噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:落語の本( 140 )

 前回の記事では、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』(うなぎ書房)から、初代林家正楽の日記について紹介した。

 その中で、小島さんは次のように書いていた。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。

e0337777_10445289.jpg


 私は『落語三百年ー昭和の巻ー』の昭和54年発行改訂新版を持っている。
 最初の章「戦争と落語」の中でこの日記は紹介されており、『こんな落語家(はなしか)がいた』には掲載されていない内容や、引用した部分の補足説明に相当する部分があるので、この本からも初代林家正楽の日記を紹介したい。

 前回紹介した日記と重複するが、三月十日付けの内容に小島さんの補足説明があるので、まずご紹介。

「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左喬、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
 六代目一竜斎貞山は、講談組合の頭取で落語協会の会長であった。馬道に住み、言問橋まで逃げて煙にまかれて死んだ。六十八歳。死体は浅草の親分が見つけた。
 太神楽の寿家岩てこは五十歳、中国奇術の吉慶堂李彩は六十八歳、パンとマイクの立花家扇遊は六十歳。左喬は落語家、丸勝は太神楽、武蔵太夫は新内語り。みんな浅草界隈にいて、運命の火の粉をあびたのだ。
 三遊亭円馬は、扇遊と馬生(大阪から来た馬生)と菊屋橋にあった昭南荘というアパートで、となり合わせに住んでいた。そこへ三月九日夜んぽ大空襲となり、扇遊夫婦がまっ先に逃げた。逃げ遅れた円馬は、アパートの住人であるご婦人をリードして、比較的火の色がうすい上野方面に走り、小学校へ避難して助かった。別に逃げた馬生も無事だったが、扇遊だけは隅田川方面を選んだらしく、そのまま夫婦もろとも帰らぬ人となった。

  大阪から来た馬生は、五代目馬生門下で昭和19年に九代目となった人。
 
 立花家扇遊は、奈良のお寺の息子で、唐招提寺で修業をし実家の僧侶となった後に、芸人に転じた人。尺八、へちまおどり、そしてパントマイムのような「蝿取り」なる珍芸で人気を取ったと言われる。
 現在の入船亭扇遊より前の時代、扇遊と言えばこの人のこと。
 円馬は四代目。
 浅草から上野方面に逃げたか、隅田川の方角を目指したかで生死の違い。
 犠牲になった人、逃げ延びた人、まったく紙一重の違いということか。

 すでに紹介した、協会の違う志ん橋(後の三代目三遊亭小円朝)主任の新宿末広の寄席に正楽は四月二十四日に出演しているが、その後、五月の日記。

「五月六日。午前十時より上野鈴本焼けあとへ連中集まり、鈴本主人より罹災連中に見舞金(三十円ずつ)下さる。文楽氏宅へ寄り、人形町末広、新宿末広つとめ六時半帰宅」
 上野鈴本の大旦那(鈴木孝一郎氏、故人)は、自分のとこも焼けながら、なお焼けた芸人に見舞い金を出している。一同の感激も大きかったろう。
 このあと、鈴本経営の映画館(現在の上野鈴本と電車道をへだてた向かい側)の焼け跡に、応急のバラック・・・・・・バラックというより、柱を立てて周囲と天井を葦簀張りにしただけの小屋をつくり、そこで興行したが、寄席壊滅状態のときだけに客は来た。

 鈴本の大旦那から見舞金をもらった“連中”には、落語協会派の人も芸術協会派の人もいたに違いない。
 この大旦那鈴木孝一郎は三代目の席亭で、明治13(1880)年生まれ、昭和36(1961)年没。
 鈴本のサイトで、「寄席主人覚え書」という大旦那の貴重な記録を読むことができる。昭和32(1957)年9月3日から東京新聞 に掲載していた記事で、当時の寄席、落語家、そして落語家と客との関係などが書かれていて、読んでいて飽きない。
鈴本サイトの該当ページ
 ちなみに現席亭は六代目。
 大旦那のようにはなれなくても、そろそろ、芸協とは関係を修復できないものだろうか。
 以前書いたように、芸協と鈴本との別離から、すでに三十年以上が経過している。
2014年3月5日のブログ


 初代正楽の日記の引用を続けよう。

 五月二十五日の空襲で、北沢の正楽家付近も火の海となるが、奇跡的に焼けのこり、電灯もラジオもつかない不安な数日をすごす。
「六月一日。午前十一時より小田急にて新宿へ。駅焼けている。新宿末広焼失。今まで焼け残りたるところ皆焼失。円生、山陽、小文治、柳橋みな立ちのきて逢わず。野村無名庵氏焼死の由」
 野村無名庵氏は本名野村元基。落語研究家として「落語通談」ほか著書も多い。このとき講談落語協会の顧問。芸界にとってはかけがえのない人材であった。
 無名庵氏は武島町(文京区)に住み、付近に爆弾の雨ふりそそぐ中で、警防団の団長として阿修羅の働きをした。自宅にも火が入ったので、ご真影(天皇の写真)を持ち出すべく突入、出て来たところへ焼夷弾の直撃を頭にうけて散ったという。五十七歳。明治の日本人としてはふさわしいかもしれないが、落語を愛した市井人としてはあまりにもむごい。

 野村無名庵が空襲で亡くなったのは、小島さんのご指摘の通り、あまりにも残念だ。

 『落語通談』については、落語のネタのことでの引用を含め、何度か記事を書いている。
2015年3月17日のブログ
2015年11月23日のブログ
2015年12月23日のブログ
2017年2月27日のブログ

 『本朝和人伝』については、Amazonのブックレビューを書いた。
野村無名庵著『本朝和人伝』
 そのレビューでも書いたのだが、日の目を見ることがなく焼失したであろう数多くの貴重な原稿は、あまりにも大きな文化的損害であったと思う。

 戦争の被害は、正楽の家族にも及んでいた。

「六月三日。満太郎戦死の報来る」
 正楽氏にとっては最愛のひとり息子満太郎さんが、華北の最前線で戦死したむねの公報がとび込んで来たのである。昭和二十年三月八日二十三時四十分とあった。浅草の自宅が被災するわずか一日前のことである。正楽氏のその日の日記帳には部隊長よりの手紙が、そっくり記載されてある。
 年月日は違うが桂文楽、三遊亭小円朝もそれぞれ一人息子を戦争にかり出され失っている。人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい。

 “人を笑わせる商売だけに、こういう話はよけいにかなしい”という思いは、七年前になるが、NHKの戦争特集番組で「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見た時に、強く感じたことだった。

 あの番組については、やはり小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた』の引用を中心に記事を書いた。
2010年8月11日のブログ

 そろそろ、敗戦(終戦、ではなく)記念日近くの特集番組もお開き、という感じだが、年中行事として放送したらしばらく戦争のことは終わり、という思惑がちらつき、なにか腑に落ちない。

 今まさに、国内外の諸事情で戦争の危機が迫っているのではないか。
 あるいは、共謀罪などにより、戦時下にも似た、息苦しい、住みにくい社会になる危険性もある。


 昭和二十年、鈴本の向かいの焼け跡に作られた寄席もどきの小屋に駆けつけた人々のことを思うと、どれほど多くの日本人が笑いを求めていたかが察せられる。
 あまりにも“非日常”の日々が続いていたのだ。

 あの“無意味”な戦争は、多くの芸人の命も奪った。
 そして、国民の生活から“笑い”を奪い取った。

 “日常”生活、“笑い”に溢れた家族の生活を奪い取る権利は誰にもない。

 共謀罪を含め、現在の政府が行おうとしていることは、あの無意味な歴史を何ら反省していないということだ。

 この本からは、また近いうちに戦争の無意味さについて、紹介したいと思う。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-08-22 23:07 | 落語の本 | Comments(2)
 新宿末広亭の9月下席の夜の部から、桂小南治の三代目桂小南襲名披露興行が始まる。
 まねき猫との交互出演ではあるが、協会の垣根を超えて、膝替りには弟の二樂も、兄の披露目に出演する予定だ。
新宿末広亭のサイト
-新宿末広亭9月下席・夜の部-(末広亭のサイトより)
落語交互
 桂 鷹治
 山遊亭 くま八
漫談 新山 真理
落語 三笑亭 夢丸
落語 三笑亭 可龍
奇術 北見 伸・スティファニー
落語 三遊亭 遊之介
落語 桂 歌春
俗曲 桧山 うめ吉
落語 桂 南なん
落語 三遊亭 小遊三
-お仲入り-
襲名披露口上
落語 雷門 小助六
曲芸 ボンボンブラザース
落語 三遊亭 遊吉
落語 山遊亭 金太郎
交互出演
 物まね 江戸家 まねき猫
 紙切り 林家 二楽
主任 小南治改メ 桂 小南

 兄弟出演は、実に良い企画だと思う。
 六歳違いの二人の父は、二代目林家正楽。
 初代正樂から紙切りを習った父だが、正楽の下では預り弟子の扱いで、一貫して八代目林家正蔵門下だった人だ。

 初代正樂の弟子には、落語芸術協会の今丸がいる。
 師匠没後、今丸は今輔門下となった。

 いずれにしても、今に残る紙切りという芸を語る上で、初代林家正楽の存在は大きい。

 江戸落語の初代林家正楽は、上方にも同じ名の落語家が代を重ねていたので、本人は八代目と称していた。明治29(1896)年11月18日生れで、昭和51(1966)年4月15日没。長野県の出身で、生前は日本芸術協会(現落語芸術協会)に所属した。

e0337777_11092103.jpg

小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
 初代正樂のことについて、ある本から引用したい。
 戦中・戦後のことを落語を中心に芸能分野から振り返った名著、小島貞二さんの『こんな落語家(はなしか)がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)からは、何度か記事にしている。

 7年前、「わらわし隊」にことに関して引用したのが最初だ。
2010年8月11日のブログ
 そのすぐ後に、この本を中心にした記事を書いた。
2010年8月17日のブログ
 戦争が大きな転機となった、昔々亭桃太郎のことを書いた際も、引用した。
2012年11月5日のブログ
 三年前、江戸家猫八の広島での被爆について書いた記事もあった。
2014年8月6日のブログ

 この本は2003年8月発行で、同年6月に84歳で亡くなった小島貞二さんの遺著だ。

 「第三章 戦時下の落語界」から紹介。

 紙切りの初代林家正楽(一柳金次郎)は几帳面な人で、大正六年以来、ズーッと欠かさず日記をつけていた。
 その正楽は浅草永住町で空襲をもろに浴び、命からがら逃げたのはいいが、命から二番目の日記をそっくり焼いてしまった。
 がっかりして日記をやめたというのが常道だが、失望より勇気が上回り、焼けたその日からまた日記をつけ始めた。
 私は前に、『落語百年』(全三巻 昭和41年3月 毎日新聞社刊)をまとめたとき、その日記を借用して、演芸に関するところだけをピックアップさせていただくことにして、「昭和の巻」に紹介した。
 
「昭和二十年三月九日夜より十日にかけての敵機の爆弾のため、浅草永住町114番地にて類焼。家具寝具全部及び数年来書き残しありし自作新作落語原稿百数十編類焼す」
「三月十日。浅草、下谷、本所、深川被害甚大にて死者多し。貞山、岩てこ、李彩、扇遊、左橋、丸勝、武蔵太夫ら惨死す」
「三月二十日。十三日より二十日まで神楽坂演芸場名人会に出演。警戒警報あり二日休む」
「四月六日。帰途桂文楽氏宅に寄る。十日千葉一の宮、右女助(のち小勝)の部隊慰問頼まれたが、名人会がるので行かれず断わる」
「四月十四日。四谷、花園町、荒木町、喜よし亭、四谷駅まで焼野原となり、牛込神楽坂一円焼失、演芸場、小文治、圓(まどか、のち三木助)宅類焼す。小文治氏の立退き先観世宅見舞い、中里柳橋氏付近まで焼け、類焼を助かりしを見舞う。のりもの全部なし、新宿より浅草まで歩き回る」
「四月十五日。十三日の盲爆三月十日に劣らず、四谷、牛込、田端、日暮里、小石川、千住、品川等焼失。前火災に助かりし小文治、圓、円歌、志ん生、柳枝、小南、燕枝、柳朝等みな類焼す。席にては大塚鈴本等」

 日記の中から被害状況がよくわかる。
  
 本当に、この日記は戦災の記録としても貴重だと思う。
 なお、柳朝は四代目で、のちの四代目柳家つばめ。三木助に『芝浜』を教えたといわれる人だ。
 小南は、八代目文楽の最初の師匠の初代桂小南。

 東京大空襲というと、もっとも被害が大きかった三月十日が思い浮かぶが、四月十三日の空襲も小さいものではなかったことが、この日記からも分かる。

 引用を続ける。

 当時の寄席は、空襲警報が鳴ると休みになった。芸人の服装は、高座着のままモンペをはき、上から筒袖の外套を着た。肩には弁当を入れた雑嚢、腰には防空頭巾や水筒を下げ、下は長靴だった。
 三遊亭円歌はある座敷の帰り、紋付袴の出で立ちで市電を待っていると、「この非常時に、そのザマは何だ!」と、ツカツカと寄ってきた男に殴られたという。
 桂小文治(初代・稲田祐次郎)は、戦後も高座着にモンペ・・・・・・モンペを脱げばそのまま高座着になる特製の衣装を愛用していて、桂枝太郎(二代目・池田芳次郎)はこれを「ライスカレー」と呼んでいた。「カレーライスもライスカレーも一番手っ取り早い」というのが命名の由来ときいた。

 「四月十日。新宿末広へ、協会の志ん橋大幹部昇進披露興行スケ。六時帰宅」

 この志ん橋はのちの三遊亭小圓朝(三代目・芳村幸太郎)で、このときは船勇亭志ん橋、「船遊亭」が正しいのに、戦時中というのでわざと「船勇亭」と書いた。こういうことも軍部へのゴマスリがある。
 小圓朝の所属は落語協会派、正楽は芸術協会派で、寄席では合同の公演はないはずなのに、正楽は頼まれて出演している。戦争による芸人不足を物語る。

 空襲のことに限らず寄席の出演のことも含め初代正樂の日記は重要な記録だ。

 三月十日の東京大空襲で焼失した日記にも、戦前の落語界にとっては、実に貴重な情報が満載だったと察する。

 文中の三代目三遊亭小円朝については、その芸を高く評価していた飯島友治さんの『落語聴上手』から引用したことがある。
2016年5月7日のブログ

 昭和二十年の寄席は、人手不足のために協会に拘らない番組が組まれた。

 9月下席の三代目小南襲名披露は、弟が兄の披露目のスケをするという粋な計らいで、協会の垣根を越える顔付がされた。

 実に平和な平成の寄席、と言えるのではなかろうか。

 日記の貴重な記録と紙切りという伝統芸を伝えた初代正樂も、きっと孫弟子の出演を喜んでいるに違いない。

 ぜひ、この披露目には駆けつけたいと思っている。

[PR]
by kogotokoubei | 2017-08-21 12:36 | 落語の本 | Comments(2)
e0337777_12511533.gif

柳家権太楼著『江戸が息づく古典落語50席』(PHP文庫)

 『へっつい幽霊』のサゲの調査(?)のために久しぶりにめくった本に、なかなかいい文章があったので、ご紹介。

 柳家権太楼の『江戸が息づく古典落語50席』は、2005年にPHP文庫のために書き下ろしたもの。
 
 「まえがき」から引用したい。

 若い女性たちを中心に、いま落語がちょっとしたブームになっているようです。若手が独演会を開くと、若い女の子がどっと押し寄せるといいます。現代を諷刺した創作落語うぃ聞かせたり、古典落語に新しい味付けをして、若い人たちの心をつかんでいる。

 くどいようだが、この本は2005年2月発行。
 まえがきの日付は平成十六年(2004年)師走、となっている。

 もちろん、今の“成り金”たちのことではない。

 果たして、当時の若手って、いったい誰だったのかな。
 
 ちなみに、白酒の真打昇進が2005年、三三、左龍、甚語楼が2006年、馬石、菊志んが2007年、だなぁ。2007年には秋に木久蔵もいるけど・・・・・・。

 もしかすると、権ちゃん(と呼ばせていただく!)の言う若手の年齢の幅は広いのかもしれない。

 2000年真打昇進の喬太郎、たい平、2001年の白鳥、三太楼(遊雀)、2002年には扇辰、彦いち、2003年には一人昇進の菊之丞、あたりも含んで“若手”と言っているような気がする。
 ちなみに、本書執筆時点、まだ三太楼は弟子である。

 引用に戻る。

 落語の世界に身を置く者として、実に有り難い。実に有り難いですが、せっかく落語に関心を持ったなら、ちょっとその領域を広げて、古典落語そのものもじっくり味わって欲しいなあと思います。古典というと、何か古色蒼然とした芸能と思うかもしれませんが、古典落語はそんなもんじゃありません。

 まったく道灌、いや同感!
 言葉ではできないギャグはスルーしていただき、引用を続ける。

 江戸、明治、大正のころにできた噺を、何十人、何百人という落語家が工夫を凝らし、師匠から弟子へと受け継がれ、練りに練り上げた噺が、いまも何百と残っている。そんな「生命力」が古典落語には漲(みなぎ)っています。その生命力を是非味わって欲しいと思い、本を出すことにしました。

 ね、権ちゃんの心意気のようなものが伝わるでしょう。

 落語家が監修者として名を出している本ではなく、書き下ろしですからね。
 私の琴線にもっとも触れた部分を含め、ご紹介。

 数ある噺のなかから二百を百席に、百を五十席に絞り込む過程で、一つの発見がありました。それは、やっぱり古典落語は古くない、ということでした。何故かといえば、古典落語は人間の本質(われわれの世界の言葉を遣えば「了見」です)が見事に集約されている。時代が移り変わっても、夫婦や親子の愛情、お金や物への執着など、そう簡単に人間の了見なんて変わるもんじゃありません。NHKの教養番組じゃありませんが、古典落語は人間の本質を笑いのオブラートでくるんで見せる「人間講座」のようなもんです。「人間とは何か、人生とは何かを知りたければ古典落語を聞け」と言いたいくらいです。

 いいでしょ、この権ちゃんの「了見」!

 古くなるが、この本は2009年5月に書いた『青菜』の記事でも引用している。
2009年5月21日のブログ


 こういう文章を読むと、権ちゃんの高座(講座?)、聴きたくなる!
[PR]
by kogotokoubei | 2017-08-11 15:02 | 落語の本 | Comments(2)

e0337777_14560514.jpg

矢野誠一著『落語長屋の商売往来』(文春文庫)

 矢野誠一さんの『落語長屋の商売往来』は2003年文春文庫からの発行されたが、初版は、私が読んでいる白水社から1995年に『落語商売往来』として発行された単行本。
 元は、『小説新潮』に1992年3月号から94年12月号まで連載された「落語国商売往来」である。

 その昔の商売のことや、それを題材とするら落語のネタ、そして、その噺を得意にしていた噺家の思い出などが書かれていて、商いを扱う、飽きない本だ。

 「店構え」「小商い・手職人」「飲物・食物」「遊楽・乗物」の四つの章に分かれ合計34の商売について書かれている。

 「飲物・食物」の章の最後に「鰻屋」がある。

 土用の丑の日は、私は鰻を食べない。
 
 なかでも、この時期に大量に消費される中国産の鰻は、成長ホルモンによる危険性が高いが、それについては、別途書くことにして、国産だろうと、土用の丑の日に私が鰻を食べない理由がある

 鰻を楽しむなら、混んだ店で急いで食べてはいけないのだよ。

 矢野さんの本から引用する。 

 よく「鰻屋でせかすのは野暮」というのは、いい鰻屋は客の注文を受けて初めて鰻を割くため出来あがるまでにたっぷり時間がかかるからである。凝った客になると「魚(うお)を見たい」などと調理場にはいりこみ、床板をあげさせ、文字通りの鰻の寝床をのぞきこみ、あれとこれを焼いてくれと注文をつけたものだ。鰻の御指名だ。『素人鰻』にも、そんな客が出てきて、
「あ、職人もいいが魚もいいや、そこの、ちょっとこう頭を持ちあげましたね、そいつをひとつ上げてみておくんなさい」
 などとやっている。昨今では、鰻を割いて串をうつまでの仕込みをすませておいて、注文をきいてから蒸しにかけるなどはまだ叮嚀なほうで、すでに蒸しあがったものをすぐに焼いて客席に出す店が多いから、ゆっくりと、おこうこうなんかでつなぎながら出来てくるのを待つ楽しみを味わうのも、これでなかなかむずかしい。

 まったくご指摘の通りで、今では、野暮なのは客ばかりではなく鰻屋にも当てはまる。

 丑の日など、ひどい店では先に焼いておいた鰻を、注文の後でレンジでチン、で出すのではなかろうかと疑っている。

 “食文化”、という言葉がある。

 文化人類学者の梅棹忠夫は、「文明は腹の足しになるもの、文化とは心の足しになるもの」という名言を遺した。

 食事は、たしかに腹の足しにもなるから、その面では“文明”的である。
 腹の足しも、もちろん大事だ。
 しかし、食事を、心の足しになる“文化”としても楽しみたいではないか。

 おこうこ、あるいは、骨せんべいなどを肴に、銚子の二、三本で気のおけない友人との会話を楽しみながら、焼き上がるのを待つのが、鰻という食のの楽しみ方なのだ。

 ということなど思いながら本書を読んでいて、こんな文章に出会った。

 『素人鰻』に登場する、神田川の金のことにふれた後の部分だ。

 この神田川の金にはモデルがいたそうだが、晩年の桂文楽からゆかりの明神下神田川の座敷で、何度か鰻をご馳走になったものである。あずけてあるスコッチをお茶で割ってのむのが文楽の流儀で、こちらには無論辛口の酒をすすめる。藝談やら懐古談、ときには猥談までとび出した、いまにして思えばあれは至福のひとときであった。そんな席で、
「近頃、耳がめっきり遠くなりまして」
 とぽつりといったあと、こうつづけたのが忘れられない。
「なに、きこえなくなったってかまやしません。この年齢(とし)ンになりますと、たいていのことはきいてしまって、いまさらどうしてもきかなきゃならないようなことは、ほとんどない」
 そうして、こうもいった。
「きこえなくても、きこえたふりをしてしゃべってますとね、どうしても返事をしなきゃならないときがある。そんなときは『近頃はたいていそうだよ』と、いってやるんです。ほとんどこれで用が足ります」
 すごい老人の知恵だと思う。
 年齢をとると耳が遠くなるのは肉体的に機能も老化するためであろうが、そうではなくて、きくべきことをすべてきいてしまった必然の結果だと考えれば、若いひとたちの会話にはいっていくことができずにいらいらすることもあるまい。「近頃はたいていそうだよ」のひと言でかたがついてしまうというのも、なかなかにうがった老人ならではの感性である。
 結構名の通った鰻屋で、思いもかけない早さで鰻が出てきたときなど、ふと耳もとに、
「近頃はたいていそうだよ」 
 とささやく、なつかしい文楽の声を感じたりするのだ。

 こういう逸話は誰にでも書けるものではない。

 私が矢野さんの本が好きなのも、こういう文章の発見があるからだ。

 文楽の、たいていのことはきいてしまった、という言葉は深く、重い。
 なかなか、そんな境地になれないものだと思う。

 そして、きこえない時でも、「近頃はたいていそうだよ」で、ほとんど用が足りる、という老人の知恵にも驚く。

 文楽が「近頃はたいていそうだよ」という答えで話しに齟齬がないということは、「A」のことが話題になっているが、それは「B」でも「C」でも、他にもあてはまるよ、ということだ。

 本書のこの部分は、『小説新潮』の1994年7月号に掲載されているが、もちろん、矢野さんが文楽との至福の時を過ごしていたのは、昭和40年代前半、1960年代半ばのことと察する。

 しかし、今でも、文楽の知恵とも言える言葉、使えそうだなぁ。


 「可哀そうですねぇ、電通社員の過労死は」→「近頃は~」
 「師匠、ひどいですねぇ、文科省は」→「近頃は~」
 「日本の政治家は、昔に比べて品がなくなりましたねぇ、師匠」→「近頃は~」

 なるほど、そのひと言で、用が足りるなぁ。

 文楽の言葉が示唆するのは、周囲で交わされる会話の内容が貧困であるということなのか、あるいは、企業人や政治家、役人が総じて堕落してきたということなのか・・・・・・。

 閉会中審査の内容に呆れ、政治のことをいったん忘れようと、今年は二日ある土用の丑の日に挟まれた日に鰻関係(?)の本をめくっていて、結局は、こんなことを思っているのだった。

 そんなことでいいんでしょうかね、文楽師匠?

 近頃はたいていそうですよ!

[PR]
by kogotokoubei | 2017-07-27 21:53 | 落語の本 | Comments(0)
 三遊亭小円歌が継ぐ立花家橘之助のことについて、もう少し。

e0337777_10504580.jpg


 橘流初代家元橘右近の『落語裏ばなし』からは、初代立花家橘之助の浮世節の看板の変遷について、記事を書いた。
2017年1月7日のブログ

 右近の友人で橘之助に可愛がられた“横浜の志ん馬”(四代目)が亡くなった後、志ん馬の奥さんから志ん馬に預けられていた浮世節の看板が右近に譲られた。右近はその看板を、後に二代目三亀松を継ぐ初代の弟子亀松に託した、というところまでを前回は紹介した。

 その後に書かれている、初代橘之助の晩年のことや、右近の腕が生かされたことなどについて引用。
 引退興行に、たぬきの色紙を配って高座からおりた師匠は、晩年に結婚した橘ノ円師匠と名古屋の花園町で和やかに暮らしておりました。
 それが、どんな理由か京都に移転して、じきにあの大水害にぶつかったのです。昭和十年六月二十九日、北野神社裏の紙屋川氾濫で崖崩れ、これで両師匠とも亡くなってしまいました。
 お二人の墓石に、立花家橘之助、本名石田美代、行年六十九歳、橘ノ円、本名五十嵐銀次郎、行年六十八歳と書かせてもらいながら、私は志ん馬さんからゆずられた短冊の文をおもいうかべておりました。
   家越した方が今年の恵方かな
 転居祝とした筆は、大師匠円朝。かつて、橘之助師匠が引っ越をしたときに、大師匠が祝って贈ったものでございます。
 その頃は、師匠は朝寝坊むらく師匠(後の三代目円馬)と暮していたはず。へい『當世楽屋雀』によれば大の女房孝行、否その尻に敷かれていると書かれている夫。むらくは、
「姐さん」
 こう、女房をよんでの暮しでございました。いくら女房が稼ぎ人であるとはいえ、さんの字付けは恐れ入る。されば楽屋仲間はむらく師匠を、
「むらくは米国産です」と。
 稼ぎも、人気もありすぎる女芸人のさびしさ辛さも十分知った師匠の一生でございました。お墓は、牛込神楽坂・清隆寺でさァ(巻頭の口絵参照)。

 巻頭の口絵には、その墓の写真が掲載されている。

 紙屋川は、現在では天神川と呼ばれているようだ。 
Wikipedia「天神川」

 三条大橋までが流出した昭和10年の大水害については、京都市消防局のサイトに写真も含め説明されている。
 164人という犠牲者の中に、橘之助夫婦が含まれていたのだ。
京都市消防局サイトの該当ページ

 このたびの九州での大水害のことにも思いが至る。

 自然の脅威には、橘之助も勝つことができなかった。

 なぜ、名古屋から京都に引っ越ししたのか、勉強不足で分からない。

 橘之助にとって、残念ながら、京都は恵方とは言えなかったようだ。
 

 六月二十九日の初代橘之助の祥月命日、小円歌も神楽坂清隆寺で、橘右近が書いた墓石の文字を見つめていたのではなかろうか。

 残念ながら、師匠円歌は、この世で弟子の二代目橘之助襲名を見届けることはできなかったが、きっと初代と一緒に、遠い空の上から見守っているのではなかろうか。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-07-08 13:26 | 落語の本 | Comments(0)
 前の記事で、円生の本から、「噺が箱にはいる」ということや、「未完成の完成」という記述について紹介した。

 いただいたコメントから、弟子が師匠の真似から脱することの難しさということに思いが至った。

 しかし、師匠から継承すべきもの、自分自身の芸として発展させるもの、という問題は、なかなか深い問題を孕んでいると思う。

 そんなことを考え、書棚にある何冊かの本に目を通してみた。

e0337777_20201184.jpg

榎本滋民著『古典落語の力』(ちくまライブラリー)

 榎本滋民さんの『古典落語の力』に、実に示唆に富んだ内容を見つけた。
 章の題が、この記事の題でもある。
 引用する。

伝えるものと創るもの

 落語が古典の名に値するには、伝統の継承と個性の創造という、古典の必要条件を、みたさなければならない。
 まず、規矩がなければ、古典ではない。落語は堅苦しい「型」のない、自由無碍な芸能であると、よくいわれるが、これは、はなはだ誤解されやすいいいかたで、絶対不動の定型こそなけれ、流動性をもつ「型」、無形に近い「型」はあるものであり、それが、芸能をして芸術たらしめる、規矩というものなのである。

 我が意を得たり、という内容。
 
 以前紹介した十代目金原亭馬生に関する本の記事では、馬生が弟子に発した「何でもいいんだよ」という印象的な言葉を紹介した。
2014年9月18日のブログ

 しかし、あくまで、規矩を大事にした上で、何でもいいんであって、「型」をないがしろにしては、それこそ、かたなしだ。
 
 榎本さんの本の続きを紹介。
 実は、この中に、円生の『寄席育ち』からの引用がある。
 規矩を余分な障害と思い、不自由さを劣悪な状態と考えることが、そもそもまちがっている。芸術にとっての規矩は、内燃機関や圧力釜における圧力のように、望ましい爆発や燃焼や噴出を得るために加える、不可欠の手段なのであり、不自由であればこそ、豊かな創造がなされるのである。だから、規矩は守られなければならない。
「初心のうちは師匠の教えてくれたとおりを演るべきもんだと思います。ものまねだと言われても結構、教わったとおりにちゃんとまねをするだけでも容易なことではありません。ましてやそれを本当の自分の芸にするまでには、随分年月がかかります。おのれの力を出せるだけの域に達しなければ、むやみに師匠を離れるべきもんじゃアない」(三遊亭円生『寄席育ち』)
 一方、規矩は、とらわれてはいけないものでもある。
「落語は、教わったとおりに演らなくても良い。従来できているそのまま演るのは死芸であって、咄家の手柄が表われない。他人と違うのが良い」(『四代目柳家小さん・遺稿』)
 これは、前説と矛盾しているようでありながら、決してそうではない。三遊派と柳派の落語観や芸能論の特色は出ているものの、一つの本質を両面からとらえた、二つの正論であり、継承と創造に関する、段階論でもあると、受けとるべきだろう。
 先人の芸はなぞってなぞってなぞり抜けという教えと、師匠の影法師や模型になるなという教えは、どちらも正しい。

 読んでいて、なんとも複雑な思いになった。

 前回の記事にいただいたコメントで、円生の“影法師”と言われた三遊亭好生、その後の春風亭一柳のことを思い出した。
 とにかく、師匠円生が大好きで落語家になった人だ。
 円生を“崇拝”していた、とも表現されている。

 しかし、円生は、高座姿から語り口まで、自分にそっくりな好生の芸を嫌ったと言われる。若い時分の下手だった自分の姿を見ているように思ったらしい。
 
 円生は、榎本さんが引用した著書の文章にあるように、芸の発展途上段階では、“ものまねだと言われても結構”と思っていたのではないのか・・・・・・。

 あるいは、円生が、当時の好生は“おのれの力を出せるだけの域”に達していることを、認めていた、ということか・・・・・・。

 最初の集団真打昇進で好生が真打に昇進しても、披露目に師匠が出ることはなかった。
 結果、昭和53年の円生一門落語協会脱退の際、好生と川柳は落語協会に残った。
 好生は円生とは犬猿の仲の八代目正蔵の門に入り、春風亭一柳と名乗った。
 彼のことは、後日また書くことにしよう。

 
 さて、伝えるもの、そして、創るもの・・・・・・。

 落語という芸の深さをあらためて感じた、榎本さんの文章だった。


[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-23 21:27 | 落語の本 | Comments(2)
 ある落語愛好家の方から、むかし家今松の『お若伊之助』は、円生版を踏まえていると教えていただいた。
 
e0337777_11125526.jpg

三遊亭圓生著『寄席育ち』(青蛙房)

 そんなこともあって、円生の『寄席育ち』をめくっていた。
 「話しぐせ」という章に、「・・・・・そうしてからに」という口癖を先代(義父)に直されたことや、「尻(けつ)が切れる」(言葉尻がふわふわっと消えてなくなる)のを注意されたことが書かれている。

 その後に、次のような文章が続いていた。

 それから“噺が箱にはいる”ということを言います。あたくしが若い時分、教わったとおり一生懸命に練習して演る。すると、きちィんと一分一厘まちがいなく、言い違いもなく出来るわけです。そのかわり、ひと言何かここへ入れてみようと思っても入れることが出来ない。一つ一つの言葉がきちッとつながっちゃって、何もはいる余裕がないんですね。これを“箱へはいっちまう”といって、伸びる可能性がやや少なくなった状態です。この時も先代(おやじ)に「噺をこわせ、こわせ」と言われる。しかし、こわせってのは、どういうふうにやったらいいんだろうと考えたが、判らない。とにかく言葉が固まっちゃいけないから、もっと自由にしようと思ってやってみたが、なかなか出来ない・・・・・・あんまりきちんと覚えすぎて、自由さってものが少しもないわけです。約五、六年かかりましたね、噺をこわすのに。かちッと固まったものを今度はほごそうとして、出来ないから、新しいものを覚えて、古い噺は演らなくした。それで五、六年たって、やや忘れた時分に古い噺をまた始める。そうすると先(せん)よりは自由になってくる。これは小円蔵あたりから・・・・・・円好の時代までやっていたかもしれません。固まった噺はよして、新しい噺や、いくらかほごれてきた噺をするようにした。それからは噺が固まらないようにという癖がついて、同じに演ろうと思ってもどうしても出来ません。毎回いくらかずつ違う。そのかわり抜こうと思えば抜けるし、入れようと思えば入れられるし、言い方を変えてみることも出来る。もちろん、それがあたりまえのことで、時間の延び縮みが自由に出来なければ商売人じゃアありません。そのかわりあたくしの噺は、疵がずいぶん多い。言い間違いがあったり、はッとつかえたりすることもある。しかし芸はとにかく固まっちゃいけないと思います。芸は少しでも動いている間は伸びる可能性があります。全然動かなくなって、水でいえば溜り水になるのが一番いけません。少しずつでも流れていれば、いくらかでも先に行けるわけですから。

 なかなか深い話だ。

 “箱にはいった”噺は、考えようによっては、実に演りやすい噺で、“箱”ではなく“十八番(おはこ)”に近いかもしれない。

 しかし、成長途上の時に、得意ネタが固まらないように、あえてしばらく置いておく。
 なかなか出来ることではないだろうが、現代の噺家さん達にとっても、含蓄のある忠告だと思う。

 義父であった五代目円生が、六代目にとって実に得難い師匠であったことが、この本を読むと分かる。

 この文章の後も、ご紹介。

 芸はなにによらず、完成してしまうと面白味がなくなるといいます。もう少しで完成するんだが・・・・・・という、そこに興味がある。“未完成の完成”という、これは伊東深水先生からうかがった言葉ですが、あたくしは生涯未完成でありたいと思います。未完成でしかも完成した芸に、人も自分もまだ先の望みのある芸になりたいと思います。

 本書の初版は昭和四十(1965)年。
 明治三十三(1900)年生まれの円生が六十五歳の時。
 
 その頃に「生涯未完成でありたい」と言っていた円生。

 私は、かつて円生が苦手だった。
 一つは、八代目正蔵が好きだったので、その敵(?)が好きになれなかった、ということもある。
 また、その人柄について、あまり好ましくないことも本などで知ることが多かった。

 しかし、今は、そういった先入観を払拭しつつある。
 音源を聴くと、やはり、巧いと思う。

 たとえば、『包丁』。
 談志が談春のこの噺をべた褒めしたようだ。
 私は新文芸坐で聴いている。たしかに、悪くはない。
 しかし、円生の音源とは、比べようがない。
 当り前だが、小唄一つとっても、まったく芸の深さが違う。
 
 あらためて円生という人を見直す文章を読んで、もっとあの人の音源を聴かなきゃ、と思うのであった。
 
[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-20 12:51 | 落語の本 | Comments(4)
e0337777_11114790.jpg

佐藤光房著『合本 東京落語地図』(朝日文庫)
 前の記事で引用した佐藤光房著『合本 東京落語地図』からは、多くのことを学んでいる。

 今月初めて聴くことのできた立川ぜん馬。
 そのネタ『唖の釣り』の章で、この噺の舞台である不忍池には、埋め立てされる危機があったこと、そして、その危機から救った人たちがいたことを知った。

 引用する。
 戦後間もないころ、先代三遊亭金馬(昭和39年没)が『目黒のさんま』のまくらで「銀座の真ん中でカボチャができましたり、不忍池で稲刈りが始まりました世の中です」といっていた。昭和21年、浅草千束国民学校の戦災者救済会が、都公園緑地課と掛け合って弁天堂の南側六町歩を干拓、三年のあいだ米を作り、上野田んぼといわれた、と当時の新聞にある。

 一町歩は約3000坪だから、六町歩は・・・結構広いと言えるかな。
 引用を続ける。
 上野田んぼの計画には、先例があった。明治三年、池を埋め立てて水田にする計画が許可された。これを知って怒ったのが、池之端に住む亀谷省軒という詩人。悲憤の詩を作って、維新の功臣、五百円札の岩倉具視の執事山本復一に見せた。山本を通じてこのことを知った岩倉は、埋め立て計画を撤回させた。亀谷はのちに岩倉の徳をたたえる詩を作った、と『東京市史稿』にある。
 岩倉具視の五百円札、懐かしい。
 しかし、岩倉については、孝明天皇の暗殺犯人の首謀者と思っているので、あまり良い印象はない。
 とはいえ、市民の声に耳を向け、不忍池を守ったことについては、評価しなくてはいけないだろう。

 国民の声を無視して、やりたい放題のどこかの国の政府に比べれば、まだ、政治家がまっとうな時代の話。

 さて、話はまだ続く。
 昭和二十四年、埋め立て計画が再燃した。後楽園スタヂアムなど四団体が野球場を、一団体が遊園地づくりを計画し、計五つの請願が都に出された。公聴会が開かれたり、都議会建設委で球場建設の請願がいったん許可されるなど、危うく実現するところだった。
 結局は池を残せという世論が勝ったのだが、それにはひとつの面白い裏話があった。球場建設を計画した四団体のうちで最も有力だった「国際球場建設委員会」の代表、中島久万吉は、戦前に商工大臣を務めた財界人、ところがその夫人が、明治の埋め立てを阻んだ岩倉具視の孫だったのだ。「せっかく祖父が残したものを、孫の婿が埋めるのか」と攻撃されては、なんとも具合が悪かった。
 弁天島参道の天竜橋際にある「不忍池由来碑」の裏面には、天海僧正から上野田んぼは、野球場計画までの歴史が刻まれている。

 不忍池は、祖父と孫の岩倉具視一族によって守られてきたということか。

 どこかの政治家は、どうも悪い方向に祖父の血を継承しているが・・・・・・。

 近いうちに、不忍池と根岸に、どうしても行きたくなった。

 落語を素材に、いろんな史跡や歴史を知ることも、私の大きな楽しみの一つである。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-17 10:41 | 落語の本 | Comments(0)
e0337777_12591284.jpg

立川談四楼著『シャレのち曇り』

 さて、後半。
 立川談四楼著『シャレのち曇り』の「第一章 屈折十三年」から、昭和五十八年五月に行われた落語協会の真打昇進試験で、立川小談志と談四楼が落された後のお話。

 談志は二軒の家を持っている。一軒は新宿柏木のマンションで、そこに家族を住まわせ、もう一軒は練馬の一戸建、来客用、書斎として使っている。談四楼が小談志とともに午前十一時、その練馬の方の家へ行くと、居間には四人の知った顔の女がいた。ブレーンとも言うべきか取り巻きと言うべきか、正確にはそこにいたのは三人で、一人はなぜかトイレで寝ていた。三遊亭楽太郎の女房であった。前夜、宴会があったのは明らかで、男達は皆帰ったと言う。
「師匠は」ときくと、中の一人が、
「二階で寝(やす)んでる。二時には出かけると言ってたから、十二時に起こすことになってんの」と、張れぼったい顔をこちらへ向けた。
 昼少し前、「どしたい」と談志が顔を出した。思ったよりさっぱりした顔付きだった。
 談四楼と小談志は逆に、女友達と同じような顔をしていたはずで、重度の宿酔のように青白く、しかも強張っていた。
「師匠、申し訳ございません。揃って試験に落ちました」
 思わず目をつむった。案の定、
「何ィ、もういっぺん言ってみろ」
 殴られた記憶はないが、この時ばかりは覚悟した。談志は、声の調子を落とした。
「そんな筈はねえだろうよ。それが証拠にゆンべ、三平さんとこの源平が受かりましたと報告に来て、パーティに出てくれとかなんとか、大はしゃぎして帰ったぞ。じゃあなにか、てめえ達の方が源平よりマズイってことか、俺の弟子が三平の弟子よりマズイのか、そんなバカなことがあってたまるか」
 談志は興奮してきた様子で、急に声を張り上げると受話器に飛びついた。
「俺だ、渡辺を出せ」

 前回も登場した“渡辺”とは、落語協会の事務局長を務めた人。
 2001年の9月に亡くなっている。志ん朝が旅立つ少し前。

 さて、その後どうなったのか。

 電話をかけた先は落語協会事務所で、談志だ、と名乗らずともそれが誰かを察したようだった。渡辺は留守だった。談志は受話器を叩きつけた。ポケットベルでも使用しているのか、電話はすぐにかかってきた。
「いいかよくきけ、二度とは言わねえぞ。小さんに電話させろ、他の理事でも誰でもいい、うちの弟子が落ちた理由を明確に述べろ。もしそれが納得できなかったら、俺にも考えがあるぞ」
 談志は、ドスの効いた声で捲し立てた。
 更に数人の理事の名前を出し、即刻理事をやめさせろと続けた。
 話を終えた談志の顔には、皮肉な笑いが浮かんでいた。
「ナベが俺に何と言ったと思う」
 両名怪訝な顔をすると、
「そのまま小さん師匠にお伝えしてもよろしいんでございましょうかだとよ。呆れ返(けえ)った大馬鹿野郎だ」
 実際、この渡辺という男、血も涙もない丸太ン棒である。
 試験が済んだその目白(小さん)宅で、結果はいつ発表になるのか、どういう方法で発表するのかという二ツ目の問いに、
「存じません、あたくしは何も知らされておりません」の、一点張り。何も知らない筈の男がその晩、受かった四人にオメデトウと電話を入れ、落ちた六人には知らせなかったのだ。

 談志の怒りの凄さが分かる。
 さて、この後、事態はどうなっていったのか。

 後日の話になるが、二日目も三日目も梨の礫だった。五日ほど経ってようやく一通の茶封筒が届いた。中身は事務用の横書きの便箋が一枚で、
『先日の審査会の結果、下記の四名の方が、合格致しました。なお、本年秋に審査会を催します。日程等につきましては、あらためてご連絡致します。社団法人落語協会』
 とあった。その下に合格者四人の名が連ねてあり、「以上」としてあった。おつかれさまでしたでもなければ、ごくろうさまでもない、ただそれっきりの紙っぺらだった。せめて、『サクラチル』ぐらいはあってもよい。ま、ほんとにあったら喧嘩になること必定であるが。
「なお、本年秋に審査会を催します」というのは追試験のことである。誰が受けるかそんなもン、この大馬鹿野郎。
 試験の結果について、ある事情通はこう言い切った。
「会長の弟子小里ん、副会長の弟子花蝶、三平門下三人のうちの総領弟子源平、それに抜擢の正雀、以上四人ゴウカーク」
 鋭い見方をすると思ったが、それはいかにも協会幹部の考えそうなことだった。

 この“茶封筒”“事務用便箋”の“紙っぺら”と、その内容には、何らそれを受け取る相手への気遣いが感じられない。
 どこか、改悪された今の落語協会ホームページの味気なさにも似たものがあるように思う。事務方が“丸太ん棒”である、ということだ。
 ともかく、正式に(?)不合格が伝えられたのだ。
 文中の“ある事情通”が誰かは分からないが、たしかに、政治的な力が働いているとしか思えない結果である。
 この後、談志の協会への電話の後のことに、話は戻るが、印象的な談志の長科白がある。

 渡辺との電話を切り、そこで女達のいれたお茶をひと口啜った談志は、とうとう、
「よくやった、でかした」とまで言い出した。
 ぶん殴るられるかと思っていただけに、その展開は意外だった。
 オレ達のせいで談志の名を汚した。二人の背中に押された、ヘタクソ印の大きなスタンプ。「弟子も満足に育てられないのか」という談志に対する世間の集中砲火。次から次に押し寄せる悪い連想。
 談四楼と小談志は、物事を悪い方にとるという小心な体質を有していた。申し訳なさで、その胸は張り裂けんばかりであったのだ。
「よオしこいこい、面白くなってきゃあった。やりゃあったねあいつら、いつかこういうことになんのはわかってた。よし、俺は協会を出るぞ。どうする、ついてくるか。ま、俺が出ても彼奴(きゃつ)らにはまだわからんだろうがな。しかし、危機感を持っている者には何らかのインパクトは与えるだろう。落語界を活性化させる為にも、出なきゃしゃねえだろ。喜ぶ奴がいやぁんだろうな、うるせい奴がいなくなったてんで、目に浮かぶねまったく。
 俺がいなくなっても、協会はしばらくは保(も)つだろう。だが、いずれ滅びる、これは言える。俺の改革案ひとつも取り上げねえんだ、そらまあ見事なもんだ。
 こないだ言ってやったんだ師匠に、このまんまじゃ保たねえと。したら小さん何てったと思う。後のことなんぞ俺は知らねえってんだ。わかるかこの意味。つまり俺が死ぬまで保ちゃいいってんだ。無責任と片づけるのは楽だが、小さんにしてもそういう状態に追いこまれてんだ。仮に後のことはおまえに任せると、とりあえず俺が言われたとしようか。断わるね、まっぴらだね、束ねていく自信がねえもん。現状はお手上げだ。言っとくが円歌や金馬じゃもたねえぞ。志ん朝でも無理だろう。な、そんなとこにいる理由がねえだろ。だから出ると、こういうこった。
 小さんは俺の師匠だ。誰が何と言ってもそうだ。だがな、今、俺と小さんの間にあるのは、師弟、すなわち親子という血の繋がりだけなんだ。芸、つまり落語に関する接点は最早ない。心配するな、そこは俺が何とかする。快楽の代償は高いというわけだ。おまえ達二人の為に出るんじゃねえぞ、勘違いするな。いいキッカケなんだおもえ達の一件は、いいか、試験に落とされたからってペコペコ卑屈になるんじゃねえぞ、胸張って堂々と歩け、落された、陰謀で落されたって大騒ぎしろ、方々行って喋りまくれ。こんなもん、受かった方がみっともないってぐらいのもんだ。よし、ビールでも抜けや」
 談志は、出かけるのをやめて、両名に檄をとばした。
「これは面白い、是非出るべきよ」
「あたしもそう思う、賛成だわ」
「ねえ、それ脱退ということでしょ。カッコイイー」
 女達は、自分のことではないので気軽に言いたいことを言ったが、悪い気はしなかった。

 談志の長科白は文字にして約800字、原稿用紙二枚分。

 談四楼の記憶と若干の創作によるものだろうが、あの試験結果への談志の思い、そして落語協会脱退、立川流創設の理由や背景は、この800字にほぼ込められていると思う。

 それにしても、あの場にいた女性陣、楽太郎の奥さん以外は、どんな顔ぶれだったのか・・・・・・。
 ま、それはいいか^^

 昭和五十八年の真打昇進試験についての記事ということでは、これにてお開き。
 とはいえ、本書『シャレのち曇り』からは、今後もご紹介する機会があるだろう。

 さて、今日は休みととったので、これから落語協会の寄席に行くつもりだ。

 あの時、談志が「このまんまじゃ保たねえと」と言った状況から、30年余り経った。

 志ん朝も談志当人も、今はいない。

 しかし、なんとか保ってきたその現場を見に行くことにしよう。
[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-07 09:32 | 落語の本 | Comments(2)
 ここしばらくの間、落語家でニュースを賑わわせるのは、歌丸と小朝の二人かもしれない。

 先週三日の土曜日、小朝との二人会で相模大野駅近くにある相模女子大グリーンホールに顔を出すはずだった歌丸が、残念ながら何度目かの入院で出演できなかったとのこと。

 また、小朝は、元妻による“訴えてやる”という会見で、注目を浴びている。

 真相は知らないし知りたくもないが、小朝は高座でこの件を語るはずもないだろう。

 落語に疎い若い人は、小朝という人を、泰葉が言うところの“金髪○野郎”の落語家、というイメージしかないかもしれないなぁ。

 私と同年齢のあの人、凄い時もあったのですよ。

 その小朝が、三十六人抜きで真打昇進した頃のお話。

e0337777_12591284.jpg

立川談四楼著『シャレのち曇り』

 立川談四楼の『シャレのち曇り』は、処女作『屈折十三年』を含む、彼の半生記とも言える本だが、初版が1990年発行の文芸春秋の単行本、その後私が読んだ講談社ランダムハウス文庫での発行が2008年、そして昨年、PHP学芸文庫の仲間入りをした。

 小説として“虚実皮膜”の部分もあるが、なかなか興味深い内容が詰まっている。

 立川流の創立につながる談四楼と兄弟子小談志の真打昇進試験落第のいきさつについて、本書の「第一章 屈折十三年」からご紹介。

 まず、談四楼が受ける前の真打昇進試験のことから。

 結果として、小朝のことにもふれることになる。

 昭和五十五年は五月に春風亭小朝が真打になり、『小朝旋風』が吹き荒れた年である。第一回目の真打昇進試験は、その風のいよいよ強い十一月に行われた。
 古いということが基準の受験資格者二十名のうち、「試験なんて野暮のキワミでございます」と四人が辞退し、残り十六名から五人が落されるという結果になった。
『何と、あの落語界に試験制度!』と、スポーツ紙の芸能欄ばかりでなく、一般紙も社会面で驚いたという真打昇進試験。
 小朝は三十六人抜きであるから、対象となった二十人は当然その中に入り、抜かれた挙句に落とされるという者が出たのである。抜かれることは仕方がないと納得はしても、
「オデキの上を針で突っつきやがった」
「首くくりの足を引っぱるような真似をしやがって」という、五人の落とされ組の捨て科白は、あえて軽い口調で発せられたものの、後に続く二ツ目達には、他人事ではなく響いたのである。
「どうだ、オレ達が仕掛け、世に送り出した小朝の売れ方を見ろ。しかも我々はそれに浮かれることなく、有史以来の試み、真打昇進試験をこれだけ厳しい形で実施したんだ。どうだ、どうだ、落語協会ってなァちゃんとしたところだろう」
 落語協会は、スタア小朝の後押しを、見識、定見という形で世に示し、記者団に囲まれ相好を崩した。記者会見の席上に連なる幹部達のなんと手柄顔であることか。
 あとは、ちゃんとしていることの何よりの証明、試験で真打を誕生させていること、だけが世間に伝わればよい。故に第二回目の試験は昭和五十七年に実施され、十人が受験し全員合格となったのである。つまり試験は、ここでハッキリ形式だけということになった。
 各寄席における披露目も、十日興業のうちの一日だけ務めればよく、客席は上野鈴本演芸場、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、と都内に四軒であるから合計高座は四日間だけ。
 金銭面での負担は、単独でなった真打のそれより遥かに軽く、十人の人柄も手伝って楽屋には、御馳走になろうという後輩たちが大挙して押しかけ、あふれた。
 小朝の評価は、とにかく高かった。
 三十六人抜きは、偶然にも志ん朝と同じ。

 昭和五十三年のNHK新人落語コンクール、小朝は『稽古屋』、さん光時代の権太楼は『反対俥』で臨んだ。
 以前、当時の模様を権太楼の著作から紹介したことがある。
2014年11月5日のブログ

 権太楼は、こう書いている。
 現場では「俺のほうが・・・・・・」と思ってましたよ。これはねえ、偽らざる心境。「ここでもって、俺がとらなかったら、おかしいだろう。こいつら相手にして」というぐらいに思ってたんですよ。
 ところが、その録画が放送されたときに、すーっと見るわけじゃないですか全員のを、たしか江ノ島で見たんですよ、仕事で行ってて。「きょう放送があるから見たいな」つって。
 で、見たら「あ、俺が審査員でも、小朝です」って思ったの。あとで冷静に見たら「この人、うまいわ。また、ちゃんといい構成を持ってきてる」ってね。
 私もテレビで観て、そう思ったことを思い出す。

 小朝の絶頂期は、平成二年に、博品館で一ヶ月の独演会を開催した頃ではなかろうか。

 小朝の抜擢昇進した年、昭和五十五年の第一回試験については、以前に雲助の本から紹介した。
2014年7月21日のブログ

 雲助は、その頃に届いた受験案内を“赤紙”と呼んでいたと明かしている。

 さて、談四楼にも赤紙が届いたものの、“形式だけ”とタカをくくっていた第三回目の真打昇進試験のこと。時は昭和五十八年の五月。

 第三回真打昇進試験の当日、五月十日午前十一時三十分、二ツ目は目白駅近くの柳家小さん宅に集合した。
 前日、年功順で林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵、蝶花楼馬楽の五人が受験し、今日は今回唯一の 抜擢、十三人を飛び越えて受験資格を得た林家正雀を含む、立川小談志、真田家六の輔、林家らぶ平、それに談四楼の五人である。

 ここで、補足しておくが、談四楼と一緒に受験した中の一人、真田家六の輔は、実際の名を替えている。
 
 談四楼の『談志が死んだ』では、還暦記念落語会に入門同期を呼ぶ話があって、実際の名跡で登場している。

 単行本を平成二年に発行する時点では、著者がその本当の名跡を明かすことが憚れた、ということだろうか。

 私も、六の輔のままにしておくが、落語愛好家の皆さんなら察することはできるはず。

 引用を続ける。

 小さんの道場では、抜擢の正雀を除いて、それぞれが非常に良い感触を得た。
 審査員は、小さん、馬楽、円歌、さん助、円菊、小三治、扇橋、円窓の八人で、志ん朝、談志、六朝、円蔵などの人気幹部は欠席だった。さん助は、これから審査の集計という段になって、寄席(しごと)があるからと帰ってしまった。誰かに意見を託したという様子もなく、不思議な人だ。
 談四楼は『岸柳島』を演じて、上手い、達者だ、描写力に優れている、情景が目に浮かぶ、人間も描けている、末が楽しみだ、と賞められた。
 理事達は胡坐をかき、煙草をくゆらせながらそれを言う。そして二ツ目は、正座のまま、汗を拭き拭き礼を述べる。
 らぶ平などは賞めちぎられた挙句、イイ男だ、とまで言われた。あまり賞められるので舞い上がり、高座から審査員に「それほどでもないでしょ」と言ってしまったほどである。

 こういう状態であったから、談四楼たち五人は上機嫌で、蕎麦屋(あの「翁」)で打ち上げをした。
 正雀だけが、沈んでいた。
 その後、思わぬ展開が待ち受けていた。

 翌日談四楼は、らぶ平からの電話で目を醒ました。午前九時だった。
「シャレんならねえよ、落っこちだよ、落っこち」
 らぶ平の声は普段の陽気さはどこへやら、沈みきったものだった。
「確かな話か、誰かから連絡があったのか」
 追及すると、協会事務局長といってよい渡辺が、らぶ平の兄弟子林家こん平に情報を漏らし、彼からきいたものだと言う。
「ほぼ間違いないと思うよ。現に受かった人のところへは連絡がいってんだから」
「誰から」
「渡辺から」
 なぜオレ達には連絡がないのか、それは事務局として当然の仕事ではないのか、基本ではないのか、ええっ、違うからぶ平。
「知らないよ、そんなこと」 
 らぶ平の情報は正確だった。十人中、受かったのは源平、小里ん、花蝶、正雀の四人で、種平、上蔵、小談志、六の輔、らぶ平、談四楼と、何と六人が落された。そう、落されたのだ。
 青天の霹靂と言ってよい。根拠がない。その基準がまるでわからない。明らかに首を傾げたくなる結果、人選であった。

 さて、この後、最終的には談志一門が落語協会を脱退することになるまでのお話は、次回ということで、前半はここでお開き。

 惜しい、切れ場だ^^

[PR]
by kogotokoubei | 2017-06-06 08:48 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛