噺の話

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カテゴリ:上方落語( 25 )


 古典落語には、今では演じられなくなったネタが多いが、そういった落語を発掘しようという試みについての嬉しいニュースを目にした。
 関西のニュースサイト「Lmaga」より引用。
Lmagaサイトの該当記事
滅んだ噺を復活、古典ならぬ古墳落語
2017.4.15 7:00

『時うどん』や『饅頭こわい』など長く語り継がれる古典落語。その一方で、時代に埋もれていった多数の噺があるが、そんな一度は滅んだ噺を復活させる試み『桂かい枝・小佐田定雄の「発掘カイシ!」その1・復活古墳落語』が、5月19日に「天満天神繁昌亭」(大阪市北区)で開催。4月13日、「上方落語協会会館」で会見がおこなわれた。

今回の落語会は、関西で多くの新作落語を手がけ、今年40周年を迎える落語作家の小佐田定雄と、昨年『繁昌亭奨励賞』を受賞した実力派・桂かい枝が企画。「古墳落語」とは滅んで埋もれた噺をさして故・桂米朝が言った言葉だ。小佐田は、「何か面白いことをやろう、やるからには後世に残り寄席でできる噺にしよう、と芸能史研究家の前田憲司さんに『誰も知らない題のみ残る噺』をあげてもらった。そのなかから今回は1894年(明治27年)の『桂派落語演題集』という番付に載る『屁臭最中』を選んだ」という。

「まさに『お題噺』。ただ『へくさもなか』なのか、読み方さえわからない。中身は想像できるが、汚い噺にはしないと決めて『へくさのさいちゅう』とし、遊びを入れて復活させた。落語家が増えて新しい噺が求められているなか、古い題でも使えるものは使う。これも一つの落語の作り方」と小佐田は意気込む。大阪・船場を舞台に得意の古典風味に仕立てて、20分程度の寄席仕様になった。

演じるかい枝は「面白い落語になっています。笑いもたくさん入るかわいい恋愛ものの噺。女子高生が聞いても共感できると思う」と自信をのぞかせる。会では大ネタの『帯久』も披露予定。かい枝にとっては二重の挑戦となる。今回の「発掘」で、どう蘇るのか楽しみ。成功すれば違う趣向の発掘噺も考えているという。チケットは前売2500円で、現在発売中。

取材・文・写真/やまだりよこ


 米朝が発掘した「古墳落語」は多い。

 『算段の平兵衛』『風の神送り』『矢橋船』、何より『百年目』に『地獄八景亡者戯』。

 米朝の努力がなければ、これらの噺を今の時代に聴くことができなかったと思うと、ぞっとするじゃないか。

 ぜひ小佐田さん、かい枝というニンなお二人の努力で埋もれた数多くのネタが発掘され、将来多くの噺家に演じられることを期待したい。

 最近、上方の落語愛好家の方が羨ましくなる企画が多いような気がしてならないなぁ。


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by kogotokoubei | 2017-04-22 09:56 | 上方落語 | Comments(2)
 林家染丸が、師匠三代目染丸の「50回忌追善落語会」を開くことについて、記者会見をした。
 スポニチから引用する。
スポニチの該当記事

林家染丸 師匠の50回忌追善落語会発表会見 「誇れることは弟子が増えたこと」

 落語家の林家染丸(67)が12日、大阪市内で、師匠である3代目林家染丸さんの50回忌追善落語会(6月17日、天満天神繁昌亭)の発表会見を開いた。

 先代は生前、一門を大きくしたいというのが口癖で、現在は13人を数えるまでに。「師匠に誇れることは弟子が増えたこと。自慢できます」と胸を張った。上方落語協会の初代会長でもある先代は、噺が終わるまで公演では誰も席を立たず、終了後にトイレに長蛇の列ができたといわれる伝説の噺家。今回、一門と縁の深い笑福亭仁鶴(80)に出演を染丸自らお願いし、当日は思い出話に花を咲かせる予定。[ 2017年4月12日 17:33 ]

 三代目染丸が初代会長を務めた上方落語協会創立当時のことは、先日、露の五郎兵衛の本から紹介した。
2017年4月3日のブログ

 当代染丸の体調については気になっていた。
 四年半ほど前に脳梗塞になりリハビリ中と聞いていたが、師匠の追善興行が出来るところまで快復してきたようで、なにより。

 その師匠三代目林家染丸は、明治39(1906)年3月25日生まれで、 昭和43(1968)年6月15日に旅だった。
 本名は、 大橋駒次郎。綽名が「おんびき」(ヒキガエルのこと)だったとのこと。

 関西で人気者だった「ザ・パンダ」のメンバーだった小染が四代目染丸を継ぐだろうと思われていたが、小染の事故死により総領になったのが、当代の染丸。
 三味線も弾けることもあり、寄席囃子の保存、普及に力を入れているが、実に貴重な活動だと思う。
 


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 先日の記事で引用した露の五郎兵衛の『上方落語夜話』に、三代目染丸に関することとして、昭和36年のことが書かれいた。紹介したい。

東西若手交流

 昭和三十六年の上方落語界は東西交流によって幕をあけました。朝日放送と東京放送がキモいりで、東西の落語家が交流。それぞれの寄席へ出演して勉強する話がもち上がり、受け入れ先としては、大阪が角座、東京は東宝名人会を定席にもう一ヵ所上野鈴本または新宿末広亭のいずれかが予定されたのです。が、東京からは二つ目、いわゆる中堅クラスが来阪したのに対して、大阪方は全勢力を投入しても、二十数名、それこそジャコもモロコも入れてですから、その第一弾として、あいさつもかねて、大阪からは落語協会会長の林家染丸みずから東上するのに、東京あkらは柳家小ゑん(現立川談志)が・・・・・・と、いうありさま。この層の厚さの違いが、やがてこの交流の中止につながるのですが、それにしても、上方落語協会はここにおいて、はじめて他流試合の経験をもつことになったのです。それまで、二、三、個人的に東上、寄席出演をしたものはありましたが、大多数は初上京。かなり気負いたっていました。
 二月第一陣の染丸は帰阪後、二十四日付「日日新聞」紙上で、「わたしの口からいうのはおこがましおますけど、評判は上々、なにしろ大阪弁の肩身が年々ひろうなりまして、言葉に気を使いまへん。ただ東西共通の欠点はテレビと落語が水と油みたい。これをなんとか考えなかったら・・・・・・」と、語っています。
 ともあれ、この交流のおかげで、東西の若手が友達になり、上京下版の折にはその自宅へ一夜の宿を借りたりしたもので、そうこうするうちに協会の交流とは別に自主的に東上来阪するものも出てきはじめ、若手間のつきあいは目に見えて活発になり、この年の十二月、「やろうよ」「やりまひょう」ということになって東京人形町の末広で、東西若手中堅落語合同競演会ときう、イヤに長たらしい名前の会が開かれました。東京は三遊亭吉生(現円窓)、林家照蔵(現柳朝)、三遊亭全生(現円楽)、柳家小ゑん(現談志)、一応大阪ということで桂小南、客分格で三遊亭百生、大阪から東上は、小春団治(現五郎)、文紅、補導に桂文楽という顔ぶれです。
 そしてそれの大阪版が、翌昭和37年二月二十一日、東西若手落語会として三越劇場で実現しました。
 東上下版の交流出演者はそれぞれ東京放送と朝日放送を中心に最低二本以上のラジオ出演を取ってもらって、そのギャラが滞在の経費にあてられていたのです。
 三越における東西若手落語会の顔ぶれは、桂小米(現枝雀)、笑福亭花丸(廃業)、桂我太呂(現文我)、一(かず)の一(はじめ)(後染語楼となり物故)、柳家小ゑん(現談志)、桂文紅、三遊亭全生(現円楽)、桂小春団治(現五郎)、補導出演、林家染丸(故人)でありました。

 小春団治(五郎)にとって、この交流で出来た人脈は、その後大きな財産となる。

 先日、毎日新聞の“落語ブーム”に関する記事について書いたが、その中で、現在横浜や大阪で開かれている二ツ目相当東西若手六人による会のことに触れた。

 私は、さん喬と新治など、個人の噺家さん達の東西交流がいろいろあるのは認識しているが、東西の協会同士が交流のために積極的に活動しているという話を、耳にしない。

 もちろん、いろいろ難しいこともあるだろうが、ブームとは言えなくとも、少なくとも落語という芸に訪れた“波”を活かして、個と個の点と線だけではなく、面として、そして、より立体的なスケールの大きな落語界の活動があってよいと思っている。

 なぜなら、まったくの“なぎ”の状態において、上方落語への“波”を率先して起こそうとしていた昭和三十年代の重鎮、三代目染丸の苦労がいかばかりかと思うからだ。
 
 引用した内容には、なんとも懐かしい当時の若手の名前の中に、染丸の名が混じっている。
 協会創立間もない頃に、初代会長として奮闘していたことが、察せられるではないか。

 リハビリ中だった染丸が、師匠の50回忌にかける思いは深くて熱いものだろう。

 その50回忌追善落語会が、一門とその愛好家たちのための興行になるだけでなく、初代上方落語協会会長染丸が率先して奔走していた東西交流について議論されるきっかけになって欲しいと思う。

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by kogotokoubei | 2017-04-13 21:54 | 上方落語 | Comments(2)
 上方落語協会が設立60周年を迎え、今月の天満天神繁昌亭の昼席は特別公演が開催されている。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

上方落語協会
60周年で公演

毎日新聞2017年4月2日 大阪朝刊

 落語の定席、天満天神繁昌亭(大阪市北区)で、上方落語協会の設立60周年を記念した特別公演が始まった。毎日午後1時開演の昼席に、200人以上の落語家が日替わりで出演する初の企画。初日の1日は開演前に鏡開きが行われ、桂春之輔副会長が「我々一同、芸道に励みますので、ますますのご愛顧をお願いします」とあいさつした。


 上方落語協会は1957年4月、18人で発足。現在は256人が所属する。特別公演は今月30日まで連日開催。いつもは週替わりの出演者が日替わりになるほか、その日の出演者による口上も毎日行われる。

 繁昌亭サイトには、次のように案内されている。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

天満天神繁昌亭昼席 上方落語協会創立60周年記念月間の開催について

おかげさまで、上方落語協会は今年4月1日、創立60周年を迎えます。

これを記念して、4月昼席公演を“記念月間”として特別公演を開催致します。
255名の協会員が日替わりで総出演して、4月の一カ月間を賑やかに祝う記念公演です。

 昼席の今月の番組表には、なんとも賑やかな顔ぶれが並んでいる。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

 60年前の協会発足当時を、その前夜から振り返りたい。

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 先日の命日でも引用した露の五郎兵衛(発行時は露乃五郎)の著書『上方落語夜話』(昭和57年8月10日初版、大阪書籍)からご紹介。

 昭和20年代の末、上方の若手落語家は、夷橋松竹(夷松)と宝塚の大きく二つの派に分かれて勉強会、落語会を行っていた。当時のことをまず振り返りたい。

 昭和30年に入ると若手は若手なりに活発に動き始めました。桂米朝が南街ミュージカルで茶川一郎らと、コメディーを演じはじめたのもこのころで、三越落語新人会は、新人を卒業して三越落語会となり、落語家たちは落語以外のいろいろなラジオ番組にも顔を出すようになりました。
 夷松と宝塚に分かれて勉強を続ける若手たち以外、まだまだ古老連も幾人かは健在でした。これらを何とかまとめようとする動きは、あって当然、また当人たちにもその気はあったのですが、その音頭取りが問題で、これがなかなかむつかしかったのですが、やがて時の氏神が現れました。朝日放送の「上方落語をきく会」がそれで、昭和30年12月1日上方落語とはなじみの深い三越劇場で開催され、メンバーは、桂文団治、笑福亭枝鶴、桂福団治、林家染丸、桂春坊、桂米朝、橘ノ円都の七人でした。まだテレビのない時分で、PRが十分に出来なかったので、果たしてお客さんが来てくれるかどうか、この点が一番心配でした。しかし、我々の予想を完全に裏切って、開幕前にはほとんど満員の盛況で本当にうれし涙が出そうになりました。そして、この会は、今日まで続いているのです。

 補足すると、枝鶴は、その後の松鶴、春坊は著者の五郎である。

 引用を続ける。
 一方、宝塚若手落語会は、その年9月から立体落語と称して、落語劇とに二〇加(にわか)のアイノコのようなものを上演しはじめ、これが、たまたま小林一三翁の目にとまり、そのお声がかりで北野劇場のステージショーに進出するといったハプニングすら生まれたのでした。そして小林一三翁のお声がかりで、モダン寄席を開場する企画が出はじめ、昭和25年ごろ初期の新芸座結成に関係しその後、病気療養のため休職していた漫画家でもありアイディアマンでもあった平井房人氏が、復職に際して宝塚若手落語会の担当となって、第二劇場における立体落語等の企画に参加する事になりました。
 ここにおいて宝塚若手落語会はそれまでの自主的公演から、いわゆるひもつき公演の色がかかりはじめ、平井氏からは、「この際、小林一三翁のポケットマネーから研究費が出るので、宝塚の専属にならぬか」と、いうような話が出はじめたのです。

 新芸座とは、五郎兵衛が一時在籍していた宝塚の軽演劇の一座のこと。
 さて、宝塚専属への誘いに、五郎兵衛たちはどう返事をしたのか。
 
 根っからの自由人の集まりである落語家たちは、しばられるのをきらって、言葉をにごしました。が、春坊と小染のみは、かつて夷橋松竹支配人と真っ向から対立した当事者だけに、宝塚に対して色よい返事をせぬわけにもいかず、ともあれ若手たちの間にこのましくないムードが流れはじめながら、落語会は続けられ、やがて、5月、宝塚動物園が博覧会を開催するに際して、第二劇場もその会場に使用されるため、若手落語会は休演。これを機に専属云々の話をはっきりさせようという事になって、とど、小染、春坊、枝之助、小文吾が、宝塚の専属となり、他は自由にということで宝塚若手落語会にピリオドがうたれました。
 折も折、小林一三翁の他界、新芸座の秋田実氏以下漫才陣の大挙脱退という悪条件がかさなり、モダン寄席の話は立ちぎえとなって雲散霧消、前記四人の落語家はどうすることも出来ずに、新芸座へ参加という運命に追いこまれてしまいました。

 夷松と春坊、小染との関係悪化について補足。
 昭和29年3月に、若手の日曜勉強会の開催を提案していた夷松が、若手落語家を集め、宝塚若手落語会をやめて夷松一本に絞って欲しい、と依頼した。春坊にしてみれば、その当時、日本芸能博で休演しているものの、宝塚は若手落語会を復活すると約束しているし、夷松への出演も許可しているため、「是非双方へ出演させてください」と夷松の支配人に返答したのだが、聞き入れてもらえないので、「宝塚をとります」と発言したことによる。
 その会合に、東宝映画「女殺油地獄」に出演のため欠席していた米朝が、後になって「わしがいたら、そんな事にさせなかったものを・・・・・・」と悔やんだ、騒動だった。
 さて、ようやく上方落語協会の設立の段。

 上方落語協会発足

 若手落語家の大同団結が急務とさけばれ、当人たちも自覚していながら、なかなかその機を得なかった上方落語会界でしたが、宝塚落語会の終結後、夷橋松竹日曜会に結集することになり、めでたく昭和31年は暮れていったのですが、好事魔多く、翌年明けて早々の1月末、夷橋松竹が閉館、歌舞伎座の地下へ、歌舞伎地下演芸場として移転することになり、戎松日曜会も幕をとじざるを得なかったのです。
 ここにおいて、かえって落語家たちの団結はかたまり、昭和32年4月上方落語協会が結成され、翌5月4日道頓堀文楽座別館4階において、旗揚げ公演ともいうべき、第一回土曜寄席が開かれました。
 上方落語協会の役員は、会長、林家染丸。幹事、笑福亭枝鶴、桂米朝、旭堂小南陵、桂福団治で、会員数16名。
 この上方落語協会主催の土曜寄席につづいて、6月12日午後7時、神戸新聞7階ホール、ラジオ神戸の主催で神戸寄席が開かれることになりました。
 つづいて9月にはじまった、京都市民寄席。
 (中 略)
 とにもかくにも、上方落語に太陽があたりはじめたのです。このころ、東宝宝塚映画で森繁久弥扮する初代桂春団治が映画化され、世間の上方落語に対する注目もひとしおましてきたこともいなめません。
 そして翌33年2月、当時春坊の筆者は、宝塚新芸座梅田コマ第一回公演に参加して、16日、セリから落ちて右足骨折、日赤へ入院約1年病床に呻吟する身となり、また3月16日には四代目桂文枝が68歳で亡くなりました。

 上方落語協会の初代会長となった林家染丸は三代目。四代目染丸や、将来を期待されながら若くして亡くなった四代目小染(「ザ・パンダ」メンバー)などの師匠。

 なお、歴代の会長と在任期間は次のようになっている。
1 三代目林家染丸   1957年 - 1968年
2 六代目笑福亭松鶴  1968年 - 1977年
3 三代目桂春団治    1977年 - 1984年
4 三代目桂小文枝   1984年 - 1994年
5 二代目露の五郎   1994年 - 2003年
6 六代目桂文枝    2003年 -


 上方落語協会の初代幹事に、当時の桂春坊の名はない。
 そして、協会発足を機に“陽”があたり始めた頃、春坊は、病院で呻吟していたわけだ。
 ちなみに、春坊が落語界に復帰し、協会に加盟するのは昭和34年。
 
 協会の六代目会長である六代目(本人は松鶴に遠慮して“六代”と言いたいらしいが、六代目には違いない)文枝の在任期間が長いのでずいぶん昔のように思えてならないが、その前の会長が、春坊の露の五郎兵衛。
 就任の際に、なぜ米朝ではないのか、など一部反対派が協会を離れるという騒動もあったのは、知る人ぞ知ることだ。

 そろそろ、二十年以上も前のことは、良い意味で忘れましょう。
 設立して還暦なのだから。

 だいたい、組織内でのゴタゴタは、ほんのちょっとした行き違いなどが原因。
 話せば分かり合えることも、一度こじれると、その話し合いにならないため、溝が深くなる。
 そして、こじれた関係も、時間が一番の薬なのではなかろうか。
 
 実際に、今では、一門を越えた落語会の開催なども目立ち、かつての溝は相当埋まっているように思う。

 もしかすると、東京の落語界の方が、二つの協会、協会を離れた一門などの間に、見えない溝があるような気がするなぁ。
 それどころか、落語協会は、同じ協会内でも足並みが揃っていないように感じる。
 たとえば、現在のホームページを良しとする人たちと、そう思っていない人たちなど。


 話を上方に戻す。
 戦前、戦中、戦後、多くの上方落語の先駆者たちが苦労して、今や二百人を超え三百人にもなろうかという上方落語協会の会員数には、天国座にいる人々も驚き、そして喜んでいるのではなかろうか。

 繁昌亭の番組表を見ると、自分が関西に住んでいないことが残念でならない四月だ。
 
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by kogotokoubei | 2017-04-03 21:16 | 上方落語 | Comments(2)

 三月三十日は、二代目露の五郎兵衛の祥月命日。

 昭和7(1932)年3月5日生まれで、八年前の平成21(2009)年3月30日に、満77歳で旅立った。

 このところ“江戸前”の笑いについて書いてきたが、今回は上方の噺家さんについて。
 昨年、笑福亭松枝の本の引用で、露の五郎兵衛一門のことを書いた。
2016年2月21日のブログ

 米朝、松鶴、春団治、文枝などの一門と比べると、東京での知名度は低いように思うが、最近は露の新治が東京での落語会や寄席への出演で評価を高め、昨年は芸術祭優秀賞を受賞するなどにより、その名が浸透しつつあるように思う。

 以前記事で書いたが、新治が演じる『中村仲蔵』は、師匠の五郎兵衛が八代目林家正蔵に稽古してもらったものを継承している。

 そのことからも分かるように、五郎兵衛という噺家さんは、東京との縁が薄からぬ存在で、鈴本や国立演芸場への出演もあったらしい。

 新治の東京での活躍は、そういった師匠が作ってくれた財産が大いに役立っているということだろう。
 
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 露の五郎兵衛の著書『上方落語夜話』(執筆時は、露乃五郎)から、五郎兵衛の落語という芸の捉え方が伝わる文章を紹介したい。

 本書は、朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行された。

 この本からは以前にも『蛸芝居』に関する記事で、初代桂文治について書かれた文章を紹介したことがある。
2014年2月1日のブログ


 朝日カルチャーセンターで二時間づつ五回に渡って話した内容を元に、神戸のタウン誌『センター』に連載した記事、そして神戸新聞や京都民報、『上方芸能』に書いた内容などを補って整理した内容で、上方落語を知る上で非常に有益だ。

 第一章から第四章までは、自分の体験談も交え上方落語の歴史を説明しているが、第五章は趣が変わって「落語の楽しさ」となっている。 その第五章から引用。

 落語はドラマです

 約三百年の間にそれぞれの演者が工夫をこらしながらみがきぬかれ現代に語りつがれてきた落語ですが、今日でも、その工夫はつみ重ねられているわけで、俗に古典落語といわれている落語でも、いたずらに故人の遺産を守っているだけではありません。と、いいますのが、落語はその時代その時代に生きているもので、その時、その場所、そのお客に合った演出で演じなければ、落語自体が死んでしまいます。ですから、落語家は出演者であると同時に演出家でもあるわけで、演出家の目で演者としての自分をみつめ、似合わない役柄の人物は出てくる場面をへらしたり、別の人物に代弁させたり、作品(ネタ)の中の人物を自在にあやつれる演出家としての力がなければなりません。

 最初この文章を読んだ時、「それは、当たり前じゃないか」と一瞬思った。
 しかし、すぐに、その当り前のことがなかなか難しいのだよな、ということも痛く感じた。

 引用を続ける。

その物語の背景になる時代はいつにするか。江戸時代か、明治か、現代か。たとえば、それによって、物のねだん一つでも変わってくるわけです。そうして演出家としてねににねった作品を演者として充分に演じきったときにはじめて、面白い落語が出来るわけで、基礎をきっちり習うことはもちろん大切ですが、それを、そのままくりかえすだけでは何にもなりません。その作品にその演者の息吹きがふきこまれて、だれそれの何、と、言われる落語になるのです。

 基礎ができている上で、演者の息吹きをふき込む、という言葉は重要だ。

 この部分を読んで、露の新治の『中村仲蔵』のことを思った。

 仲蔵が、自分の工夫した斧定九郎の演出に客席から何ら反応がなく、「しくじった」と思い江戸を離れるつもりでいたのだが、街で仲蔵の芝居を褒める声を耳にする、という場面。
 師匠五郎に伝わった正蔵版は、上方へ行く道すがらの魚河岸で、芝居を観てきた河岸の人たちの会話で、自分を褒める言葉を耳にする、という設定だった。
 新治は、上方に行こうと決めて家を出たものの、つい足が中村座の方に向かってしまい、そこで、小屋から出てきた客が仲蔵を褒める言葉を耳にしてしまう、という設定。
 師匠から継承したものかどうか勉強不足で分からないが、この演出の工夫は悪くない。特に、上方で演じる場合は、魚河岸という場面設定は違和感があるかもしれない。
 
 何より正蔵、師匠五郎兵衛から継承している大事なのは、「たった一人」でも褒めてくれる人がいたことを仲蔵が知ること、である。
 そこに、あの噺が、よりドラマチックになることは聴いていて、よく分かった。

 落語とドラマ、については続けてこのように書かれている。

そして、そのすぐれた落語が文字になった時に、文学!! とさえ思われる者が出来上がるわけで、だれのどの落語でも活字になって文学的であるわけではありません。けれども、演出の上手下手はともかく、落語がドラマであることにはまちがいありません。目のつかい方で遠近や感情、仕草の一つ一つが、舞台装置や小道具をおぎなって、扇子と手拭いだけで、時にはパントマイムすれ演じるのです。
 ご覧いただく方の頭の中に、その場面が浮かび上ってこそ、その落語の味わいがわかるのです。高座と客席の知的な遊びの交流がなければ、ドラマとは程遠い、単にギャグでゲラゲラ笑っておしまい、と、いう、つまらないものになってしまいます。
「いや、俺は、その方が好きなんだ」
 と、おっしゃられれば、それまでですが・・・・・・。

 いやいや、ゲラゲラ笑うだけでは、私は嫌だ^^

 こんなことも書かれている。

昔は「はなし二百の節三百」と、申しまして、落語は二百人、節のついた浄瑠りや浪曲は三百人くらいが最適といわれていました。これは、マイクのない時代、声の通りの問題でもありましょうが、演者の目の動きが最後列のお客様からでも見える範囲をいったものといわれています。近ごろは、上方ではホール落語その他、会場が広くなってまいりましたせいと、話芸という概念、マイクが良くなった、まァいろいろいな条件が重なって、どうも、本当の面白さが、演じる方も、見る方も、ちょっとちがってきているような気がしています。

 よく分かるなぁ。

 私は、今では千人を超えるような会場の落語会には行かない。

 「はなし二百」という言葉、覚えておこう。

 ちなみに、私が好きな末広亭は、一階の椅子席が117席。桟敷は上手側、下手側で各38席と、末広亭のサイトには記されている。これは、座布団を目一杯詰めて並べての数字だとは思うが、合計で一階がほぼ二百、「はなし二百」に合致。
 
 鈴本は285席と少し広い上に、昔の佇まいがなくなっているのが、残念。

 池袋は93席。高座から噺家の唾が飛ぶ距離で迫力満点ではあるが、少し狭すぎる。
 浅草演芸ホールは一階239席、二階101席。名前からしてホールなので、寄席の雰囲気は味わえない。

 国立演芸場は、300席だが、結構好きだ。前の方の席なら、十分に噺家さんの表情が見てとれる。

 上方の天満天神繁昌亭は、一階153席、二階63席のようだ。
 ほう、合計で、ほぼ「はなし二百」ではないか。

 小満んの会を楽しんでいる関内ホールの小ホールは264席。あれくらいがちょうどいいね。

 つい、「はなし二百」から、詳細に至ってしまった^^


 昨年2月の記事で紹介した笑福亭松枝の本には、桂枝雀一門と上方落語協会会長になった際の露の五郎兵衛とのぎくしゃくした関係についても、少し書いていた。
 具体的な内容までは松枝は明かさなかったが、どうもネットなでで流れている情報によれば、枝一門総領弟子南光と五郎兵衛との相性の悪さが背景にあったと察せられる。
 その件は、これ以上ほじくり返してもしょうがないだろう。
 
 私も、露の五郎の第一印象は、良くない。
 少年時代にテレビで見た五郎兵衛は下がかって話が好きな好色じじい、という印象で、長らく私にとっては贔屓の噺家ではなかった。

 しかし、新治を知ることからその著作などを読み、印象は一変した。

 早い話が、知らず嫌いだった。

 二代目露の五郎兵衛、もっと評価されてしかるべき人である。

 上方落語に関する著作も貴重だし、もちろん、その芸そのものも半端じゃなかったと思う。

 『大丸屋騒動』の音源を聴き、生の高座ではないにしても、芸の深さを痛感した。
 聴いていて、噺の場面がはっきり目に浮かんだ。
 引用した文にあるように、「その場面が浮かび上ってこそ、その落語の味わいが」わかったのだ。

 
 明日31日、天満天神繁昌亭では、「第八回 露の五郎兵衛追善落語会」が開かれる。
天満天神繁昌亭サイトの該当ページ

 きっと、それぞれの高座に“ドラマ”があるはずだ。

 こういう会のことを知ると、上方の落語ファンの方が羨ましくなる。

 江戸前もいいが、上方もいいのだ。


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by kogotokoubei | 2017-03-30 22:31 | 上方落語 | Comments(0)
 米朝が三代目春団治に宛てた『親子茶屋』の自筆原稿が、三代目の遺品から見つかったとのこと。
 共同通信の配信が、各紙で取り上げられていた。
47NEWSの該当記事
米朝さんの落語自筆原稿発見
春団治さんにネタ伝える
2017/1/11 16:46

 人間国宝の落語家、故桂米朝さんが、「上方落語四天王」と並び称された故桂春団治さんにネタを伝えるために書き起こした古典落語「親子茶屋」の自筆原稿が見つかり、米朝事務所などが11日、報道陣に公開した。

 戦後、上方落語の復興に尽力した四天王の交流を物語る資料で、米朝さんの長男で弟子の桂米団治さん(58)は「4人はライバルで、仲も良かった。父も春団治師匠には一目置いていた」と話している。

 米朝さんが春団治さんに宛てた原稿用紙は計8枚。春団治さんの遺品から見つかった。
 動画も配信されていて、他に『一文笛』の原稿も見つかったらしい。


 『親子茶屋』の原稿に、「御身 御大切に」と書かれているのが、印象的だ。

 1月28日から兵庫県立歴史博物館で開催される特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」で公開されるらしい。
兵庫県サイトの該当ページ
 

 この『親子茶屋』が米朝から三代目に伝わることになった背景には、ある逸話があった。

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小佐田定雄著『米朝らくごの舞台裏』(ちくま新書)

 小佐田定雄さんの『米朝らくごの舞台裏』は、全270頁のうちの250頁が「第一章 米朝精選40席」である。

 昭和41(1966)年から京都東山区の安井金毘羅宮の境内にある安井金毘羅会館で始まった「米朝落語研究会」の座談会や反省会の内容、毎日放送の「特選!!米朝落語全集」の「こぼれ話」で知り得た逸話、雑誌「落語」のインタービューの内容などを交え、米朝落語のネタ40席ごとに、得難い情報が提供されている。

 その「精選40席」を、並べてみる。
足上がり/愛宕山/池田の猪買い/一文笛/稲荷俥/馬の田楽/親子茶屋/怪談市川堤/景清/かわり目/胆つぶし/くしゃみ講釈/けんげしゃ茶屋/高津の富/小倉船/仔猫/こぶ弁慶/堺飛脚/算段の平兵衛/鹿政談/地獄八景亡者戯/しまつの極意/除夜の雪/疝気の虫/代書/たちぎれ線香/茶漬間男/つる/天狗さし/天狗裁き/動物園/ぬけ雀/猫の忠信/はてなの茶碗/百年目/坊主茶屋/本能寺/まめだ/らくだ/禍は下

 『親子茶屋』はしっかり入っている。
 
 さて、このネタを含めていくつかの噺が米朝から春団治に伝わったのだが、そのいきさつについて本書から引用する。

 春團治師が前名の福團治から春團治を襲名したのは1959年3月。まだ二十九歳であった。襲名直前のこと、いっしょに酒を飲む機会のあった米朝師は、酔った勢いもあって福團治時代の春團治師に、
「福さん。あんた、今のネタ数で春團治を継いでええと思うてんのか」と意見したのだそうだ。福團治は、その場は黙って聞いていた。その翌朝、米朝師が自宅で目を覚ますと枕元に誰かが座っているので、驚いて飛び起きると福團治師が座っていたそうだ。
「なんや。来てたんやったら、起こしてくれたらええのに」
「いや、寝てるのん起こしたら悪い思うてな」
「なんやねん?」
 ゆうべネタ数が少ないということを言われてむかついたけど、よう考えてみたら言うてもろうたとおりやと思う」
「わし、そんなこと言うたか?」
「おぼえてへんのか!今日来たというのは、ネタを付けてもらおと思うてお願いに来たんや」と一升瓶を差し出したのだそうである。
 その心意気に打たれた米朝師は、この『代書』と『親子茶屋』、『皿屋敷』、『しまつの極意』などを教えたという。この中で『代書』、『親子茶屋』、『皿屋敷』は春團治師の十八番として完成品となった。そして、春團治師が演じるようになると同時に、米朝師はこれらのネタをあまり高座にかけなくなった。『皿屋敷』と『親子茶屋』はたまに演じることもあったが、私が米朝師の『代書』に出会うには1973年10月13日に大阪の朝日生命ホールで開かれた独演会の高座まで待たなくてはいけなかった。

 昭和34(1959)年、米朝は三十代前半、春団治は三十路手前という若い時分の逸話である。

 『親子茶屋』は、後半の茶屋遊びの場面が楽しいのだが、演じ手には「狐釣り」などを含め、実に難しい内容。
 実際に茶屋で遊んだ経験などがないとなかなか味わいが出ない噺だと思う。
 以前、桂かい枝が横浜にぎわい座で演じた際に少し小言を書いたら、ご本人からコメントをいただき恐縮したものだ。

 米朝や春団治、文枝、松鶴の四天王は、そういった茶屋遊びの経験を噺に生かすことのできた最後の世代ではなかろうか。

 そして、遊びの附き合いのみならず、戦後の上方落語低迷期に一緒に切磋琢磨してきた仲間同士だからこそ、米朝も酒の勢いを借りて、思ったままのことを言ったのだろうし、その場ではムッとしたであろう春団治も、きっと父親から大きな名跡を継ぐにあたって米朝が指摘するようにネタ数が少なすぎることを感じていて、きっと眠られないまま、米朝の家に向かったのだろう。

 自筆原稿が見つかったことで、上方落語の歴史や、あらためて四天王のことなどが話題になることは大いに結構。

 そういえば、昨年11月に、毎日放送(MBS)の「茶屋町劇場」で、“芸術祭参加”と謳った「上方落語四天王 さえずり噺〜ああ、青春の上方落語〜」が放送された。

 録音したものを後から聴いたが、なかなか楽しい内容だった。
 台本は小佐田定雄さん。四天王の役は、それぞれの弟子筋の方が演じた。
 結構、よく似ている人もいたし、そうでもない人もいた^^

 残念ながら芸術祭受賞は逃したらしい。

 桂かい枝のブログに、収録時の写真などが紹介されている。
桂かい枝のブログの該当記事


 今や「天国寄席」は、大盛況だろう。

 東京の四天王も上方の四天王も、そして昭和の名人たちも楽屋に控えている。

 昨今、落語ブームと言われており、東西の噺家の人数は史上最多かと思う。
 しかし、その量は質を伴っているのだろうか・・・・・・。

 もし、先人たちが苦労して蓄えた財産を食いつぶすだけならば、空の上から、「なにしてんのう!」と小言を言われるかもしれない。

 最後は、つまらない地口でのサゲになってしまった^^



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by kogotokoubei | 2017-01-13 12:18 | 上方落語 | Comments(8)
 最後の上方落語四天王だった三代目も、彼岸の人となってしまった。

 そこで、ふと考えた。
 もしかすると、今、東京(関東)地区の落語愛好家の中で、もっとも評価の高い現役の上方の落語家は、露の新治ではなかろうか。

 そして、この度の芸術祭優秀賞受賞。

 私も何度か聴いているが、どの高座も実に素晴らしい。
 
 その新治の師匠は、亡くなる前の名で書くなら、露の五郎兵衛。

 東京では、この一門のことは、米朝一門、松鶴一門、五代目文枝一門、そして三代目春団治一門などに比べると、あまり知られているとは言えないだろう。

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笑福亭松枝著『当世落語家事情』(弘文出版)

 先日、三代目のことで引用した本から、この一門について書かれた部分を紹介したい。
 ほぼ20年前、平成8(1996)年2月に発行された、笑福亭松枝の『当世落語家事情』の「露の五郎・湖」の章からの引用。
 ちなみに、各一門について書いてある章の他の題は、「米朝山脈」「春団治の海」「文枝平野」「故六代目松鶴・火山帯」「可朝の月」「染丸の丘」など。
 なんとなくイメージが伝わるものもあるが、ややこじつけっぽいのもあるかな。

 「露の五郎・湖」の冒頭は、ある別の一門の上方落語協会からの脱会事件から、始まる。

 平成六年、露の五郎は上方落語協会、第五代会長に就任した。
 直後、待ち構えていたように桂枝雀一門が脱会を表明。少し遅れてざこば一門もその後を追う。マスコミが取り沙汰。世間も大いに関心を寄せた。
 一般にこういう騒動が起こった場合、その原因と渦中の人物の本心など、興味本位に邪推され、歪んだ形で流布、結論づけられることが多い。困ったものである。
 その一つ。
「枝雀一門、特に南光は、かねてより露の五郎に好意的ではなく、彼を盟主に戴くことは耐えがたく・・・・・・」など、誠しやかに言われたが・・・・・・誠である。筆者、署名の上捺印する。あたわず。
 また、一つ。
「元来、米朝が何代も前に会長になっていなければならないところを先送り、怒りが募り、表明するべく・・・・・・」とも言われたが、それは根も葉も・・・・・・ある。幹もウーンと太い。
 しかし、その真相は細々ここに記す気はない。紙数に限りもある。もし何としても知りたければ、私の許へ意思表示をして欲しい。一万人を超えたら、本にする。
 枝雀一門の上方落語協会脱会騒動は、知る人ぞ知る、知らない人は知らない、上方落語界の事件。

 この本の発行が平成9(1997)年。

 まだ、生々しい話題だったに違いない。
 
 そろそろ時間も経ったから、松枝に、ぜひ本にしてもらうべく意思表示しようか・・・迷うところだ(^^)
 この件、別途何か書くとして、露の五郎について。

 さて、「露の五郎」は、二代目・春団治に付いて、現・幹部連の中では最も落語家らしい修業をした一人であろう。いかんせん他に比べて年が若く、不利があったことがかえって持ち前のバイタリティに繋がっている。多芸多才、万事に精力的である。本業の落語は無論、大阪仁輪加、演劇、著述その他、業績は輝かしい。サービス精神と研究心で、一つの素材(ネタ)でいかに多くの笑いを取るか、涙を絞るか、怖がらせるかを限界まで追及する、翻って、素顔の五郎は至ってきさくで、話がしやすい。つい話題が下ネタに行く傾向も愛嬌である。熱烈で息の長い支援者が多い。

 “年が若く、不利があった”という表現は、たぶんに「上方四天王」と比べているのだろうと思う。

 露の五郎と、四天王の生年月日を並べてみる

 ◇六代目笑福亭松鶴 大正7(1918)年8月7日生まれ。
                    *昭和61(1986)年9月5日没。
 ◇三代目桂米朝    大正14(1925)年11月6日生まれ。
                    *平成27(2015)年3月19日没。
 ◇三代目桂春団治   昭和5(1930)年3月25日生まれ。
                    *平成28(2016)年1月9日没
 ◇五代目桂文枝    昭和5(1930)年4月12日生まれ。
                    *平成17(2005)年3月12日没。
 そして、
 二代目露の五郎兵衛 昭和7(1932)年3月5日生まれ。
                    *平成21(2009)年3月30日没。
 
 「若い」と言っても、三代目、文枝とは、たった二歳の違いだ。
 五郎が「上方落語四天王」とは距離感を持たれてしまうのは、若かったこともあるだろうが、それよりも、彼が落語に限らず芝居や仁輪加などの芸道を歩んでいたことの方が、大きく影響しているように思う。
 
 私は、子供の頃に初めて露の五郎をテレビで見たことを、ぼんやりと覚えている。何か艶笑噺をしていたのか、下ネタの話題だったのか、いずれにしても、下がかった印象を露の五郎に対して根強く持つようになった。
 だから、あまり、良い第一印象とは言えない。

 しかし、今は違う。
 新治を知るようになってから、五郎の『大丸屋騒動』などの音源を聴き、実にびっくりしたのである。
 「あれ、ただのエロ爺ぃじゃなかったんだ!」と思ったのだ。
 きっと、上方落語を長らくお聴きの方は、その力量を十分に評価されていたのだろう。

 本書から、五郎の弟子達について書かれている部分を、引用。
 あらためて、本書は20年前の発行ということをお忘れなく。

 立花家千橘(たちばなやせんきつ)は、露の団丸を改め、襲名。温厚な人柄は周囲をほっとさせる。持ちネタを巡ってこんな逸話がある。
 若江岩田寄席という長年続いた若手の勉強会があった。千橘は兄貴格として数回客演していたが、ある時、そのネタ帳を偶然に五郎が目にした。千橘の演じたソレはことごとく五郎の十八番で、しかも一度も稽古をつけてないものばかりだったという。
 『慎悟』は最近、糖尿病と結核で別々の病院に通院している。一向に回復の兆しが見られない。聞けば糖尿への投薬が結核の症状を悪化させ、結核への療法が糖を増やすという。医者同士の話し合いが待たれる。
 『都(みやこ)』は、数少ない東西女流落語家達の姉貴分。平成7年十一月、再婚。前の相手は造幣局員、この度はNTT職員とおカタい。本人は何かにつけてヤハラかい。若い頃、笑福亭松葉にほのかに憧れ、出した年賀状でしくじっている。宛名を「笑福“停”松葉様」としてあったという。
 『団四郎』は、師・五郎になくてはならない存在である。まず仁輪加の相手(一輪亭花咲の名を持っている)、次に五郎演じる怪談の幽霊。色あおざめて白く、小柄で身のこなしがこの世の者とは思われず、幽霊になるために生まれてきたような・・・・・・。
 『団六』が来て、五郎宅のふまえつき(踏み台)は押し入れに仕舞われた。182センチの長身。神戸大出身で、物事の本質をズバリ、バッサリ。ラジオ関西の「団六のニュース大通り」は好評で、長寿である。
 『新治』も負けず、大阪市立大学出身。学校の先生であった経験を生かしての講演もよく依頼される。師匠宅の新年会でベロベロに酔い、帰りのタクシーのシートに大便をしたという豪傑でもある。
 八年前である。某地区会館の和室で一門の勉強会が開かれた。入門間もない『吉次(きちじ)』が、前座で『平林』をやりだしたところ、会の常連で目の不自由な女性客が伴っていた盲導犬が、突如「ウー、ウー」唸り出した。盲導犬は主人に危険を知らせる以外、絶対にそういう反応はしない。と、断言するほどその方面の知識に明るくないが、多分そうだろう。吉次の『平林』が、主人に危害をもたらすと予測したのだろうか?誰よりも驚いたのは犬の主人で、“人いきれに犬が苦しんで”と判断し、空気の入れ替えに、とっさに横手の襖を開けた。なんと、そこは出演者の控え室になっていて、折しも次の出番の都が長襦袢一枚の姿でたたずんでいた。犬はさらに激しく唸り声をあげたという。主人に及ぶさらなる危機を感じたのだろうか。会は中断、女性客は帰り、その後、姿を現さないと聞く。
 ・・・・・・たいした話だ、ヒラリンは。

 あの新治が、そんなしくじりをしていたなんてねぇ(^^)

 この本の発行後、弟子はもう一人増えている。
 実の娘の、露のききょう 、だ。女優の綾川文代でもある。

 露の五郎一門、なかなか個性的な顔ぶれが揃っていそうなのだが、生で聴いたことがあるのは、新治と都のみ。

 天満天神繁盛亭のサイトに「上方落語家名鑑」がある。
 その中の「露の五郎兵衛(二代目)」一門のページを確認すると、都には五人も弟子がいる。
天満天神繁昌亭サイト「上方落語家名鑑」の該当ページ

 都の弟子の一人、紫は、2013年NHK新人演芸大賞のテレビ放送で聴いている。
 馬ること同点での決選投票の結果、4対3で負けはしたが、私は彼女の優勝でも、まったく異論はなかった。
2013年10月20日のブログ

 新治にも弟子が一人いるようだ。

 二代目春団治の弟子なので、、三代目と兄弟弟子だった露の五郎兵衛。

 人数の面では「春団治の海」に対して「湖」かもしれないが、新治に代表されるように、透き通るように澄んだ、綺麗な湖なのではなかろうか。
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by kogotokoubei | 2016-02-21 19:46 | 上方落語 | Comments(8)

 三代目桂春団治の訃報は、上方の落語愛好家に限らず、落語をこよなく愛する人々の心に、重く響いたと思う。

 それは、敗戦後の上方落語界の復興に貢献した「四天王」の最後の一人が旅立った、ということもある。
 何より、あの大名席を継いでいながら、豪放磊落な初代や、その持ち味を継承していた二代目の父親ともまったく違う芸風ながら、三代目ならではの、あの優雅な、柔らかな、品格あふれる高座を、もう二度と味わうことができない、喪失感が大きい。

 上方落語の舞台裏を知るための好著から、襲名当時のことを知ることができる。


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 露乃五郎(執筆当時)の『上方落語夜話』は、朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行された本。

 昭和34年の三代目襲名について、次のように書かれている。

 明けて、昭和34年春、時ならぬ、赤い人力車が、大阪の街を、先引き、後おし付きで走りました。「アッ、人力車や!」「今時分何や、しかも真っ赤やがな」「乗ってるのは福団治や」、浪華雀のささやきを後に、赤い人力車は各新聞社を回りました。三月二十日の新聞は一せいにこれを写真入りで記事にしたものです。
 明二十一日から十日間道頓堀角座で開く「春団治襲名披露興行」の宣伝の一コマで、あずき色の紋付はかまの福団治改新春団治は、「人力車て、疲れまんな、ま、乗りおさめだすやろけど・・・・・・ハナシ家の名人になろう思うたら厄介だすわ」といささかてれくさそうでしたが、前景気は上々。襲名披露の番組は、東京から桂文楽、三遊亭百生、大阪はダイマル・ラケット、喜久奴・奴、笑福亭枝鶴、桂米朝、花月亭九里丸、旭堂南陵と角座開場以来のにぎやかな顔がそろいました。
 この時、枝鶴、米朝は千土地興業に属し、お祝い出演の形で参加したのです。

 枝鶴は、その後の六代目松鶴。

 この年、東京でも十月下席に東宝名人会、新宿末広亭、上野鈴本にも襲名披露をかねて三代目は出演している。
 また十一月上席に、角座での名人会に、東京から文楽、柳橋、志ん生を招いて、若い三代目をたすけるような番組が組まれたとのこと。

 実は初代春団治が乗っていたとされる「赤い人力車」は、三代目桂文三が乗っていたことが、春団治のことにすりかわって巷間伝わり、借金で「火の車」だった初代とのつながりで、定着したらしい。

 まぁ、それはともかくとして、昭和34年春の「赤い人力車」による三代目襲名披露の宣伝は、本人にとっても、思い出深いものだっただろう。

 旅立ちを前にした、きっと三代目の脳裏を横切る幾多の思い出のなかに、きっと「赤い人力車」での襲名披露の日も含まれていたのではなかろうか。

 日が経つにつれて、昨年の米朝の時には、「まだ、三代目がいる」という思いがあったのだなぁ、と喪失感の大きさで思い知る。

 上方落語界に、精神的に核となる人が残っているだろうか。

 若手や中堅に将来期待できる噺家さんは、上方に多いと思う。

 しかし、彼らの中から、新たな「四天王」が生まれることは、期待できそうにない。

 四天王の、そして三代目の存在の大きさを、つくづく感じるばかりである。
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by kogotokoubei | 2016-01-16 14:40 | 上方落語 | Comments(2)
 二日ほど前から、いきなり拙ブログへのアクセスが増えて、驚いた。

 アクセスがとんでもなく多かった過去の記事は、桂枝雀の長男の前田一知が、父の弟弟子である桂ざこばに入門し、桂りょうばの名で、四十過ぎで落語家になるというニュースに関する記事。
2015年9月1日のブログ

 検索も「桂りょうば」から、とんでもない数のアクセスがあった。

 調べてみたら、この7日に、桂りょうばが落語家として初高座を務めたらしい。
 
 朝日新聞も記事を掲載していたし、他の全国紙や複数のスポーツ紙も含め、多くのメディアが扱っている。

 朝日の記事を引用。
朝日新聞の該当記事
故・桂枝雀さんの長男りょうばさん、大阪・西成で初高座
篠塚健一
2016年1月7日21時25分

 爆笑王と称され、一時代を築いた落語家の故・桂枝雀さんの長男桂りょうばさん(43)が7日、大阪市西成区の動楽亭で初高座に上がった。詰めかけた約100人の観客を前に上方落語「東の旅発端」を陽気に演じ、デビューを飾った。

 一時はミュージシャンとしてバンド活動、転機はアマチュア落語家を経て昨年8月に桂ざこばさんに入門した。寄席の前座として笑顔で登場すると、張り扇と小拍子で見台(けんだい)を叩(たた)きながら旅ネタを披露。父の面影が宿る表情やしぐさ、落ち着き払った高座ぶりに何度も笑いが起きた。

 終演後、師匠のざこばさんは張り扇の握り方も枝雀さんとそっくりで驚いたと明かした。「あんな落ち着いた初舞台ちゅうのはない。けれどもアマチュアの延長やちゅうのを感じる。玄人やなって思える噺家(はなしか)になってほしい」とざこばさん。りょうばさんは「親子なので似ちゃうのは仕方がない。本当に腹の底からはなしができる噺家になりたい」と話した。(篠塚健一)

 なんとか、無事に初高座ができたようで、それは嬉しい限り。

 『東の旅発端』であったというのも、上方落語の前座噺の基本であり、結構なことだ。

 桂りょうばという噺家の旅も、ぜひ無事なものであって欲しい。

 それにしても、ついこの前までの素人が四十歳を超えて落語家になったデビューに、これほど多くのメディアが関心を持っていたとは・・・・・・。
 もちろん、それは、父が枝雀であるという要素が、あまりにも大きいのだろう。

 拙ブログへのアクセス急増から辿って知った初高座だった。

 この関心の高さは、嬉しいような、「もうちょっと、静かに見守ってあげてよ」と言いたいような、複雑な思いなのだ。

 周囲の関心、期待の大きさに負けないだけの四十路でのデビューであると、思いたい。
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by kogotokoubei | 2016-01-09 20:37 | 上方落語 | Comments(4)
 少なからず驚かされた上方落語界のニュースを、朝日新聞からご紹介。
朝日新聞の該当記事

爆笑王・桂枝雀さんの長男、落語家に ざこばさんに入門
篠塚健一 2015年8月28日12時45分

 落語界の爆笑王として知られ、16年前に亡くなった桂枝雀さんの長男前田一知(かずとも)さん(43)が、枝雀さんの弟弟子の桂ざこばさん(67)に弟子入りした。芸名は「桂りょうば」。枝雀さんとざこばさんの師匠である桂米朝さんの追善の一門会が開かれた今月16日付で入門し、二世落語家として歩み出した。

 一知さんは大阪府豊中市生まれ。幼稚園の時から枝雀さんの弟子が稽古する噺(はなし)を聞き覚えてしゃべっていた。落語少年ぶりを枝雀さんは喜んでいたが、「かわいらしいと言ってもらえるのは小学生まで。本当にやりたかったら、高校を卒業してから改めて来なさい」と考える時間を与えた。

 中学に進むころに落語から離れると、高校では演劇や音楽に夢中に。英語落語の前座をすることはあったが、20代後半から東京を拠点にミュージシャンとしてバンド活動に打ち込んだ。

 転機は枝雀さんの没後10年だった2009年。亡き父の落語を改めて熱心に聴くうちに、「子どものころとは違う面白さに気づいた。すごい人だったんだ、と思いました」。自分もやってみようと、各地でアマチュアとして高座を重ねてきた。表情や口調に枝雀さんの面影が宿る。プロへの思いが高じて今年、ざこばさんに弟子入りを志願。9月から大阪で本格的な修業生活に入る。

 ざこばさんは「どうしてもなりたいと言うんでね。(枝雀)兄ちゃんへのお返しという気も少しはあるけど、そない大層には考えない。僕の弟子で噺家として渡っていけるんなら、かめへん」と話している。(篠塚健一)

     ◇

 〈桂枝雀〉 39年神戸市生まれ、本名・前田達(とおる)。神戸大を中退して桂米朝に入門し、73年に枝雀を襲名。爆笑落語で一時代を築き、84年には上方落語家で初めて東京・歌舞伎座で独演会を開いた。英語落語の先駆者でもあった。99年、59歳で死去。

 ご長男が、素人ばなれした落語を演じるということは、落語愛好家のお仲間から聴いていた。
 東京でも桂九雀などと落語会を開催しているようで、そのうち聴かなきゃ、とは思っていた。
 しかし、まさか入門するとは・・・・・・。


 一昨年11月に、BS朝日で放送された「君は桂枝雀を知っているか!?」について記事を書いた。
2013年11月25日のブログ

 その後半に、枝雀の二人の息子さんが登場し、次のような感想を書いた。
 後半で印象深いのは、番組紹介ページでも書かれているように、長男の一知、次男の一史へのインタビューである。二人ともミュージシャンとして、父のDNAを継承しているらしいし、一知は時折高座にあがって、玄人筋の評価も高いようだ。

 長男一知は、飲み屋に迎えに行って、酔った父の代わりに、子供の一知がタクシーの運転手に料金を払って「領収書いただけますか」と言い、家に連れ帰る役だった、とのこと。

 一知が1972年3月生れ、一史が1977年の3月生まれ。父が旅立ったのが、それぞれ27歳と22歳。その当座には、語れなかった思い出を、今では冷静に振り返ることができるのだろう。ファミコンに一番はまったのが父だった、という話も微笑ましい。

 一知「子供みたいなお父さんでした」
 一史「どんなことでもみくびらなかった」

 彼らには、何事にも一所懸命な父の姿が、しっかり記憶されているようだ。

 正直なところ、あの番組では、冷静に父の死を振り返る次男一史の言葉の印象が強かったなぁ。
 長男には、父の明るい側面を引き継いだのかなぁとは思ったが、まさかその後プロの噺家を目指すとは、まったく予想できなかった。

 これからは、「桂りょうば」の成長を見守りたい。

 あえて書くが、桂りょうばに父枝雀の姿を追い求めることはしない。
 芸風や語り口は似ているかもしれないが、父はあまりに偉大すぎる。

 それは、六代目小さんに名人五代目の後継者としての高座を求めないし、当代米團治に米朝の芸風を要求しないのと同じである。
 もっと言えば、当代正蔵、当代三平に初代三平が巻き起こした爆笑の高座を期待しないし、できれば、彼らには父の真似をしないでくれ、と思う。

 それにしても、凄い決断だなぁ。

 四十台での入門であるが、焦らず、急がずに修業していただきたいと思う。

 桂りょうばという新しい上方の噺家の将来を、ほどほどの期待感で見つめていきたい。

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by kogotokoubei | 2015-09-01 12:30 | 上方落語 | Comments(10)

 「上方落語若手噺家グランプリ」の開催については、以前拙ブログでご紹介した。
2015年2月24日のブログ

 昨日、本選が行われ、桂吉朝の最後の弟子、桂吉の丞が優勝したらしい。朝日から引用。

朝日新聞の該当記事
桂吉の丞さんが優勝 初開催の上方落語若手噺家GP
篠塚健一 2015年6月23日23時57分

 関西の芸術文化活動を支える「アーツサポート関西」の助成で初めて開かれた「上方落語若手噺家(はなしか)グランプリ」の決勝が23日、大阪市北区の天満天神繁昌亭であった。桂吉の丞さん(32)が栄冠に輝いた。

 吉の丞さんは堺市出身で、2002年に故・桂吉朝に入門。上方落語独特の道具である見台(けんだい)やひざ隠しの由来を語るマクラから、「がまの油」で活気のある高座を見せた。「ホントにお客様に乗せられて。お客様のおかげ」と喜んだ。準優勝は、笑福亭鶴瓶門下の笑福亭べ瓶(べ)さん(32)だった。

 上方の有望な若手を発掘するためのコンテスト。決勝は、31人が参加した予選を勝ち抜いた9人で争い、朝日放送、関西テレビ、毎日放送、読売テレビなど在阪放送各局のプロデューサーらが審査員を務めた。

 表彰式で桂文枝・上方落語協会会長は「各局の皆さんに『使えそう』という人を見つけてもらえたんじゃないか。ただ『M―1』などを見ておりますと、優勝者が必ず売れるとは限りません」と笑わせた。「決勝に駒を進めただけでもすばらしい。テレビに出た時は応援してあげてください」と呼びかけた。(篠塚健一)

 吉の丞は、三年前、内幸町ホールで開かれた桂米二の会で聴いている。
2012年9月14日のブログ
 あの時は、吉坊も出演し、吉朝門下から二人が米二の会に登場という、彼らいわく、上方でも滅多にない組合せ、だった。
 吉の丞は、ざこばから稽古をつけてもらった『強情』という珍しいネタを披露してくれた。
 ブログを振り返ると、印象は悪くなかったようだ。

 「上方落語家名鑑」から、この人のプロフィールをご紹介。

上方落語家名鑑の該当ページ

1.芸名/桂吉の丞(かつらきちのじょう)
2.本名/飯村 隆祥
3.生年月日/1982年 (昭和57)年 7月31日
4.出身地/大阪府堺市
5.血液型/B型
6.入門年月日/2002年 (平成14年) 8月13日「桂吉朝」
7.出囃子/
8.紋/結び柏
9.趣味/だんじり
10.ホームページ/http://nazokake.watson.jp/kichinojo/
11.所属/米朝事務所
12.その他/八州学園高等学校卒
平成21年第4回繁昌亭輝き賞受賞
ひとこと/大師匠米朝、師匠吉朝のもとで修業した最後の弟子です。米朝師匠からは「吉の丞はこわい」と言われてますが、笑うと以外にかわいい顔になるんですよ!勢いのある元気な落語家を目指します。とにかくなんでもやります!元鳶職ですから、空からでも飛んでみせます!!

 へぇ、元鳶職か!
 きっと、元気な『がまの油』を演じたのだろう。

 吉朝一門は、優秀な弟子が揃っている。
 総領弟子のあさ吉は未見。
 二番弟子の吉弥は、テレビの露出も多い人気者だし、その力量も安定している中堅の大事な存在になっている。
 以前、テレビ朝日の「落語者」の『蛇含草』には、きつい小言を書いたが、実力は私も認めているのだよ。
 よね吉は、2007年のNHK新人演芸大賞を受賞した時に、目頭を熱くして「師匠にご報告したい」と言った言葉が、今でも忘れられない。この人を、私は一番の師匠の芸の後継者ではないかと思っている。
 吉坊については、私が言うまでもなく、定評のある若手だ。著作もある達者な人。
 米朝落語を、米二より若い世代で継承してくれることを期待する人で、珍しいネタにも挑戦する。先月、国立演芸場で『冬の遊び』を演じるのを楽しみしていたのだが、野暮用で行けなかったのが、残念無念。

 もちろん、他にも一門の人はいるが、未見。

 しかし、なんとなく、吉朝門下の芸、ある程度想像はつく。
 きっちりした落語を、皆さん演じてくれるのだろう。何と言っても、あの師匠の弟子なんだから。

 米朝にとっては、枝雀、そして吉朝は、後継者として期待していた愛弟子だったが、相次いで師匠より早く旅立った。
 その大師匠亡き上方落語界で、ぜひ今回のような企画もきっかけとして、将来性のある若手に頑張って欲しい。

 彼らには、米朝、松鶴、文枝といった亡き師匠たちが、戦後の苦しい時代に耐えてきた上方落語の伝統をしっかり繋いで欲しいと思う。そう言えば、「上方四天王」のお一人、三代目(春團治)のニュースを聞かなくなって久しい。お元気なのだろうか・・・・・・。

 
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by kogotokoubei | 2015-06-24 19:05 | 上方落語 | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛