噺の話

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カテゴリ:上方落語( 25 )

 六代目桂文枝が、7月に古典『抜け雀』を演じるらしい。
*上方で‘六代目’は松鶴を指すということで‘六代’と称しているが、六代目の文枝であることに違いはない。

 日刊スポーツの記事から引用。
日刊スポーツの該当記事


桂文枝7月に18年ぶり古典落語 枝雀さんとの公約
[2015年5月7日22時9分]

 12年7月16日の69歳誕生日に師匠の名跡を継いだ落語家、6代桂文枝(71)が7日、大阪市内で、襲名丸3年となる今年7月16日に、大阪・なんばグランド花月で、「旭日小綬章受章記念 文枝SHOW 2015」を開き、18年ぶりに古典落語を披露することを発表した。

 演目は、今年3月に亡くなった桂米朝さん(享年89)の口伝で残る「抜け雀」で、ネタ下ろし。創作落語250本を生み出し、生涯「300本」を目標に掲げる創作の第一人者、文枝が原点回帰の古典に臨む。

 「米朝師からは、前々から『4代目文枝のネタもやったらええ』と言われてまして。新しいネタを作り出すんも大事やけど、古典を今の(時代の)形にして残していくんも大事やと思いました」

 文枝は、米朝さんの弟子で「爆笑王」と呼ばれた5年先輩の故桂枝雀さんへの対抗心と畏怖から、古典ではなく創作に専心。過去に例を見ない数のネタを創作し、第一人者としての立場を築き上げてきた。

 一方で、かつて枝雀さんから「いつか古典もやったら」と言われていたことから、旭日小綬章を機に、古典への取り組み再開を“公約”。今回の公演で、それを果たそうと、18年ぶりの古典挑戦を考えた。

 ネタ選びに悩むうち、枝雀さんの師匠で、米朝さんから「4代目のネタを」と勧められていたことを思い返し、4代目までの文枝が得意とし、米朝さんが掘り起こして残した「抜け雀」に決めた。
 米朝が‘四代目のネタ’を勧めたというのは、まだ上方落語愛好家の方の記憶が鮮明な五代目の十八番を演ったのでは、比較されて可愛そう、という親心だろうか。

 四代目文枝は、七代目坂東三津五郎の高弟として坂東三之丞を名乗り、日本舞踊家としても活躍した人。昭和21年に四代目文枝を襲名し、高座ではネタの後で踊ることが多かったようで、下座の奥さんに浄瑠璃を語らせ、自分は踊りの所作を演じる「浄瑠璃落語」を考案した人としても伝わっている。

 それにしても、もはや当代文枝が古典を演じることはないのだろう、と思っていたので意外だった。
 これまで、三枝の文枝襲名には否定的なことを書いてきたが、この古典への挑戦は、非常に良いことだと思っている。

 『米朝らくごの舞台裏』に書かれているが、たしかに米朝の『抜け雀』は、四代目文枝から伝えられた噺のようだ。
 四代目の頃は『雀旅籠』が上方での演題であったはずだが、米朝が東京と同じ『抜け雀』で演じたため、今では東西同じ題になったのだろう。さすがに、米朝の影響力は強い。。

 『抜け雀』を演じるのも悪くはないのだが、文枝という名を継承した人には、もっと相応しいネタがあるように思う。


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『あんけら荘夜話』(桂文枝、編集小佐田定雄、青蛙房)

 以前に紹介したが、五代目文枝の『あんけら荘夜話』から引用する。
2013年8月10日のブログ

 水兵になとうとした長谷川多持少年が、結局は船に乗ることもないまま、敗戦後に大阪に戻ってからのお話。
 学校には戻らず進駐軍のアルバイトなどをしていた多持少年。縁があって彼は交通局に勤めることになった。そこで、落語との縁結びをしてくれる人物との運命の出会いがあったのである。


 交通局に入ったのは昭和二十二年の春のことで、電気工場に配属されました。モーターとかコントローラー、ブレーカーを修理する部署です。この工場は建物の二階にあって、階下が機械工場でした。工場から現場へ貨車にいろんな品物を乗せて運ぶ「運搬部」というのがあって、その運搬部員の中に矢倉悦夫君という、おもしろい男がいたんです。
 彼は戦争中からの局員で、昼間は交通局に勤めながら夜は学校へ行く・・・と家族には言いながら、実は桂米團治師匠のところへ落語を習いに行ってたというあっぱれな人物です。そのことが新聞に紹介されたのが、私と出会うきっかけになりました。
 そのころ、私は「踊りを習いたい」と思うていました。と言っても踊りの師匠になろうとか、プロの舞踏家になろうとかいうようなつもりはありません。「ちょっとした趣味に・・・」という気持ちだったんです。ところが、芸の世界とは全く縁のない生活をしていたので、どこへ頼みに行ったら教えてもらえるものかもわかりません。その時に矢倉君の存在を知ったのです。
「落語をやってる人やったら踊りも知ってるやろ」
 というようなことで紹介してもらいました。
 私は浪曲が好きでしたから、矢倉君ともよく浪曲の話をしました。彼も浪曲が好きでしたし、都家三勝という浪曲の息子で横田君という人と学校友達でした。この横田君は、のちに米團治師匠の弟子になって「米歌子」(べかこ)という名前をつけてもらいましたが、すぐに廃業しています。
 子供のころ、うちの親父が浪曲が好きで、町内にあった浪花節の小屋へ連れて行ってくれていました。また、ミナミの十銭漫才の小屋へも連れて行ってくれたらしんですけど、あまりに小さいころだったんで、どんな人が出ていたかまではおぼえていません。芝居も好きで、大正区の松島の小屋へ新派の梅野井秀男なんかを見につれて行ってもらったこともありました。
 落語で記憶に残っているのは、親父が蓄音機を借りて来てくれて、それで初代春團治の『宿替え』なんかを聞いたことです。当時の私の落語についての知識というのはその程度のものでした。
 私が矢倉君に、
「踊りを習いたいんやけど、誰かええ師匠はいてはらへんやろか?」
 と相談すると、「それやったら、ええ人がおるわ」と、紹介してくれたのが、花柳芳兵衛師匠と坂東三之丞こと四代目桂文枝師匠でした。で、うちの師匠のほうが地理的に通いやすい・・・というだけの現実的な理由で、文枝師匠に入門することに決定したんです。


 五代目は踊りを習いたいがために、四代目に入門したのであった。
 四代目との出会いをつくってくれた矢倉君は、交通局に定年まで勤めながら落語を続けた、三代目米之助である。米朝の兄弟子に当たり、上方落語の造詣も深く、米朝でさえ「わからんことは悦ちゃんに聞きなはれ」と小佐田定雄さんによく言っていたようだ。


 五代目の初舞台、初演目についても、本書からご紹介。

私が「桂あやめ」として初舞台を踏んだのは二十二年五月二日の「上方落語を聞く会」だったと思います。会場は大阪文化会館(現在の精華小学校)でした。五代目松鶴師匠が二席やらはって、前座で旅の噺をしてはったように記憶しています。それまでは「大阪落語を聞く会」というタイトルでやっていた会が「上方落語を聞く会」と名前を変えての第一回目だったはずです。私の演じたネタは『小倉船』。矢倉君も見に来てくれました。私の名前は番付には載っていません。
「憶えたし、いっぺんやってみい」
 というような調子で、開演前の“ご祝儀”としてやらしてもらいました。
『小倉船』という噺は、途中に踊りの手が入ったり、芝居がかりになったりする噺なんです。ほんまは、手ほどきとしては難しすぎるネタなんですけど、私が踊りの稽古をしてた関係もあって、このネタを最初に教えてくれてたんです。

この『小倉船』は、四代目文枝の十八番であった。
そして、初代文枝のネタとしては、百両で質に入れたことで有名な『三十石』がある。

 当代文枝の‘創作落語’(なぜか‘新作’とは言わないらしい)は優れた作品が多いと思う。
 『背なで老いてる唐獅子牡丹』『ぼやき(居)酒屋』『鯛』などは柳家はん治の高座で楽しんでいる。

 当代文枝が、古典に挑戦するのは、結構なことだろう。
 
 人それぞれの考えがある。その名を継いでも、古典派や新作派、踊りを得意にする人や、そうじゃない人がいてもいいじゃないか、と思われる方もいるだろう。
 しかし、私は、文枝という名は、文治の次に桂では大きな名だと思っているので、古典を演じない文枝という存在を認める気持ちにはなれなかった。

 せっかく古典に挑戦する気になったのだから、まずは『抜け雀』でも結構だが、ぜひ、その後は『三十石』や『小倉船』にも挑戦して欲しいと思う。そして、寄席の踊りにだって挑んでもらいたいものだ。
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by kogotokoubei | 2015-05-13 21:21 | 上方落語 | Comments(6)
「上方落語若手噺家グランプリ」という名のイベントが開催されるらしい。日刊スポーツから引用。(太字は管理人)
日刊スポーツの該当記事

「上方落語若手噺家グランプリ」を開催へ

 上方落語協会会長の桂文枝(71)が24日、大阪市北区の定席寄席小屋、天満天神繁昌亭で、今春に協会所属落語家のトーナメント「上方落語 若手噺家 グランプリ」を開くと発表した。今年から10年連続開催を目指す。

 会長職に就き、悲願の上方定席(繁昌亭)を開き、自らは師匠の名跡を襲名。文枝にとって、次の悲願は後進の育成だった。

 「先日も(ラッスンゴレライでブレークした)8.6秒バズーカーと共演しましたが、類い稀な才能があり、どうも最近は若い人の才能があちら(漫才、コント)へ流れている」と危惧。未来の落語スターを発掘しようと思案してきた。

 そんなおり、上方芸能の支援を目的としたアーツサポート関西へ、500万円の寄付金が届いた。文枝が三枝時代から親交のあるアートコーポレーションが若手落語家育成を支援しようとしたもので、これを機に、今グランプリの創設が決まった。

 すでに入門6年目~15年目までの協会所属落語家に希望を募り、31人の参戦を決定。4月7、14、16、22日に繁昌亭で予選を行い、6月に本選を行う。本戦の審査員には在阪テレビ各局のプロデューサー、ディレクターらが入り、大賞(賞金20万円)1人、奨励賞(同5万円)1人を選出する。

 文枝は入門1年足らずだった67年、MBSラジオ「ヤングタウン」に抜てき。駆け出しながら頭角を現し、タレント活動のかたわら、240本を超える創作ネタを生み出すなど、今なお第一線で走り続ける。

 「今の若い人にもチャンスを作ってあげたい」と言い、審査員にはテレビ局関係者を選んだ。タレントの原石を発見し、レギュラーに採用してもらいたい考えもある。

 「私たちのときのように、落語家にもまずはチャンスが与えられるようになれば。おもしろいと思ったらリポーターでも使ってもらいたい。ただし、その後の未来は本人の努力次第」と話す。

 協会内に賞レースを設けて活性化をはかるとともに、自らが歩んできたように、ワンチャンスを確実に物にし、スターへの道を駆け上がる形を作るねらいもある。

 また、6月に予定される本選について「今年は放送はないですけども、来年はM−1やR−1のようにテレビや、ラジオでも中継、もしくは深夜でもいいので、そういった形を思い描いています」とし、将来的にはテレビ、ラジオでの本選中継も望んでいる。[2015年2月24日13時36分]


 類いまれな才能が漫才に流れている、とは思わない。また、寄付した会社の経営者については、やや言いたいこともあるが、こういうイベント開催自体には、素直に拍手を送ろう。

 東京であれば、二ツ目さんに相当する噺家さんが対象となる大会だ。東京も上方も、彼らが腕を磨く場所、機会は実に限られている。こういう競争の場があることは、本人にもその周囲にも十分に刺激になるだろう。

 天満天神繁昌亭での予選は、もちろん公開制。
 繁昌亭サイトに、ネタも含めて出場する噺家さんの情報が掲載されているので、ご紹介。天満天神繁昌亭のサイト

 4月7日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第一夜》
笑福亭鉄瓶 「茶漬幽霊」」 桂佐ん吉 「堪忍袋」 桂三幸 「その川の向こう側」 桂雀太 「代書」 桂そうば 「親子酒」  露の紫 「金明竹」 桂団治郎 「七段目」 林家愛染 「みかん屋」      
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。
前売1,500円 当日2,000円 Pコード442-502
開演:午後6時30分
*6時よりチケットに記載されている整理番号順にご入場いただきます
*25歳以下のお客様は、当日500円キャッシュバック致します(要証明書)


 4月14日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第二夜》
林家染太 「魁!!学習塾」 林家市楼 「天狗裁き」 笑福亭べ瓶 「いらち俥」 笑福亭松五 「書割盗人」 桂二乗 「短命」 露の団姫 「時うどん」 露の雅 「あくびの稽古」 桂三語 「二人癖」      
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。


 4月16日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第三夜》
桂まめだ 「子ほめ」 笑福亭呂竹 「京の茶漬け」 桂吉の丞 「仏師屋盗人」 桂鯛蔵 「ふぐ鍋」 桂三四郎 「MOMO」 林家染吉 「佐々木裁き」 露の眞 「蛸芝居」 桂寅之輔 「転失気」      
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。


 4月22日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第四夜》
桂雀五郎 「初天神」 森乃石松 「転宅」 笑福亭生寿 「阿弥陀池」 桂咲之輔 「七段目」 笑福亭呂好 「天狗裁き」 桂三輝 「誰がファースト」 桂和歌ぽん 「平林」        
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。



 他の記事によると、予選の審査に大学落研の学生が加わるらしい。スポニチの該当記事
 できれば、「さがみはら若手落語家選手権」のように、お客さんの投票も反映して欲しいものだ。

 いずれにしても、予選から公開することは、非常に良いことだと思う。
 審査する側にも、相応の緊張感をもたらすだろうし、客席の反応も参考になるだろう。

 何度か書いているが、NHKの新人落語大賞も、ぜひ予選を公開して欲しい。
2014年11月7日のブログ

 この上方の試みが、NHKへの良い刺激になることを期待している。

 知らない若手の懸命な高座を一度に聴くことのできる得難い機会でもある。関西の人がうらやましいなぁ。
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by kogotokoubei | 2015-02-24 12:29 | 上方落語 | Comments(2)
上方の落語家さんのことを調べる場合、まず上方落語協会のサイトにある「上方落語家名鑑」を参照する。
上方落語協会のサイト

 しかし、ここしばらく、この名鑑にアクセスできない・・・・・・。
 本来なら、左にあるバナー真ん中あたりの「上方落語家名鑑」の文字をクリックするとリンクするはず。

 少し、トラブル対処に時間がかかりすぎではないか。

 これはリンクすべきURLが間違っているのが理由のようで、繁昌亭のサイトに該当ページはしっかり残っている。
「上方落語家名鑑」

 今や、ネット時代。

 これだけ長期間の障害は、ビジネスなら損害賠償ものなのだが、いったいどうなっているのだろう。

 先日、桂米八の訃報を目にして、米朝の弟子一覧を確認しようとしてアクセスできなかった。それ以来なので、少なくとも五日間は障害が解消されていない。困ったものだ。
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by kogotokoubei | 2015-01-26 07:01 | 上方落語 | Comments(0)
私は、まったく知らなかった人なのだが、米朝門下の噺家で、曲独楽師でもあった桂米八さんの訃報を目にした。毎日新聞の該当記事

訃報:桂米八さん58歳=落語家、曲独楽師
毎日新聞 2015年01月20日 23時19分(最終更新 01月21日 00時06分)

 桂米八さん58歳(かつら・よねはち<本名・山本悦次=やまもと・えつじ>落語家、曲独楽師)20日、食道がんのため死去。通夜は22日午後7時、葬儀は23日午後0時半、大阪市北区天神橋4の6の39の公益社天神橋会館。喪主は長男貴大(たかひろ)さん。

 兵庫県姫路市出身。1974年、桂米朝さんに入門した。伏見紫水さんから習い、上方で唯一、独楽(こま)を使った曲芸の曲独楽(きょくごま)を継承し、興行で活躍した。



 私より若い。

 ホームページを発見した。新聞より少し詳しいプロフィールが画像で掲載されていたので、内容を書き起こして紹介したい。
桂米八のホームページ

◇(1974年)昭和49年3月18日 三代目 桂米朝に入門 13番目の弟子。
◇(1977年)昭和52年11月29日 内弟子修業卒業。
◇内弟子卒業後、若手落語家の集団「ぐるうぷ寄席あつめ」に入り、
  近畿各地にて地域寄席を開く。
◇(1984年)昭和59年 伏見紫水より古典曲独楽を習い始める。
◇(1999年)平成11年11日 日本国際交流基金を通じ、日本の伝統芸能の
  紹介で、中南米4カ国(ニカラグア・ボリビア・チリ・キューバ)にて、
  曲独楽・南京玉すだれの公演を行う。
◇(2005年)平成17年10月より、曲独楽教室の講座を、近鉄文化サロン
  阿倍野校にて、毎月第2・4木曜日(15時から17時)に開いてます。
◇(2008年)平成20年8月31日 英語で、Apinning Toop(英語曲独楽)の
  高座を始める。



 少しネットで調べたら、天満天神繁昌亭のサイトにある、昨年9月まで実施していた動画配信サービス「ライブ繁昌亭」のページに、桂米八さんへのインタビューが載っていた。なぜ曲独楽師になったのか、その動機が明かされているので引用。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

落語家になって10年目
曲独楽の世界に入門!


「この芸もな、上方で誰も継いでくれる人いいひんねん」

落語家になって10年目。僕が曲独楽を習い始めるきっかけとなった、曲独楽師・伏見紫水師匠の言葉です。この言葉を聞いた周囲の人たちから、「米八、ちょっとやってみたら?」と言われ、何度かやってみたんですよ。するとそのうち、ホンマに入門してみようかと考えまして、紫水師匠のところにお願いに上がりました。

すると紫水師匠が、「じゃあ、噺家辞めるんか?」と。僕は即座に「それは無理です!」と答えました。それで、米朝師匠の方に相談に行ったんです。米朝師匠も、結構こういう芸がお好きなほうだったんでしょうね。

「できるかできんかはわからんけど。習って悪いもんやなし、習ってもいいぞ。まあ、なかなかものにはならんやろうがな」と言ってくださったんです。それを紫水師匠に伝えると、「じゃあ、噺家のままでええから、習いにおいで」と言われ、この芸を習うことになったんです。

でも、その当時の周りの反応は、「米八、お前は落語家やのに何やってんねん」という反応(笑)。まあでもそれから、25年以上も続いてるんですからね(笑)。



 このインタビューが2010年3月掲載なので、ほぼ5年前。だから、今年まで約30年、落語家と曲独楽師の兼業が続いていたのだろう。

 私は、寄席が大好きで、落語のみならず色物も好きだ。

 太神楽、曲独楽などの伝統的な芸能は、ぜひ今後も残って欲しいと思っている。

 桂米八という方の高座も曲独楽の芸も未見のままだったが、紫水師匠から継承した曲独楽の後継者はいるのだろう。

 曲独楽教室の指導をなさっていたらしい。

 お嬢さんで女優の山本真由美さんが、ホームページの日記に次のように書かれていた。2013年1月3日の記事。
山本真由美さんの日記の該当記事

私の父は、落語家で、曲独楽をしています。
実は、昨年の夏。

父に食道癌が見つかりました。
当時私は舞台の本番中にその事実を知り、
偶然にもその時演じていたのは自分の父親が癌になるという娘役でした。
そのシンクロにも驚きましたが、
幸い父はその舞台を大阪公演で観にきてくれて、
ストーリーは伝えていなかったので、父の方が
その重なりに驚いていた様子でした。

その翌日から抗がん剤治療が始まりました。
父のすごいところは、
1ヶ月に2回やっている、曲独楽の教えを、
その治療中から一ヶ月後手術を無事終えて、
断食が45日続き、無事退院するまでの間、

一度も休んでいない、ということです。

そして12月のクリスマス前から、
父は舞台に復帰して、
お正月まで毎日本番を迎えました。

その、お正月最後のステージを、
観に行かせてもらいました。

何度も観ているステージですが、
いつもに増して、観ているこちらも緊張しました。
もちろんまだ完全に万全とはいえない身体で、
声もしっかりでない現状で、
やれる限りの精一杯の芸をやってみせる父に、
ただ成功しますように、手を握らずにはいれなかったのですが、

それでも途中はそんなことを忘れさせる瞬間に、
胸をなで下ろしました。

壮絶な病院生活から、今も闘っている父の姿に、
簡単な言葉は出てきませんでした。


 山本真由美さんの日記ではコメントを受け付けていないので、無断で引用することになるが、お父さんのことを少しでも知っていただきたいので、ご容赦をいただきたい。 

 寄席で曲独楽を演じる弟子がいたかどうかは、不勉強で知らない。
 しかし、闘病中でも休まなかった米八さんの教えを受けた弟子がいたことは、間違いない。
 彼による、大事な遺産だと思う。

 毎日新聞によると、今夜お通夜、明日が葬儀とのこと。
毎日新聞の該当記事

 残念ながら生の芸に出会うことがなかった方だが、彼の足跡は、少しだけ分かった。


 噺家であり曲独楽師でもあった稀有な芸人、桂米八さんのご冥福を祈りたい。
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by kogotokoubei | 2015-01-22 06:02 | 上方落語 | Comments(2)
昭和に作られた新作落語で、多くの噺家さんが演じることで古典となりつつあるネタは、いくつかある。

 上方落語で、その代表作の一つは、間違いなく『まめだ』だろう。
 「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった三田純市が、桂米朝のために創作した噺だが、その直筆原稿が発見されたらしい。朝日の記事からご紹介。
朝日新聞の該当記事

落語名作「まめだ」の直筆原稿発見 桂米朝さんが初演
篠塚健一
2014年11月15日05時13分

 人間国宝の落語家桂米朝さん(89)が1966年に初演し、昭和生まれの古典落語となった「まめだ」の直筆原稿が見つかった。作家の故三田純市(みたじゅんいち、当時は純一)が同じ年に書いたとされる台本で、長らく行方がわからなかった。高座と比べることで、米朝さんの名演出ぶりも浮かび上がる貴重な資料だ。

 兵庫県尼崎市の米朝さん宅の資料整理を依頼されている小澤紘司さん(69)が9月18日に洋服箱の中にあるのを発見した。表紙に続き、400字詰め原稿用紙12枚にペンで記されている。銀杏(いちょう)の色づく秋の大阪・道頓堀界隈(かいわい)が舞台で、地元出身の三田が伝説に基づいて書いたと言われる。

 筋書きはこうだ。主人公の役者右三郎(うさぶろう)が帰宅中、イタズラをするまめだ(豆狸〈だぬき〉を指す大阪弁)をこらしめると、家の膏薬(こうやく)屋に見慣れぬ子が来ては貝殻に入った膏薬を買っていくようになった。その子が来ると売り上げに銀杏の葉が交じり、1銭足りない。やがて三津寺で体中に貝殻をつけたまめだの死骸が見つかる。右三郎は、まめだが化けていたことや膏薬のはり方がわからず命を落としたことを悟り、悔やむ——。

 高座に基づく「米朝落語全集 増補改訂版」(創元社)の「まめだ」と今回見つかった台本を比べると、米朝さんの施した繊細な工夫が読み取れる。

 物語の序盤、噺(はなし)の格調を高めるこの描写を入れた。

 「雨がしょぼしょぼ降ってきたんで、知り合いの芝居茶屋で傘を借りた。パラパラパラパラ番傘に雨の音。ええもんですなあ。時節はちょうど時雨の時期、秋です。人通りも、今のように賑(にぎ)やかなことはないんですが、太左衛門(たざえもん)橋を渡って、宗右衛門町(そえもんちょう)を通りすぎて、三津寺筋(みってらすじ)を西へとって……。カタカタ、カタカタと高下駄(たかげた)を履いて、雨の中を、借り傘をさして帰ってくる」

 主人公の右三郎が家に帰っていく場面。秋の美しい情景が目に浮かび、ぐっと季節感が深まる。一方、台本の記述は次のように淡々とつづられており、違った印象だ。

 「『降って来よったな。うっとしいな…秋口の雨というのはどうも陰気でいかんな』

 ボヤきながら太左ェ門橋を北へ渡って三津寺すじを西へ曲ります。なじみの芝居茶屋で借りた番傘を肩に心斎橋の手前まで来ますと」(原文のまま)

 三津寺の最後の場面も、巧妙に変えられていた。「サーッと風が吹いて銀杏の葉が一枚ヒラヒラとまめだの頭の所へ散りかかります」。それを見ていた右三郎の母親が「狸仲間から香典が届いた」というのが台本のサゲだ。

 米朝さんは「秋風がさーっと吹いてくる。銀杏の落葉が、はらはら、はらはら、はらはら、はらはらと、狸を埋(うず)めた上へ集まってきます」と幻想的に表現。さらにサゲを右三郎の言葉に変えて「お母はん、見てみ。……狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」。悲しみの中にもより朗らかさを漂わせた。

 戦後、滅びかけた上方の古典に手を入れて再生してきた米朝さん。新作だった「まめだ」もまた、味のある原作に、米朝さん一流の名演出や脚色が加わってこそ、秋を描いたよき落語として今日まで引き継がれることになったのだろう。(篠塚健一)

  ◇

 〈三田純市(1923~94)〉 大阪・道頓堀の芝居茶屋に生まれた作家。著書「昭和上方笑芸史」で芸術選奨文部大臣賞。桂米朝さんや永六輔さんらとともに「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった。


 なかなか良い出来事(?)だったと思う。しかし、当の米朝が再演するのは難しいだろうから、一門にぜひ継承していって欲しい。
 この噺、その一門の中で、もっとも米朝落語を正統に継承していると思われる桂米二が、三年前の内幸町ホールでの独演会で披露してくれたのを聴いている。
 
 落語愛好家仲間のYさんに誘われ、初めて米二の東京の会に行った際のネタの一つだった。
 その時の記事でも引用したが、米朝は、著書の中で、数少ない秋の噺としてこのネタを評価している。
2011年9月9日のブログ

 『米朝ばなし』(講談社文庫、昭和59年11月発行)からの引用。桂米朝著『米朝ばなし 上方落語地図』

 三田純市氏の新作で、十年余り前のものですが、道頓堀界隈に伝わる古いはなしをもとに作られたものです。だいたい東西ともに秋の落語が少ないので、三田さんのおかげで、非常にいい秋の落語が出来たことを、喜んでいます。


 そうなのだ。秋の噺は、意外に少ない。
 
 この噺は、三津寺(みってら)さんの銀杏の落ち葉、という季節感たっぷりな小道具が重要な役割を果たす。
 傘が急に重くなったのは、まめだの悪さのせいだろうと思った右三郎が、傘を差したままでトンボを切ったために地面にたたきつけられ傷を負った、まめだ。人間の子供に化けて銀杏の葉を金に変え、右三郎の母のところへ膏薬を買いに行く。膏薬の中身を紙や布に延ばして付けるべきところを、貝殻の容器に入ったまま体にべたべた付けていたため傷は治らず、残念ながら亡くなる。自分のせいで、まめだが亡くなったことに気付いた右三郎が弔ってあげようとしたところ、まめだの死骸の周囲に、三津寺さんの銀杏の落葉がたくさん落ちてきてた。
 それを見た右三郎が母に向かって、「お母はん、見てみ。……狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」でサゲ。

 季節感といい、サゲの出来栄えといい、私は非常に良い噺だと思う。
 
 原稿発見を機に、米朝一門のみならず多くの上方の噺家さんに演じて欲しい旬のネタであり、できれば誰か東京の噺家さんにも東京版に改作して聴かせて欲しいと思う。東京の落語も、『目黒のさんま』のほかに、典型的な秋の噺というのは少ないのだよ。

p.s.
コメントでmyonさんから、露の新治も『まめだ』を演じるとの情報をいただいた。
後になって思い出したが、私が行けなかった9月21日(日)の内幸町ホールの独演会、三席のうちのひとつがこの噺だったのだ・・・・・・。落語愛好家の皆さんのブログを見て、悔しい思いをしたものだった。
そのうち、ぜひ聴きたいものである。
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by kogotokoubei | 2014-11-17 07:04 | 上方落語 | Comments(9)
関西の方への情報。
 MBSテレビ25日夜7時からの「水野真紀の魔法のレストランR」で、枝雀の行きつけの店が紹介されるらしい。
スポニチの該当記事

枝雀さんが愛した店 “上方落語の爆笑王”感動秘話が続々

 伝説の落語家・故桂枝雀さんが愛した料理や知られざる感動秘話が、25日放送のMBSテレビ「水野真紀の魔法のレストランR」(月曜後7・00)で明かされる。 

 今は亡き関西ゆかりの著名人が通った店を、思い出とともに紹介する同番組の人気企画「あの大スターが愛した味」の第4弾。1999年4月、59歳で世を去った“上方落語の爆笑王”の行きつけだった店を同門下の桂ざこば(66)、弟子の桂南光(62)、元同局アナウンサーの角淳一氏(69)らが訪れる。

 一日に2回通ったこともあるほどお気に入りだった大阪府吹田市内の寿司店「栄すし」。茶わん蒸しをおかわりする枝雀さんのために、特大茶わん蒸しが用意されるようになったというが、寿司は「トロとアジしか食べんかった」とざごばが振り返った。

 大阪・ミナミの法善寺横丁にある「洋酒の店 路」は、枝雀さんがプロポーズを決行した店。枝雀さんの決意を知っていた彼女は、お酒を飲んでいない状態でプロポーズしてくれたら受けると決めていたといい、シラフの枝雀さんの様子に、告白される前にOKしたという前代未聞のエピソードなどが披露される。

 亡くなる数日前にも行ったという大阪府豊中市内の「焼き肉たかみ」のハラミ、新梅田食道街の立ち飲み居酒屋「北京」の名物たまご料理「エッグ」など、枝雀さんこだわりのメニューも紹介。飲みながら語ったお笑い論や哲学など、天才の金言もよみがえる。 [ 2014年8月14日 09:27 ]



 角淳一と言えば、MBSラジオ「ヤングタウン(通称:ヤンタン)」ではないか。懐かしい。

 こういう時は、関西の方が羨ましい。しかし、録画してDVDを送る、などというお気遣いは結構ですよ。本当に。

 何かと情報の東京偏重が多い中、上方落語関係については、地元で情報が多いのは当り前なのです。

 ただし、MBSサイトの同番組の案内を見ると、必ずしも枝雀関連ばかりではないようだ。
MBSサイトの該当ページ

人気シリーズ「あの大スターが愛した味」の第4弾!今回は、上方落語の爆笑王、桂枝雀、ガッツ石松や井岡弘樹を育てた伝説のボクシングトレーナー、エディタウンゼント、そして「ポストダウンタウン」とも言われ、25歳でこの世を去った、ベイブルースの河本の愛した味。桂ざこば、桂南光、角淳一が、桂枝雀の思い出を辿り、あの田原総一朗が、エディタウンゼントの生涯に迫り、相方の高山や公私ともに姉貴でもあったシルクが、ベイブルース河本を振り返る。愛したグルメを通して、壮絶人生や感動秘話が今、よみがえる。


 一時間番組の中でどれ位が枝雀行きつけの店に割り振られるかは分からないが、ご興味のある方は、どうぞお楽しみのほどを。
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by kogotokoubei | 2014-08-19 12:22 | 上方落語 | Comments(0)
昨日、昭和二十三年の浪花三友派発足による上方落語界分裂の危機が回避されたことを書いたが、当時の様子について、もう少し紹介したい。

 五代目笑福亭松鶴と二代目桂春団冶が、なぜジャンケンをしていたかも“謎”のままだったので。

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*朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行

 露乃五郎、と書いていた頃の著作『上方落語夜話』(大阪書籍、昭和57年発行)から引用。

 昭和二十四年、春の曙と供に、松鶴、春団冶の和解をのぞむ声が高まり、時をおなじゅうして留男が二人もあらわれました。
 一は京都富貴の金主方小沢富次郎氏であり、一は、このところ若手落語家たちめんどうを何くれとなく親身になってみてくれる、南区畳屋町、料理旅館「暫」の主人中田昌義でした。
 小沢富次郎氏は仲人役として東京から三遊亭金馬をまねき、金馬、松鶴、春団冶を京都の料亭に寄せて話をし、手をしめて、陽春公演として松鶴、春団冶が十日間一座して、中入りのトリと、トリを、一日交替でつとめる。以後は十日交替で富貴のトリをつとめることになりました。証人が金馬で、松鶴、春団冶は無邪気にジャンケンをして、お互いのトリの日をきめたと申します。
 一方中田昌義氏は、講談の旭堂南陵を仲介に話をすすめ、この機に演芸陣の大同団結をうながすべく漫才界にも呼びかけて、関西演芸協会結成のはこびとなったのでした。
 昭和二十四年四月二十三日、役員は、会長旭堂南陵、副会長笑福亭松鶴、幹事芦乃家雁玉、林田十郎、桂春団冶、花月亭九里丸、顧問に中田昌義、会員は三十六名でした。
 戎橋松竹や京都の富貴へは東京から、正蔵、志ん生、小さん治(現小さん)、金馬(先代)たちが相ついで来演し、これをむかえて、春団冶、松鶴が万丈の気をはき、米団冶は有志の後援を得て、落語会を所々に開く、正に上方落語の花は明日にも咲き匂うかと思われましたが、黒い魔手はすぐ近くまで忍びよっていたのでした。
 昭和二十五年七月二十二日、魔の手は五代目笑福亭松鶴を黄泉へつれ去り、続いて二十六年九月二十三日には立花家花橘を、十月二十三日には四代目桂米団冶を・・・・・・。


 浪花三友派発足による分裂の危機は、さまざまな人の努力で回避されたが、その後、戦前から上方落語界を支えてきた重要人物が相次いで亡くなった。

 上記の中で、あまり知られていないのが立花家花橘だろう。『古今東西落語家事典』から、ご紹介。

 二代目である。明治十七年徳島の生まれで、はじめは素人仁輪加に入っていたが、初代笑福亭福松に入門し、福二。その後、師匠は五代目林家正三、二代目桂文団冶を替え、上京して約十年間三遊派に身をおいて修業。大正元年十月に女ながらも演芸界で重きをなしていた立花家橘之助の一門となって、二代目立花家花橘を襲名。師匠の橘之助は、山田五十鈴が『たぬき』で演じた浮世節の名人。榎本滋民作のこの舞台には志ん朝も出演していた。山田五十鈴が旅立った時に書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年7月11日のブログ

 初代花橘は若くして亡くなった女性の音曲師だったので、襲名には周囲から反対もあったようだ。帰阪して三友派に所属。一時は吉本の所属となったが、のち吉本を離れ、戦後まで活躍した人で、明朗な口調と大きな声で評判が高く、ネタも百数十種と上方随一と言われた人。レコードの発売数は初代春団冶の次いで二位とのこと。『七段目』『お玉牛』『蛸芝居』などの芝居がかった噺うぃ得意とし、一席終わったのちに『夕暮』を弾かせてさまざまに珍妙なポーズをとって踊る『文人踊り』は、噺家の踊りとして一種の徘画的な味わいがあったと言われる。
 戦後の戎橋松竹時代は、自身の高座のかたわら後進の指導にも熱心で、五代目文枝や三代目春団冶も数多くのネタを稽古してもらったらしい。五代目松鶴や四代目米団冶は、名も今に残っていて語られる機会も多いが、花橘は、当時の人気の高さや伝統の継承への貢献を考えると、もう少し知られても良い人だと思う。

 戦前から上方落語界を支えていた名人上手が相次いで亡くなる中でも、若手は桂文枝の命日に紹介したように奮闘していた。しかし、昭和二十六年の三月三十一日に京都富貴千秋楽の夜席をすませた直後、二代目春団冶が心臓弁膜症で入院。五月になんとか健康をとりもどして退院した後、秋頃から開設される民間放送の出演依頼などの仕事の相談がもちこまれるようになる。
 昭和二十六年九月新日本放送(現毎日放送)開局、同じく十一月朝日放送開局。

 春団治は朝日放送と同時に「春団冶十三夜」に出演し、その大衆への浸透力にあらためて目を開き、民間放送を通じて若手の落語家を売り出し、よって上方落語を大衆演芸の王座へもどそうとはかりました。
 新二本放送に働きかけて“演芸蚤の市”という番組に新旧の落語家を採用ときまった時には、自らその人選、演目の選択を買って出るほどの意気込みをみせましたが、その第一回録音に立ち会った数日後、二十七年十二月三十一日、またもや心臓弁膜症の発作におそわれ、除夜の鐘をききながら阪大へ入院の車を急がせなければなりませんでした。


 二代目春団冶の傍にいた著者でなければ書けない内容だろう。大変な大晦日になってしまった。

 さて、この後はどうなるのか・・・は次回に譲りたい。
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by kogotokoubei | 2014-03-14 21:07 | 上方落語 | Comments(0)
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 昨日、命日に五代目桂文枝のことを書く中で引用した露の五郎著『上方落語のはなし』は、著者の半生記を語りながら、同時代に経験した上方落語の歴史を解き明かしてくれる好著である。

 ただし、下記の朝日新聞出版のサイトには「再販未定」とある。こういう本は落語愛好家として、ぜひ重版を期待する。
露の五郎著『上方落語のはなし』(朝日新聞)

 昨日の記事で、昭和二十三年に、戎橋松竹派、と反戎橋派、言い換えると五代目松鶴派と二代目春団治派に分裂したことを書いた。

 では、その後はどうなったのかを、本書からご紹介。

関西演芸協会-大同団結への仕掛け人

 昭和二十四年四月二十三日、関西演芸協会が発足しました。
 役員は、会長に二代目旭堂南陵、副会長は五代目笑福亭松鶴、幹事として二代目桂春団冶、花月亭九里丸、芦の家雁玉、林田十郎が名を連ね、会員は三十六名。顧問には中田昌義、後に枚岡市長になった人で、この頃はまだ、ミナミの料亭「暫」(しばらく)のご主人でおました。
 粋人で世話好きで、或る時、中村メイコが厄介になってるかと思うと、中村あやめが仮寓していたり、若手落語家のだれかがころがり込んでたり、という具合。
 実は、関西演芸協会の仕掛け人は、この中田昌義で、関西芸能人の大同団結をはかるとともに、戎橋松竹と京都富貴に分かれて派を競う、松鶴と春団冶を和解させようという計らいでおましたのや。
 橋渡しは、会長にすえた講談の旭堂南陵。仲々の人格者で見た目も格調があり、つやつやしたそれでいて柔和な面ざし。これが高座へ上がると、キリっとしまって、リンとした風格朗々たる口跡。当時七十歳を超えた御老体とは、とても思えぬ堂々の高座。「太閤記」「難波戦記」などが得意で、私の師、春団冶いわく。「春坊よう見ときや。こういうのを重みのある芸というのやで」


 分裂の危機に、それを防ごうとした中田昌義と旭堂南陵の名は、上方落語界の歴史に名を残さなければならないだろう。

 料亭の主人から、市長へ。上方芸能の偉大な“お旦”であった中田昌義と、文楽の何たるかを知らず、税金の無駄使い選挙をしようとする橋下。この二人の文化の受容指数は月とスッポン、いや宇宙と深海ほどに違う。


 上方落語界分裂の危機を救った人は、他にもいた。

「ジャンケンポイ」
「アイコデホイ」
 二代目春団冶と五代目松鶴が無邪気にジャンケンをしているそばで、東京落語の三代目三遊亭金馬がニコニコと笑うてはりました。
 この三代目金馬という人、昭和三十九年十一月八日に亡くなりましたんで、まだまだご存じの方もぎょうさんいてはると思います。
 (中 略)
 時は昭和二十四年。ちょっとはっきりしまへんけど、関西演芸協会発足の前、三月ころやなかったかと思います。場所は京都の料理屋で、どこやったかこれもいまいちはっきりしまへん。何しろ、その時、その場にいたのは、富貴席主横田重雄、金主方小沢富次郎、五代目松鶴、付き人光鶴(後六代目松鶴)、二代目春団冶、付き人春坊(筆者)、仲人三遊亭金馬の七人。生きているのは私だけで、だれにも確かめようがおまへんのや。



 その露の五郎(露の五郎兵衛)も平成21(2009)年3月30日に亡くなった。今、この会合の行われた京都の料理屋を知る術は皆無となった、のだろう。

 戦後、復興途上で起こった上方落語界分裂の危機は、贔屓筋のお旦、別の演芸の仲間、そして東京の噺家などの努力もあって、なんとか救うことができた。

 こういう歴史も、知っておいて損はないと思う。

 この本の貴重な情報は、今後も何度かご紹介するつもりである。
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by kogotokoubei | 2014-03-13 19:07 | 上方落語 | Comments(0)
8日の豪雪の中で、“決死隊”の前で独演会を開き、来場の方を9月21日の独演会に招待するにとどまらず、私のように交通事情のため行けなかった人まで、9月の会に振り替えてくれるという、なんとも偉い、上方落語家の露の新治。
 ただし、下記のメールアドレスの、「露の新治東京事務局」に9月の会への振替え希望であることを連絡することが必要。2月8日のチケットさえあればOKとはお思いにならないように!
tsuyuno_shinji@yahoo.co.jp

 ご本人のサイトにある「日記」(「へらへら日記」)の記事で当日のこともよく分かるし、人柄やお客さんへの気配りも感じ取れるので、せっかくだから全文をご紹介しよう。
露の新治のサイト

「13年ぶりの大雪に、第3回 まいどおおきに露の新治です」(2014/2/9)

 第3回東京独演会「まいどおおきに新治です」は、大雪のため、一時は中止も考えましたが、中止を周知徹底することもできず、とりあえずはやると決め、カラオケボックスに集合、打ち合わせ、稽古をしました。「兵庫舟」、「七段目」ともに、はめものがいろいろ入ります。会場に着くと、周辺は凍りついた世界で、とても何かやれる雰囲気ではなかったのですが、なんとすでにお客様が開場を待ってはります。やるとかやらんとか迷っていた気持ちもふっ飛び、バタバタと準備。お客様はなんと80人ほどに。「この人ら、ちゃんと帰れるんやろか?」。落語の決死隊のような熱い方々のお気持ちに感激。なんと「当日券が2枚」出ました。あの吹雪の中、当日券ですよ。もちろん前売り料金で入って戴きました。
 開口一番は、私の「兵庫舟」。まくら無しで入ってしまい、サゲがわかるかどうか心配しましたが、なんとかやれました。以下「あくびの稽古」・笑助、「七段目」・新治、(お中入り)、「演歌」・岡大介、「柳田格之進」・新治。終演21:35。片付けて、打ち上げもせず立川に着いたら、午前1時。大変な一日になりました。
 しかし、東京の落語ファンと生野高校の同期の熱い支えにより「ほんまに、やってよかった」と思える落語会がやれました。「つばなれしたら、各自が一席やって、帰っていただこう」とか考えてましたが、お客様の「聞いてやろう」という熱い気持ちに腰が座り、前回より長くやる始末。私の落語を聞くために、あの大雪、吹雪を乗り越えて会場まで来てくださるお気持ち。落語家として本当にありがたい経験をしました。何べんもしたくはないですが、いい経験になりました。嬉しかったので、お礼の気持ちを形にしたいと「決死隊の皆様を、次回の寄席にご笑待」することにしました。やむを得ず来られなかった方には、「返金か次回ご笑待」を選んで戴きます。
 あの状況でやれてよかった、いい経験をさせて戴いたと感激した翌日、夜来の雪も止み、日本晴れ。お日差しが雪に映えてまばゆいばかり。そうなると「なんで一日、ずれてくれへんかってん」と、今度は悔しさが。まだまだ修行ができてません。願生ります!


 「ご笑待」という文字に、ご本人のうれしさが込められているように思う。“決死隊”80人もいらっしゃったんだ。凄い!

 ということで、露の新治へのお礼の意味(?)も込めて、彼の師匠の本について書きたい。

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*朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行

 新治の師匠は二代目露の五郎兵衛である。最近、この人の『上方落語夜話』を読んだのだが、非常に良い本だった。『蛸芝居』について書いた時、初代桂文治について書かれた文章を紹介した。
2014年2月1日のブログ

 本書は、朝日カルチャーセンターで二時間づつ五回に渡って話した内容を元に、神戸のタウン誌『センター』に連載した記事、そして神戸新聞や京都民報、『上方芸能』に書いた内容などを補って整理した内容なのだが、上方落語を知る上で、非常に有益だった。

 第一章から第四章までは、自分の体験談も交え上方落語の歴史を説明しているが、第五章は趣が変わって「落語の楽しさ」となっている。

 この章の最後に「前座ばなし」「中ネタ」(中トリ級のネタ)「切ネタ」(トリ級のネタ)について、列記されているので、一部抜粋して紹介したい。
 著者いわく、「思いつくままに、ざっと書き出してみましょう」とのこと。この「ざっと」が決して少なくない。

 まず「前座ばなし」から。

前座ばなし
 東の旅 百人坊主 運付く酒 法会 鳥屋坊主 常太夫儀太夫 軽業 
 軽業講釈 京名所 煮売屋 瘤弁慶 明石船 走り餅 鯉津栄之助 
 小倉船 兵庫舟 これこれ博突 播州名所 七度狐 尼買 牛駆け 
 地獄八景 深山がくれ 宮巡り 牛の玉子 高宮川 矢橋船 桑名船 
 化け寺 宿屋敵 紀州飛脚 宿屋町 絵根問 歌根問 口合根問 
 商売根問 浮世根問 池田の猪買い


 掲載されていたネタ38席を全て並べてみた。
 前座噺に『東の旅』は有名だし、根問ものが多いのも知っていた。しかし、これだけ他に知らない噺が並ぶとは思わなかったなぁ。
 
 続けましょう。

中ネタ
 腕喰い 秋無い夢 無事の親 壷算 寄合酒 黒玉つぶし 鷺取り 
 延陽伯 子ほめ 蛇含草 しびんの花活 牛ほめ 貧乏花見 風の神送り 
 春雨茶屋 八五郎坊主 高倉狐 饅頭こわい 鉄砲勇助 餅屋問答 
 無精の代参 元犬 花色木綿 浮世床 道具屋 お玉牛 首の仕替
 犬の目 動物園 嫁々違い 天狗さし 向う附け 首屋 権助提灯 
 山号寺号 軒付け 宿替え オゴロモチ盗人 棒屋 鼻の上桂馬 蔵丁稚 
 疝気の虫 いかけ屋 茶漬幽霊 のぞき医者 写真の仇討 仏師屋盗人 
 首提灯 二十四孝 じがじが チリトテチン 高砂や 鼻捻じ 蛸坊主 
 豊竹屋 金玉茶屋 理屈按摩 さかさま蚊帳 日和違い 稲荷車 
 あくびの稽古 阿弥陀池 大和関所 初天神 稽古屋 三十石 愛宕山
 崇徳院 七段目 蛸芝居 菜刀息子 ごうち盗人 近日息子 酒の粕
 はったい棒打 三人癖 仁王 御太刀のツバ キライキライ坊主


 実は、これでも掲載されている224席のネタの三分の一ほどなのである。
 なんと知らない噺が多いことか。
 また、『子ほめ』『道具屋』『牛ほめ』『道具屋』などが、東京落語とは内容が少し違うとはいえ、前座ばなしではないということも意外だった。またもや、知らないネタが、多いこと。

切ネタ
 口合按摩 足上り 手切れ丁稚 代脈 胴乱の幸助 鬼の面 夢八 
 抜け雀 住吉駕 居候講釈 蜆売り 鹿政談 人形買い 鍬潟 
 親子茶屋 按摩炬燵 貝野村 不思議の御縁 船弁慶 寝床 網船 
 佐々木政談 吉野狐 猿後家 宇治の柴船 二番煎じ へっつい幽霊 
 後家馬子 禁酒関所 おすわどん ステレンキョ 子猫 片袖 
 慾のくまたか 次の御用日 質屋蔵 三方一両損 虱茶屋 応挙の幽霊 
 菊江仏壇 植木屋娘 堀川 市助酒 冬の遊び ざこ八 箒屋娘 後家殺し
 肝つぶし 土橋万歳 鬼あざみ清吉 百年目 煙草の火 子別れ 
 大丸屋騒動 雁風呂 三人兄弟 立ち切れ 千両みかん らくだ

 
 59席、すべて並べた。しっかり『大丸屋騒動』が入っているのが、なぜかうれしい。
 
 これらのネタが現在も高座によくかけられているのかどうかは、勉強不足で分からない。
 
 それにしても、知らないネタの多いこと。この本の発行は昭和57年である。三十年ほど前ではあるが、落語の長い歴史から考えれば、ついこの前のことだ。

 未体験のネタ、まだ上方では聴けるネタなのなら、ぜひ聴いてみたい。『じがじが』『キライキライ坊主』なんて、いったいどんな噺なのだろう^^

 『冬の遊び』は、『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』の中で、米朝がスケールの大きい噺として紹介していることを、だいぶ前に書いた。残念ながら、まだ聴く機会がない。
2008年10月4日のブログ

 8日の新治の三席、『柳田格之進』を「切ネタ」とするならば、前座ばなしの『兵庫舟』、中ネタ『七段目』、そして切ネタの『柳田格之進』という三つを並べたことになる。流石である。

 新治の師匠露の五郎兵衛が「ざっと」思いつくまま並べた321席、なんと半分以上は聴いたことがないのだ。

 上方落語、まだまだ奥が深い。もっと聴かなきゃなぁ。
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by kogotokoubei | 2014-02-11 07:12 | 上方落語 | Comments(4)
先日、現在末期がんと闘っている松喬が、28日から再開される道頓堀角座への出演を予定していることを紹介した。
2013年7月23日のブログ

 道頓堀角座について、「松竹角座」のサイトに、「劇場の名称『角座』に関して」という説明があるので引用したい。
「道頓堀角座」サイトの該当ページ

「角座」の名称は、「角の芝居」と呼ばれた江戸時代に遡ります。 「角座」はかつて、浪花座、中座、朝日座、弁天座と共に、「五つ櫓」若しくは「道頓堀五座」と呼ばれ、1960年~70年代には、上方演芸の殿堂として栄えました。

その後、「角座」の名称は、松竹(株)の直営映画館(大阪市中央区)や弊社直営の劇場「B1角座」(大阪市中央区)に引き継がれていましたが、2008年の角座ビル(大阪市中央区)の閉館と共に、消滅致しました。

この由緒ある名称を、日本のエンタテインメントの中心である東京・大阪で復活させ、新たな歴史をスタートさせたいと考えております。
この劇場から、日本を代表するエンタテインナーが続々と輩出され、文化の発展に寄与できるものと考えております。


 新たな歴史のスタートが今日28日からで、松喬が出演を予定しているのは明日29日の「角座 月夜はなしの会」夜の部である。「道頓堀角座」サイトの“角座 月夜はなしの会”のページ

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笑福亭松枝著『ためいき坂 くちぶえ坂』(浪速社)

 以前にも紹介したことがあるが(2012年6月18日のブログ)、入門では松喬のすぐ後、六代目笑福亭松鶴五番目の弟子である松枝が書いた『ためいき坂 くちぶえ坂』は 1995年に初版が発行され、一昨年6月に改版発行。
 副題が「松鶴と弟子たちのドガチャガ」。まさに、その“ドガチャガ”は何とも可笑しかったり、理不尽だったり、そして感動的であったりする。


 この本で、角座のことを書いている部分から引用したい。六代目の芸についても、弟子松枝の熱い視線で語られている。

 「お陽気な、漫才と漫才の間に挟まりまして、私の方は至って陰気な落語で御座居ます・・・・・・」
 松鶴が喋り始める。道頓堀・角座、千百席を埋めつくし尚通路に溢れる観客は、その耳を熱心に傾けているとは言えない。
 「お後が、皆様お目当ての漫才で御座居ます・・・・・・」
 言葉通り彼らは漫才を楽しみに来たのである。プログラムを改めて見直し、小用やロビーでの喫煙に立ち、弁当に取りかかる客の多さがそれを物語っている。隣席が空いたと、大声で連れに知らせる者もいる。其席に着いた者も又、此の後の漫才を待ち焦がれている。彼等は落語等、松鶴等いらない。早く終れば有難い。
 「只今(その漫才が)楽屋で支度中、その用意が出来ます迄のお付き合い、時間に致しまして」客が耳をそばだてる。
 「ホンの僅か・・・・・・、八時間半程、喋らせて頂きます」客席に笑いが起こる。
 「只今、大相撲○○場所、たけなわで御座居ます。・・・・・・『さあー、しっかり相撲取れよー』・・・・・・」おもむろで静かな語り出しから一転、とてつも無い大声を張り上げ、ランランと輝いた瞳で、架空の土俵を中空に見据える。松鶴は今、獲物を捕えに掛かった。声と目で威嚇し追い詰め、そして柔和に微笑みかけ、抱き寄せる。観客は何時しか、“相撲場”にいる。角座の舞台は奇麗に消えて、舞台の松鶴の相撲場に居る見物客になる。
 ~手に持った握り飯が無くなりキョトンとする客、小便を堪えかね泣く客、一升瓶に入れられたそれを酒とカン違いし、今まさに口にせんとする酔っぱらい~が、確かにそこに居る。
 「大騒ぎ。お馴染の『相撲場風景』で、御座居ます」
 涙こぼれる程に笑いころげた客は、万雷の拍手で満足を伝える。後を歩く松枝に、楽屋へ帰る松鶴の背中は大きく大きく見える。

 昭和四十年代、関西は大型の演芸場ブームで、吉本は難波、梅田、京都にそれぞれも「花月」、松竹には角座、神戸・松竹座、新世界・新花月が有って、何処も活況を呈していた。収容客数の多さと広い舞台には、それに見あう芸能が人気を集める。百花繚乱の趣を誇ったのが、「漫才」「音楽ショウ」であった。「落語」は、それが“寄席”である言い訳の様に、せいぜい一本(一人)か二本組み入れられている状態だった。松鶴・米朝・春団治・小文枝(現・文枝)達はその中で孤塁を守るの感があった。
 現在、道頓堀に「演芸の角座」は無い。僅かに其の名は映画館を含むテナントビルにとどめている。


 
 漫才ブームの中、落語への興味の薄い客の目と耳を高座に向けさせようとする六代目の気迫が伝わるようだ。

 松竹芸能の所属である六代目にとって、角座は特別な場所だったに違いない。

 それは弟子の松喬にとっても同じだろうし、長い休みを挟んだ“演芸場”角座への思いはとりわけ強いものがあるだろう。

 明日の夜、こけらおとし「角座 月夜はなしの会」の高座に、松喬が無事上がってくれることを祈るばかりである。
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by kogotokoubei | 2013-07-28 18:40 | 上方落語 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛