噺の話

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カテゴリ:落語の本( 128 )

 一昨日、今秋師匠松喬の名を襲名する笑福亭三喬のラジオで聴いた高座について記事を書いた。

 あの一門での襲名ということでは、三喬の大師匠だった、“松鶴”という名にも思いが至る。

 上方で「六代目」と言えば、松鶴のこと。
 そして、七代目松鶴の名は、松葉が亡くなってから追贈されている。
 松葉については以前記事を書いた。
2011年9月22日のブログ

 しかし、もっと以前に、七代目松鶴襲名を周囲から期待されていた男がいる。

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笑福亭松枝著『ためいき坂 くちぶえ坂』(浪速社)

 笑福亭松枝の『ためいき坂 くちぶえ坂』は、拙ブログにいただいかコメントで知った本。1994年に初版が発行され、2011年6月に改訂版発行。

 以前この本に基づき書いたいくつかの記事には、今でもアクセスが少なくない。
 最初の記事は、2012年6月。ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年6月18日のブログ
 
 この本は、序章で、松葉を七代目とすることを一門メンバーに仁鶴が告げる場面から始まる。

 副題にある通り「松鶴と弟子たちのドガチャガ」が何とも可笑しかったり、理不尽だったり、そして感動的であったりする。

 目次は次の通り。
------------------------------
「増刷にあたり」
序章  凍てついた時間
第一章 ためいき坂、くちぶえ坂
第二章 「昭和ブルース」
第三章 粉浜村「虎の穴」
第四章 それぞれの彷徨
終章  溶け始めた時間
あとがき
<付録>松鶴一門の推移・一門系図
------------------------------

 今回は、“幻の松鶴”と言われる、先代の枝鶴について、本書より紹介したい。
 五代目の枝鶴は、六代目の実子である。
 枝鶴という名跡は、いわば出世名であり、六代目も名乗っていたし、初代が四代目松鶴、二代目が五代目松鶴となっている。

 「第四章 それぞれの彷徨」より引用する。

「ノラやねん」

 「まさか」楽屋で居合わせた全員が、我が目我が耳を疑った。
 「またか」舌打ちしてうなだれた。
 昭和六十二年九月二十二日より二十八日迄、道頓堀・浪花座に於て松鶴の一周忌にちなむ追善興業(ママ)が行われた。米朝、春団治はもとより、東京から小さん、夢楽、志ん朝、談志、円蔵等を招き、香川登志緒、三田純市、新野新他の作家、漫才の大看板等の追想談義、そして昼夜二回都合十四回の興業のトリを、枝鶴、鶴光、福笑、松喬、呂鶴が故松鶴の十八番で括る、それは盛大な物になる筈であった。その初日に枝鶴が姿を現さない。二日目、三日目も。
 此の興業は松鶴の追善が名目ではあるが、実子・枝鶴が立派に筆頭弟子として「らくだ」他を演じ切り、内外に向けて将来に於ける彼の「七代目・松鶴」を認めさせる、大目的があった。
 なかなか豪華な追善興行(こっちの字だと思うんだけどなぁ)・・・になるはずだった。
 この松鶴の実子枝鶴、失踪の前科があったことがこの後の文で分かる。
 「ひょっとして、今度も又・・・・・・」疑い恐れては、
 「まさか、今度はいくら何でも・・・・・・」危惧を打ち消して来たのである。
 失踪劇は格好のマスコミ・ネタになった。程無く、ビートたけし夫人とのスキャンダルも発覚した。
 「“枝鶴”襲名の“資格”無し」
 「“枝鶴”(四角)四面楚歌」
 「“枝鶴”の“視覚”に“死角”有り」
 笑うに苦しむ見出しが、スポーツ紙の裏面を飾った。
 数日後姿を現し、関係者の口を借り「重責に耐えかね、ノイローゼ気味になり・・・・・・」と弁明し、「再度、復帰を」と願い出たが、松竹芸能は首を縦に振らなかった。当然であろう。“重責”の度、舞台を放棄されたのではたまったものでは無い。仏の顔も三度どころでは既に無かった。枝鶴は自ら、「父の後」を追う道を絶ってしまったのである。

 この逸話で、私はNHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を思い出す。
 渡瀬恒彦扮する三代目の徒然亭草若は、主人公の喜代美と出会う三年前の一門会の日、高座の直前に妻の余命を知って動揺し、天狗座での公演に穴を開けてしまた。そのため、天狗芸能会長の逆鱗に触れ、天狗芸能を追放されたのだった。

 あのドラマは、上方落語界における逸話などを散りばめていたように思うが、草若が一門会に穴を開けるという筋書きは、この枝鶴のことが下敷きになっていたと察する。
 そして、草若が病で定席設立の夢なかばに倒れる設定には、吉朝がモデルかと思わせた。
 また、草若の亡くなった妻の志保(藤吉久美子)は、生前夫の囃子方を務めていた、という設定に、枝雀夫人を連想した。

 さて、枝鶴について著者松枝は、「彼は此の世界に身を置くべきではなかったと断言する」と言い、その理由をこう書いている。

 なぜなら、「誘惑に弱く、美味しい言葉につい酔ってしまう。先を見通し、危険を避ける事が出来ない。「ノイローゼ」とは、最も縁遠い所に居る男である。
 そして、枝鶴本人も自分自身を良く知っていた。
 「俺は、しんどい事、堅苦しい、むつかしい事が面倒やねん。一生懸命、何かをやれる人間や無いねん・・・・・・。ならば松鶴は根本的にその性格を叩き直すか、少なくとも、勤労と報酬の最低限の法則を教えるべきであった。彼は実に安易に此の世界に入り、仕事、地位を得た。それが何に依ってもたらされたものか、分からぬまま失踪・借金・女との不祥事を繰り返し、松鶴に後始末をさせ、しかも復帰をその都度許された。

 そうか、松鶴も、いわゆる親バカだったんだなぁ、と思うが、その背景には少し事情がある。

 松鶴(竹内日出男)は枝鶴(竹内日吉)の幼い頃、彼の許を離れ、夫人(衣笠寿栄)と、その子供達と暮らしはじめた。子・枝鶴が最も必要とする時期に、父・松鶴は自分の為のものではなかった。松鶴は、夫人と子供達の為の松鶴であった。やがて父・松鶴は落語の為の松鶴になり、落語家の為の、その愛好者の為の松鶴でありつづけ、そして最後は本人・竹内日出男の為の松鶴になった。もうすこし、松鶴(日出男)が枝鶴(日吉)の為だけに生きる時期が、長くても良かった・・・・・・、そう思える。
 “父の後”を追わず、他に生きる道を探していれば或いは・・・・・・。とも思う。

 松鶴は三度結婚している。元芸妓の最後の夫人は弟子たちから「あーちゃん」と親しみを込めて呼ばれたが、枝鶴の実の母ではないことは、紹介した文の通り。

 この枝鶴は五代目。昭和20年生まれ。
 いまだに、消息不明、である。
 弟子だった小つるが六代目枝鶴を継いでいる。

 彼のホームページには、「枝鶴はどこに居てるねん?!」と、書かれている。
六代目笑福亭枝鶴のホームページ

 まだどこかで生きているのか、それとも・・・・・・。

 今週土曜日で、あの日から丸六年。
 テレビの特集番組で、あの津波で行方不明になった親族をいまだに探し続けている人の姿などを目にした。
 
 同じ行方不明でも、もちろん、その原因も含めて大きな違いがあるのだが、生きているならすでに古希を過ぎた五代目枝鶴。
 どこかにいるのが発見(?)されたら、どんな姿であろうが、それは上方落語の関係者にとっては、きっと嬉しいことではあるまいか。

 しかし、もし誰かが彼を発見しても、枝鶴は「ノラやねん」と言って、人前に姿を見せることを固辞するのかもしれない。
 
 東西でさまざまな襲名披露がある今年の落語界、“幻の七代目松鶴”が世に復活するには、悪い時機ではないように思うのだが、彼は行方不明者リストの中にとどまったままで時間が過ぎるのかもしれない。
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by kogotokoubei | 2017-03-09 21:37 | 落語の本 | Comments(0)
 今日は二十四節気の雨水。
 雪から雨に変わり、春の訪れが感じられる季節の始まり、と暦は教えている。

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矢野誠一_落語歳時記

 矢野誠一さんの『落語歳時記』は、初版が読売新聞から単行本で『落語 長屋の四季』として昭和47(1972)年の発行。
 私の座右の書は、1995年2月発行の文春文庫版だ。
  
 今日は旧暦で一月二十二日だが、二日前一月二十日は、義仲忌。

 本書より引用する。

 旧暦一月二十日、木曽義仲の忌日。治承四(1180)年倶利伽羅峠で平氏の大軍を破り入洛したが、粗暴な行ないが多く、後白河法皇に忌まれ、範頼・義経に討たれ、粟津の松原で戦死。寿永三(1184)年のことで行年三十歳。
    *
 落語という藝は、たいてい会話が主体になってはなしが展開するが、そうでなく地の文が中心ではなしをはこぶ「地ばなし」というジャンルもある。いってみれば漫談に近いものだ。立川談志が得意にしてる『源平盛衰記』は、この地ばなしの傑作で、牛若丸と弁慶の出会いから、平家の天下、倶利伽羅峠、宇治川の先陣争い、ひよどり越え、屋島の合戦といった大河ドラマをまことにスピーディーにはこび、あっという間に平家の一門を海に沈めてしまう。まさに「おごる者久しからず」だが、なかで木曽義仲のくだりはこんなあんばいである。いかにも談志らしいギャグがちりばめられている。

 木曽義仲は、まず間違いなくNHKの大河で主役にはならないだろう。
 義経の父、義朝の弟の子。頼朝は義仲の七歳年上。義経は五歳年下。
 二歳の時に父義賢(よいかた)が義朝の庶子悪源太義平のため滅ぼされたが、救い出され、乳母の実家に匿まわれて成人した。
 この乳母の旦那が木曽谷の豪族、中原兼遠(かねとう)で、彼はこの義仲を後々のために、じっと温めていたのだ。
 この関係は、北条時政と頼朝との関係に近いが、その末路はまったく対照的なものとなった。
 日本の歴史上の人物の中で、ヒーローのベストテンの上位に挙げられるであろう義経を敵にし、皇室(後白河法皇)からも疎まれていた人物が、ドラマの主役にはなりにくいが、三十歳で亡くなった義仲、もう少し話題になってもよい人物ではなかろうか。

 ということで、義仲忌にちなんだ談志のネタを、あらためて本書から引用する。
「平家をつぶせ、都へ攻めのぼったのが木曽の山中で育った暴れ者、幼名が駒王丸、成長の暁、木曽の冠者次郎義仲。樋口兼光、今井兼平、猛将を連れた三枚。かなた越中の国境、倶梨伽羅峠へさしのぼった。すわピンチ、急遽都からリリーフに送ったのが平家のルーキー平惟盛だ。十三連勝してるからなんとかなるだろうなんてね。ところが雨がしょぼついてるすい真っ暗だから、『木曽の軍勢攻めてこねえだろうな、半チャン打つか、たまには』リーチ、メンタンピン、ドラ一ちょう、一発かなんかやってた。油断はするもんじゃあないよ。攻めてこないと思った木曽の軍勢、ふだんから訓練がちがう、木曽(基礎)訓練てえやつができてる。牛の角にたいまつつけるてえと平家の陣中へ放した。いにしえの本をひもとくと『弓を取る者は矢を取らず、かぶとを取ったがよろいがない。ブラジャーつけたがパンティーがどっかへいっちゃった』赤線の手入れみてえなもんで、アワ食って倶梨伽羅谷へ落っこちた」


 このネタは、師匠譲りで当代の文治も十八番にしていて、それはそれで可笑しいのだが、あらためて音源を聴くと、やはり談志版は秀逸だ。

 倶梨伽羅峠の勢いのままにはならなかった、木曽義仲。

 時代小説でも、彼を主役とした作品を、私は知らない。

 誰か、書いてくれないかなぁ、などど思っている。 


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by kogotokoubei | 2017-02-18 14:25 | 落語の本 | Comments(4)


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矢野誠一著『落語長屋の商売往来』(文春文庫)

 前回の記事で「鋳掛屋」について矢野誠一さんの『落語長屋の商売往来』から引用したが、今回は本書の「香具師」から紹介したい。
 関連する落語のネタは、『一眼国』。かつての名人では、何と言っても八代目正蔵。現役では入船亭扇辰が十八番としている。

 冒頭部分を引用。
 香具師と書いて「やし」と読む。『岩波漢語辞典』の、「香」の項目に、「あゆ」の香魚、香港とならんで「難読」の扱いになっているから、読めなくても別段恥にはならない。
 縁日や祭礼など、人手の多いところで見世物などを興行し、また粗製の商品などを売ることを業とするもの。と、たいていの字引に出ている。「てきや」とおなじだから、柴又生まれの車寅次郎氏の職業となる。
 もっともおなじ香具師でも、風船、飴などを扱うコミセ、口上つきで商売する寅さん型のサンズン、植木専門のハボクなど縁日商人を総称していうコロビと、もっぱら見世物興行を業とするタカモノシにわけられている。わけられるきっかけとなったのが、
  従来香具師ト唱へ来候名目自レ今被廃止候事
  但銘々商売ノ儀ハ可レ為勝手
 という1872年(明治5)七月八日の太政官布告とされている。
 つまり、香具師の名称を廃止する布告が出たにもかかわらず、その実体は変ることなく存続し、むしろ露天商などにはおびただしい数の素人衆がはいってくるなどあって、同業者による組合の設立、鑑札制度の問題などもからんで、コロビとタカモノシに分離する成行となった。

 「香具師」という言葉の由来については、以前に『話藝-その系譜と展開』(三一書房、昭和52年初版発行)の中の小沢昭一さんの「香具師の芸」から紹介したことがある。
2015年8月23日のブログ
 小沢さんの文章の一部を再掲する。
 「香具」っていうのを売っていた人がいたわけ。香具っていうのは、白檀とか伽羅とかっていう匂いもの、またその道具だけれども、これはお化粧品の一種というふうな考えがあるんですね。いま薬局行くと、お化粧品と薬品と同時に売っているんですが、あれは非常に古式ゆかしいことなんで、つまり、薬草、そういう薬と匂い袋などの香具、そういうものは同じ商売なんです。

 「香具」という字については、これで分かるのだが、読み方の由来にはいろんな説がある中、小沢さんは「薬師(やくし)」が元になったのだろうという郡司正勝さんの説を支持していた。

 その香具師の中にも、商う物によって、コミセ、サンズン、コロビ、タカモノシといった呼称があるのは、知らなかったなぁ。

 この後、『一眼国』のあらすじの紹介があった後で、かつての風習のことが書かれていた。
 一つ目小僧という妖怪伝承が日本独特のものなのか、くわしいことは知らないが、関東地方には二月と十二月の事八日、つまりお事始めとかお事納めの夜、この妖怪が家々にやってくるとして、庭先に目籠をかかげて退散を願う風習がつい最近まで残されていた。また、この日家の外に履物を出しておくと、疫病にとりつかれるという言い伝えもある。
 一つ目小僧が、かつては神であったと推論した柳田國男は、「妖怪はいわば公認せられざる神である」といっているのだが、いずれにせよこの「公認せられざる神」さまたちは、こと見世物界にあっては、輝ける大スターなのである。

 事八日における、妖怪からの魔除けの行事については、まったく知らなかった。

 事八日は、針供養の日としても伝わっている。
 すべからく、旧暦での行事。

 本書では、矢野さんがNHKの仕事での取材の思い出が語られている。執筆時(1993年)から二十年ほど前とのことなので、昭和40年代後半、ということか。

 二十年ほど前、NHKテレビの仕事で、秩父の夜祭りを彩る見世物小屋のいろいろを取材したのだが、これは面白かった。異形に対する関心に支えられた伝統的な因果物が、テレビ時代の今日なお根強い人気を有しているのだ。鶏の生き血を吸う狼少女とか、蛇娘なんてのが、オートバイの曲乗りや、サーカスに劣らず喜ばれているのである。もちろんほとんどがいかさまで、表向きは人間の言葉を解さないことになっている蛇娘が、化粧をしていないときは、女性週刊誌をめくりながら島倉千代子かなんか口ずさんだりしてるのだ。ちゃんとしたマイホームさえかまえ、幼稚園に通う孫のいる狼少女もい珍しくないときいた。

 『一眼国』や『蝦蟇の油』のマクラを思い浮かべる。
 例えば、「世にも珍しい怪物だァ、眼が三つで歯が二本」という口上で、小屋の中に入ると、下駄が置いてあったり、「六尺の大鼬(いたち)だ、六尺の大鼬」に誘われて見てみると、六尺の板に血痕がついていたり・・・・・・。

 オートバイの曲乗りなどより見世物小屋が人気、というのは、秩父という土地柄か^^

 そう言えば、小学校の頃、年に一~二度、サーカスの子が短期間転校してきたことがあったなぁ。
 せっかく仲良くなったと思った頃に、また転校。
 そのサーカスを観に行ったこともあった。

 引用を続ける。
 見世物小屋では、その日の興行を終えると、表にテント地の布をカーテン状にしめる。このカーテンを「ゴイ幕」と呼んでいるのだが、連帯意識が人一倍強いあの社会では、開演、終演はもとより、呼び込みの開始から、準備のためのゴイ幕をあける時間まで、各小屋一斉が原則だ。客足が落ちて、しまいにしようというときも指令によって一軒残らずざっと呼び込みの口上をやめる。このとき特別にひとだかりのしているところに限り、もう一口上余分につけていいことになっている。興行地における仮設小屋の材料、建設、期間中の調度一切から、ゴイ幕開閉の時間指令まで、すべて歩方(ぶかた)と呼ばれる興行社の手をわずらわすしくみだ。私たちが取材した時分、秩父の夜祭りに出る見世物を仕切っていたのは、高崎のほうも興行社だった。なにかとうるさい世界でもあるし、それでなくともこの種の取材では事前に挨拶に行くのが礼儀というものだ。そんなわけで、秩父の仮設事務所で炬燵にあたっている香具師の親分、でなかった興行社の社長さんのとことまで挨拶にうかがった。
 この世界では小屋掛けの一座のことを荷物と称しているのだが、この荷物が期間中安心して商売ができるように、いかに我々が努力してるか、細かいことだがと、酒屋や八百屋、それに風呂屋の手配の実例まであげて、この社長さん滔々と説明してくれた。荷物と歩方の信頼関係は、むかしながらの義理人情が支えているので、これは日本の誇る家族制度に根ざすものだと説く、いささか気負った演説口調になんともいえない愛嬌があった。そのかわりに荷物が約束をすっぽかすようなことがあったら、以後秩父の土地は一歩たりとも踏ませないなんて、ちょっぴり怖い啖呵もきった。
 このときスタッフが、「NHK」と局名のはいった電子ライターを手土産に持参したのだが、これがすっかり社長のお気に召してしまった。あくる日から、子分、ではない、平社員を引き連れての見まわりの際など、これ見よがしに局名をちらつかせながら煙草に火をつける。無邪気にすぎて、ほほえましく可愛くて、悪い光景じゃなかった。

 荷物と歩方、か。
 それぞれの商売に、興味深い符牒があるものだ。
 むかしながらの義理人情、とともに、そういう符牒も忘れ去られていくのだろうなぁ。

 香具師の親分、でなかった興行社の社長は、NHKのライターを水戸黄門の印籠のような気持ちで使っていたのかな。

 今では、見ることのできない見世物小屋、子どもの頃、お祭りの時に出ていたのに観なかったのが、悔やまれる。やはり、怖かったのかなぁ。
 
 それに反して、サーカスやオートバイの曲乗りを見た記憶ははっきりしている。
 そっちを選んだのだねぇ、きっと。

 12日の日曜は、今では新暦で行われる初午。
 落語なら『明烏』が旬のネタか。

 きっと、食べ物を中心とする屋台のコミセが並ぶのだろう。
 見世物小屋はもちろん、寅さんのようなサンズンには出合えないのだろうなぁ。

 あっ、明日は新暦ながら二月八日か。
 籠を外に出しておかなきゃ、旧暦を忘れた一つ目小僧が事八日と勘違いしてやって来るかもしれない。
 
 でも、もし来るなら、会いたいものだ。
 そして、捕まえて、見世物小屋へ・・・と思っても、肝腎の小屋がないじゃないか。
 せいぜい、何かと用を言いつけて、こき使うか。
 それじゃ・・・『化け物使い』だ。

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by kogotokoubei | 2017-02-07 21:36 | 落語の本 | Comments(0)

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『古典落語 正蔵・三木助集』(飯島友治編・ちくま文庫)

 末広亭から帰ってから、『古典落語 正蔵・三木助集』をめくった。

 記事でも、茶楽の高座『芝浜』に関し、本書の「注」から「盤台の糸底」と「ばにゅう」を引用した。

 『芝浜』には、「寄場(よせば)」について次のような注もあった。

寄場
寛政二年(1790)老中松平定信が、火付盗賊改役の長谷川平蔵に命じて、石川島と佃島の間の砂浜を埋立てて「人足寄場」を作り、無宿者や刑余者で引取人のない者、また軽犯者を収容した。そして、これらの連中の更生策として、いろいろと手に職を覚えさせる方針であったが、後には油絞りなど、重労働を課すようになった。当時、寄場へ収容されることは、俗に佃島送り・石川島送り・略して島送りなどと呼ばれた。また、この連中、柿色水玉模様の着物を着せられたので、世人は俗に「水玉人足」とも呼んでいた。

 池波正太郎の鬼平ファンは先刻ご承知かと思うが、落語好き、歴史好きには、なかなか楽しい注だ。

 他にも、正蔵の『こんにゃく問答』には、こんな注がある。

三界
仏教用語、欲界・色界・無色界を指す。欲界とは一切の衆生が生死輪廻する淫欲と食欲を持つ者が住む所。色界は淫欲と食欲を解脱〔離れる〕した者が住む所。無色界はすべての物質を超越した世界。なお、志ん生の演じる『風呂敷』に「女は三階に家なし」とクスグルのは、この三界〔三階〕であるが、要は安住の場所がないの意である。

 紹介されている志ん生の『風呂敷』は、秀逸なクスグリの宝庫とも言える。
 「女、三界に家なし」のついて補足すると、女性は子どものときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がないという意味なのだが、現代では、まったく通じないだろう^^
 そんなこと言ったら、女性蔑視と非難されるのがオチ。

 ちなみに、無色界の最高の位を「有頂天」と言うんだよね。

 正蔵の『首提灯』には、ある人物の説明がある。

白井権八
鳥取城主の家臣の倅。寛政十二年(1672)同藩の侍を殺しで江戸へ逃げて来て、諸大名の所へ転々と侍奉公。延宝六年(1678)自首して磔になるまでの三年間に、斬取り強盗で百三十余人を殺した。その間、吉原三浦屋の遊女小紫と相愛の仲となる。権八の刑死(二十五歳)後、小紫は、東昌寺の住職が建てた墓前で自殺。さらに後年、好事家が造ったのが、有名な目黒の「白井権八・小紫の比翼塚」である。なお、歌舞伎に鈴ヶ森で幡随院長兵衛との出会いの場があるが、権八が江戸へ来たのは、長兵衛の死後二十五年目である。

 勉強になるのよ、落語は。

 『首提灯』で思い出した。

 志ん朝の大須のこの噺のマクラを書き起こしたが、志ん朝が、落語の言葉が伝わらない、と嘆いていたっけ。
 あらためて、少し紹介。
2016年3月26日のブログ

粗忽なんて言葉も分からないですね。粗忽ってのは、何なんですか、ってね。お若い方の中で、今日お見えになってらっしゃる方で、ご存じない方もいるかもしれません。シーンとしたところを見ると、ご存じないかもしれない。そそっかしい人のことを言うんですよ、粗忽と、粗忽者なんてぇこと言うの聞いたことない、聞いたことありません、なんと言うんでね、はっきり断られっちゃう
 で、こうなるとこっちも面白いなぁと思っていろんなことを聞くんですよ。雪隠って知ってる、とかね、ハバカリってなんだか分かる、とか。そやって聞いてたんですよ。そしたら、やっぱり私たちの噺のほうは昔の住居が出てきますから、行灯って知ってるってたら、知らない人のほうが多いですよ、若い子で、行灯。「行灯知ってる」「知りません」「なんだと思う」「食べ物ですか」・・・よく聞いたらね、天丼だとかカツ丼だとか、そういう類(たぐい)だと思ってるらしいんです。その想像も素晴らしいんです。っていうのは結局、なんかあんかけのなんかどんぶり物じゃないか、とそれがあんどん。はぁ、いいなぁと思ってね、嬉しくなりましたね、えぇ。よく時代劇なんかでもって灯りがつくでしょう、家(うち)ん中で、あれが行灯よ、あぁそうですか。敷居は知ってるったら、敷居は知ってますね、鴨居は、ったら鴨居は分からない。鴨居が分からないから、長押(なげし)はよけい分からない。というようなことになってる、ねぇ。
 これは、急にこういう話になっちゃって、私もこれから先のことでもって、皆さま方にお願いがあるんですが。おうちのお子さんにねぇ、やっぱりたとえ嫌がっても、教えた方がいいですよ、日本のことですから。外国のことじゃないんですから。

 そうなのですよ、外国のことじゃない、我が日本のことなのです。

 しかし、その国の親方、「云々」がデンデンじゃ、デンデン駄目でしょ!

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by kogotokoubei | 2017-02-02 12:54 | 落語の本 | Comments(2)
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 前の記事で、立花家橘之助の浮世節家元の看板を今日まで伝える大事な役割を果たしたのが、寄席文字橘流家元の橘右近だったことを紹介した。

 引用した右近の『落語裏ばなし』(昭和50年、実業之日本社)を久しぶりに読んで、この本に永六輔さんや円生が推薦文を寄せていることに納得。実に貴重な本だ。
 
 橘右近は、明治36(1903)年の生まれなので、三遊亭円生の三つ年下になる。

 右近の経歴をWikipediaから引用。
Wikipedia「橘右近」

家業は庭師だったが継がず、最初は浪曲の吉川小龍の門で龍馬を名乗る。

1922年 - 18歳の時に柳家さくら(後の3代目柳家つばめ)に入門。柳家龍馬で初高座。
1932年 - 師匠であり父の名、柳家さん三と改名。
1939年 - 橘右近と改名。
1946年 - 同じく師匠の名、柳家さくらと改名。
1947年1月 - 橘右近に復名。
1949年4月 - 落語家を廃業し神田立花演芸場楽屋主任と専門の寄席文字の書家専業になる。
1954年11月 - 神田立花演芸場閉場。
1955年8月 - 東宝名人会再開にともない楽屋主任と寄席文字の担当になる。
1965年11月 - 8代目桂文楽の薦めで橘流寄席文字家元になる。
1980年 - 8月一杯で東宝演芸場閉鎖のため楽屋主任と寄席文字担当退任。以後、フリーとなる。
1995年 - 肺炎で死去。

 金原亭で「龍馬」を名乗っている噺家さんがいるが、あの名は柳家で右近が先だったようだ。

 落語家としての戦前の二十余年、そして戦後に寄席文字の第一人者となってからの約五十年、右近は落語界を見続けてきたということか。

 まさに寄席は初席の最中。
 本書にも、「初席」の章があるので紹介したい。

初席

 寄席に、新年がやってまいりました。
 正面入り口に門松をたてて注連飾(しめかざ)りをし、大きなお供えには紅白のご弊をたらして海老をおき、天井からはまゆだまがたれており、
「おめでとうございます」
 楽屋では、こんな挨拶がゆきかいます。好きなひとは、席亭からおとそが届けられたご酒をきこしめしながら、いい心地になって楽屋待ちをしている。
 あちらのほうでは、まんだら(手拭)の交換だ。年始の挨拶用に染めたまんだらがゆきかいまして、各師匠がたからご祝儀つきでいただいた下座や前座が、
「師匠、こりましたネ」
 てなことをいったりします。

 今も残る風習はあると思うが、その昔の初席の和やかな雰囲気が良く伝わってくる文章だ。

 かつて初席でトリを務めることの名誉は、今日の比ではなかった。
 右近が、その当時の顔ぶれを記している。

 昔から、初席でトリ(主任です)をとれるようになれば、これはたいしたもの。噺家としての大目標でございましょう。
 まあ、そこでどこの席でも、初席と二の席(つぎの席です)のトリはたいていきめております。
 私のつとめている東宝名人会では、先代の金馬師匠が亡くなってから現小さん師匠に移り、いまは立川談志さんのトリでございます。
 小さん師匠が、上野・鈴本の再開でトリをつとめるようになったためでして、二の席のトリは林家三平さんでした。
 上野・鈴本の初席は、昼が馬生師匠、夜が小さん師匠。二の席は、昼が柳橋師匠、夜が今輔師匠。
 新宿・末広亭の初席は、昼が柳橋師匠、夜が今輔師匠。二の席は、昼が円生師匠、夜が正蔵師匠。
 こんな顔ぶれでございます。

 鈴本が現在のビルで再開したのは昭和46(1971)年。

 昭和四十年代の初席、二の席のトリの顔ぶれは、たしかに名人と言える凄い名ばかり。

 現在は東宝名人会はないが、上野の鈴本と新宿の末広亭は存在する。

 それぞれ、どんな名が並んでいるか確認。

 <鈴本>
 初席第一部が市馬、第二部が菊之丞、第三部は三三。
 二の席は昼が一之輔、夜が喬太郎。

 <末広亭>
 初席第一部が昇太、第二部が前半歌丸で後半は竹丸、第三部は文治。
 二の席は昼が市馬、夜が小三治。

 もちろん初席は浅草演芸ホール、池袋演芸場でも開かれているし、国立演芸場では新春国立名人会がある。
 それらのトリの顔ぶれには、他の芸達者の名が並ぶ。
 
 また、鈴本に落語芸術協会が出演しないこともあるし、単純な比較はできない。
 加えて、三部制になってから、初席は慌ただしい顔見世興行という番組になり、ゆっくりと高座を楽しむ席とは言いにくくなったようだ。

 娯楽は時代とともに、たとえば、寄席や芝居->映画->テレビ->スマホ(?)と変わってきている。

 正月の大事な娯楽の一つだった寄席の初席は、その趣向にも、お祭りとしての工夫があったようだ。
 右近はかつて存在した寄席での思い出を遺してくれている。

 そうそう、初席といえば、私がなくしちまうのが惜しいなといまだに考えているものがあります。
 人形町の末広では、初席のトリが高座をつとめた後、追い出し太鼓はやりませんでした。
「テケテン、テンテン」
 デテイケ、デテイケと聞こえてせきたてる追い出しをして、お客を下足にワサワサと追いたてたりしません。
 何をしたかって?高座に太鼓を持ってきまして神田囃子をやるんでさァ
「へい、ありがとうござい、ありがとうござい」
 神田囃子を賑やかに流しながら、トリがおじぎをしつつ初席のお客を送り出す。
 これが、昔の初席の慣わしでございまして、いいもんでございました。


 いいねぇ、初席のお開きで、神田囃子とは。

 橘右近のこの本、あらためて読み出すと、なかなか良いのだ。

 また、何度か記事にするつもりだ。


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by kogotokoubei | 2017-01-08 19:45 | 落語の本 | Comments(0)
 三遊亭小円歌が二代目立花家橘之助を襲名することは、以前書いた。
2016年11月24日のブログ

 その初代橘之助をモデルにした榎本滋民さんの芝居『たぬき』を山田五十鈴が演じ、古今亭志ん朝も出演していたことなどは、山田五十鈴の訃報を知った後に記事にしていた。
2012年7月11日のブログ

 あの記事では、いくつかの本から引用することで、橘之助という稀代の芸人についても振り返った。

 その橘之助について、別な本からも紹介しようと思う。

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 その本は、明治36年生まれで、今日につながる寄席文字、橘流初代家元橘右近の『落語裏ばなし』。
 何気なくめくっていて、橘之助という名跡について、私にとっての大発見があったのである。

 本書の副題は「寄席文字にかけた六十年」。
 実業之日本社から昭和50年に初版発行。

 著者の右近は庭師の家に生まれたが、最初噺家になろうとして三代目柳家つばめに入門。戦後は寄席文字一筋。
 落語家時代から寄席にまつわる物を数多く収集した。
 そして、『ビラ辰』などのビラ字を教えを乞う師匠がいない状態から見よう見まねで書き始め、自身のスタイルを確立した人だ。
 弟子の左近に、昔の名人が書いたビラ字を見てきた古い噺家(例えば五代目柳亭左楽)や席亭(例えば末広亭の北村銀次郎)がいたので真剣だった、と語っている。

 その右近の経験や知識を元にしたこの本は、帯には永六輔さん、本書冒頭に円生の推薦こ言葉が並んでいる。

 本書にも「初代 立花家橘之助」に一つの章を設けているので引用したい。

 五歳で上野池の端・吹抜亭で初舞台、八歳の春には大師匠円朝から真打昇進の許しを得て清元から義太夫、何でも弾きこなす腕前に、明治四十五年六月二十八午後四時、ときの東京府知事阿部浩殿より浮世節家元の名前を許可された師匠の芸歴。

 この部分の前には、浮世節「たぬき」の科白も紹介されている。

「それでは、お賑やかにたぬきとまいりましょう。
  夫(そ)れ伝へ聞く茂林寺の 文福茶釜のその由来
  怪しくもか亦面白き 昔々その昔
  婆喰った爺の狸汁 えんの下谷の骨までも
  広尾の原の狸蕎麦 のびた鼻毛の・・・・・・」

 そうか、小円歌姐さん、「たぬき」のネタ持っていたなぁ。
 きっと橘之助への憧れがあったのかもしれない、などと読みながら思っていた。

 そして、読み進むうちに、橘之助という名前を小円歌が継ぐことにつながる、その背景を窺い知るような内容があった。

 集古庵初代を名のっていおた私も友だち、横浜の志ん馬さんは、橘之助師匠の愛人でございます。
 前座でも、二ツ目でもいい男をひきたてる、これが師匠の道楽というよりは生きがいみたいなところがございました。
 志ん馬さんの家は、妻君が待合をやっておりましたが。橘之助師匠用の部屋がとってあったぐらいで、女房公認の仲でさァ。志ん馬さんが亡くなって後、このおかみさんに私は橘之助師匠の愛用品ともども、浮世節家元の看板を託されました。
「右近さんが預かっておいて、適当なかたがいたらばゆずってあげてくださいな」
 そういわれて預かった看板、どうみ気になっていけません。私は看板を柳家三亀松師匠のお弟子、亀松さんに、わたしてお願いしましたョ。
「弾きがたりをやる亀松さんが持っていて、これはというひとにわたしておくれ」と。

 おや、ということは、今回の二代目橘之助襲名には、志ん馬->右近->亀松と伝わった浮世節家元の看板が実を結んだ、ということなのだろう。

 亀松はその後二代目三亀松を襲名しているが、故人。
 きっと、その二代目三亀松から、浮世節家元の看板が途切れずに誰かに渡された、と察する。
 その誰かが、小円歌が「これはというひと」と認めた、ということか。


 以前の記事で書いたように、橘之助という名跡の復活は、大歓迎である。
 その背後には、芸人さん達の、箱根駅伝にも勝る、名跡の看板をタスキとしたリレーが存在したわけだ。

 二代目橘之助襲名に伴い、浮世節家元の看板を横浜の志ん馬のおかみさんから預かり、三亀松の弟子亀松に受け渡してくれた橘右近という寄席文字の名人のことが振り返られることにつながるのなら、それもまた結構なことだろう。

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by kogotokoubei | 2017-01-07 21:36 | 落語の本 | Comments(0)
 11月21日は、立川談志の祥月命日。
 2011年のこの日に旅立ったので、丸五年の月日が経った。

 一門では、「生誕80年」ということもあり、よみうりホールで「談志まつり」と題して記念の会があったようだ。
 昨日昼と今日の昼夜のチケットは完売とのこと。

 
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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 
 立川談四楼の「お知らせブログ」では、「談志まつり」昨日20日昼のトリを、談四楼が務めたようだ。
「立川談四楼 お知らせブログ」
 その談四楼の著書『談志が死んだ』から、通算で四つ目の記事。

 この本は、「虚実皮膜」の間を描く、あくまで小説ではあるだろうが、「実」の部分が結構多いように思う。

 特に、談志の晩年の逸話は、実話と思しきこことが多いし、初めて知る内容が印象的だ。

 その、談志晩年の“変調”のことについて。

 談志が亡くなった直後、弟子たちが飲むこと機会が多くなり、その席で、晩年の談志の不思議な言動に接していた一人一人の体験が明かされる。
 こんなのべつに通夜をやる一門はねえなと言いつつ、兄弟弟子は事あるごとに師匠を肴にして酒を飲んだ。談志のネタは山ほどある。あんなこともあった、こんなこともあったとそれぞれのエピソードを出し合い、笑い、みな安心して談志を血祭りに上げるのだった。

 “血祭り”は、あくまでシャレだろうが、弟子が師匠のネタに困らないのは事実だろう。
 そして、その“通夜”では、晩年の談志の不可解な言動が明かされることもあった。
 談四楼の兄弟子、左談次の逸話の部分から引用。

 酒癖と言えば左談次。いやむしろ私は陽気ないい酒だと思っているのだが、談志がそう思ってなかったという話なのだ。
 入門早々、左談次は渋谷にある談志の書斎で小言を食った。帰れと促され、少しムッとしたらしい。私も知っているが、あのマンションのドアは鉄製で重かった。左談次がそれを閉めようというとき突風が襲い、ドアがガッチャーンと凄まじい音を立てて閉まった。左談次が階段を降りかけた時、そのドアから談志が飛び出して来た。
「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」。
 以来、キレると何をするかわからないと談志はインプットされたらしい。何か仕出かす前に帰そう。それには酒癖が悪いという口実がいい。おそらくそんな回路を経て、左談次は酒癖が悪いことになったのだ。新年会など、一門の折々の宴席で談志は言い続けた。「おい、左談次はそろそろ帰せ。あいつは酒癖が悪いんだから」。

 左談次が入門したのが昭和43(1968)年だから、昭和11(1936)年生まれの談志は、32歳。
 「笑点」の初代司会者を昭和41(1966)年5月から昭和44(1969)年11月まで三年半務めている、まさにその時期。
 ちなみに、あの『現代落語論』は昭和40(1965)年上梓している。二十代で書いた本なのだ。
 そんな若くて、仕事にもノリノリの時期、たまたま突風のせいで重たいドアが音を立てて閉まったのを勘違いし、本名で「ごめん山岡クン、言い過ぎた、ヤケになるな」という談志の姿を思い浮かべると、なんとも可笑しい。

 その左談次の言葉から引用を続ける。
「オレたち近過ぎてわからねえんだよ。数年ぶりに会った人が、師匠おかしいと気がつくんだ」
 左談次はそんな前フリから話を始めたのだが、晩年、旅のお供をしたらしい。“ひとり会”と銘打ったのに声が出ないから二席はきつく、サポート役として真打が一人同道した。その打ち上げの席だったという。
「師匠は打ち上げの席は好きだからさ、ウーロン茶を飲んでた。声も出ねえし、こっちはそれが務めだと思うから、飲みながらパアパア言ってたよ。ふと家元の視線に気づいたんだ。オレの手元のグラスを見てんだよ。で言ったんだ、左談次、おまえ酒飲めるのかって。いや、イスから転げ落ちるかと思った。驚いたねえ。じゃ今までの酒癖が悪いから帰れってのは何だったんだよってなもんさ」
 私は左談次に同情したが、左談次は私への同情をより強めたようだ。
「オレは怒鳴られなかっただけマシさ。おまえは大変だったよなあ」
 二人の話に安心したのか、あの、いいですかと談笑が入ってきた。

 この時の談志の言葉、どう考えたらいいのだろう。

 あの、入門当初のドア閉めの音の勘違いから、
 “あいつは危ない”→“酒でも飲ませると何をするかわからない”→“酒癖が悪いことにして酒席では早く帰そう”の発想の背後に「あいつが酒を飲めても飲まなくても」という思いがあって、それが、「酒は飲めない」という勘違いになっていた、ということだろうか。

 そんなことではなく、すでに、談志の記憶は、相当な“斑(まだら)”状態になっていた、と言ってもよいのかもしれない。

 なお、左談次のブログ「ほろ酔い日記」では、現在、彼が癌と戦っている様子が綴られている。
立川左談次のブログ「ほろ酔い日記」

 今日の落語会の昼のトリは、左談次の予定になっていたが、果たして、無事高座を務めることができたのやら。

 さて、談笑が左談次と談四楼の会話に入って、次のような逸話が披露された。
 真打昇進披露パーティー、披露興行と、談志は談笑に付き添った。側から見ても、談笑に期待しているのがよくわかった。一方の談笑も大いに恩義を感じた。だから地方公演への同道を請われた時、喜んで馳せ参じた。
「やはり打ち上げの席でした。師匠がマジマジと私の顔を見るんですよ。なにかと思ったら、おめえもいそろそろ真打になったらどうだって」
「えっ?」
 左談次と私はほぼ同時に声を上げた。
「またまた師匠ぉ、シャレがキツいですよって思わず言いそうになりました。だけど目がマジなんです。しようがないですよね、はあ、よろしくお願いしますと・・・・・・」
「それ言われたの、一回だけ?」
「一回だけでした。すぐに興味が薄れたようで、目がすうっと逸れていきました。こっちは真打にしてもらったお礼奉公のつもりで来たんですがねえ。あのとき初めて、容易ならざる状態だと思いました」

 これまた、理屈では考えられない談志の発言である。
 
 晩年の談志の“変調”について、さらに引用する。
 そうか、そうしてみんな変調に気づいていったのか。ではこのケースはどうだろう。当人が直接言われたわけではないのだが、いっとき評判になったので耳に入っていることを前提に話を進めよう。
 主人公は談幸だ。東京での落語会でのことである。楽屋には談志、前座、慎ちゃん、主催者、それに談志を訪ねた客が三人ばかりいたという。そこへ談幸が入ってきた。出番はないが、いわゆる顔出しである。談幸がニコニコ向かってくるそのとき談志が前座に言ったのだ。「気をつけろ、変なのが入ってきたぞ。財布は大丈夫か、下足隠せ」。何のことはない、談幸は楽屋泥棒の扱いを受けたのだ。
 談吉と言った前座時代、談志と談幸の蜜月は有名だった。一門唯一の内弟子で、談吉は練馬の家を守った。時には談吉の夜席の務めが遅くなると、先に帰った談志が料理を作って待っていることもあり、一門は、あの形態は内弟子ではなく同棲だと囁いた。
 談吉なくしては夜も日も明けぬ談志だった。談吉は完璧な付き人であり前座だった。客があってちょっとした宴会になる。料理を出し、酒を作り、興が乗ると唄、それも懐メロが始まるのだが、談吉はいそいそとカセットデッキを設置し、いいタイミングでスイッチをオンにする。
 驚くべきはそのカセットテープで、談吉は談志の好みを熟知し、曲の順番に凝り、談志が唸るほどの編集の冴えを見せた。小回りと気が利き、一歩先を読んで動く。まさにパーフェクトな前座だった。だから談吉が二ツ目になった時、談志は喜ぶよりむしろ落胆の表情を浮かべたのだ。
 その談吉の談幸が、病状を気遣い、楽屋に顔を見せた。しかるに談志はこれを泥棒扱いしたわけだが、居合わせた前座が大声で「おはようございます、談幸師匠」と発したから、おおそうか、談幸かとなったのは幸いだったが、面と向かっておまえは誰だと言われれば、談幸のショックは計り知れないものがあっただろう。
 談幸師匠と大声を出した前座、彼こそが現二ツ目、当時前座の談吉で、以降一門内では、談吉ってのは代々気が利くんだということになっている。

 談吉という名で、“同棲”とまで称されたパーフェクトな内弟子の前座だった談幸は、この時、二代目談吉に救われたとは言え、家元の異変に気付いたに違いない。

 それは、実に悲しい事実だったことだろう。

 その後、一人立川流から落語芸術協会入りした談幸にとっては、談志のいない立川流に魅力など感じなかったのも道理だろう。

 文中の慎ちゃんとは、談志の長男慎太郎のこと。
 その“慎ちゃん”に関連し、本書では、志らくが仙台に住む長年の談志ファンの方と一緒に病院を見舞いに行った際の逸話も紹介されている。
 この二人の来訪を談志が喜ばないはずがない。よく来た、そこへ座れ、何を飲む、何か食うかという接待である。衰えゆく体にムチ打ち、喋る喋る。二人はふと気がついた。話題となっているのは慎ちゃん、談志の長男にして談志役場を仕切る松岡慎太郎氏のこと。
 がしかし、名前が違うのだ。目と目で慎ちゃんの話題であると確認し合う二人、にも関わらず、談志の口から何度か発せられるのは、聞いたことのない赤の他人の名前なのだった。
しばしして、お大事にと表へ出て、二人同時に「慎ちゃんのことだよね」と言い、再確認したのは当然のことで、志らくはその時点で、Xデーが遠くないことを予感したのではなかったか。

 まだ声帯を取る前のこととされているが、病気は喉だけではない状態だったのだろう。
 あえて、晩年の談志の“変調”の姿をいくつか紹介した。
 命日に相応しくない、というご指摘もあるかもしれない。
 しかし、決して往生とは言えなかった晩年の談志を知ることも、供養の一つではないか、などと、勝手に思っている。

 その晩年との対比で、若き日の談志の姿が、より光り輝く、ということだってあるのではないか。

 著者の談四楼など古参の弟子たちは、そういう談志の若い頃のまぶしい姿に憧れて入門してきたのだ。

 古くからの弟子であればあるほど、過去の談志の芸や人柄を懐かしむ気持ちが強いに違いない。
 そういった過去への郷愁が、本書でも明かされている。
 亡くなってからちょうど一ヶ月後の12月21日、ホテルニューオータニ鶴の間で「お別れ会」が催された。
 一部が、談志と縁のあった方が中心で会費一万円、二部がファンなど一般向けで無料だったようだ。
 一部では、会場のスクリーンに、2007年よみうりホールでの、伝説と称される『芝浜』、二部では、同じ会場で前年2010年に、無理を押して演じられた同じ『芝浜』が、編集されて部分的に上映された。

 その二部の上映に関して、会場で談四楼が感じたことは何だったのか。引用する。

 伝説の07年版同様、大晦日の夫婦の会話のみに編集されているが、弟子としては目をつむり、耳を塞ぎたいビデオである。しかし客の姿も残り少なくなった今、弟子はこれと敢えて向き合った。鬼気迫る、とは褒め言葉だろうか。談志は気力だけで『芝浜』と格闘していた。
 疑問が湧いた。なぜこれを二部で上映したのだろう。アルコールの入った喧噪の中とも言える一部であれば、多少はごまかしが効いたのではないか。そしてあの伝説の『芝浜』のほうをこの二部で上映するのだ。二部の客は手渡されたカーネーションを献花台に置いて合掌してしまうと、無料であるから飲食は供されず、余興もなく、スクリーンを見上げる以外はすることがない。後はもう少しとどまりたい風情を見せつつ帰るしかないのだ。
 (中 略)
「よそう、また夢になると不可(いけ)ねえ」
 スクリーンの中でものすごい拍手が沸き、鳴りやまなかった。わかる、読売ホールにいた客の気持ちは。誰の目にも不可能と映ることを、談志はやり遂げたのだ。だが同時に薄々感じたはずだ。来年の暮は、もう談志の『芝浜』は聴けないかもしれないと。
 映像と音が消え、スクリーンが地の白に戻った時、しみじみと龍志が言った。「昔の師匠は上手かったなあ」。まったくだと、他の三人が声を揃えたのはなぜだろう。山藤顧問の挨拶が甦った。談志をピカソに譬え、ピカソにも談志にもまず写実の時代があったと言った。まさしく我ら四人は写実の時代の談志に魅入られ、その門を叩いたのだ。

 龍志の言葉に同時に声を揃えたのは、談四楼、左談次、ぜん馬の三人。

 私は、このお別れ会には、行っていない。
 しかし、一部と二部とで上映する内容は逆だろう、という談四楼の思いには共感できる。
 もっと言えば、ビデオ上映など必要があったのだろうか・・・と思う。

 いずれにしても、晩年の高座であり、絶頂期のものではない。

 そのビデオの高座について、談四楼は次のように語る。

 2007年と10年の『芝浜』を聴き、昔の師匠は上手かったと龍志が言ったのは、立川流以前の弟子の共通した思いだった。2010年の『芝浜』はもちろん、07年の伝説の『芝浜』も、技術的にはいい出来ではなく、下手である。セリフを噛む。上下は間違え、妙な間さえ空く。これを落語家は下手と呼ぶのだ。
 しかるに会場の感動はどうだ。居合わせた客の誰もが、07年の『芝浜』はよかった、感動した、神が降りたと称え、体力が落ち、ほとんど聞き取れない10年の『芝浜』さえ、涙まじりに、スゴかった、あの人は紛れもなく神だと言い募る。
 ここかと思えばまたあちらと、談志は変貌を遂げた。その速さにとり残された客と弟子がいた一方、変わらず愛し続ける客がいたということか。ああ、半端だなと自分の存在を思う。一門の下と上を、以前と以後と行きつ戻りつしたつもりだったが、それぞれを深く知っちゃいなかったのだ。それでいて両者の橋渡し役のつもりでいたわけで、ま、グレーゾーンもよしとするか。

 “グレーゾーン”とは、言い得て妙でもあるが、談四楼の謙虚さも滲み出る言葉だ。

 本書では、立川流以前の弟子たちが“ら族”として扱われたことも書かれている。
 要するに、没後の新聞やwebのニュースで「志の輔、談春、志らく(、談笑)“ら”を育てた」などと書かれ、古参の弟子が“ら”の一言で括られたので、自虐的に“ら族”と称していたのである。

 しかし、談志一門にとって、実は“ら族”こそが、そのDNAを継いでいる人たちではないか、と私などは思う。

 最後の引用は、その“ら族”の談四楼が振り返る、弟弟子との会話。

 それは、談志が存命中の日暮里寄席か上野広小路亭の後と記憶する打ち上げでのことらしい。
 私がトリだったのは確かだが、それを言った二ツ目が談修だったか錦魚だったか。私はほぼ出来上がり、そろそろオヒラキという頃だった。
「談四楼師匠はけっこう家元のことを悪く言いますよね」
「ああ言うよ、高座でも普段でも。だけでネタにはなってるだろ」
「それはそうですが、私なんか、よく言えるなあと思って・・・・・・」
「キャリアの違いだな。十年二十年の弟子はまだ関係が師弟なんだ。ところが四十年からになると、これが親子になっちまうんだな」
「はあ、師弟の会を親子会と銘打つことはありますけど・・・・・・」
「あんた、尊敬する人はと聞かれたら、師匠って言えるだろ」
「もちろんです」
「だからそこが若いってんだよ。いい年をしたオッさんが尊敬してる人は師匠だなんて言えるかい。ましてや父ですなんてバカらしいや。だけどうちの家元(おやじ)、若えんだよなあ。ま、そこは早婚で出来たセガレだと考えりゃいいんだが、このオヤジ、総領を始めとするセガレたちの不甲斐なさに腹を立ててる。セガレたちも面目ねえとは思ってるんだよ。だから黙ってりゃいいのにこのオヤジ、弁が立つし親子だから遠慮がねえ、ガガッとくるよ。セガレだってヘイヘイ精進いたしますなんて言わねえ。んなことはわかってらあってなもんさ。親子ってそういうもんだろ。だけどこっちはシラフで面と向かって毒づいたりしねえよ。その代わり、いねえとこでネタにして喋る、とまあそんなカラクリ。どう、親子の話、わかった?」
「・・・・・・」
 これが古弟子(せがれ)の、家元に死なれた今も変わらぬ本音なんだがなあ・・・・・・。

 師匠と弟子が、師弟から親子に熟成(?)するには、長い年数のみならず、その関係の密度も濃くなければならないだろう。
 時には「この野郎!」と弟子が思った、理不尽な叱責を幾度も経験しているに違いない。

 その師弟の関係は、立川流以前と以後では、大きく違うはずだ。
 それは、良し悪しの問題ではなかろう。

 談志が絶頂期を迎え「四天王」ともてはやされていた頃の、一人の噺家として、そして師匠としての弟子への接し方と、立川流家元となってからの違い、もあるだろう。もちろん、若い時と年齢を重ねてからでは、自ずと弟子への対応も変わるはずだ。
 落語協会という“置屋”に属し、小さんという師匠に甘えることのできた時期と、甘える相手がいなくなってからの心情の変化、などなど。

 だから、思うのだ。
 いわゆる「立川流四天王」などという言葉をメディアが今も使うことがあるが、それはまったく近視眼な見方だ。

 談志は、立川流を作る前にも存在したし、その頃に入門した弟子もいる。

 そして、没後五年。
 立川流は、いまや名前だけが残っているに過ぎないのではないか。

 楽屋泥棒と間違われた談幸は、弟子を引き連れて落語芸術協会に入会した。
 かつて、上野広小路亭の立川流の寄席は、その談幸が顔づけなどを行っていた。
 
 もはや、一門と言うよりも、個々に、かつては談志の弟子だった噺家が存在しているに過ぎないのだろう。

 ならば、四天王もカンカンノウもない。

 私は、一時、志の輔、談春、志らくを、それぞれに集中して聴こうとした時期がある。
 中には印象に残った好高座もあれば、期待が大きすぎたこともあって、がっかりしたこともある。

 今は、彼等の落語会に、チケット争奪戦(?)に参加してまで行く気にはなれない。
 そもそも、大ホールでの落語会には行くつもりがないのだが、そういう場所での開催が多いことも、彼等と距離が出来た理由だろう。

 しかし、もっとも大きな理由は、寄席を経験していない彼等の高座に、私が好きな噺家の姿を見出せないことなのだと思う。

 それは、彼らの責任ではないが、寄席体験の欠如は、噺家という芸人にとって、小さくはない。

 落語会、寄席には多い年に50~60回出向いたこともある。
 今思うと、仕事をしながら、落語評論家でも席亭でもないのに、異常な回数だったなぁ、と思う。
 今は、せいぜい月に二~三回でいいかな、と思っている。
 できれば寄席を中心に、これまで聴いたことのない噺家さんや、年会員になっている柳家小満んの会などだけでいいかな、という心境だ。
 いろいろと自分や周辺の環境が変化していることも理由だが、一時期集中して行っていた反動もあるかもしれない。
 中堅の実力者の高座でご無沙汰な人も多いが、そういう噺家さんにしても、どうしても聴きたくなってからで良いか、と思う。

 また、ある程度は、現役の若手中堅の噺家さんのことは分かる程度に、これまでの蓄積があるようにも思っている。

 だから、数少ない落語会や寄席では、できるだけこれまで聴く機会のなかった人を中心に選びたいのだ。
 そういう意味で、“ら族”と言われた立川流の古参の噺家さんの高座には、興味がある。
 昨年、龍志を聴いて感心したこともある。
 談志のビデオを眺め、「昔の師匠は上手かった」と言う龍志には、共感できる。

 また、本書の著者である談四楼の生の高座はまだ聴いたことがないので、来年の大きなテーマであり、楽しみだ


 師弟ではなく、親子の関係性を感じ、時には悪口も公言してきた談四楼などの古参弟子に、若き日の談志のDNAの継承を期待している。

 実は、没後、BSで放送されたその“伝説”の『芝浜』の高座を、私は直視することができなかった。
 「どこが、伝説なんだ。昔の談志はもっと上手かったぞ」と思っていた私は、本書を読んで、実に共感することが多かった。
 私にとって生の高座はたったの一度だが、音源や映像で、輝いていた頃の高座を知っている。
 ちなみに、仲間うちの宴会で披露した『道灌』の手本は、談志の音源だ。
 『ねずみ穴』や『源平』など、時おり無性に聴きたくなる音源もある。

 だから、本書を読んで、“伝説”の『芝浜』を「下手」とはっきり言える弟子こそ、談志の芸を継承するに値するのでないだろうか、などとも思うのだった。


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by kogotokoubei | 2016-11-21 21:36 | 落語の本 | Comments(8)

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 立川談四楼の『談志が死んだ』から、三度目の記事。

 談春の『赤めだか』を書評で褒めたことで、師匠談志から理不尽と思われる叱責を受けた談四楼は、毎晩深酒をするようになった。

 談四楼は、家の近くのかかりつけの医者を訪ねる。
 いっそ倒れて入院という事態にでもなれば楽になるのにとも思ったが、私は因果と丈夫だった。でもさすがに体が音を上げた。胃がシクシク痛むのだ。午前の診療が終わるギリギリに近くの藤畑医院に出かけた。
「続いてるんでしょうね、酒席が。まあ、ほどほどにと言っても聞く人ではないから」
 何年も前、藤畑先生の指導で行ったピロリ菌の除去に私は失敗していた。確か二週間酒をやめ、規則正しい生活をし、その間に薬を飲み続けるというものであったが、三日ともたずに挫折した。
「例の薬、二週間分ください」
「だから、それを決めるのはこっちの仕事だって」
「いや申し訳ない。あれよく効くもんだから」
 いつもの会話を交わすうち、思いついた。
「先生、このあと『マチス』へ行く?」
「そう、いつも通り。軽く食べて家に帰って昼寝」
「ちょっと談志の病状について聞きたいんだけど」
「ああ聞いてる。喉の変調だったよね」
 子供から年寄りまでの患者を抱え、町医者は信じられないほどの激務だが、それでもこの医師は休みが合うと落語会に来てくれる。寝る前の楽しみは一杯飲(や)りながらの落語のCDで、わけても志ん生の熱狂的なファンだ。
 この部分を読んで、私もピロリ菌の除去をしようかと思ったが、禁酒が長く続くと聞いて尻込みしたので、酒のみ同士(意気地なし同士?)として親近感をおぼえた。
 
 さて、気になるのは、かかりつけの町医者藤畑先生との会話。
 喫茶店に毛が生えた規模の「マチス」は、ランチタイムの客が引いたところだった。私は朝食兼昼食を済ませていたので、コーヒーを頼んだ。そしていつも同じ時刻に注文してあるのであろうランチが出来上がった時、藤畑医師がやってきた。
 (中 略)
「食べながら聞いてよ。勘定はオレが持つからさ」
「じゃ、甘えようかな。断わっておくけど、僕は主治医じゃないから推測の域でしかものは言えないよ。もっとも主治医当人には守秘義務があるけどね」
「わかってる。実は師匠がさ・・・・・・」
 誇張せず、過小でもなく、ここ数年の談志の病状と言動をありのままに話した。もちろん、怒鳴りつけられたことは言わなかった。サラダまできれいに平らげ、コーヒーが届いたところで藤畑医師が口を開いた。
「まずは老人性のうちが考えられるね。それもかなり嵩じてる」
 思い当たることがあり、私は言った。
「六十代半ば頃からかな、オレは老人初心者だ、老いにどう立ち向かっていいかわからないって高座でも言うようになって」
「五十代で老いを意識する人は少なく、七十代はもう加速度的に老いを実感してたいて諦めの境地になるんだけど、難しいのは六十代なんですよね。老いを自覚するんですが、それまでクオリティの高いことをやってきた人ほど認めたがらない傾向があるよね」
 談志はまさしくそのタイプだと実感する。捩じ伏せようと老いと戦い、徐々に劣勢となる。そういことだろうか。
「糖尿の気は?」
「あります。弟子に文都というのがいるんですがこれがかなりの糖尿で、二人が会うと数値の言いっこをしてます。さも自慢気に」
「そうか困ったな。糖尿があるのか。そこへもってきてアルコールと睡眠導入剤だろ。これ問題だな。アルコールは相当飲む方?」
「いや、そんなに強くない。酒場は好きですが、量は大していかないです。浴びるほど飲むのは弟子の方です」
 私をチラと見て、藤畑医師は続けた。
「導入剤は?」
「昔っから。私が入門した昭和四十五年にはすでに飲(や)ってました。当時は、あのほら、でかい錠剤の、そう、ハイミナール。通称ハイちゃんてやつ」
「ほう、ハイミナールとは懐かしい名を聞きましたな。でもあれ、危険なんだよ」
「聞いてます。当時、中毒者から死人や廃人がずいぶん出たって」

 前半の“老い”への心の備えに関する藤畑医師の指摘、他人事ではないなぁ。
 まさに、私がその“難しい六十代”だ。

 それほど“クオリティの高い”ことをやってきたとは言えないが、仕事にしてもスポーツにしても、好調だった時期に比べれば格段に質や量、スピードが劣っていることを感じる。
 当たり前なのだが、「なぜ、(以前できたことが)できないんだ・・・・・・」という忸怩たる思いがあるのも、正直なところだ。

 さて、藤畑医師は、次のようなことも談四楼に言っている。
「栄養失調になりますよ、このままじゃ。いやもうなっているかもしれない」
 栄養失調のせいだとさ、という談志の言葉が甦ったが、私は黙っていた。
「だってビールと眠剤だけの暮らしなんでしょ」
「固形物はまず取りませんね。食欲もなく味もしないとかで」
「体力の低下が著しい状態だから、何としても食わねばなりません。しかしそうして摂取したものが糖尿にどう影響するか。加えて眠剤の肝臓への負担があります。今の眠剤は比較的安全ですが、長期間にわたって摂取してますからね。病態は危険水域です。私だったら早めの入院を勧めます」
「当人が嫌がってるんです。たまの高座では声が出ないなりに頑張って。ま、そこは芸人だから。それを見た客も安心するんだけど、家へ帰ってからの落ち込みが激しいん」
「わかります。あそこまで行った人だから。今の自分をそのまま肯定すればいいのに、十全な頃に基準を置くので苦しみ、落ち込むんです。考えると苦しいから、忘我のためにアルコールと眠剤を摂取する・・・・・・」
 なるほど。藤畑医師話は理路整然といしている。


 この会話の中で談四楼の言葉を補足するためには、少し時間を遡る必要がある。

 『赤めだか』に関して談四楼が書いた月刊誌の書評を読んだ談志の最初の叱責は、出かけようとしていた談四楼が、留守電を再生して聞いたものだった。
「とんでもねえこと書きやがって、てねえなんざクビだ失せろとっとと出てけこの大バカヤロー」
 紛れもなく談志だった。このところ談志は喉に変調をきたし、高座を限定している。その温存しているはずの声の調子が並のテンションではなかった。私は戦慄した。談志が劇怒している。それはわかったが、一体何をさして怒っているのか。私は性急にリダイヤルボタンを押した。
 二度鳴ったことろで談志が出た。
「少し電話から離れてました・・・・・・」
 名を告げ、そう言うと、留守電の声の調子に戻った。
「てめい談春の本を褒めやがっただろ。でたらめばかり書きゃがってよくもオレの名誉を滅茶苦茶にしてくれたな。おまえは要らねえ出てけクビだ破門だとっとと失せろ。詫びに来たって許さねえから早く出てけってんだ」
 一方的に切れた。
 この後、談志が番組収録中のMXテレビに談四楼は向かった。
 収録後の楽屋(控室?)での出来事。
 下っ腹にグイと力を入れ、気をつけの姿勢で声を振り絞る。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
 そしてカクッと直角に腰を折った。声は震えてなかったと思う。談志はゆっくりと振り返り、言った。
「詫びに来てもダメだと言ったろうが。許さない。帰れ」
 思いのほか小さく低い声だったが、本気で怒っていることがダイレクトに伝わってきた。しかし帰るわけにはいかない。ドアのところまで後ずさりし、出入りの邪魔にならないようドアから少しズレて、かつ談志の視界からはずれた。足を開き、手を後ろへ回し、踏ん張った。帰ってなるものか。
「おいしいね。ノンくんは料理が上手いなえ」
 猫撫で声の主は野末陳平氏だった。談志が持参した則子夫人(おかみさん)の手になる弁当をパクついているのだ。
「味がしないし、まるで食欲がねえんだ。遠慮なしに平らげてくれ」

 これが、後から藤畑医師との会話で思い出す、談志の症状の一つ。

 この後、談四楼は、車で帰る談志を見送った。

 次に談志の病状を物語るのは、なんとか許しを請おうとする談四楼が、スッポンのスープを手土産に訪ねた根津のマンションでの出来事。
 
 いきなり、談志は志の輔のことを悪く言い出す。
 談四楼は、新橋演舞場での志の輔との親子会で、談志が高座で自爆したことを思い出した。
「あいつはダメ。ウソだらけだ」
 あの、その後を願いします。ウソで固めた本を私が褒めたのがいけないのでしょうか。あれ、それだけですか。それだけでは何もわかりませんが、どうやら体調は最悪らしい。談志はつっかい棒をはずされたように座りこんだ。私も座った。この二十年ばかり、胡坐を許される関係であったが、詫びに来ているのだ。正座をした。
 談志は何も言わない。モゾモゾしている。体が痒いようだ。セーターと肌着おもろとも脱いだ。一瞬、目を背けた。痩せた。これが私が知っている、あの談志だろうか。手の届く範囲をボリボリ掻くが、何だろう、白い粉のようなものがポロポロ落ちる。
 皮膚だ。皮膚が乾き、粉状になって落ちてくるのだ。談志が私の目に気づいた。
「栄養失調のせいだとさ」
 だとさ? 談志がこの三日間で初めて親しみのある言葉を吐いたぞ。軟化か。許そうというのか。さて何分ほどだったか、談志は腹と言わず、背中と言わず、手の届く範囲を心ゆくまで掻いた。相当の量の粉を落とし、上半身裸のまま言った。
「一門解散だ」
 ははあ、そっちへ展開しますか。で、またなぜ。

 この顛末は・・・・・・。
 
 その後、一門会の後の打ち上げで飲んでいた談四楼は、トイレに立った時、女房から携帯に何度も着信履歴があったことを知った。

 何か緊急の用だろうか。一門会のある日の帰宅は遅くなるとわかっているはずなのだが。八十を超えた父が群馬にいる。もしや高齢の父の身に何か・・・・・・。
 発信ボタンを押すと、呼び出し音が二度鳴ったところで女房が出た。
「何かあったか?」
「家元から電話があった」
「家元から?何だって?」
「オレが間違ってた。忘れろって」
「忘れろ?それだけか」
「そう、それだけ言って、切れた」

 談志らしいと言えばそうかもしれないが、これでは、弟子はたまったものじゃない。

 しかし、やはり、談志は病人だったのだろう。

 『赤めだか』の単行本発行は、2008年4月。
 談志は、この年の5月に、喉にポリープがある疑いで自宅近くの病院に二週間ほど入院している。
 そして、同じ年の10月、喉頭がんであることを公表した。

 私が、“最初で最後”の談志の高座に接したのは、癌を公表するほぼ一年前の2007年10月、小田急新百合ヶ丘駅近くの麻生市民館での会だった。すでに、喉の調子は良いとは言えなかった。しかし、『田能久』の出来に満足できなかった詫びの気持ちだったのだろう、アメリカン・ジョークで笑わせてくれた。
 談志が亡くなった後、その高座を思い返した記事を書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2011年11月24日のブログ

 噺家にとって、声は、そして喉は命だろう。
 私が聴いた時、談志は満71歳。
 果たして、“老い”について諦観できていたのだろうか。
 それとも、かつての自分と比べ、絶望感にさいなまされていたのだろうか。

 死因は喉頭がんとされているが、心身ともに病んでいたことは、本書を読んで察することができる。

 ある特定部位のみに問題があったと言うよりも、長年の生活習慣や芸人ならではの心身の消耗が蓄積し、立川談志という稀代の噺家を蝕んでいた、と言ってよいのだろう。

 談四楼が納得できたように、藤畑医師が指摘するそれぞれー老人性うつ・糖尿病・アルコール・睡眠導入剤の長期服用ーが複合的に影響して、また、それらの悪循環によって談志の病状を深刻化していたように思う。

 本書には、晩年の談志の不可解な言動がいくつか紹介されている。
 
 やはり、それは病気がさせるものだったのだろう。

 老人性うつでは、私の大学時代の恩師で仲人をしていただい先生を思い出す。
 まったくそんな病気とは似つかわしくない方だった。しかし、大学を退職され、また、年齢の近いご友人が相次いで亡くなるようなことも影響したのだろう、老人性うつになってしまった。
 
 談志は、そういった心の病気と体の病気が、悪い面で相乗してしまったように思う。

 食べなくてはいけないのに、食べる気になれない。そして、酒と睡眠導入剤・・・・・・。

 
 もうじき11月21日の祥月命日だ。亡くなって丸五年。

 本書を読んで、あらためて、晩年の談志本人と弟子たちの姿に思いが至る。

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by kogotokoubei | 2016-11-10 20:51 | 落語の本 | Comments(2)

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 師匠談志が亡くなってほぼ一年後の2012年12月に新潮社から単行本が発行され、昨年文庫にもなった立川談四楼の『談志が死んだ』から、また紹介したい。
 
 内輪の人間、それも談四楼しか体験でき得なかったことで興味深い内容があった。

 それは、談春の『赤めだか』を談四楼が書評で褒めたことが発端。
 談志が談四楼に対し、その書評を読んで、烈火のごとく怒ったのだ。

 理由はよく分からないまま、とにかく謝りに行く談四楼。番組出演中のMXテレビの控え室に行って頭を下げようが、根津のマンションにスッポン・スープを持参して詫びようが、談四は許そうとしない。
 それどころか、「一門解散だ」と談志は言い出すので、談四楼はとまどうばかり。

 談春の本には、談志がどれだけケチであったかという逸話もあるのだが、それはいつもの談志なら笑って済ますような一門皆が知っている内容。

 談四楼にはご贔屓の社長さんがいた。
 落ち込んでいる談四楼を励ますために、その方、神山社長が食事に誘ってくれた。
 寿司屋の後、社長が談志行きつけのバー「美弥」に行こうと誘うが、談四楼が断るので帝国ホテルのラウンジに場所を替えての会話。

 ラウンジのカウンターで、二人の前に山崎のオンザロックが並んだ。私は談志との間に起こったことを話した。電話で怒鳴りつけられ、詫びに行き、追い返され、再び詫びに行き、一門解散が告げられた経緯を出来るだけ端折らずに話した。さらに携えた『赤めだか』の書評が載っている雑誌の問題の頁も読んでもらったところで、神山社長は言ったのだ。そりゃ町工場だったらフッ飛ぶぜと。
「まあ黙って聞けよ。幸いオレんとこはあんたと出会った頃から比べると十倍規模になった。だからわかることもあるんだ。あんたんとこの一門はいま何人だ? そうか、四十人超えたか。じゃ零細じゃねえな。中小企業の小だ。で創業社長がいま会長に納まっていて、これが家元だ。実権は今でもこの人にあると。社長を始めとする幹部はいるが、みな会長の言いなり。あんあたを仮に営業部長とするか。いろいろ外に向けて動いているから営業部長だ。朝礼でいいか。うん、朝礼の時にこの会長が全社員の前であんたをいきなり怒鳴り飛ばしたんだ」
「あの、まだ一門は誰も知らない・・・・・・」
「追って沙汰があるんだろ、そん時に知れ渡るじゃねえか。同じことだよ。ただ怒鳴っただけだからあんたも他の社員もわけがわからない。そう、この会長、説明責任をまったく果たしてねえんだ。こんな会社がフッ飛ぶにはあたりまえだろ」
「あの、フッ飛ぶというのは・・・・・・」
「オレが営業部長だったらこんな会社、部下を連れておん出るということだよ。あんた、何もして来なかったか。いろいろ尽くしてたじゃねえか。上と下のパイプ役だって務めてたし、何より立川流以降の前座を自分の会に使ってたじゃないか」
 なかば意識してそれはやってきた。立川流以前、つまり寄席を知っている古参の弟子は、立川流以降に入門してきた弟子の了見がわからない。以降の弟子もまた遠慮なのか、古参の兄弟子に距離を置いている。あっちで話しこっちで話し、時に酒を飲み、私は両者の通訳のような役割を果たしてきた。私が発端となって出来た立川流、その事実がのしかかり、私は少しでもその重荷を軽くしようと、談春、志らくの前座時代から会を手伝ってもらった。そして今でも彼らの弟子が談四楼独演会の前座を務めているのだ。私の会に毎回来られるわけではないのに、この人、よく見てくれている。
「感想文だか書評だか知らねえけど、このどこがいけねえんだ。ちゃんと褒めてるじゃねえか。これはどっちからどう見ても、一門隆盛のために書かれたもんだよ。なんでそれがわからねえかなあ、あんたの師匠」
 
 この文章の中には、談四楼には実に心強いご贔屓がいたことと、その方が談四楼の弟子への思いや行動、役割を実によく見ていたことが読み取れる。

 思い出した。談春が前座時代にどれほど談四楼の世話になったかは『赤めだか』にも書かれている。
 しかし、昨年末のテレビドラマでは、まったく触れられていなかった。
 それも、あのドラマに批判的になった理由の一つだった。

 さて、この社長、この後、「美弥」に無理やり談四楼を連れて行ったのだが、談志はいなかった。

 もし談志がいたら・・・というのは、歴史にタブーな「IF(イフ)」だなぁ。

 バー「美弥」と、その帰路の部分も少し引用。
 神山社長は談志についてはひと言も発しなかった。ただ談志好みのJ&Bのソーダ割をグイグイ呷り、政治家をこき下ろしつつ、オダを上げた。少し遠回りになるが、社長は私を送るべくタクシーに引き摺り込んだ。車中では打って変わって無言だった。
 家の近くで私が降りたら、タクシーを待たせ、社長もいったん降りた。
「立川流解散となったら、それぞれの芸名はどうなる?」
「それはそのままだと思いますが」
「だけどあんたは?」
 社長の語勢は、大事なことを思い出させた。私は出てけと言われた男なのだ。
「クビともなれば剥奪かと・・・・・・」
「オレがいい弁護士を紹介してやる」
「えっ?」
「闘えってんだよ。尻尾を巻いて引っ込むことはねえ。絶対勝てる。第一、名を上げるいいチャンスだ。師弟の法廷闘争とくれば、マスコミが飛びつくぜ」
 (中 略)
「少しは甘えろよ、頼れよ。あんた、そういうところが可愛くねえんだ。いいか、オレはあんたが思っている以上に力があるぞ」
 ドアがパタンと閉まり、タクシーが走り出した。前を向いたまま、社長が右手を振っていた。私は深く腰を折った。
 
 結果として、談四楼が、社長の“力”を借りることはなかったのだが、この時期、訳のわからぬまま家元に怒鳴りつけられ、何度詫びに行っても許してもらえず、談四楼のことのみならず「一門解散」という言葉まで飛び出していた時の談四楼にとって、このご贔屓(お旦?)の存在は、心強かっただろう。

  かつて芸人を育てた、いわゆる“お旦”、カタカナで言うなら“パトロン”とは、このように金銭面のみならず、精神的な面でも芸人を支えてきたのかもしれない、などと思う。

 誰もがこの社長のような“お旦”としての振る舞いは、なかなかできるものではない。

 談四楼は、まったく訳の分からない師匠からの叱責や「解散」の言葉に混乱していたが、神山社長と会ってから、冷静に、客観的に、談志のことを“病人”として見るようになったのだと思う。

 実は、当時、心身ともに不健康な状況にあった談志の不思議な言動は、他の弟子たちをも当惑させていたのだった。

 そして、談四楼は、師匠の不調の原因を探るべく、ある知り合いの医者に接触するのだが・・・その件は別途書くことにしよう。


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by kogotokoubei | 2016-11-05 11:20 | 落語の本 | Comments(2)

 最近になって読んだ本で、ある噺家さん同士の関係などについて、今まで知らなかったことをいくつか知ることができた。

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立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)

 立川談四楼の『談志が死んだ』は、家元が亡くなってほぼ一年後の2012年12月に新潮社から単行本が発行され、昨年文庫にもなった。
 
 気にはなっていた本なのだが、私は先週読んだばかり。

 タイトルの通り、師匠のことが中心となっている本なのだが、他にもこれまで私が知ることのなかった、談四楼をめぐる周囲の人々についての興味深い内容もあって、一気に読み進んだ。

 なかでも、昭和26(1951)年生まれの談四楼が、平成23(2011)年に還暦祝いの会を開催するあたりの内容が、印象深い。

 この会は「同期会」として開催する思いがあり、ともに前座修業をした仲間に声をかけるのだが、それぞれ皆、体に変調のある時期だったのだ。

 第7章の冒頭を、まず引用する。
 還暦を迎えるのは悪くない。それをキッカケとするように、何もかもどうでもよくなった。

 私も昨年還暦を迎えたが、こういう心境にはなれなかったなぁ^^

 少し中略し、還暦記念落語会のこと。

 私の独演会の長年のお客から、記念の会をやるんでしょと問われ、もちろんやりますともと答えた。六月二十九日の国立演芸場が空いていた。それは翌日に還暦を迎えるという、シャレていてドンピシャリの日だった。
 同期を招く案がすぐに浮かんだ。古今亭志ん吉、林家公平、立川寸志の私、柳家ほたるの四人が昭和四十五年の入門だった。それぞれが八朝、らぶ平、談四楼、権太楼と名をかえ、真打となって久しいが、ともに楽屋修業をした掛け替えのない仲間である。
 (中 略)
 依頼するとすぐに出演の応答があった八朝は、しかし明けて平成二十三年の春に手術が控えていて、それが気がかりだった。八朝はこの二十年、高座の時間に合わせた投薬でパーキンソン氏病をしのいでいたが、ついにここへきて薬効に狂いが生じ、いよいよ開頭手術に踏み切るのだ。

 八朝の病気については、この文章で初めて知った。
 なお、らぶ平は、問題を起こして一門から追放となり、行方不明だったらしい。

 さて、談四楼と権太楼のこと。
 私と権太楼の間には確執があった。四半世紀を越え、三十年になんなんとする没交渉はやはり長いと言えるだろう。

 私は、このことを初めて知った。
 さて、それほど長く二人を分け隔てた原因は、何だったのか。
 さん光が抜擢を受けて真打に昇進し、権太楼を襲名するという。小朝に抜かれた時には悔しく、三島の死に接した談志同様、頭を掻きむしる焦燥感を覚えたが、さん光の抜擢と権太楼襲名は得心がいった。彼のサービス精神と笑わせる力を高く評価していたからである。だから彼の昇進披露パーティーの司会を進んで引き受けた。
 その後の真打昇進試験で八朝、らぶ平、私が落ち、八朝とらぶ平は落語協会にとどまり、私だけが割って出て立川流の旗揚げに参加した。八朝とらぶ平は追試を受け、やがて真打となるのだが、私はともに落された兄弟子の小談志とともに立川流真打第一号ということになった。

 ちなみに、談四楼は、昭和45年3月入門、昭和50年11月に二ツ目昇進で、小朝は昭和45年4月入門、昭和51年7月の二ツ目昇進だ。権太楼は昭和45年4月入門で談四楼と同じ昭和50年11月に二ツ目昇進。
 入門はこの三人ほぼ同じ時期だが、二ツ目昇進では談四楼、権太楼は小朝に先んじていた。
 しかし、小朝は、師匠柳朝の強力な支援もあって実力を蓄えるともにどんどん人気者になり、昭和53年にNHK新人落語コンクール(当時)で優勝したことも弾みにして、昭和55年真打に昇進した。

 なお、権太楼と小朝がNHKで優勝を競った舞台裏などに関しては、以前権太楼の本からの引用を含めて記事にしたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年11月5日のブログ


 さて、立川流真打第一号となった後のことを続ける。
 ここで仕掛けなきゃ男じゃないとばかりに私は気負い、試験の顛末を『屈折十三年』のタイトルで小説誌に発表し、真打昇進を記念するパーティーを“生前葬”という形で芝は増上寺で催した。
 昔の仲間が大勢やってきた。円楽党、落語芸術協会、落語協会と、垣根を越えて来てくれた。橘家円蔵は談志の顔もあって出席してくれたが、後日に協会理事としてケジメがつかぬとの理由で、寄席出演一ヶ月停止のペナルティが科せられた。
 (中 略)
 談志に褒められ、お客が面白かったと言ってくれたパーティー。一門が勢揃いしている打ち上げ。それなのに何かが足りない。・・・・・・アッと声が出た。権太楼がいなかったじゃないか。彼の門出を司会役として心から祝福したこのオレのパーティーには、あいつ、顔すら出さなかったのだ。
 私は権太楼とただちに絶交した。そう宣言したわけではないが、住所録から彼の名を抹消し、一切の連絡を絶った。不思議なもので、彼からも電話一本、ハガキ一枚来なかった。
 
 なるほど、こんないきさつがあったんだ。知らなかった。

 そして、時は過ぎ、談四楼の還暦祝いの会。
 三十年に渡る溝は埋まったのかどうか・・・・・・。
 勇を鼓して番号を押した。出ない。十回鳴らしても留守録にもならない。いったん切って考えた。高座の最中だったか、少なくともケータイから離れているのだと。三十分経って再びかけると今度はいきなり出た。名を告げると私に権太楼は久しぶりと叫ぶように言い、こう続けた。
「ごめん、八朝さんから、近々兄さんから電話があるとは聞いてたけど、知らない番号だったもんで、つい用心してさ」
 なるほど、それで最初は出なかったのか。よくわかる。私も非通知や初めての番号の電話には出ないのだから。用件を伝えた。
「喜んで出さしてもらいます」
 そのひと言で充分だったが、権太楼は更に言った。
「必ず頼んでくると思ってた」
「えっ、どういうこと?」
「オレも還暦になる時、今までのあれこれがどうでもよくなったから」 
 権太楼は同期だが、四つ年上だ。大学を卒業しての入門だからだが、そうか、四年前にそんな心持ちになっていたのか。
「聞いていると思うけど、腎臓患ってね、それもあるんだ。還暦の時、休むチャンスだったんだけど、欲が深いんだろうね、来る仕事をみんな受けちゃったんだ。で、過労、血尿、腎臓という順でね、ようやく休めるというわけさ」 頷いて聞くしかなかった。


 平成23(2011)年6月29日に開催された立川談四楼独演会には、開頭手術が成功した八朝と権太楼の同期が駆けつけることができた。

 開催時期は、あの3.11から三ヵ月後。

 開催に踏み切った談四楼の思いや鼎談コーナーの様子が次のように綴られている。
 人々はあまりにも悲惨な映像を見過ぎて、沈鬱になっていた。そして自粛ムードにモヤモヤしたものを抱えていて、この会をやる意義は十二分にあると思った。案の定、娯楽への飢えが観客動員につながり、還暦記念の会“同期とともに”は満席となった。
 八朝が権太楼に、さっきのまぜっ返しへの仕返しとばかりに言う。
「腎臓を一つ取っちゃったんだって?」
「そうなんだよ、結局がんでさ、悪い方を取っちゃった。いい方を取ったらシャレにならないだろ」
「そらそうだ」
 手術をした者同士、話が弾んでいる。そして私は驚く。権太楼は腎臓がんだったのか。それにしても、こういうことを笑顔で話せるなんて。おや、当の権太楼はまだニヤニヤしている。
「でね、その取った腎臓だけど、四国の方の医者に一千万円で売れたんだよ」
 客席がドカンと波打ったようにウケた。臓器移植を巡る腎臓の売買の話が、つい先だってマスコミを賑わせたばかりだった。私はあらためて権太楼に瞠目した。すげえ、想像以上に大きくなっている。何もかも晒け出し、がんをネタにし、シャレのめしている。八朝と言い権太楼と言い、オレの同期はスゴいと確信する。私は、「丈夫でごめんね」とはさみ、小さい笑いを取ったのみだった。

 この部分を読んで、私は同じ2011年の4月9日、震災後に初めて行った会の第六回大手町落語会で、高座を務めることができなくなった権太楼が、マスクをしてわざわざ会場に出向き、お詫びの口上をしたことを思い出した。
 その時の自分の記事から、その“お詫び口上”を再掲する。
2011年4月9日のブログ

権太楼 『お詫び口上』(14:03-14:13)
 幕が上がって、本来は開口一番のはずだが、めくりに「権太楼」の文字。会場のお客さんの大方は、私と同様に「前座がしくじったなぁ・・・・・・」と思ったのではなかろうか。しかし、マスク姿の権太楼が登場し、会場は無言な中にも、「?」とか「!」の渦だったように思う。
 たぶん、相当悩んだ末の登場だったのだと思う。「都合」の内容を隠さず、公表することで自分自身も戦うつもりだったのだろう。だから、権太楼が語った内容を書くことにする。
 昨年11月に腎臓にガンが見つかった。今年1月に片方の腎臓を手術で除去。3月に医者に勧められて抗ガン剤治療を1週間入院して行い、放射線治療も受けたらしい。今は通院でいいのだが、治療の結果として白血球が減少しているので、人前に出る時はマスク必須、と医者に言われているらしい。
「マスクして、百年目はできないでしょう!」で、会場は大爆笑。この会の顔ぶれを語り、「柳家でこの人たち以外には・・・喬太郎くらいしかいない、凄い顔ぶれで出たかった・・・」と語ると、良いタイミングで「小三治!」と声がかかる。「あの人は別、ですから」で、また会場が沸く。 マスク越しとはいえ、権太楼節は健在、のように思えた。いや、そう思いたい。「これから帰って、婆さんの言うとおりにうがいして手洗って、ニンニク卵黄飲みます!」と高座を降りる時の会場の拍手は、結果として他の出演者よりも一段と大きく、そして長い時間続いた。

 談四楼還暦記念の会で、権太楼は絶品の『笠碁』を披露したらしい。

 その高座は、このお詫び口上から二か月余り後のことだった。
 私は、権太楼が自粛したのは、同期談四楼の会のためでもあったのではないか、などと今は思っている。

 つい、権太楼のことが長くなってしまったが、それは、先日のNHK新人落語大賞の審査について小言を書いた反動(?)かもしれない。

 この談四楼の本は、彼と師匠談志のことが中心ではあるが、この執筆は、師匠の死を契機に自分の半生を振り返る良いきっかけにもなったのではなかろうか。

 なかでも、この還暦落語会を“同期会”とすることで、三十年に渡る二人の噺家の溝を埋めることになったいきさつは、読んでいて実に胸に沁みるものがある。

 それは、昨年還暦を迎えた自分だからこそ感じる何かが、そこにあるからなのだろう。

 この本からは、家元のことなども今後紹介するつもり。これがまた、凄いネタが多い。

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by kogotokoubei | 2016-11-02 22:34 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛