噺の話

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カテゴリ:歴史ドラマや時代劇( 43 )

 NHKの朝ドラ「わろてんか」は、とても私には笑えないドラマになっている。

 “モチーフ”である吉本せいも夫も、あまりにも実際の彼らとはかけ離れすぎているし、フィクションとしても、このドラマはつまらない。

 主役夫婦を含め、人間の描き方が、なんとも薄っぺらなのだ。
 
 当時の大阪の空気、上方芸能界の息吹きを、感じることができない。
 

 これまで、このドラマの「チェックポイント」という記事を三回と、関連する記事を三回書いた。
2017年9月25日のブログ
2017年9月27日のブログ
2017年9月28日のブログ
2017年10月5日のブログ
2017年10月21日のブログ
2017年10月29日のブログ

 また、初代桂春団治と吉本せい、という題でも三回記事を書いた。
2017年10月6日のブログ
2017年10月8日のブログ
2017年10月10日のブログ

 矢野誠一さんの本、富士正晴の本、そして山崎豊子の本、などを頼りに書いた記事である。
 それらは、当時の上方の大衆芸能界、落語界の姿を少しでも分かりたいという思いで読んだ本である。

 まったくそういった内容の片鱗をも伝わらないドラマが、「わろてんか」である。
 あるいは、脚色の度が過ぎて、史実や人物の実際の姿を歪曲しているとも思え、誤解を与えかねないドラマになっている。

 たとえば、チェックポイントの三回目、9月28日の記事では、吉本吉兵衛(泰三)とせい夫婦の寄席経営にとって重要な支援者であった、浪速反対派の岡田政太郎がどう描かれるかがポイント、と書いた。

 岡田政太郎を“モチーフ”にしているのは、寺ギンという「オチャラケ派」の大夫元だろう。

 その名も、「オチャラケ派」・・・・・・。

 対するのは、「伝統派」とは、なんとも直球の酷いネーミング。

 実際は、伝統のある古典重視の桂派と、元桂派にいた噺家によって組織された、笑いを優先する三友派の二大派閥があって、その二つに岡田の浪花反対派安い木戸銭で対抗しようとしていた。

 寄席を手にした吉本夫婦は、その反対派の岡田と手を組んだのである。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 あらためて、矢野誠一さんの本から、そのへんのところを確認したい。

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の流れを引き継ぐ一派。

 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 そういった、上方落語界が脈々と胎動していたダイナミズムなども、あのドラマからはまったく伝わることがない。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたのだが、当時の桂派と三友派を向こうに回して、まったくの端席であったから、岡田の反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって生き残りを賭けた重要な転機であった。


 そして、時は流れ、隆盛を誇った桂派は次第に人気が陰って三友派に吸収される形となった。
 そして、勢力を伸ばした吉本は、ついに、その三友派を代表する桂春団治を陣営に取り込むことになる。

 だから、単純に「伝統派」と「オチャラケ派」の対立構造ではない。

 その後、岡田の事業も、吉本興行は吸収することになる。

 寺ギンが元僧侶という設定も、なんとも無理があるなぁ。

 岡田政太郎と同じ、風呂屋の倅でもいいじゃないか。

 “モチーフ”のある“フィクション”と謳っているがために、無理に設定を変えているような、そんな気がしてならない。

 たまには、史実通りの設定でも、いいじゃないか。

 そもそも、「オチャラケ派」という名前を聞いた段階で、私は気が抜けた。

 そして、寺ギンと吉本夫婦との取り分をめぐるギスギスした関係が描かれるのを見て、「これじゃだめだ。吉本夫婦も岡田政太郎も浮かばれない」と思った。

 あの当時、桂派と三友派に対抗するには、売れない落語家や若手、そして、たくさんの色物さんで顔付けした、木戸銭の安い寄席で勝負するしかなく、吉本夫婦にとって、岡田の反対派は、重要なパートナーであっても、敵対する間ではない。

 ある特定の人物を“モチーフ”とするフィクションとことわっているが、その“モチーフ”を描く上で、変えてはいけない部分もあると思う。

 生家の場所の脚色(大阪ではなく京都)、家族構成の脚色(後に事業を手伝う弟たちの不在)も、史実と変える必然性をまったく感じないが、寄席経営の最初の一歩に関し、ここまで“オチャラケ”にされたんでは、ついていけない。

 上方芸能にとって重要な人物たち、そしてその歴史まで“オチャラケ”にされている気がして、見ていてストレスがたまるようになった。

 それでは、健康にも良くない^^

 今週は、落語『堪忍袋』を“モチーフ”にした筋書きのようだが、見ている方の堪忍袋も破れる寸前なのである。

 ということで、さよなら、とても笑えない「わろてんか」!


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by kogotokoubei | 2017-11-28 21:47 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 雨で、今週もテニスは休み。

 ワールドシリーズの第四戦を見ていた。
 これで、2勝2敗か。
 昨日のダルビッシュは残念だったが、前田は良く投げたなぁ。

 今日の9回のドジャーズの攻撃を見ると、このシリーズは、まったく予想できなくなった。
 ベリンジャーの復活は、大きいなぁ。
 しかし、両チームとも、クローザーに信頼が置けない。
 もし、七戦まで行って、果たしてダルビッシュに登板のチャンスが残っているのか、どうか。
  
 などなども考えながら、NHKの「わろてんか」のこと。

 まだ、なんとか、見続けている。

 嫌なら見なきゃいいのに、の声が聞こえて来るが、どこまで脚色し、「モチーフ」の人物や時代背景を逸脱するか、しばらく見てみようと思っている。

 藤岡てんが、駆け落ちした北村藤吉の実家の米穀商で、ほとんど女中奉公をするという筋書きの中で、機転をきかせる場面があった。

 北村屋では、食事する際に、わざと漬物樽の臭いにおいのするようにして、使用人がたくさん食事をしないよう図って(?)いた。
 それを、主人公てんの機転で解決したことが描かれた。

 この話には「モチーフ」である吉本せいの実体験に、ネタ元がある。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)
 矢野さんの本から、引用する。

 せいの奉公先は、月一円五十銭の給金をくれたが、船場でも有名なしまつ屋であった。「身体は労働をいとわず、心は正直に」
 という母親の信条が身についていた幼いせいだが、なにごとも節倹だいいちというこの船場の実業家の家風には苦労させられた。
 大勢の奉公先や女中の食が、あまりすすんではいけないと、漬物樽をわざわざ土蔵のわきの雨のかかる場所に出し、食事中に悪臭がただようようにしたという。
 たまりかねたせいが、朋輩の女中たちにはかった。
「明日から、毎日一銭ずつ出しおうて、土生姜買わへん?それ刻んでかけたら、少しは臭みも消えるやろ・・・・・・」
 これが家老の耳にはいり、せいはひどい叱責を受けた。この叱責は、かなりこたえたらしく、後年機嫌のいいときなど親しいひとに何度も語っているのだが、悪臭をはなつ漬物に生姜を刻むことを提案した、幼からざる才覚を自慢している気味もあった。

 ということで、あの逸話は、せいが奉公していた頃のことを、彼女があとで述懐したものが下敷きになっている。

 次に、「わろてんか」で、北村家にいるてんを母親が訪ね、藤吉の母親にしっかりと釘を刺した後、てんに白い喪服を渡す件があったが、あのネタ元は何か、ということ。


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山崎豊子著『花のれん』

 『花のれん』から引用。
 夫吉兵衛が妾の家で亡くなった後、通夜の最中の出来事。

 多加は、するっと小柄な体を四畳半ほどの納戸の中へ辷(すべ)り込ませ、電燈をつけると、引戸の左側の古い箪笥に手をかけた。赤錆びた鋲の引手が、きしみをたて、折り畳まれた絹々しい衣服の間から、樟脳の臭いが眼にしみた。三段目の引出しに手を入れ、一枚、二枚と着物の裾をはね、一番底になった白い衣服を引き摺出した。強い樟脳の臭気が納戸一杯にたち籠め、白い衣服が多加の肩に載った。白い帯がくるくると胴に巻きつけられ、おたいこの垂れをきゅうきゅっと押え込んで、白羽二重の帯〆めを結ぶと、多加は再びふらふらと、もと来た暗い廊下を伝って奥座敷へ引っ返した。
 「あっ、白い喪服を・・・・・・」
 と、最初に声を上げて腰を浮かせたのは、多加の伯母であった。伯母の横で膝を崩さず、硬い姿勢で通夜酒を含んでいた父の孫一も、体を前のめりにして、狼狽した。座敷一杯の坐った弔問客が、一斉に多加を見守った。
 多加は、初めて自分が、白い喪服を着てしまったことに気付いた。それは多加が堀江中通りの米屋から二十一歳で、西船場の河島屋呉服店に嫁いで来る時、ほかの嫁入り荷物をは別に、父が定紋入りの風呂敷に包んで多加に手渡した着物である。真っ白な重みのある綸子(りんず)に、墨色で陰紋をぬいた白い喪服であった。白繻子の帯と帯〆めを重ねて、無骨な父が、口ごもりながら、
「船場の商家で夫に先だたれ、一生二夫に真見えぬ御寮人さんは、白い喪服を着てこころの証をたてるしきたりがある。お前が小学校へ入った年に死んだ母親が、もし将来、船場に嫁ぐような縁があったら、何をおいても白の喪服だけは、持たしてやっておくなはれと、これだけ頼んで死によったもんや」
 と前置きして、手渡ししてくれた白い喪服である。

 矢野さんが前掲の著書で何度か触れているが、晩年の吉本せいは、自分の体験、逸話をやや過剰に脚色しているふしがある。

 だから、せいの思い出話を、そのまま受け取ることは危険な面もあるのだが、奉公時代の漬物の臭い対策、夫の葬式での白い喪服の逸話は、信用できそうだ。

 それにしても、矢野さんが丹念な調査を踏まえた史伝や、山崎豊子の小説とは、設定なども含め、あのドラマの脚色には理解できにくい面が多い。

 落語で言うなら、本来の古典落語の筋から、あまりにも自分なりにいじり過ぎている、そんな印象。

 そもそも夫の実家に、許嫁(いいなずけ)がいた、なんて設定、どこから引っ張り出したのだろうか。

 そして、もっとも不思議なのは、『花のれん』も同様なのだが、せいの弟が登場しないこと。

 吉本という企業の発展に、林正之助や、林勝(弘高)は大いに貢献した。

 彼らが生存中には、ありえない脚色の実話からの逸脱なのである。

 なんと、山崎豊子は、その弟たちが生存中に『花のれん』を書いている・・・・・・。

 あの作家には、モデル(モチーフ)となった人物からの抗議などが少なくないが、それもむべなるかな、か。

 ある人物や事象に光を当てると、周辺の人物や事象がその影になってしまったり、あるいは、存在そのものが“亡き者(物、事)”となることもあるが、それは結構危ういことではないかと、思うのだ。

 
 「わろてんか」、なんだかんだ小言を言いながら、もう少し見てしまうかもしれないなぁ。
 しかし、とても、わらって見ているわけではないのだ。

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by kogotokoubei | 2017-10-29 14:38 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 自分で、“怒涛の一週間”と呼んでいる日々が、なんとか無事に終わった。
 
 ということで、久々のブログは、つい、先ほどしばらくぶりに見てしまった「わろてんか」のこと。

 ある人物を「モチーフ」とした「フィクション」とことわっているとはいえ、どうしても「モチーフ」となっている人物と、ドラマの人物との違いに、首を傾げざるを得ない。

 吉本吉兵衛(泰三)を「モチーフ」とする北村藤吉の描き方には、その脚色の逸脱ぶりが、気に障る。

 今日の「わろてんか」では、吉本せいを「モチーフ」とする、藤岡てんを嫁にもらいたいため、藤岡家の家族の前で、芸道の遊びはこれきりやめると宣言し、最後の芸として太神楽の升の傘回しを披露した。

 違うのだよ、吉本吉兵衛が好きで、自分でも演じた芸は。
 そして、その芸の違いは、その人物の個性の違いでもあるのだ。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 たびたび紹介している、矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』から引用する。

 昭和37年に歿した大阪の漫談家花月亭九里丸は、東京に出てくると神田伯山、徳川夢声との三人看板で売れた人だが、芸のほうははなはだしく言語不明瞭であまり面白くなかった。終生、吉本興業の禄をはんだことを誇りにしていて、上方演芸の研究家としても確固たる足跡を残している。その編著『大坂を土台とした寄席楽屋事典』(渡辺力蔵刊)で、吉本吉兵衛のことを、
<だらしない極道者ではない>
 としながら、こう書いている。
<好きな道としてその頃大流行の剣舞を旦那芸として覚えたのが病みつきとなって、その芸を大勢の人達に見せたさに、女賊島津お政本人出演のざんげ芝居の大夫元になって、地方巡業をして、泰三自身が幕間に出て、黒の紋付小倉の袴、白鉢巻に白だすき、長い刀を腰にぶち込んで、詩吟につれて、鞭声粛粛夜渡河、暁見千兵擁大牙で飛んだり跳ねたり。少年団結白虎隊、国歩艱難戍堡塞で女の子に手を叩かせたりしてゐたのはよかったが、興行にはズブの素人の悲しさ、狡猾な地方興行師の悪辣なわなに陥されて散々の大失敗。これがため家業の荒物問屋が二度までも差押えの憂き目を見た>
 ここには、大店の若旦那のひとつのタイプがうかがえる。落語家に、縮緬の座布団を贈ったり、高座着をこしらえてやったりしているうちはよかったが、好きが昂じて自分も舞台にといった旦那衆は、よくある型で、その時分は少なくなかったのである。

 このように、実際の吉本吉兵衛は、あくまで、当時の若旦那の遊びとして、自らは詩吟をバックに剣舞を演じ、趣味が昂じて一座を持って失敗した男だ。

「わろてんか」の藤吉のように、芸人に憧れて、一芸人として旅興行に付いて行ったような人物ではないし、自ら演じた芸は、藤吉の傘回しと吉兵衛の剣舞では、あまりにも違う。

 吉本せいの実家の大阪の米穀商、藤岡てんの実家の京都の薬問屋、吉本吉兵衛の実家の荒物問屋と北村藤吉の実家の米穀商、といった設定の違いは許せるが、重要な登場人物は、「モチーフ」とする人物の個性、持ち味を生かして欲しいものだ。

 そろそろ、あのドラマからは退散の時期が近いが、もう少しだけ我慢(?)するつもりだ。
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by kogotokoubei | 2017-10-21 10:32 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』を踏まえ、NHKの「わろてんか」のチェックポイントと題して記事を三つ書いた。

 第二のチェックポイントは、せいのきょうだいは、どう描かれるか、だった。
2017年9月27日のブログ

 見ている方はご存じの通りで、NHKサイトの同ドラマのページでも確認できるように、主人公藤岡せいには、兄一人、妹一人という設定。。
NHKサイトの「わろてんか」のページ

 年齢順に並べると、こうなる。

   藤岡新一
    |
   藤岡てん
    |
   藤岡りん

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 あらためて矢野誠一さんの本から、確認の意味で引用。
 せいの父、林豊次郎は文久元年(1861)十二月十日生まれ、母ちよは、元治元年(1864)三月十二日生まれとある。父二十七歳、母二十五歳のときの子になるせいは三女で、せいが生まれたとき、すでに明治十六年(1883)生まれの長男信之助、二十年(1887)生まれの次姉きくがいた。むかしのひとの例にもれず、豊次郎とちよの夫婦には子供が多かった。せいの生まれたあとも、千之助、正之助、勝、治雄という四人の弟と、ふみ、はな、ヨネ、富子のこれまた四人の妹ができている。死亡した長女をふくめ、十二人のきょうだいである。
 この十二人のきょうだいのなかで、明治三十二年(1899)年一月二十三日に生まれた三男の正之助と、明治四十年(1907)二月一日生まれの四男勝のふたりの弟が、後年のせいの仕事に大きな役割を果たすことになる。四男の勝は、昭和十四年に、その名を正式にそれまで通称として用いていた弘高と変更している。

 亡くなった長女も含め、十二人きょうだい。

 弟や妹の正確な順番は分からないので、弟四人、妹四人の順で並べるてみる。

   林信之助
    |
   林きく
    |
   林せい
    |
   林千之助
    |
   林正之助
    |
   林勝(弘高)
    |
   林治雄
    |
   林ふみ
    |
   林はな
    |
   林ヨネ
    |
   林富子   

 家族構成が、藤岡はなと吉本せいでは、あまりにも違う。

 そして、吉本興行というお笑いの一大帝国を築いた吉本せいを“モデル”にするなら、弟の正之助と勝(弘高)を描かないのは、まったくの片手落ち。

 しかし、“モチーフ”にした“フィクション”だから許されるのだろう^^

 今後、幼馴染の武井風太が正之助を“モチーフ”として、てんを支えるようになるのかもしれないが、「わろてんか」のシナリオなどを調べていないので、どうなるかは分からない。
 もし、そうだとしても、身内と幼馴染とでは、まったく意味合いが違う。

 せいの夫吉本吉兵衛が亡くなる少し前から、吉本せいは、頼りになるのは身内だけとばかりに、正之助を、その後に勝を自分の商売に引っ張り込んだ。

 弟だからこそ姉の意を受けて可能だった面があったはずで、幼馴染では、肉親との関係性に大きな違いがある。

 
 第一週を見ているだけでも、ドラマは、“モチーフ”とは、あまりにかけ離れている印象だ。
 生家の大阪と京都の違い、米問屋と薬問屋の違い、きょうだい構成や富裕度を含めた幼少期の家庭環境の違いなど、フィクションであると強調せんがための設定変更の努力と思えて、ハハハ・・・・・・と笑ってしまえる。

 後に夫となる人物との出会いも、吉本せいと吉兵衛とのそれとは、あまりにもかけ離れた“物語(フィクション)”。

 今後登場する、実際には存在しなかったはずのイケ面俳優演じる人物の登場なども含め、もはや、“モチーフ”という言葉すら相応しくないと思われる設定変更。

 すでに、明白だ。「わろてんか」は、吉本せいの物語ではない。

 チェックポイントの一番目や三番目の検証は、まだ先のことになるが、見続けることができるかどうか・・・・・・。

 チェックポイントの四番目には桂春団治のことを想定していたが、その記事を書くかどうか、思案中。

 ドラマが進むにつれて、吉本せいのドラマとして見ている視聴者の誤解は、どんどん拡大しそうで、それこそ、わろてんか、である。

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by kogotokoubei | 2017-10-05 12:36 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)

 このシリーズ三回目。

 NHKが“フィクション”と謳って、事実との違いについて批判されることから逃げて(?)いる、と前の記事で書いた。

 NHKサイトの「わろてんか」のページの「ドラマについて」にある注(*)をご紹介。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
※ドラマは実在の人物群をモチーフにしていますが、その物語は一人の女性が愛と笑いと勇気をもって懸命に生きる一代記として大胆に再構成し、フィクションとしてお届けします。

 書いてましたね、小さな文字で^^
 “大胆に再構成”した“フィクション”なのだ。

 だから、実際の“モチーフ”(“モデル”ではない^^)となった人物のこととは違うかもしれないよ、ということ。

 しかし、視聴者の中には、“大胆に再構成”する前の、よりノンフィクションに近いドラマを期待する人だって少なくない、と私は思うなぁ。

 また、こうやって注意書きをしていようと、その“モチーフ”となった人が、ドラマのような人生を送ったのだろうと誤解することは、十分にありえる。

 制作者側は、そういう誤解は、あくまで視聴者側の責任と考えるのだろうが、ドラマというモノづくりをする側には、責任はないのだろうか・・・・・・。

 なんてことを思いながら、だったら、どこまでモチーフの人間の人生と、このドラマが違うことを「わろうたる」か、チェックポイントを探ることにしよう。


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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について、矢野さんの本からご紹介。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の一門中心の一派。
 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 以前の記事と重複するが、関山和夫著『落語名人伝』から、桂派を抜けた文都と三友派設立の件を紹介したい。
関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)
 二代目文枝襲名に敗れた月亭文都のファイトは、すさまじものであった。どうしても桂派に対抗して、一旗あげたかったのである。明治25年は、二代目文枝、月亭文都ともに49歳で、人生の峠を登りつめたころである。文都は明治25年4月に三代目笑福亭松鶴と手を握った。三代目松鶴は、二代目文枝の社中に入った恰好で、数年前から文枝の根城である金沢亭で真打ちをつとめていたのだが、文都と通じているということで文枝からにらまれていたようである。かくして松鶴は文枝と訣別した。さらに文都はこの年の10月になって二代目桂文団治とも手を握ることができた。桂文枝にとっては、次から次へといやらしい事件がおこったのである。続いて文都は笑福亭福松というすばらしい噺家を味方にする。
 「浪花三友派」という名が起こったのは、明治26年のことで、明治27年正月興行には大阪南地法善寺内の紅梅亭と松屋町神明社内の吉福亭などに「浪花三友派」の看板があがった。浪花三友派の三巨頭といわれるのは、月亭文都、笑福亭福松、二代目桂文団治の三人だが、三代目笑福亭松鶴、五代目笑福亭吾竹、桂文我も加入していた。
 初代文枝の偉大さ、そして、文枝という名跡の大きさをあらためて感じるねぇ。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたことになる。
 さすがに、両派にも勢いが落ちてきたからこそ、浪花反対派という新勢力が対抗することになったのだろう。

 吉本せいと吉兵衛が、浪花反対派を頼らざるを得なかったのは、第二文藝館の“格”の低さも大きな理由だった。

 矢野さんの本に戻る。
 だいたい、第二文藝館なるものが、天満天神裏という当時の大阪きっての繁華街に位置しながら、寄席の格からいえば最下級の、いわゆる端席であった。いきおい木戸銭のほうも、そう高くはとれず、ふつうの寄席が十五銭の時代に、五銭で出発せざるを得なかった。「五銭ばなし」とよばれるこうした端席に、一流の落語家などはめったに顔を出さない。木戸銭は五銭でも、さらに一銭が下足代に消えるので、実質六銭で落語をきかせるわけである。客のほうは、六銭で落語がきけるとありがたがっても、落語家のほうには、「俺の落語が五銭か」という頭がある。それに、こうした端席ばかり歩いて「端席の藝人」としての評価が下されてしまうことを、腕のある藝人は喜ばなかった。

 第二文藝館は、とても、桂派や三友派の人気者を呼べるような寄席ではなかった、ということ。

 そういう状況において、反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって、飛躍の大きな要因となった。

 第二文藝館の家賃は百円だったというのだが、木戸銭五銭の端席のそれとしては決して安くはない。それでも一晩に七円、旗日といわれる祭日や、天神祭の当日などは三十五円のあがりがあったという。
 この小屋の収容人員が、どのくらいのものであったのか定かではないのだが、わずか五千の木戸銭で三十五円のあがりというのが、尋常な数字でないことはよくわかる。もちろん、当時の寄席にはこんにち見られるような指定席の制度はないし、いうところの入替なしの出入り自由といった畳敷のつめ込み方式で、定員をはるかに上まわる延人員が入場したことは想像に難くない。それにしても、三十五円という金額は、単純計算で五銭の木戸銭を支払った客七百人分のあがり高である。どうつめこんでも、七百人はいらない小屋に、七百人の客をつめこむ方策を生み出したのが、吉本せいの才覚で、後年これがいわゆる吉本商法の基本になったといわれるのだが、果たしてこれもせい個人の考え出した商法であるのか、疑問がないわけではない。この世界のからくりや裏表に精通していたのは、むしろ夫の吉兵衛であったはずで、吉兵衛による入れ知恵のようなものが、まったくなかったとは、ちょっと信じ難い気がするのである。

 本書で著者の矢野さんは、後年、吉本せい自らが、夫の吉兵衛が吉本興行の仕事はそっちのけで、せいが孤軍奮闘していたようなニュアンスで語っているが、実態は違うのではないか、吉兵衛の存在も大きかったのではないか、と度々疑問を呈している。

 吉兵衛については、また今後ふれることとして、「わろてんか」を見る上での三つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(3)
岡田政太郎の浪花反対派は、どう描かれるか


 吉本せいと吉兵衛夫妻にとって、端席の第二文藝館を運営していく上で大きな助けとなった反対派との提携。

 これを、ドラマでは、どう扱うのか。

 あるいは“大胆な再構成”の結果、扱わないのか。

 ドラマを見る上で、これは実に重要なポイントだと思う。

 もし、岡田政太郎を“モチーフ”にした人物が登場せず、よって反対派のような存在も登場しないとしたら、いくらフィクションだと言っても、「それはないよ^^」と、わろてやろうと思っている。

 このシリーズ、ドラマが始まる前に突っ走ってもしょうがないので、今回はここまで。

 始まってから、チェックポイントの最初の三つについて“復習”をし、次のチェックポイントも書くつもり。

 さて、「わろてんか」は、その大胆な再構成で、笑わせてくれるかな^^


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by kogotokoubei | 2017-09-28 00:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)


 さて、このシリーズ(?)の第二弾。

 今回は、まず、吉本せいの生家について。

 著者の矢野誠一さんは、明石生まれという説もある吉本せいのことを調べるため、明石や大阪の役所に出向いている。
 調べてはみたものの、せいの生まれた土地や、生年月日については、結構、謎が多いのだった。

 吉本せいの父親林豊次郎が明石から大阪に出て、天神橋五丁目で米穀商を営んだことはよく知られていて、せいはこの大阪時代に生まれたのだというひともいる。ものごころついた頃のせいは、すでにこの天神橋に住んでいたといわれているので、林豊次郎が大阪に出たのは、明石から転籍した明治三十二年(1899)よりも早い時期であることは確かなようだ。明石市役所にあった戸籍に記されている、明治三十一年一月五日生まれの五女はなの死亡届が、明治三十一年一月十一日付で「大阪府大阪市北区西成川崎」から出ていることでもそれがわかる。
 吉本せいを明石生まれと伝えるのは、父親が明石出身で、せい自身も幼少の頃病を得た際に明石で療養したことがあるからにすぎないというむきもある。事実、一代で巨額の産を成した吉本せいは、いろいろなところに多額の寄附を好んでしたが、明石に関した施設や団体にそうしたことをした形跡がない。もし本当に明石生まれだとしたら、故郷に対して多少ともいい顔をしたがったはずだというのである。いずれにしても、明治二十二年(1889)十二月五日というせいの出生当時は、戸籍に出生地の記載がないから、正確なところはよくわからない。


 当時は、他人の戸籍を調べることができたのだ。
 今思うと、ぞっとするねぇ。
 矢野さんは調査を元に、吉本せいは、どうも父親が明石から大阪に出た後に生まれたのだろうと推察している。

 NHKの「わろてんか」のサイトを見ると、主人公は、京都の老舗薬種問屋「藤岡屋」の長女、という設定。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
 明石はともかく、少なくとも、大阪にして欲しかった。

 まぁ、このあたりから小言を書いているときりがない^^

 次に、せいの家族構成について。

 せいの父、林豊次郎は文久元年(1861)十二月十日生まれ、母ちよは、元治元年(1864)三月十二日生まれとある。父二十七歳、母二十五歳のときの子になるせいは三女で、せいが生まれたとき、すでに明治十六年(1883)生まれの長男信之助、二十年(1887)生まれの次姉きくがいた。むかしのひとの例にもれず、豊次郎とちよの夫婦には子供が多かった。せいの生まれたあとも、千之助、正之助、勝、治雄という四人の弟と、ふみ、はな、ヨネ、富子のこれまた四人の妹ができている。死亡した長女をふくめ、十二人のきょうだいである。
 この十二人のきょうだいのなかで、明治三十二年(1899)年一月二十三日に生まれた三男の正之助と、明治四十年(1907)二月一日生まれの四男勝のふたりの弟が、後年のせいの仕事に大きな役割を果たすことになる。四男の勝は、昭和十四年に、その名を正式にそれまで通称として用いていた弘高と変更している。 
 米穀商としての林家は、決して富裕とはいえなかったが、世間的にかなりの信用を得ていた。その時分の大会社天満合同紡績などにも精米を納めていた。ただ、なにぶんにも十二人きょうだいとあって、幼い頃のせいは、弟や妹の子守りで明け暮れたのも当然であろう。勉強が好きで、またよく出来たから上の学校へ進みたい希望を持っていたのだが、当時の義務教育たる尋常科四年で、その先を断念しなければならなかった事情も、そのあたりにあった。

 十二人きょうだい。

 たしかに、昔は子どもが多かった。
 ちなみに、私の父は十一人、母は十三人きょうだい。

 「わろてんか」では、まさか、名前は替えるとしても、三男の正之助、四男の勝(その後の弘高)は登場すると思うのだが、他の兄弟、姉妹は、結構割愛される可能性がある。

 よって、二つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(2)
せいのきょうだいは、どう描かれるか


 このテーマは、弟、妹が多く子守りに明け暮れていたことが描かれるかどうか、ということも含むテーマ設定。

 すでに、生家の商売は実際の米穀商から薬種問屋に、その場所も大阪から京都に替えている。

 さて、どこまで、家族構成を脚色(?)くれるだろうか。

 どれほど変えてくれても、今回は、笑って見ているつもりだ。

 

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by kogotokoubei | 2017-09-27 08:49 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 来週からNHKの朝のドラマは「わろてんか」になる。

 「ひよっこ」については、トランジスタ・ガールのことについて、一度だけ記事を書いた。
2017年5月6日のブログ

 後半は、どうも馴染めないままだった。
 
 主人公の父親の記憶喪失という設定に違和感があったし、登場人物に、ほとんど感情移入ができない。
 全体的に、軽い、のだ。

 やはり、モデルのいないドラマは、当たり前とはいえ、リアリティに欠ける。
 

 では、モデルがいる場合は、どうか。

 これまた、ドラマでの脚色が許容範囲を超えるように感じると、がっかりする。

 また、主人公のネガティブな面が割愛されることは、これまでも拙ブログで書いている通り。
 「花燃ゆ」のように、重要な人物の存在が無視されたこともある。
 ご興味のある方は、拙ブログの「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリーをご覧のほどを。
「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリー

 さて、来週から始まるNHKの連続ドラマ「わろてんか」は、どうなることやら。

 NHKの同番組のサイトを見ると、原作の名は見当たらず、脚本家の名だけがある。
NHKサイトの「わろてんか」のページ

 これは、昨今の流行(?)のようで、いわゆる「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」であるということを言いたいのだろう。

 だから、モデルは存在するのに、事実と相違していると批判されても、「フィクションですから」と、逃げられると考えているのだろう。しかし、それって、誤魔化しだよね^^

 とはいえ、また、ドラマを見ながら「違う!」と小言を書くのも飽きてきたので(拙ブログの読者のほうが飽きたかな^^)、少し、考え方を変えようと思う。

 「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」という設定なら、こっちも事実とのギャップに怒るより、「ほう、そう変えましたか^^」と、わろうてやろうじゃないか。
 お題が「わろてんか」だしね。

 そこで、ある本を元に、いくつかチェックポイントを提示したいと思う。

 偉そうに言えば、「わろてんか」の、一つの見方を示すことになればいいのだが、というシリーズ。


 さて、「わろてんか」のモデルは、吉本せい。

 なぜ、この時期に彼女を取り上げるのかは、どうもNHKの吉本への“忖度”があるような気がするのは、私だけだろうか。
 
 まぁ、それは置いといて(?)、吉本せいとは、どんな人なのか。

 吉本興業のコーポレートサイトに、「吉本興業ヒストリー」という沿革紹介がある。
吉本興業のコーポレートサイト

 創業年、明治45(大正元)年の内容は、次のようになっている。

4月1日 吉本吉兵衛(通称・泰三)・せい夫婦が、天満天神近くの寄席「第二文芸館」で、寄席経営の第一歩を踏み出す

 そう、明治の最後の年、7月30日から始まる大正の最初の年から、吉本吉兵衛とせい夫妻の寄席経営が始まったのである。
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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 ある本、とはこの本である。

 矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』は、1987年に中央公論社から刊行され、1992年に中公文庫、2005年にちくま文庫で再刊された。そして、朝ドラ放送に合わせてということだろう、9月10日付けで、ちくま文庫の新版が発行された。

 私は、ずいぶん前に中公文庫で最初に読んでいるが、あらためてこの新版で再読。

 NHKのドラマの脚本家は、この本を読んでいないはずはないのだが、さて、いったいどれだけの脚色を施すのやら。

 本書から、上述の第二文藝館に関わる部分を引用したい。

 この第二文藝館のあったという、天満天神の裏門付近を、初めて訪れたのはもう何年前のことになるか。
 京阪電車に、天満橋という駅があるから、そこでおりればすぐわかると判断したのが、東京者の大阪知らずで、ことはさほど簡単ではなかった。造営された天暦三年(949)の頃は天神の森なる鬱蒼とした地であったのだろうが、なにしろ当節のこと、高速道路は頭上を走り、小さなビルは乱立し、とても学問の神様の住む風情などない。それでも、そんな雑然たる街なみを、右に左にしているうちに、ほんとに忽然と眼前に権現づくりの本殿がとびこんでくるあたり、なんだか狐につままれたような気がしないでもないが、ここは正しく天満の天神様で、お稲荷さんではないのである。
 学問の神様には申し訳ないが、学業成就のお詣りはごく安直にすませて、かつて第二文藝館が位置したという裏側に出てみるとこれがなかなかいい。しっとりとしたたたずまいの、薬屋だの、寿司屋だのが目につくだけで、べつにこれといった特徴もない、ごくごくふつうの靜かな文字どおりの裏道なのだが、いかにもむかしさかえた門前町らしい雰囲気が残っていて、ほかにもいろいろな寄席が軒をならべた繁華街であった面影をわずかながら残してくれているのだ。
 この文章は、第一章の「第二文藝館」からの引用だが、矢野さんが天満を取材のため訪れたのは、当時持ち歩いていたとされる富士正晴著『桂春団治』に挟まれていたメモから、1974(昭和49)年頃と察することができる。

 引用を続ける。

 『百年の大阪2』(浪速社)という本に、この地の古老たちが復元してくれたという、明治三十年(1897)から四十年(1907)頃にかけての「新門通り界わい」なる地図が載っているのだが、それによると鰻屋やカレーライス屋、すき焼屋、寿司屋、梅鉢まんじゅうの店などにはさまれて、有名な浪花節の国光席のほか、第二文藝館、万歳の吉川館、芝居の天満座、色物の朝日席、杉の木亭、女義太夫の南歌久、講釈の八重山席などが軒をならべていた。第二文藝館は、浪花節の国光館と、すき焼の千成のあいだの小さな席であった。

 さて、ここで、チェックポイントが思い浮かぶ。

「わろてんか」のチェックポイント(1)
最初の寄席、第二文藝館界隈の様子はどう描かれるか


 吉本吉兵衛&せい夫妻の創業の地をドラマが描かないはずがないので、名前は替えるだろうが、この第二文藝館のあった天満界隈の様子がどう描かれるか、ドラマを見る上で需要なチェックポイントとなるように思う。

 脚本家が見逃しても、時代考証担当が、『百年の大阪2』を調べていないはずはあるまい。しかし、分からないのだよ、最近の時代考証は。考証じゃなく“哄笑”の場合が少なくない。

 せっかく、その昔に古老たちが遺してくれた明治末期の大阪の姿、ぜひ大事に扱って欲しい。

 どんな街並が描かれるのかなぁ。

 今回は、ご挨拶代わり(?)に、ここまで。

 次回は、吉本せいの生家について、矢野さんの本から紹介するつもり。


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by kogotokoubei | 2017-09-25 21:45 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 能村庸一さんの訃報に接した。

 全国紙にも載っているが、「時代劇専門チャンネル」のサイトがもっとも詳しく業績などを紹介しているので、引用したい。

「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

お知らせ詳細
2017.05.22

【訃報】★・・時代劇プロデューサーの能村庸一さんがお亡くなりになりました(享年76)・・★

「鬼平犯科帳」を手がけられた時代劇プロデューサーの能村庸一さんが5月13日にお亡くなりになりました。76歳でした。

1941年東京生まれ。'63年フジテレビ入社。アナウンサーとして舞台中継などを担当した後、編成企画部へ。数々の番組に携わるなかとりわけ時代劇の制作に強くひかれ、「鬼平犯科帳」(中村吉右衛門主演)、「剣客商売」(藤田まこと主演)、「御家人斬九郎」(渡辺謙主演)、「八丁堀捕物ばなし」(役所広司主演)、「忠臣蔵」(北大路欣也主演)などレギュラー番組で20本、単発作品では映画も含め100本に及ぶ時代劇を手がけました。いずれもテレビ時代劇史に燦然と輝く名作です。

受賞も多数。
第20回ギャラクシー賞月間賞 「丹下左膳-剣風!百万両の壷-」('82年)
第31回ギャラクシー賞選奨 「八丁堀捕物ばなし」('93年)
第33回ギャラクシー賞奨励賞 「阿部一族」('95年)
など作品に対する受賞のほか、個人としても90年代・フジテレビ時代劇の企画・プロデュースに対して1999年には第36回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞を受賞。執筆活動も行い、2000年にはテレビ時代劇の歴史をまとめた著書「実録・テレビ時代劇史」(東京新聞出版局)で第13回尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞を受賞しました。

時代劇専門チャンネルには「時代劇ニュース オニワバン!」など情報番組・解説番組への出演から「鬼平外伝」シリーズをはじめとしたオリジナル時代劇の監修に至るまで大変なお力添えを賜りました。

深く感謝するとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

時代劇専門チャンネルでは能村庸一さん最後のプロデュース作品となった「鬼平犯科帳 THE FINAL」を放送します。
〈放送スケジュール〉
7月29日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 前編 五年目の客」  
8月5日(土)よる8:00「鬼平犯科帳 THE FINAL 後編 雲竜剣」


 「時代劇ニュース オニワバン!」の最終回に関するサイト内のページで、能村さんの、あの笑顔を拝むことができる。
「時代劇専門チャンネル」サイトの該当ページ

 「鬼平」「剣客商売」を代表とする能村さんプロデュースの作品は、多くの池波正太郎ファン、そして時代劇ファンにとって、大いなる楽しみであったと思う。

 「時代劇ニュース オニワバン」が昨年終了したのが能村さんの体調に関係したのかどうかは、詳しくは知らない。
 あの番組も、結構好きだった。
 えなりかずきや春風亭三朝(当時は朝也)と能村さんとの楽しいやりとりなども思い出す。

 不定期の放送だったが、「能村庸一がこっそり教える時代劇スターが愛した場所」なども楽しかった。


 自宅近所に高層マンションが建つことにより工事費無料で入会したケーブルテレビのおかげ(?)で、「時代劇専門チャンネル」が、テレビで私がもっとも好きなチャンネルになった。

 「鬼平」は、何度も繰り返し見て飽きない。
 また、池波に限らず、藤沢周平原作のドラマも好きだ。
 仲代の作品がまとめる放送されたりもしている。
 
 
 現在の地上波テレビはスポーツ、ニュースとドキュメンタリー、良質な歴史ドラマや時代劇以外は、滅多に見ない。見るに堪えない、と言った方が良いだろう。
 特に、一山いくらというお笑い芸人が出るバラエティ番組には辟易する。
 また、コメンテーターなどと称して、何ら専門的な知識を持たないタレントが時事問題やら、芸人のスキャンダルに物申すのは、目にするだけで嫌になる。

 要するに、今のテレビの現場には本物のプロがほとんんどいないと思う。
 そして、彼らは、視聴率は気にするが、視聴“質”には無頓着なのだ。

 過去に能村さんがプロデュースしたドラマが今でも鑑賞に耐えるのは、スタッフも俳優も皆がプロフェッショナルの仕事だったからだと思う。
 その現場を離れても、“御意見番”として存在感のあった能村さんだった。

 テレビが、そして時代劇が輝いていた頃のプロフェッショナルが、また一人去った。

 能村庸一さんのご冥福を、心よりお祈りする。

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by kogotokoubei | 2017-05-22 21:17 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
 「真田丸」に関連して、優れた原作を元にしないドラマへの小言(?)を書いた。
 
 では、これまでの大河がどうだったかを知りたくなった。

 Wikipedia「NHK大河ドラマ」から引用。

 第一回「花の生涯」から再来年の第五十七回「西郷どん」までの、題名、放送年、原作、脚本、時代、の順。
Wikipedia「NHK大河ドラマ」
 
1 花の生涯 1963/4-12 舟橋聖一 北条誠 幕末
2 赤穂浪士 1964 大佛次郎 村上元三 江戸
3 太閤記 1965 吉川英治 茂木草介 戦国 - 安土桃山
4 源義経 1966 村上元三 村上元三 平安 - 源平内乱
5 三姉妹 1967 大佛次郎 鈴木尚之 幕末
6 竜馬がゆく 1968 司馬遼太郎 水木洋子 幕末
7 天と地と 1969 海音寺潮五郎 中井多喜夫・須藤出穂・杉山義法 戦国 - 安土桃山
8 樅ノ木は残った 1970 山本周五郎 茂木草介 江戸
9 春の坂道 1971 山岡荘八 杉山義法 安土桃山 - 江戸
10 新・平家物語 1972 吉川英治 平岩弓枝 平安 - 源平内乱
11 国盗り物語 1973 司馬遼太郎 大野靖子 戦国 - 安土桃山
12 勝海舟 1974 子母澤寛 倉本聡 中沢昭二 幕末
13 元禄太平記 1975 南條範夫 小野田勇・小幡欣治・土橋成男 江戸
14 風と雲と虹と 1976 海音寺潮五郎 福田善之 平安
15 花神 1977 司馬遼太郎 大野靖子 幕末
16 黄金の日日 1978 城山三郎 市川森一 長坂秀佳 戦国 - 安土桃山
17 草燃える 1979 永井路子 中島丈博 源平内乱 - 鎌倉
18 獅子の時代 1980 なし 山田太一 幕末 - 明治
19 おんな太閤記 1981 なし 橋田壽賀子 戦国 - 江戸
20 峠の群像 1982 堺屋太一 冨川元文 江戸
21 徳川家康 1983 山岡荘八 小山内美江子 戦国 - 江戸
22 山河燃ゆ 1984 山崎豊子 市川森一 昭和
23 春の波涛 1985 杉本苑子 中島丈博 明治 - 大正
24 いのち 1986 なし 橋田壽賀子 昭和
25 独眼竜政宗 1987 山岡荘八 ジェームス三木 安土桃山 - 江戸
26 武田信玄 1988 新田次郎 田向正健 戦国
27 春日局 1989 橋田壽賀子 橋田壽賀子 安土桃山 - 江戸
28 翔ぶが如く 1990 司馬遼太郎 小山内美江子 幕末 - 明治
29 太平記 1991 吉川英治 池端俊策・仲倉重郎 鎌倉 - 南北朝
30 信長 KING OF ZIPANGU 1992 田向正健 田向正健 戦国 - 安土桃山
31 琉球の風 DRAGON SPIRIT 1993/1-6 陳舜臣 山田信夫 安土桃山 - 江戸
32 炎立つ 1993/7-1994/3 高橋克彦 中島丈博 平安 - 源平内乱
33 花の乱 1994/4-12 なし 市川森一 室町 - 戦国
34 八代将軍吉宗 1995 なし ジェームス三木 江戸
35 秀吉 1996 堺屋太一 竹山洋 戦国 - 安土桃山
36 毛利元就 1997 永井路子 内館牧子 戦国
37 徳川慶喜 1998 司馬遼太郎 田向正健 幕末
38 元禄繚乱 1999 舟橋聖一 中島丈博 江戸
39 葵 徳川三代 2000 なし ジェームス三木 安土桃山 - 江戸
40 北条時宗 2001 高橋克彦 井上由美子 鎌倉
41 利家とまつ〜加賀百万石物語〜 2002 竹山洋 竹山洋 戦国 - 江戸
42 武蔵 MUSASHI 2003 吉川英治 鎌田敏夫 江戸
43 新選組! 2004 なし 三谷幸喜 幕末
44 義経 2005 宮尾登美子 金子成人 平安 - 源平内乱
45 功名が辻 2006 司馬遼太郎 大石静 戦国 - 江戸
46 風林火山 2007 井上靖 大森寿美男 戦国
47 篤姫 2008 宮尾登美子 田渕久美子 幕末
48 天地人 2009 火坂雅志 小松江里子 安土桃山 - 江戸
49 龍馬伝 2010 なし 福田靖 幕末
50 江 〜姫たちの戦国〜 2011 田渕久美子 田渕久美子 安土桃山 - 江戸
51 平清盛 2012 なし 藤本有紀 平安 - 源平内乱
52 八重の桜 2013 なし 山本むつみ・吉澤智子・三浦有為子 幕末 - 明治
53 軍師官兵衛 2014 なし 前川洋一 戦国 - 江戸
54 花燃ゆ 2015 なし 大島里美・宮村優子・金子ありさ・小松江里子 幕末 - 明治
55 真田丸 2016 なし 三谷幸喜 戦国 - 江戸
56 おんな城主 直虎 2017 なし 森下佳子 戦国
57 西郷どん 2018予定 林真理子 中園ミホ 幕末 - 明治


 複数の原作が採用されている作家と作品数は、次の通り。

 司馬遼太郎 6、吉川英治 3、山岡荘八 3、海音寺潮五郎 2、舟橋聖一 2、永井路子 2、宮尾登美子 2、高橋克彦 2

 以上、八名。


 そして、原作「なし」は、これまで通算で14作ある。

 なんと、「江」の翌年「平清盛」以降、来年の「おんな城主 直虎」まで、連続で六作続く。
 しかし、「江」の「原作者」は脚本家の田渕久美子。小説家の原作とは言い難いので、あの作品も原作「なし」と考えると、その前年の「龍馬伝」から数え八年続いて「原作なし」の大河と言えるかもしれない。

 再来年は、原作を元にした「西郷どん」だが、その原作者は海音寺潮五郎などではなく、林真理子。
 読んではいないが、読む気には、今のところなれない・・・・・・。

 今ではその指標としての価値に疑問がないでもないが、平均の視聴率をビデオリサーチのサイトから引用する。
「ビデオリサーチ」サイトの該当ページ

 を付けたのが、「原作なし」のドラマである。

NHK大河ドラマ(NHK総合 日曜20:00~) 【関東地区】

期間平均(%) (初回~最終回)

2016年度 真田丸 16.6
2015年度 花燃ゆ 12.0
2014年度 軍師官兵衛 15.8
2013年度 八重の桜 14.6
2012年度 平清盛 12.0

2011年度 江・姫たちの戦国 17.7
2010年度 龍馬伝 18.7
2009年度 天地人 21.2
2008年度 篤姫 24.5
2007年度 風林火山 18.7
2006年度 功名が辻 20.9
2005年度 義経 19.5
2004年度 新選組! 17.4
2003年度 武蔵 MUSASHI 16.7
2002年度 利家とまつ・加賀百万石物語 22.1
2001年度 北条時宗 18.5
2000年度 葵徳川三代 18.5
1999年度 元禄繚乱 20.2
1998年度 徳川慶喜 21.1
1997年度 毛利元就 23.4
1996年度 秀吉 30.5
1995年度 八代将軍吉宗 26.4
1994年度 花の乱(94年4~12月) 14.1

1993年度 琉球の風(93年1~6月) 17.3
1993年度 炎立つ(93年7月~94年3月) 17.7
1992年度 信長 24.6
1991年度 太平記 26.0
1990年度 翔ぶが如く 23.2
1989年度 春日局 32.4
1988年度 武田信玄 39.2
1987年度 独眼竜政宗 39.7
1986年度 いのち 29.3
1985年度 春の波涛 18.2
1984年度 山河燃ゆ 21.1
1983年度 徳川家康 31.2
1982年度 峠の群像 23.7
1981年度 おんな太閤記 31.8
1980年度 獅子の時代 21.0
1979年度 草燃える 26.3
1978年度 黄金の日日 25.9
1977年度 花神 19.0
1976年度 風と雲と虹と 24.0
1975年度 元禄太平記 24.7
1974年度 勝 海舟 24.2
1973年度 国盗り物語 22.4
1972年度 新・平家物語 21.4
1971年度 春の坂道 21.7
1970年度 樅の木は残った 21.0
1969年度 天と地と 25.0
1968年度 竜馬がゆく 14.5
1967年度 三姉妹 19.1
1966年度 源 義経 23.5
1965年度 太閤記 31.2
1964年度 赤穂浪士 31.9
1963年度 花の生涯 20.2


 これらをながめて思うことは、大きく二つ。

(1)歴史好き視聴者の離反原因は「原作」不在にもある
  地上波の視聴率をどうこう言って騒ぐのは、BSもあるし録画して観る私のような視聴者もいるので無意味になってきたと思う。
  しかし、大河の総合テレビでの視聴率の推移は、なかでも昨今の低迷が、歴史好き、時代小説好き、歴史ドラマ好きの、これまでの大河の中核となっていた視聴者が離れていったことを示す指標かもしれない、と思う。
  その原因の一つは、優れた原作を元にした作品が、昨今製作されていない、ということもあるのではなかろうか。

(2)現役作家の歴史小説を取り上げるべきではないか
  司馬遼太郎など、過去の歴史小説家の作品以外にも、現役の作家の作品で、十分に大河の素材になるものはあるはず。何度か名前を挙げている葉室麟しかり。
  数ある現役の小説家の誰かの作品を選ぶことに、何かとためらう気持も分からないではないが、優れた原作があり、そのドラマがどう描かれるかを楽しみにしているコアなファンの存在を忘れてはならないと思う。


 原作のない大河がこうまで続いてきたことを、あらためて認識した。

 その理由はいろいろあるのだろう。
 経済的な面もあるかもしれないし、脚本家を含む制作陣が原作者やその関係者との面倒な折衝などを避け自由に制作したい、ということも背景にあるのではなかろうか。

 しかし、歴史を語るには、その道に通じた“語り部”の力を借りるべきではなかろうか。

 もちろん、その小説をどう映像化するかは、脚本家や制作スタッフの腕の見せどころだ。

 ぜひ、今日の歴史小説ファンが期待する原作を取り上げ、映像として新たな生命を吹き込んで欲しいものだ。

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by kogotokoubei | 2016-12-25 21:18 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)
 「真田丸」が終わるにあたって、史実と小説やドラマのことについて記事を書いたが、その「真田丸」の脚本家三谷幸喜が、俳優近藤正臣、そして彼が演じた本多正信に関して、興味深いことを語っていた。
 スポニチの記事から引用する。
スポニチアネックスの該当記事

三谷幸喜氏「真田丸」秘話明かす 近藤正臣だから生まれたラスト

 戦国時代最後の名将・真田幸村の生涯を描き、ブームとなったNHK大河ドラマ「真田丸」(日曜後8・00)が18日、最終回(第50話)を迎え、完結した。脚本を担当した三谷幸喜氏(55)は全50回にわたる放送を振り返り、本多正信役の近藤正臣(74)のセリフを書くことが「楽しくて仕方がなかった」と告白。筆を進める中で「『真田丸』は本多正信で終わるのかもしれない」と感じたことが、真田信之(大泉洋)とのラストシーンにつながったことを明かした。

 劇中、最も成長した登場人物の1人として、徳川家康(内野聖陽)の側近として知略を発揮し続けた本多正信の名を挙げた三谷氏。「僕はいろいろな軍師の中でも本多正信が一番好きなのですが、近藤さんが演じられることで、すごく人間味に深みが出てきました。セリフを書くのが楽しくて仕方なかったです」と語る。

 最終回のラストシーン。信之を大坂から自らの領地・玉縄(相模国)へ連れてきた正信は「戦と同じ。人の心を読むのが肝要で。領民には無理をさせず、というて、楽もさせず、年貢だけはきっちりと取る。その上で、領主たるものは決して贅沢をしてはならん。これでござりまするよ」と“統治論”を説く。領民たちが正信を慕う様子を見た信之は「国づくりの根本を教わりました」と感服。そこへ大坂城落城の知らせが届く。

 なぜ、このシーンで物語を締めくくったのか。三谷氏はその理由を次のように明かす。
「(近藤扮する正信の)イメージがどんどん膨らんで『もしかしたら“真田丸”は本多正信で終わるんじゃないか』と、ふと思ったんです。正信は何となく悪い人のイメージがありますが、地元では逆のイメージを持たれていることもあると思い、調べてみると『百姓は生かさず殺さず』という有名な言葉に行き着きました。その言葉も悪いイメージで捉えることもできますが、逆の意味で考えると、すごく領民のことを考えていて、領主としての見本のような人だったのではないかなと感じたんです。それが信之に影響を与え、その後の(真田家の)礎を築いていくということにつながるのではないかと思い、そのあたりから、だんだん最終回のラストシーンが見えてきましたね。正信が信之と一緒に大坂から帰ってくるという設定にうまく結びつけることができました」

「それもこれも全部、近藤さんが正信を演じられたからこそです」と断言。「そうじゃなかったら、僕はこの結末にしなかったと思います。ラストも、近藤さんがすごくいい表情をされたんです。大坂城が落城したという知らせを聞いて、何も言わずに大泉さんと目線で何かを交わす、というすごくいいお芝居でした。もともと近藤さんが大好きで『国盗り物語』(同局大河ドラマ、1973年)の明智光秀と『黄金の日日』(同、78年)の石田三成は僕の中の“ベスト”。近藤さんに最終的な形を締めてもらえて本当にうれしかったです」と稀代の名優に感謝した。[ 2016年12月19日 16:00 ]

 この内容を読んでまず思うことは、なんとドラマにおける俳優の存在は大きいものであるなぁ、ということ。

 これまでも、出番は少ないにしても、このドラマにおいて近藤正臣演じる正信の存在感は大きかった。

 あえて言うなら、本来はもっと存在感があって然るべき加藤清正や福島正則が目立たなかったのは、残念ながら扮する俳優にも依存した。
 もちろん脚本家や演出家が、彼等をどう描こうとしたか、という意図に影響されただろうが、その意図はキャスティング段階から反映されているのではなかろうか。

 関ケ原の合戦がすぐに終わったように、このドラマの主題は真田であり、なかでも大坂の陣における大坂城と徳川方の人物に焦点が当たっていたのだ。

 今回出演した数多くの俳優さんの中で、近藤正臣が際立っていたことは認めるし、その演技も高く評価できるだろう。役者として、個人的に嫌いではない。

 しかし、役者の評価と、演じた歴史上の人物の評価は、別である。

 彼が演じた本多正信という人物は、果たしてどんな人だったのか。

 私は三谷のように、軍師として本多正信を評価しない。
 というか、彼を“軍師”とは思えない。せいぜい、“策士”であろう。

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古川薫著『影武者』(光文社文庫)

 1996年に単行本が『奇謀の島』として新人物往来社から刊行され、2002年に光文社から『影武者』と改題されて文庫化された古川薫の短編集に、『謀臣亡ぶ』という作品が収められている。

 『謀臣亡ぶ』は、後に大久保彦左衛門として名高い大久保忠教(ただのり)が、過去を回顧するという形式の作品で、その中で彦左の槍玉に上がっているのが、本多正信と正純の親子である。
 だから、「謀臣」とは、本多親子を指している。
 
 故郷の長州関係の小説が多い古川薫の作品としては、対象も形式も異例な本と言えるだろう。
 ボヤキを含め、彦左翁の述懐が実に楽しいのである。

 冒頭から、まず引用。
 嘆かわしい世の中になったものだ。
 関ケ原役後のしばらくは、大御所家康公に、わしからいろいろと直言することも多かった。それを小うるさく思われはじめたのか、このごろでは目通りを願い出てもなかなか会っていただけなくなった。本多正信めの妨害もあるのだが、大御所も家臣の意見に耳をかたむける謙虚なお心を失われたようだ。落胆この上もない。
 徳川もむかしの徳川家ではない。幕府などという大きな官僚の仕組みが出来上がってしまうと、高々二千石の旗本などは小者にすぎぬ。捨て扶持をもらって、おとなしくしておれというのだろう。かつては戦場で大暴れした旗本共も、いまでは借りてきた猫のようになり、洒落た着物など身にまとい、泰平の世を楽しんでいる。だから本多正信・正純ばらがのさばるのだ。

 彦左の落胆の大きさが偲ばれる。
 なぜ、彦左は、本多親子を毛嫌いするのか。

 もう少し、彦左の嘆き節にお付き合いいただく。
 そもそもこんにちの徳川家があるのは、だれのおかげだと思っておるのだ。われわれ譜代の二心抱かぬ忠誠と勇猛なはたらきがあったればこそではないか。
 かく言う大久保忠教は天正三年(1575)、十六歳にして浜松在城時代の家康公に出仕、兄忠世に従って、高天神城の攻撃など数々の武功を立てた。合戦後の戦士の軍功の優劣を決めるにも、大御所様はわしの証言を重んじられたものだ。
 大坂の陣では御槍奉行から御旗奉行となる。戦いがおさまってからは、甥大久保忠隣(ただちか)の所領のうち武蔵国埼玉郡で二千石を知行した。わしとしては、それで満足した。気取って申せば、誇り高く生きるのが旗本の心意気である。だから言いたいことも言えたのだよ。
 それを武功を鼻にかけた独りよがりの振る舞いだと白い目で見るやつが、たとえば本多佐渡守正信・上野介正純親子のごとき、戦場でのさしたる手柄もなく口先だけで立ち回ってきた連中だから余計に腹が立つ。家康公にしても、三河いらいの武功集団とでも申そうか、この大久保一族が、目障りで仕方なくなったのであろう。大久保石見守長安の事件を奇貨として、われら一族を一掃してしまわれたのである。


 この大久保石見守長安の事件(岡本大八事件、と言ったほうがよいか)は、結構複雑なのだが、順を追って説明しよう。

・岡本大八という男(詐欺師?)が本多正純の配下にいた
・家康からチャンバー(かつて今のベトナムにあった王国)で
 伽羅香木を手に入れるよう命じられた長崎奉行長谷川藤広が、
 肥前日野江の城主の有馬晴信と相談して船を仕立て、帰化人
 久兵衛を航海長としてチャンバーに向かわせた
・マカオで順風を待っていた船の乗組員が、ポルトガル商館の
 使用人といさかいを起こし、その数名を殺害してしまった
・ポルトガル船の乗組員七、八十人が久兵衛らの旅館に押し寄せ、
 従者をことごとく殺し、銀子など一切のものを略奪した
・久兵衛は命からがら長崎に帰り、顛末を報告した
・有馬晴信は久兵衛を伴って、駿府におもむき本多正純に顛末を
 説明し正純を通じて家康に上申したところ、家康大いに怒り、
 ポルトガル船の長崎来港を待ち、報復せよと命じた
・ポルトガル船が長崎にやってきたが、晴信は長谷川に自分だけ
 で報復をさせて欲しいといって助けを断り、手の者三十人ほどを
 ひきいて長崎に向かった
・しかし、晴信の謀略をキリシタンを通じて知ったポルトガル船の
 船長は船から鉄砲を撃ち放って晴信たちを近づけず、出港して
 しまった
・それでも晴信配下の者たちが船を襲い、異人の多くを斬り殺し、
 船に火をかけた
・火は火薬庫に移り、大爆発を起こして沈没した

 結果として有馬晴信の手柄とも言えるが、元は彼の不手際から生じたことだ。

 ここで、岡本大八が登場。

・岡本大八が、有馬晴信を訪ね、ポルトガル船に報復したことで、
 大御所から恩賞が出るようにするからと言い、斡旋のために必要 
 として、六千両を晴信から出させた
・一向に恩賞が出ないことに業を煮やした晴信が、本多正純を問い
 質したが、「まったく心得ぬことだ」と、正純は大八に尋ねた。
 大八も「私も存じつかまついませぬ」と答えた
・ようやく騙されたことに気づいた晴信だった
・正純は、いずれ家康の耳に入ると思い、自ら家康に部下の不始末
 として報告
・家康は、「晴信と大八を対決させよ」と命じた

 ここから再び本書から引用する。
 晴信・大八対決の経緯のみならず、大久保彦左衛門が、本多親子についてどう語っているか、ご確認のほどを。
 その対決の場所というのが、ほかでもない老中大久保長安の屋敷であった。この男大久保姓を名乗っておるが、われら一族と血のつながりはない。もともとは甲斐武田氏に猿楽師大蔵太夫の次男に生まれ、のち蔵前衆に取り立てられたが、武田氏滅亡後は家康公の家臣となり、わしの甥である忠隣から大久保姓を授けられただけの話だ。大久保一族に災厄をもたらしたといえば、この男もそうだな。そのことは後で語ることになるので、今はまず晴信と大八の対決に話をもどす。
 このとき大御所は姿を見せられなかったが、本多正信・正純親子、大久保忠隣、長安ら老中立ち合いのもとに、晴信と大八は向き合った。
 晴信は怒りを満面にあらわして、銀六千貫を渡すまでの経緯をまくしたて、
「大八、いかに」
 と、詰め寄る。ここの至って、大八は抗弁もできずに、黙っているだけだ。黒白はたちまちはっきりした。ただちに大八を禁獄して沙汰を待てということになった。
「いやはや驚き入った醜態であるな。彼の所業に気づかなかったと上野介殿は申されるが、知らぬだけで事は済むまい」
 と、正純に非難の矢を放ったのは、大久保相模守忠隣だ。正純にも言葉がない。父親の正信も苦虫を噛みつぶしたような顔で黙り込んでしまうというものだ。
「いずれ大御所のご裁決がでるまで、上野介殿も慎んでおられるがよかろう」
 一本取ってやったと、忠隣は意気揚々と引き揚げたが、相手は名にしおう策士だ。後で足をすくわれようとは夢にも思わなかったのが忠隣の油断であり、迂闊であったな。
 この忠隣と正信・正純父子は知る人も知る犬猿の仲だ。いうなれば武断派と文臣の対立だ。こういうことは石田三成と秀吉時代に武功を立てた諸将の間にあり、黒田長政をはじめ秀吉恩顧の武将たちが一斉に徳川の陣営に走った。関ケ原合戦の大勝は豊臣方の不和もあずかって力があったことを家康公も承知しておられる。忠隣と正信・正純父子の対立を、ひそかに気に病んでおられたのだよ。
 何しろ大久保といえば、徳川氏創業いらいの譜代家臣だ。わしの兄忠世は五カ国時代、旗本の武将として活躍し遠江二俣城主だった。その子忠隣は十一歳のとき家康公の近習となってより、三方ヶ原の戦いをはじめとして諸戦に軍功をあらわしただけでなく、奉行職をつとめて徳川氏分国の政務にも功績を立てた。父の遺領を継いで六万五千石、小田原城主となって関東入国後は幕閣に列し、二代将軍秀忠付きの重臣となった。
 これにくらべれば、本多正信などは、三河いらいの譜代の名門本多とは縁もゆかりもない鷹匠あがりの身分いやしき男だ。
 才覚を認められて家康公につかえたが、永禄六年(1563)に起こった三河の一向一揆のときは、徳川家を裏切り、一揆に加わっておる。諸国を流浪したのち、堺で家康公と再会し、うまく取り入って許された帰り新参である。節操のない男よ。家康公としては、彼の行政手腕というよりも謀略の才覚を珍重なされたのだな。実に腹黒く小才のきく男だ。

 武断派と文臣派との対立は、豊臣家のみならず、徳川家にもあったということだ。

 彦左の甥である兄忠世の子忠隣と本多正信との対立には、真田家も関係している。
 忠隣と正信の不和は、慶長五年、関ケ原の直前、信州路における戦いからである。八月五日、中納言様(秀忠)は宇都宮を発って攻めのぼられた。このとき従う者、大久保忠隣・本多正信・榊原康政の軍勢だった。上田城に真田勢がたてこもっておるが、打って出ることはあるまいから、無視して通り過ぎようと正信は言った。忠隣らも賛成したのだが、食糧調達に出かけた忠隣の家来たちが、伊勢崎の要害を守っていた真田兵とはしなくも小競り合いとなり、ついに城を攻め落してしまった。
「下知なくして戦さするとは何事、城を攻めたる者、軍法によって誅戮すべし」
 と、中納言様に強く進言したのは正信である。多くの者が自決、処刑された。武将の器でもない正信が、軍法を楯に忠隣の兵を誅罰せよとは、大久保勢の手柄を帳消しにしようとたくれんでのことであろう。忠隣の御家人たちはひとしく正信を怨んだが、忠隣にしても心穏やかではなかった。これが事のはじまりである。

 大久保忠隣とその部下たちの正信への憎悪は、深かっただろうねぇ。
 秀忠軍が関ケ原に遅参したのは、上田城の真田軍という敵が強かったことのみならず、自らの軍に統率が取れていなかったことも窺える。

 さて、晴信と大八の件、いったいその後どうなったのか。

 獄中の岡本大八が妙なことを言いはじめた。
「有馬晴信は、長崎奉行長谷川藤広を闇討ちにしようと計画したことがある。その逐一を存じておる」というのである。
 得たりかしこしと、正純はそのことを家康公に告げる。外様大名の分際で幕府より派遣の奉行を殺害せんとしたる行為は、幕府の権威を冒すものだと、大御所は烈火のごとくお怒りになった。
 大八の言うことは根も葉もないつくりごとだと晴信が否定するので、ふたたび晴信と大八の対決となる。このときも大久保長安の屋敷が使われた。
 前と違って、こんどは大八が晴信の罪状を事濃(こま)やかに申し立てると、晴信は返す言葉もない。これによって晴信は、身柄を長安に預けられ、所領を没収、甲斐に移された。
 ポルトガル船焼き討ちに至るまでの晴信のへたな動きを、長谷川が江戸表に洗いざらい報告したことへの恨みかららしいが、外様大名に対する長谷川の尊大な態度も許せなかったのであろう。晴信はみずから墓穴を掘ったことになる。
 慶長十七年三月二十一日、岡本大八は安倍川のほとりで磔となり、甲斐に送られた晴信は五月六日、斬首の刑に処せられた。
 (中 略)
 だが、どうも腑に落ちぬところもある。大八が晴信からせしめた六千両という大金の行方も有耶無耶になっておる。それに大八ごときが、晴信の長谷川暗殺計画をいかにして嗅ぎつけたかだ。
 これはそうやら正信・正純親子が家康公の意をふくんで、有馬をつぶすために仕組んだ猿芝居のように思えぬこともない。大八というやつ、悪者として磔になったが、一人罪を背負わされたのではあるまいか。ひょっとしたら本多家の忠臣かもしれんな。
 だいたいこのくらいのことは正信・正純ならやりかねんのだよ。福島正則が城の無断修復をとがめられて改易同様の処分を受けたのは、これから六年後の元和四年のことであった。父親に劣らぬ謀略の才にたけた正純が、正則を罠にはめたのである。
 広島城の修復については、事前に何度も正則から正純にところに申し出ておる。
「そのうち将軍の許しが出るように取り計らいましょう」
 正純はそう言いながら、知らぬ顔をして、再度正則からうながされると、「そのことは自分にまかせておけ」と曖昧に答えた。正則も迂闊なことよ。許されたようなものだと思い込み、水害で傷んだ石垣を修復してしまった。それを待っていたかのように罰せられたのだ。

 つい、有馬晴信と岡本大八の事件を長々記すことになったが、中途半端では分からない入り組んだいきさつがあったので、お許しのほどを。

 あの一件は、船の名をとって「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」とも言われるし、その後日談を含め「岡本大八事件」とも言われる。

 さて、大久保彦左衛門が推理するように、あの事件が家康の意図に従った本多父子の策略だったのかどうか・・・史実がどうだったのかは、私も分からない。

 しかし、どうも、彦左の(作者の?)読みは当たっていそうな気がする。
 家康にとっては、老い先短いこともあり、できるだけ徳川体制を盤石な状態にしておきたいという思いは強かったろうし、本多親子は、そういう家康の意図を汲んで手足になるにはうってつけだっただろう。

 また、正信による上田城攻めの際の大久保忠隣軍への処罰は、西軍との天下分け目の決戦を前にしていながら、あくまで内輪で自分の保身を優先するような行動としか見えない。
 人は、外の敵より、内の敵の方が目障りであるものだ。

 権謀術数にかけては、たしかに正信は優秀な男だったのだろう。

 大坂の陣においても、戦いの本流に関わったというより、謀略としか言えない側面において存在感があったのではないだろうか。


 あらためで、三谷幸喜の評価について。
 近藤正臣ではなく、本多正信は、三谷幸喜が言うような優れた“軍師”と言えるのだろうか・・・・・・。

 徳川譜代の家臣がいる中で生き延びた才覚は高いのだろうが、それは彼自身の処世術が長けていたということで、戦の戦略や戦術の才能を裏付けるものではない。

 
 特定の俳優を贔屓にするのは、好みの問題でもあり人それぞれで結構だろう。

 しかし、その俳優による、いわば“ハロー効果”によって、歴史上の人物を見る目が曇ってはいけないと思う。

 たとえば、真田昌幸は、草刈正雄が演じようと丹波哲郎だろうと、偉大な武将だったと思う。
 それは、多くの史料や同世代の人たちの残された発言などで裏付けされている。
 
 しかし、本多正信については、同じ徳川家の武将でも肯定的な発言を残している人は、ほんの一握り。ほとんどは、批判的な内容である。

 三谷幸喜が、何を元に評価しているかは知らない。
 
 私には、本多正信は、せいぜい“策士”であって、決して優れた“軍師”とは思えない。

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by kogotokoubei | 2016-12-20 23:27 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛