噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 79 )


 このシリーズ三回目。

 NHKが“フィクション”と謳って、事実との違いについて批判されることから逃げて(?)いる、と前の記事で書いた。

 NHKサイトの「わろてんか」のページの「ドラマについて」にある注(*)をご紹介。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
※ドラマは実在の人物群をモチーフにしていますが、その物語は一人の女性が愛と笑いと勇気をもって懸命に生きる一代記として大胆に再構成し、フィクションとしてお届けします。

 書いてましたね、小さな文字で^^
 “大胆に再構成”した“フィクション”なのだ。

 だから、実際の“モチーフ”(“モデル”ではない^^)となった人物のこととは違うかもしれないよ、ということ。

 しかし、視聴者の中には、“大胆に再構成”する前の、よりノンフィクションに近いドラマを期待する人だって少なくない、と私は思うなぁ。

 また、こうやって注意書きをしていようと、その“モチーフ”となった人が、ドラマのような人生を送ったのだろうと誤解することは、十分にありえる。

 制作者側は、そういう誤解は、あくまで視聴者側の責任と考えるのだろうが、ドラマというモノづくりをする側には、責任はないのだろうか・・・・・・。

 なんてことを思いながら、だったら、どこまでモチーフの人間の人生と、このドラマが違うことを「わろうたる」か、チェックポイントを探ることにしよう。


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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について、矢野さんの本からご紹介。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の一門中心の一派。
 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 以前の記事と重複するが、関山和夫著『落語名人伝』から、桂派を抜けた文都と三友派設立の件を紹介したい。
関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)
 二代目文枝襲名に敗れた月亭文都のファイトは、すさまじものであった。どうしても桂派に対抗して、一旗あげたかったのである。明治25年は、二代目文枝、月亭文都ともに49歳で、人生の峠を登りつめたころである。文都は明治25年4月に三代目笑福亭松鶴と手を握った。三代目松鶴は、二代目文枝の社中に入った恰好で、数年前から文枝の根城である金沢亭で真打ちをつとめていたのだが、文都と通じているということで文枝からにらまれていたようである。かくして松鶴は文枝と訣別した。さらに文都はこの年の10月になって二代目桂文団治とも手を握ることができた。桂文枝にとっては、次から次へといやらしい事件がおこったのである。続いて文都は笑福亭福松というすばらしい噺家を味方にする。
 「浪花三友派」という名が起こったのは、明治26年のことで、明治27年正月興行には大阪南地法善寺内の紅梅亭と松屋町神明社内の吉福亭などに「浪花三友派」の看板があがった。浪花三友派の三巨頭といわれるのは、月亭文都、笑福亭福松、二代目桂文団治の三人だが、三代目笑福亭松鶴、五代目笑福亭吾竹、桂文我も加入していた。
 初代文枝の偉大さ、そして、文枝という名跡の大きさをあらためて感じるねぇ。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたことになる。
 さすがに、両派にも勢いが落ちてきたからこそ、浪花反対派という新勢力が対抗することになったのだろう。

 吉本せいと吉兵衛が、浪花反対派を頼らざるを得なかったのは、第二文藝館の“格”の低さも大きな理由だった。

 矢野さんの本に戻る。
 だいたい、第二文藝館なるものが、天満天神裏という当時の大阪きっての繁華街に位置しながら、寄席の格からいえば最下級の、いわゆる端席であった。いきおい木戸銭のほうも、そう高くはとれず、ふつうの寄席が十五銭の時代に、五銭で出発せざるを得なかった。「五銭ばなし」とよばれるこうした端席に、一流の落語家などはめったに顔を出さない。木戸銭は五銭でも、さらに一銭が下足代に消えるので、実質六銭で落語をきかせるわけである。客のほうは、六銭で落語がきけるとありがたがっても、落語家のほうには、「俺の落語が五銭か」という頭がある。それに、こうした端席ばかり歩いて「端席の藝人」としての評価が下されてしまうことを、腕のある藝人は喜ばなかった。

 第二文藝館は、とても、桂派や三友派の人気者を呼べるような寄席ではなかった、ということ。

 そういう状況において、反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって、飛躍の大きな要因となった。

 第二文藝館の家賃は百円だったというのだが、木戸銭五銭の端席のそれとしては決して安くはない。それでも一晩に七円、旗日といわれる祭日や、天神祭の当日などは三十五円のあがりがあったという。
 この小屋の収容人員が、どのくらいのものであったのか定かではないのだが、わずか五千の木戸銭で三十五円のあがりというのが、尋常な数字でないことはよくわかる。もちろん、当時の寄席にはこんにち見られるような指定席の制度はないし、いうところの入替なしの出入り自由といった畳敷のつめ込み方式で、定員をはるかに上まわる延人員が入場したことは想像に難くない。それにしても、三十五円という金額は、単純計算で五銭の木戸銭を支払った客七百人分のあがり高である。どうつめこんでも、七百人はいらない小屋に、七百人の客をつめこむ方策を生み出したのが、吉本せいの才覚で、後年これがいわゆる吉本商法の基本になったといわれるのだが、果たしてこれもせい個人の考え出した商法であるのか、疑問がないわけではない。この世界のからくりや裏表に精通していたのは、むしろ夫の吉兵衛であったはずで、吉兵衛による入れ知恵のようなものが、まったくなかったとは、ちょっと信じ難い気がするのである。

 本書で著者の矢野さんは、後年、吉本せい自らが、夫の吉兵衛が吉本興行の仕事はそっちのけで、せいが孤軍奮闘していたようなニュアンスで語っているが、実態は違うのではないか、吉兵衛の存在も大きかったのではないか、と度々疑問を呈している。

 吉兵衛については、また今後ふれることとして、「わろてんか」を見る上での三つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(3)
岡田政太郎の浪花反対派は、どう描かれるか


 吉本せいと吉兵衛夫妻にとって、端席の第二文藝館を運営していく上で大きな助けとなった反対派との提携。

 これを、ドラマでは、どう扱うのか。

 あるいは“大胆な再構成”の結果、扱わないのか。

 ドラマを見る上で、これは実に重要なポイントだと思う。

 もし、岡田政太郎を“モチーフ”にした人物が登場せず、よって反対派のような存在も登場しないとしたら、いくらフィクションだと言っても、「それはないよ^^」と、わろてやろうと思っている。

 このシリーズ、ドラマが始まる前に突っ走ってもしょうがないので、今回はここまで。

 始まってから、チェックポイントの最初の三つについて“復習”をし、次のチェックポイントも書くつもり。

 さて、「わろてんか」は、その大胆な再構成で、笑わせてくれるかな^^


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by kogotokoubei | 2017-09-28 00:27 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)


 さて、このシリーズ(?)の第二弾。

 今回は、まず、吉本せいの生家について。

 著者の矢野誠一さんは、明石生まれという説もある吉本せいのことを調べるため、明石や大阪の役所に出向いている。
 調べてはみたものの、せいの生まれた土地や、生年月日については、結構、謎が多いのだった。

 吉本せいの父親林豊次郎が明石から大阪に出て、天神橋五丁目で米穀商を営んだことはよく知られていて、せいはこの大阪時代に生まれたのだというひともいる。ものごころついた頃のせいは、すでにこの天神橋に住んでいたといわれているので、林豊次郎が大阪に出たのは、明石から転籍した明治三十二年(1899)よりも早い時期であることは確かなようだ。明石市役所にあった戸籍に記されている、明治三十一年一月五日生まれの五女はなの死亡届が、明治三十一年一月十一日付で「大阪府大阪市北区西成川崎」から出ていることでもそれがわかる。
 吉本せいを明石生まれと伝えるのは、父親が明石出身で、せい自身も幼少の頃病を得た際に明石で療養したことがあるからにすぎないというむきもある。事実、一代で巨額の産を成した吉本せいは、いろいろなところに多額の寄附を好んでしたが、明石に関した施設や団体にそうしたことをした形跡がない。もし本当に明石生まれだとしたら、故郷に対して多少ともいい顔をしたがったはずだというのである。いずれにしても、明治二十二年(1889)十二月五日というせいの出生当時は、戸籍に出生地の記載がないから、正確なところはよくわからない。


 当時は、他人の戸籍を調べることができたのだ。
 今思うと、ぞっとするねぇ。
 矢野さんは調査を元に、吉本せいは、どうも父親が明石から大阪に出た後に生まれたのだろうと推察している。

 NHKの「わろてんか」のサイトを見ると、主人公は、京都の老舗薬種問屋「藤岡屋」の長女、という設定。
NHKサイトの「わろてんか」のページ
 明石はともかく、少なくとも、大阪にして欲しかった。

 まぁ、このあたりから小言を書いているときりがない^^

 次に、せいの家族構成について。

 せいの父、林豊次郎は文久元年(1861)十二月十日生まれ、母ちよは、元治元年(1864)三月十二日生まれとある。父二十七歳、母二十五歳のときの子になるせいは三女で、せいが生まれたとき、すでに明治十六年(1883)生まれの長男信之助、二十年(1887)生まれの次姉きくがいた。むかしのひとの例にもれず、豊次郎とちよの夫婦には子供が多かった。せいの生まれたあとも、千之助、正之助、勝、治雄という四人の弟と、ふみ、はな、ヨネ、富子のこれまた四人の妹ができている。死亡した長女をふくめ、十二人のきょうだいである。
 この十二人のきょうだいのなかで、明治三十二年(1899)年一月二十三日に生まれた三男の正之助と、明治四十年(1907)二月一日生まれの四男勝のふたりの弟が、後年のせいの仕事に大きな役割を果たすことになる。四男の勝は、昭和十四年に、その名を正式にそれまで通称として用いていた弘高と変更している。 
 米穀商としての林家は、決して富裕とはいえなかったが、世間的にかなりの信用を得ていた。その時分の大会社天満合同紡績などにも精米を納めていた。ただ、なにぶんにも十二人きょうだいとあって、幼い頃のせいは、弟や妹の子守りで明け暮れたのも当然であろう。勉強が好きで、またよく出来たから上の学校へ進みたい希望を持っていたのだが、当時の義務教育たる尋常科四年で、その先を断念しなければならなかった事情も、そのあたりにあった。

 十二人きょうだい。

 たしかに、昔は子どもが多かった。
 ちなみに、私の父は十一人、母は十三人きょうだい。

 「わろてんか」では、まさか、名前は替えるとしても、三男の正之助、四男の勝(その後の弘高)は登場すると思うのだが、他の兄弟、姉妹は、結構割愛される可能性がある。

 よって、二つ目のチェックポイント。

「わろてんか」のチェックポイント(2)
せいのきょうだいは、どう描かれるか


 このテーマは、弟、妹が多く子守りに明け暮れていたことが描かれるかどうか、ということも含むテーマ設定。

 すでに、生家の商売は実際の米穀商から薬種問屋に、その場所も大阪から京都に替えている。

 さて、どこまで、家族構成を脚色(?)くれるだろうか。

 どれほど変えてくれても、今回は、笑って見ているつもりだ。

 

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by kogotokoubei | 2017-09-27 08:49 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 来週からNHKの朝のドラマは「わろてんか」になる。

 「ひよっこ」については、トランジスタ・ガールのことについて、一度だけ記事を書いた。
2017年5月6日のブログ

 後半は、どうも馴染めないままだった。
 
 主人公の父親の記憶喪失という設定に違和感があったし、登場人物に、ほとんど感情移入ができない。
 全体的に、軽い、のだ。

 やはり、モデルのいないドラマは、当たり前とはいえ、リアリティに欠ける。
 

 では、モデルがいる場合は、どうか。

 これまた、ドラマでの脚色が許容範囲を超えるように感じると、がっかりする。

 また、主人公のネガティブな面が割愛されることは、これまでも拙ブログで書いている通り。
 「花燃ゆ」のように、重要な人物の存在が無視されたこともある。
 ご興味のある方は、拙ブログの「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリーをご覧のほどを。
「歴史ドラマや時代劇」のカテゴリー

 さて、来週から始まるNHKの連続ドラマ「わろてんか」は、どうなることやら。

 NHKの同番組のサイトを見ると、原作の名は見当たらず、脚本家の名だけがある。
NHKサイトの「わろてんか」のページ

 これは、昨今の流行(?)のようで、いわゆる「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」であるということを言いたいのだろう。

 だから、モデルは存在するのに、事実と相違していると批判されても、「フィクションですから」と、逃げられると考えているのだろう。しかし、それって、誤魔化しだよね^^

 とはいえ、また、ドラマを見ながら「違う!」と小言を書くのも飽きてきたので(拙ブログの読者のほうが飽きたかな^^)、少し、考え方を変えようと思う。

 「実在の人物を“モデル”とする、フィクション」という設定なら、こっちも事実とのギャップに怒るより、「ほう、そう変えましたか^^」と、わろうてやろうじゃないか。
 お題が「わろてんか」だしね。

 そこで、ある本を元に、いくつかチェックポイントを提示したいと思う。

 偉そうに言えば、「わろてんか」の、一つの見方を示すことになればいいのだが、というシリーズ。


 さて、「わろてんか」のモデルは、吉本せい。

 なぜ、この時期に彼女を取り上げるのかは、どうもNHKの吉本への“忖度”があるような気がするのは、私だけだろうか。
 
 まぁ、それは置いといて(?)、吉本せいとは、どんな人なのか。

 吉本興業のコーポレートサイトに、「吉本興業ヒストリー」という沿革紹介がある。
吉本興業のコーポレートサイト

 創業年、明治45(大正元)年の内容は、次のようになっている。

4月1日 吉本吉兵衛(通称・泰三)・せい夫婦が、天満天神近くの寄席「第二文芸館」で、寄席経営の第一歩を踏み出す

 そう、明治の最後の年、7月30日から始まる大正の最初の年から、吉本吉兵衛とせい夫妻の寄席経営が始まったのである。
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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 ある本、とはこの本である。

 矢野誠一さんの『女興行師 吉本せい』は、1987年に中央公論社から刊行され、1992年に中公文庫、2005年にちくま文庫で再刊された。そして、朝ドラ放送に合わせてということだろう、9月10日付けで、ちくま文庫の新版が発行された。

 私は、ずいぶん前に中公文庫で最初に読んでいるが、あらためてこの新版で再読。

 NHKのドラマの脚本家は、この本を読んでいないはずはないのだが、さて、いったいどれだけの脚色を施すのやら。

 本書から、上述の第二文藝館に関わる部分を引用したい。

 この第二文藝館のあったという、天満天神の裏門付近を、初めて訪れたのはもう何年前のことになるか。
 京阪電車に、天満橋という駅があるから、そこでおりればすぐわかると判断したのが、東京者の大阪知らずで、ことはさほど簡単ではなかった。造営された天暦三年(949)の頃は天神の森なる鬱蒼とした地であったのだろうが、なにしろ当節のこと、高速道路は頭上を走り、小さなビルは乱立し、とても学問の神様の住む風情などない。それでも、そんな雑然たる街なみを、右に左にしているうちに、ほんとに忽然と眼前に権現づくりの本殿がとびこんでくるあたり、なんだか狐につままれたような気がしないでもないが、ここは正しく天満の天神様で、お稲荷さんではないのである。
 学問の神様には申し訳ないが、学業成就のお詣りはごく安直にすませて、かつて第二文藝館が位置したという裏側に出てみるとこれがなかなかいい。しっとりとしたたたずまいの、薬屋だの、寿司屋だのが目につくだけで、べつにこれといった特徴もない、ごくごくふつうの靜かな文字どおりの裏道なのだが、いかにもむかしさかえた門前町らしい雰囲気が残っていて、ほかにもいろいろな寄席が軒をならべた繁華街であった面影をわずかながら残してくれているのだ。
 この文章は、第一章の「第二文藝館」からの引用だが、矢野さんが天満を取材のため訪れたのは、当時持ち歩いていたとされる富士正晴著『桂春団治』に挟まれていたメモから、1974(昭和49)年頃と察することができる。

 引用を続ける。

 『百年の大阪2』(浪速社)という本に、この地の古老たちが復元してくれたという、明治三十年(1897)から四十年(1907)頃にかけての「新門通り界わい」なる地図が載っているのだが、それによると鰻屋やカレーライス屋、すき焼屋、寿司屋、梅鉢まんじゅうの店などにはさまれて、有名な浪花節の国光席のほか、第二文藝館、万歳の吉川館、芝居の天満座、色物の朝日席、杉の木亭、女義太夫の南歌久、講釈の八重山席などが軒をならべていた。第二文藝館は、浪花節の国光館と、すき焼の千成のあいだの小さな席であった。

 さて、ここで、チェックポイントが思い浮かぶ。

「わろてんか」のチェックポイント(1)
最初の寄席、第二文藝館界隈の様子はどう描かれるか


 吉本吉兵衛&せい夫妻の創業の地をドラマが描かないはずがないので、名前は替えるだろうが、この第二文藝館のあった天満界隈の様子がどう描かれるか、ドラマを見る上で需要なチェックポイントとなるように思う。

 脚本家が見逃しても、時代考証担当が、『百年の大阪2』を調べていないはずはあるまい。しかし、分からないのだよ、最近の時代考証は。考証じゃなく“哄笑”の場合が少なくない。

 せっかく、その昔に古老たちが遺してくれた明治末期の大阪の姿、ぜひ大事に扱って欲しい。

 どんな街並が描かれるのかなぁ。

 今回は、ご挨拶代わり(?)に、ここまで。

 次回は、吉本せいの生家について、矢野さんの本から紹介するつもり。


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by kogotokoubei | 2017-09-25 21:45 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、このシリーズの三回目、最終回。

 お猿と呼ばれた幼少時の前田利常の人生の転機はいくつかあるが、その一つは「人質」となったことだ。

 『殿様の通信簿』より、兄の利長が関ケ原の戦いで、三州割拠の戦略のもとに中立を保っていた時の話をご紹介。

 この関ケ原の戦いのなかで、「お猿」こと前田利常が、重要な役割を演じている。
 -人質
 になったのである。もっとも、この時代、人質という言葉はつかわない。もっぱら「証人」といった。
 前田家の領地の南には小松城主・丹羽長重がいた。前田家が南下するには、丹羽領を通らねばならない。丹羽は西軍・石田方に与していたから。その領内を通れば、当然いくさになる。丹羽の領地は二十万石にすぎず、百万石の前田の敵ではない。たちまち破った。しかし、丹羽長重は丹羽長秀の子であり、もともと信長の家中であったから、前田家とは親しい。利長は丹羽に対して、これ以上ないというほどの寛大さを示した。
 関ケ原で東軍・徳川方が大勝利したとの一報に接し、負け組に入ってはならぬと思ったのであろう、それまで煮えきらぬ態度をみせてきた丹羽はあわてて講和に応じてきた。利長は、この虫のよい申し出をうけたばかりか、ともに手をたずさえ軍勢をそろえて、徳川家康の陣に向かうことまで約束した。まず丹羽の軍勢を先に歩かせ、その背中に前田の軍勢が火縄銃をつきつけながら、ともに行軍して京都に向かった。ただし、たがいに裏切らぬよう人質が交わされた。丹羽側は長重の弟長紹(ながつぐ)を人質によこし、そのかわりとして、前田側は利長の弟お猿(利常)が人質に遣わされることになった。

 丹羽長重の所領は、空港のある小松。那谷寺も小松にある。

 この丹羽長重という人、結構苦労してきた。
 Wikipediaから引用したい。
 まず、関ケ原以前のこと。
Wikipedia「丹羽長重」

元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として生まれる。

主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した。

天正13年(1585年)、秀吉から羽柴姓の名字を与えられた。 同年に父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに重臣の長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも召し上げられた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

その後、秀吉による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている。
 結構、浮き沈みの激しい半生ではないか。
 たとえば石数は、123万石->15万石->4万石->12万石、と度々の変遷。

 そして、関ケ原以降。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御伽衆として、細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと共に抜擢される(この3名は長重より年長で、武功の実績も多かった)。その後、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封される(なお、前棚倉藩主は、長重と共に秀忠の御伽衆である立花宗茂)。

 最終的には白河に落ち着き小峰城を築く。築城の名手と呼ばれた。
 白河小峰城は日本百名城の一つ。

 関ヶ原の戦いで西軍に与し領土を失った大名の中で、その後返り咲いて最終的に十万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみ。

 あぁ、宗茂の名を見ると、今のNHK大河が、史料のほとんど存在しない人物を題材とするのではなく、同じ女城主ならば宗茂の妻、誾千代の物語りであったなら、と思わずにはいられない。
 葉室麟に『無双の花』という宗茂夫婦を素材にした名作もある。

 大河に関しては、ご興味のある方は昨年末の記事をご覧いただくとして、これ位で。
2016年12月19日のブログ


 さて、その丹羽長重は、人質にとった利常をどう扱ったのか。
 おかしなことであるが、人質となったお猿は、生まれてはじめて、まわりから大切にされた。前田家にいたときには、たいして可愛がられていなかったが、丹羽家ではお猿を下にもおかぬように扱った。話がのこっている。お猿が小松城にはいると、当主の丹羽長重がじきじきに出てきて、梨を食べさせてくれた。
 -自身、梨子の皮など取り進ぜられ候(『松梅語園』)
 とあるから、丹羽長重は八歳のお猿をみて、
「梨をむいてあげよう」
 といい、長重自身が小刀で梨の皮をむいてお猿に食べさせたことがわかる。利常はこのことをのちのちまで覚えていて、梨を食べるたびに、家来たちに語った。
 丹羽長重という人の優しさを物語る逸話だ。
 そして、長重には、人を見る目があった。
 お猿の非凡さをはじめに見ぬいたのは、どうもこの丹羽長重であったらしい。何を思ったのか、長重はお猿の顔を見るごとに、
「利長公はまだ若くて、これから子供も出来るだろうけれど、お前さんは何があっても最後には、三カ国を手にするだろう」
 八歳の子どもをまえにして、そういうことをいった(『耳底記』)。
 (中 略)
 八歳のお猿の心に、丹羽長重は、
(前田家の総大将になるかもしれない)
 という希望の種を植えた。
 この“希望の種”というのが、利常のその後の人生には大きかったように思う。

 後々まで梨を自ら皮をむいて食べさせてくれた丹羽長重のことを忘れなかった利常は、長重を父親のように慕っていたのだろう。
 利常が、寛永16(1639)年に、小松城を隠居城として再築していることからも、丹羽長重の存在は、利常には小さくなかったと察する。

 その人質生活を終えてからのこと。
 前田家では、関ケ原の貢献によって所領を加増された祝いがあった。

 当時、祝いといえば、能見物で、前田家一門の子どもたちが一堂にあつまっていた。ところが、どうもお猿だけは、他の子どもと異なっていた。まず、これから能がはじまるというのに、ちっとも落ち着いておらず、乳母につれられて、座敷のあちらこちらを遊びまわっている変な子どもが一人いた。お猿であった。生田四郎兵衛という侍が気づいて、乳母のほうに声をかけた。
「この子は誰の子ですかな。目のうちと、骨柄が、余人と違う」
 前田家の重臣の子どもとでも思ったのであろう。生田は重ねて、
「これは、ただの人の子ではない」 
 といった。
 (中 略)
「眼の見入りが、他に異なる。大名の子に見える。いい器量じゃ」
「ええ。越中守山で育ったお猿様です」
 そこで乳母は子どもの正体を明かした。生田は一瞬、驚いたような顔をして、それから破顔一笑して手をつくり、
「ただ者ではないはずじゃ。珍しい殿様ですなあ。そういう弟君がいるとは聞いていましたが、お目見えしたのは初めてです。今年でおいくつになられます」
 と急に丁寧な口調になった。生田はよほど感動したらしく、お猿を肩に抱き上げた。そして居並ぶ子どもたちの席をじっと見回し、一番、上座の席にお猿を置き、
「ここに座って、能見物をしなさい」
 と丁寧に言った。驚くべきことに、このときまでお猿は家来筋の子どもたちよりもずっと下座に座らされていたのである。これが、お猿こと利常が家来にまともに扱われた最初であった。
 この生田四郎兵衛の行動も、また、お猿の人生の転機と言えるのかもしれない。
 ちょうどそこに、利長がはいってきた。一番の上座に見慣れない子が座っている。
「あれは誰の子か」
 利長はいった。誰の子ではない。このお猿が人質になったおかげで、前田家は関ケ原合戦後、後顧の憂いなく、残敵をみな召し連れて、徳川家康のもとに上洛できたのである。今回んぽ加増もその功によるところが大きいのであるが、利長は本当にこの弟の顔を知らなかった。生田はあわてて、利長に、
「お猿様でございます」
 と耳打ちした。
 利長はすぐにお猿を側によび、その顔をまじまじとみた。お猿もじっと利長をみた。最初に、口をひらいたのは、利長のほうであった。
「大きくなったな。眼が大きい」(『三壺記』)、「おまえは目のうちが良い」(『微妙公(みみょうこう)夜話異本』)。
 そういった。利長が何より驚いたのは、お猿の体格であった。当座としては、異常な大男であった父・利家の体つきに、瓜二つなのである。
「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」
 とため息をついた。利長は、
(どうも、この子は、たくさん飯を喰いそうだ)
 と思ったのであろう。すぐに上木半兵衛をいう侍をよんで、怒鳴った。
「おい。おまえ。今日からこの子に付いて、朝夕に飯をしっかり食べさせてやれ。ちゃんと育てろ。へまをするな」
 養育係の侍二人と、権内という草履取もつけてくれた。お猿の暮らしぶりは、それまで悲惨であったから、かたわらにいた乳母の目には、涙が浮かんだと、記録にはある。

 この時から、お猿の運命が大きく変わったわけだ。
 
 利長には子がいなかったので、前田家の永続のためには、養子をとらなければならなかった。利長には他にも弟がいたのだが、その誰も養子にする決心がつきかねていた。
 
 あるとき、友人の浅野弾正・蒲生秀行・細川忠興らが前田屋敷にやってきて食事をした。そのとき、浅野と細川が、思い切って利長にいったらしい。
「あなた様には実子がない。誰か養子を決めておいたほうがよいのではないか」
 利長も心配であったらしい。こう答えた。
「内々、そう思っている。しかし、弟の大和(利孝五男)は公家のようで色が白くやわらかな男。ほかに七佐衛門(知好・同三男)とか七兵衛(利貞・同六男)というのがいるが、どちらも馬鹿なので、私は気に入っていない」(『三壺記』)
 あまりに弟たちを悪くいうので、浅野も細川も困った顔をして聞いていたのだろう。利長は言葉を続けた。
「ただ、猿という弟が一人いる。色が黒く、目玉が大きく、おおいに骨太な子。姉に養育させていますが、これを養子にしたい」
 いかなる気基準で、利長が前田家の跡継ぎをえらんだのかよくわかる。
 (中 略)
 こうして、お猿はあっという間に、
 -前田家の世子
 となった。越中の片田舎で暮らしていたときには考えられないことであり、
「まさか、あのお猿が・・・・・・」 
 と、人々は驚いた。世子になると、名前も変わる。利家公の輝かしい幼名、
 -犬千代
 を名乗ることがゆるされた。とうとう、猿が犬になるというあり得ないことがおきた。「猿」ではなく「犬」とよばれたこの瞬間から、利常の殿様らしい人生がはじまった。

 磯田道史の本には、その後の大坂夏の陣での利常の活躍なども記されている。
 武にも秀でていたが、この人、頭も良かった。
 家光の代には、廃藩につながるようなことはもちろんしないが、笑えるような小さな、そして無邪気な抵抗を利常は行って、「加賀様は、しょうがない。ほうっておけ」というムードをつくることに成功している。

 その後の代々の藩主や側近の努力も、加賀藩が江戸の世を生き延びた大きな要因ではあるだろう。

 利家の妻まつが、長きに渡って徳川家の人質になったことも、前田家存続の礎にはなった。
 
 なんといっても、利長は、藩のために自らの命を捨てたと言われる。
 家康に睨まれていた利長は、秀忠の娘を嫁にもらった利常に、いち早く藩主の座を譲るため、自ら毒を飲んだと金沢では信じられている。

 なにより、加賀藩が、もっとも存続の危機にあった家康、秀忠、家光の代において、利常という人材を得たことが、存続につながる大きな要因なのだと思う。

 利長は、利常なら加賀藩、前田家を任せられる、と考えたに違いない。

 利常が前田家三代目になったことこそ、徳川家最大の仮想敵であった百二十万石の加賀藩が、生き残った大きな理由であると、私は思う。

 ということで、このシリーズのお開き。

 つい、加賀への旅がきっかけで、長々と書いてしまいましたが、お付き合いいただき、ありがとうございます。


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by kogotokoubei | 2017-09-13 12:59 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、加賀前田藩が、なぜ江戸時代を生き延びることができたのか、磯田道史著『殿様の通信簿』を元に振り返る記事の二回目。

 前回の記事では、利家の長男で二代目の利長が、その客観的な自己分析や「三州割拠」という戦略で前田家の存続を図ったことを紹介した。

 今回は、利長の異母弟であり、利長の後を継いだ利常について。

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 写真は、那谷寺の「奇岩遊仙境」。

 利常の名は、この度の同期会加賀の旅の最終日に訪れた那谷寺で目にした。
那谷寺のサイト
 那谷寺のサイトには、寛永年間に、火災で衰退していた那谷寺を利常が鷹狩りの時に見つけて、本殿、唐門、拝殿などを造ったと紹介されている。
 利常は、この那谷寺がある那谷村付近を自身の隠居領としたほどだった。

 さて、その利常、すんなりと兄の利長の後を継いだわけではない。

 『殿様の通信簿』には、その出生につながる出来事について次のように書かれている。
 そもそも、この前田利常という男、その生い立ちからして、歴史に登場するはずの人物ではなかった。産声をあげ、へその緒を切ったときには、誰も、その赤ん坊が加賀百二十万石の太守になる、とは思っていなかった。前田利家の胤(たね)ではあったけれども、あまりにも、母親の身分が低すぎた。
 天正二十(1592)年、豊臣秀吉は朝鮮への出兵をはかり、日本中の大名を九州に集めた。
 -肥前名護屋
 というところに築城し、男くさい武将たちをそっくり集めたのである。陣中だから、当然、女はいない。女がいなければ、男の不満はつのる。それでなくても、朝鮮への出兵には異論が多いのに、女もいない、となれば、まったく目もあてられないことになる。喧嘩狼藉さもなくば脱走がはじまる。そのあたり、さすがに秀吉は人物のい機微に通じている。一つの命令を下した。
「陣中では、さぞ不自由であろう。ここで洗濯女を雇うように、国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」
 秀吉は機智がはたらく、そう言っておいて、次の一言を付け加えるのを忘れなかった。
「嫉妬するような妻で、下女を遣わさないようなところは、妻本人が来なさい」
 こういわれると、妻は来られない。のこのこ出て行けば「私は嫉妬する妻」ということになり、物笑いの種になる。それをいいことに、武将たちはこぞって、妻よりも若く見目の良い女を洗濯女として呼び寄せはじめた。

 あの朝鮮出兵が、前田利常の出生に関係していたのだ。
 戦地での大名たちの気を紛らわすための秀吉の知恵が、妻ではなく洗濯女呼び寄せだったのだが、前田家でもその洗濯女の“応募”が始まった。

 しかし、前田家では困ったことになった。前田利家の妻まつは、まさに「嫉妬するような妻」で、気が強い。ほかの女が夫に近づくなど許せないたちである。しかし、秀吉に言われ、下女を肥前名護屋に送らぬわけにはいかなくなった。『残嚢拾玉集』という古書によれば、金沢城にあって、まつは下女たちに言ったらしい。
「誰か、肥前名護屋に下るものはいないか」
 ところが、女たちは誰一人として、声をあげるものがいない。まつの性格のきつさは天下に知れ渡っている。
(下手のことをいいだせば、まつ様に殺される)
 そのぐらいに思っていたのであろう。


 前田利家の正室、まつ。その後の芳春院は、NHKの大河「利家とまつ」でも描かれたように、実に気丈な女。いくつも逸話は残っているが、たとえば天正十一(1583)年、あの賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方に与した利家が敗走した危機一髪の時に、越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じ、夫利家の危機を救ったことは有名。また、翌天正十二年には、佐々成政に末森城を強襲された際、蓄財に努めていた利家に対し「金銀を召し連れて槍を突かせたら」と皮肉って鼓舞したと言われている。
 利家の出世、いわば加賀百二十万石には、まつの存在が大きい。
 
 誰も肥前名護屋に行くとは、言い出しかねる状況であったことは、十分に察することができる。
 しかし・・・だった。

 しばらく、沈黙が流れた。末席から声がした。
「私が行きましょうか(私、まかり下るべきや)」
 という二十二歳の娘があらわれた。名を「ちよ」。皆は「ちよぼ。ちよぼ」とゆんでいた。下女である。
 まつは表向き喜んだふりをして、
「それならば、名護屋陣中に下っておくれ」
 といったが、その内心は穏やかではなかった。ちよに対して、まつが笑顔をみせたのは、この日一日だけであり、その後、何十年にもわたって、無視しつづけ、無言の苛めをやりつくし、最後に、再会したときには、
「おまえ!いざという時は前田家の為に死になさい。それを言いたかっただけ」
 そうピシリといって、さっさと対面をきりあげたと記録にはある。
 まさに、恐れ知らずの行動。
 著者磯田道史は、その強烈な遺伝子こそが、その後の前田家の運命を左右することになる、と書いている。

 そう、この下女ちよこそが、前田利常の母。
 文禄二(1593)年、ちよは名護屋の陣中で利家の子をひっそりと産み落とす。
 利家とまつの間には多くの子が産まれ、男の子も多かったから、下女の産んだ子はまったく大事にされることはなかった。
 だが、この子に転機が訪れる。とはいっても、利常には何度も運命を変える“あの時”があるのだが、その最初の転機は、怖い存在である、まつのいる加賀の地から離れたことだと思う。
 この赤子は母親のちよと、ひっそりと暮らしていた。ところが、だいぶん育ってきて、かわいくなってきた盛りに、突然、父の利家がこういった。
「この子は越中の前田対馬に預ける」
 この一言で、母親と引き離された。当時、大名の子が、里子に出されるのは、珍しいことではなかったが、城下の家臣のところに遣るのが普通で、遠い隣国に遣るのはめずらしかった。一説によると、利家がまつに遠慮したため、そんな遠くへ遣ったのだという。
 まつが利常の母ちよに最後に語った言葉から察しても、もし、金沢城下に母子が住んでいたなら、利常が前田家の三代目の太守になることはありえなかったと思う。
 
 そもそも、利常の幼年期につけられた名が、当時の利常への扱い方を示していた。
 このとき、利常は「お猿」とよばれていた。誰がそう名づけたのかはわからない。父・利家の幼名は「犬千代」であって「お犬」とよばれていた。大名の子どもの幼名は、そのまま身分をあらわす。徳川家では家康の幼名「竹千代」が、前田家では利家の幼名「犬千代」が重んぜられた。家をうけぐ嫡子には、必ずといってよいほど、この名がつけられた。実際、幕末まで、前田家では嫡子には「犬千代」とつけ、「高徳院(利家)様のようにおなりなさいませ」
 と、奥の女たちに常に言われながら育てられた。だから、前田家の奥向きでは「犬」とよばれている子どもだけが特別の存在で、それ以外は、どうでもよい子どもであった。犬とは疎遠の「猿」などと名づけられ利常のような子は、生きようが死のうがどうでもよいあつかいであった。

 では、越中で暮らす「猿」に、その後なにが起こったのか。

 六歳になったとき、急に、父の利家が「会いたい」といってきた。慶長三(1598)年三月下旬のことである。
「これから草津の湯に入りに行く。越中を通るから、お猿を宿につれてこい」 
 利家はそういい、にわかに親子の対面がきまった。「御成人にて初で大納言(利家)様に御対面」(『陳善録』)とあるから、それまで一度も会っていなかったのは確かである。お猿をみて、利家は大層よろこんだらしい。
 -ご機嫌よく、御いとおしがり、大方ならず
 と伝わっている。利家はお猿の姿をみるや、大声でいった。
「刀と脇差を持ってまいれ!」
 利家はお猿に与える刀と脇差を用意していた。運ばれてきた刀が豪華なものであった。金箔が打ってあって、金色にピカピカ光っていた。お猿(利常)はのどをゴクリとならし、夢心地でその刀を父の手から受け取っている。

 
 この内容からしても、利家は、たんに思い付きで、草津に湯治に行くついでに「お札」に会おうとしていたわけではないような気がする。
 女房まつの性格を思い、遠く越中に遣ったものの、寂しく暮らす子への思いが日々募っていたのではなかろうか。


 そうそう、この後に、今回の旅行でも箔座本店を訪ねたが、加賀の金への執着のルーツについて記されているのでご紹介。

 前田家には、信長ゆずりの華美な家風がある。信長の家中は武具が派手で、赤や金色の刀や槍で衆目を驚かした。前田家中は信長軍団の「破片(はへん)」といってよい。信長の残した軍団がそのまま北国の地に根付いたもので、思想も、美意識も、信長の好みを受け継ぎ、金箔の文化もその一つであった。信長は居城安土城の屋根に金箔を貼りまくったように異様に金を好んだ。金を愛でる美意識は、信長・秀吉・利家ときて、利常とうけつがれていく。ともかくも、幼い日、利常の目に焼きついた金箔の光はのちのちまで加賀の文化に影響した。


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      *箔座本店の「金の茶室」

 箔座本店には、上のような「金の茶室」があって、つい、「秀吉と箔座さんだけですねぇ」なんて軽口をたたいたのだが、あくまで、前田家の金の伝統は、織田信長譲り、ということだね。
 箔座では金箔入りのお茶をいただき、金粉を手や顔に塗り、金箔で表面を覆ったチョコレートケーキを土産に買った。なかなか美味かったよ、あのケーキ。

 さて、「お猿」と呼ばれていた利常に初めて対面した利家は、ただ、刀や脇差を与えただけではなかった。

 このとき、利家は、余程、お猿が気に入ったらしく、思わず抱きついたらしい。面白いのは、現代の我々のように、ただ抱きついただけではないことである。戦国武将らしく、我が子の肉付きをみた。
 -ふところまでも御さすり御覧なされ候
 利家はお猿のふところに手を入れ、丈夫な子であるかどうか、肉を触ってみたのである。戦国の武士にとって、筋肉は死活をわけるこのであり、我が子の肉付きをみて、その戦士としての性能をみるという究極のリアリズムが利家にはあった。
 事実、お猿は、どの子よりも利家の体つきをよく受け継いでいた。六歳にしては異様に体が大きく、頑強にみえる。利家がお猿をみて、はしゃいだのは。そのせいもあった。利家が死んだのは、そのちょうど一年後のことであった。

 利家の妻、怖い怖いまつに恐れることなく、肥前名護屋に洗濯女として利家の寵愛を受けることになった、母ちよの豪胆さ。
 その妻まつから遠ざけるため、越中で母ちよと暮すことになった、お猿と呼ばれた利常。
 そして、草津の湯治の通り道ということで、その頑強な体を見た利家が喜んだ初の対面。

 そういった幼少年期を過ごした利常が、加賀藩三代目太守となるその後のいきさつは、次の三回目の記事でご紹介することにしよう。

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by kogotokoubei | 2017-09-12 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 同期会加賀の旅から帰って思い出した本を、棚から引っ張り出した。

 磯田道史の『殿様の通信簿』は、多くの古文書を元に書かれた本だが、その中でも特筆すべきなのが、元禄期に書かれた『土芥寇讎記(どかい こうしゅうき)』だ。
 同書は、謎の本と言われており、幕府隠密による秘密諜報の記録で、諸大名の内情を幕府高官がまとめたものという説がある、と著者は解説している。
 とにかく、貴重な本であることは、「はじめに」で次のように書かれていることでも分かる。
書き写すことが、よほど厳しく禁じられていたようで伝来する写本が極めて少ない。かつては二冊の写本が残っていて、東京大学史料編纂所に一冊、旧広島藩主浅野侯爵家にもう一冊あったが、浅野本家は原爆で焼かれてしまい、今では、この世に一冊しか存在しない。

 この世に、ただ一冊、なのだ。
 戦争、あるいは原爆は、いろんな日本の宝を焼き尽くしてしまったのだなぁ。
 「はじめに」のこの続きをご紹介。
 この書物を世に出したのは、東京大学史料編纂所の金井圓(まどか)教授(当時)であった。金井教授は、この書物が、
①おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いたものであること、
②元禄三(1690)年ごろに書かれたもので、当時の大名二百四十三人の人物評価を載せた稀有な書物であること、
③現存するのは東京大学史料編纂所の一冊だけであること、
 などを明らかにし、昭和四十二(1967)年に、みずから原文を解読されて、この書物を活字化された。これが校注・金井圓『土芥寇讎記』である。

 金井教授の努力によって、貴重な記録が発掘された、ということか。
 この後に、「土芥寇讎」の意味についても、説明がある。

 「土芥寇讎」とは聞きなれない言葉だが、『孟子』にその出典がある。
「君の臣をみること、土芥のごとければ、すなわち、臣の君をみること寇讎のごとし」
「殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を仇のようにみる」
 そういう意味である。江戸時代には「四書五経」を、そらんじているのが、教養人の基準になっていたから、『孟子』のなかにある「土芥寇讎」という言葉は江戸の士人にとっては、ごくありふれた言葉であった。
 殿様が家来をゴミのように扱うと、家来は殿様を仇(かたき)のようにみる・・・か。
 今の日本がそうだ、と言うと言い過ぎかな。

 あらためて江戸時代の教育と現在のそれと、果たしてどちらが正しいのか、という疑問が浮かぶ。
 「四書五経」などと言うと、現在では右がかったかのような印象を与えるが、かつては寺子屋で子供たちが学んでいたのだ。
 平成の世と江戸時代を比べるのは無理があるのは承知だが、読み書き算盤が男の子への教育の基本であり、武家屋敷や商家への奉公のために女の子は裁縫などを習い行儀見習いに出ていた江戸時代の教育事情は、あらためて見直されて然るべきではなかろうか。

 そして、敗戦後、学ぶべき相手が中国からアメリカに変わってから、果たしてどれほど日本は大きなものを失ってきたか、と思わないではいられない。これ以上この件について考えると『日本辺境論』(内田樹著)のことを書くことになるので、ここまで。

 『土芥寇讎』に登場する水戸黄門や浅野内匠頭などの中から何名か選び、他の史料も最大限に参照して書かれたのが、本書だ。
 
 その中に、「前田利常」の章がある。
 もっとも多くの頁が割かれており、「その壱」「その弐」「その三」合わせて約九十頁に及ぶ。

 まず、冒頭から引用。
 徳川幕府が三百年ちかく続いたその理由について考えたい。それを考えていくと、結局徳川に謀反する大名が出てこなかったのは、なぜか、という話になっていく。徳川時代、最大の大名は加賀の前田家であって、謀反をおこし、徳川にとってかわるとすれば、まずはこの家であった。

 そうなのだ。
 織田信長に仕えた後、盟友の秀吉を支えた前田家が、なぜ、徳川の世を生き延びたのかは、疑問だ。
 次のように、利家が長子の利長に言い残した言葉だって、決して、その後の安泰につながるものではない。

 いまわのきわに、利家は利長を枕元によび、
「おれが死んでも三年は金沢に帰るな。大坂城にいて、秀頼公をお守りせよ」 
 と厳命している。
ー守りに入るな。徳川と対決せよ。中央に出て、あわよくば、天下に号令せよ
 というのが、利家の一貫した外交方針であり、中央にあって天下に号令する夢を捨てていなかった。
 この父、利家の遺言に対して、利長をどう考え行動したのか。
 引用を続ける。
 だが利長はさっさと金沢に帰って城に引き籠ってしまう。この時点で、前田家は「守り」にはいったといっていい。家老たちは「これで前田家も終わりだ」と不平を口にしたが、利長には利長なりの考えがあった。のちに、
 ー三州割拠
 とよばれるようになる独特の外交戦略である。第一に、中央での政権争いには加わらない。第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登の三カ国に立て籠もり、ひたすら時を待つ。そのうち、中央での政権争いで、覇者たちが疲れるから、そこに出て行って、漁夫の利をしめる。そういう一種の持久戦法であった。結局、これが、明治維新にいたるまで、前田家の伝統的な外交方針になる。利長は一見、愚鈍にみえて、実は賢い。常に偉大な父を仰ぎみながら育っただけに、なによりも、自分の力の限界を知り尽くしていた。目から鼻に抜けるほど賢く、下手に才のある石田三成のように、無理をするところがなかった。

 利長が、自分の能力を実に客観的に評価するだけ賢明であったこと、そして、この「三州割拠」という戦略が、加賀藩存続のために重要だったわけだ。
 
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 同期会加賀の旅で、初日に宿のすぐ近くの尾山神社に行った。その記事と重複するが、神社のサイトからの引用を再度ご紹介。
尾山神社のサイト
尾山神社の歴史

慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。

そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。

ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。

加賀藩祖前田利家公と正室お松の方を祀る

さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。

 もし、利長が公然と利家を祀る神社を建立していたら、家康が前田家を取り潰す格好のネタになったことだろう。

 利長が関ケ原でとった行動も、見事に彼ならではの戦略に基づくものだった。

家康は利長に猛烈に書状を送り、「前田南下」作戦を実行するように求めた。利長の弱点は母のまつを人質にとられていることであった。利長は母親のまつが、たまらなく好きであった。前田家にとって、まつの存在は大きく、家康は、
(まつさえおさえておけば、前田はどうにでもなる)
 とみていた。事実、それは正しい。この時期に、家康が利長に送った書状ほど、いやらしいものはない。家康は「まつ殿が、まつ殿が・・・・・・」と、人質にとったまつの近況をやたらと書状にしたためて送り、
(忘れるな。いつでもお前の母親は殺せるぞ)
 ということを示した。
 この家康のもとめに応じて、利長は二万五千人の軍勢を率いて、南下をはじめた。だが、まじめに南下作戦をやらない。福井方面にむかって南下するのだが、小さな勝利を得ると、さっさと兵を返して、金沢城に戻って休んだ。そして、しばらくすると、また金沢から出てきて、南下をはじめる。そういう奇妙な軍事行動おとった。
 ー関ケ原の混乱に乗じて前田家の領地を拡大する
 利長にしてみれば、これが唯一の軍事目的である。
(まじめに南下すれば、家康を大勝利させてしまうだけである)
 そういう考えがあった。しかし、家康にしてみれば、これだけでも有り難い。前田の大軍が相手方に加わらず、実質的中立をたもってくれれば、それでよかった。
 なるほど、なかなか、微妙な駆け引きがあったんだねぇ。

 加賀藩が江戸時代を生き延びた理由の一つは、この利長の慎重な姿勢、三州割拠という戦略によるところが大であろう。
 
 そして、利長の後を継いだ利常の功績も大きいのだが、それは次回としたい。

 子どもの頃「猿」と言われた利常が、父利家の幼名と同じ「犬」千代となるまでには、なかなか興味深いいきさつがあるのだが、それは、次の記事までお待ちのほどを。


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by kogotokoubei | 2017-09-11 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 前の記事で、吉村昭の『東京の戦争』について書いたが、つい、前日に見たNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」のことにも、ふれてしまった。

 あの作戦について、ずいぶん前に読んだ本をあらためて読み直した。

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『失敗の本質』

 その本は、『失敗の本質』。
 私が本棚から引っ張り出したのは、昭和59(1984)年に発行されたダイヤモンド社の単行本。単行本もよく売れたようだが、平成3(1991)年に中公文庫で再刊されてからも、ベストセラーになっている。

 執筆者は次の六名。( )内は、生年と単行本発行当時昭和59年の職務。

 戸部 良一(昭和23年、防衛大学校助教授)
 寺本 義也(昭和17年、明治学院大学教授)
 鎌田 伸一(昭和22年、防衛大学校助教授)
 杉之尾孝生(昭和11年、防衛大学校助教授)
 村井 友秀(昭和25年、防衛大学校講師)
 野中郁次郎(昭和11年、一橋大学教授)


 購入当時、野中郁次郎の名だけは、知っていた。
 その野中も、本書執筆に至る研究会が発足した昭和55年当時には防大に籍を置老いていたので、防衛大学の四十歳前後の先生たちが中心になって出来上がった本と言えるだろう。

 牟田口第十五軍司令官の無謀なインド侵攻作戦が、なぜ組織の中で止めることができなかったのか。

 当時の牟田口の上下の組織は次のようになっている。

・大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山  元元帥(陸軍士官学校12期)
・南方軍総司令官        寺内 寿一元帥(陸軍士官学校11期)
・ビルマ方面軍司令官      河辺 正三中将(陸軍士官学校19期)
・第十五軍司令官        牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)

 まず、直属の上司がどうであったか、本書から引用したい。
 部下の反論に耳をかさない牟田口の積極論を現地で制止しうるのは、河辺方面軍司令官のみであった。しかも河辺は蘆溝橋事件当時、連隊長牟田口の直属の上司たる旅団長であり、それ以来両者はとくに親しい間柄であった。しかし牟田口がインパール攻略論を唱えたとき、河辺は「何とかして牟田口の意見を通してやりたい」と語り、方面軍高級参謀片倉衷少将の言葉を借りれば、軍司令官は私情に動かされて牟田口の行動を抑制しようとしなかった。

 では、河辺の上司、寺内はどうだったのか。ほとんど、寺内は黙認に近い状況であった。
 そして、大本営の判断はどうなったのか。
 文中の綾部は南方軍司令部総参謀副長の綾部中将のことであり、「ウ号作戦」はインパール作戦のこと。

 大本営の中枢、参謀本部作戦部長真田穣一郎少将は、ビルマ防衛は戦略的持久作戦によるべきであり、危険なインパール作戦のような賭に出るべきではないとみなしていた。したがって昭和十九年一月初旬、綾部が上京して「ウ号作戦」決行の許可を求めたときにも、真田は、補給および制空権の不利と南部ビルマの憂慮すべき事態を指摘して作戦発動不可を唱えた。綾部は、この作戦は戦局全般の不利を打開するために光明を求めたものであり、寺内南方軍司令官自身の強い要望によるものである、と大本営の許可を懇請したが、真田はそれに答えて、戦局全般の指導は南方軍ではなく大本営の考慮すべき任務であると反論した。ちょうどそのとき、杉山元参謀総長は、寺内のたっての希望であるならば南方軍のできる範囲で作戦を決行させてもよいではないか、と真田の翻意を促し、ついに真田も杉山の「人情論」に屈してしまう。


 この後、東条首相から補給問題などいくつか質問を受けても、すでに決行を決めた大本営は、問題なし、として無謀な作戦が実施された。

 インパール作戦の失敗については牟田口一人にばかり矛先が向かうように思うが、その上司たちや、ブレーンであるべき参謀の責任者たちにも、次のような犠牲に対して責任がある。

 戦死または行方不明2万 2100人,戦病死 8400人,戦傷者約3万人。
 まったくの、無駄死にだ。

 『失敗の本質』では、組織が「人情」に流されてしまった、という指摘をしている。
 それも大きな原因だろうが、私は、理性的に考えれば不合理である部下の判断を、人情に流されて許してしまった、その誤った判断の背景も考えるべきだと思う。

 それこそが、戦争が人間を狂わせる、ということであり、私が反戦を訴える、もっとも根底にあることだ。

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by kogotokoubei | 2017-08-19 10:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 昨夜は、NHKスペシャルの「戦慄の記録 インパール」を見た。
NHKサイトの同番組のページ

 詳細は記さないが、戦争というものが、人の心を変貌させることが、その戦争の首謀者や戦地の指揮官を中心に描かれていた。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 2001年に筑摩書房で発行され2005年に文庫化された『東京の戦争』で、昭和2年生まれの吉村昭は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この“経験”の中には、戦争が戦地のみならず、市井の人々の心をも大きく変貌させることが語られている。

 「歪んだ生活」から引用。

 戦争が末期に近づくにつれて、人の心はすさんできた。
 手近なところでは、商人の変貌に驚きというより薄気味悪さを感じた。
 長年親しくしていた八百屋があった。私の家は大家族で、毎日のように店主が大きな笊に野菜を入れて持って来て、時には私も母に命じられて自転車でその店に買いに行った。店主もかれの妻も、いつも笑みを絶やさず、まことに愛想がよかった。
 それが、野菜類が不足しはじめると、態度が一変した。店主が家に運んでくることなどなくなり、店に買いに行くと、全く面変りした夫婦の顔があった。
 店頭に並ぶ野菜を買おうとすると、
「あんたの家に売る物はないよ」
 と、店主が追い払うように手を振る。
 野菜を買える客は、なにか眼にできなくなった生活必需品を店主に渡していて、その上で金を払って買っている。私の家ではそのようなことはせず、長年のなじみ客であるかは無関係で私に荒々しい声を浴びせるのである。
 それを帰って母に告げると、母はうなずき黙っていた。
 八百屋だけではなく、食料品を扱う店は大同小異で食料品が全く枯渇すると、売る物がないためそれらの店は戸をとざした。

 吉村の話を聞いた母親が、ただうなずき黙っていたのは、八百屋を責めることができないと思っていたからだろうが、とはいえ、長年のお付き合いがある八百屋の態度からは、実に空虚感が漂ったにちがいない。

 八百屋が悪い、とはいえない。もちろん、何か特別な生活必需品を代金に上乗せして野菜を買う客も、責めることはできない。
 戦争が、悪いのだ。

 著者は、この後、次のような思い出も綴っている。

 集団化した人たちの中には、権力を手にしたと思うらしく、威丈高になる人もいた。
 隣組の防空訓練に病弱のため参加しなかった主婦を、組長がその家に行って非国民とののしった。五十年輩のその男の顔には、独裁者のような傲慢な表情が浮んでいた。

 吉村に限らず、このような“集団化した人たち”の行動の恐ろしさは、戦争を経験した多くの人が伝えてきたはずだ。

 しかし、今まさに、日本の政治状況はそういった独裁者の顔を持つ“集団化した人たち”が権力を握っている。

 前防衛大臣は、何ら反省の色も見せず、昨日、靖国神社に参拝した。

 靖国神社は、元々、戊辰戦争による官軍の戦没者のためにつくられた、
 しかし、明治維新の立役者の西郷隆盛は、その後の西南戦争で政府に敵対することになったので、靖国にいない。
 近頃、その西郷を靖国に、という動きがあるらしい。
 西郷は、そんなことは、まったく望んでいないだろうに。

 靖国神社については、兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、二年余り前に二度記事を書いたことがある。ご興味のある方は、ご覧のほどを。

2015年4月21日のブログ
2015年4月22日のブログ


 「戦慄の記録 インパール」の最後、実に貴重な記録を遺した齋藤博圀元少尉が、車椅子で登場した時は、少し驚いた。
 ご生存だったのだ。
 96歳の齋藤さんが、途切れ途切れに語った言葉。

「自分たちが計画した戦が成功した・・・・・・」
「日本の軍隊の上層部が・・・・・・」
「悔しいけれど兵隊に対する考えはそんなものです」
「知っちゃったら辛いです」

 齋藤さんは、泣いていた。

 三万人の犠牲者のほとんどは、戦闘ではなく、餓死や病死。

 戦地では、「大和魂」の名で狂気の沙汰が繰り広げられ、国内では、物資不足の中、人々の心が荒んでいく。

 それもこれも、戦争がもたらしたものである。
 どちらにも、“日常”はない。
 まさに、歪んでいる。

 平和な“日常”を暮らすことのできる幸福を、この時期につくづく感じる。

 しかし、その平和を乱そうとする、権力をもっていると錯覚している“集団化した”人たちの存在を、忘れてはならないだろう。

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by kogotokoubei | 2017-08-16 11:05 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 積ん読状態で、最近になって読んだ本について。

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吉村昭著『東京の戦争』(ちくま文庫)
 
 吉村昭の『東京の戦争』は、2001年に筑摩書房で発行され、2005年に文庫化された。

 昭和2年生まれの吉村は、執筆の動機を次のように書いている。

 数年前から、しきりに思うことがある。それは、東京というこの都会で「大東亜戦争」と称されたあの戦争に一個の人間として直接経験したことが珍しい経験なのかも知れぬ、と思うようになったのである。

 この本で有名(?)なのは、ノースアメリカンB25による東京への初空襲の思い出かもしれない。
 
 しかし、私はどうしても、落語や寄席に関わる部分が印象に残る。

 吉村昭の落語好きは有名で、学習院時代の昭和26年10月に 所属した文芸部の部費を稼ぐために大学寄席を企画し、志ん生・柳好二人会を開いたほどだ。
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 本書には、あの戦争の最中でも、落語好きな吉村の姿を偲ばせる思い出が語られている。

 「ひそかな楽しみ」の章から引用。
 戦争が激化するにつれて食料品をはじめ生活用品が欠乏し、まさに暗黒時代であったのに、旧制中学生であった私は、私なりのひそかな楽しみを見出していた。思い返してみると、不思議なことに妙に明るい気分で日を過していたような気さえする。
 四年前、中学生時代の思い出を集めた同級生たちの文集が、有志によって編まれたが、友人たちの文章を読むと、私のように映画館、寄席、劇場に足しげく通っていた生徒は稀であったのを知った。東大出身の安村正雄先生という恩師をかこんだ同級生の座談会も収録されていて、戦時下の辛かった思い出が語られているが、
「君たちがそんな辛い思いをしていた頃、吉村はせっせと寄席通いをしていたんだな」
 と、先生が笑いながら話したことも活字にされていた。
 私は、教師に知られぬように細心の注意をはらって寄席通いをしていたつもりであったが、先生はそれに気づいていたらしい。思い返してみると、悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする先生であった。

 吉村少年の寄席通いを知っていたにも関わらず、それを明らかにすることも、本人を叱ることもなかった恩師の安村先生の姿に、戦時下ならではの先生の配慮や、人間としての度量の大きさを感じる。

 生徒たちの身も明日どうなるか分からないだろう戦時下で、寄席好きな吉村少年の楽しみ奪ってはかわいそう、と先生は思われたのかもしれない。
 
 “悠揚とした感じがしながら何事も見ぬいているような、一瞬鋭い眼をする”先生という言葉からは、私の昭和30年代から40年代における小学校や中学校時代においても、一人か二人の先生の顔を思い出す。

 かつて、教師は尊敬されていたし、威厳があった。

 さて、教師論が主題ではないので、本書の引用を続ける。

 帰宅して制服、制帽をぬいで映画館にむかい、よく学校からの帰途、足をむけた上野の寄席「鈴本」へ行く時も、上野駅の一時預り所に制服、制帽、布製の肩からさげる鞄をあずけ、「鈴本」の木戸をくぐった。
 当然のことだが私が入るのは昼席で、客の入りはさすがに少く、それも老人ばかりであった。
 寄席は畳敷きで、木製の箱枕が所々に置かれていて、それに頭をのせて横になっている人もいる。噺に興味がないわけでなく、横になったままくすりと笑ったりしている。さすがに噺のうまい落語家が高座にあがると、体を起して聴いていた。
 文楽、金馬、柳好、文治、柳橋や林家三平のお父さんの正蔵などが出ていた。正蔵は派手な着物を着ていて噺も華やかで、私はその個性が好きであった。志ん生、円生は見たことがなく、どこか他の地に行っていたのだろうか。

 きっと志ん生と円生が満州に言っている時期なのだろう。
 
 私は、都内の寄席四席の中で、昔の佇まいを残している新宿末広亭がもっとも好きだ。次に、池袋の、高座と一体感のある空間が好みであり、鈴本は三番目。
 残念ながら、今の鈴本には吉村昭の思い出の中にある、古き良き寄席の空気がない。
 それは、時代の流れとして当然のことかもしれないが・・・・・・。

 さて、そのかつての鈴本での思い出について引用を続ける。

 若い落語家が噺を終った後、両手をついて、
「召集令状を頂戴いたしまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間御贔屓にあずかり、心より御礼申し上げます」
 と、頭を深くさげた。
 寄席の老人たちが、
「体に気をつけてな」
「また、ここに戻ってこいよ」
 と、声をかける。
 落語家は何度も頭をさげ、腰をかがめて高座をおりていった。

 吉村は、この落語家の名も、戦後の安否などにもふれていないので、詳しいことは分からない。

 しかし、この高座のことが目に焼き付いているからこそ、書き残すことになったのだろう。

 私もこの文章から、その情景が目に浮かぶ。
 若手の高座では箱枕に頭を乗せて横になっていたはずの鈴本の落語通の老人たちが、この出征の挨拶の時には、きっと起き上がって声をかけたであろうことが察せられるのだ。
 
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by kogotokoubei | 2017-08-13 20:22 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)
 一昨日、NHKのBSプレミアムで、長岡花火大会の生放送を見た。
 
 最初の三尺玉が、ナイアガラと一緒に三発とは、豪勢。
 三つとも無事に上がって、良かった。

 フェニックスも良かったし、米百俵にちなむ百連発も凄いねぇ。

 BSとはいえNHKでの生放送、長岡花火も、ついに全国区になったものだ^^

 その長岡には、二十代の後半、六年住んだことがある。

 花火は、最初の年だけ、知り合いと河川敷で見たものの、翌年以降は居酒屋で飲みながら、音だけを聞いていた。
 サイレンが聞こえると「三尺玉だねぇ」と耳を澄まし、殿町で飲んでいても腹に響く音を楽しんだ(?)ものだ。

 年によっては、三尺玉が不発だったり、地上すれすれで開いたりしたこともあったなぁ。見てはいなくても、音で分かった。


 NHKの番組でも触れていたが、戦後の長岡花火は、長岡市戦災復興祭という意味合いで開催された長岡まつりのメインイベントとして位置づけられている。

 「長岡まつり」のサイトから、引用する。
「長岡まつり」サイトの該当ページ

まず、長岡まつり、について。
毎年華やかに繰り広げられる「長岡まつり」
その起源は、長岡の歴史に刻み込まれた、
最も痛ましい、あの夏の日に発しています。

今から72年前の昭和20年8月1日。
その夜、闇の空におびただしい数の黒い影
―B29大型爆撃機が来襲し、午後10時30分から1時間40分もの間にわたって市街地を爆撃。
旧市街地の8割が焼け野原と変貌し、
燃え盛る炎の中に1,486名の尊い命が失われました。

見渡す限りが悪夢のような惨状。
言い尽くしがたい悲しみと憤りに打ち震える人々。
そんな折、空襲から1年後の21年8月1日に開催されたのが、
長岡まつりの前身である「長岡復興祭」です。
この祭によって長岡市民は心を慰められ、
励まされ、固く手を取り合いながら、
不撓不屈の精神でまちの復興に臨んだのでした。

 次に、長岡花火について。
昭和20年8月1日の長岡空襲の翌年、長岡市民が復興に立ち上がり、8月1日に「長岡復興祭」を開催、昭和22年に花火大会が復活して今年で70年を迎えました。
「長岡花火」の歴史を振り返ると、先人たちがつないできた、「慰霊」、「復興」、「平和への祈り」の想いが息づいています。
長岡花火に込められた強い想いは、70年を経てもなお変わることなく、今を生きる私たちの中にもしっかりと受け継がれています。


 まつりと花火は、このように戦争の大きな傷を癒すためでもあった。
 では、昭和20年8月1日から2日にかけての長岡空襲を体験した人による文章を紹介したい。

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半藤末利子著『夏目家の糠みそ』(PHP文庫)

 夏目漱石の孫娘、半藤末利子さんの『夏目家の糠みそ』は、PHPより2000年に単行本、2003年に文庫で発行された。

 単行本発行の五年前から、小冊子「味覚春秋」に毎月掲載された内容が元である。

 半藤末利子さんは、長岡出身で漱石門下の松岡譲を父とし、夏目家の長女の筆子を母として昭和10年に生まれた。ご主人は、半藤一利。

 末利子さんは、父の実家の長岡鷺巣町(当時は古志郡石坂村)に疎開していて、長岡空襲に遭遇した。
 
 「長岡についての三話」から、引用する。

 まず、子供の頃に二度、あくまで旅行として長岡に行ったことのある末利子さんの、三度目の訪問について。

 私も体験した、越後の冬の描写がある。

 三度目は昭和十九年十一月である。旅行者としてではなく住人になるためであった。一家を挙げて疎開者として移り住んだのだが、まさかそれから十年余りも住みつき、長岡が私の第二の故郷になろうとはそのときは思いもしなかった。
 みぞれまじりの冷たい雨が降り続き、来る日も来る日も太陽を拝めない、一年中で一番嫌な季節であった。十二月の半ばに降った雪はそのまま根雪となり、翌二十年にかけては記録に残る豪雪となった。四メートルを超す積雪は、私達が借りていた二階家をすっぽり埋めてしまった。村のお年寄りが「何か悪いことが起る前兆だ」と言ったが、なるほど二十年八月一日には長岡市は空襲を受けて全焼し、十五日に日本は敗戦国となった。


 私が住んでいた六年間でも、大豪雪の年があった。
 年によっては十一月下旬に雪が降り始め、それが根雪となる。
 感覚的には、十一月から三月位までは、太陽を拝める日がほとんどないというのが、越後長岡周辺の冬なのである。

 テレビで見る冬の天気予報は、東京など東日本に晴れマーク、越後は曇りか雪が毎日のように続く。
 「裏日本」という言葉の意味するものを、私は体感を踏まえて納得した。

 では越後の冬は、暗~い毎日が続くのか。
 引用した部分の少し後に、楽しい、美味しい越後のことも書かれているのでご紹介。

 今でも東京での雪のない正月を身に染みてありがたいと思う。たまに訪れる長岡を決して魅力的な街とは思わない。にもかかわらじ、ノッペ(里芋など様々な根菜を煮て葛でとろみをつけた煮物又は汁)などを突つきながら、
「酒は辛口に限る」
 と、「越の寒梅」や「八海山」や「久保田」や「吉乃川」で一杯やる時、具沢山の雑煮で祝う正月を迎える時、そして越後以外の土地で越後訛りの人に出遭って言い知れぬ懐かしさを覚える時、私は沁み沁み思うのである。
 私の故郷は越後なのかしらと・・・・・・。

 まったく、同感だ。
 
 ノッペは、酒の肴でもあり、立派なご飯のおかずでもある。
 そして、越後(中越?)の雑煮も、ノッペの中に餅を言えたような具沢山。
 畑の収穫をまとめていただこうとするような、あの料理にも、長い冬を過ごすための知恵が隠されているのかもしれない。

 もちろん、お日様が顔を出さない冬は、辛口の酒を楽しむしかやることはない^^


 さて、豪雪が暗示した“悪いこと”、長岡空襲について引用する。
大空襲の夜
 
 その日、父母と私は父の生家、村松の本覚寺を訪れていた。盆参という寺としては一年中で一番大きな行事が催され、本堂やそれに続く座敷からあふれた檀家の人たちが、回廊までも埋め尽くしていた。庫裏も手伝いの人たちでごった返していた。戸は開け放れていたが、容赦なく上る気温と人いきれでむせ返るように暑かった。
 夕方になると人の波が引き、暑さも幾分しのぎやすくなった。夕食後、父は一人で帰宅した。当時中学生だった兄は勤労動員で、その夜、北長岡の軍需工場で働いていた。夜勤明けで帰宅する兄を出迎える者がいなくてはかわいそうだと、一里の道を歩いて父は曲新町の自宅に帰ったのだと思う。
 その夜、私たち三人は早々に眠ってしまった。どこくらいたったころか周囲が騒がしくて目は覚めた。田舎のことだから人家もまばらで、そのうえ、寺の境内は広い。日が沈むとカエルの鳴き声しか耳に入らぬほどに静まり返ってしまうのが常であった。空襲警報のサイレンや飛行機のごう音で目覚めた、という記憶はない。
 窓を開けると、やみ夜を旋回している色とりどりの電光がまず目に入った。色鮮やかな電光は星の数ほど無数に見えた。時々赤い火を噴いて焼夷弾が、自在に飛び交う電光から降ってくるのが見えた。なぜ爆撃機B29が赤青黄緑とさまざまな色の光を放ちながら爆撃していたのか、今もってわからない。私にはB29がお祭り気分で楽しげに焼夷弾をまき散らしているように見えた。地上からはめらめらと燃えたつ巨大な炎の柱が天を射るようにそびえ立ち、やみ夜を真っ赤に染め上げる。街全体が炎に包まれるのを私は初めて見た。あの大空襲で命を落とされた方、命からがら逃げまどっていた方を思えば甚だ不謹慎なことだが、その規模といい、華やかさといい、後にも先にもあれほど壮観な光景を私は見たことがない。息をのむほどに美しい眺めであった。
「きっと新ちゃん(兄のこと)死んじゃったわねえ。あの火の中で」と母がぽつんと呟いたが、だれも悲しいとは思わなかった。肉親の死にも麻痺して何も感じない異常な時代であった。私は別に怖いとも悲しいとも思わなかったが、歯の根が合わず全身が小刻みに震えていつまでも止まらなかったのをおぼえている。
 間もなく階下の勝手に、昼間手伝いに来ていた村人たちが再び集まって、祖母の陣頭指揮のもと長岡への炊き出しが始まった。お供え物として本堂に積まれた米が次々と下ろされ、炊かれ、握り飯の山ができた。
 昭和二十年八月一日のこと、私が十一歳の時であった。

 B29による空爆の光景について、なんとも印象深い記述と言える。

 この文章を読んで、私は湾岸戦争のテレビ映像を連想した。
 夜間にミサイルで攻撃する映像からは、まるで、花火のスターマインのような印象を受けたものだ。

 長岡空襲について、長岡市のサイトから引用する。
長岡市サイトの該当ページ

長岡空襲について
最終更新日 2017年4月1日

 1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,486人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。
 その凄まじさは、半藤末利子さんの“色”の記憶で裏付けされているように思う。

 空襲が始まったのは八月一日で終わったのが二日だったので、毎年、長岡まつりの前夜祭が一日、長岡花火が二日と三日に開催されている。

 その花火大会に関する部分を含め、本書からの引用を続ける。

 パールハーバーを奇襲攻撃した山本五十六の生地だから長岡が爆撃された、ということを後で聞かされ、アメリカ人の執念深さに驚かされた。
 翌朝、父が宮内駅付近まで様子を見に行くと、焼け跡の中からふらふらと兄が帰ってきたという。無事な兄の姿を見て父はどんなにほっとし、うれしかったことであろう。
 今の八月の長岡まつりは、もともと長岡空襲の悲しい日を長岡市復興へのバネにするため、長岡市戦災復興祭として始まったと聞いている。戦争で中断していた長岡の花火も、空襲の翌年にはもう再開されたように思う。それから毎年夜空を飾って、いまはすっかり名物になっている。
 長岡にいたころ、私も何回か夜空に開く華を見た。しかし三尺玉であろうとスターマインであろうと、あの空襲の夜の強烈な華やかさには遠く及ばない。アメリカの怨念と、と貴い命を奪われつつある長岡市民のうめき声とが、たがいにぶつかり合う緊張を、あの異常な時代の異様な美しさに感じ取ったわけではない。しかし、長岡まつりになると、私は花火よりも先に大空襲の夜の悲しい美しさを思い起こしてしまう。戦後四十余年もたったいまも、それが悲惨な戦争を経験した者のつらい性ということなのであろうか。
 
 一昨日、昨日と開催された長岡花火大会を、著者のような思いで眺める人が、年々少なくなっている。

 今では、中越地震からの復興祈念という意味も込められている。

 また、長い冬を耐えて生きる越後の人々の浄化(カタルシス)の宴が、あの祭りや花火ではないかと思う。
 阿波踊りなど、他の地域の祭りにも、浄化的な色彩は強いだろうが、冬に心身ともに膝を曲げ、縮こまっていた越後の人々にとって、夏の最後に一気に精神を解放する宴は、特別の意味があるように思う。


 もちろん、人それぞれ、あの花火を見ながら思うことは違うだろう。
 
 しかし、この時期に長岡まつりが開かれ花火が打ち上げられるのは、紛れもなくあの戦争によるあの空襲からの復興を祈念するものであるということは、振り返られるべきかもしれない。

 結果として、前の記事と“漱石つながり”になったが、生誕150年記念ということで、お許しのほどを。

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by kogotokoubei | 2017-08-04 12:44 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛