北条時宗 2001 高橋克彦 井上由美子 鎌倉
41 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 2002 竹山洋 竹山洋 戦国 - 江戸
42 武蔵 MUSASHI 2003 吉川英治 鎌田敏夫 江戸
43 新選組! 2004 なし 三谷幸喜 幕末
44 義経 2005 宮尾登美子 金子成人 平安 - 源平内乱
45 功名が辻 2006 司馬遼太郎 大石静 戦国 - 江戸
46 風林火山 2007 井上靖 大森寿美男 戦国
47 篤姫 2008 宮尾登美子 田渕久美子 幕末
48 天地人 2009 火坂雅志 小松江里子 安土桃山 - 江戸
49 龍馬伝 2010 なし 福田靖 幕末
50 江 〜姫たちの戦国〜 2011 田渕久美子 田渕久美子 安土桃山 - 江戸
51 平清盛 2012 なし 藤本有紀 平安 - 源平内乱
52 八重の桜 2013 なし 山本むつみ・吉澤智子・三浦有為子 幕末 - 明治
53 軍師官兵衛 2014 なし 前川洋一 戦国 - 江戸
54 花燃ゆ 2015 なし 大島里美・宮村優子・金子ありさ・小松江里子 幕末 - 明治
55 真田丸 2016 なし 三谷幸喜 戦国 - 江戸
56 おんな城主 直虎 2017 なし 森下佳子 戦国
57 西郷どん 2018予定 林真理子 中園ミホ 幕末 - 明治


 複数の原作が採用されている作家と作品数は、次の通り。

 司馬遼太郎 6、吉川英治 3、山岡荘八 3、海音寺潮五郎 2、舟橋聖一 2、永井路子 2、宮尾登美子 2、高橋克彦 2

 以上、八名。


 そして、原作「なし」は、これまで通算で14作ある。

 なんと、「江」の翌年「平清盛」以降、来年の「おんな城主 直虎」まで、連続で六作続く。
 しかし、「江」の「原作者」は脚本家の田渕久美子。小説家の原作とは言い難いので、あの作品も原作「なし」と考えると、その前年の「龍馬伝」から数え八年続いて「原作なし」の大河と言えるかもしれない。

 再来年は、原作を元にした「西郷どん」だが、その原作者は海音寺潮五郎などではなく、林真理子。
 読んではいないが、読む気には、今のところなれない・・・・・・。

 今ではその指標としての価値に疑問がないでもないが、平均の視聴率をビデオリサーチのサイトから引用する。
「ビデオリサーチ」サイトの該当ページ

 を付けたのが、「原作なし」のドラマである。

NHK大河ドラマ(NHK総合 日曜20:00~) 【関東地区】

期間平均(%) (初回~最終回)

2016年度 真田丸 16.6
2015年度 花燃ゆ 12.0
2014年度 軍師官兵衛 15.8
2013年度 八重の桜 14.6
2012年度 平清盛 12.0

2011年度 江・姫たちの戦国 17.7
2010年度 龍馬伝 18.7
2009年度 天地人 21.2
2008年度 篤姫 24.5
2007年度 風林火山 18.7
2006年度 功名が辻 20.9
2005年度 義経 19.5
2004年度 新選組! 17.4
2003年度 武蔵 MUSASHI 16.7
2002年度 利家とまつ・加賀百万石物語 22.1
2001年度 北条時宗 18.5
2000年度 葵徳川三代 18.5
1999年度 元禄繚乱 20.2
1998年度 徳川慶喜 21.1
1997年度 毛利元就 23.4
1996年度 秀吉 30.5
1995年度 八代将軍吉宗 26.4
1994年度 花の乱(94年4~12月) 14.1

1993年度 琉球の風(93年1~6月) 17.3
1993年度 炎立つ(93年7月~94年3月) 17.7
1992年度 信長 24.6
1991年度 太平記 26.0
1990年度 翔ぶが如く 23.2
1989年度 春日局 32.4
1988年度 武田信玄 39.2
1987年度 独眼竜政宗 39.7
1986年度 いのち 29.3
1985年度 春の波涛 18.2
1984年度 山河燃ゆ 21.1
1983年度 徳川家康 31.2
1982年度 峠の群像 23.7
1981年度 おんな太閤記 31.8
1980年度 獅子の時代 21.0
1979年度 草燃える 26.3
1978年度 黄金の日日 25.9
1977年度 花神 19.0
1976年度 風と雲と虹と 24.0
1975年度 元禄太平記 24.7
1974年度 勝 海舟 24.2
1973年度 国盗り物語 22.4
1972年度 新・平家物語 21.4
1971年度 春の坂道 21.7
1970年度 樅の木は残った 21.0
1969年度 天と地と 25.0
1968年度 竜馬がゆく 14.5
1967年度 三姉妹 19.1
1966年度 源 義経 23.5
1965年度 太閤記 31.2
1964年度 赤穂浪士 31.9
1963年度 花の生涯 20.2


 これらをながめて思うことは、大きく二つ。

(1)歴史好き視聴者の離反原因は「原作」不在にもある
  地上波の視聴率をどうこう言って騒ぐのは、BSもあるし録画して観る私のような視聴者もいるので無意味になってきたと思う。
  しかし、大河の総合テレビでの視聴率の推移は、なかでも昨今の低迷が、歴史好き、時代小説好き、歴史ドラマ好きの、これまでの大河の中核となっていた視聴者が離れていったことを示す指標かもしれない、と思う。
  その原因の一つは、優れた原作を元にした作品が、昨今製作されていない、ということもあるのではなかろうか。

(2)現役作家の歴史小説を取り上げるべきではないか
  司馬遼太郎など、過去の歴史小説家の作品以外にも、現役の作家の作品で、十分に大河の素材になるものはあるはず。何度か名前を挙げている葉室麟しかり。
  数ある現役の小説家の誰かの作品を選ぶことに、何かとためらう気持も分からないではないが、優れた原作があり、そのドラマがどう描かれるかを楽しみにしているコアなファンの存在を忘れてはならないと思う。


 原作のない大河がこうまで続いてきたことを、あらためて認識した。

 その理由はいろいろあるのだろう。
 経済的な面もあるかもしれないし、脚本家を含む制作陣が原作者やその関係者との面倒な折衝などを避け自由に制作したい、ということも背景にあるのではなかろうか。

 しかし、歴史を語るには、その道に通じた“語り部”の力を借りるべきではなかろうか。

 もちろん、その小説をどう映像化するかは、脚本家や制作スタッフの腕の見せどころだ。

 ぜひ、今日の歴史小説ファンが期待する原作を取り上げ、映像として新たな生命を吹き込んで欲しいものだ。

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by kogotokoubei | 2016-12-25 21:18 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)
 「真田丸」が終わるにあたって、史実と小説やドラマのことについて記事を書いたが、その「真田丸」の脚本家三谷幸喜が、俳優近藤正臣、そして彼が演じた本多正信に関して、興味深いことを語っていた。
 スポニチの記事から引用する。
スポニチアネックスの該当記事

三谷幸喜氏「真田丸」秘話明かす 近藤正臣だから生まれたラスト

 戦国時代最後の名将・真田幸村の生涯を描き、ブームとなったNHK大河ドラマ「真田丸」(日曜後8・00)が18日、最終回(第50話)を迎え、完結した。脚本を担当した三谷幸喜氏(55)は全50回にわたる放送を振り返り、本多正信役の近藤正臣(74)のセリフを書くことが「楽しくて仕方がなかった」と告白。筆を進める中で「『真田丸』は本多正信で終わるのかもしれない」と感じたことが、真田信之(大泉洋)とのラストシーンにつながったことを明かした。

 劇中、最も成長した登場人物の1人として、徳川家康(内野聖陽)の側近として知略を発揮し続けた本多正信の名を挙げた三谷氏。「僕はいろいろな軍師の中でも本多正信が一番好きなのですが、近藤さんが演じられることで、すごく人間味に深みが出てきました。セリフを書くのが楽しくて仕方なかったです」と語る。

 最終回のラストシーン。信之を大坂から自らの領地・玉縄(相模国)へ連れてきた正信は「戦と同じ。人の心を読むのが肝要で。領民には無理をさせず、というて、楽もさせず、年貢だけはきっちりと取る。その上で、領主たるものは決して贅沢をしてはならん。これでござりまするよ」と“統治論”を説く。領民たちが正信を慕う様子を見た信之は「国づくりの根本を教わりました」と感服。そこへ大坂城落城の知らせが届く。

 なぜ、このシーンで物語を締めくくったのか。三谷氏はその理由を次のように明かす。
「(近藤扮する正信の)イメージがどんどん膨らんで『もしかしたら“真田丸”は本多正信で終わるんじゃないか』と、ふと思ったんです。正信は何となく悪い人のイメージがありますが、地元では逆のイメージを持たれていることもあると思い、調べてみると『百姓は生かさず殺さず』という有名な言葉に行き着きました。その言葉も悪いイメージで捉えることもできますが、逆の意味で考えると、すごく領民のことを考えていて、領主としての見本のような人だったのではないかなと感じたんです。それが信之に影響を与え、その後の(真田家の)礎を築いていくということにつながるのではないかと思い、そのあたりから、だんだん最終回のラストシーンが見えてきましたね。正信が信之と一緒に大坂から帰ってくるという設定にうまく結びつけることができました」

「それもこれも全部、近藤さんが正信を演じられたからこそです」と断言。「そうじゃなかったら、僕はこの結末にしなかったと思います。ラストも、近藤さんがすごくいい表情をされたんです。大坂城が落城したという知らせを聞いて、何も言わずに大泉さんと目線で何かを交わす、というすごくいいお芝居でした。もともと近藤さんが大好きで『国盗り物語』(同局大河ドラマ、1973年)の明智光秀と『黄金の日日』(同、78年)の石田三成は僕の中の“ベスト”。近藤さんに最終的な形を締めてもらえて本当にうれしかったです」と稀代の名優に感謝した。[ 2016年12月19日 16:00 ]

 この内容を読んでまず思うことは、なんとドラマにおける俳優の存在は大きいものであるなぁ、ということ。

 これまでも、出番は少ないにしても、このドラマにおいて近藤正臣演じる正信の存在感は大きかった。

 あえて言うなら、本来はもっと存在感があって然るべき加藤清正や福島正則が目立たなかったのは、残念ながら扮する俳優にも依存した。
 もちろん脚本家や演出家が、彼等をどう描こうとしたか、という意図に影響されただろうが、その意図はキャスティング段階から反映されているのではなかろうか。

 関ケ原の合戦がすぐに終わったように、このドラマの主題は真田であり、なかでも大坂の陣における大坂城と徳川方の人物に焦点が当たっていたのだ。

 今回出演した数多くの俳優さんの中で、近藤正臣が際立っていたことは認めるし、その演技も高く評価できるだろう。役者として、個人的に嫌いではない。

 しかし、役者の評価と、演じた歴史上の人物の評価は、別である。

 彼が演じた本多正信という人物は、果たしてどんな人だったのか。

 私は三谷のように、軍師として本多正信を評価しない。
 というか、彼を“軍師”とは思えない。せいぜい、“策士”であろう。

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古川薫著『影武者』(光文社文庫)

 1996年に単行本が『奇謀の島』として新人物往来社から刊行され、2002年に光文社から『影武者』と改題されて文庫化された古川薫の短編集に、『謀臣亡ぶ』という作品が収められている。

 『謀臣亡ぶ』は、後に大久保彦左衛門として名高い大久保忠教(ただのり)が、過去を回顧するという形式の作品で、その中で彦左の槍玉に上がっているのが、本多正信と正純の親子である。
 だから、「謀臣」とは、本多親子を指している。
 
 故郷の長州関係の小説が多い古川薫の作品としては、対象も形式も異例な本と言えるだろう。
 ボヤキを含め、彦左翁の述懐が実に楽しいのである。

 冒頭から、まず引用。
 嘆かわしい世の中になったものだ。
 関ケ原役後のしばらくは、大御所家康公に、わしからいろいろと直言することも多かった。それを小うるさく思われはじめたのか、このごろでは目通りを願い出てもなかなか会っていただけなくなった。本多正信めの妨害もあるのだが、大御所も家臣の意見に耳をかたむける謙虚なお心を失われたようだ。落胆この上もない。
 徳川もむかしの徳川家ではない。幕府などという大きな官僚の仕組みが出来上がってしまうと、高々二千石の旗本などは小者にすぎぬ。捨て扶持をもらって、おとなしくしておれというのだろう。かつては戦場で大暴れした旗本共も、いまでは借りてきた猫のようになり、洒落た着物など身にまとい、泰平の世を楽しんでいる。だから本多正信・正純ばらがのさばるのだ。

 彦左の落胆の大きさが偲ばれる。
 なぜ、彦左は、本多親子を毛嫌いするのか。

 もう少し、彦左の嘆き節にお付き合いいただく。
 そもそもこんにちの徳川家があるのは、だれのおかげだと思っておるのだ。われわれ譜代の二心抱かぬ忠誠と勇猛なはたらきがあったればこそではないか。
 かく言う大久保忠教は天正三年(1575)、十六歳にして浜松在城時代の家康公に出仕、兄忠世に従って、高天神城の攻撃など数々の武功を立てた。合戦後の戦士の軍功の優劣を決めるにも、大御所様はわしの証言を重んじられたものだ。
 大坂の陣では御槍奉行から御旗奉行となる。戦いがおさまってからは、甥大久保忠隣(ただちか)の所領のうち武蔵国埼玉郡で二千石を知行した。わしとしては、それで満足した。気取って申せば、誇り高く生きるのが旗本の心意気である。だから言いたいことも言えたのだよ。
 それを武功を鼻にかけた独りよがりの振る舞いだと白い目で見るやつが、たとえば本多佐渡守正信・上野介正純親子のごとき、戦場でのさしたる手柄もなく口先だけで立ち回ってきた連中だから余計に腹が立つ。家康公にしても、三河いらいの武功集団とでも申そうか、この大久保一族が、目障りで仕方なくなったのであろう。大久保石見守長安の事件を奇貨として、われら一族を一掃してしまわれたのである。


 この大久保石見守長安の事件(岡本大八事件、と言ったほうがよいか)は、結構複雑なのだが、順を追って説明しよう。

・岡本大八という男(詐欺師?)が本多正純の配下にいた
・家康からチャンバー(かつて今のベトナムにあった王国)で
 伽羅香木を手に入れるよう命じられた長崎奉行長谷川藤広が、
 肥前日野江の城主の有馬晴信と相談して船を仕立て、帰化人
 久兵衛を航海長としてチャンバーに向かわせた
・マカオで順風を待っていた船の乗組員が、ポルトガル商館の
 使用人といさかいを起こし、その数名を殺害してしまった
・ポルトガル船の乗組員七、八十人が久兵衛らの旅館に押し寄せ、
 従者をことごとく殺し、銀子など一切のものを略奪した
・久兵衛は命からがら長崎に帰り、顛末を報告した
・有馬晴信は久兵衛を伴って、駿府におもむき本多正純に顛末を
 説明し正純を通じて家康に上申したところ、家康大いに怒り、
 ポルトガル船の長崎来港を待ち、報復せよと命じた
・ポルトガル船が長崎にやってきたが、晴信は長谷川に自分だけ
 で報復をさせて欲しいといって助けを断り、手の者三十人ほどを
 ひきいて長崎に向かった
・しかし、晴信の謀略をキリシタンを通じて知ったポルトガル船の
 船長は船から鉄砲を撃ち放って晴信たちを近づけず、出港して
 しまった
・それでも晴信配下の者たちが船を襲い、異人の多くを斬り殺し、
 船に火をかけた
・火は火薬庫に移り、大爆発を起こして沈没した

 結果として有馬晴信の手柄とも言えるが、元は彼の不手際から生じたことだ。

 ここで、岡本大八が登場。

・岡本大八が、有馬晴信を訪ね、ポルトガル船に報復したことで、
 大御所から恩賞が出るようにするからと言い、斡旋のために必要 
 として、六千両を晴信から出させた
・一向に恩賞が出ないことに業を煮やした晴信が、本多正純を問い
 質したが、「まったく心得ぬことだ」と、正純は大八に尋ねた。
 大八も「私も存じつかまついませぬ」と答えた
・ようやく騙されたことに気づいた晴信だった
・正純は、いずれ家康の耳に入ると思い、自ら家康に部下の不始末
 として報告
・家康は、「晴信と大八を対決させよ」と命じた

 ここから再び本書から引用する。
 晴信・大八対決の経緯のみならず、大久保彦左衛門が、本多親子についてどう語っているか、ご確認のほどを。
 その対決の場所というのが、ほかでもない老中大久保長安の屋敷であった。この男大久保姓を名乗っておるが、われら一族と血のつながりはない。もともとは甲斐武田氏に猿楽師大蔵太夫の次男に生まれ、のち蔵前衆に取り立てられたが、武田氏滅亡後は家康公の家臣となり、わしの甥である忠隣から大久保姓を授けられただけの話だ。大久保一族に災厄をもたらしたといえば、この男もそうだな。そのことは後で語ることになるので、今はまず晴信と大八の対決に話をもどす。
 このとき大御所は姿を見せられなかったが、本多正信・正純親子、大久保忠隣、長安ら老中立ち合いのもとに、晴信と大八は向き合った。
 晴信は怒りを満面にあらわして、銀六千貫を渡すまでの経緯をまくしたて、
「大八、いかに」
 と、詰め寄る。ここの至って、大八は抗弁もできずに、黙っているだけだ。黒白はたちまちはっきりした。ただちに大八を禁獄して沙汰を待てということになった。
「いやはや驚き入った醜態であるな。彼の所業に気づかなかったと上野介殿は申されるが、知らぬだけで事は済むまい」
 と、正純に非難の矢を放ったのは、大久保相模守忠隣だ。正純にも言葉がない。父親の正信も苦虫を噛みつぶしたような顔で黙り込んでしまうというものだ。
「いずれ大御所のご裁決がでるまで、上野介殿も慎んでおられるがよかろう」
 一本取ってやったと、忠隣は意気揚々と引き揚げたが、相手は名にしおう策士だ。後で足をすくわれようとは夢にも思わなかったのが忠隣の油断であり、迂闊であったな。
 この忠隣と正信・正純父子は知る人も知る犬猿の仲だ。いうなれば武断派と文臣の対立だ。こういうことは石田三成と秀吉時代に武功を立てた諸将の間にあり、黒田長政をはじめ秀吉恩顧の武将たちが一斉に徳川の陣営に走った。関ケ原合戦の大勝は豊臣方の不和もあずかって力があったことを家康公も承知しておられる。忠隣と正信・正純父子の対立を、ひそかに気に病んでおられたのだよ。
 何しろ大久保といえば、徳川氏創業いらいの譜代家臣だ。わしの兄忠世は五カ国時代、旗本の武将として活躍し遠江二俣城主だった。その子忠隣は十一歳のとき家康公の近習となってより、三方ヶ原の戦いをはじめとして諸戦に軍功をあらわしただけでなく、奉行職をつとめて徳川氏分国の政務にも功績を立てた。父の遺領を継いで六万五千石、小田原城主となって関東入国後は幕閣に列し、二代将軍秀忠付きの重臣となった。
 これにくらべれば、本多正信などは、三河いらいの譜代の名門本多とは縁もゆかりもない鷹匠あがりの身分いやしき男だ。
 才覚を認められて家康公につかえたが、永禄六年(1563)に起こった三河の一向一揆のときは、徳川家を裏切り、一揆に加わっておる。諸国を流浪したのち、堺で家康公と再会し、うまく取り入って許された帰り新参である。節操のない男よ。家康公としては、彼の行政手腕というよりも謀略の才覚を珍重なされたのだな。実に腹黒く小才のきく男だ。

 武断派と文臣派との対立は、豊臣家のみならず、徳川家にもあったということだ。

 彦左の甥である兄忠世の子忠隣と本多正信との対立には、真田家も関係している。
 忠隣と正信の不和は、慶長五年、関ケ原の直前、信州路における戦いからである。八月五日、中納言様(秀忠)は宇都宮を発って攻めのぼられた。このとき従う者、大久保忠隣・本多正信・榊原康政の軍勢だった。上田城に真田勢がたてこもっておるが、打って出ることはあるまいから、無視して通り過ぎようと正信は言った。忠隣らも賛成したのだが、食糧調達に出かけた忠隣の家来たちが、伊勢崎の要害を守っていた真田兵とはしなくも小競り合いとなり、ついに城を攻め落してしまった。
「下知なくして戦さするとは何事、城を攻めたる者、軍法によって誅戮すべし」
 と、中納言様に強く進言したのは正信である。多くの者が自決、処刑された。武将の器でもない正信が、軍法を楯に忠隣の兵を誅罰せよとは、大久保勢の手柄を帳消しにしようとたくれんでのことであろう。忠隣の御家人たちはひとしく正信を怨んだが、忠隣にしても心穏やかではなかった。これが事のはじまりである。

 大久保忠隣とその部下たちの正信への憎悪は、深かっただろうねぇ。
 秀忠軍が関ケ原に遅参したのは、上田城の真田軍という敵が強かったことのみならず、自らの軍に統率が取れていなかったことも窺える。

 さて、晴信と大八の件、いったいその後どうなったのか。

 獄中の岡本大八が妙なことを言いはじめた。
「有馬晴信は、長崎奉行長谷川藤広を闇討ちにしようと計画したことがある。その逐一を存じておる」というのである。
 得たりかしこしと、正純はそのことを家康公に告げる。外様大名の分際で幕府より派遣の奉行を殺害せんとしたる行為は、幕府の権威を冒すものだと、大御所は烈火のごとくお怒りになった。
 大八の言うことは根も葉もないつくりごとだと晴信が否定するので、ふたたび晴信と大八の対決となる。このときも大久保長安の屋敷が使われた。
 前と違って、こんどは大八が晴信の罪状を事濃(こま)やかに申し立てると、晴信は返す言葉もない。これによって晴信は、身柄を長安に預けられ、所領を没収、甲斐に移された。
 ポルトガル船焼き討ちに至るまでの晴信のへたな動きを、長谷川が江戸表に洗いざらい報告したことへの恨みかららしいが、外様大名に対する長谷川の尊大な態度も許せなかったのであろう。晴信はみずから墓穴を掘ったことになる。
 慶長十七年三月二十一日、岡本大八は安倍川のほとりで磔となり、甲斐に送られた晴信は五月六日、斬首の刑に処せられた。
 (中 略)
 だが、どうも腑に落ちぬところもある。大八が晴信からせしめた六千両という大金の行方も有耶無耶になっておる。それに大八ごときが、晴信の長谷川暗殺計画をいかにして嗅ぎつけたかだ。
 これはそうやら正信・正純親子が家康公の意をふくんで、有馬をつぶすために仕組んだ猿芝居のように思えぬこともない。大八というやつ、悪者として磔になったが、一人罪を背負わされたのではあるまいか。ひょっとしたら本多家の忠臣かもしれんな。
 だいたいこのくらいのことは正信・正純ならやりかねんのだよ。福島正則が城の無断修復をとがめられて改易同様の処分を受けたのは、これから六年後の元和四年のことであった。父親に劣らぬ謀略の才にたけた正純が、正則を罠にはめたのである。
 広島城の修復については、事前に何度も正則から正純にところに申し出ておる。
「そのうち将軍の許しが出るように取り計らいましょう」
 正純はそう言いながら、知らぬ顔をして、再度正則からうながされると、「そのことは自分にまかせておけ」と曖昧に答えた。正則も迂闊なことよ。許されたようなものだと思い込み、水害で傷んだ石垣を修復してしまった。それを待っていたかのように罰せられたのだ。

 つい、有馬晴信と岡本大八の事件を長々記すことになったが、中途半端では分からない入り組んだいきさつがあったので、お許しのほどを。

 あの一件は、船の名をとって「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」とも言われるし、その後日談を含め「岡本大八事件」とも言われる。

 さて、大久保彦左衛門が推理するように、あの事件が家康の意図に従った本多父子の策略だったのかどうか・・・史実がどうだったのかは、私も分からない。

 しかし、どうも、彦左の(作者の?)読みは当たっていそうな気がする。
 家康にとっては、老い先短いこともあり、できるだけ徳川体制を盤石な状態にしておきたいという思いは強かったろうし、本多親子は、そういう家康の意図を汲んで手足になるにはうってつけだっただろう。

 また、正信による上田城攻めの際の大久保忠隣軍への処罰は、西軍との天下分け目の決戦を前にしていながら、あくまで内輪で自分の保身を優先するような行動としか見えない。
 人は、外の敵より、内の敵の方が目障りであるものだ。

 権謀術数にかけては、たしかに正信は優秀な男だったのだろう。

 大坂の陣においても、戦いの本流に関わったというより、謀略としか言えない側面において存在感があったのではないだろうか。


 あらためで、三谷幸喜の評価について。
 近藤正臣ではなく、本多正信は、三谷幸喜が言うような優れた“軍師”と言えるのだろうか・・・・・・。

 徳川譜代の家臣がいる中で生き延びた才覚は高いのだろうが、それは彼自身の処世術が長けていたということで、戦の戦略や戦術の才能を裏付けるものではない。

 
 特定の俳優を贔屓にするのは、好みの問題でもあり人それぞれで結構だろう。

 しかし、その俳優による、いわば“ハロー効果”によって、歴史上の人物を見る目が曇ってはいけないと思う。

 たとえば、真田昌幸は、草刈正雄が演じようと丹波哲郎だろうと、偉大な武将だったと思う。
 それは、多くの史料や同世代の人たちの残された発言などで裏付けされている。
 
 しかし、本多正信については、同じ徳川家の武将でも肯定的な発言を残している人は、ほんの一握り。ほとんどは、批判的な内容である。

 三谷幸喜が、何を元に評価しているかは知らない。
 
 私には、本多正信は、せいぜい“策士”であって、決して優れた“軍師”とは思えない。

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by kogotokoubei | 2016-12-20 23:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)

 「真田丸」が、お開きとなった。

 なんとか最後まで見続けてきたが、途中でずいぶん挫けそうになったなぁ。

 午後6時からのBSの放送は我が家のお犬様の散歩タイムとなり、総合8時からはサッカー放送を観たので、サッカーの後に録画を観た次第。

 鹿島アントラーズの素晴らしい戦いに熱くなった後で、しっかり、冷めさせてくれたなぁ・・・・・・。

 茶々と信繁が、ああいう状況になるとは、私には思えない。
 これは、前提の違いが発端でもある。
 秀頼が大野治長と茶々の子であると考える私には、どうしても信繁と茶々の濡れ場が気に入らないのだよね。
 最後まで大野治長を悪者にせず、母親の大蔵卿局をヒールにするのも、解せない。
 大蔵卿局が、あれほど重要な役割を果たすのには、毎度違和感があった。
 
 昨夜は思わぬ鹿島の決勝進出という裏番組への対抗措置(?)でもあったのか、NHKは直前の午後七時のニュースで、「真田丸」最終回を煽るような内容を放送していた。
 NHKサイトから引用する。
NHK NEWS WEBの該当ニュース

真田幸村の最期 新資料で謎に迫る企画展 福井
12月18日 17時59分

 大河ドラマ「真田丸」の主人公、真田幸村こと信繁が大坂夏の陣でどのような最期を迎えたのか、最近、見つかった資料などを基にした企画展が福井市で開かれています。

 福井市の福井県立図書館で開かれている企画展には、越前藩主・松平家に伝わる真田信繁の最期に関する資料7点が展示されています。このうち4年前、県立図書館で見つかった大坂夏の陣について書かれた覚書では、「越前藩士・西尾宗次は、身分の高い敵と遭い、やりで戦って名前も知らないままに討ち取った。のちに討ち取った首が真田信繁のものだとわかった」と記されています。

 さらに、同じく県立図書館でことし見つかった西尾が書いたとされる手紙の写しには、自分が信繁を討ち取り、徳川家康にその首を献上したという内容が記されています。これまで信繁の最期については、戦いで疲れて動けなくなっているところを討ち取られたとする説が一般的でしたが、西尾が直接戦ったとする説を補強するものだと解説されています。

 福井県立図書館の長野栄俊主任は、「謎に包まれた真田の最期について紹介しているので楽しんでほしい」と話していました。この企画展は今月28日まで開かれています。

通説は「無抵抗説」

 大坂夏の陣で真田信繁を討ち取ったのは、福井藩士の西尾久作。のちの仁左衛門、宗次だとされています。信繁は西尾にどう討ち取られたのか。最も知られているのは「戦いで疲れ抵抗できない信繁が、福井の無名の武士に討ち取られた」というものです。信繁が「手柄を取らせよう」とみずから首を差し出し、討ち取らせたとも言われています。

 戦国大名の細川忠興が大坂の陣で耳にしたことを国元の重臣へ書いた書状では、「真田の首は越前の武士が持って行ったが、真田が傷を負ってくたびれているところを討ち取って首をあげたということで、全く手柄ではない」と記され、討ち取ったことが不名誉であるかのように伝えています。

 家康をあと一歩のところまで追い詰めながら目的を果たせなかった信繁が、越前藩士に抵抗できずに討ち取られた「無抵抗説」は、その後、ロングセラーとなっている池波正太郎の小説『真田太平記』や、多くの歴史の本や漫画にもなり、信繁の最期として印象的に伝えられてきました。

 ニュースで、このような内容が、最終回の視聴につなげようとばかり放送された。

 さて、実際の放送での信繁の最後は・・・まだご覧になっていない方のために、詳しくは書かない。
 一つだけ、信繁と佐助の姿に、最後の最後、脚本家三谷の池波正太郎『真田太平記』へのリスペクトを見た気がする。とはいえ、太平記では佐助ではなく佐平次だが。
 夏の陣の終盤、「真田太平記」の方には、滝川三九郎なども登場し、二重三重の物語としての深さがあるのだが・・・・・・。

 番組の終わり方は、悪くはなかったと思う。
 そもそも、番宣で「真田一族の最後」というような表現をしていたのがひっかかり、「何を言っている、何のために信之が残ったんだ!」と思っていたからね。

 しかし、松代のことを語るなら、事前の回やナレーションで、信之の後年のことをもっと語っておかなきゃ。いわゆる“仕込み”が足らない。

 松代というと、池波正太郎が晩年の信之を描いた『獅子』を思い出すなぁ。いろいろあったんだよ、信之は最後まで。

 シリーズを通して俳優のMVP(?)は、草刈正雄の昌幸という私の思いに同意される方は多いのではなかろうか。

 『真田太平記』の信繁役として、昌幸役の丹波哲郎さんを観てきた草刈の体験が十分に生きたのだと思う。


 戦国時代や幕末が好きで、池波正太郎に限らず歴史小説の好きな私には、毎回一つや二つは首をかしげる場面のある大河だった。

 たとえば、小田原攻めで北条氏政に降伏するよう説得に行くのが信繁であったのには、大いに驚いた。あの役が黒田官兵衛であったことは、「黒田家譜」にも記載されていることでもあるし、いわゆる“通説”。

 もちろん、昔の資料の信憑性は疑わしいものもあるが、史料や手紙などを踏まえ、またその時の状況を考えれば、あの場面で信繁が小田原城に入るのは、実に不自然。

 あのドラマの時代考証担当者は、いったいどんな根拠があって、あのような筋書きを認めたのか、多いに疑問だった。

 一昨日、あのドラマの時代考証を担当した方の記事が新聞に載っていた。
 朝日から引用する。
朝日新聞の該当記事
真田丸「期待裏切らない終わり方」 時代考証の丸島さん
文・写真 田玉恵美 2016年12月17日07時12分

 ベテラン研究者の起用が多かったNHK大河ドラマの時代考証で白羽の矢が立った。「真田丸」で史実に基づく助言を担当。大役の打診に驚いたが、主人公の名を通称の「幸村」ではなく本名の「信繁」にすると聞き、「史実を大切にしようとする意気込みを感じて」引き受けた。

 話題を呼んだ場面の一つが豊臣秀吉のおい秀次の最期。秀吉の命令で切腹させられた、と描かれることが多かったが「真田丸」の秀次は自ら死を選ぶ。発表直前の論文に新しい学説が載るのを知って提案。脚本の三谷幸喜さんが描く秀次像に合致し、採用されたという。

 ログイン前の続きツイッターでも注目を浴びた。どこまでが史実でどこからがフィクションか、放送後に解説した。「なじみのない学説を使ったので、『でたらめだ』と言われるのを防ぎたくて」。フォロワーは約2万人。新しい大河の楽しみ方を提供した。幼い頃、三国志を読んで歴史好きに。最も好きなのは足利尊氏の弟の直義だ。真田と対照的に「戦には弱かったが、室町幕府の秩序を作った人なんです」。

 慶大で非常勤講師をするかたわら、制作陣からの電話に土日もなく対応し続け、「確定申告もしそびれた」ほどの忙しさだった。最後に受けた問い合わせは、物語を締めくくるナレーションが妥当かどうか。「皆さんの期待を裏切らない終わり方になったと思いますよ」(文・写真 田玉恵美)

 本名の信繁にする、というのは私も賛成。
 幸村という名は、史料にはほとんど登場しない。
 ただし、池波正太郎さんの『真田太平記』では途中から、もちろん史実を理解した上で、一般に馴染みの深い名前の幸村に替えているが、説明をしてからのことであったし、物語そのものが面白くて違和感なし。

 この新聞で、「史実を大切にしようとする意気込みを感じて」時代考証を引き受けたという丸島さんに、ぜひ、小田原攻めの一件について、聞いてみたいものだ。

 また、豊臣秀次の最後には、以前から諸説多かった。だから、切腹であっても自死でも、いずれでも構わないと思う。どちらも間違いとは言い切れない。

 それより、生存中の秀次の描き方に疑問があった。
 あんなに、“いい人”であったとは思えないのだ。
 宣教師たちの残した記録なども含む多くの史料を踏まえると、相当に野蛮な面のある人物。あるいは、一度は秀吉の後継者と喜ばせておいての秀頼誕生による秀吉の自分の扱いの変節のため、捨て鉢になっていろいろと惨いことをした人だ。

 と書き出したら、いろいろあるのだが、これまでの高齢者の常連さんではなく、若い方が時代考証を担当されること自体は結構だと思う。

 新たに明らかになった史料なども踏まえ、誤って伝わっている“通説”を覆して欲しいものだ。

 以前、松本順(良順)を主人公とする小説、吉村昭の『暁の旅人』と司馬遼太郎『胡蝶の夢』を引き合いにして、史伝と歴史小説の違い、のようなことを書いた。
2013年3月12日のブログ

 史実ー史料ー史伝ー歴史小説ー歴史ドラマという順に脚色の度合いは深まっていくだろう。

 史料も信憑性の疑わしいものが多いから、複数の史料や聞書きなどで共通する内容が、いわば“通説”となるのだろう。

 史伝は、吉村昭のように数多くの史料にあたり、出来る限りの聞き書きも頼りに、歴史を浮かび上がらせようとする。
 だから、ドラマ性を高めようとする作為的な脚色は施されない。
 比べて歴史小説は、ある特定の人物や出来事のドラマ性を大事にするので、作家の解釈や思い入れによる脚色があって、史実からはどんどん距離ができる可能性も高い。

 そして、歴史ドラマは、原作がある場合は、どの原作を中心とするにせよ、“視聴率”を上げようとし、“おもしろおかしい”内容にするための脚色が施される。
 そして、原作のない脚本から発したドラマの場合は、その脚色の自由度が増すから、史実との乖離が大きくなる可能性が高い。

 典型的な例として、『花燃ゆ』に、吉田松陰の妹で長女の千代が登場しない、なんて馬鹿なことになるのだ。


 史伝、通説、歴史小説などは、長い間に専門家や読者などの目で、いわば“校正”を経て、誤りは途中で訂正されていることもある。
 しかし、原作を元にせず初めて登場するドラマには、脚本家や時代考証家など制作陣がよほど注意しないと、とんでもない誤った歴史観や人物像を提示する恐れがある。
 
 しかし、昨今の歴史ドラマは原作を特定しないものが増えている。

 なぜ、原作がなく、脚本家による創作、いわゆる「歴史を元にしたフィクション」というドラマが増えるかは、いくつか理由が考えられる。

 第一に、その内容に、原作にしばられない自由さが欲しいのだろう。
 二つ目としては、原作者や版権管理人などによるチェックの手間も省きたいという思いもあるに違いない。
 次に、いくら位か知らないが、原作者への費用も発生するから、コスト抑制にもなるはず。

 そういう利点はあるかもしれないが、上述したように、大きな危険性もある。
 
 制作者、脚本家、時代考証家、演出家などが、常に「これで大丈夫か?という姿勢を常に維持しないと、テレビという大きな影響力を持つメディアが、誤った歴史像、人物像を多くの人の脳裏に形成しかねないのだ。

 特に視聴率が伸び悩むと、つい、“おもしろおかしい”見せ場をつくろうとしたり、ありえないキャラクターを登場させがちになる。

 そうなることが、長年の大河ファンや歴史小説ファンは、どんどん離れていくという悪循環になるということを知るべきだろう。

 次の大河、史料にも史伝にも、歴史小説にも乏しい主人公を扱っている。
 ぜひ、緊張感を制作陣が維持してもらいたいは、果たしていつまで観ているかどうか。

 ここ数年の歴史ドラマでは、昨年の木曜時代劇『風の峠~銀漢の賦~』が傑出していると思う。

 何度も書くが、ぜひ葉室麟作品を、今の土曜時代劇で取り上げて欲しい。
 
 立花宗茂と妻の誾千代を描いた『無双の花』も良いだろうし、忠臣蔵への独自の解釈を底流とする『いのちなりけり』~『花や散るらん』なども見ごたえがありそうだ。
 読後感が爽やかだった『川あかり』なんかも期待するなぁ。
 葉室作品で映像化を望むものは、他にも、たくさんある。

 私はケーブルテレビに加入しており、時代劇専門チャンネルで、藤沢周平『用心棒日月抄』を元にした『腕におぼえあり』を今は楽しんでいる。

 史実を元にしてはいなくても、良質な時代小説は、その原作の味わいをドラマとしてしっかり映像化することで、十分楽しめる娯楽作品になり得る。そういう作品は、何年経っても視聴に耐える。

 NHKのBSで、1月から八回シリーズで『雲霧仁左衛門3』が放送されるのが楽しみだ。
 しかし、その後は、昔の番組を観る機会が増えそうだなぁ。


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by kogotokoubei | 2016-12-19 12:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 日曜日、「真田丸」の第48回「引鉄」を見た。

 佐助が家康を必死の覚悟で倒しに行く前に、きりに自分の思いを伝えようとしたが、あっさり断られてすぐ消え去る場面には、笑った。
 
 しかし、あんなこと、ありえないと思うなぁ。

 きりが高梨内記の娘であるのなら、信繁の側室のはず。
 そして、二人の間には女の子がいたはずで、信繁はその娘の阿梅を、伊達藩の片倉小十郎重長に預けたと言われている。
 重長は、伊達政宗の家臣、片倉小十郎景綱の長男。ちなみに、片倉家は代々、小十郎を名乗る。

 なぜ、「真田丸」できりに信繁の子がいるという設定にしないのかは、よく分からないが、いずれにしても、主君を慕う彼女に惚れる佐助、という筋書きには無理がある。
 佐助がきりを好きであっても、それを口にすることはないはずだ。草の者なのだから。
 
 その佐助が倒したと思った相手は家康の影武者だった、なんて筋も、作り過ぎだ。

 NHKの番組サイトによると、次回「前夜」で、信之と信繁の対面があるようだが、池波正太郎が描くような、小野お通の家という設定ではないようだ。
NHKサイトの「真田丸」のページ

 やはり、私はお通の家であって欲しいなぁ。

 ということで、小野お通について、ふたたび。

 先日の記事では、池波正太郎の『信濃大名記』から、小野お通に関する記述を引用したが、別の池波の本から今回はご紹介。

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池波正太郎著『武士の紋章』(新潮文庫)

 『三代の風雪 真田信之』は、新潮文庫『武士の紋章』の中の一篇。
 ちなみに、武士は「おとこ」と読む。

 なお、池波は、作品によって信“幸”と信“之”の表記が混在する。

 私が知る範囲では、初期の作品では信幸、後半は信之を使っているようだ。
 本書では、信之。

 「信之の恋」と題された章から引用。
 もともと真田家は清和天皇の皇子、貞保親王から出ており、数代を経て、信之の祖父の幸隆の時代に信濃真田庄へ住みついたというわけで、京の公家たちの中には親類もかなりある。
 ときの菊亭大納言季持(すえもち)は、信之・幸村の義理の叔父に当る。
 余話になるが、菊亭大納言は、敵味方に別れた真田兄弟の身の上を心配し、何とか幸村を徳川方に引き入れようとして骨を折ったりしたものだ。
 そのとき四十七歳だった真田信之が、小野のお通という女性を知ったのも、おそらく、この菊亭大納言という叔父さんの紹介があったからであろう。
 小野のお通は、その当時何歳であったか明確でない。三十歳前後と推定してよかろうと思う。


 「真田丸」では、北政所の侍女という設定で、信之との初めての出会いが描かれたが、たしかに侍女であったという説もある。

 少し時代を経てからのこと。
 元和六年の正月ー小松夫人が没した。
 風邪をこじらせたのがもとで、彼女は沼田の城に在ったのだが、信之は馬を飛ばしせて上田から駆けつけてきた。
「春も近い。それまでの辛抱じゃ」
 本気で、信之はそういった。
 こうなってみると、小松が妻として、留守居がちの家を治めた功績は大きい。それが、信之には、ひしと感じられたのである。
 小松は首を振って見せ、それから、いたずらっぽい微笑を信之に投げ、
「京の方をお呼び遊ばしても構いませぬ」といった。
 ちゃんと知っていたのである。
 信之も、小松の死後になり、思いきって京へのぼり、久しぶりにお通と会い、
「信濃へ来てはくれぬか」と切り出した。
 お通は、これを拒絶した。
「大名の家のものとなるのは、わたくし、のぞむところではございませぬ」
 信之を愛してはいるが、武家の社会ほど不安と危険が多いものはない。それを身にしみて知っているから・・・・・・というのである。
「それほどに、わたくしのことをお想い下さいますならば、真田十万石を捨て、一人の男として京へおいで下さいませ」
 理性の強い女性であったと見える。
 信之も一時は迷いに迷ったようだが、帰するところは、
(これからの真田家に、わしが居(お)らねばどうなる? まして家を潰し、家来と領民を苦しませることなどは・・・・・・)
 とうてい出来得ぬ信之であった。
 かくて信之は、お通と別れ、新領地松代へ国入りをした。
 のち数年を経て、お通も一度、松代を訪ねた形跡があるが、たしかな資料は残っていない。
 しかし、お通の娘(信之と別れてからなのか、その前からいたものか、判然としないが)のお伏が、信之の息・信政の側室となった事実がある。

 小松(お稲)の姿、「真田丸」では気丈な面ばかり目立つが、池波作品では、女性としての優しさも描かれている。

 そして、謎の才女、お通。
 実に魅力的だ。

 信之と小松は、実に良い夫婦だったのだろう。

 たしかに、小松は本多忠勝の娘らしく気丈夫だが、女らしさも十分に備えていたと思いたい。

 
 「真田丸」を見ると、どうしても、池波作品と比較してしまう。

 「えっ!?」とか、「そりゃない!」などと思いながら、もう残り二回。

 来年は、井伊直虎か・・・・・・。

 直虎より、もっと相応しい戦国の女性がいると思うなぁ。

 戦国時代に、女性が家を継ぐ例は、直虎だけではない。

 豊後大友氏の家臣である戸次鑑連(立花道雪)の娘の誾(ぎん)千代が、家督を継いでいる。
 彼女の婿となったのが、同じ大友氏家臣高橋紹運の長男である立花宗茂。
 宗茂は筑後柳川藩の初代藩主。
 関ケ原で豊臣側について改易されて、その後に旧領を回復した唯一の大名だ。
 宗茂と誾千代を中心とする傑作時代小説が葉室麟の『無双の花』。
 誾千代に関しては、山本兼一の『まりしてん誾千代姫』がある。

 直虎より、ずっと面白いドラマになると思うので、そのうち実現するのを期待しよう。
 再来年は、西郷隆盛か。

 去年が長州の『花燃ゆ』だったので、薩摩もやらなきゃ、というバランス感覚が背景にあるような気がする。


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by kogotokoubei | 2016-12-06 12:52 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 まず、ある小説から、ある女性に関する文章を引用する。

 こちらに背を向け、茶を点じているそのひとの、つややかな垂れ髪を分けて見える耳朶は、春の陽ざしに濡れた桃の花片のようだった。
「どうぞ・・・・・・」
 そのひとの躰(からだ)からただよってくる香の匂いが近寄り、うすく脂がのった、むっちりと白い二つの手が茶碗をささげ真田伊豆守信幸の前へ置いた。


 さて、これは誰か・・・・・・。

 正解は、小野お通。

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池波正太郎著『真田騒動ー恩田木工ー』(新潮文庫)

 この小説は、池波正太郎の『信濃大名記』(新潮文庫『真田騒動ー恩田木工ー』所収)だ。
 この作品集『真田騒動』には、直木賞受賞作の『錯乱』も収められている。

 代表作『真田太平記』にも、もちろんお通は登場するが、信幸とお通の関係については、この短編の方が、読み応えがある。
 
 池波正太郎は、お通について次のように書いている。
 小野のお通は、その才色を世にうたわれ、宮中にも仕えて女ながら金子二百両、百人扶持を賜わったこともあり、諸礼式、礼法にも通暁しているところから、後には秀吉にも仕え、今は家康の庇護を受けている。先年、千姫が秀頼に嫁したときには、その介添えとして招かれ、大阪城にも暮したことがあったらしい。
 また、お通は、浄瑠璃節の作者でもあり、笹島検校が節付をして名曲と評判の「十二段草紙」は彼女の筆になったものだった。

 時は大阪冬の陣の和議の後。
 引用したのは、お通の家で、信幸と信繁が密会する場面へと続く前段の部分。

 二人が、どんな会話をしたのかは…本書をお読みのほどを。

 さて、池波が、夏の陣を前にして、信幸と信繁の兄弟を引き合わせた家の主、小野お通という女性は、謎の多い人だ。

 引用した「十二段草紙」の作者という説は、浄瑠璃節はもっと以前からあったとされており、彼女の作という説はほぼ否定されているようだが、才色兼備の女性だったことは間違いなさそうだ。

 書の大家として「お通流」という名もあったらしい。

 夏の陣の後に時を進めて、引用を続ける。
 幸村の遺髪が、この手に届くなどとは、思ってもみなかっただけに、沈着な信幸も、
「あ・・・・・・」と、低く叫んだ。
 遺髪は、小野のお通から送られたものだった。
 鈴木右近が、お通の手紙と幸村の遺髪を持ち、単身、沼田へ戻って来たのは、あと数日で元和元年(1615年)も暮れようとする今日の、たった今しがたのことである。
 城内三の丸にある居館の一室には、信幸と右近だけが向い合っていた。
「どうして、手に入れたものであろう・・・・・・?」
「私も、少々驚きました。何度も問うてみましたが、話してはくれませぬ」
「そのほうが、お通殿の館へ受け取りにまいったのか?」
「はい。一人きりで、隠密に来てくれとの知らせがありましたので・・・・・・殿。京で小野のお通と申せば、宮中はもとより諸侯方も一目置くほどの才女。ました大御所様から扶持を頂いているだけに顔も広く、幸村様御討死と聞き、大坂へ手を廻してくれたかとも・・・・・・」
「いや・・・・・・すでに、その前に・・・・・・手を廻してくれていたのかも知れぬ」
 幸村の首は、家康や秀忠の首実検に供えられた後、どこかへ埋められたことは確かだが、その間隙を縫って、お通の手がどこからどうして伸び、一握りの遺髪をつかみ取ってくれたのだろうか。
 お通の手紙には・・・・・・幸村様の御遺髪をお届けする、と簡単に記され、その後に、
「私の父も良人(おっと)も兄も、今川から徳川、豊臣に仕え、度重なる合戦に皆死に果ててしまいました。貴方(あなた)様が幸村様とお会いになされたときのことが、この胸の中から拭うても拭い切れずにおりまする」
 とある。
 あの日、自分へ示してくれた好意は、成程こういうところから出たものかと、信幸は、合戦の傷跡が、女にとって、どれだけ深いものなのかを今更に思い知らされたような気がした。
「再び何時(いつ)、お目にかかれることかも知れず、ひたすらに・・・・・・」
 ひたすらに御自愛をお祈りする、と書かれてある、その一字一句を食い入るように追いながら、あわただしい動乱と心痛に耐えつつ、努めて追い払い掻き消そうとしてきた彼女の面影が、今はどうしようもなく信幸の血を騒がせずにはおかなかった。
(会うとも・・・・・・会わずにはおかないぞ)
 信幸は叫んだ。

 さて、その後、信幸はお通と会うことはできたのかどうか・・・は、本書でお確かめのほどを。


 池波正太郎は、お通と信幸の関係について、実に清々しく、かつ謎めいた描き方をしている。

 だからこそ、読む者は、お通という人物像への空想が膨らみもする。

 戦乱の世に翻弄され、頼るべきは自分自身とばかりに芸を一心に磨いて生き抜いてきた、一人の女性像が浮かぶ。

 さて次は、大河「真田丸」だ。

 27日の日曜日、関内での柳家小満んの会の余韻に浸りながら、「真田丸」第47回の「反撃」を見た。

 冬の陣の後の和睦、そして徳川の策略通りに大阪城の堀の埋め立てが始まり、豊臣方の武士たちが分裂しかかる。
 しかし、後藤又兵衛が率先し、信繁をリーダーとして反撃しよう、と皆の気持ちがまとまったということが骨子なのだろうが、私はある場面で驚いた。

 それは、小野のお通の家で、彼女の膝枕でくつろぐ信幸の元に、正室の小松(お稲)と側室の清音院(おこう)が乗り込んだ場面だった。

 まず、信幸とお通が、そんな関係であること自体、違和感あり。

 そして、正室と側室の行動も、ありえないと思う。

 小野お通の住まいは、京都だ。

 いわば、夫の浮気の現場を押さえるために、沼田から京都に二人は出向いた、ということ。

 そして、二人の追求に対し、お通は、信幸はあくまで客の一人、と言って請求書を信幸に渡す。
 そして、次の客がすでに待っているから早く帰ってくれと言う始末。


 私が池波作品を読んで描いてきたお通像から、あまりにかけ離れていた。

 演じる女優さんのことは置いておく。
 ちなみに、NHKのドラマ「真田太平記」(昭和60年4月~昭和61年3月)では、お通を竹下景子が演じた。
 30年前、である。

 史料に乏しく謎の多い女性だから、お通をどう描くかは、作家、脚本家の腕次第という面もあるだろう。

 しかし、小野お通が、あんな人物であるとは、私には思えない。


 NHKの大河は、数年前から、若い世代の視聴者率アップを意識しているのか、お手軽なホームドラマのような内容になりつつある。

 だから、きりは、現代風の言葉づかいになっているのだろう。
 まるで、電車の中で耳にする若者たちの口調ではないか。

 過日、真田丸の大阪を名ガイドとして一緒に散策していただいた山茶花さんは、きりは枝雀の落語理論における「緊張」と「緩和」の「緩和」でしょう、と見事な指摘をされた。
 
 たしかに、ドラマの中では、そういう役割はあるのだろう。

 しかし、まだ修業の足らない私は、きりの言葉づかいや、今回のようなお通の姿を見ることで、やたら「緊張」を強いられるのである。

 小田原攻めの際、北條に降伏を進言する役を黒田官兵衛ではなく信繁にしたことで、一度は見るのをやめようと思っていながら、なんとかここまできてしまった。

 最後まで付き合うつもりだが、しばらく控えていた小言は、我慢せずに書くことにしよう。


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by kogotokoubei | 2016-11-29 21:36 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)

 来週で、NHKの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」が終了する。

 朝ドラを「歴史ドラマ」と考えるかは異論があるかもしれないが、私は明らかなモデルがいる以上「歴史ドラマ」であるべきだと思っている。

 そういう意味では、いろいろ小言を言いたいこともあったが、これまで書かないでいた。
 しかし、終了を目前にして、いろんなメディアで、モデルとなった「暮しの手帖」の関係者から、ドラマの内容が事実とは違うという指摘、批判を取り上げているようだ。
 我らが「居残り会」のリーダーである佐平次さんも、記事を書かれていた。
「梟通信~ホンの戯言」の該当記事

 佐平次さんも紹介した記事の引用を含め、朝の「歴史ドラマ」について書いてみることにした。

 まず、「週刊朝日」からの引用を含み「LITERA」の記事から。
「LITERA」の該当記事

朝ドラ『とと姉ちゃん』を、本家「暮しの手帖」が痛烈批判! 花森安治の反権力精神を描かないのは冒涜だ
2016.09.17

 10月1日で最終回を控えるNHK連続ドラマ『とと姉ちゃん』。スタートから毎週連続して視聴率20%以上をキープする快進撃が続いているが、ここに来て「ドラマと事実とはあまりに違う」という批判が噴出している。

 ドラマのモデルとなった当の「暮しの手帖」(暮しの手帖社)からも、『とと姉ちゃん』についてこんな声明が出された。

〈現在ドラマでは、あるメーカーと『あなたの暮し』が対立関係として描かれています。自社製品の評価が低いことに激怒したメーカーの社長から、常子たちは数々の嫌がらせを受けます。
 一方、実際の商品テストでは、大手メーカーはテストの結果を前向きに捉え、性能の改善へ繫げることが多かったそうです。こうしたメーカーの努力の甲斐もあり、メイドインジャパンの製品の質は次第に向上していきました〉(暮しの手帖社facebookより)

 ドラマで大きなモチーフとなっている「商品試験」について、「実際の商品テストでは」とその差異を強調したのだ。

 また「暮しの手帖」現編集長・澤田康彦氏も、ネットサイト「entertainment station」インタビューで
〈大前提として、あれは事実を元にしたフィクションです。古くからの『暮しの手帖』の読者からは『全然違う、指摘しないの』という声をいただくこともあります〉
と、「暮しの手帖」編集部にもドラマについて苦情が届いていることを明かしている。

 そして最も痛烈だったのが「週刊朝日」(朝日新聞出版社)9月23日号に掲載された「暮しの手帖」元編集者小榑雅章氏(78)からの“告発”だ。

 小榑氏は名物編集長だった花森安治氏に18年間師事した愛弟子でもあるが、ドラマと事実の相違点についていくつもの具体例を示し異議を唱えている。例えば花森氏をモチーフした唐沢寿明演じる花山伊佐次と高畑充希演じる小橋常子のモデル大橋鎮子氏の関係は「花森さんの指示のもと、走り回っていた編集部の一人」であり、実際の花森氏はスカートなど履いたことはなく、また「商品テスト」での企業の嫌がらせもなかった――などだ。

 確かにこれらの指摘は関係者にとっては重要なものだろう。とはいえドラマはあくまでフィクションであり、史実とドラマの設定や展開が多少違うことは珍しい話ではない。だがドラマにはフィクションとしても看過できない根本的な欠落、問題があった。それが戦争責任と公害という2つの問題だ。

 小榑氏は、公害問題についてこう語っている。

「あの時代は公害問題が出てきて、人々の生活が脅かされていました。『暮しの手帖』では、食品色素の危険性も指摘しました。当時は、食品にいろんな色素が入っており、それが体に害がある恐れがあるにもかわらず、国は黙認していました。編集部でアイスキャンディーを何百本も検査した結果、4本に1本の割合で大腸菌が検出されたこともありました。食品公害という言葉を作ったのは『暮しの手帖』なのです」(前出「週刊朝日」より)

 しかしドラマでは食品公害については一切触れられることはなかったのだ。

 そして、それ以上に小榑氏が譲れないと憤るのが、花森氏の戦争責任についてだ。

 確かに花森氏は日中戦争で徴兵され旧満州で従軍し、除隊の後は大政翼賛会実践宣伝局に勤務し、“進め!一億火の玉だ!”などの戦意高揚のポスター制作に携わった。そのためドラマではその戦争責任を反省して「暮しの手帖」を創刊したことになっているが、小榑氏によれば実際の花森氏の思いは別のものだったという。

「僕は自分に戦争責任があるとは思っていない。だからこそ、暮しの手帖を始めたのだ。(略)なぜあんな戦争が起こったのか、だれが起こしたのか。その根本の総括を抜きにして、僕を血祭りにあげてそれでお終いというのでは、肝心の問題が霧散霧消してしまうではないか」

 ドラマのようにわかりやすい“戦争責任”というストーリーではなく、その根本を問う。そして「お国のために」と騙されたことで「国とはなんだ」を問い続けたという花森。そして、その答えこそ「庶民の生活」だった。

「庶民が集まって、国がある。国があって庶民があるのではない。(略)国にも企業にも騙されない、しっかりと見極める人々を増やして行く、それが暮しの手帖の使命だ」

 花森はあくまで庶民の立場に立ち、国家や企業と闘った反権力ジャーナリストだった。
 
 小榑氏は、きっと見る度に、歯ぎしりしていたのだろうなぁ。
 80歳に近い元編集者であり花森安治の弟子は、きっと、こらえきれなかったのだろう。

 こういう指摘がある中、制作者側はどう考えているのか。
 引用を続ける。
『とと姉ちゃん』でプロデューサーを務める落合将氏が「Yahoo!個人」インタビューで「暮しの手帖」を“モデル”ではなくあくまで“モチーフ”にしたとしてこんな発言をしている。

〈――花山のモチーフになった花森安治さんに忠実に描いてしまうと彼の思想的なことが入らざるを得なくなりますよね。

落合 そこは正直、微妙です。花森さんはわりと反権力的な方で、政治や政府にも一家言があったとされている。そこを朝ドラでストレートにやるにはなかなかハードルがある〉

 ドラマにしておきながら「花森安治の思想は正直、微妙」って……。だったらなぜモチーフにしたのかと問いたくなるが、要するにそもそもNHKは花森の反権力というジャーナリストとしての思想を描くつもりなど毛頭なかったのだ。

 こうした経緯を踏まえた上で小榑氏が指摘するのが花森、そして「暮しの手帖」のジャーナリズムとしての姿勢だ。

 小榑氏は「権力の番人」というジャーナリズムの基本について“中立はない”としてこう断言している。

「当時、『暮しの手帖』には中立というものがなかった。庶民の立場に立って、こうなってはいけないと思うから発言する。『ジャーナリストは命がけなんだ』『牢獄に入ってもよい覚悟があるか』と花森さんによく言われました」

“ジャーナリズムに中立などない”。確かにこの小榑氏の指摘はあまりに重要だ。

 とくに安倍政権発足以来、公平性や中立といった言葉を権力が恣意的に解釈することにより、日本のメディア、ジャーナリズムはそれに屈し、萎縮や自粛を繰り返してきた。
 

 プロデューサーが言う、“朝ドラでストレートにやるにはなかなかハードルがある”の“ハードル”とは何か・・・・・・。
 もし、反戦、反権力という花森安治の姿勢を表現することにハードルがあったのなら、LITETAの記者が言うように、初めから取り上げるべきモデルではないのではないか。

 そして、「モチーフ」であって「モデル」ではない・・・というのは、なんとも理解しがたい発言だ。
 明らかに、逃げの言葉。
 本名に近い名をつけているし、誰が見ても「モデル」であろう。
 そして、「フィクション」ではなく、特定の人物や会社、その時代を対象にした「歴史ドラマ」であるはずだ。
 それは、朝ドラだろうが、大河だろうが、違いはないはず。

 また、何をもって「中立」と言うのかは難しいテーマだが、紹介した小榑氏の主張は、あの雑誌に真剣に関わってきた編集者の骨太なジャーナリストとしての哲学、了見を感じる。

 拙ブログでは以前にもNHKのドラマにおける、歴史の歪曲について書いたことがある。

 2014年12月には「花燃ゆ」と「花子とアン」について、、2015年5月に「マッサン」について書いた。
2014年12月24日のブログ
2015年5月28日のブログ
 
 今回と同じような戦争に関わる登場人物のい姿勢については、「花子とアン」において、村岡花子が好戦的な発言をしていたことが、まったく隠されてしまった。内閣情報局と大政翼賛会の指導のもとに結成された文学者組織である日本文学報国会の存在なども、ほとんどあのドラマでは触れられなかった。
 代わりに、別な登場人物が好戦的であり前線への慰問などもしていたが、村岡自身の文学報国会での活動などを描かなかったのは、NHKの“ハードル”の高さなのだろう。

 しかし、それでいいのだろうか。
 
 テレビドラマは「ジャーナリズム」とは無縁なのだろうか・・・・・・。
 「モチーフ」としているだけで「フィクション」だから、メディア側の都合で、モデルとなった人物のことについても、史実を無視したり、より分かりやすいように脚色してもいいのだろうか・・・・・・。

 モデルがある以上、そのドラマは「歴史ドラマ」としての責任を負うのではないか、と私は思う。
 そして、歴史を描くということは、大いにジャーナリスティックな活動だと思う。

 そこで、あらためて「中立」ということに戻る。

 兄弟ブログの「幸兵衛の小言」の記事と重複するが、あるジャーナリストの言葉を紹介したい。
「幸兵衛の小言」の該当記事

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*古本うしおに堂さんのサイトに綺麗な写真があったので拝借しました。
古本うしおに堂サイトの該当ページ

 『ペンの自由を支えるために』は、実は、私が新聞記者を目指していた頃の座右の書だった。
 その後、新聞記者にならずに、別の業界に進んだのだが、この本はまだ本棚のいつもの場所に置いてある。
 著者須田禎一さんは、1909年に茨城県で生まれ、東大文学部を卒業し朝日新聞に入社。戦時中は上海などに赴任。戦後朝日を退社し、一時教職に就いたが、その後、北海道新聞の論説委員となった。60年安保で北海道新聞の鋭い政府批判を書いたり、後年は道新のコラム「卓上四季」を担当された。北海道に生まれ高校卒業まで暮らした私には、馴染み深いコラムだった。須田さんはフリーとなってから上記を含む著作を発表されている。

 『ペンの自由を支えるために』から引用する。
 燕が一羽とんできただけでは春とは言えない、といわれる。しかし、桐の一葉が池に落ちるのを見て“天下の秋”を予知する能力を、ジャーナリストは必要とする。最も重要なことは、その予知力を“先物買い”や“バス先乗り”に用いるのではなく、大衆のための耳目として活用することである。つまり、来るべき“秋”を“凋落の秋”ではなく“結実の秋”とするような方向へ持ってゆくことである。そのためには、いわゆるマスコミが“社是”として掲げる「公正」「不偏不党」を偽善として冷笑するのではなく、自らの位相に立って活用することである。
 果たして、今の新聞人には、桐の一葉が池に落ちるのを見て“天下の秋”を予知する能力はあるのか・・・・・・。
 もしその能力があっても、大衆のための耳目として活用する料簡はあるのか・・・・・・。

 須田さんは、紹介した文章の後で、著書『独絃のペン・交響のペン』から、1968年3月の成田空港反対闘争において、TBSのマイクロバスが反対同盟のプラカードを載せたことが“報道の中立性を侵す行為”として大量処分となったことに強く抗議している内容を紹介しているが、その中に次のようにある。
 報道の中正、主張の公正、ということは、右と左との算術的中間、ああでもないこうでもないの曖昧性を意味するものであってはならない。また惰性的な生活意識に基づく“社会通念”の上に寝そべるものであってはならない。侵略者の暴力と被侵略者の暴力とが対峙するとき、被侵略者の側に立って報道することこそが、中正で公正なのだ。

 紹介した須田さんの主張は、花森安治と相通じるものがあるように思う。

 ドラマでは主人公の「女性のために」という姿勢が強調されるが、もっと、庶民のために、生活者のために、弱き者のために、という花森の姿勢が描かれて欲しかった。

 今や、貴重な「ジャーナリスト」が登場するドラマであった以上、その内容は、どっちつかずの“算術的中間”や“曖昧”なものではなく、その人が“被侵略者”の側において堅持していた了見を、忖度することなく伝えるドラマであって欲しかった。

 制作者側は「モチーフ」とするだけの「フィクション」であると主張しようが、見る側は、ある特定「モデル」の人生が描かれていると認識しているだろう。
 だからこそ、明らかに誤った脚色や、重要な史実の隠蔽は、モデルの当人や周辺の人々にとっても、そして視聴者にとっても、許せない歴史の捏造ではないのか。

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by kogotokoubei | 2016-09-24 12:20 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(6)
 今まで、何度か記事を書こうと思いながら、すでに「犬伏」は過ぎ、あっと言う間に第二次上田合戦も、関ケ原も終わってしまった。
 「超高速」で「参勤交代」をするという映画があるが、まさに「超高速」大河である。
 「50秒の関ケ原」などと、メディアでも話題になっているようだ。

 小山評定は短いだろうなぁ、とは思っていたが、まさかまさか、真田としては重要な第二次上田合戦は戸石城を巡る真田兄弟の策略を少しだけ描いて見せたにすぎず、上田城を攻めきれずに徳川秀忠が関ケ原に“遅刻”することなどは、触れていない。

 犬伏の別れでは、信幸の、いや役者大泉洋の株を上げたようだが、私としては想定内でもあり、堺とは一回り役者としての器が大きい、と私は思っている。
 個人的には、北海道ローカル番組ではないから無理だろうが、信繁を大泉にして安田顕が信幸という、「TEAM NACS」でのキャスティングが良かったと思っている。
 
 来週、もう「九度山」の“さわり”になるようだが、少し先を急ぎ過ぎではないのか。

 たしかに、小山評定にも、関ケ原にも、真田勢は登場しないから、百歩譲ろう。
 しかし、第二次上田合戦を、あんなに軽く扱うのは、間違いだと思う。

 いくつも、描くべき素材がある。
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池波正太郎著『真田太平記 第七巻 関ケ原』(新潮文庫)
 たとえば、『真田太平記』では、昌幸が徳川方に大嘘をついて時間稼ぎをする前に、上田城下の東を流れる神川の近くにある国分寺で、信幸と彼の義弟にあたる本多忠政の二人と、昌幸とが会談する場面が描かれている。
 少し引用する。
 武装もせぬ昌幸は、わずか十五名ほどの供を従えたのみである。
 客殿へ、本多忠政と真田信幸があらわれると、
「おお、伊豆殿・・・・・・」 
 安房守昌幸が、にんまりとして、
「伊豆守殿には、さだめし苦衷のことでござろう。察し入る。察し入る」
 ことさらに、丁重な物腰であった。
 父子とはいえ、いまは敵味方にわかれた昌幸と信幸だし、本多忠政もいる手前、昌幸も親密な態度や言葉づかいはせぬ。
 昌幸は、長男の嫁の弟にあたる本多忠政を見知っているし、
「一別以来のことでござるな」
 何のこだわりもなく、笑いかけたが、忠政は、まさか笑ってもいられぬ。
 真田昌幸については、
「稀代の謀略家である」
 との、天下の評価が、うごかしがたい。
 本多忠政にしてみれば、昌幸の微笑の底には、
(何が潜んでいるか、知れたものではない・・・・・・)
 そのおもいが消えぬ。
 二十六歳の、若い忠政の顔(おもて)が緊張しているのを見やった信幸が、
「安房守殿」
 と、父へ呼びかけた。

 さぁ、信幸はこの後、敵となった父に、何を言うのだろうか・・・・・・。
 犬伏の別れの後、親子で敵味方に分かれた昌幸と信幸の出合いは、二人の役者にとっても、腕の見せ所だったと思うのだが。

 「真田丸」では、信濃国分寺の場面はないものの、策士昌幸に秀忠が、まんまと騙されたことは描かれた。
 秀忠が怒り心頭に発し「総攻撃だ!」と叫んでいるのを、傍らで冷やかに見ている、お目付け役の本多正信。
 近藤正臣が、あの評判の悪い(?)正信を好演しているのは、このドラマの見どころの一つ、ではある。
 
 第二次上田合戦は、第一次合戦ほど戦闘面での激しさはないが、もう少し描き方があったと思う。
 なぜ秀忠軍三万八千が、その十分の一にも満たない上田軍を攻めきれなかったのか、という疑問に答える脚本、演出とは思えなかった。
 
 歴史的には、秀忠が関ケ原に遅れた理由には、いつくか説がある。
 もちろん、上田城攻めに苦労していたことも要因と考えられるが、家康から関ケ原(実際には赤坂の陣地)に急行せよという秀忠への密使が、悪天候で遅れたことも指摘されている。
 はたまた、勝機と見て秀忠の到着を待っていられずに、家康は戦闘を始めたのではないか、という説もある。
 次回以降の回顧談でふれるかもしれないが、真田に関係しないことは、スルーの可能性が高いだろう。

 このあたりは、真田家が関係するしないにかかわらず、歴史好きにとっては、結構、興味深い謎なのである。果たして、三谷はどう描くか、と思っていたのだがなぁ。
 
 また、沼田城を訪れた昌幸と信繁は、信幸の妻お稲(小松姫)に追い返されるのだが、その後、稲は、こっそり孫の顔を昌幸に見せたという逸話も伝わっている。真田一族の伝記「滋野世記」にある話なのだが、正直言って信憑性は疑わしい。
 しかし、これまでの「真田丸」の流れからするなら、これはあっても不思議のない場面ではないかと思っていた。三谷が信憑性なしと判断したのか、時間を急いだのか・・・・・・。

 歴史小説や歴史ドラマは、史料や手紙などを踏まえた上で、虚実皮膜を描くことで、読む者、見る者の想像力をかき立てるのも、魅力の一つ。

 「それもあるか!」と思ったり、「そりゃ、ないでしょう!?」と呟いたり。

 作者や脚本家の洞察力が深ければ深いほど、虚実皮膜における醍醐味があり、その物語に厚みが増してくるというものだろう。

 この大河、「超高速」となることで、「超軽量」になりそうな気がしてならない。
 
 真田が主役なのは百も承知だが、昌幸が、信幸が、そして信繁が、どういう時勢の移り変わりの中で、決断し発言し行動したのかということは、もっと人間心理の深いレベルで描いて欲しい。

 小田原攻めで、北条に降伏を勧めたのが黒田官兵衛ではなく信繁だったとき、見るのをやめようかと思ったが、芸達者も数人いるだけに、しばらくは見るつもりだ。

 池波正太郎は、インタビューで「当時の人間は、死ぬ日のために、いかに生きるかを日々考えていた」という主旨の発言をしている。

 そういった、あの時代の武士に備わっていた覚悟のようなものが、今後の内容で、少しでも登場人物から伝わってくることを期待する。

 次回は、昌幸、信繁への処分軽減のために奮闘する信幸の姿が描かれるのだろうが、お涙頂戴の演出に陥るのを危惧する。

 九度山以降の場面は、「難波戦記」と比べて見ることになるだろう。

 あの講釈で描かれる信繁の姿を堺に期待するのは、酷かもしれないが、“三谷講釈”には、「ほう、そうきたか!」と、少しは観客を唸らせて欲しいものだ。


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by kogotokoubei | 2016-09-13 23:36 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 昨日の記事で、成人の日、元服ということにからめて、久しぶりに見たNHK大河(「真田丸」)のことを少しだけ書いた。

 出演者や「あらすじ」については、NHKサイトのこのドラマのページをご参照のほどを。
NHKサイトの「真田丸」のページ

 前作「花燃ゆ」が、主役の設定や時代考証などに大きな問題があったことは、何度か書いたので繰り返さないが、私のように途中からあのドラマを離れて行った人たちは、少なくないだろう。

 その間、同じNHKの木曜時代劇や、BS、CSで好きな時代劇などを観てはいたが、やはり大河は別格であり、毎週、一年も続く番組が楽しいものであるにこしたことはない。

 真田、といえば、NHKは、以前に池波正太郎の「真田太平記」を放送した。
 
 しかし、大河ではなかった。
 昭和60(1985)年4月から翌年3月まで、水曜日の午後8時からの放送で、「宮本武蔵」に続く新大型時代劇シリーズの第二弾として制作された。

 当時の大河は、昭和60年が「春の波濤」、翌年が「いのち」で、明治・大正や昭和を舞台としたドラマであり、戦国時代や幕末を対象としていなかったこともあって、時代劇ファンの“喉の渇き”を癒すために制作されたように思う。


 「真田太平記」は、昌幸を丹波哲郎、信幸(之)を渡瀬恒彦が演じ、他にも多くの芸達者が脇を固めた傑作で、その年のギャラクシー賞を受賞した。

 「真田太平記」で信繁(幸村)を演じた草刈正雄が、「真田丸」では、信繁の父である昌幸に扮しているのも、なかなか味のあるキャスティングだと思う。
 草刈の演技力も良かったが、何より、30年前に丹波が演じた昌幸に接していることが、大きな財産になっているのではなかろうか。
 決して丹波を模倣しているということではなく、あの時代の真田家における昌幸という人物像について、深く考察できるだけの蓄積があるように思う。

 また、三谷幸喜は、結構、「真田太平記」を意識しているだろう。
 良い意味で、30年前のドラマにライバル心を燃やして欲しい。


 「銀漢の賦」や「まんまこと」などの木曜時代劇も楽しめる作品ではあったが、回数も少ないし、歴史的人物に題材をとる時代劇ではなかった。

 NHKサイトの「真田丸」のページに、脚本の三谷幸喜が、一年を通じて主人公の人生を追体験できるのは大河だけ、と言っているが、まさにその通りだろう。

 そして、三谷は「敗者」だからこそ“惹かれる”とも語っている。
 
 少数の勝者と、圧倒的大多数の敗者が存在したのが、戦国時代。

 歴史ドラマファンは、やはり、その戦国時代が好きなのだ。

 この一年間、乾いていたそんな時代劇ファンの喉を潤すドラマになって欲しいと思うし、第一回を見て期待はできそうだ。

 次回は、武田家の滅亡で織田軍に責められる真田家が、果たして北條につくか、それとも上杉に頼るか、というのが主題となりそうだ。

 その後も真田家は、主を替えてしぶとく生き延びようとする。

 関ケ原を直前にした上田城の攻防や大阪の陣という大きな戦いだけではなく、戦国の世でひときわ異彩を放った真田の父子がもがき苦しむ姿を含め、ぜひ生き生きと描いて欲しいと思う。

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by kogotokoubei | 2016-01-12 21:43 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)
 最終回「朝を覚えず」の録画を見た。

 見逃した方は、NHKサイトにあるように、総合で10月8日(木)午後2時5分から再放送ですよ。
NHKサイトの「まんまこと」のページ

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畠中恵著『ときぐすり』(文春文庫)

 この物語は、シリーズ四冊目『ときぐすり』所収六作の最初の話。
 ①朝を覚えず
 ②たからづくし
 ③きんこんかん
 ④すこたん
 ⑤ともすぎ
 ⑥ときぐすり

 前回「鬼神のお告げ」で麻之助の愛妻お寿ずが旅立った。
 
 さて、傷心の麻之助にどんな騒動が待ち受けていたのか。
 まずNHKのサイトにある「次回予告」の内容から引用。

西節という医者が作った眠り薬を飲んで二人の町人が死んだ。薬の名は甘夢仁散といい、酒と一緒に飲むと危ないらしい。麻之助(福士誠治)は清十郎(桐山漣)、吉五郎(趙珉和)とともに薬の謎を追う。長崎帰りの医者に調べてもらうと、オランダ渡来の薬らしいが処方を知る医者は少ないという。西節は薬の適量を確かめるために人体実験をしたのではないか? 麻之助は無謀にも自ら酒と一緒に薬を飲み、効き目を試めしてみることにする...。
 文春の「本の話web」の「まんまこと」のページからも、同じ位の文字数のあらすじを引用する。
文藝春秋の「本の話web」の「まんまこと」のページ

妻のお寿ずを亡くしてから一年。それなりに町名主の仕事をこなし忙しくはしているが、本来の姿には程遠い麻之助。似ているとはいえ、今日もまた家にやって来たおこ乃を「お寿ず」と呼んでしまった……。そんなある日、麻之助は清十郎から眠り薬をめぐる騒ぎの相談を受ける。太源という若い医者が処方したその薬は、飲んだ人間によって効能がおそろしく違うという。同じ薬であるはずなのに、なぜ? 理由を知りたいと考えた麻之助は、捨て身ともいえる危険な方法でその謎に迫るが――。

 原作と放送で医者の名(太源-西節)や薬の名(甘夢仁湯-甘夢仁散)が違うという細かいことは無視するとして、こうやって並べてみると、概要を書くにしても、人(メディア?)によって違うのが分かっておもしろいね。
 
 原作と放送との違いなどについて。
 放送の方が、麻之助がお寿ずを失って自暴自棄になっている状況を強調していたが、違和感はない。酒や遊びに逃げても仕方がない、と思う。
 麻之助が間違うくらいお寿ずに似てきたおこ乃は、「もしかしたら、同じ女優さんが演じるかな?」などとも思っていたが、そうではなかった。もし、南沢奈央が演じたら、見る方で混乱するかもしれないから、妥当だろう。
 清十郎が惚れていた桧山うめ吉演じる小唄の師匠おと吉が去った。その清十郎と義母であるお由有の関係が微妙になった演出だったが、これもありえることだ。年齢的には近い男女であり幼馴染なのだから、一緒に住む清十郎が父亡き後にお由有を見る目も変わるだろう。

 このシリーズ全体として、脚本、演出は良かったと思う。
 原作の4冊、計24の物語から選んだ作品も、私の思いと近く(^^)、妥当だった。


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 4作からの10の物語の選択は次のような結果だった。

①『まんまこと』から4作。
  第1回「恋、一途」
  第2回「万年、青いやつ」
  第3回「こけ未練」
  第4回「静心なく」
②『こいしり』から3作。
  第5回「こいしり」
  第6回「清十郎の問い」
  第7回「せなかあわせ」
③「こいわすれ」から2作
  第8回「おさかなばなし」
  第9回「鬼神のお告げ」
④『ときぐすり』から1作
  最終回「朝を覚えず」

 あらっ!
 4->3->2->1、ということか・・・・・・。

 この法則(?)に気づいていれば、後半の作品すべて予測することもできたはずだなぁ。

 さて、「まんまこと」は、お開き。

 今月下旬、「ぼんくら」の続編の放送が始まる。
 しかし、あの作品は、個人的にあまり乗り気になれない。
 
 なぜかなぁ。
 
 そのうち、自分なりにその理由を考えて記事にしようかと思っている。
 

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by kogotokoubei | 2015-10-03 09:32 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛