噺の話

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カテゴリ:落語とジャズ( 4 )

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 さて、「POPEYA」の特集「ジャズと落語」の後半。

 同誌のサイトから、あらためて特集の目次を引用。
「POPEYE」サイトの該当ページ

特集
ジャズと落語。


028
人生とやらをちょっぴりわかった気にさせてくれるもの。
――立川志の輔

032
ダメなもの、ヘンなことほど惹かれてしまう。
――山下洋輔

036
ジャズと落語の街に行こう。
1. 新宿 2. 神保町 3. 渋谷 4. 浅草 5. 野毛

046
僕の好きなジャズと落語。

060
若きジャズメンと落語家に会ってきた。
――黒田卓也、春風亭一之輔

064
JJとAAの勉強。

066
噺家の落語論イッキ読み。

070
僕はこんなジャズと噺を聴いてきた。
――ピーター・バラカン、東出昌大

074
東京のジャズ喫茶、ときどきバー。

078
ジャズをもっと知りたくて、岩手のレジェンドを訪ねた。

084
JAZZで迷ったらDISC SHOP POPEYEヘ。

088
ポパイの落語プレイリスト。

090
今さら聞いちゃう、キホンのキ。

098
JAZZ & RAKUGO TIMES

JAZZ COLUMN

057
はじめてのジャズ――清水ミチコ

068
街とジャズ――野村訓市

082
日本ジャズ偉人伝――柳樂光隆

096
映画の中のジャズとエロス――三宅 唱

RAKUGO COLUMN

058
はじめての落語――中島 歩

069
噺家異端伝――九龍ジョー

083
落語家のレアグルーブ――横山 剣

097
妄想『笑点』論――せきしろ

 とにかく、盛りだくさん!

 すべては紹介できないので、絞る。

「すばる」でも登場した名前、春風亭一之輔へのインタビュー記事は、見開き2頁だが、お奨め古典落語4席のイラスト入り説明もあるので、そんなに文章量は多くない。
 しかし、この特集のために、直接本人の生の声を聴いたところに価値がある。

 「すばる」の「落語の笑い-春風亭一之輔試論」では、一之輔の著作や本や雑誌にある彼の言葉は素材として使われていたが、本人との対談は行っていない。

 そのへんは、文芸雑誌と「POPEYE」との大きな違い^^

 では、「古典落語は育てていくものwith春風亭一之輔」と題された記事から、少し引用したい。

 昔の哲学者の言葉などを頼りにするより、この対談記事の方が、落語の笑いや一之輔という噺家について理解が深まるのは間違いがない。

 「すばる」の特集に関する記事でも紹介したように、彼の寄席との出会いは、高校時代の浅草演芸ホール。しかし、落語の語り手の体験は、もっと古いのだった。

「小学生の頃、落語クラブで「弥次郎」を全校生徒1500人の前で発表させられたのが出合いです。つまり、落語には聞き手ではなく演者として入ったという稀なタイプです(笑)」

 醤油で有名な千葉の野田の小学校での、“噺家デビュー”である。とはいえ、一席何十分もしゃべったわけではない。当たり前だけど。クラスの代表として全校生徒の前でスピーチをすることになり、落語を少しご披露した、ということ。

 その一之輔は、21人抜きで真打に昇進した時点で、持ちネタが150あったらしい。
 大師匠の柳朝からの伝統だが、一門は、師匠の家の掃除などはやらせず、そんな時間があったら映画や芝居を観るか稽古をしろ、という方針だったからね。

 一之輔は、ネタによっては、演出やクスグリが聴く度に変わるものがあるが、そのへんについて、興味深い言葉。
「僕は『今日はこのギャグを入れよう』とあらかじめ決めてやることはほとんどない。お客さんの前で喋っていて、その場で出たものをやることが多いです。今日のお客さんはノリがいいなってときがあるんですよ。で、自分もノっているんだけど、同時に冷静な部分もあって『この登場人物だったらこういうことをやりそうだな』っていうアイデアが浮かんできて、それを生かしていく感じです。まぁ、基本的には何でもありですから、ただ古典なんで全部変えるのは嫌なんです。そのさじ加減をはかりながらやるのが大事なのかな。もちろん、僕自身の美学であって、他の噺家には当てはまりませんが」
 この記事の執筆者はこの一之輔の言葉に続けて、「これってまさにジャズ!」と書いている。
 前回の記事の冒頭で、落語とジャズの共通性について書いたが、アドリブ、即興性ということだ。
 一之輔が「僕自身の美学」と形容するとは、少し意外。彼が「美学」なんてぇ言葉を使うことは、そうは多くないのじゃないかなぁ。

 それだけ寄席や落語会の空気、お客さんの雰囲気による即興性、ひらめきを大事にしている、ということだろう。
 
 その一之輔は、古典落語について、なんとも個性的な形容をしている。
「古典落語という型が自分の体に合っているんでしょうね。基本的には楽しいからずっとそれでやってきているというだけ。その場その場でゴキゲンにできればいいし、それでお客さんに笑ってもらえればいいかって。落語って出てくる人たちが真剣じゃないのがいいなと僕は思うんです。ガツガツしている人をバカにしたり、逆に絶対に足をひっぱりそうな人を受け入れちゃう懐の深さがあったり。だから聴くと温泉に浸かっているような気分になれる。いや、せいぜい足湯ぐらいですかね(笑)」
 「足湯」という表現、なかなか言い得て妙ではなかろうか。

 もし、一之輔論的なことを書くならば、こういった言葉に、その鍵が隠されているのではなかろうか。
 
 他にも紹介したい内容は山ほどあるが、最後に一つだけご紹介したいのは、この雑誌らしいヴィジュアルのページ、「ジャズと落語の街に行こう」。
 新宿、神保町、渋谷、浅草、野毛の五つの地域にある落語とジャズに関するスポットの地図、そして豊富な写真を見て、自分が行ったことのある場所を発見して嬉しくなったり、行ったことのない場所を知って行きたくなったり。
 内容は・・・やはり、これは実際に読んで、見てもらわないといけないなぁ。
 
 とにかく、飽きない「ジャズと落語」の特集。

 すでに、次の号が発売されている。
 少し紹介するのが遅れてしまった。
 「すばる」に、時間をかけ過ぎたか^^

 久しぶりに「POPEYE」を楽しんだ。

 読みながら、ちょっとしたノスタルジーに浸った。

「POPEYE」の発行元であるマガジンハウスは、その昔、平凡出版という名で、あの「平凡パンチ」を発行していたなんてことを知っている人が、どんどん少なくなっていくのだろうなぁ。

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by kogotokoubei | 2016-09-11 21:45 | 落語とジャズ | Comments(2)

 かつて、「落語とジャズ」というカテゴリでは、二つの記事を書いた。

 一つは、平岡正明が、遺作とも言える彼の著書『毒血と薔薇-コルトレーンに捧ぐ』で、コルトレーンの『至上の愛』から『アセンション』への変遷を、桂枝雀の『地獄八景亡者戯』から『茶漬えんま』への変遷と重ね合わせて書いている記事を紹介した、2012年7月の記事。あんな発想をするのは、平岡しかいない。
2012年7月16日のブログ

 もう一つは、ジャズで調べたいことがあると度々訪問するNelsonさんのサイトにある、『中村仲蔵』をめぐる記事を元にしたもの。八代目正蔵と志の輔のこの噺について、ジャズの「イン」「アウト」という言葉を使って説いた見事な記事をご紹介した。
2014年7月9日のブログ
 
 私は、落語もジャズも大好きだ。
 また、ジャズプレーヤーで落語が好きという方も多いし、落語家でジャズが好きという方も少なくない。
 落語とジャズ・・・なぜ、それぞれの演じ手(アーティスト)が相手の芸能(芸術-アート-?)を好きになるのか・・・・・・。

 両者にはいくつか共通点があると思う。

 一つは、まさにNelsonさんが指摘された「イン」と「アウト」が両方にあることだ。詳しくは、2014年7月の記事をご確認いただきたい。

 それと似てはいるが、、アドリブ、あるいは、即興性ということも、共通点として挙げたい。
 前衛的と言われるジャズはもちろん、モダン・ジャズの世界でも、プレーヤーの即興性が発揮される。
 落語家がその日の客席の状況などに合わせてネタを選んだり、とっさに新たなクスグリを挟んだりという即興性と、相通じるものがある。
 
 また、ジャズにおいては、スタンダード・ナンバーであっても、人によってその曲の演奏は異なるし、それが当然のように聴く側からも求められる傾向が強い。 
 これまた、落語も同じネタでも噺家さんによって違うのと似ている。

 加えて、「間」が大事ということもあるかな。
 落語では当然のことだが、ジャズも、アフタービートと言う言葉があるように、リズムに「間」が入る。そうしたリズムとしての間も大事だし、プレーヤー同士の演奏の切り替えのタイミングなどにおいても、間の取り方は重要な要素になると言える。あえて間をとらずに音をかぶせることなども含め、ジャズでも、間は大事。

 他に、どちらも趣味にするには「敷居が高い」という印象があるかもしれない。
 それは、この二つに共通する、愛好家の姿が要因の一つなのだろう。

 落語もジャズも、自分の好みへの執着が強く、また「通」ぶっている、と知らない方には思われてしまうようなファンが多い、ということ。
 たとえば私なら、「マイルスは1950年代半ばまでに限る、中でもマラソン・セッションが最高」、なんて思っている。
 「モード奏法、『Kind Of Blue』だって・・・それがどうしたの、So What?」などと、ついジャズ・ファンにしか通じない駄洒落を言ってしまう。
 あくまで一つの例だが、誰の、どんな時期の、これが好き、とか、あの時代のはダメ、などと好悪がはっきりしているジャズ・ファンは多いと思う。

 では、落語はどうかと言うと、これまた同じように、好悪は結構はっきりして、おいそれとは自分の主張を譲らない人が多いと思う。

 あえて、私の落語の例は、書かない。
 最近は、年齢のせいか、できるだけ敵を作らないようにしている^^

 私は、落語とジャズの共通点として、もう一つ“反体制的”ということかとは思っている。
 それは、平岡正明の影響も小さくないだろう。
 しかし、現在の落語やジャズの世界には、当てはまらないかもしれないなぁ。
 
 そんな「ジャズと落語」を特集した雑誌がある。

 
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 「POPEYE」だ。

 同誌のサイトから、特集の目次を引用。
「POPEYE」サイトの該当ページ

特集
ジャズと落語。


028
人生とやらをちょっぴりわかった気にさせてくれるもの。
――立川志の輔

032
ダメなもの、ヘンなことほど惹かれてしまう。
――山下洋輔

036
ジャズと落語の街に行こう。
1. 新宿 2. 神保町 3. 渋谷 4. 浅草 5. 野毛

046
僕の好きなジャズと落語。

060
若きジャズメンと落語家に会ってきた。
――黒田卓也、春風亭一之輔

064
JJとAAの勉強。

066
噺家の落語論イッキ読み。

070
僕はこんなジャズと噺を聴いてきた。
――ピーター・バラカン、東出昌大

074
東京のジャズ喫茶、ときどきバー。

078
ジャズをもっと知りたくて、岩手のレジェンドを訪ねた。

084
JAZZで迷ったらDISC SHOP POPEYEヘ。

088
ポパイの落語プレイリスト。

090
今さら聞いちゃう、キホンのキ。

098
JAZZ & RAKUGO TIMES

JAZZ COLUMN

057
はじめてのジャズ――清水ミチコ

068
街とジャズ――野村訓市

082
日本ジャズ偉人伝――柳樂光隆

096
映画の中のジャズとエロス――三宅 唱

RAKUGO COLUMN

058
はじめての落語――中島 歩

069
噺家異端伝――九龍ジョー

083
落語家のレアグルーブ――横山 剣

097
妄想『笑点』論――せきしろ

 何十年ぶりかで、特集に惹かれて買ってしまったが、正解。
 ジャズも落語も好きな私としては、とにかく飽きない特集だ。

 ただ、この本は大きくて重いので、持ち歩きできにくいのが難点^^


 比べちゃ可哀想だが、「すばる」とは了見が違う^^
 
 この中から、落語家が語るジャズ、について今回はご紹介。

 まず、掲載順に、立川志の輔から。
 “出合い”についての志の輔の思いについて。
何事にもきっかけというのはあるワケだが、師匠は落語とどういうふうに出会うのがいいって考えているんだろうか。
「僕が思うのは、聴く耳がないときに出会ってもダメだっていうこと。いくら“落語はいいよ!”って言われてもピンとこなくてそのままになっちゃったケースはたくさんある。それは、そのとき聴いた落語がよくなかったってことより、出合うときじゃなかったてことのほうが大きいんじゃないかな
 (中 略)
これはジャズにも言えるんだけど、落語って聴く側の体調や精神状態やそれまでの人生経験で印象がすごく変わるんですよ」
 同感である。
 出合いのタイミングって、大事なのは、落語もジャズも同じだと、私も思う。
 では、志の輔のジャズの出合いは、どうだっだのか。
 初めて買ったジャズのLPの思い出など。
 僕は、大学の頃デオダートやリー・リトナーという、フュージョン系からジャズに入ったんだけど、しばらくするとフュージョンじゃ物足りなくなってきた。それで秋葉原の「石丸電気」のジャズコーナーに行ってみたら、ジャズ専門の売り上げ1位がジョン・コルトレーンの「至上の愛」になってて、ジャケットを見たらまあかっこいい。“僕が聴かなきゃいけないのはこれだ”って、当時の仕送りと比べて地獄のように高いLPを買ったんだけど、針を落としたときの悲劇たるやもう!サックスがずーっと唸ってるだけにしか聞こえない。
 時は流れ、行きつけの下北沢の「レディ・ジェーン」っていうジャズバーで飲んでると、たゆたうような低音のメロディが聞こえてきた。“いいなあ、何って曲?”って聞いたら、バーのお兄ちゃんが“コルトレーンの「至上の愛」です”と。
 この話は、結構、共感できる。
 私も、社会人になった一年目、あるジャズ喫茶(バー、かな)で一年間にバーボンを50本キープする、という馬鹿な生活をしていたが、その時に初めて聴いた「至上の愛」は、まったく良いと思わなかった。
 「コルトレーンは、どこへ行ってしまうのか・・・・・・」などと思ったものだ。
 そして、最近になって、あらためて聴いてみると、そんなに悪くは思わなくなってきた。
 とはいえ、“黄金のカルテット”の他の三人が楽しく演奏していたのか、は疑問。
 だから、コルトレーンのアルバムで、私のお気に入りには、入らない。
 私は、「Blue Train」「Ballads」や「My Favourite Things」そして「Duke Ellington & John Coltrane」などが好きだなぁ。
 
 さて、別の噺家さんについて。
 ラジオでClifford Brownを聴いてジャズにはまってしまった私にとって、嬉しかったのは、「僕の好きなジャズと落語」の中の、この人のコメント。

桃月庵白酒
 二ツ目になって、時間に余裕ができて、そうだ!ジャズでも聴いてみるかと思ったんです。その頃はレコード店で名盤を買い漁る余裕はなかったので、図書館でCDを借りてきてはしたすら聴いての繰り返し。少しずつジャズのことがわかるようになってきたときに、煙が立ち込めるような路地裏に、パーッと後光がさすようなトランペットに出会ったんです。それがクリフォード・ブラウンでした。アルバムは「The Biginning & The End」。事故で亡くなる4時間前に録られた音源をまもめたもので、地元のアマチュア・バンドとセッションした事実上のラスト音では、“ブラウニー”のすさまじいトラペットが、一緒に演奏するアマッチュアジャズメンらを鼓舞し、素晴らしい曲へと仕上げているんです。こんなにもスゴいトランペッターがいるなんて!次の日にはクリフォード・ブラウンがリリースした全アルバムを買いに行きました。
 なんとも、嬉しいではないか、あの白酒が“ブラウニー”とは!
 実は、亡くなる直前、と伝えられていたセッションは、その後、一年前の音源だったことが判明しているのだが、そんなことは関係なく、故郷のアマチュアのメンバーと熱のこもったブラウニーの演奏が感動的なのは、変わらない。

 この後、ある代表的アルバムのブラウンの作品のことにふれ、次のように白酒は言う。
ブラウニーのアドリブ、落語のマクラで言うところのちょっとした遊びがいいんです。やりすぎると曲が壊れてしまうし、やらんあいとつまらない。さじ加減にセンスが問われるんですが、彼のアドリブはあと2、3曲作れるんじゃないかと思ってしまうほど素敵。あぁ、ジャズって格好いいなぁと思えるんですよ。

 白酒が、寄席に来る前に、携帯音楽プレーヤーでクリフォード・ブラウンを聴いている光景を思い浮かべると、何とも嬉しくなる。

 さて、彼が語った、ブラウニーの曲は、「Study In Brown」の中の「George's Dilemma」である。

 この曲をお聴きいただいて、この第一回目はお開き。

 もし、あまり感じるものがなかったとしても、それは、出合いのタイミングの問題。

 しばらく経ってから、他のブラウニーのアルバムなどをお聴きいただきたい。
 ジャズへの敷居の高さを感じる方には、オーケストラとの共演で馴染み深いジャズ・スタンダードが詰まった「With Strings」をお奨めする。
 次回は、春風亭一之輔へのインタビュー記事や、「ジャズと落語の街」の楽しい地図のことなども含め、ご紹介したい。


アルバム名「Study In Brown」

収録曲
1."Cherokee" (Ray Noble) - 5:44
2."Jacqui" (Richie Powell) - 5:11
3."Swingin'" (Clifford Brown) - 2:52
4."Lands End" (Harold Land) - 4:57
5."George's Dilemma" (Brown) - 5:36
6."Sandu" (Brown) - 4:57
7."Gerkin for Perkin" (Brown) - 2:56
8."If I Love Again" (Jack Murray and Ben Oakland) - 3:24
9."Take the 'A' Train" (Billy Strayhorn) - 4:16

パーソネル(演奏者)
Clifford Brown - trumpet
Harold Land - tenor saxophone
Richie Powell - piano
George Morrow - double bass
Max Roach - drums

1955年発売
収録:1955年2月23日-25日
場所:ニューヨーク市
発売レーベル:EmArcy

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by kogotokoubei | 2016-09-10 11:32 | 落語とジャズ | Comments(2)
『中村仲蔵』のことをネットでも調べていて、実は、大変うれしい出会いがあった。
 
 私は、好きなジャズのことで何かを調べる時は、Nelsonさんのホームページを訪ねる。
Nelson's Navigator for Modern Jazz
 それぞれのジャズミュージシャンの作品や代表曲、ジャズの名曲のことなど、とにかくモダン・ジャズに関する「広辞苑」とでも言ってよい内容なのだ。

 そして、雲助の高座を聴いたあとで、ネットでこのネタを調べている中で、そのNelsonさんのホームページに、なんと『中村仲蔵』の正蔵と志の輔について、ジャズを媒介に書かれた内容があるのを発見したのである。

 Nelsonさんにもご快諾をいただいたので、ぜひ、ご紹介したい。
「Nelson's Navigator for Modern Jazz」の該当ページ

"中村仲蔵」という古典落語の名作がありますが、まぁ、その典拠ともいうべき林家正蔵のモノをジャズで言うところの「イン」の名演とすれば、今春に立川志の輔がやったモノは、それを「アウト」しようとする試みとして、十分な意義がありはしないか、、、というお話です。


 この「イン」「アウト」については、後でしっかり説明されている。

 志の輔の仲蔵は、私も見たWOWOWの映像である。

「志の輔らくご in PARCO」をWOWOWで、、、
2007年1月の「志の輔らくご in PARCO」のトリで、志の輔が"中村仲蔵」をやったそうです。残念ながら行きそびれましたが、「実に素晴らしかった。近年最大の収穫だ。」というのが、もっぱらの評判のようです。「それは、残念なことをしたなぁ、、、」と思っていましたら、この春分の日のWOWOWでの放映を、幸いにも見ることが出来ました。なるほど、話題になったのも当然の熱演でした。しかも、諸先輩がやった古典的なスタイルでは無く、志の輔らしさがそこここに横溢していました。


 最近のPARCOの放送については、正直なところ疑問に思うネタや高座、演出もあるが、ブログを書き始める前の2007年『中村仲蔵』は、私も見て完成度の高さに驚いた。

 Nelsonさんは、次にネタのあらすじを書かれているが、割愛し、肝腎の部分を引用。

Nelsonは林家正蔵のモノが大好きです。正蔵の枯れた、渋い味わいに古典の凄さ、深さを感じていました。ジャズで言えば、名曲を採り上げての名演、それも典拠となる名演だと思います。その意味では、「イン」の名演でしょう。


 この部分を読んで、「Nelsonさんも正蔵だよ!」と私はニンマリした。そして、正蔵を「イン」と表現するジャズの達人に感心した。

 そで、この「イン」、そして「アウト」について。

「イン」と「アウト」
ジャズには、「イン」と「アウト」という用語があります。(ご存じない方は、我がサイトのJazz Glossaryをご覧ください。)要すれば、従来の定型をそのまま踏襲しながらも個性を発揮する「イン」に対して、自分の感覚を信じて旧弊を打破し、新風を吹き込もうとする「アウト」とでも言えば、当たらずとも遠からずでしょう。このようなことは、個性を重んじるジャズなら当然のことですが、他の芸術分野、たとえば古典芸能である「落語」において試みられても、おかしくはありません。いつの時代にも、またどんな分野でも、気概に満ちた芸術家は、果敢に「アウト」を目指すものです。
林家正蔵等の古典落語の名人が演じる「中村仲蔵」は、「イン」の名演に当たります。約束事があって、それの埒を越えないのだけれども、訓練の賜物でしょうか、巧みな話術によって、人生の機微を感じさせます。型にはまってはいるのですが、そこに正蔵の個性がはっきりと出ているから不思議です。そういう古典的な名演を十分に知り、その素晴らしさを心得た上に違いありませんが、志の輔は敢えて「アウト」することを試みます。志の輔は昭和29年生まれで、Nelsonよりも1世代下に当たりますが、ここでの語り口は「我々世代」とでも言いたくなるような、オヤジ世代のそれです。当然、いくつかの彼らしい話の膨らましがありますが、それも現代の社会人に特有のクスグリであり、褒め言葉としての「今様(いまよう)」そのものです。現代に生きる我々が聴いて身近な語り口に置き換えた努力と才能は、立派なものだと感心しました。


 そして、この「アウトの危さ」について、次のように指摘されている。

「アウト」するには、「イン」、つまりは定型の居心地の良さを捨てて、誰もまだやったことの無い領域に踏み込まねばなりません。ものの見事に着地に失敗しても、当然なのです。お分かりのように、定型というのはそんなに軽々しいものではありません。生半可な「アウト」をすれば「くだらない」と一蹴されるほどに、練って、練って、練り上げられたもの、それが定型です。不動の価値があるからこその、「イン」であり、定型です。思い付きで、ヒックリ返せるほどヤワなものではないのです。


 そうなのだ。「定型」という言葉には、決まりきったことをやる、というやや消極的な意味合いがないでもないが、その型にたどり着くまでに練成されてきた歴史と、そうである理由がある。
 この後、Nelsonさんは、志の輔の「アウト」の試みを評価するとともに、中村仲蔵自身も歌舞伎を「アウト」した役者であることを指摘することを忘れない。流石である。

 そして、最後の締めは、しっかりジャズのことに戻り、これまた私が大きく頷くことを書いてらっしゃるのだ。

ここからは、Nelsonのごく私的な、個人的な好みの話になります。志の輔のアウトした「中村仲蔵」を聴いた上のことですが、Nelsonは林家正蔵のモノの方が、しっくり来るし、落ち着いて聴けます。これは、「良い・悪い」の問題ではなく、好みの問題なんで、仕方ありません。
(志の輔ファンには申し訳ありませんが、志の輔が挿入したクスグリに、まだ練りが足りないと感じました。90点の出来ではありますが、120点ではありません。古典とは、120点を要求する世界だと思います。もう少しの熟成を期待します。志の輔には、それが出来るはずです)
これをジャズで言うと、こういうことでしょう。Nelsonは、50年代から60年代頃のジャズが一番しっくり来ます。それよりも新しいジャズも好きですが、「さて、何を聴くかなぁ、、、」とかいう日常的な、ケのジャズとしては、本線モダンジャズの、5、60年頃のものが、一番落ち着きます。


 志の輔に、実にやさしい言葉がかけられている。

 浅草見番の雲助も、『中村仲蔵』を「アウト」したと言ってよいだろう。
 仲蔵に五段目の斧定九郎ひと役しか与えられなかった理由や、サゲにかけての設定などは、定型とは言えない。
 その試みには感心する。「アウト」した結果、「これもあるなぁ!」とその演目の進化を実感できれば、それは素晴らしいことである。しかし、それはなかなか難しいことである。
 もちろん、「イン」をしっかり行うのも決して安易なことではない。
 
 この「イン」と「アウト」との考え方は、先日紹介した榎本滋民さんの『落語小劇場』の冒頭にある次の文章にも相通じる。
2014年6月23日のブログ

「古典落語」とは、古典的な落語というほどの意味の造語なのだとして、辞書によれば、「古典的」とは、「古来」の「典型を重んずる傾向のあるさま」であり、定型という「規矩」のない「クラシック」など絶対にあり得ないからである。
 まして、定型化されては、だれが演じでも同じになってしまうからつまらない、などというに至っては、全くとるにたらないたわごとで、たとえば、歌舞伎の『勧進帳』や『忠臣蔵』を、だれが演じても同じと思う人がいるなら、それは、芸能にも芸術にも縁のない人にきまっている。
 もっといえば、すでに設けられた美の制約や秩序の中で、新しい生命を強く燃焼させ、そのことによって、規矩や制約や秩序を破壊しながら、またつぎのより新しい生命を燃焼させるために、より強い規矩や制約を設けるという、無限の繰り返しこそが伝統の再創造と呼ぶに価する作業なのであろう。


 古典“再創造”のために「アウト」する試みは得難い。しかし、定型に至る長い歴史と先輩噺家さんの苦労を踏まえ、基本の型ながら個性的な作品に仕上げる「イン」の芸は、その芸能を好む者の心をしっかりと掴んで離すことはない。

 「アウト」の芸の存在意義は、榎本さんの言葉をお借りするなら、“新しい生命を燃焼”させ得るものかどうかにかかっている。

 『中村仲蔵』に関して言えば、雲助や志の輔の「アウト」ではなく、私も正蔵の「イン」が好きだ。これは、好みである。

 そして、Nelsonさんと同様、私も50年代、60年代のモダンジャズが、しっくりくる。クリフォード・ブラウンの一連の傑作、マイルス・デイビスのマラソン・セッションの四作などは、私の携帯音楽プレーヤーの定番だ。

 雲助の『中村仲蔵』のおかげで、尊敬するジャズの達人Nelsonさんととメールで会話することができた。そして、Nelsonさんが落語に対しても、ジャズと同様鋭い鑑識眼があることがわかったことと、好みが近いことを知って、何度もニンマリしてしまうのである。

 「アウトも大事だが、インもいいんだよ!」(オソマツ)
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by kogotokoubei | 2014-07-09 05:18 | 落語とジャズ | Comments(2)
 明日7月17日は、ジョン・コルトレーンの命日。ビリー・ホリディ、石原裕次郎の命日でもあるが、今回はコルトレーンのこと。
 1926年9月23日生まれ、1967年7月17日に肝臓癌で満40歳での死だった。アメリカはノースカロライナ州生まれのモダンジャズのサックスプレーヤーで、一部のジャズファンからは“神聖視”されている人物。
 
 『らくだ』について書いた時に、平岡正明の『志ん生的、文楽的』を引用した。
2012年6月27日のブログ
 この本は桂米二の会に行った際、深川の古書店で見つけたのだが、読んだ後に、「次は平岡のジャズの本を読もう」と思っていた。
 一カ月ほど前、帰宅前に古書店をぶらついていたら、なんと『毒血と薔薇-コルトレーンに捧ぐ』を半額で入手できた。しばらく“積ん読”だったが、ようやくコルトレーンの命日前に読了できた。

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平岡正明著『毒血と薔薇-コルトレーンに捧ぐ』(国書刊行会)

 平岡正明が亡くなったのが2009年の7月9日、本書は、ほぼ亡くなる二年前、2007年7月20日発行。コルトレーン没後40年になんとか間に合わせるべくの刊行だったようだ。

次のような構成。
-------------------------------------------
はじめに

第一部 毒血と薔薇
毒血と薔薇 コルトレーンに捧ぐ

第二部 ジャズ喫茶の蛾の死骸
ジャズ喫茶の蛾の死骸
歌笑 闇市にバップは流れる
肝臓兄弟(レバー・ブラザー)マイク・モラスキー
   『戦後日本のジャズ文化』への返礼
モラスキー教授がセクシーだなんて
相倉さんのこと ジャズ批評の夜明けを走る

第三部 「魅惑されて」
アニタ・オディ「魅惑されて」
ジェレミー・スタイグ「ラヴァーマン」
痛い音
うまい煙
ジャズ女
佐久間アンプに苦みが加わるとすれば
佐久間アンプが美神と格闘する
幻にあらず・郷間和緒

第四部 寺島靖国をぶっ壊す
寺島靖国をぶっ壊す

解説=菊地成孔

[資料]
ジョン・コルトレーン・ディスコグラフィー
-------------------------------------------

 平岡の本は、『志ん生的、文楽的』では、落語を語りながらジャズが登場し、本書においてはジャズを論じるために、落語が引っ張り出される。
 第一部の表題作でコルトレーンを語る際にも、冒頭は桂枝雀のネタで始まる。このへんが、落語もジャズも好きな者には、たまらない。

 閻魔が茶漬けを食べている。
 サラサラッ、皿。瓜の奈良漬を齧って箸を置いたのを待って、松本留五郎が言った。
 閻魔はん、なんでパレスチナに行かはったん?
 う。・・・・・・それはな、キリストに招ばれたん。やっこさん最後の晩餐だと言うて。食い納めじゃい、あんたもよばれんか、いう誘いでな、天上にもつきあいというものがあるねン。



 コルトレーンを語るのに、枝雀の『茶漬えんま』から書き出すことができるのは、平岡正明しかいないだろう。
 このイントロは、コルトレーンの『アセンション』のことにつながる。
 『アセンンション』は1965年の作品。マッコイ・ターナーやエルヴィン・ジョーンズとの、いわゆる“黄金のカルテット”の晩年、カルテット崩壊のきっかけとも言われる作品で、コルトレーン初のフリージャズへの試みの記録。邦題が、いつのまにか『神の園』となっていることに違和感を覚える平岡が、枝雀が演じる小佐田定雄作の新作落語で、何を言いたかったのか。

 平岡は、この落語とジャズの因果関係を読者に伝えるために、『茶漬えんま』のストーリーを紹介する。その後半から『アセンション』へ、どうつながるか、引用する。

 釈迦、キリスト、松本留五郎は三人並んで蓮池の底を通して血の池を眺めている。血の池地獄はいまでは冷水装置によって澄み、湖畔には瀟洒なテラスハウスが建ち、亡者がヨットを浮かべ、ディスコ・ミュージックで踊っている。昨日よりは今日、今日よりは明日と拡大する欲望を満足させる無限地獄だ。閻魔の忠告通り、そっちのほうが性に合っている松本留五郎はそれを見て浮かれ出し、これ、騒ぐでない、ア、アブナイ!釈迦とキリストの制止もあらばこそ、ドブーン。三人は蓮池に落ち、底を抜いて血の池地獄へ真逆様。
 アップアップしている三人は渡し守の赤鬼に助けられた。内緒だぞ。釈迦とキリストが鬼に助けられたと知られると世間体がわるいでな。
 オッ釈迦サーン、大丈夫デス。私ガ山上ノ垂訓ノ時、使ッテ山ヲ登ッタ縄梯子ガアリマス・・・・・・。昇る。アレ、永イコト使ッテナカッタカラ、切レタ。
 キリストはん、大丈夫です。ほれ、私が垂らしておいた蜘蛛の糸が見えますやろ。あれを使うて極楽に戻ればよろし。
 釈迦とキリストは蜘蛛の糸を昇り始める。松本留五郎も上がってゆく。
 あっ、これ、留五郎はだめじゃ。私とキリストは清浄な身によって糸が切れたりはせんが、留五郎の罪の重さで切れる。キリストはん、留五郎の頭を蹴ってくれなはれ。
 そのとたん、蜘蛛の糸は切れた。ザバーン。釈迦とキリストと留五郎は血の池地獄に真逆様。神も仏もないものか。
 『アセンション』は「昇天」と訳すのがやっぱりいいみたいだね。釈迦はカンダダに蜘蛛の糸を垂らしてやるときなんて言ったと思う? アセンション・プリーズだ。この説話の主題は、釈迦は退屈しているということである。枝雀落語にジャズを感じる。それも1960年代の前衛ジャズを。


 
 “平岡節”のほんの一端である。

 私自身は、コルトレーンはマイルスを離れたばかりの1950年代末から60年代前半の作品が好きで、かつてジャズ喫茶にたむろしていた二十代後半も、コルトレーンの晩年の作品には魅かれなかった。
 『至上の愛』などと言うタイトル自体、ハードバップ大好き人間の私には、相容れないものがあった。

 だから、学生時代を関西で過ごし、ジャズ好きで落語、なかでも枝雀好きの私だったが、とても次のような平岡の発想は浮かばなかった。

「地獄八景亡者戯」から「茶漬えんま」への飛翔は桂枝雀の内面のドラマでもある。前者は長く埋もれていたものを桂米朝が発掘した陽性の地獄めぐりである。鯖にあたってあの世に行ったトリックスターが地獄で閻魔をからかい、人呑鬼の腹に飛び込んで暴れ、苦しんだ鬼が閻魔を呑みこもうとする。これ、なぜわしを呑もうとするかと、閻魔がただすと、ダイオウを呑んで腹下ししたいと鬼が答える。大王と漢方の下剤大黄をかけたシャレだ。
 師匠米朝のこのサゲを変えたのが枝雀だ。人呑鬼の苦しみを見かねた閻魔が、腹中の四人のトリックスターに、出てきたら極楽に遣ってやるぞと言う。出てきた四人は縛られた。あ、閻魔が嘘をついた。聞いた地獄の鬼どもが飛びかかって閻魔の舌を抜いた。
 閻魔大王という冥府の支配者が嘘をついて舌を抜かれるという逆転を案出して、枝雀自作の(落語作家・小佐田定雄と共作)「茶漬えんま」に、彼が創出した最高のキャラクター松本留五郎を登場させ、極楽に行った留五郎が、天上から蜘蛛の糸を垂らして地獄の亡者釣りをしている釈迦と一緒に地獄に落ち、釈迦を救いにきたキリストもかつて昇天したロープが切れて、それではと三人揃って蜘蛛の糸をのぼったが、釈迦が留五郎を蹴落とそうとしたために、三人揃ってまた地獄落ち。枝雀は、コルトレーンに欠如していた笑いをもって『至上の愛』から『神の園』へと飛翔をやっていたのである。


 
 枝雀の『地獄八景・・・』から『茶漬えんま』を、コルトレーンの『至上の愛』(1964年)から『アセンション』に重ねて語る人があろうとは、まったく思わなかった。平岡正明、恐るべし。

 私が社会人になって毎夜のようにジャズ喫茶でバーボンを飲みながら、「コルトレーンは最後、神になりたかったんだろうなぁ」などと思っていたのだが、どうも平岡の言い分は違っていた。枝雀以外の落語家や、私のお気に入りの筒井康隆、山下洋輔も登場する部分を引用。

 アフリカでは土人がタムタムのリズムに乗ってミサイルを担いでいく、と筒井康隆『アフリカの爆弾』(文藝春秋、1968年)を評したには山下洋輔だ。そのタムタムのリズム表記を、
「タン・タン・タン、タタン・タン(タ)」
とカッコ内にタを入れれば完璧であると指摘したのも山下だ。
 初代桂春團治「へっつい盗人」にこれに近いリズム感があった。重いへっついに天秤棒をさしわたして、泥棒二人が「ヨトサのコラサのヨイヨイヨイ」と掛け声をかけながら、丼池の夕まぐれを去ってゆく。駕籠かきの息杖の振りかたや、天秤の荷を担いでゆく棒手振り商人のリズムを彷彿とさせるものがある。さまざまなリズムの実験が行なわれた1960年代、われわれはリズム感のわるい者をバカと呼んだ。
 トレーンは『ヴィレッジヴァンガード・・・』以後、精霊(スピリチュアル)の入り込んだ自分の内面に拘泥して、空間の発展を止めるのである。第三世界が浮上しつつある重要な時期に、トレーンは空間の長征を止め、自分の心の礼拝堂に籠って宗旨の乗り換えばかりやる。第三世界すなわち反乱する植民地。帝国主義支配に反抗する地点をこの地上に五〇も百も燃え広がらせなければならないこの時期に、ジョン・コルトレーンは坊主になろうとする。


 コルトレーンが、なぜ「坊主」になろうとしたと平岡が説くのかは本書を読んでもらうとして、私は、どうしても“精霊(スピリチュアル)の入り込んだ自分の内面に拘泥”する前のコルトレーンが好きだ。

 平岡のこの書では、『至上の愛』以降に関する内容が中心なので申し訳ないが、落語とジャズとの平岡流インプロビゼーションを紹介したことで許してもらい(?)、“黄金のカルテット”時代の代表作を紹介したい。

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バラード/ジョン・コルトレーン
BALLADS/JOHN COLTRANE
(impulse UCCI-9001)

[収録曲]
1. Say It (Over And Over Again)
2. You Don’t Know What Love Is
3. Too Young To Go Steady
4. All Or Nothing At All
5. I Wish I Knew
6. What’s New
7. It’s Easy To Remember
8. Nancy (With the Laughing Face)

[パーソネル]
John Coltrane (ts)
McCoy Tyner (p)
Jimmy Garrison (b、7を除く)
Reggie Workman (b、7のみ)
Elvin Jones (ds)

[録音]
1961年12月21日(7.)
1962年9月18日(6., 8.)
1962年11月13日(1.~5.)

 アルバムの一曲目、“Say It (Over And Over Again)”をお聞きください。
夜なら、お酒が美味くなりますよ。

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by kogotokoubei | 2012-07-16 17:04 | 落語とジャズ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛