噺の話

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カテゴリ:上方落語( 20 )

 米朝が三代目春団治に宛てた『親子茶屋』の自筆原稿が、三代目の遺品から見つかったとのこと。
 共同通信の配信が、各紙で取り上げられていた。
47NEWSの該当記事
米朝さんの落語自筆原稿発見
春団治さんにネタ伝える
2017/1/11 16:46

 人間国宝の落語家、故桂米朝さんが、「上方落語四天王」と並び称された故桂春団治さんにネタを伝えるために書き起こした古典落語「親子茶屋」の自筆原稿が見つかり、米朝事務所などが11日、報道陣に公開した。

 戦後、上方落語の復興に尽力した四天王の交流を物語る資料で、米朝さんの長男で弟子の桂米団治さん(58)は「4人はライバルで、仲も良かった。父も春団治師匠には一目置いていた」と話している。

 米朝さんが春団治さんに宛てた原稿用紙は計8枚。春団治さんの遺品から見つかった。
 動画も配信されていて、他に『一文笛』の原稿も見つかったらしい。


 『親子茶屋』の原稿に、「御身 御大切に」と書かれているのが、印象的だ。

 1月28日から兵庫県立歴史博物館で開催される特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」で公開されるらしい。
兵庫県サイトの該当ページ
 

 この『親子茶屋』が米朝から三代目に伝わることになった背景には、ある逸話があった。

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小佐田定雄著『米朝らくごの舞台裏』(ちくま新書)

 小佐田定雄さんの『米朝らくごの舞台裏』は、全270頁のうちの250頁が「第一章 米朝精選40席」である。

 昭和41(1966)年から京都東山区の安井金毘羅宮の境内にある安井金毘羅会館で始まった「米朝落語研究会」の座談会や反省会の内容、毎日放送の「特選!!米朝落語全集」の「こぼれ話」で知り得た逸話、雑誌「落語」のインタービューの内容などを交え、米朝落語のネタ40席ごとに、得難い情報が提供されている。

 その「精選40席」を、並べてみる。
足上がり/愛宕山/池田の猪買い/一文笛/稲荷俥/馬の田楽/親子茶屋/怪談市川堤/景清/かわり目/胆つぶし/くしゃみ講釈/けんげしゃ茶屋/高津の富/小倉船/仔猫/こぶ弁慶/堺飛脚/算段の平兵衛/鹿政談/地獄八景亡者戯/しまつの極意/除夜の雪/疝気の虫/代書/たちぎれ線香/茶漬間男/つる/天狗さし/天狗裁き/動物園/ぬけ雀/猫の忠信/はてなの茶碗/百年目/坊主茶屋/本能寺/まめだ/らくだ/禍は下

 『親子茶屋』はしっかり入っている。
 
 さて、このネタを含めていくつかの噺が米朝から春団治に伝わったのだが、そのいきさつについて本書から引用する。

 春團治師が前名の福團治から春團治を襲名したのは1959年3月。まだ二十九歳であった。襲名直前のこと、いっしょに酒を飲む機会のあった米朝師は、酔った勢いもあって福團治時代の春團治師に、
「福さん。あんた、今のネタ数で春團治を継いでええと思うてんのか」と意見したのだそうだ。福團治は、その場は黙って聞いていた。その翌朝、米朝師が自宅で目を覚ますと枕元に誰かが座っているので、驚いて飛び起きると福團治師が座っていたそうだ。
「なんや。来てたんやったら、起こしてくれたらええのに」
「いや、寝てるのん起こしたら悪い思うてな」
「なんやねん?」
 ゆうべネタ数が少ないということを言われてむかついたけど、よう考えてみたら言うてもろうたとおりやと思う」
「わし、そんなこと言うたか?」
「おぼえてへんのか!今日来たというのは、ネタを付けてもらおと思うてお願いに来たんや」と一升瓶を差し出したのだそうである。
 その心意気に打たれた米朝師は、この『代書』と『親子茶屋』、『皿屋敷』、『しまつの極意』などを教えたという。この中で『代書』、『親子茶屋』、『皿屋敷』は春團治師の十八番として完成品となった。そして、春團治師が演じるようになると同時に、米朝師はこれらのネタをあまり高座にかけなくなった。『皿屋敷』と『親子茶屋』はたまに演じることもあったが、私が米朝師の『代書』に出会うには1973年10月13日に大阪の朝日生命ホールで開かれた独演会の高座まで待たなくてはいけなかった。

 昭和34(1959)年、米朝は三十代前半、春団治は三十路手前という若い時分の逸話である。

 『親子茶屋』は、後半の茶屋遊びの場面が楽しいのだが、演じ手には「狐釣り」などを含め、実に難しい内容。
 実際に茶屋で遊んだ経験などがないとなかなか味わいが出ない噺だと思う。
 以前、桂かい枝が横浜にぎわい座で演じた際に少し小言を書いたら、ご本人からコメントをいただき恐縮したものだ。

 米朝や春団治、文枝、松鶴の四天王は、そういった茶屋遊びの経験を噺に生かすことのできた最後の世代ではなかろうか。

 そして、遊びの附き合いのみならず、戦後の上方落語低迷期に一緒に切磋琢磨してきた仲間同士だからこそ、米朝も酒の勢いを借りて、思ったままのことを言ったのだろうし、その場ではムッとしたであろう春団治も、きっと父親から大きな名跡を継ぐにあたって米朝が指摘するようにネタ数が少なすぎることを感じていて、きっと眠られないまま、米朝の家に向かったのだろう。

 自筆原稿が見つかったことで、上方落語の歴史や、あらためて四天王のことなどが話題になることは大いに結構。

 そういえば、昨年11月に、毎日放送(MBS)の「茶屋町劇場」で、“芸術祭参加”と謳った「上方落語四天王 さえずり噺〜ああ、青春の上方落語〜」が放送された。

 録音したものを後から聴いたが、なかなか楽しい内容だった。
 台本は小佐田定雄さん。四天王の役は、それぞれの弟子筋の方が演じた。
 結構、よく似ている人もいたし、そうでもない人もいた^^

 残念ながら芸術祭受賞は逃したらしい。

 桂かい枝のブログに、収録時の写真などが紹介されている。
桂かい枝のブログの該当記事


 今や「天国寄席」は、大盛況だろう。

 東京の四天王も上方の四天王も、そして昭和の名人たちも楽屋に控えている。

 昨今、落語ブームと言われており、東西の噺家の人数は史上最多かと思う。
 しかし、その量は質を伴っているのだろうか・・・・・・。

 もし、先人たちが苦労して蓄えた財産を食いつぶすだけならば、空の上から、「なにしてんのう!」と小言を言われるかもしれない。

 最後は、つまらない地口でのサゲになってしまった^^



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by kogotokoubei | 2017-01-13 12:18 | 上方落語 | Comments(8)

 三代目桂春団治の訃報は、上方の落語愛好家に限らず、落語をこよなく愛する人々の心に、重く響いたと思う。

 それは、敗戦後の上方落語界の復興に貢献した「四天王」の最後の一人が旅立った、ということもある。
 何より、あの大名席を継いでいながら、豪放磊落な初代や、その持ち味を継承していた二代目の父親ともまったく違う芸風ながら、三代目ならではの、あの優雅な、柔らかな、品格あふれる高座を、もう二度と味わうことができない、喪失感が大きい。

 上方落語の舞台裏を知るための好著から、襲名当時のことを知ることができる。


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 露乃五郎(執筆当時)の『上方落語夜話』は、朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行された本。

 昭和34年の三代目襲名について、次のように書かれている。

 明けて、昭和34年春、時ならぬ、赤い人力車が、大阪の街を、先引き、後おし付きで走りました。「アッ、人力車や!」「今時分何や、しかも真っ赤やがな」「乗ってるのは福団治や」、浪華雀のささやきを後に、赤い人力車は各新聞社を回りました。三月二十日の新聞は一せいにこれを写真入りで記事にしたものです。
 明二十一日から十日間道頓堀角座で開く「春団治襲名披露興行」の宣伝の一コマで、あずき色の紋付はかまの福団治改新春団治は、「人力車て、疲れまんな、ま、乗りおさめだすやろけど・・・・・・ハナシ家の名人になろう思うたら厄介だすわ」といささかてれくさそうでしたが、前景気は上々。襲名披露の番組は、東京から桂文楽、三遊亭百生、大阪はダイマル・ラケット、喜久奴・奴、笑福亭枝鶴、桂米朝、花月亭九里丸、旭堂南陵と角座開場以来のにぎやかな顔がそろいました。
 この時、枝鶴、米朝は千土地興業に属し、お祝い出演の形で参加したのです。

 枝鶴は、その後の六代目松鶴。

 この年、東京でも十月下席に東宝名人会、新宿末広亭、上野鈴本にも襲名披露をかねて三代目は出演している。
 また十一月上席に、角座での名人会に、東京から文楽、柳橋、志ん生を招いて、若い三代目をたすけるような番組が組まれたとのこと。

 実は初代春団治が乗っていたとされる「赤い人力車」は、三代目桂文三が乗っていたことが、春団治のことにすりかわって巷間伝わり、借金で「火の車」だった初代とのつながりで、定着したらしい。

 まぁ、それはともかくとして、昭和34年春の「赤い人力車」による三代目襲名披露の宣伝は、本人にとっても、思い出深いものだっただろう。

 旅立ちを前にした、きっと三代目の脳裏を横切る幾多の思い出のなかに、きっと「赤い人力車」での襲名披露の日も含まれていたのではなかろうか。

 日が経つにつれて、昨年の米朝の時には、「まだ、三代目がいる」という思いがあったのだなぁ、と喪失感の大きさで思い知る。

 上方落語界に、精神的に核となる人が残っているだろうか。

 若手や中堅に将来期待できる噺家さんは、上方に多いと思う。

 しかし、彼らの中から、新たな「四天王」が生まれることは、期待できそうにない。

 四天王の、そして三代目の存在の大きさを、つくづく感じるばかりである。
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by kogotokoubei | 2016-01-16 14:40 | 上方落語 | Comments(2)
 二日ほど前から、いきなり拙ブログへのアクセスが増えて、驚いた。

 アクセスがとんでもなく多かった過去の記事は、桂枝雀の長男の前田一知が、父の弟弟子である桂ざこばに入門し、桂りょうばの名で、四十過ぎで落語家になるというニュースに関する記事。
2015年9月1日のブログ

 検索も「桂りょうば」から、とんでもない数のアクセスがあった。

 調べてみたら、この7日に、桂りょうばが落語家として初高座を務めたらしい。
 
 朝日新聞も記事を掲載していたし、他の全国紙や複数のスポーツ紙も含め、多くのメディアが扱っている。

 朝日の記事を引用。
朝日新聞の該当記事
故・桂枝雀さんの長男りょうばさん、大阪・西成で初高座
篠塚健一
2016年1月7日21時25分

 爆笑王と称され、一時代を築いた落語家の故・桂枝雀さんの長男桂りょうばさん(43)が7日、大阪市西成区の動楽亭で初高座に上がった。詰めかけた約100人の観客を前に上方落語「東の旅発端」を陽気に演じ、デビューを飾った。

 一時はミュージシャンとしてバンド活動、転機はアマチュア落語家を経て昨年8月に桂ざこばさんに入門した。寄席の前座として笑顔で登場すると、張り扇と小拍子で見台(けんだい)を叩(たた)きながら旅ネタを披露。父の面影が宿る表情やしぐさ、落ち着き払った高座ぶりに何度も笑いが起きた。

 終演後、師匠のざこばさんは張り扇の握り方も枝雀さんとそっくりで驚いたと明かした。「あんな落ち着いた初舞台ちゅうのはない。けれどもアマチュアの延長やちゅうのを感じる。玄人やなって思える噺家(はなしか)になってほしい」とざこばさん。りょうばさんは「親子なので似ちゃうのは仕方がない。本当に腹の底からはなしができる噺家になりたい」と話した。(篠塚健一)

 なんとか、無事に初高座ができたようで、それは嬉しい限り。

 『東の旅発端』であったというのも、上方落語の前座噺の基本であり、結構なことだ。

 桂りょうばという噺家の旅も、ぜひ無事なものであって欲しい。

 それにしても、ついこの前までの素人が四十歳を超えて落語家になったデビューに、これほど多くのメディアが関心を持っていたとは・・・・・・。
 もちろん、それは、父が枝雀であるという要素が、あまりにも大きいのだろう。

 拙ブログへのアクセス急増から辿って知った初高座だった。

 この関心の高さは、嬉しいような、「もうちょっと、静かに見守ってあげてよ」と言いたいような、複雑な思いなのだ。

 周囲の関心、期待の大きさに負けないだけの四十路でのデビューであると、思いたい。
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by kogotokoubei | 2016-01-09 20:37 | 上方落語 | Comments(4)
 少なからず驚かされた上方落語界のニュースを、朝日新聞からご紹介。
朝日新聞の該当記事

爆笑王・桂枝雀さんの長男、落語家に ざこばさんに入門
篠塚健一 2015年8月28日12時45分

 落語界の爆笑王として知られ、16年前に亡くなった桂枝雀さんの長男前田一知(かずとも)さん(43)が、枝雀さんの弟弟子の桂ざこばさん(67)に弟子入りした。芸名は「桂りょうば」。枝雀さんとざこばさんの師匠である桂米朝さんの追善の一門会が開かれた今月16日付で入門し、二世落語家として歩み出した。

 一知さんは大阪府豊中市生まれ。幼稚園の時から枝雀さんの弟子が稽古する噺(はなし)を聞き覚えてしゃべっていた。落語少年ぶりを枝雀さんは喜んでいたが、「かわいらしいと言ってもらえるのは小学生まで。本当にやりたかったら、高校を卒業してから改めて来なさい」と考える時間を与えた。

 中学に進むころに落語から離れると、高校では演劇や音楽に夢中に。英語落語の前座をすることはあったが、20代後半から東京を拠点にミュージシャンとしてバンド活動に打ち込んだ。

 転機は枝雀さんの没後10年だった2009年。亡き父の落語を改めて熱心に聴くうちに、「子どものころとは違う面白さに気づいた。すごい人だったんだ、と思いました」。自分もやってみようと、各地でアマチュアとして高座を重ねてきた。表情や口調に枝雀さんの面影が宿る。プロへの思いが高じて今年、ざこばさんに弟子入りを志願。9月から大阪で本格的な修業生活に入る。

 ざこばさんは「どうしてもなりたいと言うんでね。(枝雀)兄ちゃんへのお返しという気も少しはあるけど、そない大層には考えない。僕の弟子で噺家として渡っていけるんなら、かめへん」と話している。(篠塚健一)

     ◇

 〈桂枝雀〉 39年神戸市生まれ、本名・前田達(とおる)。神戸大を中退して桂米朝に入門し、73年に枝雀を襲名。爆笑落語で一時代を築き、84年には上方落語家で初めて東京・歌舞伎座で独演会を開いた。英語落語の先駆者でもあった。99年、59歳で死去。

 ご長男が、素人ばなれした落語を演じるということは、落語愛好家のお仲間から聴いていた。
 東京でも桂九雀などと落語会を開催しているようで、そのうち聴かなきゃ、とは思っていた。
 しかし、まさか入門するとは・・・・・・。


 一昨年11月に、BS朝日で放送された「君は桂枝雀を知っているか!?」について記事を書いた。
2013年11月25日のブログ

 その後半に、枝雀の二人の息子さんが登場し、次のような感想を書いた。
 後半で印象深いのは、番組紹介ページでも書かれているように、長男の一知、次男の一史へのインタビューである。二人ともミュージシャンとして、父のDNAを継承しているらしいし、一知は時折高座にあがって、玄人筋の評価も高いようだ。

 長男一知は、飲み屋に迎えに行って、酔った父の代わりに、子供の一知がタクシーの運転手に料金を払って「領収書いただけますか」と言い、家に連れ帰る役だった、とのこと。

 一知が1972年3月生れ、一史が1977年の3月生まれ。父が旅立ったのが、それぞれ27歳と22歳。その当座には、語れなかった思い出を、今では冷静に振り返ることができるのだろう。ファミコンに一番はまったのが父だった、という話も微笑ましい。

 一知「子供みたいなお父さんでした」
 一史「どんなことでもみくびらなかった」

 彼らには、何事にも一所懸命な父の姿が、しっかり記憶されているようだ。

 正直なところ、あの番組では、冷静に父の死を振り返る次男一史の言葉の印象が強かったなぁ。
 長男には、父の明るい側面を引き継いだのかなぁとは思ったが、まさかその後プロの噺家を目指すとは、まったく予想できなかった。

 これからは、「桂りょうば」の成長を見守りたい。

 あえて書くが、桂りょうばに父枝雀の姿を追い求めることはしない。
 芸風や語り口は似ているかもしれないが、父はあまりに偉大すぎる。

 それは、六代目小さんに名人五代目の後継者としての高座を求めないし、当代米團治に米朝の芸風を要求しないのと同じである。
 もっと言えば、当代正蔵、当代三平に初代三平が巻き起こした爆笑の高座を期待しないし、できれば、彼らには父の真似をしないでくれ、と思う。

 それにしても、凄い決断だなぁ。

 四十台での入門であるが、焦らず、急がずに修業していただきたいと思う。

 桂りょうばという新しい上方の噺家の将来を、ほどほどの期待感で見つめていきたい。

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by kogotokoubei | 2015-09-01 12:30 | 上方落語 | Comments(10)

 「上方落語若手噺家グランプリ」の開催については、以前拙ブログでご紹介した。
2015年2月24日のブログ

 昨日、本選が行われ、桂吉朝の最後の弟子、桂吉の丞が優勝したらしい。朝日から引用。

朝日新聞の該当記事
桂吉の丞さんが優勝 初開催の上方落語若手噺家GP
篠塚健一 2015年6月23日23時57分

 関西の芸術文化活動を支える「アーツサポート関西」の助成で初めて開かれた「上方落語若手噺家(はなしか)グランプリ」の決勝が23日、大阪市北区の天満天神繁昌亭であった。桂吉の丞さん(32)が栄冠に輝いた。

 吉の丞さんは堺市出身で、2002年に故・桂吉朝に入門。上方落語独特の道具である見台(けんだい)やひざ隠しの由来を語るマクラから、「がまの油」で活気のある高座を見せた。「ホントにお客様に乗せられて。お客様のおかげ」と喜んだ。準優勝は、笑福亭鶴瓶門下の笑福亭べ瓶(べ)さん(32)だった。

 上方の有望な若手を発掘するためのコンテスト。決勝は、31人が参加した予選を勝ち抜いた9人で争い、朝日放送、関西テレビ、毎日放送、読売テレビなど在阪放送各局のプロデューサーらが審査員を務めた。

 表彰式で桂文枝・上方落語協会会長は「各局の皆さんに『使えそう』という人を見つけてもらえたんじゃないか。ただ『M―1』などを見ておりますと、優勝者が必ず売れるとは限りません」と笑わせた。「決勝に駒を進めただけでもすばらしい。テレビに出た時は応援してあげてください」と呼びかけた。(篠塚健一)

 吉の丞は、三年前、内幸町ホールで開かれた桂米二の会で聴いている。
2012年9月14日のブログ
 あの時は、吉坊も出演し、吉朝門下から二人が米二の会に登場という、彼らいわく、上方でも滅多にない組合せ、だった。
 吉の丞は、ざこばから稽古をつけてもらった『強情』という珍しいネタを披露してくれた。
 ブログを振り返ると、印象は悪くなかったようだ。

 「上方落語家名鑑」から、この人のプロフィールをご紹介。

上方落語家名鑑の該当ページ

1.芸名/桂吉の丞(かつらきちのじょう)
2.本名/飯村 隆祥
3.生年月日/1982年 (昭和57)年 7月31日
4.出身地/大阪府堺市
5.血液型/B型
6.入門年月日/2002年 (平成14年) 8月13日「桂吉朝」
7.出囃子/
8.紋/結び柏
9.趣味/だんじり
10.ホームページ/http://nazokake.watson.jp/kichinojo/
11.所属/米朝事務所
12.その他/八州学園高等学校卒
平成21年第4回繁昌亭輝き賞受賞
ひとこと/大師匠米朝、師匠吉朝のもとで修業した最後の弟子です。米朝師匠からは「吉の丞はこわい」と言われてますが、笑うと以外にかわいい顔になるんですよ!勢いのある元気な落語家を目指します。とにかくなんでもやります!元鳶職ですから、空からでも飛んでみせます!!

 へぇ、元鳶職か!
 きっと、元気な『がまの油』を演じたのだろう。

 吉朝一門は、優秀な弟子が揃っている。
 総領弟子のあさ吉は未見。
 二番弟子の吉弥は、テレビの露出も多い人気者だし、その力量も安定している中堅の大事な存在になっている。
 以前、テレビ朝日の「落語者」の『蛇含草』には、きつい小言を書いたが、実力は私も認めているのだよ。
 よね吉は、2007年のNHK新人演芸大賞を受賞した時に、目頭を熱くして「師匠にご報告したい」と言った言葉が、今でも忘れられない。この人を、私は一番の師匠の芸の後継者ではないかと思っている。
 吉坊については、私が言うまでもなく、定評のある若手だ。著作もある達者な人。
 米朝落語を、米二より若い世代で継承してくれることを期待する人で、珍しいネタにも挑戦する。先月、国立演芸場で『冬の遊び』を演じるのを楽しみしていたのだが、野暮用で行けなかったのが、残念無念。

 もちろん、他にも一門の人はいるが、未見。

 しかし、なんとなく、吉朝門下の芸、ある程度想像はつく。
 きっちりした落語を、皆さん演じてくれるのだろう。何と言っても、あの師匠の弟子なんだから。

 米朝にとっては、枝雀、そして吉朝は、後継者として期待していた愛弟子だったが、相次いで師匠より早く旅立った。
 その大師匠亡き上方落語界で、ぜひ今回のような企画もきっかけとして、将来性のある若手に頑張って欲しい。

 彼らには、米朝、松鶴、文枝といった亡き師匠たちが、戦後の苦しい時代に耐えてきた上方落語の伝統をしっかり繋いで欲しいと思う。そう言えば、「上方四天王」のお一人、三代目(春團治)のニュースを聞かなくなって久しい。お元気なのだろうか・・・・・・。

 
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by kogotokoubei | 2015-06-24 19:05 | 上方落語 | Comments(8)
 六代目桂文枝が、7月に古典『抜け雀』を演じるらしい。
*上方で‘六代目’は松鶴を指すということで‘六代’と称しているが、六代目の文枝であることに違いはない。

 日刊スポーツの記事から引用。
日刊スポーツの該当記事


桂文枝7月に18年ぶり古典落語 枝雀さんとの公約
[2015年5月7日22時9分]

 12年7月16日の69歳誕生日に師匠の名跡を継いだ落語家、6代桂文枝(71)が7日、大阪市内で、襲名丸3年となる今年7月16日に、大阪・なんばグランド花月で、「旭日小綬章受章記念 文枝SHOW 2015」を開き、18年ぶりに古典落語を披露することを発表した。

 演目は、今年3月に亡くなった桂米朝さん(享年89)の口伝で残る「抜け雀」で、ネタ下ろし。創作落語250本を生み出し、生涯「300本」を目標に掲げる創作の第一人者、文枝が原点回帰の古典に臨む。

 「米朝師からは、前々から『4代目文枝のネタもやったらええ』と言われてまして。新しいネタを作り出すんも大事やけど、古典を今の(時代の)形にして残していくんも大事やと思いました」

 文枝は、米朝さんの弟子で「爆笑王」と呼ばれた5年先輩の故桂枝雀さんへの対抗心と畏怖から、古典ではなく創作に専心。過去に例を見ない数のネタを創作し、第一人者としての立場を築き上げてきた。

 一方で、かつて枝雀さんから「いつか古典もやったら」と言われていたことから、旭日小綬章を機に、古典への取り組み再開を“公約”。今回の公演で、それを果たそうと、18年ぶりの古典挑戦を考えた。

 ネタ選びに悩むうち、枝雀さんの師匠で、米朝さんから「4代目のネタを」と勧められていたことを思い返し、4代目までの文枝が得意とし、米朝さんが掘り起こして残した「抜け雀」に決めた。
 米朝が‘四代目のネタ’を勧めたというのは、まだ上方落語愛好家の方の記憶が鮮明な五代目の十八番を演ったのでは、比較されて可愛そう、という親心だろうか。

 四代目文枝は、七代目坂東三津五郎の高弟として坂東三之丞を名乗り、日本舞踊家としても活躍した人。昭和21年に四代目文枝を襲名し、高座ではネタの後で踊ることが多かったようで、下座の奥さんに浄瑠璃を語らせ、自分は踊りの所作を演じる「浄瑠璃落語」を考案した人としても伝わっている。

 それにしても、もはや当代文枝が古典を演じることはないのだろう、と思っていたので意外だった。
 これまで、三枝の文枝襲名には否定的なことを書いてきたが、この古典への挑戦は、非常に良いことだと思っている。

 『米朝らくごの舞台裏』に書かれているが、たしかに米朝の『抜け雀』は、四代目文枝から伝えられた噺のようだ。
 四代目の頃は『雀旅籠』が上方での演題であったはずだが、米朝が東京と同じ『抜け雀』で演じたため、今では東西同じ題になったのだろう。さすがに、米朝の影響力は強い。。

 『抜け雀』を演じるのも悪くはないのだが、文枝という名を継承した人には、もっと相応しいネタがあるように思う。


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『あんけら荘夜話』(桂文枝、編集小佐田定雄、青蛙房)

 以前に紹介したが、五代目文枝の『あんけら荘夜話』から引用する。
2013年8月10日のブログ

 水兵になとうとした長谷川多持少年が、結局は船に乗ることもないまま、敗戦後に大阪に戻ってからのお話。
 学校には戻らず進駐軍のアルバイトなどをしていた多持少年。縁があって彼は交通局に勤めることになった。そこで、落語との縁結びをしてくれる人物との運命の出会いがあったのである。


 交通局に入ったのは昭和二十二年の春のことで、電気工場に配属されました。モーターとかコントローラー、ブレーカーを修理する部署です。この工場は建物の二階にあって、階下が機械工場でした。工場から現場へ貨車にいろんな品物を乗せて運ぶ「運搬部」というのがあって、その運搬部員の中に矢倉悦夫君という、おもしろい男がいたんです。
 彼は戦争中からの局員で、昼間は交通局に勤めながら夜は学校へ行く・・・と家族には言いながら、実は桂米團治師匠のところへ落語を習いに行ってたというあっぱれな人物です。そのことが新聞に紹介されたのが、私と出会うきっかけになりました。
 そのころ、私は「踊りを習いたい」と思うていました。と言っても踊りの師匠になろうとか、プロの舞踏家になろうとかいうようなつもりはありません。「ちょっとした趣味に・・・」という気持ちだったんです。ところが、芸の世界とは全く縁のない生活をしていたので、どこへ頼みに行ったら教えてもらえるものかもわかりません。その時に矢倉君の存在を知ったのです。
「落語をやってる人やったら踊りも知ってるやろ」
 というようなことで紹介してもらいました。
 私は浪曲が好きでしたから、矢倉君ともよく浪曲の話をしました。彼も浪曲が好きでしたし、都家三勝という浪曲の息子で横田君という人と学校友達でした。この横田君は、のちに米團治師匠の弟子になって「米歌子」(べかこ)という名前をつけてもらいましたが、すぐに廃業しています。
 子供のころ、うちの親父が浪曲が好きで、町内にあった浪花節の小屋へ連れて行ってくれていました。また、ミナミの十銭漫才の小屋へも連れて行ってくれたらしんですけど、あまりに小さいころだったんで、どんな人が出ていたかまではおぼえていません。芝居も好きで、大正区の松島の小屋へ新派の梅野井秀男なんかを見につれて行ってもらったこともありました。
 落語で記憶に残っているのは、親父が蓄音機を借りて来てくれて、それで初代春團治の『宿替え』なんかを聞いたことです。当時の私の落語についての知識というのはその程度のものでした。
 私が矢倉君に、
「踊りを習いたいんやけど、誰かええ師匠はいてはらへんやろか?」
 と相談すると、「それやったら、ええ人がおるわ」と、紹介してくれたのが、花柳芳兵衛師匠と坂東三之丞こと四代目桂文枝師匠でした。で、うちの師匠のほうが地理的に通いやすい・・・というだけの現実的な理由で、文枝師匠に入門することに決定したんです。


 五代目は踊りを習いたいがために、四代目に入門したのであった。
 四代目との出会いをつくってくれた矢倉君は、交通局に定年まで勤めながら落語を続けた、三代目米之助である。米朝の兄弟子に当たり、上方落語の造詣も深く、米朝でさえ「わからんことは悦ちゃんに聞きなはれ」と小佐田定雄さんによく言っていたようだ。


 五代目の初舞台、初演目についても、本書からご紹介。

私が「桂あやめ」として初舞台を踏んだのは二十二年五月二日の「上方落語を聞く会」だったと思います。会場は大阪文化会館(現在の精華小学校)でした。五代目松鶴師匠が二席やらはって、前座で旅の噺をしてはったように記憶しています。それまでは「大阪落語を聞く会」というタイトルでやっていた会が「上方落語を聞く会」と名前を変えての第一回目だったはずです。私の演じたネタは『小倉船』。矢倉君も見に来てくれました。私の名前は番付には載っていません。
「憶えたし、いっぺんやってみい」
 というような調子で、開演前の“ご祝儀”としてやらしてもらいました。
『小倉船』という噺は、途中に踊りの手が入ったり、芝居がかりになったりする噺なんです。ほんまは、手ほどきとしては難しすぎるネタなんですけど、私が踊りの稽古をしてた関係もあって、このネタを最初に教えてくれてたんです。

この『小倉船』は、四代目文枝の十八番であった。
そして、初代文枝のネタとしては、百両で質に入れたことで有名な『三十石』がある。

 当代文枝の‘創作落語’(なぜか‘新作’とは言わないらしい)は優れた作品が多いと思う。
 『背なで老いてる唐獅子牡丹』『ぼやき(居)酒屋』『鯛』などは柳家はん治の高座で楽しんでいる。

 当代文枝が、古典に挑戦するのは、結構なことだろう。
 
 人それぞれの考えがある。その名を継いでも、古典派や新作派、踊りを得意にする人や、そうじゃない人がいてもいいじゃないか、と思われる方もいるだろう。
 しかし、私は、文枝という名は、文治の次に桂では大きな名だと思っているので、古典を演じない文枝という存在を認める気持ちにはなれなかった。

 せっかく古典に挑戦する気になったのだから、まずは『抜け雀』でも結構だが、ぜひ、その後は『三十石』や『小倉船』にも挑戦して欲しいと思う。そして、寄席の踊りにだって挑んでもらいたいものだ。
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by kogotokoubei | 2015-05-13 21:21 | 上方落語 | Comments(6)
「上方落語若手噺家グランプリ」という名のイベントが開催されるらしい。日刊スポーツから引用。(太字は管理人)
日刊スポーツの該当記事

「上方落語若手噺家グランプリ」を開催へ

 上方落語協会会長の桂文枝(71)が24日、大阪市北区の定席寄席小屋、天満天神繁昌亭で、今春に協会所属落語家のトーナメント「上方落語 若手噺家 グランプリ」を開くと発表した。今年から10年連続開催を目指す。

 会長職に就き、悲願の上方定席(繁昌亭)を開き、自らは師匠の名跡を襲名。文枝にとって、次の悲願は後進の育成だった。

 「先日も(ラッスンゴレライでブレークした)8.6秒バズーカーと共演しましたが、類い稀な才能があり、どうも最近は若い人の才能があちら(漫才、コント)へ流れている」と危惧。未来の落語スターを発掘しようと思案してきた。

 そんなおり、上方芸能の支援を目的としたアーツサポート関西へ、500万円の寄付金が届いた。文枝が三枝時代から親交のあるアートコーポレーションが若手落語家育成を支援しようとしたもので、これを機に、今グランプリの創設が決まった。

 すでに入門6年目~15年目までの協会所属落語家に希望を募り、31人の参戦を決定。4月7、14、16、22日に繁昌亭で予選を行い、6月に本選を行う。本戦の審査員には在阪テレビ各局のプロデューサー、ディレクターらが入り、大賞(賞金20万円)1人、奨励賞(同5万円)1人を選出する。

 文枝は入門1年足らずだった67年、MBSラジオ「ヤングタウン」に抜てき。駆け出しながら頭角を現し、タレント活動のかたわら、240本を超える創作ネタを生み出すなど、今なお第一線で走り続ける。

 「今の若い人にもチャンスを作ってあげたい」と言い、審査員にはテレビ局関係者を選んだ。タレントの原石を発見し、レギュラーに採用してもらいたい考えもある。

 「私たちのときのように、落語家にもまずはチャンスが与えられるようになれば。おもしろいと思ったらリポーターでも使ってもらいたい。ただし、その後の未来は本人の努力次第」と話す。

 協会内に賞レースを設けて活性化をはかるとともに、自らが歩んできたように、ワンチャンスを確実に物にし、スターへの道を駆け上がる形を作るねらいもある。

 また、6月に予定される本選について「今年は放送はないですけども、来年はM−1やR−1のようにテレビや、ラジオでも中継、もしくは深夜でもいいので、そういった形を思い描いています」とし、将来的にはテレビ、ラジオでの本選中継も望んでいる。[2015年2月24日13時36分]


 類いまれな才能が漫才に流れている、とは思わない。また、寄付した会社の経営者については、やや言いたいこともあるが、こういうイベント開催自体には、素直に拍手を送ろう。

 東京であれば、二ツ目さんに相当する噺家さんが対象となる大会だ。東京も上方も、彼らが腕を磨く場所、機会は実に限られている。こういう競争の場があることは、本人にもその周囲にも十分に刺激になるだろう。

 天満天神繁昌亭での予選は、もちろん公開制。
 繁昌亭サイトに、ネタも含めて出場する噺家さんの情報が掲載されているので、ご紹介。天満天神繁昌亭のサイト

 4月7日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第一夜》
笑福亭鉄瓶 「茶漬幽霊」」 桂佐ん吉 「堪忍袋」 桂三幸 「その川の向こう側」 桂雀太 「代書」 桂そうば 「親子酒」  露の紫 「金明竹」 桂団治郎 「七段目」 林家愛染 「みかん屋」      
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。
前売1,500円 当日2,000円 Pコード442-502
開演:午後6時30分
*6時よりチケットに記載されている整理番号順にご入場いただきます
*25歳以下のお客様は、当日500円キャッシュバック致します(要証明書)


 4月14日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第二夜》
林家染太 「魁!!学習塾」 林家市楼 「天狗裁き」 笑福亭べ瓶 「いらち俥」 笑福亭松五 「書割盗人」 桂二乗 「短命」 露の団姫 「時うどん」 露の雅 「あくびの稽古」 桂三語 「二人癖」      
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。


 4月16日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第三夜》
桂まめだ 「子ほめ」 笑福亭呂竹 「京の茶漬け」 桂吉の丞 「仏師屋盗人」 桂鯛蔵 「ふぐ鍋」 桂三四郎 「MOMO」 林家染吉 「佐々木裁き」 露の眞 「蛸芝居」 桂寅之輔 「転失気」      
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。


 4月22日

繁昌亭夜席 上方落語若手噺家グランプリ2015予選会《予選第四夜》
桂雀五郎 「初天神」 森乃石松 「転宅」 笑福亭生寿 「阿弥陀池」 桂咲之輔 「七段目」 笑福亭呂好 「天狗裁き」 桂三輝 「誰がファースト」 桂和歌ぽん 「平林」        
*出演順は当日オープニングの抽選会で決定致します。



 他の記事によると、予選の審査に大学落研の学生が加わるらしい。スポニチの該当記事
 できれば、「さがみはら若手落語家選手権」のように、お客さんの投票も反映して欲しいものだ。

 いずれにしても、予選から公開することは、非常に良いことだと思う。
 審査する側にも、相応の緊張感をもたらすだろうし、客席の反応も参考になるだろう。

 何度か書いているが、NHKの新人落語大賞も、ぜひ予選を公開して欲しい。
2014年11月7日のブログ

 この上方の試みが、NHKへの良い刺激になることを期待している。

 知らない若手の懸命な高座を一度に聴くことのできる得難い機会でもある。関西の人がうらやましいなぁ。
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by kogotokoubei | 2015-02-24 12:29 | 上方落語 | Comments(2)
上方の落語家さんのことを調べる場合、まず上方落語協会のサイトにある「上方落語家名鑑」を参照する。
上方落語協会のサイト

 しかし、ここしばらく、この名鑑にアクセスできない・・・・・・。
 本来なら、左にあるバナー真ん中あたりの「上方落語家名鑑」の文字をクリックするとリンクするはず。

 少し、トラブル対処に時間がかかりすぎではないか。

 これはリンクすべきURLが間違っているのが理由のようで、繁昌亭のサイトに該当ページはしっかり残っている。
「上方落語家名鑑」

 今や、ネット時代。

 これだけ長期間の障害は、ビジネスなら損害賠償ものなのだが、いったいどうなっているのだろう。

 先日、桂米八の訃報を目にして、米朝の弟子一覧を確認しようとしてアクセスできなかった。それ以来なので、少なくとも五日間は障害が解消されていない。困ったものだ。
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by kogotokoubei | 2015-01-26 07:01 | 上方落語 | Comments(0)
私は、まったく知らなかった人なのだが、米朝門下の噺家で、曲独楽師でもあった桂米八さんの訃報を目にした。毎日新聞の該当記事

訃報:桂米八さん58歳=落語家、曲独楽師
毎日新聞 2015年01月20日 23時19分(最終更新 01月21日 00時06分)

 桂米八さん58歳(かつら・よねはち<本名・山本悦次=やまもと・えつじ>落語家、曲独楽師)20日、食道がんのため死去。通夜は22日午後7時、葬儀は23日午後0時半、大阪市北区天神橋4の6の39の公益社天神橋会館。喪主は長男貴大(たかひろ)さん。

 兵庫県姫路市出身。1974年、桂米朝さんに入門した。伏見紫水さんから習い、上方で唯一、独楽(こま)を使った曲芸の曲独楽(きょくごま)を継承し、興行で活躍した。



 私より若い。

 ホームページを発見した。新聞より少し詳しいプロフィールが画像で掲載されていたので、内容を書き起こして紹介したい。
桂米八のホームページ

◇(1974年)昭和49年3月18日 三代目 桂米朝に入門 13番目の弟子。
◇(1977年)昭和52年11月29日 内弟子修業卒業。
◇内弟子卒業後、若手落語家の集団「ぐるうぷ寄席あつめ」に入り、
  近畿各地にて地域寄席を開く。
◇(1984年)昭和59年 伏見紫水より古典曲独楽を習い始める。
◇(1999年)平成11年11日 日本国際交流基金を通じ、日本の伝統芸能の
  紹介で、中南米4カ国(ニカラグア・ボリビア・チリ・キューバ)にて、
  曲独楽・南京玉すだれの公演を行う。
◇(2005年)平成17年10月より、曲独楽教室の講座を、近鉄文化サロン
  阿倍野校にて、毎月第2・4木曜日(15時から17時)に開いてます。
◇(2008年)平成20年8月31日 英語で、Apinning Toop(英語曲独楽)の
  高座を始める。



 少しネットで調べたら、天満天神繁昌亭のサイトにある、昨年9月まで実施していた動画配信サービス「ライブ繁昌亭」のページに、桂米八さんへのインタビューが載っていた。なぜ曲独楽師になったのか、その動機が明かされているので引用。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

落語家になって10年目
曲独楽の世界に入門!


「この芸もな、上方で誰も継いでくれる人いいひんねん」

落語家になって10年目。僕が曲独楽を習い始めるきっかけとなった、曲独楽師・伏見紫水師匠の言葉です。この言葉を聞いた周囲の人たちから、「米八、ちょっとやってみたら?」と言われ、何度かやってみたんですよ。するとそのうち、ホンマに入門してみようかと考えまして、紫水師匠のところにお願いに上がりました。

すると紫水師匠が、「じゃあ、噺家辞めるんか?」と。僕は即座に「それは無理です!」と答えました。それで、米朝師匠の方に相談に行ったんです。米朝師匠も、結構こういう芸がお好きなほうだったんでしょうね。

「できるかできんかはわからんけど。習って悪いもんやなし、習ってもいいぞ。まあ、なかなかものにはならんやろうがな」と言ってくださったんです。それを紫水師匠に伝えると、「じゃあ、噺家のままでええから、習いにおいで」と言われ、この芸を習うことになったんです。

でも、その当時の周りの反応は、「米八、お前は落語家やのに何やってんねん」という反応(笑)。まあでもそれから、25年以上も続いてるんですからね(笑)。



 このインタビューが2010年3月掲載なので、ほぼ5年前。だから、今年まで約30年、落語家と曲独楽師の兼業が続いていたのだろう。

 私は、寄席が大好きで、落語のみならず色物も好きだ。

 太神楽、曲独楽などの伝統的な芸能は、ぜひ今後も残って欲しいと思っている。

 桂米八という方の高座も曲独楽の芸も未見のままだったが、紫水師匠から継承した曲独楽の後継者はいるのだろう。

 曲独楽教室の指導をなさっていたらしい。

 お嬢さんで女優の山本真由美さんが、ホームページの日記に次のように書かれていた。2013年1月3日の記事。
山本真由美さんの日記の該当記事

私の父は、落語家で、曲独楽をしています。
実は、昨年の夏。

父に食道癌が見つかりました。
当時私は舞台の本番中にその事実を知り、
偶然にもその時演じていたのは自分の父親が癌になるという娘役でした。
そのシンクロにも驚きましたが、
幸い父はその舞台を大阪公演で観にきてくれて、
ストーリーは伝えていなかったので、父の方が
その重なりに驚いていた様子でした。

その翌日から抗がん剤治療が始まりました。
父のすごいところは、
1ヶ月に2回やっている、曲独楽の教えを、
その治療中から一ヶ月後手術を無事終えて、
断食が45日続き、無事退院するまでの間、

一度も休んでいない、ということです。

そして12月のクリスマス前から、
父は舞台に復帰して、
お正月まで毎日本番を迎えました。

その、お正月最後のステージを、
観に行かせてもらいました。

何度も観ているステージですが、
いつもに増して、観ているこちらも緊張しました。
もちろんまだ完全に万全とはいえない身体で、
声もしっかりでない現状で、
やれる限りの精一杯の芸をやってみせる父に、
ただ成功しますように、手を握らずにはいれなかったのですが、

それでも途中はそんなことを忘れさせる瞬間に、
胸をなで下ろしました。

壮絶な病院生活から、今も闘っている父の姿に、
簡単な言葉は出てきませんでした。


 山本真由美さんの日記ではコメントを受け付けていないので、無断で引用することになるが、お父さんのことを少しでも知っていただきたいので、ご容赦をいただきたい。 

 寄席で曲独楽を演じる弟子がいたかどうかは、不勉強で知らない。
 しかし、闘病中でも休まなかった米八さんの教えを受けた弟子がいたことは、間違いない。
 彼による、大事な遺産だと思う。

 毎日新聞によると、今夜お通夜、明日が葬儀とのこと。
毎日新聞の該当記事

 残念ながら生の芸に出会うことがなかった方だが、彼の足跡は、少しだけ分かった。


 噺家であり曲独楽師でもあった稀有な芸人、桂米八さんのご冥福を祈りたい。
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by kogotokoubei | 2015-01-22 06:02 | 上方落語 | Comments(2)
昭和に作られた新作落語で、多くの噺家さんが演じることで古典となりつつあるネタは、いくつかある。

 上方落語で、その代表作の一つは、間違いなく『まめだ』だろう。
 「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった三田純市が、桂米朝のために創作した噺だが、その直筆原稿が発見されたらしい。朝日の記事からご紹介。
朝日新聞の該当記事

落語名作「まめだ」の直筆原稿発見 桂米朝さんが初演
篠塚健一
2014年11月15日05時13分

 人間国宝の落語家桂米朝さん(89)が1966年に初演し、昭和生まれの古典落語となった「まめだ」の直筆原稿が見つかった。作家の故三田純市(みたじゅんいち、当時は純一)が同じ年に書いたとされる台本で、長らく行方がわからなかった。高座と比べることで、米朝さんの名演出ぶりも浮かび上がる貴重な資料だ。

 兵庫県尼崎市の米朝さん宅の資料整理を依頼されている小澤紘司さん(69)が9月18日に洋服箱の中にあるのを発見した。表紙に続き、400字詰め原稿用紙12枚にペンで記されている。銀杏(いちょう)の色づく秋の大阪・道頓堀界隈(かいわい)が舞台で、地元出身の三田が伝説に基づいて書いたと言われる。

 筋書きはこうだ。主人公の役者右三郎(うさぶろう)が帰宅中、イタズラをするまめだ(豆狸〈だぬき〉を指す大阪弁)をこらしめると、家の膏薬(こうやく)屋に見慣れぬ子が来ては貝殻に入った膏薬を買っていくようになった。その子が来ると売り上げに銀杏の葉が交じり、1銭足りない。やがて三津寺で体中に貝殻をつけたまめだの死骸が見つかる。右三郎は、まめだが化けていたことや膏薬のはり方がわからず命を落としたことを悟り、悔やむ——。

 高座に基づく「米朝落語全集 増補改訂版」(創元社)の「まめだ」と今回見つかった台本を比べると、米朝さんの施した繊細な工夫が読み取れる。

 物語の序盤、噺(はなし)の格調を高めるこの描写を入れた。

 「雨がしょぼしょぼ降ってきたんで、知り合いの芝居茶屋で傘を借りた。パラパラパラパラ番傘に雨の音。ええもんですなあ。時節はちょうど時雨の時期、秋です。人通りも、今のように賑(にぎ)やかなことはないんですが、太左衛門(たざえもん)橋を渡って、宗右衛門町(そえもんちょう)を通りすぎて、三津寺筋(みってらすじ)を西へとって……。カタカタ、カタカタと高下駄(たかげた)を履いて、雨の中を、借り傘をさして帰ってくる」

 主人公の右三郎が家に帰っていく場面。秋の美しい情景が目に浮かび、ぐっと季節感が深まる。一方、台本の記述は次のように淡々とつづられており、違った印象だ。

 「『降って来よったな。うっとしいな…秋口の雨というのはどうも陰気でいかんな』

 ボヤきながら太左ェ門橋を北へ渡って三津寺すじを西へ曲ります。なじみの芝居茶屋で借りた番傘を肩に心斎橋の手前まで来ますと」(原文のまま)

 三津寺の最後の場面も、巧妙に変えられていた。「サーッと風が吹いて銀杏の葉が一枚ヒラヒラとまめだの頭の所へ散りかかります」。それを見ていた右三郎の母親が「狸仲間から香典が届いた」というのが台本のサゲだ。

 米朝さんは「秋風がさーっと吹いてくる。銀杏の落葉が、はらはら、はらはら、はらはら、はらはらと、狸を埋(うず)めた上へ集まってきます」と幻想的に表現。さらにサゲを右三郎の言葉に変えて「お母はん、見てみ。……狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」。悲しみの中にもより朗らかさを漂わせた。

 戦後、滅びかけた上方の古典に手を入れて再生してきた米朝さん。新作だった「まめだ」もまた、味のある原作に、米朝さん一流の名演出や脚色が加わってこそ、秋を描いたよき落語として今日まで引き継がれることになったのだろう。(篠塚健一)

  ◇

 〈三田純市(1923~94)〉 大阪・道頓堀の芝居茶屋に生まれた作家。著書「昭和上方笑芸史」で芸術選奨文部大臣賞。桂米朝さんや永六輔さんらとともに「東京やなぎ句会」のメンバーでもあった。


 なかなか良い出来事(?)だったと思う。しかし、当の米朝が再演するのは難しいだろうから、一門にぜひ継承していって欲しい。
 この噺、その一門の中で、もっとも米朝落語を正統に継承していると思われる桂米二が、三年前の内幸町ホールでの独演会で披露してくれたのを聴いている。
 
 落語愛好家仲間のYさんに誘われ、初めて米二の東京の会に行った際のネタの一つだった。
 その時の記事でも引用したが、米朝は、著書の中で、数少ない秋の噺としてこのネタを評価している。
2011年9月9日のブログ

 『米朝ばなし』(講談社文庫、昭和59年11月発行)からの引用。桂米朝著『米朝ばなし 上方落語地図』

 三田純市氏の新作で、十年余り前のものですが、道頓堀界隈に伝わる古いはなしをもとに作られたものです。だいたい東西ともに秋の落語が少ないので、三田さんのおかげで、非常にいい秋の落語が出来たことを、喜んでいます。


 そうなのだ。秋の噺は、意外に少ない。
 
 この噺は、三津寺(みってら)さんの銀杏の落ち葉、という季節感たっぷりな小道具が重要な役割を果たす。
 傘が急に重くなったのは、まめだの悪さのせいだろうと思った右三郎が、傘を差したままでトンボを切ったために地面にたたきつけられ傷を負った、まめだ。人間の子供に化けて銀杏の葉を金に変え、右三郎の母のところへ膏薬を買いに行く。膏薬の中身を紙や布に延ばして付けるべきところを、貝殻の容器に入ったまま体にべたべた付けていたため傷は治らず、残念ながら亡くなる。自分のせいで、まめだが亡くなったことに気付いた右三郎が弔ってあげようとしたところ、まめだの死骸の周囲に、三津寺さんの銀杏の落葉がたくさん落ちてきてた。
 それを見た右三郎が母に向かって、「お母はん、見てみ。……狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」でサゲ。

 季節感といい、サゲの出来栄えといい、私は非常に良い噺だと思う。
 
 原稿発見を機に、米朝一門のみならず多くの上方の噺家さんに演じて欲しい旬のネタであり、できれば誰か東京の噺家さんにも東京版に改作して聴かせて欲しいと思う。東京の落語も、『目黒のさんま』のほかに、典型的な秋の噺というのは少ないのだよ。

p.s.
コメントでmyonさんから、露の新治も『まめだ』を演じるとの情報をいただいた。
後になって思い出したが、私が行けなかった9月21日(日)の内幸町ホールの独演会、三席のうちのひとつがこの噺だったのだ・・・・・・。落語愛好家の皆さんのブログを見て、悔しい思いをしたものだった。
そのうち、ぜひ聴きたいものである。
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by kogotokoubei | 2014-11-17 07:04 | 上方落語 | Comments(9)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛