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カテゴリ:落語の本( 148 )

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江國滋著『落語美学』

 このシリーズの最後、四回目。

 「第三章 金について」より。

 国会でプロレスごっこをしていればどんどん金が入ってくる人とか、泥棒にくれてやる大金を枕もとにおいて寝る人などは、金なんか自然に湧いてくるとでも思っているのだろうが、本当は、
「けッ、馬鹿にしやがって、三文べえの銭、なくすもなくさねえもねえ、こんだなもの・・・・・・しかし、地べたァ掘っても三文の銭ァ出ねえちィ譬(たとえ)がある。これで商(あきね)えぶてねえことあるめえ、よし、やってみべえ」(『鼠穴』)
 というくらい尊いのが金である。
 そこでまたこんなことがいわれる。
「何をいってんだねえこの人ァ、夫婦の仲で水くさいことおいいでないやね、そんな礼なんぞいわなくたって」
「いや、なんの仲でも銭金は他人てえことがある。おめえのおかげでおれも本当にありがてえ、これでまァ病気がなおるんだから・・・・・・」(『文違い』)
 これもまた至言には違いないが、それにしても「なんの仲でも銭金は他人」とは厭な言葉である。人生が索然としてくるような、そんな響きを持っている。だが、金の世の中という現実に目をつむるわけにはいかない。だいいち、法律でさえ「夫婦ノ一方ガ婚姻前カラ有スル財産及ビ婚姻中自己ノ名デ得タ財産ハソノ特有財産トスル」(民法 第七百六十二条)と定めている。なんとも味気ない話だが、いまさら反対してみてもはじまらない。「なんの仲でも・・・・・・」という『文違い』の科白は、このようにちゃんと民法精神にのとっているわけだが、しかし金というもの、それほどまでに執着しなければならないものだろうか。

 「国会でプロレスごっこ」は、この本の初版発行が昭和40年であることから、あの時代の政治状況を察することができる。
 今では、良くも悪くも、そういった体を張った議員さんたちの応酬は見かけないが、それは、今が平和だからではないと思うぞ。
 「真摯」とか「丁寧」という言葉の大安売りに対しては、野党議員も少しは体を張って欲しかった、と私は思っている。

 話を戻そう。

 『文違い』に出て来る、「なんの仲でも銭金は他人」は、落語愛好家の方はご存知のように、目の病気と偽って新宿遊郭のお杉を騙す、芳次郎の言葉だ。
 そう考えると、この「なんの仲でも」という言葉には、より一層、厭な響きを感じるなぁ。

 江國さんは、上記のように金への執着に関する疑問をふった後、こう続けている。

 極道の限りをつくす大工の熊公が、その疑問に答えてくれる。
「人間てえものァ、ちィちィして銭ばかり貯めたってしょうがねえじゃねえか、え?いくらおめえ、山のように金ェ貯めたって、もういま息を引きとるてえ場合(ばやい)になて一文だって銭ァ使わねえだろう、そう考えてみりゃつまらねえや、なァ、何万両残したって、死んで背負ってけやしねえんだ」(『子別れ・上』)
 隠居の葬式酒にのんだくれた熊公が、これから女郎買いに行くという場面で、こんな怪気炎をあげる。
 とんでもない無類の徒ではあるが、「何万両残しても死んで背負っていけない」という言葉は正鵠を射ている。

 熊が仕事の金を前借りした後なので、言える言葉かもしれないが、たしかに、貯めた金を背負って三途の川を渡ることはできない。
 
 しかし、現実には、なかなかこう割り切ることは、そう簡単ではないのも人情。

 江國さんは、ある実体験をこの後に披露している。
 
 本郷にNという旅館がある。京都風の落着いた宿だが、熊公の言葉を聴くと、ぼくはいつもここの女将を思い出す。彼女は六十九歳になって、ソ連とどこだかに旅行をしてきたという変りものだが、“外遊”がよほど気にいったとみえて、近く印度を中心に六カ国旅行に出掛けるという。さぞ費用がかかるだろうね、とい尋ねたら、この女将、ニヤリと笑っていった。
「なんぼお金を残してみたところで、死んで背負っていけるものやおまへん。生きてるうちに使うたほうがトクでおます」

 この旅館の女将さんの言葉は、古希を前にした達観が言わせるものだろう。 
 しかし、江國さんも、つい“変りもの”と形容する位、なかなか達観できないのが、生身の人間。

 江國さんはこの後、落語の中にも、なかなか言えないことを言う主がいることを、紹介している。

「いやいや、そんな言訳をしなくてもいい、お前が金を出して遊んでいるか、他人(しと)のお供か見てわからないあたしじゃない。しかしまァきのうのお前がお供で遊んでいたんでしょう。どうか、他人さまとつきあって遊ぶときには、充分に金は使っておくれ。いいかむこうで二百両出して遊んだときはお前は三百両お出し。五百両使ったら千両お使い。どうかそうしてくれないと、いざというときに商売の切ッ先が鈍(なま)っていけない。そんなことでつぶす身代なら、あたしァなんともいわない」(『百年目』)
 かくれ遊びをしている番頭に主人がこんなことをいう。おだてたり、やんわりと叱ったり、ちくりと皮肉をいったり緩急自在にあやつりながら、しかも情理を尽した説諭の、これはほんの一部であるが、さすがに大店の主人の言である。商売をしたことのないぼくにはよくわからないが、いかにもそうかもしれないという気がする。とくに「切ッ先が鈍っていけない」という表現がおもしろい。

 こんな主人も、なかなかいるものではない。
 しかし、実に見事な指導、教育の姿ではなかろうか。
 こう言われてしまうと、無駄な金の使い方などできようもないだろう。

 『百年目』では、かつて立川志の輔がパルコで演じた映像を見たことがあるが、主人が泣いて番頭に辞めないでくれ、と頼む場面があり、閉口した。

 泣くような主人では、ないのだ。
 志の輔がその後、演出を変えたかどうかは知らないが、あの時の人物造形は、腑に落ちなかったなぁ。

 江國さんは、この章の最後に、あのネタを持ってきた。

 さて、金の項の最後に、万人だれでもが共感を覚える会話を紹介しよう。
「あのじじいが、まァいけッ太えじじいだな、あん畜生ァ、門跡さまのお茶屋へでも行ってころがってやがる年ごろで・・・・・・囲い者をしやがるとはどうもあきれ返ったじじいだなァ、・・・・・・大体なんですね、あの女はあんなじじいいに惚れてるんですかねえ」
「惚れてやしねえやな、お面もぼんくらだなァ・・・・・・金だよ」
「あ、そうか、金ですかねえ・・・・・・いい女だなァ、まったく。ああいうのが金があれば自由になるんだなァ。金さえありァいいんだ(と目をつむって嘆息して)ああ、ああ、金がほしいや、どうも」(『三軒長屋』)
 これこそ、まさしく、お説ごもっとも、であろう。

 金のこと一つとっても、『鼠穴』で描くように、地べた掘っても三文の銭が出てくるわけでもない、という教えももっともだし、厭な言葉とはいえ、なんの仲でも銭金は他人、という『文違い』の教えも否定し切れるものではない。
 また、『子別れ』で熊が酒の勢い言ったとはいえ、死んで金を背負って行けるわけでもないというのも、名言に違いない。
 『百年目』の主人の大店の主人としての説諭には、こんな上司に仕えたい、と思わせる。
 そして、『三軒長屋』では、人間の本音が顔を出す。

 金をめぐっても、こういった多様な人間の姿が描かれるところに、落語の素晴らしさがあるのだろう。
 
 ということで、このシリーズはこれにてお開き。

 いやぁ、落語って、ほんとにいいもんですねぇ!
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by kogotokoubei | 2017-12-12 12:33 | 落語の本 | Comments(2)
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江國滋著『落語美学』

 このシリーズの三回目。

 その前に、「哲学」という固い題が気になる方もいらっしゃるだろうから、江國さんが「序説」で書いていることを紹介しておきたい。

 われわれがいま耳にするのは、要するに二百年にわたって磨きぬいた芸であり、その芸に裏打ちされたすぐれた表現なのだ。これを称して「落語哲学」と、ぼくは勝手にそう名付けたのだが、何を大げさなといわれるかたには、八っつあんの倫理、熊さんの知恵といい直してもいい。それもお厭なら、落語・温故知新とでもいおうかー。

 ということで、あまり「哲学」という言葉に目くじらを立てずに、ご覧のほどを。

 では、「第二章 色について」から。

 まずは、志ん生の高座を思い浮かべてお読みのほどを。

「あんまりやさしくすると当人が図にのぼせてしまう、といって、小言をいやァふくれるし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る・・・・・・どうも困るそうですなァ、女というものは、見たところは大変綺麗で、いいようですが、外面如菩薩内心如夜叉なんてえまして、見たとこは菩薩のように綺麗だけれども、腹ン中は鬼か蛇だって、これァお釈迦様がそういったんで、苦情はむこうのほうへもってってくださいよ」(『お直し』)


 あくまで志ん生がマクラで使っているから、外面如菩薩内心如夜叉(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)なんてぇ言葉を引用しているので、私がそう思っているのではないことを、強くおことわりしておきます^^

 江國さんは、次のように続けている。

 外面如菩薩内心如夜叉という言葉そのものは別に珍しくもない。仏教の「華厳経」が出典だそうだが、この言葉を志ん生が、あのめんどくさいような、どうでもいいような調子で喋ると、とたんにおかしくなってくる。ただおかしいだけではなく、どことなく真実味が加わってくるから妙である。聴いているうちにぼくは、劇作家ボーマルシェーがフィガロにいわせた有名な独白を思い出す。
「噫々、女! 弱ああい、当(あて)にならねえ代物だなあ! およそ生きとし生けるものは本能に縛られるが、手前の本能は男を誑かすことか?」(『フィガロの結婚』第五章第三幕。辰野隆焼く)
 女性よ、期せずして似通った彼我の女性観に腹を立ててはいけない。一見女性蔑視のように聞こえるこの二つの言葉の底に流れているものは、蔑視どころか実は、徹底した女性崇拝の思想なのだから。


 志ん生の『お直し』で、『フィガロの結婚』を連想するところが、江國さんなのである。
 この後を続ける。
 同じ『お直し』の中にこんな言葉もある。
「この、女ってえのァそういう時に慰められるてえと、いちばんうれしい。ああこの人は親切だなッと思う・・・・・・親切と慰めとこんがらがってきますね、そうすると、二人の間でもって、なにかそこにできあがってくる」
 今も昔も変らぬ男女間の微妙な心理。その本質を衝いた至言ある。
 先月の柳家小満の会で、この噺を聴いた。
 “男女間の微妙な心理”を描いた、好高座だった。
 かつては売れっ子だった吉原の花魁が、年を重ねてお茶をひくことが多くなり沈んでいるところを、同じ店で妓夫として働く男が優しく声をかける。

 男は、この時、夜叉ではなく菩薩を彼女に見たのだろうねぇ。

 男は、その外面如菩薩に、弱いのだ。

 それが独身だったりすると、大きな勘違い、あるいは都合の良い錯覚をしてしまう。

 そういった、スケベ心から女に騙される男のだらしなさは、数多くの落語で明らかにされている。
 引用を続ける。
「ああそうだよ、それァおればっかしじゃないよ。あすこの家ィ稽古にくるものは、みんなあわよくばってのがもうずうッとそろってるんだ。ああ、あわよか連だ。そういうおまえだってあわよか連だよ。おまえなんざァ、あわよかが着物を着て下駄ァはいているようなもんだよ。だけどそのことについてはもう心配しなくてもいいよ。師匠はあたしに惚れてんだから」(『猫忠』)
 美人で愛想のいい遊芸の師匠が稽古所を出すと、町内の若い衆がたちまち競争で通ってくる。もちろん、芸なんぞどうだっていいという手合いだ。師匠も心得たもので、適当に「スジがよござんす」だの「お声がよろしい」だの、心にもないお世辞をそれぞれに配合する。いわれたほうは「こりゃ、ことによると・・・・・・」と、勝手にうぬぼれる。三回も通ううちに、あわよくば金的をという野心を抱きはじめる。
 馬鹿馬鹿しい、と嗤う資格はわれわれにはない。毎日美人喫茶にやってきて珈琲一杯で三時間もねばる学生。どうせ会社の金だから痛くも何ともないのだろうが、それにしては法外に高い金を出して、せっせと高級バーに通勤するサラリーマン。いい齢をして小料理屋のおかみに目をつけて、何とかして旅行・・・・・・それも東京都内一拍旅行に誘い出そうとヤッキになっている好色おやじ。即ち悉く「あわよか連」である。
 
 “美人喫茶”というのが、この本が昭和四十年発行ということを思い出させるねぇ。

 盛り場の様子も平成の今では変わっているにしても、「あわよか連」が夜の街を彷徨っていることには、変わりがなかろう。
 キャバクラで「あわよくば」と鼻の下を伸ばしている男は、少なくなかろうし、好色おやじが通う、昔は美人だったであろう女将のいる小料理屋も、少なくはなったとはいえ、ないことはない。

 「あわよか連」のマクラは、『あくび指南』『稽古屋』『汲み立て』など稽古ごとが登場するネタでよく聞くことができる。

 炬燵の中で手を握っていたのが美人の師匠ではなく、同じ「あわよか連」野郎だったことが判明した時の男に同情を禁じ得ない人が、少なくないだろう。

 しかし、淡い期待が裏切られたとしても、「あわよか連」のショックは、そう大きなものではない。
 江國さんも、こう書いている。
 あわよくばということは、失敗してモトモトだということにほかならない。ごく安直にちょっかいを出すかわりに、望みがないとわかればいささかの未練もなく引下がるー男性の助平根性は、おしなべてまあそんなところである。

 見事にふられた後で、「あわよか連」の面々の中にも、「外面如菩薩内心如夜叉」を痛感する者がいるだろうなぁ。

 くどいようだが、この言葉、お釈迦様が言ったので、苦情はむこうのほうへもってってくださいよ^^

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by kogotokoubei | 2017-12-11 12:39 | 落語の本 | Comments(0)
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江國滋著『落語美学』

 このシリーズの二回目は、「第四章 生活の知恵」から。

「おばあさん、なんか着るものを出してやんな、え?印半纏、うん、古いやつでいいよ(略)ああ結構、結構、じゃそいつを出しといてやんな。それから紐のついた財布を出して、それから、かぶり笠はあるかい?ああ、ふたッつある、浅いのと深いのと、そうだなァ、浅いほうがいいだろう、うん、笠の底に青ッ葉を二、三枚入れといてやんなよ。暑さにやられねえように・・・・・・」(『唐茄子屋』)
 というのには、ちょっとしたおもむきがある。苦労人の伯父さんが、ぐうたら野郎の根性をたたき直そうとして、きついことばかりいいながら、時折り、言葉のはしにちらりと、甥に対するいたわりが顔を出す。その人情味もさることながら、暑気ふせぎに青ッ葉をという民間衛生をきくとつい「ふうん、そういうものかなァ」という気になってくる。たとえ科学的根拠はなくても「俺は青ッ葉を入れているから大丈夫だ」という自信によって、もし気力が出てくるとすれば、それはもはや「迷信」ではなくて一つの立派な「知恵」である。

 『唐茄子屋』でこの「青ッ葉」を聞くまでは、そういう知恵があることを、私は知らなかった。

 この後の江國さんの体験が興味深い。
 昨年の夏、ぼくは日本橋のY病院に入院して痔の手術を受けた。生来弱虫の上に、堪え性がないので、あたりかまわず痛い痛いを連発して、病院中に勇名を馳せてしまったのだが、痛がるたびに院長は看護婦に命じて、惜し気もなくモルヒネなどの麻薬注射をしてくれた。痛み止めの散薬も普通の患者の三倍近くのませてくれた。薬石効あって、いよいよ数日後にはめでたく退院というある日、回診のあとで院長が笑いながらいった。
「キミが有難がってのんだ薬ね、あれの三分の二はただの重曹だよ」
 ほんとですかというぼくの言葉をさえぎって院長はさらにいった。
「注射だって、ほんとの麻薬を打ったのは二、三本だよ。あとはみんな食塩注射さ。それでピタリと静かになるんだからキミも不思議だねえ、ハハハ」
 “真相”を告げられて、無念、はかられしかという口惜しさは全然感じなかった。といって、ころりと暗示にかかるおのれの単純な神経をはずかしいとも思わなかった。院長は不思議だといったが、ぼくはちっとも不思議だとは思わない。患者の神経なんて、みんなあんなものではあるまいか。
 近代医学でもこの通りである。「青ッ葉を二、三枚・・・・・・」という教えも、あながち軽蔑したものではない、と、これは自分の体験からいうのである。

 う~ん、なるほどねぇ。

 江國さんにとっての“青ッ葉”は、院長の見事な暗示だったわけだ。

 病は気から、ということか。

 この後には、こんな落語の中の一言が紹介されている。

「で、この品川あたりまではうちの者はもちろん、親類友達なんてえものが見送ってくれまして、『じゃァ、道中気をつけて・・・・・・水が変るぜ』」(『三人旅』)
 これは青ッ葉に比べれば、ある程度科学的な根拠がある言葉かもしれない。例えば、都会の子供がいきなり田舎へ行って井戸水をのんでお腹をこわすというのは、いまでも充分あり得ることだ。だが、ここでは、そのこと自体よりも、「水が変るぜ」という些細な注意を別れぎわのきまり文句にした古人の知恵に感心する。どんな場合でも、別離の時というものはしめっぽくて、厭な感じのするものである。もっともっと話しておきたいことがありそうでいて、実際にこの瞬間にはもう何もいうことがない。といって、ここで何かいわなくては間がもてない。悲しみをやわらげようと下手な冗談をとばしてみても、むなしさがあるだけで、うっかりすると笑いが涙に変ってしまう。どうも仕様がない。しかし発車のベルまであと三分あるーそんな片づかない雰囲気を「水が変るぜ」の一言がみごとに救ってくれる。情がこもっていて、しかも適当に突き放したような感じもあって、いったん口に出してしまうと発つ人、送る人の間にくっきりと線が引かれて、そこに諦めの感情が生じる。こんなすばらしい別離の言葉が、外国語にあるだろうか。いろいろきいてみたが、中国語の「水土不服(スイトウプーフウ)」が、わずかに雁行するといえばいえようか。
 「水が変るぜ」という言葉の持つ深い味わいを、このように説く人は、そういないだろう。

 私は被害にあったことはないが、海外で水で被害にあった人の話は、数多く耳にしている。

 青ッ葉よりは、たしかに科学的根拠があるだろう。


 今では、落語以外では聞かことがほとんどのない、青ッ葉、水が変る、などの言葉、大事にしたいねぇ。

 思うのは、そういう言葉が残るということは、そういう言葉をかける気持ち、気配りや優しさも残るということだ。

 落語の世界には、そういう庶民の暮らしの温かさ、柔らかさがあるということが、紹介した内容から強く感じるなぁ。

 もう一、二回、このシリーズは続く予定。

 
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by kogotokoubei | 2017-12-09 11:50 | 落語の本 | Comments(0)
 前の記事で冒頭に引用した『二十四孝』の科白は、実は、江國滋さんの落語三部作の一つ『落語美学』を再読していて、目についたものだった。

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江國滋著『落語美学』


 三部作は、『落語手帖』が昭和36年に普通社から初版が発行され、この『落語美学』が四年後昭和40年、『落語無学』がそれからまた四年後昭和44年に東京書房から発行された。
 旺文社文庫での再版後、今ではちくま文庫で読むことができる。

 最初の『落語手帖』は、昭和9年生まれの江國さんが二十代で書いた本であるから、恐れ入る。

 前の記事で引用した『二十四孝』の科白は、「落語哲学」の中の「第五章 道徳について」で登場する。
 その少し前から、ご紹介。

 「何処(どけ)ェ奉公するにしてもつまんねこンだ。それよりも自分で商売ぶってみろ。奉公ぶつより商えぶてや」(『鼠穴』)
 成功した兄が、おちぶれた弟をさとす場面で、こんな言葉が朴訥な兄貴の口からすらりとでる。これをそのまま、これから就職する学生諸君に贈りたい気がする。将来が一応安全で、小ぎれいで、体裁だけは頗るいいホワイトカラーになりたがって、われもわれもと大会社に殺到する、その気持ちはわからないでもないが、しかし、めでたく大会社に就職したその瞬間から、人生の墓場へ片足ふみ入れたことになる事実を、学生諸君ご存知か。

 これは、慶應を卒業して新潮社に入社し「週刊新潮」の編集部員などを経て独立した江國さんの、本音なのだろうか。

 今なら、「起業のすすめ」とでも言い換えられそうな江國さんの言葉、今の学生諸君にも聞かせたいような気がする。

 最近の新入社員の安定志向は、その昔を思わせるものがある。

 大企業志向や長期勤務を要望する傾向が強い。

 海外留学は年々減少しているし、たとえば、アメリカのシリコンバレーで活躍するアジア人は中国やインドの若者ばかり。

 さて、この後。

上役の目をたえず気にしてびくびくしながら、スポーツ新聞と麻雀とヤケ酒とでずるずると日を送り、やっとこさ課長になって気がついた時には五十五歳の定年、というのがホワイトカラーの大多数の運命である。「奉公ぶつより商えぶて」といいたくなるではないか。
 逆に大学当局のお耳に入れたい言葉もある。
「おまえの親父は、食べる道は教えた、人間の道というものを教えないから、貴様のようなべらぼうものができたんだ。ええ?」(『二十四孝』)
 与太郎に対する伯父さんの小言だが、「親父」を「大学」と置きかえるだけで、立派に現代にも通用する言葉である。

 この部分を読んで、私は「大学」を「親方」と置き換えても、十分に通用すると思った次第。

 これ、本来の「親父」あるいは「母親」においても、もちろん現代でも通用するのは、当然のこと。

 「道徳教育」とか「礼儀」とか「礼節」とか「躾」などという言葉を使うと、すぐ、右寄りだとかなんとか指摘されかねないので敬遠されるが、親でも先生でも、師匠でも親方でも、「食べる道」のみならず、それらの言葉を包含した「人間の道」を教えることが、今の時代に欠如しているのではないか。

 しかし、それは学校の「道徳」の授業を増やせばいい、という問題ではないのは明らか。

 そもそも、先生が生徒、学生に信頼されているのかどうか。
 何を言っても、言っている先生自身に戻ってくるばかり、というのが実態ではないか。
 江國さんは、紹介した文章のしばらく後で、こんなことを書いている。

 学校の教育があまりアテにならないとなると、家庭で教育するしか方法はなくなるが、その家庭の躾けがまた恐れ入る。どこの家庭も、早期才能教育と自由放任教育の二本立てばかり。
「・・・・・・あ、これ、商売もんの算盤またぐんじゃない。脇ィやっときな」(『金明竹』)
「へえ、へえ」
「重ね返事はよしなよ。へえへえというのはいけない」(『小言幸兵衛』)
 こういうなつかしい躾けは一体どこへいってしまったのだろう。

 こういう文章を読んでいると、しみじみ、落語っていいよね、と言いたくなる。

 ということで、何度かに分けて、この「落語哲学」の部分を紹介するつもり。

 私の名前が出たところで、今回はお開き。

 
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by kogotokoubei | 2017-12-08 19:54 | 落語の本 | Comments(0)
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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』

 さて、この本のシリーズ4回目。

 前回は、高校の先生との面談における歴史的瞬間をご紹介した。

 その後、小さんに弟子入りするまでは、なんとも不思議な縁が、稲葉稔少年を導くことになる。

 まずは、ある親戚から紹介された、ある噺家さんのこと。

 噺家になろうと決めたそんな夏のある日、私の従姉が久しぶりに遊びに来ました。この従姉は浅草の田原町でちょいと気の利いたクラブをやっていまして、エキゾチックな顔立ちをしたなかなかの美人です。私が高校の時に二十七歳くらいでしたから、いまは・・・・・・まあいいか。
 従姉は来るなり「みっちゃん!」と声をかけてきました。当時は、家族、親戚、町内、悪童、みな私を「みっちゃん!」と呼んでいたんです。
「みっちゃんは落語が好きだよね?」
「うん、まあ」
「あのね、うちのお客さんでね、芸能学校を作った人がいてね」
「うん」
「その中に落語の教室もあってさ」
「うん」
「それがさ、生徒が集まらないのだ」
「うん」
「それでね、みっちゃん、その教室に入ってみない?」
 人の運命は好むと好まざるとにかかわらず自然とその方向に向いて行くものなのだろうか、私は従姉への義理もありその落語学校に通うことになりました。
 そこで教えて下さったのが当時二つ目で有望株の三遊亭吉生さん(現六代目三遊亭圓窓師匠)。半年も通ったころ、授業のあと吉生さんに呼び止められました。
「稲葉君は今年高校卒業でしょ?大学は行かないの?」
「はい」
「就職は?どうするの?」
「・・・・・・」
「噺家になるつもり?」
「は、はい!」
「やっぱりね!よした方がいいよ」
 そう言われると思ってはいたものの、でもなりたいんです、と私は珍しく真剣に喰らいつきました。
「どの師匠に弟子入りしたいの」
「小さん師匠です!」
「目白かーっ?」
 ご存知の通り、役者や噺家は住んでいる所で呼ばれます。文楽師匠は黒門町、志ん朝師匠は矢来町、三平師匠は根岸、正蔵師匠は稲荷町、三木助師匠は田端、志ん生師匠は日暮里。
 五代目小さん師匠は目白の閑静な住宅街に住んでいました。そこで師匠は「目白の師匠」となるわけです。吉生さんは「目白かーっ?」と腕を組んだまま。
「駄目ですか」
「いや駄目というわけではないけど、小さん師匠はお弟子さんが多いから難しいかもしれないよ」
 確かに吉生さんの言うとおりでした。のちに弟子入りをい許されたあとで先輩たちから「ひと雨ごとに弟子が増えるね、まるで蛙だね」と言われました。実際、半年の間に私を含め五人も弟子が増えたのですから、そう言われても仕方ないですが、雨後の竹の子ならず、雨後の蛙とはうまいことを言うものです。
 難しいとは言いつつも、吉生さんはいろいろな入門志願成功のノウハウを教えてくれました。
「でも無理だと思うけどなーっ」
 と、また腕を組む吉生さん。それをもいとわず私は、五代目小さんに弟子入り志願しようと心に決めました。

 従姉-お客さん(落語教室)-吉生(現圓窓)、とつながる縁があったとは。

 高校生時代の圓窓との出合いは、落語の世界に入った後も、大きな財産となったのではなかろうか。

 さて、稔少年の落語家になる夢を後押しする縁は、他にもあった。
 続きを引用。

 となれば、いつその目白のお宅へ行こうか。いろいろ考えあぐねていると、意外な展開が待ち受けていました。
 私の実家の洋食屋によく食事に来てくれたお客さんに大沢さんという方がいました。大沢さんがある日、私の父に向かって、
「ねえマスター、お宅の次男坊、今年高校卒業じゃないの、大学は決まったの?」
 親父は皿を拭き、
「それがねぇ、噺家になりてぇなんてとんでもなねぇことを言い出しゃがって、困ってるんですよ、まったく!」
「へー、そりゃいいや、で!誰の弟子になりたいの」
「小さん師匠のとこへ弟子入りしたいとか言ってやがるんですがね、どうもお弟子さんが多いからとってくれねぇかも知れねぇ、とか言ってやがるんですが、こっちはその方がいいと思っているんですがね!」
 大沢さんは水をグィッと飲み、
「そりゃいいや、小さん師匠なら紹介してあげるよ」
「えっ!」
 思わず親父の皿を拭く手が止まりました。大沢さんは、師匠の小さんが二つ目の頃からのご贔屓で「師匠!」「どうも!」の仲とのこと、紹介するくらいはたやすいことだと言います。果たせるかなその大沢さんの紹介で目白の五代目柳家小さん師匠の門をくぐることになるのです。
 大学進学をあきらめてから「噺家行き」という列車にいつの間にか乗っていて、駅、駅でそれぞれの人たちに迷うことなく乗り換えさせてもらい、この目白の五代目柳家小さんという駅に連れてきてもらったような気がします。そこには自分の噺家になりたいという意志とは別の力がはたらいていて、運命とはこんなものかとも思いましたが、それは噺家になれたから言えることなのでしょう。

 こんなこともあるんだぁ、という経緯(いきさつ)ではないか。

 たしかに、本人の意志とは別な運命的なものを感じるね。

 ということで、目白に通う前座修業が始まるのだ。

 その修業時代に、キッチンイナバのレシピ通りでさん喬(小稲)がある洋食を師匠のために作ったのだが・・・とか、喬太郎の名付け親や師匠さん喬でもなければ大師匠小さんでもない意外な人だった・・・とか、サッカーチームがつくれるほどの11人の弟子それぞれについてのさん喬による、とんでもない逸話を含む紹介・・・などなど興味深い内容がふんだんにあるのだが、やはり、それは実際に買って読んでいただきましょう。

 本シリーズ、これにてお開き。
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by kogotokoubei | 2017-11-22 12:36 | 落語の本 | Comments(0)
 日馬富士の暴行事件の報道が、なんとも言えない暗い気持ちにさせる。

 真相はどんどんグレイになっているなぁ。
 それにしても、貴乃花親方バッシングになりつつあるのが、実に嫌だ。
 協会が裏で、どんどんネタをリークしているのだろう。
 
 ここは、熊さんとご隠居の会話で、シャレのめしたい。

熊五郎 ご隠居、こんどの事件、ビール瓶じゃなくて素手だろうと、ありゃあ
    横綱のするこっちゃねぇでしょう。
ご隠居 そりゃそうだ、とてもプロの中の最上位の人間がやることではないな。
熊五郎 そうか、プロじゃないはずだ。
ご隠居 どうしてだい。
熊五郎 前の名前が「アマ(安馬)」でした!

 第二弾。

熊五郎 それにしても、相撲協会は、こんなことが公けになって困ってんで
    しょうね。
ご隠居 そうだよ、理事長だって、名前のように、ハッカクして欲しくなかった!

 オソマツ・・・・・・。

 では、気分をかえて。

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』

 さん喬の著書からの三回目。

 今回は、本所の洋食屋「キッチンイナバ」の倅だった稲葉稔が、なぜ噺家の世界に飛び込むことになったのか、ということについて。

 さん喬は昭和23(1948)年生まれ。まさに、“団塊の世代”だ。
 
 彼が子供の頃、昭和20年代後半から30年代には、ラジオでは落語がたくさん流れていた。

 そのころはもちろんテレビなどはありません。ラジオが何よりも庶民の楽しみでした。今とはちがい、どの局に合わせても演芸番組が花盛り、幼い私でも、金語楼・柳橋・志ん生・文楽・金馬・痴楽・エンタツアチャコ・牧野周一・木下華声・千太万吉・英二喜美江等々の師匠方の名前は聞き覚えていました。のちに芸人の世界に入って、中のは、まだお元気に高座をお務めになっておられるそんな師匠方のお身回りのお世話をさせていただけるのは、なんとも心躍る気持ちでした。
 ラジオにかじりついていたのは、六、七歳の頃ですが、私は小学校の卒業作文に「将来は人を楽しませる職業につきたい、喜劇役者、落語家、映画監督や俳優」などと書いた覚えがあります。そのころはテレビも普及し始めて、八波むと志や三木のり平などにあこがれていました。

 芸人への憧れ・・・分かるなぁ、この気持ち。

 私も、小学校時代からお笑いが好きで、ベニヤ板で作ったウクレレもどきを学校に持って行って「あ~ぁ、やんなっちゃったぁ」なんて友達の前でやっていたものだ。
 そんな少年の高校時代は、70年安保闘争が始まっていた。

 そういう時代性が、彼の人生に大きく影響した。

 学生運動華やかなりし頃で、毎日のように学生運動の報道がなされていました。そんな高校二年のある日の授業中のこと、親大学の学生が、突然校庭にトラックで乗りつけ、スピーカーのボリュウム一杯に、
「君たちは、やがて大学に進学し学問をおさめようと、大きな夢を描いているだろうが、今、わが大学はそのような価値もなく、ただ漫然と・・・・・・しかるにわが国家の政治家どもは・・・・・・」
 とか訳のわからないアジ演説をとうとうと始める。もちろん授業にはならず、先生や職員がやめさせようと校庭に出てはみるものの収まろうはずもない。多くの人に迷惑をかけている自分勝手な行動に、少年の心の中にあった大きな夢は大阪城が焼け落ちるがごとく大きな音を立てて崩れ落ちた・・・・・・のであります。自分の憧れていた大学と目の前で見せつけられた大学生の姿、すべての学生がそうでないことはわかっていても、自分の中で憧れががらがら崩れたことはまちがいありません。

 昭和23(1948)年8月生まれだから、稔少年が中央大学附属高校に在籍していたのは、昭和39(1964)年から42(1967)年までだろう。

 70年安保闘争の先がけ的な時期であるとともに、当時、中央や他のいくつかの大学では、学費値上げ反対運動が盛んだったはず。

 同級生の中には、大学生のアジ演説に感化され学生運動に走った人もいたに違いない。そして、さん喬のように、大学に進学する意欲を失った人も少なくなかろう。

 さて、その後、稲葉稔少年はどうなったのか。

 私は目標もなくなり勉強する気にもならず、成績はどんどん落ち、とうとうクラスで最後から二番目。私より下がいたのが驚きだが、ゴルフならブービー。コンペなら賞品が出ますが、学校じゃ出ません。出てきたのは心配した担任の先生、何か悩みでもあるのではないかと私は職員室に呼び出し、
「稲葉!こんな成績では、いくら附属高校でも、学内選考で落とされて大学に進学できないぞ、お前どうするつもりだ?」
 返事もせずにうつむいている私に、先生が肩に優しく手をかけて、
「どうするつもりなんだ?」
 とさらに言いつのります。先生の気持ちを思うと、何かすぐに答えをださなくてはいけないような脅迫観念にかられた私は思わず、
「大丈夫です先生、僕、落語家になるんです!」
 と口にしていました。
 えっ、なんで、おれが噺家?どうして?自分の中に潜在的にひそんでいたものが、追い込まれたその時に、窮鼠猫をかむが如くピュッと飛び出したのか?自分でもわかりません。
 そのとき、私の肩に置かれた先生の優しい手が一瞬離れました。
「おい、稲葉!何を言ってるんだ、そんなこと言わずに頑張れ。お前なら上にいけるんだから」
 当然そんな言葉が返ってくると思っていたその瞬間、
「そうか、お前ならいいかもな」
 と、先生の手は私の肩には戻らず自分の膝に戻ったのでした。

 まことに失礼ながら、この部分を読んで、私はプッと噴出してしまった^^

 先生も、稲葉稔少年のことをよく見ていて、その適性を感じていたということなのだろうが、なんともあっさりと落語家志望に同意したものだ。

 もし、担任の先生が強力に反対したら、いったいどうなっていたのかは、歴史のタブーの「IF」だね。

 ともかく、この歴史的瞬間を経て、稔少年は次の段階に進むことになる。

 さて、その後、目白に弟子入り志願するまでに、どんな物語があったのか・・・は、次回のお楽しみ。

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by kogotokoubei | 2017-11-20 12:27 | 落語の本 | Comments(6)

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』
 さん喬の著書からの二回目。

 まずは、ご本人の実家のこと。

 私の生まれ育ったのは、東京の本所という町です。浅草から吾妻橋を渡って四、五分歩きますと本所吾妻橋という地下鉄の駅があります。この交差点の一角にあります「キッチンイナバ」という洋食屋が私の実家であります。そうです私は洋食屋の小倅です。それが何で噺家になったのかと?それはまあ、あとでお話しするとして。


 私も、何で噺家になったのかは、あとのことにする。
 
 なぜなら、この後に続く文章が、なかなか良いので、今回はこの内容を主役(?)としたい。

 昭和四十四年までは都電が走っていましたっけ。家の前が吾妻橋二丁目という停留所でした。月島から柳島(福神橋)へ行く二十三番と、須田町から東向島三丁目へ行く二十四番と三十番の二路線が走っておりました。この吾妻橋二丁目の停留所で向島へ行く電車が大きく左へ曲がっていくのと真っ直ぐ柳島へ行く電車とが軌道のポイントを使い行き交っていまして、当然逆方向もありますから、その騒音は言うまでもありません。さらに深夜に土浦の駐屯地へ向かう警察予備隊(現自衛隊)の戦車が都電の軌道を通り抜けると、キャタピラとレールとの摩擦で放たれる火花と轟音はさながら雷がおちたようでした。昼間は昼間で馬車が肥桶を載せて、ヒズメの音をさせながらパカパカ、ゴロゴロ、ピチャピチャ、ヒヒーンと騒がしく往来し、時折定斎屋(薬売り)が引き出しの環をカタカタ言わせながら売り歩き、キセルの羅宇屋が蒸気の音をピーッと響かせながら街角で客待ちしていたり、爆弾あられ屋が大きな音を立てたりで、とにかくうるさい、いやもうそりゃやかましいったらありゃしない!でもそのやかましさは戦後復興の音であったかもしれません。

 ねぇ、いい文章でしょ!
 ぜひ、そのうち高座のマクラでお聞きしたいような内容。

 映像が眼に浮かび、その音が耳に聞こえそうである。

 以前、八代目林家正蔵のことを書いた記事で、「二邑亭駄菓子のよろず話」のサイトから、正蔵や“留さん”文治が住んでいた稲荷町の長屋の写真をお借りした。
2013年1月29日のブログ


 その「二邑亭駄菓子のよろず話」のサイトに、都電23番と24番が並んだ写真があったのでお借りした。
「二邑亭駄菓子のよろず話」の該当ページ

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 この写真には、
柳島車庫前で出発を待つ[23][24]番。向こう側が福神橋(終点)
7両もつまっている……。1972.7
というキャプションがついている。

 二邑亭駄菓子さんは、この都電の写真のページで次のように綴っている。
 1960年代は、都内のおもな通りにはすべて都電が走っていたように思う。
 放浪癖があった私は、小学生時代から都電を乗り換えてあちこちに行ったものだった。
 浅草に住んでいた小学生時代は、銀座と南千住を結ぶ[22]番(系統)や、三筋町にある図書館に向かうために[23][24][31]番にお世話になった。
 中学生になると、[16]番で通っていた時代もあった。

 だが、いつのまにか路線も少なくなり、写真を残そうと思ったときは、だいぶ減ってしまっていたのは残念である。
 それでも、なんとか、両親の実家がある墨田区を中心にして、小学校時代に住んでいた台東区、そして江東区、中央区という下町を走っていた都電の最後の姿を写真に残すことができたのは幸いである。

 二邑亭駄菓子さんも、23番や24番にお乗りになっていたんですねぇ。

 駄菓子さん、都電の最後の姿を残していただき、ありがとうございます。

 さん喬が書いている都電の軌道に響く「戦後復興の音」、二邑亭駄菓子さんが残していただいた貴重な写真を見ると、聞こえてきそうだ。

 「三丁目の夕日」という漫画が好きだが、それは、やはり昭和三十年代後半から四十年代前半の、“あの頃”のことに浸れるからだろう。

 私が子供の頃、北海道の田舎では、定斎屋(薬売り)が引き出しの環をカタカタ言わせながら売り歩く音や、キセルの羅宇屋が蒸気の音をピーッと響かせる音は聞かなかったが、「ドン」という名で親しまれたトウキビの爆弾あられの音は、懐かしい。
 肥桶を載せた馬車のヒズメの音も覚えているし、その後に残った落し物の臭いも、思い出すなぁ^^

 ということで、今回は、さん喬の持ち味である丁寧さあふれる文章で、昭和の“あの頃”を振り返って、お開き。
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by kogotokoubei | 2017-11-18 12:42 | 落語の本 | Comments(2)

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』
 
 11月5日の東雲寺寄席で、著者柳家さん喬ご本人からサイン入りの本をいただいた。
 筑摩書房のwebマガジン「webちくま」に連載したエッセイを元にした本。

 「第一部 修業時代」「第二部 師匠時代」「第三部 外つ国にて」「第四部 師匠と弟子」の四部構成、全部で二十九の章がある。

 この本、さん喬の修業時代のことを知り、また、人間としていろんな面を知ることができて、楽しく読めた。

 何回かに分けて紹介したいが、最初は、初鰻の思い出。

 文章の途中に挟まれる「落語キッチン」の二回目にある内容なのだが、なかなか趣向を凝らした文体で書かれているのである。

 忘れもしない、鰻を初めて食べたのは、噺家になった十八歳の時です。もっと詳しく言うと、昭和42年7月31日午後六時過ぎのことです。
 入門した年の、落語協会恒例の「夏の寄り合い」の日とデパートの閉店時間という、これらの記憶を辿ると確実な時間や場所が限定させるのです。
 うなぎ初体験のあらましは、こんな事でした。

 被疑者・柳家さん喬は、昭和42年7月31日に千葉県・成田山新勝寺で行われた落語協会「夏の寄り合い」に協会員95名余と参詣し、その後割烹旅館梅屋大広間に於いて親睦会と称した宴会に参加。
 その際、文楽・圓生・正蔵・小さん、超人気者の三平・圓歌、まだ若手だった、志ん朝・小三治・扇橋が余興を行い、全協会員が抱腹絶倒・・・・・・
ーエーッ、どんなことがあったの、教えて教えて!
ーウォッホン、これは本件と関係なき事であるゆえ割愛いたします。
 さて、被疑者は師匠五代目柳家小さんの供をして午後三時過ぎの矯京成電車特急にて成田駅から上野駅に向かい、同駅より地下鉄銀座線に乗り換え銀座駅にて下車、デパート松屋銀座店へ向かった。
 当日は、同店ギャラリーで開催されていた彫刻家・植木力氏の個展の最終日であり、展示作品の中に含まれていた五代目小さんの胸像を、展示会終了後に植木氏より贈呈される約束がなされていた。
 しかしその胸像が大変重く、担ぎ手が必要とされ、被疑者は師の命にて同店に同行した。
 無事植木氏より胸像を受け取り、その場を立ち去ったのが閉店時間の午後六時。
 ここで師より「おい!鰻を食いにいこうか!」と誘われ、いまだに食したことのない鰻なるものに大いなる抵抗を覚えたものの、師の誘いを断る勇気は出ず、未知の食い物への興味関心も抗いがたく、ついに禁断の一口を頬張ることになった。
 それ以来被疑者は鰻の虜となり、何かにつけて無意識に鰻に手を出すことになってしまったのであります。
 裁判長。本件は決して自らが選んだ道とは考えづらく、師の甘言によってかような人間に作り上げられしものと推察するものであります。
 以上陳べましたことを考慮して頂き、寛大なる裁定を願うものであります・・・・・・と、何も裁判風に書く必要もないですが。

 たしかに、裁判風にする必要はないが、さん喬の意外なお茶目な面が出ているようで、楽しい。

 この日の余興の内容、本件(?)とは無関係とはいえ、知りたいねぇ^^

 店の名は出していないが、銀座であることは間違いなかろう。

 あるいは、当時の松屋銀座に鰻屋さんがあったのかな。

 引用を続ける。

 初めて鰻を食べた時、世の中にこんな旨いものがあるかと思ったくらい美味しく感じました。
 その時「噺家になって良かった。これからこんなに旨いものがいくらでも食べさせてもらえるなんて!」と、とんでもない罰当たりなことを考えました。
 (中 略)
 あれから四十年余、それ以上の旨い鰻にめぐり会えません。
 確実にあれより旨い鰻を食べているはずなのですが、初めて師匠にご馳走になった時のあの喜びと感動がない限り、あれ以上の旨い鰻にはもう出会えないのかなあ・・・・・・。
 いやいや、今度あなたがご馳走してくださる鰻こそは!

 さん喬って、こんな楽しい文章書くんだ、と私は意外な思いだった。

 落語愛好家の間では、本所にあった洋食屋「キッチンイナバ」が実家だったことは有名だろう。
 結局、開店している間に行くことができなかったなぁ。

 その洋食屋の倅が、なぜ噺家の道を目指すことになったのか・・・・・・。

 次回は、そのあたりをご紹介するつもり。

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by kogotokoubei | 2017-11-16 22:37 | 落語の本 | Comments(4)
 前回の記事では、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』(うなぎ書房)から、初代林家正楽の日記について紹介した。

 その中で、小島さんは次のように書いていた。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。

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 私は『落語三百年ー昭和の巻ー』の昭和54年発行改訂新版を持っている。
 最初の章「戦争と落語」の中でこの日記は紹介されており、『こんな落語家(はなしか)がいた』には掲載されていない内容や、引用した部分の補足説明に相当する部分があるので、この本からも初代林家正楽の日記を紹介したい。

 前回紹介した日記と重複するが、三月十日付けの内容に小島さんの補足説明があるので、まずご紹介。

「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左喬、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
 六代目一竜斎貞山は、講談組合の頭取で落語協会の会長であった。馬道に住み、言問橋まで逃げて煙にまかれて死んだ。六十八歳。死体は浅草の親分が見つけた。
 太神楽の寿家岩てこは五十歳、中国奇術の吉慶堂李彩は六十八歳、パンとマイクの立花家扇遊は六十歳。左喬は落語家、丸勝は太神楽、武蔵太夫は新内語り。みんな浅草界隈にいて、運命の火の粉をあびたのだ。
 三遊亭円馬は、扇遊と馬生(大阪から来た馬生)と菊屋橋にあった昭南荘というアパートで、となり合わせに住んでいた。そこへ三月九日夜んぽ大空襲となり、扇遊夫婦がまっ先に逃げた。逃げ遅れた円馬は、アパートの住人であるご婦人をリードして、比較的火の色がうすい上野方面に走り、小学校へ避難して助かった。別に逃げた馬生も無事だったが、扇遊だけは隅田川方面を選んだらしく、そのまま夫婦もろとも帰らぬ人となった。

  大阪から来た馬生は、五代目馬生門下で昭和19年に九代目となった人。
 
 立花家扇遊は、奈良のお寺の息子で、唐招提寺で修業をし実家の僧侶となった後に、芸人に転じた人。尺八、へちまおどり、そしてパントマイムのような「蝿取り」なる珍芸で人気を取ったと言われる。
 現在の入船亭扇遊より前の時代、扇遊と言えばこの人のこと。
 円馬は四代目。
 浅草から上野方面に逃げたか、隅田川の方角を目指したかで生死の違い。
 犠牲になった人、逃げ延びた人、まったく紙一重の違いということか。

 すでに紹介した、協会の違う志ん橋(後の三代目三遊亭小円朝)主任の新宿末広の寄席に正楽は四月二十四日に出演しているが、その後、五月の日記。

「五月六日。午前十時より上野鈴本焼けあとへ連中集まり、鈴本主人より罹災連中に見舞金(三十円ずつ)下さる。文楽氏宅へ寄り、人形町末広、新宿末広つとめ六時半帰宅」
 上野鈴本の大旦那(鈴木孝一郎氏、故人)は、自分のとこも焼けながら、なお焼けた芸人に見舞い金を出している。一同の感激も大きかったろう。
 このあと、鈴本経営の映画館(現在の上野鈴本と電車道をへだてた向かい側)の焼け跡に、応急のバラック・・・・・・バラックというより、柱を立てて周囲と天井を葦簀張りにしただけの小屋をつくり、そこで興行したが、寄席壊滅状態のときだけに客は来た。

 鈴本の大旦那から見舞金をもらった“連中”には、落語協会派の人も芸術協会派の人もいたに違いない。
 この大旦那鈴木孝一郎は三代目の席亭で、明治13(1880)年生まれ、昭和36(1961)年没。
 鈴本のサイトで、「寄席主人覚え書」という大旦那の貴重な記録を読むことができる。昭和32(1957)年9月3日から東京新聞 に掲載していた記事で、当時の寄席、落語家、そして落語家と客との関係などが書かれていて、読んでいて飽きない。
鈴本サイトの該当ページ
 ちなみに現席亭は六代目。
 大旦那のようにはなれなくても、そろそろ、芸協とは関係を修復できないものだろうか。
 以前書いたように、芸協と鈴本との別離から、すでに三十年以上が経過している。
2014年3月5日のブログ


 初代正楽の日記の引用を続けよう。

 五月二十五日の空襲で、北沢の正楽家付近も火の海となるが、奇跡的に焼けのこり、電灯もラジオもつかない不安な数日をすごす。
「六月一日。午前十一時より小田急にて新宿へ。駅焼けている。新宿末広焼失。今まで焼け残りたるところ皆焼失。円生、山陽、小文治、柳橋みな立ちのきて逢わず。野村無名庵氏焼死の由」
 野村無名庵氏は本名野村元基。落語研究家として「落語通談」ほか著書も多い。このとき講談落語協会の顧問。芸界にとってはかけがえのない人材であった。
 無名庵氏は武島町(文京区)に住み、付近に爆弾の雨ふりそそぐ中で、警防団の団長として阿修羅の働きをした。自宅にも火が入ったので、ご真影(天皇の写真)を持ち出すべく突入、出て来たところへ焼夷弾の直撃を頭にうけて散ったという。五十七歳。明治の日本人としてはふさわしいかもしれないが、落語を愛した市井人としてはあまりにもむごい。

 野村無名庵が空襲で亡くなったのは、小島さんのご指摘の通り、あまりにも残念だ。

 『落語通談』については、落語のネタのことでの引用を含め、何度か記事を書いている。
2015年3月17日のブログ
2015年11月23日のブログ
2015年12月23日のブログ
2017年2月27日のブログ

 『本朝和人伝』については、Amazonのブックレビューを書いた。
野村無名庵著『本朝和人伝』
 そのレビューでも書いたのだが、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの貴重な原稿は、あまりにも大きな文化的損害であったと思う。

 戦争の被害は、正楽の家族にも及んでいた。

「六月三日。満太郎戦死の報来る」
 正楽氏にとっては最愛のひとり息子満太郎さんが、華北の最前線で戦死したむねの公報がとび込んで来たのである。昭和二十年三月八日二十三時四十分とあった。浅草の自宅が被災するわずか一日前のことである。正楽氏のその日の日記帳には部隊長よりの手紙が、そっくり記載されてある。
 年月日は違うが桂文楽、三遊亭小円朝もそれぞれ一人息子を戦争にかり出され失っている。人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい。

 “人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい”という思いは、七年前になるが、NHKの戦争特集番組で「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見た時に、強く感じたことだった。

 あの番組については、やはり小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』の引用を中心に記事を書いた。
2010年8月11日のブログ

 そろそろ、敗戦(終戦、ではなく)記念日近くの特集番組もお開き、という感じだが、年中行事として放送したらしばらく戦争のことは終わり、という思惑がちらつき、なにか腑に落ちない。

 今まさに、国内外の諸事情で戦争の危機が迫っているのではないか。
 あるいは、共謀罪などにより、戦時下にも似た、息苦しい、住みにくい社会になる危険性もある。


 昭和二十年、鈴本の向かいの焼け跡に作られた寄席もどきの小屋に駆けつけた人々のことを思うと、どれほど多くの日本人が笑いを求めていたかが察せられる。
 あまりにも“非日常”の日々が続いていたのだ。

 あの“無意味”な戦争は、多くの芸人の命も奪った。
 そして、国民の生活から“笑い”を奪い取った。

 “日常”生活、“笑い”に溢れた家族の生活を奪い取る権利は誰にもない。

 共謀罪を含め、現在の政府が行おうとしていることは、あの無意味な歴史を何ら反省していないということだ。

 この本からは、また近いうちに戦争の無意味さについて、紹介したいと思う。


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by kogotokoubei | 2017-08-22 23:07 | 落語の本 | Comments(2)
 新宿末広亭の9月下席の夜の部から、桂小南治の三代目桂小南襲名披露興行が始まる。
 まねき猫との交互出演ではあるが、協会の垣根を超えて、膝替りには弟の二樂も、兄の披露目に出演する予定だ。
新宿末広亭のサイト
-新宿末広亭9月下席・夜の部-(末広亭のサイトより)
落語交互
 桂 鷹治
 山遊亭 くま八
漫談 新山 真理
落語 三笑亭 夢丸
落語 三笑亭 可龍
奇術 北見 伸・スティファニー
落語 三遊亭 遊之介
落語 桂 歌春
俗曲 桧山 うめ吉
落語 桂 南なん
落語 三遊亭 小遊三
-お仲入り-
襲名披露口上
落語 雷門 小助六
曲芸 ボンボンブラザース
落語 三遊亭 遊吉
落語 山遊亭 金太郎
交互出演
 物まね 江戸家 まねき猫
 紙切り 林家 二楽
主任 小南治改メ 桂 小南

 兄弟出演は、実に良い企画だと思う。
 六歳違いの二人の父は、二代目林家正楽。
 初代正樂から紙切りを習った父だが、正楽の下では預り弟子の扱いで、一貫して八代目林家正蔵門下だった人だ。

 初代正樂の弟子には、落語芸術協会の今丸がいる。
 師匠没後、今丸は今輔門下となった。

 いずれにしても、今に残る紙切りという芸を語る上で、初代林家正楽の存在は大きい。

 江戸落語の初代林家正楽は、上方にも同じ名の落語家が代を重ねていたので、本人は八代目と称していた。明治29(1896)年11月18日生れで、昭和51(1966)年4月15日没。長野県の出身で、生前は日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属した。

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小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
 初代正樂のことについて、ある本から引用したい。
 戦中・戦後のことを落語を中心に芸能分野から振り返った名著、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)からは、何度か記事にしている。

 7年前、「わらわし隊」にことに関して引用したのが最初だ。
2010年8月11日のブログ
 そのすぐ後に、この本を中心にした記事を書いた。
2010年8月17日のブログ
 戦争が大きな転機となった、昔々亭桃太郎のことを書いた際も、引用した。
2012年11月5日のブログ
 三年前、江戸家猫八の広島での被爆について書いた記事もあった。
2014年8月6日のブログ

 この本は2003年8月発行で、同年6月に84歳で亡くなった小島貞二さんの遺著だ。

 「第三章 戦時下の落語界」から紹介。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。
 
「昭和二十年三月九日夜より十日にかけての敵機の爆弾のため、浅草永住町114番地にて類焼。家具寝具全部及び数年来書き残しありし自作新作落語原稿百数十編類焼す」
「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左橋、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
「三月二十日。十三日より二十日まで神楽坂演芸場名人会に出演。警戒警報あり二日休む」
「四月六日。帰途桂文楽氏宅に寄る。十日千葉一の宮、右女助(のち小勝)の部隊慰問頼まれたが、名人会がるので行かれず断わる」
「四月十四日。四谷、花園町、荒木町、喜よし亭、四谷駅まで焼野原となり、牛込神楽坂一円焼失、演芸場、小文治、圓(まどか、のち三木助)宅類焼す。小文治氏の立退き先観世宅見舞い、中里柳橋氏付近まで焼け、類焼を助かりしを見舞う。のりもの全部なし、新宿より浅草まで歩き回る」
「四月十五日。十三日の盲爆三月十日に劣らず、四谷、牛込、田端、日暮里、小石川、千住、品川等焼失。前火災に助かりし小文治、圓、円歌、志ん生、柳枝、小南、燕枝、柳朝等みな類焼す。席にては大塚鈴本等」

 日記の中から被害状況がよくわかる。
  
 本当に、この日記は戦災の記録としても貴重だと思う。
 なお、柳朝は四代目で、のちの四代目柳家つばめ。三木助に『芝浜』を教えたといわれる人だ。
 小南は、八代目文楽の最初の師匠の初代桂小南。

 東京大空襲というと、もっとも被害が大きかった三月十日が思い浮かぶが、四月十三日の空襲も小さいものではなかったことが、この日記からも分かる。

 引用を続ける。

 当時の寄席は、空襲警報が鳴ると休みになった。芸人の服装は、高座着のままモンペをはき、上から筒袖の外套を着た。肩には弁当を入れた雑嚢、腰には防空頭巾や水筒を下げ、下は長靴だった。
 三遊亭円歌はある座敷の帰り、紋付袴の出で立ちで市電を待っていると、「この非常時に、そのザマは何だ!」と、ツカツカと寄ってきた男に殴られたという。
 桂小文治(初代・稲田祐次郎)は、戦後も高座着にモンペ・・・・・・モンペを脱げばそのまま高座着になる特製の衣装を愛用していて、桂枝太郎(二代目・池田芳次郎)はこれを「ライスカレー」と呼んでいた。「カレーライスもライスカレーも一番手っ取り早い」というのが命名の由来ときいた。

 「四月十日。新宿末広へ、協会の志ん橋大幹部昇進披露興行スケ。六時帰宅」

 この志ん橋はのちの三遊亭小圓朝(三代目・芳村幸太郎)で、このときは船勇亭志ん橋、「船遊亭」が正しいのに、戦時中というのでわざと「船勇亭」と書いた。こういうことも軍部へのゴマスリがある。
 小圓朝の所属は落語協会派、正楽は芸術協会派で、寄席では合同の公演はないはずなのに、正楽は頼まれて出演している。戦争による芸人不足を物語る。

 空襲のことに限らず寄席の出演のことも含め初代正樂の日記は重要な記録だ。

 三月十日の東京大空襲で焼失した日記にも、戦前の落語界にとっては、実に貴重な情報が満載だったと察する。

 文中の三代目三遊亭小円朝については、その芸を高く評価していた飯島友治さんの『落語聴上手』から引用したことがある。
2016年5月7日のブログ

 昭和二十年の寄席は、人手不足のために協会に拘らない番組が組まれた。

 9月下席の三代目小南襲名披露は、弟が兄の披露目のスケをするという粋な計らいで、協会の垣根を越える顔付がされた。

 実に平和な平成の寄席、と言えるのではなかろうか。

 日記の貴重な記録と紙切りという伝統芸を伝えた初代正樂も、きっと孫弟子の出演を喜んでいるに違いない。

 ぜひ、この披露目には駆けつけたいと思っている。

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by kogotokoubei | 2017-08-21 12:36 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛