噺の話

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カテゴリ:ある日の行動記録( 4 )

 さて、後編。

 まずは、「坂」である。
 そして、その坂を形成する元(?)は、「上町台地」だ。
 Wikipedia「上町台地」から、引用する。
Wikipedia「上町台地」

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上町台地(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。北部は中央区の大阪城付近・天満橋の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、天王寺区・阿倍野区周辺を経て、南部の住吉区・住吉大社付近に至り、その辺りでほぼ平地になり清水丘を以て終わり、長さ12kmに及ぶ。大阪(大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。

 この台地の西側にそって、多くのお寺があり、あちこちに坂があるというわけだ。

 しかし、坂の前に、昨日の忘れ物について。

 天王寺区のサイトから、某ホテルのページにリンクして「上町台地周遊マップ」をダウンロードできる。
天王寺区サイトの該当ページ

 そのマップを少しトリミングしたのが、これ。

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 この地図を見て、思い出した。

 空堀商店街のある谷町六丁目周辺から南に下り、谷町九丁目駅近くに、あの神社があった。
 前篇の最後にご紹介した「赤穂義士の寺 吉祥寺」を訪ねる前に、実は山茶花さんと生國魂神社に寄っていたのだ。

 正確には「いくくにたまじんじゃ」、略称「いくたまじんじゃ」。
 いや、地元の人は「いくたまさん」か。
 大阪の人は、神社には親しみをこめて、戎神社は「えべっさん」、住吉大社は「すみよっさん」だからね。

 Wikipedia「生國魂神社」から、写真と概要説明を引用。
Wikipedia「生國魂神社」

 なお、私も山茶花さんも、自分の目で見て足で歩くことを優先しているので、写真はほとんど撮っていない。
 よって、補足のために、こういった公開されている情報の助けをお借りするのだ。
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概要

大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。

この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つである。

古くからの社殿・神宝は幾多の火災・戦災によって失われたが、現本殿には「生國魂造(いくたまづくり)」と称する桃山時代の独特の建築様式が継承されている。また、7月11日・12日の夏祭など古くからの祭りが現在まで続けられている。

 元は大阪城の場所にあったんだね。

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 この鳥居の前に大型バスが止まり、「あら、ここも観光ツアーで外人さんの団体か」と山茶花さんと話していたら、バスからは、結婚式に参加する方々が、ぞろぞろ降りてきた。
 
 境内に入ると、昔ながらの姿で花婿さんと花嫁さんが歩く姿を拝見。
 今ではホテル内の神前結婚場が圧倒的に多いだろうが(私もそうだった^^)、なかなか由緒正しい結婚式だねぇ。

 ここは、落語愛好家にも馴染みの神社。

 そう、あの米沢彦八の碑があり、上方落語協会が「彦八まつり」を開催する神社である。

 彦八が、境内の小屋に「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して落語を演じた頃は、生玉神社。
 近松門左衛門の『曽根崎心中』にも彦八と神社は登場する。お初を生玉に連れ出した田舎者が一人で見に行くのも彼の物真似だった。

 私は、彦八の碑の横にある喫煙所で、山茶花さんに断って、まだやめられない煙草を一服したのだった。

 さて、この後に、「赤穂義士の寺 吉祥寺」を経て、「天王寺七坂」めぐり。

 ふたたび、「上町台地周遊マップ」から。

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 吉祥寺の通りの反対側に「坂」の表記がたくさんあるのを確認できる。

 北から順に「真言坂(しんごんざか)」、「源聖寺坂(げんしょうじざか)」、「口縄坂(くちなわざか)」、「愛染坂(あいぜんざか)」、「清水坂(きよみずざか)」、天神坂(てんじんざか)」、「逢坂(おうさか)」の七つ。


 坂の一部を散策しながら、天王寺方面に向かったのであった。

 なお、「上六 うえいくネット」というサイトに「天王寺七坂めぐり」について詳しい情報があるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
「上六 うえいくネット」の該当ページ

 
 時間の関係もあるので、七坂すべて散策、というわけにはいかなかったが、まず、「愛染坂」を下って、大阪で最初に夏祭りがあると山茶花さんが説明してくれた、「愛染堂勝鬘院」へ。

 天王寺区のサイトに、天王寺七坂の説明ページがある。
天王寺区サイトの該当ページ

 愛染坂の説明文をお借りする。
愛染坂(あいぜんざか)
[2013年4月9日]

その名のとおり、坂の下り口ある愛染堂勝鬘院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(六月三十日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄三年)の建造物で、重要文化財と指定されている。
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。

 サイト内の三枚目の写真の左側(南側)の建物は星光学院。
 山茶花さんと私は、ここから下って行った。

 Wikipedia「天王寺七坂」から、愛染坂の写真を拝借。
Wikipedia「天王寺七坂」

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 空堀商店街の坂から始まり、この天王寺七坂を歩き始めて、私は山茶花さんが力説する、「大阪の地元でも知らない人が多いですが、大阪は坂の街ですよ」に、十分、心と体で納得していた。

 愛染堂勝鬘院を訪ねた。
「愛染堂勝鬘院」のホームページ
 愛染かつらがあった。山茶花さんが「ご夫婦円満のために拝まれたら」と笑っておっしゃったが、今さら、と見ただけであった^^

 哲学の椅子、があった。愛染堂勝鬘院のホームページには、こう説明されている。

哲学の椅子

そもそも、仏教とは、宗教であると同時に、正しい心で生きていくための哲学であるともいわれています。

心を穏やかに保ち、落ち着かせることによって、恨みや憎しみが消えたり、平穏で真っ直ぐな考え方が生まれるのです。

この哲学の椅子に坐り、観察・思索を普段から思考をめぐらせて新たな発明や発見をしてください。

 どうも気が進まず、座らなかった^^

 次は、清水坂。
 天王寺区のサイトから引用。
清水坂(きよみずざか)
[2013年4月9日]

新清水清水院に登る坂道をいう。高台にある新清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側のがけから流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の滝として知られている。
また、この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、増井・逢坂・玉手・安井・土佐(有栖)・金龍・亀井の清水は七名泉と呼ばれている。

 あっ、ということは「スーパー玉出」は、玉出の滝が由来か。
 見た目も含め、てっきりパチンコの玉が出る、をかけているのかと思ったが。
 さて、どちらが正解かは、不勉強で分からない。

 Wikipediaから、清水坂の写真を拝借。

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 「七坂」すべてを歩いていると、真田幸村ゆかりの地をめぐる時間がなくなるので、坂の散策は二つまで。

 歩かなかったが、Wikipedia「上町台地」から源聖寺坂の写真を借用。

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 上町台地についても、引用する。

空堀跡以南の変化において屋敷地・町人地の破却に増して大きかったものは、四天王寺にかけて寺町群が形成されたことである。大坂市中に点在していた寺院のうち浄土真宗以外の寺院が上町台地上に移転され、東成郡小橋村・東高津村・天王寺村・西成郡西高津村領内に、小橋寺町(12ヶ寺)・八丁目東寺町(11ヶ寺)・八丁目中寺町(15ヶ寺)・八丁目寺町(13ヶ寺)・谷町八丁目筋寺町(16ヶ寺)・生玉筋中寺町(24ヶ寺)・生玉中寺町(12ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)・天王寺寺町(14ヶ寺)・下寺町(25ヶ寺)が形成された。

以後今日に至るまで寺院の木々の緑が上町台地を彩っている。歴史のある寺や神社、「天王寺七坂」と呼ばれる台地西端の崖地を降りる坂道、空襲から焼け残った空堀や谷町六丁目付近の長屋の家並みや商店街、上六の繁華街、昭和町・田辺・帝塚山などの戦前の郊外にあたる屋敷町、天王寺公園など、上町台地には緑の少ないと言われている大阪の都心でありながら、風情や緑のあるところが数多く残されている。

 というわけで、空堀から天王寺七坂は、まさに大阪の都心でありながら、緑も多く、風情があったのだよ。

 なにより、山茶花さんの名ガイドで、大阪が坂の街であることを、しっかり歩きながら体感した。
 埋立地の梅田や難波しか知らない大阪の人は、大阪がこんなに坂のある街とは思わないだろう。
 さて、坂めぐりをしながら、山茶花さんと私は、落語『天王寺詣り』や『鷺とり』の舞台、四天王寺へやって来た。

 昼食をとった「惣」で、山茶花さんから大阪市交通局作成のチラシ「幸村が駆け抜けた大阪-真田幸村(信繁)決戦の地マップ-」をいただいていた。

 このチラシは同局のサイトからもダウンロードできる。
大阪市交通局サイトの該当ページ

これが、中央の地図部分。
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 この中の右上の「天王寺エリア」が、今回の「真田の大阪」散策のお目当て。

 まずは、四天王寺に立ち寄る。

 大坂交通局のマップには、こんな説明があった。

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 Wikipedia「四天王寺」から、文章と写真を拝借。
Wikipedia「四天王寺」

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四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
 何と言っても、聖徳太子だからね。
 歴史について、もう少し引用。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

 蘇我氏、物部氏と聞くと、落語『お血脈』を思い浮かべてしまうのだ。

 この地域は、聖徳太子にゆかりの地名などがあって、たとえば、夕陽ケ丘は地名にも駅名にもなっているが、それは、聖徳太子がその場所で夕陽を眺めたとされているから、と名ガイドの山茶花さんにお聞きした。

 また、飛び出し注意の標識まで、聖徳太子^^


 その「てんのうじさん」に入る。
 広い境内。
 さすがに、落語に登場するような覗きカラクリはなかったなぁ。

 日本三大鳥居の一つの大鳥居には、しっかりとチリトリがついていた^^

 Wikipediaから、亀の池の写真を借用。

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 山茶花さんによると、ミドリガメを捨てる人が多いらしい。
 カメだって、大事なペット。しっかり飼って欲しいものだ。

 少し休憩をとって、次は一心寺。

 交通局のマップの説明は、次のように説明されている。

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 抜け穴の井戸の跡を見た。
 う~ん・・・という感じ。

 しかし、一心寺では、その見事な現代風の仁王像に圧倒された。
 Wikipediaから借用する。
Wikipedia「一心寺」
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 なぜ、こんな現代彫刻の仁王なのかということや、「骨仏の寺」と言われる理由などについて、Wikipediaから引用する。
小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現長老(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門(1997年(平成9年)完成。彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年(昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。

骨仏

盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年(嘉永4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年(明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。

太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)から2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。

宇野浩二の小説にもしばしば骨仏が描かれている(『思ひ草』など参照)。

 山茶花さんからも、長老が一級建築士であると説明があったなぁ。

 一心寺は、空襲の被害に遭っているんだねぇ。
 そう考えると、空堀周辺の街並は、実に貴重だなぁ。

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 さて、一心寺は、上の交通局のマップで分かるように、茶臼山のすぐ麓。

 しかし、そろそろ足腰に疲れの出てきた幸兵衛は、茶臼山ではなく、幸村終焉の地、安居神社を、今回の散策のトリと選んだのだった。

 よって、茶臼山は、以前に山茶花さんが訪ねて撮った写真をお借りすることにしよう。

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 一心寺から、多くの他の観光客の方にまじって、道をへだてた安居神社へ。

 まず、この神社のことを、Wikipediaから引用。
Wikipedia「安居神社」

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安井神社(やすいじんじゃ)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。

創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。

明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。

大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。

また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。

上方落語の「天神山」の噺の舞台としても登場する。同じく登場する一心寺とは国道25号線を挟んで向かい合わせにある。

 しっかり、落語『天神山』のことも書かれている。
 かつて、小高い場所にある安居神社のあたり一帯を天神山と言っていたのが、落語のお題になったのだ。

 枝雀のこの噺を思い出すねぇ。この日は、狐は見かけなかった^^

 こちらが、幸村戦死跡之碑。

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 歴史に「もし」はタブーとはいえ、夏の陣で、幸村と後藤又兵衛の戦略が一致していたら、大勢には影響はなかったかもしれないが、幸村の死に場所は違っていただろう。


 さてさて、今回のブラ幸兵衛は、幸村終焉の地、安居神社でお開き。
 
 この後、山茶花さんと私は、地下鉄御堂筋線に乗る前に通天閣近くでお茶を飲んだ。
 散策を振り返ったり、落語や幸村のこと、大河のことなどで、ふたたび話に花が咲く。

 NHK大河「真田丸」を見ていると、どうしても「?」と思うことが多いのだが、山茶花さん曰く、「史実を元にしたフィクション」とNHKも言っているらしいので、目くじらを立てて見るのは大人気ないかな・・・・・・。

 でも・・・私の場合は、気になるのですよ^^

 これまた山茶花さんによると、あの番組は時代考証の担当が大筋をつくって、三谷幸喜はそれに科白などをつけているだけのようで、もし史実と違っているなら、それは三谷の責任ではないのでしょう、とのこと。

 そうか。
 時代考証の人が、たとえば、大野治長を悪者にしたくないのか^^
 私は、秀頼は大野と茶々の子だと思っている。


 とにかく、大いに有意義な大阪めぐりだった。

 拙ブログを介したご縁は、これまでにも「居残り会」のお仲間などにつながっているのだが、範囲は関東地区どまりだった。

 まさか、ブログのご縁で上方にお友達ができ、一緒に大阪を散策できるとは思わなかったなぁ。

 山茶花さん、本当にありがとうございます。


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by kogotokoubei | 2016-11-15 22:08 | ある日の行動記録 | Comments(2)

 なぜ、このような題なのかは、おいおいと。

 先週の土曜日は、京都で大学の同期会。

 宿泊するホテルに集合した後で、京都開催で恒例となった、同期で若くして亡くなった仲間のお墓詣り。
 十年ぶりに彼女のご長男にお寺でお会いすることもできた。元気そうで何より。

 その後は幹事が予約してくれた祇園の洒落たお店で懐石料理。
 同期の男性七名と女性五名に、一年先輩が飛び入り参加で十三名。

 懐かしい話や最近の諸々の話題で、食事も酒も進む。

 二次会は、昨年好評だった同じお店。
 生バンドでオールディーズの演奏があり、踊れるのだ。
 懐かしい曲で、つい飲んで踊って大騒ぎ。

 歌って踊って喉が乾くこともあり、還暦過ぎの面々が、飲み放題でもあり、まぁ飲むこと飲むこと^^

 その後、ホテルに戻り一番広い部屋で缶ビールを飲みながら雑談の後、私の余興の落語。

 ネタは『夜の慣用句』と『二人癖(のめる)』にした。 
 前者は六月のテニス仲間との合宿で好評だったのだが、今回は、やや酒のせいもあり途中を抜かしたり・・・すべったなぁ。
 『二人癖』で、少しは挽回できたように思うが、とにかく結構飲んでいるので、演じ手も聴き手も、よく憶えてはいないだろう^^

 翌日13日の日曜は、ホテルで朝食の後、幹事部屋に集合して来年の場所と時期の相談。
 昨夜はいろいろ話が発散したが、一気にまとまった。幹事になってしまった。
 その後、チェックアウト。
 京都タワーの割引券があるので全員でタワーに昇った。
 なるほど、タワーからの眺望が、タワーが見えないから京都で一番良い眺めということか。

 その後、ご一行は紅葉を散策ということなのだが、私は皆と別れて、大阪へ。

 実は、拙ブログに4年ほど前からコメントをいただいている方、山茶花さんと「真田丸」の大阪を散策する約束だったのだ。
 山茶花さんは落語のみならず演劇や音楽など幅広い趣味を持ち、今春年季が空けた桂りょうば(前田一知)を、中島らもが主宰していたリリパットアーミーで俳優としても観てきた人。「あさが来た」で番頭役を演じた山内圭哉も、リリパットで観ている。また、同劇団での桂吉朝の名演(?)の数々にも接してこられた方だ。佐々木蔵之介は、軽演劇で“犬”の役を演じた頃から知っている、とのこと。

 山茶花さんとは、当代文枝襲名への小言の記事にいただいたコメントが最初だった。

 メールでご紹介いただいた、山茶花さんお奨めの「真田丸」名残りの大阪、そして、「坂」の大阪、大阪人も知らない大阪、を散策するのを楽しみにしていたのだった。

 おりしも、NHK「ブラタモリ」は、二回続けて大阪特集だった。

 あやかって(?)、「ブラ幸兵衛」とした次第。

 最初は空襲からのがれた街並が残る「空堀商店街」ということで、午後一時に谷町六丁目でお会いする予定だったのだが、少し早めに行けそうだったので、私の勝手で早めてしまったのは申し訳なかったなぁ。

 谷町六丁目駅近くで山茶花さんとお会いしたら、とても初対面のような気がしなかった。
 ブログのコメントをきっかけに、最近ではメールで頻繁に落語のことや真田丸のこと、またラジオ番組のことなどをやりとりしているのだった。
 
 挨拶もほどほどに、さっそく、空堀商店街へ。
 そうそう、ここは、映画「プリンセス・トヨトミ」の舞台でもあった。

 Wikipdia「空堀商店街」から冒頭の文と写真を拝借。
Wikipedia「空堀商店街」

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 この入口から先が、ずっと坂が下っているのだ。

空堀商店街(からほりしょうてんがい)は、大阪市中央区南東部にある商店街。

 大坂冬の陣後に埋め立てられた大坂城南惣構(みなみそうがまえ)堀の遺構である空堀通の西半分、松屋町筋から上町筋に至る中央区側の東西約800mのアーケード商店街。2009年(平成21年)3月には「新・がんばる商店街77選」に選ばれた。

 「がんばる商店街」に選ばれたとのことだが、日曜日はがんばらない、お休みのお店が多かった。
 よって、それほど人通りも多くない。

 あくまで、地元の方たちの商店街なのだなぁ。

 「それにしても、大阪商人なら、真田丸人気に便乗して観光客目当てでお店開けそうなもんやけど・・・それが、空堀ならではかもしれませんね」と山茶花さん。
 その通りだと思う。
 日曜が休みなら、休もう。
 あくまで、地元の方に愛され、地元の方のための商店街であって、儲けのため、などと媚びることはないのである。
 とはいえ、大阪では有名らしい「激安スーパー玉出」はしっかり開いていた^^
 
 空堀商店街の近くには、昔の長屋を再生して複合ショップにしている場所があり、それぞれ「惣(そう)」「練(れん)」、「萌(ほう)」と名づけられている。
 あら、「ほうれんそう」じゃないか。

 先駆けとなった「惣」のホームページから引用。
「惣」のホームページ
惣について

惣は平成14年7月にオープンしました。

取り壊される寸前の大正時代の長屋。その古き良きたたずまいを時代の流れのままい失ってしまうのは勿体ない。
2連の長屋が複合ショップとして再生されました。

空堀一帯は中央区の中でも空襲の被害が比較的少なかった地域。惣のような古い建物が数多く残っているのです。老朽化も激しく取り壊される宿命の古い家屋たち。懐かしい景色が残るとホッとします。

平成15年には惣から歩いて5分の場所に旧宮家のお屋敷を改装した複合ショップ練がオープンしました。

惣は空堀の長屋再生計画のさきがけとなる建物であり改装当初より地域の皆様やお近くの会社勤めの皆様まで幅広い年齢層の方から変わらぬご愛顧を頂戴しております。

平成18年には惣の南側に新複合ショップ惣南長屋がオープンしました。
より賑やかになった惣。 皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。

 写真も、拝借。
 どうです、この草ぶき屋根の、なんとも言えない、あったか~い雰囲気。

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 お目当ての一つであった「惣」が開いていて良かった。

 一階の「CRYDDERI CAFE (クーデリーカフェ )」で、日替わりカレーとお茶のセットで、山茶花さんと昼食。

 料理を待つ間に山茶花さんから、たくさんのお土産をいただき、恐縮しっぱなしの幸兵衛だった。

 美味しいカレーをいただきながら、話は落語や幸村のことで盛りあがる。

 店の外で、カフェのお隣の「モワティエ」のケーキを食べていた、アジアからの観光客と思しき女性二人連れがいた。どちらから来られたのか聞いたところ韓国の方だった。
 どうして「からほり」を知ったのか尋ねたらネットで見つけた、とのこと。
 へぇ、ネットで、からほりを・・・・・・。
 彼女たちにしてみれば、大阪観光の穴場として来たのだろうか。
 もしかすると、お目当てにしていたお好み焼き屋さんなどが休みで、少しがっかりだったかもしれないが、お好み焼き屋さんはいくらでもあるからね。

 さて、空堀の後は、次第に南へ下がって行く。

 まず、寺町街を歩く。
 山茶花さんがおっしゃるには、京都よりもお寺の数は大阪の方が多いらしい。

 後で調べたら、一位は愛知、その次が大阪で、京都は兵庫、滋賀に続く五番目だった。

 なるほど、上町台地の西側で南北を縦断する道、松屋町筋(まつやまちすじ→地元の方は「まっちゃまちすじ」。落語にもたびたび登場する)に沿って、お寺がずいぶんたくさんあるのだよ。

 気づかず通り過ぎるような、高層ビルの一階がお寺、というのもたくさんあった。

 多くのお寺の中で、「赤穂義士の寺 吉祥寺」が目を引いた。
 山茶花さん、「あるんですよ、義士のお墓が」とのことで、迷わず立ち寄る。

 同寺のサイトによると、足軽ということで切腹を免れた寺阪吉右衛門が、四十六士の遺髪、遺爪、鎖帷子等に銀十両を添えて江戸では幕府に遠慮して墓の出来なかった義士たちの冥福のための建碑を依頼したとのこと。
「義士の寺 吉祥寺」サイト

 あの『最後の忠臣蔵』(『四十七人目の浪士』)の寺阪吉右衛門由来の寺ではないか。

 この寺には、なんと、四十七士討ち入り姿の石像がある。

 こちらが、山茶花さん撮影の写真。

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 この後も、天王寺下寺町のお寺を眺めながら、真田幸村ゆかりの場所と、坂の街大阪の名所をめぐるのだが、その内容は後編、ということで。


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by kogotokoubei | 2016-11-14 21:36 | ある日の行動記録 | Comments(6)
 昨日は、野暮用があって午後から休みをとっていたので、夕方から日比谷野外音楽堂での集会と国会前のデモに初参加した。

 まず、東京新聞の記事より、引用。
 私の予想よりは少ない人数ではあったようだが、1万5000人のうちの一人が、私である。
 東京新聞の該当記事

「戦争法案を廃案に」 日比谷で1万5000人が反安保デモ
2015年7月29日 朝刊

 安全保障関連法案に反対する集会が28日夜、東京の日比谷野外音楽堂で開かれ、参加者約1万5000人(主催者発表)が「違憲の戦争法案を廃案に」と訴えた。夜に入っても気温が30度を超える暑さの中、参加者は「安倍政権の暴走を止めよう」と声を上げ、国会へデモ行進した。

 「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が主催。民主、共産、社民、生活など各党国会議員が壇上に立ったほか、文化人や市民の代表がマイクを握った。

 作家の落合恵子さんは「私たちは被害者にも加害者にもならない。70年前の誓いをもう一度胸に刻もう」と強調。「安保関連法案に反対するママの会」のメンバーは「命懸けで産んだわが子を絶対に戦争に取られたくない。ママは戦争しないと決めた。みんなで戦争しないと決めた。誰の子どもも殺させない」と声を震わせた。講談師の神田香織さんや脚本家の小山内美江子さん、弁護士、医師らも熱弁をふるった。

 集会に初めて参加した千葉県松戸市の高田耕作さん(60)は「法案は憲法九条に違反している。政権は、こうした声にちゃんと耳を傾けてほしい」と話した。


 5時30分頃に日比谷公園に着いた。
 すでに多くのデモ参加の方が、音楽堂の周囲を取り囲んでいた。
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 所属団体のない私は、「神奈川自治労」の幟を発見して、住んでいる場所のご縁でご一緒させていただきたいとお願いすると、ご快諾いただいた。。
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しかし、下のチラシのように、音楽堂の集会が6時30分から7時30分を予定しており、その後にデモと案内されているのだが、こちらのデモ部隊は6時45分に出発するとのこと。

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 音楽堂に入りきれないので、集会と並行して先発する各団体のデモ部隊があるようだ。

 しばし悩むが、やはりせっかく来たのだからと思い、音楽堂の集会に参加すべく移動。
 神奈川自治労の皆さん、誠に申し訳ありませんでした。

 音楽堂に行くと、すでに熱気ムンムンである。

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 BGMは忌野清志郎で「イマジン」「500マイル」などが流れる。
 昨年9月に参加した、亀戸での反原発集会における「エセタイマーズ」の演奏を思い出した。
2014年9月24日のブログ

 ステージで係の人が、前の方の席はまだ空いている、と案内していたので、前の空いた席を探した。
 歩いて席を探していると、「どうぞ」と声をかけていただいたのが、女性がたくさんお座りになっていた一画。

 後で知ったのだが、「婦人民主クラブ」の皆さんの席だった。
 お隣の方が、歴史のある会なんですよ、とおっしゃっていた。
 同クラブのサイトから「私たちのあゆみ」をご紹介。
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(「婦人民主クラブ」サイトのヘッダー)
「婦人民主クラブ」のサイト

私たちのあゆみ

創立のころ
 「日本中が、森閑として声をのんでいる間に、
 歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった」(『播州平野』より)

 作家の宮本百合子は、1945年8月15日正午の昭和天皇のラジオ放送によって
日本の無条件降伏を知らされたときの様子をこう書いています。
婦人民主クラブは、この年の秋から準備され、翌1946年3月16日に創立されました。
設立呼びかけ人は、宮本百合子をはじめ25人の各分野で活躍する女性たちでした。

 1946年4月、日本の女性は初めて選挙権を行使して政治に参加しました。
11月には日本国憲法が公布されました。
憲法の諸条項は、
平和とくらしを守り、子どもの幸せと女性の地位向上をめざす婦人民主クラブ
を励ますものでした。
何よりも「戦争放棄」の条項は大きな喜びでした。

 敗戦直後の、食べ物も着る物もない中での活動は、
食料配給の確保、内職の斡旋、洋裁講習、避妊指導などでした。

平和と暮らしを守る
 1950年1月、マッカーサー連合国軍最高司令官は
「日本国憲法は自衛の権利を否定しない」と声明。日本の再軍備への道を開きました。
トルーマン米国大統領は水爆製造の命令を出しました。
緊迫する東西対立の中で、平和擁護世界大会委員会は、 原子兵器禁止と国際管理を求める
ストックホルム・アピールを発表。賛同署名を世界に呼びかけました。
占領下の弾圧も予想される中、婦民はこの署名に取り組み、
アメリカが朝鮮戦争で原爆を使用することを許しませんでした。

 1954年3月のアメリカによる太平洋ビキニ環礁での水爆実験に、婦民はいち早く
「原子戦争から子どもを守ろう」を合言葉に原水爆禁止を求める署名運動を開始。
翌1955年6月の日本母親大会、8月の原水禁世界大会の開催には、
成功のために献身的に働きました。

 新聞代などの物価値上げ反対や保育所づくり、民主教育を守る運動、
小児マヒ撲滅のための生ワクチン緊急輸入運動などのほか、
さまざまな文化的要求に応えて、講演会、映画会、音楽会、子ども会などを行いました。

分裂策動を超えて
 占領状態を終わらせるために、サンフランシスコ平和条約が結ばれました(1951年)。
同時に締結された日米安全保障条約をさらに改悪し、
日本に再軍備を進めようとする動きが強まりました。
そのなかで1959年から60年にかけて
安保条約改定に反対する歴史的な国民大運動が起きました。
婦民も連日、国会包囲のデモに参加しました。
しかし、この60年安保闘争をめぐって、全国的な統一行動を評価する意見と、
条約批准を阻止できず敗北したとする意見が婦民の中にも生まれました。

 後者の幹部らは、過激派暴力集団を支援し、
ついに1970年6月、第24回全国大会に過激派女子学生らを集めてバリケードを築かせ、
意見の異なる代議員の入場を妨害、力づくで組織を分裂させました。

 「婦人民主クラブ」の名称を奪われ、本部建物も機関紙「婦人民主新聞」も奪われて
不当に除名、支部解散させられた22の支部は、
「私たちこそ婦民の本流。」と直ちに「婦人民主クラブ再建連絡会」をたちあげ、
機関紙「婦民新聞」を発刊しました。

平和を手離さず
 再建連絡会は活動を続け全国で会員を増やし、共同行動にも積極的に参加して
連帯を強め、組織を固めて1986年10月、再建達成全国大会を開催しました。
連絡会体制を解いて、全国単一組織として「婦人民主クラブ(再建)」と名称をかえました。
さらに2006年11月、婦民創立60周年を期して
「婦人民主クラブ」と正式名称を回復しました。

 分裂策動に狂奔した側は、1984年に再分裂し、
それぞれ「ふぇみん婦人民主クラブ」「婦人民主クラブ全国協議会」と名乗っています。

 私たちは「婦人民主クラブ」創立の初心を失わず、趣意書、綱領を原点にすえて
「私たちは平和を手離さない」を合言葉に
平和やくらし、子どもや女性の権利を守る活動を続けています。
いくつかの専門部を設けて学習を深め行動を起こしています。
また全国の支部でも
会員の要求に根ざした学習講座やコンサート、文化活動などを行っています。

 なるほど、歴史と伝統のある会だ。

 デモもご一行とご一緒したが、シュプレヒコールも大声で皆さんなさっているし、足元もしっかり。こういう女性たちは、本当に頼もしく思える。

 さて、座らせていただいた席は結構前の方なので、ステージは、こう見える。
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 定刻6時半、集会が始まった。
 発表順に発表者をご紹介。
①高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会事務局次長、九条の会事務局員)
②枝野幸男(民主党)
③小池晃(共産党)
④吉田忠智(社民党)
⑤主濱了(生活の党と山本太郎となかまたち)
⑥神田香織(講談師)
⑦鎌田慧
⑧伊藤真美(安全保障関連法案に反対する医療・介護・福祉関係者の会)
⑨雨宮 処凛
⑩佐高信
⑪池田亮子(安保関連法案に反対するママの会)
⑫山岸良太(日弁連)
⑬小山内美江子
⑭古今亭菊千代
⑮落合恵子

 印象に残った内容を記したい。

 神田香織という講談師は、初めて知った。
 「はだしのゲン」も演目に入っているらしい。「講釈師、見てきたような嘘をつき」をもじり、どういう嘘をつくべきか、安倍晋三は私の講談を聴きに来い、と威勢のいい啖呵が、大いに結構。
「講談協会」公式サイトの神田香織プロフィールのページ

 伊藤真美さんが、医者、看護師、介護士などの医療関連従事者による組織に二週間で4,000名の署名が集まったが、医者は30万人、看護師は140万人、まだまだこれから、と力強い発言。期待しよう。
「安保保障関連法案に反対す医療・介護・福祉関係者の会療」のサイト

 すでに14000名の署名を集めたという「安保関連法案に反対するママの会」は、先週、渋谷でのデモがメディアを賑わせた。池田亮子さんの「ママは戦争しないことに決めた」の言葉は、実に深く会場に響いたように思う。
「安保関連法案に反対するママの会」のページ

 昭和5年生れなので今年85歳の脚本家、小山内美江子さんは、椅子に座ったままでの発言だったが、「私は、嘘つきは泥棒の始まりと教わりました。安倍首相は、泥棒です」で会場から大拍手と歓声。女性は、強い。

 古今亭菊千代は、昨年の亀戸でも発言していた。「平和な社会で、落語で笑える日が来て欲しい」と、しっかり落語界を代表(?)して訴えていた。

 トリは落合恵子。とても「レモンちゃん」なんていうキャッチフレーズがあったとは思えない、闘士の姿が頼もしい。

 総じて、女性の発言の方が印象的だった。
 政党からの発言者には、実に生ぬるいものもあったなぁ。

 落合恵子までで7時40分。

 係の方から、参加総数は1万5000人と発表があった。
 その後、シュプレヒコールの練習をしてデモへの誘導、移動してからデモが動き始めたのは8時を回っていた。

 私は「婦人民主クラブ」の幟を頼りにデモに参加。

 多くの方は、集会会場で配布されたプラカードを持っていたが、私は澤地久枝さんの発案で金子兜太書による「アベ政治を許さない」を持参し掲げた。

 ガラケーでは、照明不足で写真は多く撮らなかったが、こんな感じ。

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 国会議事堂をぐるっと回って、流れ解散になったのが、九時少し前だったろうか。

 ご縁のあった「婦人民主クラブ」の皆さんや、集会で発言した人を含め、女性の強さを感じたなぁ。
 SEALDsの若者、そして、歴史ある会や、最近できたばかりの若い母親の組織などの女性、そして、この日も多かった高齢の方の参加者。私も、還暦は過ぎているけど、もっと年輩と思しき方が、たくさん参加されている。

 これは、本物だ。

 アベ政治を許さない幅広い国民一人一人の力の結集、結束を実感した集会とデモだった。

 帰りがけ、一人居残りで飲んだビールが、何と旨かったことか。


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by kogotokoubei | 2015-07-29 12:26 | ある日の行動記録 | Comments(4)
昨日23日の朝、あまりにも天気が良いので(?)、亀戸に出かけることにした。

 昨夜は、帰宅し一杯やったらウトウトしたのだった。

 それにしても、新聞もテレビもほとんど昨日のデモを無視しているなぁ。

 代々木公園から亀戸中央公園に場所を替えた、「さようなら原発1000万人アクション」実行委員会主催の集会とデモに参加したのである。

 全体のプログラムをサイトから紹介。
さようなら原発1000万人アクション

11:00 ブース開店
      第二ステージ ライブ&トーク 開始
       司会:菱山南帆子(許すな!憲法改悪・市民連絡会)
ゼロノミクマ
       桃梨&制服向上委員会
       島キクジロウ&NO NUKES RIGHTS
   
       小野有五(北海道大学名誉教授)
       パク・ヘリョン(韓国・脱原発新聞共同代表)
       チェ・スーシン(台湾・台湾緑色公民行動連盟事務局長)
       若泉政人(もう動かすな原発福井県民署名実行委員会共同代表)
       河合弘之(脱原発弁護団全国連絡会共同代表)
       村上達也(元東海村村長)
12:20 第二ステージ ライブ&トーク 終了

12:20 第一ステージ ライブ
       エセタイマーズ

13:00 第一ステージ トーク開始
       司会:木内みどり(女優)
       鎌田慧
       内橋克人
       澤地久枝
       大江健三郎
       大石又七(第五福竜丸元乗組員)
       向原祥隆(反原発・かごしまネット代表)
       橋本あき(原発いらない福島の女たち)
       古今亭菊千代(落語家)
       パク・ヘリョン(韓国・脱原発新聞共同代表)
       チェ・スーシン(台湾・台湾緑色公民行動連盟事務局長)
       広瀬隆(作家)
       落合恵子

       デモ出しライブ
14:15  第一ステージ 
        李政美
第二ステージ 
        ジンタらムータWITHリクルマイ&The K



 田園都市線~半蔵門線にて錦糸町へ。少し駅周辺を散策し、JRにてお隣駅の亀戸へ。

 着いたのが11時頃。ビラを配っている方に道を聞いたが、まずはラーメン屋で腹ごしらえ。

 公演につくと、さまざなま団体や個人の方がビラを配る中を第一ステージへ向かう。

 ライブの音合わせをやっていた。バンドのファンなのだろうか、ステージ前に立つ人垣が五十名ほど。

 エセタイマーズというバンドのライブが木内みどりの紹介で12時10分頃に始まった。
 後で調べたら、以前、忌野清志郎似(?)のメンバーを含むタイマーズというプロテストソング・バンドがあったらしい。今年のフジロックにも出演したようだ。

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 ご覧のような状態で、末広亭の手拭を敷いて座っている身からは、ステージは見えない^^

 四人組のプロテストソング・バンド、ということなのだろう。次のような曲を披露。元の歌があり、その曲に反戦、反原発的な詩を乗せている。元歌を記す。

 (1)エセタイマーズのテーマ(元歌:モンキーズのテーマ)
 (2)イマジン(ジョン・レノン、清志郎版かな)
 (3)デイ・ドリーム・ビリーバー(モンキーズ)
 (4)サマータイムブルース(清志郎版?)
 (5)青空(ブルーハーツだよね)
 (6)今日を生きよう(テンププターズの、シャーラーララララー、です)
 (7)Hove You Ever Seen The Rain?{雨を見たかい」(もちろんCCR)
 (8)エセタイマーズのテーマ

 懐かしい曲をベースにしているので、結構年配の方も聴いていたように思う。

 私は大好きなCCR(Creedence Clearwater Revival)で締めてくれたので、嬉しいよ。
 トークの締めで落合恵子がこの曲の雨は「劣化ウラン弾」と説明したが、実際はベトナム戦争で米軍が落としたナパーム弾のこと・・・と言われている。
 ただし、同じCCRの「Who'll Stop The Rain」の雨はナパーム弾のことを指しているが、「雨を見たかい」の雨は、晴れて虹が出ているのに降る雨のこととジョンが後で言っているので、できれば、「Who'll Stop The Rain」を今後は歌って欲しいと思う。CCRフリークとして、あえて助言です。

 反原発、反戦と唱えると客が激減する、とエセタイマーズのメンバーが言っていたが、こういう若手のプロテストソング・バンドには頑張って欲しい。

 さて、ライブがお開きとなり、一時からトークの開始。感想などを記したい。 

 なお、出席予定だった内橋克人が欠席。

 木内みどりの司会で、まず鎌田慧が、決起表明的な挨拶。昭和13(1938)年生まれだから、古今亭志ん朝と同じ年。今年で76歳だが、お若い。さすが、原発に関するルポルタージュの第一人者である。しっかりしている。

 次に、車椅子で壇上に上がられたのが、大石又七第五福竜丸元乗組員。80歳。用意した原稿を読上げたが、「ビキニ環礁ではヒロシマの1000倍もの放射能が撒き散らされた」「原爆も原発も放射能は同じ」「水中に放出された放射能は何倍にも濃縮され魚が口にする。それを食べている」「内部被曝で多くの同僚が犠牲になった」「原発を推進した政治家が勲章をもらっている」「原発はやめなければならい」などの言葉が、胸に突き刺さる。

 次は「原発いらない福島の女たち」の橋本あき。この人の普段着での言葉が、何とも新鮮だった。「私がこんなところで話しているようでは世も末です」と言う言葉には会場から笑いが起こったが、こういう人の発言こそ大事なのだと思う。原発事故の後、いろんな勉強会を開催し、田中正造の精神を学びたいとおっしゃる。見習わねば。

 続いて、「反原発・かごしまネット」代表の向原(むこはら)祥隆。なるほど、鹿児島県知事選に出馬しただけあって、弁が立つ。川内原発30kim圏内の町を一戸づつ訪問して、原発反対の署名を集めたとのこと。鹿児島県民は決して川内原発の再稼動を許さない、の声は力強い。次の日曜28日には鹿児島でデモを行うらしい。残念ながら私は行けないが、成功を祈りたい。
 
 お次は、広瀬隆。昭和18(1943)年生まれだから、71歳だが、元気だ。元は編集者だったという向原を再度ステージに上げて紹介し、県知事選に出て、65対35の勝負、あともう少しだったと説明。
 安倍政権と反原発運動において、「われわれの方が圧倒的に勝っている」「もうじき電力の自由化になることは決まっており、安倍政権は焦っている」「安倍がやっていることは、人事だけ。原子力規制委員会に田中、NHKの籾井など」「止まっている原発も、火力発電の電力を大量に使用して冷やさなければならない」 「原発がなくても、十分生活できている」「国道6号線を開通させたが、計測によっては6μシーベルトから20μシーベルト、国民を殺そうとしている」などなど、歯切れのよい言葉が続く。
 時間が超過しそうになり司会の木内みどりから合図を受けるまで、広瀬節健在を見せてくれた。

 次に会場を和やかにしてくれたのが、古今亭菊千代だった。カンパのお願いが目的だったが、この後で、澤地久枝に日傘を持って行くなど、気配りも含め、この人は落語界代表として存在感を示したよ。

 韓国からのゲスト、パク・ヘリョンは、韓国政府が2035年まで41期の原発設置計画があり、日本の皆さんと一緒に反対活動を続けたい、と訴えた。もちろん、韓国の原発に事故があれば、日本への影響は避けれれない。放射能に国境も海も関係はない。

 大江健三郎登場。恩師である渡辺一夫のこと、関連して中野重治のことが印象的だった。特に、中野の言葉として、「もっともあさはかなオプチミストが戦争をしかけたがるのなら、我々ペシミストは断固としてそれを防がねばならない」が印象的だった。最後の方は、原稿の文章の場所を探して、ややあたふたしていたが、昭和10(1935)年生まれ、79歳のノーベル賞受賞者の存在は、この運動には欠かせないと思う。

 続いて澤地久枝。この人は昭和5(1930)年生まれだから、84歳だ。気丈だね。しかし、「安倍晋三に原発廃止を言わせたい」という主張は、いかがなものか。替えなきゃ無理ではなかろうか。

 「台湾・台湾緑色公民行動連盟」事務局長のチェ・スーシンが登場。台湾の反原発運動では、2013年に22万人デモを実施したとのこと。5万人が道路に寝そべったデモにより、政府の新期原発計画を撤回させたことも含め、非常に刺激的な内容。
 それにしても、韓国も台湾も、二人とも女性だった。アジアの女性は強し、である。

 トークの締めは、落合恵子。あのレモンちゃんが、なんともたくましい闘士になったものだ。流石の弁舌で、「私たちxxxxxxであることを知っています」と、品のあるアジテーション。CCRのことは、ディスクジョッキー時代にもちろん知っているわけで、「私、昔そういう仕事してました」で、あの声を聞きながら受験勉強をしていた私などは少し、うるっときたぞ^^
 
 ほぼ予定時間の2時半。木内みどりから、1万6千人が集まったと報告。

 デモまでは、少し時間がありそうだ。日陰にいたら、なぜか東京新聞の取材を受けた。来た理由や持論を少し言って氏名と年齢、住んでいる場所まで聞かれたが、今日の東京新聞には載っていなかった^^

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 デモ出発前の様子だが、幟の数の多さで分かるように、各地域の労組や日教組の組織、反原発の組織の動員が主体で、何らそういった組織に所属しない私など、どうやってデモに参加したよいのやら分からない。学生時代のデモとは勝手が違う。

 司会の木内みどりも、私のような一人の市民に対する案内をしていなかったように思う。

 煙草を吸っていたら、「湘北教組」の腕章をした方がいたので、お聞きすると私の住まいを含む地域の教職員組合の先生だったので、一般市民だが一緒に歩かせて欲しいとい言ったらご快諾いただいた。その先生のお話では、「一般の方なら、我々より早く出発できるはずですが」とおっしゃるが、前の方でテレビや新聞に顔が出るのは恥ずかしい^^

 3時過ぎに出発。とはいえ、亀戸公園を出るま約2時間は牛歩状態・・・・・・。公演を出て、亀戸駅から錦糸町駅を超えてデモ行進。
 先導車から「シュプレヒコール」と掛け声がああり、その声に従って、「原発はいらない」「川内原発再稼動は許さないぞ」「もんじゅも廃炉にしろ」「核燃料サイクル計画反対」(これが言いにくい^^)「安心・安全な生活を守ろう」「放射能はいらない」「子供を放射能から守ろう」などと訴えながら、大横川親水公園で解散するまでほぼ1時間半。

 先生方と飲んでいこうかとも一瞬思ったが、決して錦糸町から家まで、近くはない。

 6時頃に錦糸町から半蔵門線で帰途についた。

 デモに参加した実感として、労組や日教組の動員は重要だが、いわゆる一般市民の参加を増やす工夫が欲しい。

 どの組織にも属さない市民のために会場の窓口をつくって欲しいと思う。
 ほとんどがデモに参加するのは初めてで、要領が分からないために来ない人もいるのではなかろうか。

 天気も良く、ハイキング気分で参加できるような集会だったことを考えると、集会・デモについて知らないために不安があって来なかった人たちが多いだろうと思うと、残念である。

 もちろん、実行委員会は、警察への諸届けやら、会場手配やら、各組織への連絡やら、大変な準備が必要なのは百も承知。特に今回は代々木公演から会場を変更して大変だったと思う。でも、あえて言うならば、集会・デモの垣根を低くすることでもっと一般市民の参加は増えると思う。
 人それぞれの生活は、いろいろとある。仕事も家庭の用事も、スポーツや趣味、通院や介護などなど。そういった繁忙な予定をなんとか調整してまでも一般市民に参加を誘引する魅力をどうつくっていくか。

 古今亭菊千代だけでなく、その集会のイベントでしかありえない落語家の組合せで噺を聴かせてくれる、などの演出があってもおかしくはない。
 制服向上委員会が出店を出していたが、いわゆるアイドルで、勇気をもって「原発反対」を唱え、トークに参加する人がいても不思議ではないだろう。

 少し古いアメリカのことだが、ジェーン・フォンダ、ジョーン・バエズ、そしてブルース・スプリングスティーン、そしてCCRなどを思い出す。日本でだってエセタイマーズのみならず、音楽や芸能の世界の人気者がトークに参加したり、ライブやサイン会を行うなどで、もっと動員は増えるはずだ。忌野清志郎が生きていれば、と思わないわけにはいかない。

 この集会の主催者が1000万人の署名を目指すように、今、必要なのは、安倍政権の暴挙を阻む、国民の声の「数」なのだ。

 デモにしろ署名にしろ、組織に属さない市民の参加もなければ、反原発という目的を果たせないのではなかろうか。

 トークで登場した方々にはご高齢者が多いし、参加者の方にも数多く見かけた。
 しかし、反原発は長~く継続的な戦いであり、ある意味で日常的な活動でなければならないと思う。

 親子連れ、若者をどれだけ反原発、反戦の合言葉で動員できるか、そこに日本の将来はかかっているような気がする。

 私はデモ解散の際、実に心地よい疲労感を味わった。

 そこに行く楽しみがあって、気軽に参加できる安心と安全性があり、大新聞はもちろんどのテレビ局も無視できない規模の、多くの一般市民を含む何十万という参加者による集会・デモが開催されるならば、そこに自分もいたいと思う。
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by kogotokoubei | 2014-09-24 05:47 | ある一日 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛