噺の話

kogotokoub.exblog.jp

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

カテゴリ:落語の本( 138 )

e0337777_12511533.gif

柳家権太楼著『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫)

 『へっつい幽霊』のサゲの調査(?)のために久しぶりにめくった本に、なかなかいい文章があったので、ご紹介。

 柳家権太楼の『江戸が息づく古典落語50席』は、2005年にPHP文庫のために書き下ろしたもの。
 
 「まえがき」から引用したい。

 若い女性たちを中心に、いま落語がちょっとしたブームになっているようです。若手が独演会を開くと、若い女の子がどっと押し寄せるといいます。現代を諷刺した創作落語うぃ聞かせたり、古典落語に新しい味付けをして、若い人たちの心をつかんでいる。

 くどいようだが、この本は2005年2月発行。
 まえがきの日付は平成十六年(2004年)師走、となっている。

 もちろん、今の“成り金”たちのことではない。

 果たして、当時の若手って、いったい誰だったのかな。
 
 ちなみに、白酒の真打昇進が2005年、三三、左龍、甚語楼が2006年、馬石、菊志んが2007年、だなぁ。2007年には秋に木久蔵もいるけど・・・・・・。

 もしかすると、権ちゃん(と呼ばせていただく!)の言う若手の年齢の幅は広いのかもしれない。

 2000年真打昇進の喬太郎、たい平、2001年の白鳥、三太楼(遊雀)、2002年には扇辰、彦いち、2003年には一人昇進の菊之丞、あたりも含んで“若手”と言っているような気がする。
 ちなみに、本書執筆時点、まだ三太楼は弟子である。

 引用に戻る。

 落語の世界に身を置く者として、実に有り難い。実に有り難いですが、せっかく落語に関心を持ったなら、ちょっとその領域を広げて、古典落語そのものもじっくり味わって欲しいなあと思います。古典というと、何か古色蒼然とした芸能と思うかもしれませんが、古典落語はそんなもんじゃありません。

 まったく道灌、いや同感!
 言葉ではできないギャグはスルーしていただき、引用を続ける。

 江戸、明治、大正のころにできた噺を、何十人、何百人という落語家が工夫を凝らし、師匠から弟子へと受け継がれ、練りに練り上げた噺が、いまも何百と残っている。そんな「生命力」が古典落語には漲(みなぎ)っています。その生命力を是非味わって欲しいと思い、本を出すことにしました。

 ね、権ちゃんの心意気のようなものが伝わるでしょう。

 落語家が監修者として名を出している本ではなく、書き下ろしですからね。
 私の琴線にもっとも触れた部分を含め、ご紹介。

 数ある噺のなかから二百を百席に、百を五十席に絞り込む過程で、一つの発見がありました。それは、やっぱり古典落語は古くない、ということでした。何故かといえば、古典落語は人間の本質(われわれの世界の言葉を遣えば「了見」です)が見事に集約されている。時代が移り変わっても、夫婦や親子の愛情、お金や物への執着など、そう簡単に人間の了見なんて変わるもんじゃありません。NHKの教養番組じゃありませんが、古典落語は人間の本質を笑いのオブラートでくるんで見せる「人間講座」のようなもんです。「人間とは何か、人生とは何かを知りたければ古典落語を聞け」と言いたいくらいです。

 いいでしょ、この権ちゃんの「了見」!

 古くなるが、この本は2009年5月に書いた『青菜』の記事でも引用している。
2009年5月21日のブログ


 こういう文章を読むと、権ちゃんの高座(講座?)、聴きたくなる!
[PR]
by kogotokoubei | 2017-08-11 15:02 | 落語の本 | Comments(2)

e0337777_14560514.jpg

矢野誠一著『落語長屋の商売往来』(文春文庫)

 矢野誠一さんの『落語長屋の商売往来』は2003年文春文庫からの発行されたが、初版は、私が読んでいる白水社から1995年に『落語商売往来』として発行された単行本。
 元は、『小説新潮』に1992年3月号から94年12月号まで連載された「落語国商売往来」である。

 その昔の商売のことや、それを題材とするら落語のネタ、そして、その噺を得意にしていた噺家の思い出などが書かれていて、商いを扱う、飽きない本だ。

 「店構え」「小商い・手職人」「飲物・食物」「遊楽・乗物」の四つの章に分かれ合計34の商売について書かれている。

 「飲物・食物」の章の最後に「鰻屋」がある。

 土用の丑の日は、私は鰻を食べない。
 
 なかでも、この時期に大量に消費される中国産の鰻は、成長ホルモンによる危険性が高いが、それについては、別途書くことにして、国産だろうと、土用の丑の日に私が鰻を食べない理由がある

 鰻を楽しむなら、混んだ店で急いで食べてはいけないのだよ。

 矢野さんの本から引用する。 

 よく「鰻屋でせかすのは野暮」というのは、いい鰻屋は客の注文を受けて初めて鰻を割くため出来あがるまでにたっぷり時間がかかるからである。凝った客になると「魚(うお)を見たい」などと調理場にはいりこみ、床板をあげさせ、文字通りの鰻の寝床をのぞきこみ、あれとこれを焼いてくれと注文をつけたものだ。鰻の御指名だ。『素人鰻』にも、そんな客が出てきて、
「あ、職人もいいが魚もいいや、そこの、ちょっとこう頭を持ちあげましたね、そいつをひとつ上げてみておくんなさい」
 などとやっている。昨今では、鰻を割いて串をうつまでの仕込みをすませておいて、注文をきいてから蒸しにかけるなどはまだ叮嚀なほうで、すでに蒸しあがったものをすぐに焼いて客席に出す店が多いから、ゆっくりと、おこうこうなんかでつなぎながら出来てくるのを待つ楽しみを味わうのも、これでなかなかむずかしい。

 まったくご指摘の通りで、今では、野暮なのは客ばかりではなく鰻屋にも当てはまる。

 丑の日など、ひどい店では先に焼いておいた鰻を、注文の後でレンジでチン、で出すのではなかろうかと疑っている。

 “食文化”、という言葉がある。

 文化人類学者の梅棹忠夫は、「文明は腹の足しになるもの、文化とは心の足しになるもの」という名言を遺した。

 食事は、たしかに腹の足しにもなるから、その面では“文明”的である。
 腹の足しも、もちろん大事だ。
 しかし、食事を、心の足しになる“文化”としても楽しみたいではないか。

 おこうこ、あるいは、骨せんべいなどを肴に、銚子の二、三本で気のおけない友人との会話を楽しみながら、焼き上がるのを待つのが、鰻という食のの楽しみ方なのだ。

 ということなど思いながら本書を読んでいて、こんな文章に出会った。

 『素人鰻』に登場する、神田川の金のことにふれた後の部分だ。

 この神田川の金にはモデルがいたそうだが、晩年の桂文楽からゆかりの明神下神田川の座敷で、何度か鰻をご馳走になったものである。あずけてあるスコッチをお茶で割ってのむのが文楽の流儀で、こちらには無論辛口の酒をすすめる。藝談やら懐古談、ときには猥談までとび出した、いまにして思えばあれは至福のひとときであった。そんな席で、
「近頃、耳がめっきり遠くなりまして」
 とぽつりといったあと、こうつづけたのが忘れられない。
「なに、きこえなくなったってかまやしません。この年齢(とし)ンになりますと、たいていのことはきいてしまって、いまさらどうしてもきかなきゃならないようなことは、ほとんどない」
 そうして、こうもいった。
「きこえなくても、きこえたふりをしてしゃべってますとね、どうしても返事をしなきゃならないときがある。そんなときは『近頃はたいていそうだよ』と、いってやるんです。ほとんどこれで用が足ります」
 すごい老人の知恵だと思う。
 年齢をとると耳が遠くなるのは肉体的に機能も老化するためであろうが、そうではなくて、きくべきことをすべてきいてしまった必然の結果だと考えれば、若いひとたちの会話にはいっていくことができずにいらいらすることもあるまい。「近頃はたいていそうだよ」のひと言でかたがついてしまうというのも、なかなかにうがった老人ならではの感性である。
 結構名の通った鰻屋で、思いもかけない早さで鰻が出てきたときなど、ふと耳もとに、
「近頃はたいていそうだよ」 
 とささやく、なつかしい文楽の声を感じたりするのだ。

 こういう逸話は誰にでも書けるものではない。

 私が矢野さんの本が好きなのも、こういう文章の発見があるからだ。

 文楽の、たいていのことはきいてしまった、という言葉は深く、重い。
 なかなか、そんな境地になれないものだと思う。

 そして、きこえない時でも、「近頃はたいていそうだよ」で、ほとんど用が足りる、という老人の知恵にも驚く。

 文楽が「近頃はたいていそうだよ」という答えで話しに齟齬がないということは、「A」のことが話題になっているが、それは「B」でも「C」でも、他にもあてはまるよ、ということだ。

 本書のこの部分は、『小説新潮』の1994年7月号に掲載されているが、もちろん、矢野さんが文楽との至福の時を過ごしていたのは、昭和40年代前半、1960年代半ばのことと察する。

 しかし、今でも、文楽の知恵とも言える言葉、使えそうだなぁ。


 「可哀そうですねぇ、電通社員の過労死は」→「近頃は~」
 「師匠、ひどいですねぇ、文科省は」→「近頃は~」
 「日本の政治家は、昔に比べて品がなくなりましたねぇ、師匠」→「近頃は~」

 なるほど、そのひと言で、用が足りるなぁ。

 文楽の言葉が示唆するのは、周囲で交わされる会話の内容が貧困であるということなのか、あるいは、企業人や政治家、役人が総じて堕落してきたということなのか・・・・・・。

 閉会中審査の内容に呆れ、政治のことをいったん忘れようと、今年は二日ある土用の丑の日に挟まれた日に鰻関係(?)の本をめくっていて、結局は、こんなことを思っているのだった。

 そんなことでいいんでしょうかね、文楽師匠?

 近頃はたいていそうですよ!

[PR]
by kogotokoubei | 2017-07-27 21:53 | 落語の本 | Comments(0)
 三遊亭小円歌が継ぐ立花家橘之助のことについて、もう少し。

e0337777_10504580.jpg


 橘流初代家元橘右近の『落語裏ばなし』からは、初代立花家橘之助の浮世節の看板の変遷について、記事を書いた。
2017年1月7日のブログ

 右近の友人で橘之助に可愛がられた“横浜の志ん馬”(四代目)が亡くなった後、志ん馬の奥さんから志ん馬に預けられていた浮世節の看板が右近に譲られた。右近はその看板を、後に二代目三亀松を継ぐ初代の弟子亀松に託した、というところまでを前回は紹介した。

 その後に書かれている、初代橘之助の晩年のことや、右近の腕が生かされたことなどについて引用。
 引退興行に、たぬきの色紙を配って高座からおりた師匠は、晩年に結婚した橘ノ円師匠と名古屋の花園町で和やかに暮らしておりました。
 それが、どんな理由か京都に移転して、じきにあの大水害にぶつかったのです。昭和十年六月二十九日、北野神社裏の紙屋川氾濫で崖崩れ、これで両師匠とも亡くなってしまいました。
 お二人の墓石に、立花家橘之助、本名石田美代、行年六十九歳、橘ノ円、本名五十嵐銀次郎、行年六十八歳と書かせてもらいながら、私は志ん馬さんからゆずられた短冊の文をおもいうかべておりました。
   家越した方が今年の恵方かな
 転居祝とした筆は、大師匠円朝。かつて、橘之助師匠が引っ越をしたときに、大師匠が祝って贈ったものでございます。
 その頃は、師匠は朝寝坊むらく師匠(後の三代目円馬)と暮していたはず。へい『當世楽屋雀』によれば大の女房孝行、否その尻に敷かれていると書かれている夫。むらくは、
「姐さん」
 こう、女房をよんでの暮しでございました。いくら女房が稼ぎ人であるとはいえ、さんの字付けは恐れ入る。されば楽屋仲間はむらく師匠を、
「むらくは米国産です」と。
 稼ぎも、人気もありすぎる女芸人のさびしさ辛さも十分知った師匠の一生でございました。お墓は、牛込神楽坂・清隆寺でさァ(巻頭の口絵参照)。

 巻頭の口絵には、その墓の写真が掲載されている。

 紙屋川は、現在では天神川と呼ばれているようだ。 
Wikipedia「天神川」

 三条大橋までが流出した昭和10年の大水害については、京都市消防局のサイトに写真も含め説明されている。
 164人という犠牲者の中に、橘之助夫婦が含まれていたのだ。
京都市消防局サイトの該当ページ

 このたびの九州での大水害のことにも思いが至る。

 自然の脅威には、橘之助も勝つことができなかった。

 なぜ、名古屋から京都に引っ越ししたのか、勉強不足で分からない。

 橘之助にとって、残念ながら、京都は恵方とは言えなかったようだ。
 

 六月二十九日の初代橘之助の祥月命日、小円歌も神楽坂清隆寺で、橘右近が書いた墓石の文字を見つめていたのではなかろうか。

 残念ながら、師匠円歌は、この世で弟子の二代目橘之助襲名を見届けることはできなかったが、きっと初代と一緒に、遠い空の上から見守っているのではなかろうか。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-07-08 13:26 | 落語の本 | Comments(0)
 前の記事で、円生の本から、「噺が箱にはいる」ということや、「未完成の完成」という記述について紹介した。

 いただいたコメントから、弟子が師匠の真似から脱することの難しさということに思いが至った。

 しかし、師匠から継承すべきもの、自分自身の芸として発展させるもの、という問題は、なかなか深い問題を孕んでいると思う。

 そんなことを考え、書棚にある何冊かの本に目を通してみた。

e0337777_20201184.jpg

榎本滋民著『古典落語の力』(ちくまライブラリー)

 榎本滋民さんの『古典落語の力』に、実に示唆に富んだ内容を見つけた。
 章の題が、この記事の題でもある。
 引用する。

伝えるものと創るもの

 落語が古典の名に値するには、伝統の継承と個性の創造という、古典の必要条件を、みたさなければならない。
 まず、規矩がなければ、古典ではない。落語は堅苦しい「型」のない、自由無碍な芸能であると、よくいわれるが、これは、はなはだ誤解されやすいいいかたで、絶対不動の定型こそなけれ、流動性をもつ「型」、無形に近い「型」はあるものであり、それが、芸能をして芸術たらしめる、規矩というものなのである。

 我が意を得たり、という内容。
 
 以前紹介した十代目金原亭馬生に関する本の記事では、馬生が弟子に発した「何でもいいんだよ」という印象的な言葉を紹介した。
2014年9月18日のブログ

 しかし、あくまで、規矩を大事にした上で、何でもいいんであって、「型」をないがしろにしては、それこそ、かたなしだ。
 
 榎本さんの本の続きを紹介。
 実は、この中に、円生の『寄席育ち』からの引用がある。
 規矩を余分な障害と思い、不自由さを劣悪な状態と考えることが、そもそもまちがっている。芸術にとっての規矩は、内燃機関や圧力釜における圧力のように、望ましい爆発や燃焼や噴出を得るために加える、不可欠の手段なのであり、不自由であればこそ、豊かな創造がなされるのである。だから、規矩は守られなければならない。
「初心のうちは師匠の教えてくれたとおりを演るべきもんだと思います。ものまねだと言われても結構、教わったとおりにちゃんとまねをするだけでも容易なことではありません。ましてやそれを本当の自分の芸にするまでには、随分年月がかかります。おのれの力を出せるだけの域に達しなければ、むやみに師匠を離れるべきもんじゃアない」(三遊亭円生『寄席育ち』)
 一方、規矩は、とらわれてはいけないものでもある。
「落語は、教わったとおりに演らなくても良い。従来できているそのまま演るのは死芸であって、咄家の手柄が表われない。他人と違うのが良い」(『四代目柳家小さん・遺稿』)
 これは、前説と矛盾しているようでありながら、決してそうではない。三遊派と柳派の落語観や芸能論の特色は出ているものの、一つの本質を両面からとらえた、二つの正論であり、継承と創造に関する、段階論でもあると、受けとるべきだろう。
 先人の芸はなぞってなぞってなぞり抜けという教えと、師匠の影法師や模型になるなという教えは、どちらも正しい。

 読んでいて、なんとも複雑な思いになった。

 前回の記事にいただいたコメントで、円生の“影法師”と言われた三遊亭好生、その後の春風亭一柳のことを思い出した。
 とにかく、師匠円生が大好きで落語家になった人だ。
 円生を“崇拝”していた、とも表現されている。

 しかし、円生は、高座姿から語り口まで、自分にそっくりな好生の芸を嫌ったと言われる。若い時分の下手だった自分の姿を見ているように思ったらしい。
 
 円生は、榎本さんが引用した著書の文章にあるように、芸の発展途上段階では、“ものまねだと言われても結構”と思っていたのではないのか・・・・・・。

 あるいは、円生が、当時の好生は“おのれの力を出せるだけの域”に達していることを、認めていた、ということか・・・・・・。

 最初の集団真打昇進で好生が真打に昇進しても、披露目に師匠が出ることはなかった。
 結果、昭和53年の円生一門落語協会脱退の際、好生と川柳は落語協会に残った。
 好生は円生とは犬猿の仲の八代目正蔵の門に入り、春風亭一柳と名乗った。
 彼のことは、後日また書くことにしよう。

 
 さて、伝えるもの、そして、創るもの・・・・・・。

 落語という芸の深さをあらためて感じた、榎本さんの文章だった。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-23 21:27 | 落語の本 | Comments(2)
 ある落語愛好家の方から、むかし家今松の『お若伊之助』は、円生版を踏まえていると教えていただいた。
 
e0337777_11125526.jpg

三遊亭圓生著『寄席育ち』(青蛙房)

 そんなこともあって、円生の『寄席育ち』をめくっていた。
 「話しぐせ」という章に、「・・・・・そうしてからに」という口癖を先代(義父)に直されたことや、「尻(けつ)が切れる」(言葉尻がふわふわっと消えてなくなる)のを注意されたことが書かれている。

 その後に、次のような文章が続いていた。

 それから“噺が箱にはいる”ということを言います。あたくしが若い時分、教わったとおり一生懸命に練習して演る。すると、きちィんと一分一厘まちがいなく、言い違いもなく出来るわけです。そのかわり、ひと言何かここへ入れてみようと思っても入れることが出来ない。一つ一つの言葉がきちッとつながっちゃって、何もはいる余裕がないんですね。これを“箱へはいっちまう”といって、伸びる可能性がやや少なくなった状態です。この時も先代(おやじ)に「噺をこわせ、こわせ」と言われる。しかし、こわせってのは、どういうふうにやったらいいんだろうと考えたが、判らない。とにかく言葉が固まっちゃいけないから、もっと自由にしようと思ってやってみたが、なかなか出来ない・・・・・・あんまりきちんと覚えすぎて、自由さってものが少しもないわけです。約五、六年かかりましたね、噺をこわすのに。かちッと固まったものを今度はほごそうとして、出来ないから、新しいものを覚えて、古い噺は演らなくした。それで五、六年たって、やや忘れた時分に古い噺をまた始める。そうすると先(せん)よりは自由になってくる。これは小円蔵あたりから・・・・・・円好の時代までやっていたかもしれません。固まった噺はよして、新しい噺や、いくらかほごれてきた噺をするようにした。それからは噺が固まらないようにという癖がついて、同じに演ろうと思ってもどうしても出来ません。毎回いくらかずつ違う。そのかわり抜こうと思えば抜けるし、入れようと思えば入れられるし、言い方を変えてみることも出来る。もちろん、それがあたりまえのことで、時間の延び縮みが自由に出来なければ商売人じゃアありません。そのかわりあたくしの噺は、疵がずいぶん多い。言い間違いがあったり、はッとつかえたりすることもある。しかし芸はとにかく固まっちゃいけないと思います。芸は少しでも動いている間は伸びる可能性があります。全然動かなくなって、水でいえば溜り水になるのが一番いけません。少しずつでも流れていれば、いくらかでも先に行けるわけですから。

 なかなか深い話だ。

 “箱にはいった”噺は、考えようによっては、実に演りやすい噺で、“箱”ではなく“十八番(おはこ)”に近いかもしれない。

 しかし、成長途上の時に、得意ネタが固まらないように、あえてしばらく置いておく。
 なかなか出来ることではないだろうが、現代の噺家さん達にとっても、含蓄のある忠告だと思う。

 義父であった五代目円生が、六代目にとって実に得難い師匠であったことが、この本を読むと分かる。

 この文章の後も、ご紹介。

 芸はなにによらず、完成してしまうと面白味がなくなるといいます。もう少しで完成するんだが・・・・・・という、そこに興味がある。“未完成の完成”という、これは伊東深水先生からうかがった言葉ですが、あたくしは生涯未完成でありたいと思います。未完成でしかも完成した芸に、人も自分もまだ先の望みのある芸になりたいと思います。

 本書の初版は昭和四十(1965)年。
 明治三十三(1900)年生まれの円生が六十五歳の時。
 
 その頃に「生涯未完成でありたい」と言っていた円生。

 私は、かつて円生が苦手だった。
 一つは、八代目正蔵が好きだったので、その敵(?)が好きになれなかった、ということもある。
 また、その人柄について、あまり好ましくないことも本などで知ることが多かった。

 しかし、今は、そういった先入観を払拭しつつある。
 音源を聴くと、やはり、巧いと思う。

 たとえば、『包丁』。
 談志が談春のこの噺をべた褒めしたようだ。
 私は新文芸坐で聴いている。たしかに、悪くはない。
 しかし、円生の音源とは、比べようがない。
 当り前だが、小唄一つとっても、まったく芸の深さが違う。
 
 あらためて円生という人を見直す文章を読んで、もっとあの人の音源を聴かなきゃ、と思うのであった。
 
[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-20 12:51 | 落語の本 | Comments(4)
e0337777_11114790.jpg

佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)
 前の記事で引用した佐藤光房著『合本 東京落語地図』からは、多くのことを学んでいる。

 今月初めて聴くことのできた立川ぜん馬。
 そのネタ『唖の釣り』の章で、この噺の舞台である不忍池には、埋め立てされる危機があったこと、そして、その危機から救った人たちがいたことを知った。

 引用する。
 戦後間もないころ、先代三遊亭金馬(昭和39年没)が『目黒のさんま』のまくらで「銀座の真ん中でカボチャができましたり、不忍池で稲刈りが始まりました世の中です」といっていた。昭和21年、浅草千束国民学校の戦災者救済会が、都公園緑地課と掛け合って弁天堂の南側六町歩を干拓、三年のあいだ米を作り、上野田んぼといわれた、と当時の新聞にある。

 一町歩は約3000坪だから、六町歩は・・・結構広いと言えるかな。
 引用を続ける。
 上野田んぼの計画には、先例があった。明治三年、池を埋め立てて水田にする計画が許可された。これを知って怒ったのが、池之端に住む亀谷省軒という詩人。悲憤の詩を作って、維新の功臣、五百円札の岩倉具視の執事山本復一に見せた。山本を通じてこのことを知った岩倉は、埋め立て計画を撤回させた。亀谷はのちに岩倉の徳をたたえる詩を作った、と『東京市史稿』にある。
 岩倉具視の五百円札、懐かしい。
 しかし、岩倉については、孝明天皇の暗殺犯人の首謀者と思っているので、あまり良い印象はない。
 とはいえ、市民の声に耳を向け、不忍池を守ったことについては、評価しなくてはいけないだろう。

 国民の声を無視して、やりたい放題のどこかの国の政府に比べれば、まだ、政治家がまっとうな時代の話。

 さて、話はまだ続く。
 昭和二十四年、埋め立て計画が再燃した。後楽園スタヂアムなど四団体が野球場を、一団体が遊園地づくりを計画し、計五つの請願が都に出された。公聴会が開かれたり、都議会建設委で球場建設の請願がいったん許可されるなど、危うく実現するところだった。
 結局は池を残せという世論が勝ったのだが、それにはひとつの面白い裏話があった。球場建設を計画した四団体のうちで最も有力だった「国際球場建設委員会」の代表、中島久万吉は、戦前に商工大臣を務めた財界人、ところがその夫人が、明治の埋め立てを阻んだ岩倉具視の孫だったのだ。「せっかく祖父が残したものを、孫の婿が埋めるのか」と攻撃されては、なんとも具合が悪かった。
 弁天島参道の天竜橋際にある「不忍池由来碑」の裏面には、天海僧正から上野田んぼは、野球場計画までの歴史が刻まれている。

 不忍池は、祖父と孫の岩倉具視一族によって守られてきたということか。

 どこかの政治家は、どうも悪い方向に祖父の血を継承しているが・・・・・・。

 近いうちに、不忍池と根岸に、どうしても行きたくなった。

 落語を素材に、いろんな史跡や歴史を知ることも、私の大きな楽しみの一つである。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-17 10:41 | 落語の本 | Comments(0)
e0337777_12591284.jpg

立川談四楼著『シャレのち曇り』

 さて、後半。
 立川談四楼著『シャレのち曇り』の「第一章 屈折十三年」から、昭和五十八年五月に行われた落語協会の真打昇進試験で、立川小談志と談四楼が落された後のお話。

 談志は二軒の家を持っている。一軒は新宿柏木のマンションで、そこに家族を住まわせ、もう一軒は練馬の一戸建、来客用、書斎として使っている。談四楼が小談志とともに午前十一時、その練馬の方の家へ行くと、居間には四人の知った顔の女がいた。ブレーンとも言うべきか取り巻きと言うべきか、正確にはそこにいたのは三人で、一人はなぜかトイレで寝ていた。三遊亭楽太郎の女房であった。前夜、宴会があったのは明らかで、男達は皆帰ったと言う。
「師匠は」ときくと、中の一人が、
「二階で寝(やす)んでる。二時には出かけると言ってたから、十二時に起こすことになってんの」と、張れぼったい顔をこちらへ向けた。
 昼少し前、「どしたい」と談志が顔を出した。思ったよりさっぱりした顔付きだった。
 談四楼と小談志は逆に、女友達と同じような顔をしていたはずで、重度の宿酔のように青白く、しかも強張っていた。
「師匠、申し訳ございません。揃って試験に落ちました」
 思わず目をつむった。案の定、
「何ィ、もういっぺん言ってみろ」
 殴られた記憶はないが、この時ばかりは覚悟した。談志は、声の調子を落とした。
「そんな筈はねえだろうよ。それが証拠にゆンべ、三平さんとこの源平が受かりましたと報告に来て、パーティに出てくれとかなんとか、大はしゃぎして帰ったぞ。じゃあなにか、てめえ達の方が源平よりマズイってことか、俺の弟子が三平の弟子よりマズイのか、そんなバカなことがあってたまるか」
 談志は興奮してきた様子で、急に声を張り上げると受話器に飛びついた。
「俺だ、渡辺を出せ」

 前回も登場した“渡辺”とは、落語協会の事務局長を務めた人。
 2001年の9月に亡くなっている。志ん朝が旅立つ少し前。

 さて、その後どうなったのか。

 電話をかけた先は落語協会事務所で、談志だ、と名乗らずともそれが誰かを察したようだった。渡辺は留守だった。談志は受話器を叩きつけた。ポケットベルでも使用しているのか、電話はすぐにかかってきた。
「いいかよくきけ、二度とは言わねえぞ。小さんに電話させろ、他の理事でも誰でもいい、うちの弟子が落ちた理由を明確に述べろ。もしそれが納得できなかったら、俺にも考えがあるぞ」
 談志は、ドスの効いた声で捲し立てた。
 更に数人の理事の名前を出し、即刻理事をやめさせろと続けた。
 話を終えた談志の顔には、皮肉な笑いが浮かんでいた。
「ナベが俺に何と言ったと思う」
 両名怪訝な顔をすると、
「そのまま小さん師匠にお伝えしてもよろしいんでございましょうかだとよ。呆れ返(けえ)った大馬鹿野郎だ」
 実際、この渡辺という男、血も涙もない丸太ン棒である。
 試験が済んだその目白(小さん)宅で、結果はいつ発表になるのか、どういう方法で発表するのかという二ツ目の問いに、
「存じません、あたくしは何も知らされておりません」の、一点張り。何も知らない筈の男がその晩、受かった四人にオメデトウと電話を入れ、落ちた六人には知らせなかったのだ。

 談志の怒りの凄さが分かる。
 さて、この後、事態はどうなっていったのか。

 後日の話になるが、二日目も三日目も梨の礫だった。五日ほど経ってようやく一通の茶封筒が届いた。中身は事務用の横書きの便箋が一枚で、
『先日の審査会の結果、下記の四名の方が、合格致しました。なお、本年秋に審査会を催します。日程等につきましては、あらためてご連絡致します。社団法人落語協会』
 とあった。その下に合格者四人の名が連ねてあり、「以上」としてあった。おつかれさまでしたでもなければ、ごくろうさまでもない、ただそれっきりの紙っぺらだった。せめて、『サクラチル』ぐらいはあってもよい。ま、ほんとにあったら喧嘩になること必定であるが。
「なお、本年秋に審査会を催します」というのは追試験のことである。誰が受けるかそんなもン、この大馬鹿野郎。
 試験の結果について、ある事情通はこう言い切った。
「会長の弟子小里ん、副会長の弟子花蝶、三平門下三人のうちの総領弟子源平、それに抜擢の正雀、以上四人ゴウカーク」
 鋭い見方をすると思ったが、それはいかにも協会幹部の考えそうなことだった。

 この“茶封筒”“事務用便箋”の“紙っぺら”と、その内容には、何らそれを受け取る相手への気遣いが感じられない。
 どこか、改悪された今の落語協会ホームページの味気なさにも似たものがあるように思う。事務方が“丸太ん棒”である、ということだ。
 ともかく、正式に(?)不合格が伝えられたのだ。
 文中の“ある事情通”が誰かは分からないが、たしかに、政治的な力が働いているとしか思えない結果である。
 この後、談志の協会への電話の後のことに、話は戻るが、印象的な談志の長科白がある。

 渡辺との電話を切り、そこで女達のいれたお茶をひと口啜った談志は、とうとう、
「よくやった、でかした」とまで言い出した。
 ぶん殴るられるかと思っていただけに、その展開は意外だった。
 オレ達のせいで談志の名を汚した。二人の背中に押された、ヘタクソ印の大きなスタンプ。「弟子も満足に育てられないのか」という談志に対する世間の集中砲火。次から次に押し寄せる悪い連想。
 談四楼と小談志は、物事を悪い方にとるという小心な体質を有していた。申し訳なさで、その胸は張り裂けんばかりであったのだ。
「よオしこいこい、面白くなってきゃあった。やりゃあったねあいつら、いつかこういうことになんのはわかってた。よし、俺は協会を出るぞ。どうする、ついてくるか。ま、俺が出ても彼奴(きゃつ)らにはまだわからんだろうがな。しかし、危機感を持っている者には何らかのインパクトは与えるだろう。落語界を活性化させる為にも、出なきゃしゃねえだろ。喜ぶ奴がいやぁんだろうな、うるせい奴がいなくなったてんで、目に浮かぶねまったく。
 俺がいなくなっても、協会はしばらくは保(も)つだろう。だが、いずれ滅びる、これは言える。俺の改革案ひとつも取り上げねえんだ、そらまあ見事なもんだ。
 こないだ言ってやったんだ師匠に、このまんまじゃ保たねえと。したら小さん何てったと思う。後のことなんぞ俺は知らねえってんだ。わかるかこの意味。つまり俺が死ぬまで保ちゃいいってんだ。無責任と片づけるのは楽だが、小さんにしてもそういう状態に追いこまれてんだ。仮に後のことはおまえに任せると、とりあえず俺が言われたとしようか。断わるね、まっぴらだね、束ねていく自信がねえもん。現状はお手上げだ。言っとくが円歌や金馬じゃもたねえぞ。志ん朝でも無理だろう。な、そんなとこにいる理由がねえだろ。だから出ると、こういうこった。
 小さんは俺の師匠だ。誰が何と言ってもそうだ。だがな、今、俺と小さんの間にあるのは、師弟、すなわち親子という血の繋がりだけなんだ。芸、つまり落語に関する接点は最早ない。心配するな、そこは俺が何とかする。快楽の代償は高いというわけだ。おまえ達二人の為に出るんじゃねえぞ、勘違いするな。いいキッカケなんだおもえ達の一件は、いいか、試験に落とされたからってペコペコ卑屈になるんじゃねえぞ、胸張って堂々と歩け、落された、陰謀で落されたって大騒ぎしろ、方々行って喋りまくれ。こんなもん、受かった方がみっともないってぐらいのもんだ。よし、ビールでも抜けや」
 談志は、出かけるのをやめて、両名に檄をとばした。
「これは面白い、是非出るべきよ」
「あたしもそう思う、賛成だわ」
「ねえ、それ脱退ということでしょ。カッコイイー」
 女達は、自分のことではないので気軽に言いたいことを言ったが、悪い気はしなかった。

 談志の長科白は文字にして約800字、原稿用紙二枚分。

 談四楼の記憶と若干の創作によるものだろうが、あの試験結果への談志の思い、そして落語協会脱退、立川流創設の理由や背景は、この800字にほぼ込められていると思う。

 それにしても、あの場にいた女性陣、楽太郎の奥さん以外は、どんな顔ぶれだったのか・・・・・・。
 ま、それはいいか^^

 昭和五十八年の真打昇進試験についての記事ということでは、これにてお開き。
 とはいえ、本書『シャレのち曇り』からは、今後もご紹介する機会があるだろう。

 さて、今日は休みととったので、これから落語協会の寄席に行くつもりだ。

 あの時、談志が「このまんまじゃ保たねえと」と言った状況から、30年余り経った。

 志ん朝も談志当人も、今はいない。

 しかし、なんとか保ってきたその現場を見に行くことにしよう。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-07 09:32 | 落語の本 | Comments(2)
 ここしばらくの間、落語家でニュースを賑わわせるのは、歌丸と小朝の二人かもしれない。

 先週三日の土曜日、小朝との二人会で相模大野駅近くにある相模女子大グリーンホールに顔を出すはずだった歌丸が、残念ながら何度目かの入院で出演できなかったとのこと。

 また、小朝は、元妻による“訴えてやる”という会見で、注目を浴びている。

 真相は知らないし知りたくもないが、小朝は高座でこの件を語るはずもないだろう。

 落語に疎い若い人は、小朝という人を、泰葉が言うところの“金髪○野郎”の落語家、というイメージしかないかもしれないなぁ。

 私と同年齢のあの人、凄い時もあったのですよ。

 その小朝が、三十六人抜きで真打昇進した頃のお話。

e0337777_12591284.jpg

立川談四楼著『シャレのち曇り』

 立川談四楼の『シャレのち曇り』は、処女作『屈折十三年』を含む、彼の半生記とも言える本だが、初版が1990年発行の文芸春秋の単行本、その後私が読んだ講談社ランダムハウス文庫での発行が2008年、そして昨年、PHP学芸文庫の仲間入りをした。

 小説として“虚実皮膜”の部分もあるが、なかなか興味深い内容が詰まっている。

 立川流の創立につながる談四楼と兄弟子小談志の真打昇進試験落第のいきさつについて、本書の「第一章 屈折十三年」からご紹介。

 まず、談四楼が受ける前の真打昇進試験のことから。

 結果として、小朝のことにもふれることになる。

 昭和五十五年は五月に春風亭小朝が真打になり、『小朝旋風』が吹き荒れた年である。第一回目の真打昇進試験は、その風のいよいよ強い十一月に行われた。
 古いということが基準の受験資格者二十名のうち、「試験なんて野暮のキワミでございます」と四人が辞退し、残り十六名から五人が落されるという結果になった。
『何と、あの落語界に試験制度!』と、スポーツ紙の芸能欄ばかりでなく、一般紙も社会面で驚いたという真打昇進試験。
 小朝は三十六人抜きであるから、対象となった二十人は当然その中に入り、抜かれた挙句に落とされるという者が出たのである。抜かれることは仕方がないと納得はしても、
「オデキの上を針で突っつきやがった」
「首くくりの足を引っぱるような真似をしやがって」という、五人の落とされ組の捨て科白は、あえて軽い口調で発せられたものの、後に続く二ツ目達には、他人事ではなく響いたのである。
「どうだ、オレ達が仕掛け、世に送り出した小朝の売れ方を見ろ。しかも我々はそれに浮かれることなく、有史以来の試み、真打昇進試験をこれだけ厳しい形で実施したんだ。どうだ、どうだ、落語協会ってなァちゃんとしたところだろう」
 落語協会は、スタア小朝の後押しを、見識、定見という形で世に示し、記者団に囲まれ相好を崩した。記者会見の席上に連なる幹部達のなんと手柄顔であることか。
 あとは、ちゃんとしていることの何よりの証明、試験で真打を誕生させていること、だけが世間に伝わればよい。故に第二回目の試験は昭和五十七年に実施され、十人が受験し全員合格となったのである。つまり試験は、ここでハッキリ形式だけということになった。
 各寄席における披露目も、十日興業のうちの一日だけ務めればよく、客席は上野鈴本演芸場、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、と都内に四軒であるから合計高座は四日間だけ。
 金銭面での負担は、単独でなった真打のそれより遥かに軽く、十人の人柄も手伝って楽屋には、御馳走になろうという後輩たちが大挙して押しかけ、あふれた。
 小朝の評価は、とにかく高かった。
 三十六人抜きは、偶然にも志ん朝と同じ。

 昭和五十三年のNHK新人落語コンクール、小朝は『稽古屋』、さん光時代の権太楼は『反対俥』で臨んだ。
 以前、当時の模様を権太楼の著作から紹介したことがある。
2014年11月5日のブログ

 権太楼は、こう書いている。
 現場では「俺のほうが・・・・・・」と思ってましたよ。これはねえ、偽らざる心境。「ここでもって、俺がとらなかったら、おかしいだろう。こいつら相手にして」というぐらいに思ってたんですよ。
 ところが、その録画が放送されたときに、すーっと見るわけじゃないですか全員のを、たしか江ノ島で見たんですよ、仕事で行ってて。「きょう放送があるから見たいな」つって。
 で、見たら「あ、俺が審査員でも、小朝です」って思ったの。あとで冷静に見たら「この人、うまいわ。また、ちゃんといい構成を持ってきてる」ってね。
 私もテレビで観て、そう思ったことを思い出す。

 小朝の絶頂期は、平成二年に、博品館で一ヶ月の独演会を開催した頃ではなかろうか。

 小朝の抜擢昇進した年、昭和五十五年の第一回試験については、以前に雲助の本から紹介した。
2014年7月21日のブログ

 雲助は、その頃に届いた受験案内を“赤紙”と呼んでいたと明かしている。

 さて、談四楼にも赤紙が届いたものの、“形式だけ”とタカをくくっていた第三回目の真打昇進試験のこと。時は昭和五十八年の五月。

 第三回真打昇進試験の当日、五月十日午前十一時三十分、二ツ目は目白駅近くの柳家小さん宅に集合した。
 前日、年功順で林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵、蝶花楼馬楽の五人が受験し、今日は今回唯一の 抜擢、十三人を飛び越えて受験資格を得た林家正雀を含む、立川小談志、真田家六の輔、林家らぶ平、それに談四楼の五人である。

 ここで、補足しておくが、談四楼と一緒に受験した中の一人、真田家六の輔は、実際の名を替えている。
 
 談四楼の『談志が死んだ』では、還暦記念落語会に入門同期を呼ぶ話があって、実際の名跡で登場している。

 単行本を平成二年に発行する時点では、著者がその本当の名跡を明かすことが憚れた、ということだろうか。

 私も、六の輔のままにしておくが、落語愛好家の皆さんなら察することはできるはず。

 引用を続ける。

 小さんの道場では、抜擢の正雀を除いて、それぞれが非常に良い感触を得た。
 審査員は、小さん、馬楽、円歌、さん助、円菊、小三治、扇橋、円窓の八人で、志ん朝、談志、六朝、円蔵などの人気幹部は欠席だった。さん助は、これから審査の集計という段になって、寄席(しごと)があるからと帰ってしまった。誰かに意見を託したという様子もなく、不思議な人だ。
 談四楼は『岸柳島』を演じて、上手い、達者だ、描写力に優れている、情景が目に浮かぶ、人間も描けている、末が楽しみだ、と賞められた。
 理事達は胡坐をかき、煙草をくゆらせながらそれを言う。そして二ツ目は、正座のまま、汗を拭き拭き礼を述べる。
 らぶ平などは賞めちぎられた挙句、イイ男だ、とまで言われた。あまり賞められるので舞い上がり、高座から審査員に「それほどでもないでしょ」と言ってしまったほどである。

 こういう状態であったから、談四楼たち五人は上機嫌で、蕎麦屋(あの「翁」)で打ち上げをした。
 正雀だけが、沈んでいた。
 その後、思わぬ展開が待ち受けていた。

 翌日談四楼は、らぶ平からの電話で目を醒ました。午前九時だった。
「シャレんならねえよ、落っこちだよ、落っこち」
 らぶ平の声は普段の陽気さはどこへやら、沈みきったものだった。
「確かな話か、誰かから連絡があったのか」
 追及すると、協会事務局長といってよい渡辺が、らぶ平の兄弟子林家こん平に情報を漏らし、彼からきいたものだと言う。
「ほぼ間違いないと思うよ。現に受かった人のところへは連絡がいってんだから」
「誰から」
「渡辺から」
 なぜオレ達には連絡がないのか、それは事務局として当然の仕事ではないのか、基本ではないのか、ええっ、違うからぶ平。
「知らないよ、そんなこと」 
 らぶ平の情報は正確だった。十人中、受かったのは源平、小里ん、花蝶、正雀の四人で、種平、上蔵、小談志、六の輔、らぶ平、談四楼と、何と六人が落された。そう、落されたのだ。
 青天の霹靂と言ってよい。根拠がない。その基準がまるでわからない。明らかに首を傾げたくなる結果、人選であった。

 さて、この後、最終的には談志一門が落語協会を脱退することになるまでのお話は、次回ということで、前半はここでお開き。

 惜しい、切れ場だ^^

[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-06 08:48 | 落語の本 | Comments(2)
 日曜日の立川流落語会で、当代の小談志の高座(『お菊の皿』)を聴いた。

 この名では、どうしても先代の小談志を思い出してしまう。

 談四楼と一緒に真打昇進試験に不合格となり、昭和58年の立川流創設につながったのが、先代の小談志。

 立川流を辞めて、落語協会で喜久亭寿楽と名を替え、亡くなった。

 落語協会のホームページの物故者の欄に、プロフィールがある。
落語協会ホームページ「芸人紹介」の該当ページ
 
1969(昭和44)年 入門
1972(昭和47)年 前座となる
1975(昭和50)年 二ツ目昇進
1984(昭和59)年 真打昇進
1992(平成 4)年 談志門下より馬風門下へ
2008(平成20)年8月17日 肝硬変の為、死去

 昭和59年の「真打昇進」は、あくまで立川流の真打だが、そう書かれていないのが、落語協会らしさ^^

e0337777_10175456.jpg

立川談四楼著『談志が死んだ』(新潮文庫)
 
 談四楼の『談志が死んだ』から、先代の小談志に関わる逸話を、ご紹介したい。

 談志が亡くなった後の談四楼たち弟子数名が集まっての会話。
 談志のお嬢さん(弓ちゃん)が入院したことがあり、談志は「見舞いにゃ及ばん」と言っていたのに、抜け駆けした者がいて、結局、談志は、他の弟子に「なぜ見舞いに来ない」と激怒。「今日来ていないヤツは倍付けの罰金だ」と言い出した騒動のことから、快楽亭ブラックの話題になり、一堂大笑いになった後の場面。

 その笑いが収まった時、談幸がボソリと言った。
「あの後ですよね、小談志兄さんが辞めたのは」
 一瞬、尻が浮いた。そう、その名が出てこないのでヘソを曲げていたのだが、まさかこんな形で出るなんて。何だって談幸、あの弓ちゃん事件の後に小談志兄さんが辞めたって?それは本当か。
「ええ、よく覚えてます。だいぶヘコんでましたからねえ」
 まさか、小談志は罰金くらいでヘコむ男じゃない。家はあるし、扶養するのはおっかさん一人だし、兄貴だっているんだ。違う。弓ちゃんの件はあくまできっかけであって、カネを取られたから辞めたんじゃない。
「あいつの手が治った時はホッとしたよな」
 おお、左談次の助け船だ、ありがたい。そう、あれは一門の喜びだった。手の皮膚炎のことで談志からやいのやいの言われることはなくなったのだから。あれはまだ真打になる前、二ツ目の頃だった。
「確か草津で治したんだよな」
 左談次の問いを私が引き取った。
「そうです。あるお客さんが見かねて、上州は草津の温泉旅館を紹介したんです。昼は湯治で夜は宴会の余興、それを繰り返すこと一ヶ月、手をすっかり治し、おまけにギャラまでもらって帰ってきたんです」
「効いたわけだな、草津の湯が」
「効きますとも。『草津よいとこ薬の温泉(いでゆ)』ってくらいのもん」
「また始まりゃがったな、『上毛かるた』が」
「まだありますよ。『伊香保温泉日本の名湯』『世のちり洗う四万温泉』・・・・・・」
「うるせいよ、群馬ヤロー」
「ずいぶんネチネチやられてましたもんね」
 と再び談幸。
「何の話?」
「小談志兄さんです。あの試験の後、師匠は小さん師匠に電話したらしいんです。で、小さん師匠が、談四楼はともかく小談志はヒドいって」
「待てよ、ヒドいのは他にもっといたぜ。悪く見てもあの兄さんは中の上だよ」
「でも師匠はそれを信じたんです。脱退は決意したものの、まだあの時は小さんとは師弟でしたから」

 これで、小談志という噺家の輪郭が、ぼんやりではあるが、浮かんでくるのではなかろうか。

 そして、このやりとりで、談四楼は、ある光景を思い出す。
 ふいに有楽町は芸術座での光景が脳裏に浮かんだ。
「芸術座で小談志兄さんと披露目をやったんだけど・・・・・・」
「ああ、あそこな。建て替えで東宝名人会がなくなって、確か芸術座で月イチかなんかの興行を打ったんだよな。オレも披露目やったからよく覚えてるよ。目茶苦茶キップ売らされてギャラは雀の涙、あの疲れ方だけはよく覚えてる」
 そうだ、それは兄弟子である左談次も通った道なのだ。芸術座のシステムは立川流となっても変わらず、数十万円のチケットを売り歩き、支払い、差額の一万数千円をもらったのだ。小談志と二人、打ち上げの店の支払いを済ませると、その出費総額のあまりの多さに呆然としたっけ。
 いや、唐突に思い出したのはその光景ではない。芸術座の袖だ。下手だ。色川武大先生がそこにいた。私が一席やって仲入り、そのあと口上があって、トリの小談志が高座にいた。色川先生の隣りにシルエット、あ、あれは談志だ。色川先生と談志は口上に並び、色川先生からは身に余る言葉をいただいた。先生と談志は着換えを済ませ、舞台の袖から小談志の高座に目を向けていた。
 私もまた着換えを済ませ、小談志の高座を見届けるべく、下手の袖へと近づいてゆく。色川先生は立って腕を組み、聞き入っていた。談志が話しかけ、色川先生が目を見開いた。ああ、なぜ私はこの肝心なシーンを封印していたのだろう。談志は言った。
「先生、聞かなくていいですよ、こいつの高座。これは私の失敗作ですから」
 立川流の顧問になって、まだ間もない色川先生だった。
 (中 略)
 いつもは眼半眼の体の先生の目が、この時ばかりはカッと見開かれた。そして言ったのだ。
「談志クン、お弟子さんのことをそんな風に言うもんじゃないよ。いいお弟子さんじゃないか。楽屋で見ていてもわかる。キミへの敬意があふれてるよ。いや、それは確かに少し大間かもしれない。時流とのテンポが合わないのもわかる。でも昔はもっと大間の人がたくさんいたんだよ。それはキミも知ってるはずじゃないか」。
 談志は黙って聞いていた。私は気配を消して固唾を飲んで二人を見つめていた。


 以前紹介した高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」の立川談志の章に、次のようなことが書かれていた。
 
 残したお言葉数あれど、最高なのが、
「馬鹿は火事より恐い」
 他にも、
「銭湯は裏切らない」
「人生、成り行き」
「親切だけが人を納得させる」
 尊敬する人は「手塚治虫」「森繁久弥」「色川武大」。

 尊敬した色川武大の言葉を、談志はどう腹に収めたのだろうか。
 
 談志と小談志の間には、談四楼が知らなかったどんな事件や会話があったのか、二人ともいない今では、知る術はない。

 

 談四楼の本には、喜久亭寿楽として亡くなった先代小談志の横浜で行われた通夜のことが書かれている。
 少し早く着いたようだ。次第に落語家の数が増え、立川流の兄弟子や弟弟子もやってきた。
「急だな。脳溢血か?」
「心臓って聞いたけど」
「そうか、いくつだった?」
「五十を出たばかりじゃねえか」
「若ェな」
「うん、若過ぎる」
 落語協会の者同士がそんなことを言っている。出鱈目ばかりだ。心臓じゃない、肝臓だ。五十を出たばかりときた。五十六だ、よく覚えとけ。こいつら、関心もないのか。兄さんよ、なんでこんなヤツらのいる協会なんかに・・・・・・。
 ライオンズ協会の法被を着ている人が異様に多い。そうか、兄さんはクラブ活動と称し、ライオンズクラブにけっこう打ち込んでいたんだっけ。それにしても、受付、案内役と彼らの活躍ぶりは目ざましく、所属する横浜のみならず、神奈川、いや全国からやってきているのだ。かつての私の兄弟子のために。
 読経の中、焼香がすむと、法被の人が通夜振る舞いの席に案内してくれた。相当数の落語家の出席が見込まれ、一般客とは別に専用の部屋が設けられたらしい。漫才など色物の芸人もいる。
 兄弟子の左談次と二人、落語協会会長の鈴々舎馬風夫婦に挨拶する。
「この度はどうも・・・・・・」
「おう、よく来てくれたな。これからという時に残念だよ」
 この人に引き取られ、喜久亭寿楽という名で死んだのだ、立川小談志は。

 残念ながら、立川小談志、そして、喜久亭寿楽の高座を聴く機会はなかった。

 その小談志という名を継いだ当代の高座にはご縁があった。

 また、ぜん馬、談四楼なども初めて聴くことができた。

 いろいろ野暮用もあり、数年前に比べて寄席や落語会に行く回数は減ったが、できるだけまだ聴いていない人の高座に出会いたい、と思っている。

 日曜の立川流落語会に初めて行って、どうしても、先代の小談志のことを書きたくなった次第。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-05-31 21:36 | 落語の本 | Comments(2)
 先週末のテニス合宿、宴会の余興で『鈴ヶ森』と『野ざらし』をご披露したのだが、合宿前に落語愛好家仲間である佐平次さんのブログで目にした小三治の言葉が、実にタイミングの良い助言となった。

 佐平次さんの「梟通信~ホンの戯言」の5月6日の記事で目にした、ある本からの引用だった。
「梟通信~ホンの戯言」の該当記事

e0337777_13204558.jpg

『落語の愉しみ』(岩波書店「落語の世界」第一巻)

 佐平次さんの記事を読んで、引用されていた本『落語の愉しみ』を私は読み返した。
 岩波書店「落語の世界」全三巻の第一巻に掲載されている柳家小三治へのインタビューは、聞き手が大友浩さんで、時期は2003年1月。

 あらためて小三治の言葉を確認しよう。

ー落語は、口調でトントンと運んでいくものではなく、人物をそこに浮き立たせるように演ずるのが本寸法だというお考えをお持ちでしょう。
小三治 そんなことはありません。人物を描くってことは、不可欠です。だけど、ぽんぽんしゃべっていくことが人物を表さないことにはならない。
ーああ、なるほど。
小三治 そういう基本的なことに心をとめて探究しようという姿勢をあまり感じないというか、そういうことに気がついてるんだろうかと・・・・・・。『二ツ目勉強会』へ行っても、わたしはいつも同じことしか言わないんですよ。
 それは、「そこにいる人に向かって話しかけろ」ということですね。ご隠居さんと八っつぁんの会話なら、ご隠居さんは八っつぁんに向かって話しかけろ、ということです。それがどうも、客席全体に向かって話しかけている人が多い。これでは人物は出てこない。
 (中 略)
 人物が出るってことは、年齢や職業ということは当たり前ですけれども、それに加えて、距離感、空気感のようなものが出ないと・・・・・・。
 それは技術ではないんですよ。心にそういうことを思ってしゃべれば、自然と表に出てきて、お客さんにそれが伝わるんです。速くしゃべろうと、遅くしゃべろうと、そういう気持ちがあればお客さんに伝わるんですよ。 
 お客さんに向かってひけらかすのではなくて、自分に向かって表現する。すると、その姿がお客さんに見えてきて、お客さんが舞台を覗き込むようになるんですね。
 まあ、いろんな芸の形があっていいんでしょうけれども、あまりにも客席にぶつけるようにして笑わせるというのは、一人でやってる漫才あるいは漫談と同じようなものになってしまう。わたしだって、マクラをしゃべるときはお客さんの興味を喚起するようにもっていきます。だけど、(登場)人物と人物でドラマをつくっていくときには、舞台の上に世界をつくって、それに対してお客さんが首をぬーっと伸ばしたくなる、というのが理想だと思ってるんです。

 この小三治の言葉で、「ハッ」とした。

 これまで、宴会の余興で、自分の落語は誰に向かって語っていただろうか・・・・・・。
 聴いているお客さん(仲間)に向かっていて、笑いを取ろうとばかり思っていなかっただろうか・・・・・・。

 このインタビュー記事では、もう一つ印象的な小三治の言葉がある。

ー師匠が「そこにいる人に向かって話しかけろ」ということをお考えになったのはいつ頃からですか?例えば前座さんの頃からとか・・・・・・。
小三治 入ったときは、そんなことは考えませんねェ。はっきり覚えてないです。噺の稽古っていうのは、昔から「三遍稽古」といって、初日に師匠にやってもらい、「ありがとうございました」って帰って、二日目にまたやってもらう。三日目に行くときは、教わる者が師匠の前で演じる。それでああだこうだ言われて、その後また師匠がやってくれるというのが原則らしいんです。わたしはいっぺんもそういう稽古はありませんでしたけど、そういうことを頭に入れて「本当はそうなんだよな」と思いながらやっていました。
 入って何カ月ですかねェ、今の(柳家)つば女と、もう一人ほとんど同期の三人がいっぺんに『道灌』を師匠の前でやることになったんです。一人目がやり終えると、師匠が何かいうわけですよ。二人目、何かいう。三人目がわたしだったんです。
 途中までやったらね、「もういいよ、お前。今までやったの聞いてたんだろ」(笑)。
 そのときだったか、あるいは別の機会だったかよく覚えていないんですが、当然、隠居さんは隠居さんらしくやらなきゃいけないということは知っています。隠居さんらしくといても、年をとってなきゃいけないというぐらいしか頭にないんんですよ。おじいさんなんだろうと。そこへ来る八っつぁんは、若い者で威勢がいいと。そのぐらいのつもりで始めたわけです。
 隠居さんと八っつぁんは、その時点でわたしは見事に演じたと思いましたよ。隠居さんは隠居さんらしく、八っつぁんは、職人のべらんめい口調で、威勢よくぽんぽんと。
 そこですごいことを言われたんです。本当に雷に打たれたっていうのは、あのことですね。
「お前の隠居さんと八っつぁんは、仲が良くねェな」。
 これはねェ、大ショックでしたねェ。「うわァ、すごいッ」と思いましたよ。
 年をとってるのと若いのとだけをやれば噺ができるわけじゃない、ってことですよ。二人はどういうつながりで、どういう付き合い方をしてきたのか・・・・・・。そこから後は、自分で考えろ、ですよ。放っとかれますから。徹底的に放っとくんです。怖いでしょう、放っとかれたら。

 凄いね、五代目小さんの言葉。

 小三治の『道灌』では、2013年9月の、県民ホール寄席第300回記念の高座を思い出す。
2013年9月26日のブログ

 あのご隠居と八っつぁんは、実に仲良しだったなぁ^^


 先週土曜の夜、昼のビールに夕食のワインと日本酒が加わって、話せるかどうか実に危ない状況だったが、なんとか「登場人物に向かって話せ」と心に言い聞かせて、せめて一席だけでもと、一之輔のニフティ寄席の音源で稽古した『鈴ヶ森』を話しはじめたら、結構、泥棒の親分とマヌケな子分との楽しい会話になってきた。
 鈴ヶ森に着いて、子分が尻を端折ってしゃがんだら、そこにタケノコが・・・という場面では皆大爆笑。
 人が通りかかり、子分が飛び出したものの逆に凄まれて謝るところでサゲ、これで今日は勘弁という感じで高座(実はベッドの上)から降りようとしたら、「え、一つだけ!?」という抗議(?)の声。
 つい、そのまま八代目春風亭柳枝版を元にした『野ざらし』にとりかかった次第。
 「四方の山々雪溶けて、上げ潮南にどぶーりどぶーり」のあたりで若干口ごもったものの、なんとか尾形清十郎と八五郎の掛け合いをこなし、舞台は向島。八五郎が妄想している最中つい釣竿を振り回して針を顎にひっかけ、その針を抜いて捨てたところで、サゲた。
 
 二席とも、あくまで落語の人物に話しかける、ということを意識して演じたら、噺の中に自分もどっぷり入り込めた気がした。
 
 小三治の助言に大いに感謝。

 今回の二席を含め、これまでテニス仲間と大学同期の仲間の前で演じた噺は、次のようになった。

 『道灌』・『金明竹』・『寿限無』・『牛ほめ』・『替り目』・
 『小言念仏』・『千早ふる』・『代書屋』・『高砂や』・『居酒屋』・
 『うどん屋』・『雑排』・『厩火事』・『買い物ブギ』・『看板のピン』・
 『天災』・『目黒のさんま』・『紙入れ』・『元犬』・『持参金』・
 『三方一両損』・『たらちね』・『そば清』・『親子酒』・『藪入り』・
 『子ほめ』・『夜の慣用句』・『あくび指南』・『転失気』・『二人癖(のめる)』・
 『夜の慣用句』・『子別れ(子は鎹)』・『鈴ヶ森』・『野ざらし』

 合宿や同期会の直前に音源を聴き込んで稽古したからなんとか出来たものばかりで、もちろん、これだけの持ちネタがあるというわけではないので、念のため。


 私のような落語好きが、実際に人前で落語を披露することにより、失敗も含めその難しさを体感し、寄席や落語会でプロの噺家の高座を聴く姿勢、態度が変わる。
 
 今回の、登場人物に向かって話せ、という教訓は、今後の高座を聴く時の重要な視点になるだろう。

 お客に向かって話しているのか、その登場人物に話しているのか・・・これは、実に大きな違いであるが、結構、客席に向かって話している人が多いのである。

 小三治の言葉、若手の噺家さんに、しっかり噛みしめてもらいたい、実に有難味のある助言だと思う。

 小三治が指摘するような、距離感、空気感が漂い、つい首をぬーっと伸ばしたくなる、そんな高座に少しでも多く巡り合いたいものだ。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-05-15 12:59 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛