噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 62 )

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むのたけじ『99歳一日一言』

 昨年8月に101歳の天寿を全うされた、むのたけじさん。

 むのさんがご子息に遺された色紙を中心に編集され、2013年11月に岩波新書で発行された『99歳一日一言』をめくってみた。

 なお、本書については、巻末に本書の成り立ちについてご子息が説明されている内容を含め、お亡くなりになった翌日の記事で紹介したので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2016年8月22日のブログ


 さて、元旦から今日四日までの言葉は、このようになっている。

  一月一日
拝むなら自分を拝め。
賽銭出すなら自分に渡せ。
自分をいたわれ。
自分こそ一切の原点。

 元旦は行列だったので二日に出直してまで、越後長岡の金峯(きんぷ)神社にお詣りし中途半端な賽銭を投じる前に、読むんだった^^
 というのは冗談として、あくまで自分自身に投資しろ、という言葉として噛みしめたい。

 正月の神頼みに関しては、続きがある。

  一月二日
何かを望むなら、望むにふさわしい行為をすることだ。何かを頼むなら、頼むにふさわしい行為をすることだ。

何万人もの人が一緒くたに述べる願いを受けとめて、その一人ひとりの願いを叶えてやれる人がどこにいますか。お願いの礼金を自分めがけて投げ入れてよこす人の願いを、素直に叶えてやる人がどこにいますか。

 「望むにふさわしい行為」、「頼むにふさわしい行為」・・・深い言葉だなぁ。

  一月三日
おのれを励ます最後の言葉はこれしかあるまい。
「この地球に、オレはこのオレだけだ。がんばれよ、オレ」

自分を救う者は自分であって、他の誰でもないと誰も気付く。
気付く日が必ず来るけど、遅すぎる。
 
 そうそう、春風亭柳昇師匠の有名な言葉を思い出すが、この世界、この地球にオレはオレだけだ。
 「がんばれよ、オレ」と思う。

  一月四日
数百数千の人群れの中にいて、オレは終始キチンと立っていた。人は多数の一単位として生きながら、出るも入るも個体だ。一個体、そこが人間存在の意義と誇りの土台だ。そこをお互いにうんと大切にしなくては。

 むのたけじさんのようにキチンと立っていられるかは別として、なんとか、一個体として、この一年キチンと立っていたいし、それぞれの個人を、互いに大切にしたいものだ


 遅ればせながら四日分をまとめて確認したが、この一年、この本を毎日めくるつもりだ。


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by kogotokoubei | 2017-01-04 19:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 秋彼岸の中日、秋分の日の休日。
 久しぶりに連れ合いと駅二つ隣りの町で昼食をとってから、馴染みの古書店へ。

 芸能関係のコーナーで、欲しかったはかま満緒さんの本を発見。
 
 いきなり、ご挨拶代わり(?)に、本書から一つご紹介。

<プレーボーイ>
「君は、うちに泊っている間に娘に子供をつくらせたな、男なら男らしく結婚しろ」
「お父さん、ボクも男です、結婚します」
「その言葉を待っていた」
「で、七人いらっしゃるお嬢さんの、どの方が妊娠しましたんです?」

 すごい豪の者がいたものだ^^

 せっかくなので(?)、もう一つ。
<ある平社員>
「社長、お呼びですか?」
「君はまた酒で失敗したそうだな。君が酒を飲まなければ、とっくに課長、いや部長にはなっておるだろう・・・・・・どうだ酒をやめてみないか、部長席に座った気分はいいぞ」
「お言葉ですが社長、私はビールを三本も飲めば、社長の気分になれますんで、ハイ」

 飲んだくれていた若い頃を思い出すなぁ。


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 紹介した“小咄”は、『はかま満緒のコント笑話史』(徳間文庫、1983年2月発行)からの引用。
 同文庫への書き下ろし。
  
 本書は次の章ごとに、はかまさん作のものを中心に“小咄”が満載。

  男と女のエスプリ
  街角のエスプリ
  親と子のエスプリ
  医者と患者のエスプリ
  結婚のエスプリ
  何となくエスプリ

 最初の作品は「男と女のエスプリ」から、二作目は「何となくエスプリ」から引用した。
 大学の同期やテニス仲間を相手にした宴会の余興で落語を披露する身としては、こういったネタは、マクラで使える貴重な“小咄”なのである。

 本書が発行された1983年は昭和58年、昭和12年生まれのはかまさん、46歳。
 当時、NHK総合テレビ「脱線問答」の司会を務められていた。
 同じNHKのFM「日曜喫茶室」は、毎週日曜の放送。
 2008年4月からは、毎月最終日曜になった。

 実は、はかまさんが亡くなる少し前から、拙ブログをよくご覧いただく方とのご縁がきっかけで、「日曜喫茶室」を録音して聴くようになった。
 もっと、早く聴くんだった、と後悔する好番組。
 昭和52(1977)年4月10日に放送が始まって、来年で40周年になろうという番組を、今になって聴いている。

 はかまさんが亡くなってからは、「40周年名作選」として、過去の放送を聴くことができる。

 今週末の25日は、なんと、永六輔さん出演の回である。
NHKサイトの該当ページ


 本のことに戻る。
 「あとがき」から。

 ジョーク、ユーモア、シャレを一緒のように考えられる向きがあるようですが、三つの笑いはそれぞれ個性を持っております。
 ジョークは、その場でその雰囲気にマッチした笑い話をその場で表現するエスプリであり、ユーモアは笑いの中にちょっぴり涙の入った物語、シャレは粋な会話だとボクは考えています。
 同じ笑いの中にもいろいろ型があるように世界の笑い話にはいろいろな種類があります。
 風俗習慣、季節、宗教、食生活がかわれば笑いの種も異なるわけです。
 (中 略)
 どれが「シャレ」の笑いで、どれが「ユーモア」で、どのコントが「ジョーク」なのかなどと、固いことはこの際やめにして、笑っていただければいいのであります。

 そうそう、哲学者の言葉などを引っ張り出さず、素直に笑いたいものだ。
 しかし、素直に笑える“小咄”は、意外に少ないのだ。
 この本の小咄は、発行から30年以上を経ているので、中には時勢にそぐわないものもある。しかし、そういった当時の世相を思い起こすことも含め、実に読んでいて楽しい。

 明日以降、電車で読みながら、笑いをこらえるのに困る本である。


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by kogotokoubei | 2016-09-22 21:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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永六輔著『芸人』(岩波新書)

 ふたたび『芸人』(岩波新書、1997年)から。

 前回の記事にいただいコメントへの返信でも紹介したが、本書「口上」にある、芸人語録ベストテンの一つとして、永さんは岡本文弥の次の言葉を紹介している。

「むかし、新内を聴いて、悲しくなって自殺した遊女がいた。わたしも自分の唄で、一人くらいは殺したい」

 「芸人」を考える上で、実に示唆的な言葉だと思う。

 前回の記事で次の文章を紹介した。
 かつて「河原者」と呼ばれた「ヤクザ」「女郎」「芸人」。
 「ヤクザ」は男を売り、「女郎」は身体を売り、そして「芸人」は芸を売るというかたちで、生産手段を持てない人たち。

 同じ「河原者」同志、という認識が、岡本文弥の言葉の背景にはあるように思う。
 「売り物」は違っても、同じように「生産手段」を持たない者同志、という感覚が、間違いなくあっただろう。

 前回の記事で、永さんは「テレビ以前」と「テレビ以後」の芸人の違いを指摘していたことを紹介した。
 「テレビ以後」の芸人には、「河原者」という意識も、「非生産者」という負い目もないだろう。
 
 今回は、「歌」の章からの引用。

 「芸人」という本を、「芸人」という言葉にこだわりながらまとめている僕自身、自分を芸人だと思っているところがあります。
 「講演芸人」という言葉があって、生涯教育のイベントや、文化講演会で売れているなかの一人です。
 僕のなかには、発言の規制がある放送でたまるストレスを、講演で解消するという意味もあります。
 そして、講演そのものが好きというのではなくて、客席の反応を覚えておいて、そのなかから、放送の話題を選ぶようにしてきました。
 僕の講演は、放送のためのリハーサルでもあるわけです。
 そして、ときには役者もやります。
 最近では、『大往生』の映画化で、呆け老人の役を楽しんできました。
 素人芸ということはできますが、役者だといえば役者、歌手だといえば歌手、自分で名乗るのは勝手だし、その評価は観客が決めてくれるものです。

 永さんの、放送と講演との取り組み方の違いが、分かりやすく説明されている。

 たしかに、ラジオにしろ、放送ではストレスがたまるだろう。
 テレビなら、いっそうストレス充満、なのだと思う。

 そして、今日のテレビは、つい本当のこと、お上に対して都合の悪いことを言いそうな人は、はじめから出演させないようにしているだろうから、永さんの活躍の場がラジオ、そして講演が中心になった理由も分かろうというものだ。

 この後、次のように続いている。

 「テレビ以後」の芸人さん達は、永さんが教えてくれる「芸」にまつわる歴史を、知っておく必要があるように思う。
 というわけで、この章では歌手として、歌について考えながら、「芸人」を語ってみようと思います。
 まず、明治以前の場合、たとえば北海道の民謡は北海道でしか聞くことはできず、九州の民謡、沖縄の民謡も同じように、その地域でしか歌われていませんでした。
 旅をする人たち、たとえば参勤交代とか、瞽女(ごぜ)とか、お伊勢参りのときに、その土地その土地の民謡を聞くことはあったとしても、それはあくまで旅で聞いた民謡で、自分たちがそれを歌うということはありません。
 民謡にかぎって、その展開を書いておきますと・・・・・・
 お伊勢参りが幕末に、爆発的に「ええじゃないか」という大衆行動になります。
 この「ええじゃないか」という大衆行動のなかで、たくさんの人がお伊勢参りと称して伊勢に集中するんです。
 そのお伊勢参りの「ええじゃないか」に逆行して、官軍が江戸、そして会津、箱舘(函館)への向かっていくわけです。
 この「ええじゃないか」は自然発生ではなくて、勤皇の志士の知恵者が煽動したという話もありますが、こうして時代は明治へ。
 そして大きく時代が変わったときに、伊勢に集まった多くの、いわば難民に近い人たちが神戸開港という話を聞いて、神戸に集まります。関東からお伊勢参りに行った人たちがそこに集まります。
 このときの兵庫県知事が若き伊藤博文。
 開港するために労働力が必要になり、多くの人たちを使います。
 当時の関西の相撲取りたちが見張り役になって百人部屋という部屋をつくり、朝早くからたたき起こして働かせ、夜になるとめしを食わせ、酒を飲ませ、音頭取りがあらわれて各地の歌を歌うという状況が生まれます。
 日本の民謡が初めてひとつの場所で歌われるようになるのが百人部屋というものです。
 いまの新神戸から下った新川地区あたりに、この小屋がありました。
 この百人部屋が港湾労働者の仕切り場になり、ここから上方漫才の原型となるものが生まれるという場所でもあります。
 さらにいえば、キリスト教社会運動家として有名な賀川豊彦が活躍する場ともなりました。
 スラムから生まれた芸能といえば、ブラジルのカーニバルが代表的ですし、音楽でいえばボサ・ノバがあります。
 日本の場合は、この百人部屋での音頭であり、のちに漫才となる万歳です。
 そして、漫才の祖といわれる玉子屋円辰は、この音頭取りの名手といわれた人です。
 労働者は歌よりも、笑いを求めるという時代になるわけで、この場面はいつか、ミュージカルにまとめてみたいと思っています。
 こうして夜ごと、日本各地の民謡が歌われたであろう百人部屋の存在は、歌謡史のなかでも、重要な位置を占めます。

 情報が、人づてでしか伝わらなかった時代、いろんな人が集まる場、交流する場は、まさに情報交換の重要な空間となった。

 ネット時代の現在においても、いろんな人が集まる場の重要性は変わないと思う。それは、前回の記事で取り上げた「博多・天神落語まつり」のような場にも言えるに違いない。

 「百人部屋」という、まさにスラムにおける人の交流が、お国自慢の民謡をお互い披露し合うことになり、漫才という芸能を生み出す空間にもなった。

 永さんは、百人部屋のあった地域に関連する部落差別問題について、本書においては記していないが、新川地区はその後名前が変わり差別の対象となる。

 関東に生まれ育った人は、なかなか肌で分からないが、関西におけるさまざまな差別の問題は、根が深い。
 
 そして、現在、人間が皆平等であり、どんな差別もしてはならないとする憲法が、危機を迎えている。

 少し話が拡散しそうなので、戻そう。 

 芸能や芸人の歴史を考える上で、「ええじゃないか」のことや神戸開港と「百人部屋」のことなどは忘れてはいけないだろう。

 そういった大事な歴史の語り部でもあった永六輔さんを失った今、私は残された本を読み直すことで、“ご隠居”を偲ぶばかりだ。

 今日は、永さんの一つ年下の大橋巨泉さんの訃報を目にした。

 奥さんは、ショックが大きかろうと、永さんの訃報を巨泉さんに伝えなかったとのこと。

 巨泉さんには、正直なところ、政治家としての活躍を期待していたのだが・・・・・・。

 永さんは、天国にやって来て永さんの姿を見て驚く巨泉さんに、「先に来て、待ってたよ」と笑いながら迎えてくれたのではなかろうか。


 多くの“八五郎”が慕う“ご隠居”が、一人、二人といなくなり、次第に自分がそういう年齢になりつつあることに、戸惑うばかりである。

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by kogotokoubei | 2016-07-20 22:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 永六輔さんの命日は、7月7日。
 6月6日ではなかったが、なんとも覚えやすい日を選んでくれた。

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永六輔著『芸人』(岩波新書)

 『芸人』は、1997年10月の発行。

 『大往生』(1994年)、『職人』(1996年)など、岩波新書シリーズの中の一冊。

 この本を再読していたら、今日の祝日との縁を感じる文章に出会った。

 第三章の「光と影」から、引用。

 僕は「芸人」という言葉が好きです。
 僕が「芸人」という言葉をつかうときには、憧れ、尊敬の念をこめています。
 ところが、この言葉は、ときには差別の対象としてつかわれることがあり、それが理由で死語となりつつあるようです。

 「芸人」という言葉、20年前に永さんが死語になりつつある、というほどは廃れていないように思う。
 それは、永さんが次に書いているような「芸人」という言葉にまつわる歴史の記憶自体が、廃れてきているからかもしれない。

 なぜ、「芸人」ではいけないのか・・・・・・。
 かつて「河原者」と呼ばれた「ヤクザ」「女郎」「芸人」。
 「ヤクザ」は男を売り、「女郎」は身体を売り、そして「芸人」は芸を売るというかたちで、生産手段を持てない人たち。
 ご存知のように、芸能史のなかの芸人たちは、差別に対して、人気と芸で挑むということのくり返しでした。
 芸人の歴史は、海彦・山彦のむかし、勝者に対しておどけてみせる「俳優(わざおぎ)の民」にはじまりました。古事記に出てくる海彦・山彦の話はご存じでしょう。山彦は海彦から借りた釣針を無くしてしまい、もとの釣針を返せと迫られて困りはてる。そうしたら、海の神さまが山彦に同情して釣針を探し出し、それだけじゃなくて、傲慢な海彦を懲らしめるために、山彦に不思議な力を授けるんですね。それで山彦が勝者になる。
 それ以来、海彦の一族はその負けたときにありさまを、山彦の一族のまえでずっと演技しなければならなくなるのです。
 神話ですが、これが「芸人」のはじまりということになっているんです。
 つまり、日本では、あらゆる芸人そして芸能の歴史は、肩身のせまさを克服するために修業を重ね、その結果の芸を伝えてきた歴史でした。
 芸の修業にすべてを賭けて、人並みの生活に這いあがろうとし、河原乞食から人間国宝と呼ばれるようになったんですね。 テレビ以前とテレビ以後では、芸人の歴史はまったく違うんです。

 今の「芸人」さんは、“テレビ以後”の人たちだ。

 彼らは、海彦と山彦の神話を知らない人がほとんどかもしれない。

 補足すると、古事記においては、邇邇芸命(ニニギノミコト)と木花佐久夜比売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた長男火照命(ホデリノミコト)が海彦、三男火遠理命(ホオリノミコト)が山彦に相当する。
 詳しい筋書きなどは書かないので、ぜひ、興味のある方はお調べのほどを。

 この山彦は、初代天皇神武天皇の祖父にあたる。
 ある政治家によると、神武天皇は、実在したらしい。

 先日、今日「海の日」という祝日について、記事を書いた。

 その「海の日」に、「海彦・山彦」という神話のことを、永さんの本を読みながら思うことは、決して悪いことではないように思った。

 人ごみや車の渋滞の中にいることを避け、永さんの本を読み直したら、たまたまこの部分に目が留まったのだが、それも、何かの縁なのだろう。
 
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by kogotokoubei | 2016-07-18 10:03 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(8)
 「今週の一冊、あるいは二冊」というカテゴリーだが、あくまで、今週出合った本のことであり、該当する本の記事は、後日までお待ちの程を願います。

 昨日、許可を得て一時間外出した。
 なお、外出理由には「リハビリ」と書かなくてはならないらしい。
 つい「リフレッシュ」と書いて出かけて、戻ってから看護師さんの指示で、(リハビリ)、と付け加えた。
 その外出の際、真っ先に立ち寄ったのは澤口書店。
 イアン・マッカーサーの『快楽亭ブラック-忘れられたニッポン最高の外人タレント』に出会った小宮山書店にも近い。
 澤口書店は、近距離に二店舗あり、その一つが巌松堂ビル店。
 平凡社の東洋文庫の品揃えは、たぶんここが神保町でも随一だろう。
 そして、私を待っていたのが、ジョン・レディ・ブラック著『ヤング・ジャパン』である。

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 第一巻から第三巻の初版三冊セットが、程よい価格だったので、購入。
 ちなみに、第一巻は、昭和45年2月28日の初版刊行。

 実は、同書店にこの本があることは、以前に発見していた。
 しかし、イアン・マッカーサーの本について書いていた記事を入院までに終わらせ、入院中の外出で澤口書店に行って、もしなかったら、縁がないものと決めていたのである。
 よって、縁があった、ということ。

 ジョン・レディ・ブラックのことは、その長男であるヘンリー・ブラック、初代快楽亭ブラックについて、同じオーストラリア出身のイアン・マッカーサーが書いた本の記事、二回目で少し紹介しているので、ご興味のある方はご覧のほどを。この記事の中で、『ヤング・ジャパン』を発見(?)したことも書いている。
2016年4月2日のブログ
 さて、同じ澤口書店のもう一軒の方の2階に喫茶ができて、500円以上購入すると、そこでお茶が飲めるとのことで、店を渡り歩く。
 せっかくなので、落語コーナーを眺めていて、私の目に飛び込んできた本があった。

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 この本である。
 飯島友治著、『落語聴上手』。
 飯島友治さんは、現在ではその多くが文庫になっているが、筑摩書房の『古典落語』の編者として、落語愛好家で知らない人はいないだろう。
 しかし、この方、Wikipediaには、プロフィールが存在しない。
 文庫にも、著者紹介的な内容が見当たらない。
 よって、名前に反して、私にとって、よく分からない人であった。
 この本の「あとがき」は、飯島さんが顧問をしていた東大落語研究会のOBたちの会である東大落語会の鷲森保という人が書いているのだが、引用する。

 飯島先生が編集された筑摩書房の『古典落語』十巻を、演者別に再構成して「ちくま文庫」に収める計画があるが、この機会に先生の解説部分を核にしてさらにお話を聞きだし、何か読み物とすることができないかと、『古典落語』の編集を手伝ったご縁で、編集部の面谷哲郎氏からご相談があった。先生にお話しすると、ぜひやりたいと意欲満々、これが五年前。
 さっそく先生から、いろいろとお聞きすること一年余、十数時間分に及ぶ録音テープがたまった。本書は、その一部である。
 この間、よくもまあ、この企画に、『酢豆腐』の豆腐のように、シャツの裏みたいなカビが生えなかったもの。刊行の日をいまや遅しと望まれていた先生には、たいへんご心配をかけてしまった。先生は、今年j11月18日に93歳の誕生日を迎えられる。

 本書の初版刊行は1991年11月20日、出版元は、もちろん筑摩書房。

 これが、今日の外出時のカフェでのお茶の時間に読んでいて、まったく飽きない楽しい本。
 それは、私にとって謎であった飯島友治という人物のベールが一枚づつ剝がれていく楽しさなのである。
 また、残念ながら音源が残っていない、三代目三遊亭小円朝への飯島さんの深い思いが、伝わる本でもある。


 もちろん、この本についての記事は近いうちに書く。

 『ヤング・ジャパン』は、三巻あるので、『落語聴上手』の記事が先行することは、間違いない。

 いつになるかは・・・退院後まで、お待ちのほどを。


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by kogotokoubei | 2016-04-24 19:50 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 野坂昭如の訃報を目にした。

 昭和58年の衆院選、私は野坂が田中角栄に対抗して立候補した、当時の新潟三区の中心都市である長岡に住んでいた。

 飲み屋街である殿町の店で、うかつに角栄や越山会の悪口など言えない土地。
 ある選挙期間中だったと思うが、飲んでいたスナックに、娘の真紀子が「父の代理」として挨拶で回っていたことを思い出す。ビルの店を一軒づつ回っていたのだろう。

 大手通りで角栄が演説をしている時、多くの越後のおばちゃん達が、神様に向かうかのように手を合わせていたことも思い出す。

 余所者である私は、野坂の出馬を意気に感じて彼に一票を投じた。

 「朝まで生テレビ」は、大島渚と野坂昭如が出演していた頃が絶頂期だったなぁ。

 さて、この記事は野坂の前に伝えられた訃報の主の著作について書くつもりでいたが、まくらがつい長くなった。野坂のことは、別途書くつもり。

 水木しげるさんの訃報に接し、記事を書いた。
2015年11月30日のブログ

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『総員玉砕せよ!』(講談社文庫)

 あの記事を書いた時は未読だった『総員玉砕せよ!』(講談社文庫)を読み終わった。本書は1991年に単行本発行、1995年に文庫化された。

 読後、なんとも言えない思いに浸る。


 冒頭部分。
 海上を進む輸送船やニューブリテン島の風景を背景に、次の「可愛いスーチャン」(作者不詳)の歌詞がある。

お国のためとは 言いながら
人の嫌がる 軍隊に
志願でするよな バカもいる
可愛いスーチャンと 泣き別れ

朝は早よから 起されて
ぞうきんがけやら はき掃除
いやな上等兵にゃ いじめられ
泣く泣く送る 日の長さ

乾パンかじる ひまもなく
消灯ラッパは 鳴りひびく
五尺の寝台 わらぶとん
ここが我等の 夢の床

海山遠く へだてては
面会人とて さらになく
着いた手紙の うれしさよ
可愛いスーチャンの 筆の跡


 戦意高揚のための軍歌ではなく、兵卒の日常を歌う、いわゆる兵隊節であることが、この本がどんな視点で書かれたものかを暗示する。

 あとがきで作者水木しげるは「90パーセントが事実です」と書いている。

 残る10パーセントは、作者の分身である丸山二等兵は、「バンザイ突撃」の時には入院していたのだが、本書では仲間と一緒に玉砕していること、など。

 本書は、水木しげるの戦争体験に基づいている。
 中心となるのは、ラバウルにいた十万人の日本兵の捨て石となったバイエン支隊五百人の兵士の玉砕。

 敵は上陸してくる米軍だけではなかった。
 マラリアで亡くなる者、手榴弾で捕った魚が喉に詰まって窒息死する者、池に溺れてワニに食われた者、などもいる。そして、支隊にとって味方であるはずのラバウル司令部でさえ・・・・・・。


 物語は、ニューブリテン島ココボ、昭和18年末のことから始まる。

 「ピー屋」と呼ばれる慰安所に並ぶ多くの兵隊たち。

 翌日の丸山たちの会話。
 
 「それで、きのうはどうだった」
 「二三人はできたかしんねいど、なにしろ五分間しかねえのに
  七十人も並んでんだ」
 「ほとんど『女郎の歌』でお別れさ」
 
 『女郎の歌』の歌詞も載っているが、割愛。

 初年兵は、理由なく上官から殴られる。
 しかし、テレビドラマ「鬼太郎が見た玉砕 ~水木しげるの戦争~」で塩見三省が扮した「ピンタ軍曹」こと本田軍曹は、味方の鉄砲の誤射で負傷し、手榴弾で自決。

 部下に「玉砕」を命じたのは士官学校出、二十代のバイエン支隊長田所少佐。
 少佐は楠木正成に心酔しており、湊川の戦いにおける正成の死に様にあこがれていた。
 テレビでは「花子とアン」で新聞記者を演じた木村彰吾が田所に扮した。

 田所支隊長(少佐)が「玉砕」を説くものの、児玉中隊長(中尉)はゲリラ戦を主張する。田所は、児玉の中隊のみ、特別にゲリラ戦を許可したため、生き残ることのできた生命が増えたのだった。

 バイエン支隊はラバウルの司令部に玉砕することを電信する。
 司令部では、彼らは全員死んだものと思い、全軍にそのことを告げ、戦意高揚を図っていた。しかし、聖ジョージ岬の警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が岬近くにいると知らせを受ける。
 司令部は、バイエン支隊の敵前逃亡はラバウル全軍の面汚しと考え、彼らを実際に「玉砕」の英霊とするために、参謀の木戸を聖ジョージ岬に派遣する。
 木戸の出発前夜、バイエン生き残り兵士の一人である石山軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをしたが、司令部が認めるはずもなく、軍医は抗議の自決をした。
 テレビでは嶋田久作が軍医に扮した。ニンだったなぁ。
 本書でも、石山軍医の行動や発言が、強く印象に残る。

 狂気のうずまく中で、正気は少数派にしかなりえない、ということか。

 これ以上は内容について書かないが、作者のあとがきから引用したい。
 
 「玉砕」というのは、どこでもそうですが、必ず生き残りがいます。 
 まあ、ベリリウ島等は、ものすごく生き残りが少なかったので、模範ということになり、ラバウルではベリリウ島につづけということがよくいわれました。
 しかし、ベリリウ島みたいな島で全員が一度に死ねるということなら、玉砕は成功する。
 ラバウルの場合、後方に十万の兵隊が、ぬくぬくと生活しているのに、その前線で五百人の兵隊(実際は三、四百人)に死ねといわれても、とても兵隊全体の同意は得られるものではない。
 軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は“猫”位にしか考えられていないのです。

 日本は、人間を消耗品として扱う悪夢を、また繰り返そうとしている。

 水木しげるは次のような回想を記している。
 この物語では最後に全員死ぬことになっているが、ぼくは最後に一人の兵隊が逃げて次の地点で守る連隊長に報告することにしようと思った。だが、長くなるので全員玉砕にしたが、事実はとなり地区を守っていた混成三連帯の連隊長は、この玉砕事件についてこういった。
「あの場所をなぜ、そうまでして守らねばならなかったのか」
 ぼくはそれを耳にしたとき「フハッ」と空しい嘆息(ためいき)のような言葉が出るだけだった。
 
 後で振り返れば、何人もの生命を奪った玉砕のすべてに、「なぜ、そうまでする必要があったのか」という疑問符がつく。
 それは、「なぜ戦争をしたか」という問題にまで戻ることになるはずだ。

 水木しげるが残してくれた戦争の記録と反戦の思いを、我々は生かさないわけにはいかない。

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by kogotokoubei | 2015-12-10 20:50 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

 最近、江戸時代や明治時代の日本と日本人のことを考えて、つい、渡辺京二『逝きし世の面影』をめくることが多くなった。

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渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)

 「ノスタルジーに浸るな!」とお叱りを受けそうだが、それでも結構。

 かつての日本にあって、今日では見かけなくなった日本と日本人の光景を、幕末から明治にかけて来日した海外の人たちが残してくれた貴重な文章が満載だから、読むべき価値は高いのだ。

 読み直して印象的な部分を紹介したい。

 まず、「第四章 親和と礼節」から引用。

 ウィリアム・ディクソンは、ある車夫が苦労して坂を登っていると、別な車夫がかけつけてうしろから押してやる光景をしばしば見かけた。お辞儀とありがとうが彼の報酬だった。これは互いに見知らぬ車夫どうしの間で起こることなのである。彼は、東京に住む宣教師が車夫からうやうやしく声をかけられ、様子が気に入って家まで車に乗り、さて財布を取り出したところ、「お気になさらずに」と言われたという話を紹介している。車夫のいうところでは、彼の友達の病気をこの宣教師が親切に治療してくれたので、ささやかなお礼をしたかったのだとのこと。そう言うと車夫はお辞儀をして立ち去って行った。
 エドウィン・アーノルドも「俥屋にお茶を一杯ご飯を一杯ふるまって、彼のお礼の言葉を耳にすると、これがテムズ川の岸で、まぜもののビールをがぶ飲みしたり、ランプステーキに喰らいついたりしている人種とおなじ人種なのかと、感嘆の念が湧いてくる」と言っている。彼は明治二十二(1889)年の仲通りと銀座の群衆について次のように記す。「これ以上幸せそうな人びとはどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスをとりながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、『おはよう』『おはようございます』とか、『さよなら、さよなら』というきれいな挨拶が空気をみたす。夜なら『おやすみなさい』という挨拶が。この小さい人びとが街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。一介の人力車夫でさえ、知り合いと出会ったり、客と取りきめをしたりする時は、一流の行儀作法の先生みたいな様子で身をかがめる」。田舎でも様子は変らない。弟妹を背負った子どもが頭を下げて「おはよう」と陽気で心のこもった挨拶をすると、背中の赤児も「小っぽけなアーモンドのような目をまばたいて、小さな頭をがくがくさせ、『はよ、はよ』と通りすぎる旅人に片言をいう」。茶屋に寄ると、帰りぎわに娘たちが菊を一束とか、赤や白の椿をくれる。礼をいうと、「どういたしまして」というきれいな答が返ってくる。

 本書の注によるとディクソンは、おそらく当時中国在留の医師であろう、とのこと。
 アーノルドは、イギリス出身の新聞記者であり、紀行文作家。福沢諭吉の庇護を受け、慶応で講師も務めた人。

 ディクソンやアーノルドが感嘆した日本人の礼儀正しさ、その美しさを、我々はは失ってしまった。
 アーノルドが形容したような、どこを探しても見当たらないような幸せそうな姿も、今の日本のどこを見渡せばあるのやら。

 その挨拶やお辞儀が、異国の人々に美しく優雅なものと映ったのは、その時の日本人に心の余裕があったからだろうとは思うが、それは日本人全員が本来持っている美徳でもある。

 「第五章 雑多と充溢」からもアーノルドの本からの引用部分を紹介したい。
 アーノルドは言う。「日本の街路でもっともふつうに見かける人物のひとつは按摩さんだ。昼間は彼がゆっくりと―というのは彼は完全に目が見えないのだ―群衆の中を通り過ぎてゆくのを見かける。手にした竹の杖を頼りとし、またそれで人びとに道を明けるように警告す。・・・・・・夜は見かけるというよりも、彼の通るのが聞こえる。たずさえている小さな葦の笛で、千鳥の鳴き声にいくらか似ているメランコリックな音を吹き鳴らす。・・・・・・学理に従ったマッサージを行う者として、彼の職業は日本の目の見えぬ男女の大きな収入源となっている。そういうことがなければ、彼らは家族のお荷物になっていただろうが、日本ではちゃんと家族を養っており、お金を溜めて、本来の職業のほかに金貸しをやている場合もしばしばだ。目の見えぬ按摩は車馬の交通がはげしいところでは存在しえないだろう。彼の物悲しい笛の音なんて、蹄や車輪の咆哮にかき消されてしまうし、彼自身何百回となく轢かれることになるだろう。だけど東京では、彼が用心すべきものとては人力車のほかにない。そいつは物音はたてないし、子どもとか按摩さんと衝突しないように細心の注意を払ってくれるのだ」。
 アーノルドとともに明治二十年代初頭の東京の街頭に立ってみよう。四人の男の肩にかつがれた方形の白い箱がゆく。死者が東京と見納めているのだ。だが「あまり悲しい気分になる必要はない。日本では誰も死ぬことを、ひどく怖れたり嫌ったりすることはないのだから。下駄屋、氷水屋で氷を削っている少女、鰻の揚物を売り歩く男、遊びの最中の男の子と女の子、坊さん、白い制服の警官、かわいい敏捷なムスメが、ちょっとばかり葬列を見やる。だが彼らの笑いとおしゃべりは半分ぐらいしかやまない。・・・・・・街頭はこんどは人足たちで一杯になる。材木を積んだ車を曳いているのだが、紺のズボンをはいた年輩の女たちがあとから押している。・・・・・・あまいねり粉を文字や動物や籠の形に焼きあげる文字焼屋、それに彼の仲間の、葦の茎を使って、大麦のグルテンをねずみや兎や猿の形に吹きあげる飴屋」。紙屑拾い、雀とり、小僧に薬箱をかつがせた医者、易者、豆腐屋、砂絵描き、それにむろん按摩。アーノルドの列挙する街頭の人びとの何と多彩なことだろう。それぞれに生きる位置をささやかに確保し、街を活気とよろこびで溢れさせる人びとなのだ。

 按摩さんの文章で、『真田小僧』を思い浮かべた落語愛好家の方も多かろう。あるいは、『按摩の炬燵』や『三味線栗毛(錦木検校)』かな。

 私が子供の頃の北海道の田舎町でさえ、按摩さんがいたことを思い出す。
 目の不自由な人にとっては、貴重な職業だった。
 今では、あちこちに、チェーンのマッサージ屋さんが出来ているが・・・・・・。

 町の雑踏を通る葬列に対する人びとの対応は、あまりにも冷たい印象を受けるかもしれない。
 しかし、立川談志の言葉じゃないが、「死んだら、終わり」という、良い意味での処世訓が浸透していたように思う。そして、死に対する覚悟の違いを感じるなぁ。

 死ぬことを前提に、精一杯楽しい人生を生きる・・・そんな明るい、生に拘泥しない人びとの住む日本があった、ということか。

 なかなか、そこまで達観できないが、「死んだら、終わり」という意味を、肯定的にとらえる必要があるのかもしれない。

 町には、なんともいろんな職業の人がいたものだ。
 アーノルドが東京のどこを描いたのか分からないが、浅草や両国にも行ったのだろうし、縁日の光景に目を輝かせたに違いない。
 

 挨拶の優雅さ、礼儀正しさと姿勢の美しさ、明るいおしゃべり、相互扶助の精神、死を怖れることなく精一杯生きる姿・・・・・・。

 どれもこれも、かつての日本であり日本人のことである。

 そういった姿を、少しでも取り戻したいと思うが、もちろん、これは安倍晋三が言う「日本を取り戻す」でもなければ「美しい日本」でもない。

 安倍政権がしていることは、そういった本当に“美しかった日本”を、さらに遠い過去に退けようとする行為である。

 江戸、明治のことを考えると、どうしても今の日本の状況に対し悲観的になるが、いやいや負けてはならない、と思う。

 日本という国は、その歴史と伝統を顧みるに、海外の人に尊敬される国になれる要素は、いくらでもある。礼儀正しさ、争いを好まず平和を尊ぶ精神、相互扶助、などなど。
 なぜ、アジア近隣諸国との関係を悪化させるようなことばかり政府がするのだろうか。

 まずは、憲法を遵守し、戦争をしない国として他の国と接することが、日本として相応しいことなのは、間違いがない。


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by kogotokoubei | 2015-08-27 22:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
 私の読書は、芋づる式で進むことが多い。

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『東京百話-人の巻-』(ちくま文庫、種村季弘編))

 三代目三遊亭金馬の『浮世断語』とのつながりから、ちくま文庫の『東京百話-人の巻-』の巻頭にあるこの文章を再読した。

 『東京百話』は、幅広い分野の方の厳選された短編を楽しむことができるので、時おりめくる本。
 『竿忠の家』の出典は、『ことしの牡丹はよい牡丹』(主婦と生活社)だが、こちらは未読である。近いうちに読むつもりだ。

 先日の記事にいただいたコメントでも、根岸の女将さんのことにふれられた方がいらっしゃったが、多くの落語愛好家の方は、金馬-海老名香葉子-林家三平、という連想をされるだろう。

 初代の林家三平の女将さん海老名香葉子は、東京大空襲で家族を失い、敗戦後に金馬に引き取られた人。
 釣り好きだった金馬が、「竿忠」の娘であった彼女に救いの手を差し伸べたのだった。

 今や、“根岸の女将さん”として、確固たる(?)地位を築いた感のある方が、どんな子供時代を過ごしたのか、ご紹介したい。

 部分的に割愛するが、“かよちゃん”一家が戦争に巻き込まれる前の、平和な暮らしを紹介したい。
 まずは、『竿忠の家』冒頭部分から。
 本所三ツ目通り。押上方面から三之橋を渡って右側が堅川三丁目。
 わたしはここで生まれ、ここで小学校五年まで育ちました。生まれたときから三の字に縁があったんだわ、と思っています。
 お隣はふとん屋さん。裏隣はフォードという大きな自動車の修理工場。三ツ目通りを渡って二百メートルも行ったところに菊川小学校-わたしのなつかしい母校があります。小学校の近くには小さい公園があり、ここはいつも子供たちが遊びほうけているところです。その公園の前に通称百軒長屋があり、その角の煙草屋のおばさんの明るい顔が、いまだに目に浮かびます。
 朝、広いアスファルトの三ツ目通りには、馬や牛の糞がたくさん落ちていて、狐が人間をだまし、あの糞を食べさせたんだという流行歌を、子供たちは親たちから聞かされていました。その、だました狐の歌を思い出します。

  おとっつあん
  今帰ったコーン
  おみやげあげようか
  温かい酒まんじゅう
  コーン
 
 学校から帰る頃には、この糞は近在のお百姓さんの畠の肥料(こやし)にでもなるのでしょうか、きれいに拾われて跡かたもなくなっていました。

 三ツ目通り、三之橋、三丁目・・・なるほど、三平に嫁ぐ運命にあったということか。

 馬糞・・・私が子供の頃には、道端に落ちていたなぁ。
 北海道の田舎生まれだったので、都会に比べトイレが水洗になるのは遅く、小学生低学年まで農家が馬車で集めて回っていたのを思い出す。

 さて、本所生まれの香葉子さんの家は、どんな家だったのか。
 わたしの家は代々釣竿師でした。三ツ目通りの角から二軒目で、間口六間(十・八メートル)、奥行四間(七・二メートル)の家です。二階の手すりの前には、ぶあつい立派な板に、大きく力強い字が彫り込まれた「竿忠」の看板が、掲げてあったのを覚えています。
 店の広い仕事場では、祖父と父がいつも竿づくりをしていました。常連の客が三、四人上り端に腰をかけ、その仕事ぶりを無言でじっと眺めているのが、毎日の店の風景の一つでした。竿師の家業がスタートしたのは五代ぐらい昔で、「竿忠」の屋号を掲げてからは祖父で二代、父で三代めということになります。
 曽祖父は明治の人で、名人とまでいわれたそうです。パリ万国博覧会に和竿を出品して最高級の銀盃をいただき、一躍有名になったようで、わたしの物心つく頃は下町の職人ながら、けっこう華やかな毎日だった印象があります。
 曽祖父の血を受け継いだ祖父や父の仕事ぶりは、子供心にも有無をいわせない気迫を感じさせました。短めの着物にたすきがけで、仕事中ほとんど口をきかず黙々と竿づくりに励む姿には、幼いわたしにも、「偉い人なんだなあ」と思わせる風格がありました。
 祖母は、神田の小柳亭という講釈場と寄席の小屋主の長女で、その界隈では飛び切りの美人という評判の娘だったそうです。わたしも「おばあちゃん」と呼びかけながらも、不思議なくらいきれいな人だと思っていました。
 母は木場の材木屋の長女で、父とは菊川小学校での同窓生。父が猛烈に母に惚れて、たっての願いで嫁いできてもらったそうで、父の一世一代の大恋愛だったことは、家族の間でも言い伝えられていたのです。
 店には、世間に名を知られる人が客として出入りしていました。中島飛行機社長の中島知久平、歌舞伎役者の先代市川海老蔵、落語家、講釈師から陸軍大将まで、そうそうたる人たちです。
 万博で賞を取ったほどの名人の曽祖父の血筋を受け継ぐ、伝統的な竿師の家の様子が、うかがえる。
 おばあさんが寄席、講釈場の小屋主の娘だったことは、その後の運命との縁を感じさせる。

 店を訪れた有名人の中には、きっと三遊亭金馬も含まれていたのだろう。

 そんな本所界隈の生活は、どんなものだったのか。

 象徴的な、その当時の朝の模様をご紹介。
「あさりからしじみよー」
 遠くに近くに聞こえる、もの売りの声から朝が始まります。
 祖母が長火鉢の端で、キセルの吸いがらをはたく音で、母がすっと起き、シャッ、シャッと手早く、着物とかっぽう着を身につけ、髪を撫でつけながら、あわてて下へ降りて行きます。
 間口の広い家の雨戸をゴトゴト開ける音、はたきをかける音、掃き出す音、丸い大きな卓袱台をギイギイ脚を出して組み立て、お茶椀やお皿を置く音、まな板でトントン、トントン・・・・・・の頃には、ご飯をおはちに取る匂い、そしておみおつけの香りがプーンと。
 一日の生活様式も明治時代以来のしきたりどおり、型が決まっていたものです。祖父母が睨みをきかせていて、店の仕事は祖父が、家内の取締りは祖母がとりしきっていました。
 朝脱いだ寝巻きやふとんのたたみ方、しまい方、洗顔、朝食など、子供たちもちゃんとしないと叱られます。母は色白の頬を赤くして、きゃしゃな体をきびきびと動かして、朝の秒刻みの忙しさをこなしていました。
 わたしたちが、
「行ってきます」
 と、次々に学校へ出かける頃には、入口に敷きつめられた玉石は、水で洗い清められています。四人も子供がいるので、部屋は散らかっていましたが、店の中は朝晩塵一つなく掃除されていたのです。
 わたしは、兄妹四人の末娘でした。

 そうなのだ、かつての日本の朝には“音”と“匂い”があった。
 
 また、この文章には、いわゆる‘核家族’時代の現在では考えられない、三代同居の生活風景が描かれている。
 いや、今は“核”すらあるのかないのか・・・・・・。

 出典元の著作の題名が登場する部分を、少し紹介。
 道路での遊びは、ろう石、縄跳び、ゴム段跳びなどの他に、

 ことしの牡丹はよい牡丹
 お耳をからげてスッポンポン

 や、「子取ろ子取ろ・・・・・・」「坊さん坊さんどこいくの・・・・・・」などを、男の子も混じえて喧嘩しいしい遊びをしました。
 ろう石、なんて死語になりつつあるのではなかろうか。

 お次は、竿忠一家の夕食の様子。
 風呂からあがると、おじいちゃんを除いた家族は、大きな丸い卓袱台を囲んで食事です。
「かよちゃん家のおかずはすごいね」
 近所の子によく羨ましがられましたが、今考えてみると、たいしたものではなかったと思います。
 祖父だけは湯あがりに手拭いを頭にのせ、長火鉢の前でくさやの干物などを肴に、わたしたちが食事をする横顔をミコニコ眺めながら、晩酌をチビリチビリとやり、仕事中の顔とはまるで違って、やさしい表情をしてました。
 子供たちは午後八時になると、否が応でも寝なくてはなりません。

  いたずら者は、いないかナァ
  いないかナァー いわみぎんざん
  
「いわみぎんざんがくるから早く、早く。子供は寝なさい。恐いよ、恐いよ」
 祖母が大きな声でせきたてます。
「知ってるんだ、いわみぎんざんは、鼠取のことなんだ」
 口答えをしつつ、わたしは梯子段の丸太の手すりにぶら下がりながら、まだ眠くないのにと、うらめしそうにしていました。
 仕方なくすごすごと二階に上がった兄たちは、部屋いっぱいに敷かれたふとんに入ってからも、笑ったり怒鳴ったり、取っ組み合ったりで、しばらくさわいでいました。
 わたしは父母のふとんの間にはさまれて、二の半の矢がすりのかいまきにくるまって寝ます。夢うつつに、父のほっぺや母の温かでやわらかいほっぺを、嬉しいなあと肌で感じながら。
 その頃になると、三ツ目通りの騒音は静まり、平和で穏やかな夜が更けていきました。

 まもなく、あんな大きな戦争が始まり、予想もしなかった不幸がわたしたち家族を襲ってこようなどとは露知らず、家族八人身を寄せ合って、ささやかながら幸福に充ち足りた生活を送っていました。昭和十五、六年頃までは-。

 昭和8年生まれで国民学校の5年生だったが“かよちゃん”は、昭和20年3月のあの日、静岡県沼津の叔母の家に疎開していた。9日の夜半から10日まで続いた東京大空襲で、父と母、美人だった祖母、長男と次男の兄、そして弟の家族六人を、いっぺんに失う。三男の兄は生き残り、「竿忠」の四代目を継ぐことになる。
 終戦後に親戚をたらい回しにされるが、父の知人で釣り好きだった三遊亭金馬に引き取られるのだった。

 私は、中学生の頃に夏目漱石の本を読むまで、敗戦前の日本について、あまりにも知らな過ぎた。
 意識の中で、昭和20年以前が、ほとんど空白だったとも言える。
 しかし、漱石の本には、私が知らなかった、素晴らしい明治や大正の日本が描かれていた。
 そこには文化の香りが充満していたし、知識人の姿や庶民の暮らしにも、憧れを抱いたものだ。
 「えっ、昔、そんな時代があったの!?」という驚きは、私にとってのカルチャーショックだった。歴史の教科書では分からないものだった。
 

 戦争の悲惨さ、残酷さを語る手法はいろいろあるだろう。

 ご本人の戦争体験そのものを語ることも大事だ。
 根岸の女将さんも、伝え続けている。
 デイリースポーツの8月14日の記事より引用する。
デイリースポーツの該当記事
12歳の年に終戦を迎えた。戦災孤児として生きた自身の体験を語り継ぐことを自分の「使命」と捉え、活動を続けている。終戦から70年の時間が流れ、戦争体験者は減少し、高齢化が進むが、「命がある限り伝えたい」と使命に燃える海老名さんの思いとは-。

 「戦後は生きる戦いでした。食べること、眠る所。もう、夢中でした。戦争は哀しいものです」。12歳で戦災孤児となってからの月日を、海老名さんは静かに語り始めた。
 私は、戦中戦後のことはもちろんだが、戦前の姿を伝えることも重要ではないかと思う。

 あの戦争が起こる前に、実に文化的な香り溢れる生活空間があったことや、金銭的に貧しかろうが心が豊かな人々、そして家族の幸福な姿があった事実、歴史を伝えることも貴重なことだ。

 そういった、大事なもの、人を、容赦なく奪うのが戦争であるという思いが、心の奥に深く沁み込んでくる。 

 そういう意味で、紹介した文章は、戦前の「竿忠の家」のことであっても、十分に反戦の訴えにつながる貴重な記録、記憶だと思う。

 
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by kogotokoubei | 2015-08-19 21:31 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)


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「東京かわら版」サイトの該当ページ

 関内での柳家小満んの会で購入した本から、もう少し。

 本書のための書き下ろしが最終章の「私の母校、堀口大學、運命の縁、吉井勇。」である。

 まず冒頭のみご紹介。

 堀口大學は私にとって、運命であり、母校である。

 そう、「母校」ってのは堀口「大學」のことであり、シャレなのである。
 この後を続ける。

 私の名前に込められた、吉井勇。その吉井勇の影響を受けた堀口大學は、永遠の憧れだし、日本の詩は、堀口大学だけあれば良いとさえ思えるほど焦がれて好き。
 ここまで言い切る堀口大學に密着取材してまとめた関容子の『日本の鶯』(岩波現代文庫)を小満んは、次のように紹介する。

 椿の活け方に一花三葉という教えがあるが、聞き書きの妙とは、正にその辺であるかもしれない。
 大學先生に「人に」という詩がある。

 「人に」
 花はいろ そして匂い
 あなたはこころ
 そして やさしさ


 語り手は花である。“花はいろ そして匂い”
 聞き手書き手の関さんには、“あなたはこころ そして やさしさ”があるのである。
 聞き書きはこうでなくちゃ。

 「日本の鶯」は、女流画家マリー・ローランサンが、若き日の堀口大學にそっと手渡したという詩で、当時の大學を謳ったものに違いない。

 「日本の鶯」
 この鶯 餌はお米です
 歌好きは生まれつきです
 でもやはり小鳥です
 わがままな気紛れから
 わざとさびしく歌います

 私は、この「日本の鶯」を、関さんの他の著作の既著紹介欄から発見し、自称堀口大學ファンの私としては、その著を知らぬうかつを恥じた次第。手間をかけて入手し、浮かれるような気分で読み終えたのち、私も講座で堀口大學先生を語ってみようと思い立ち、演題には「日本の鶯」を拝借した。仲間の噺家連中からは、「速記本にでもあった噺かい・・・・・・」などと訊かれたが、確かに「日本の鶯」とくると、落語にもありそうな題名である。
 関容子さんも来場したその高座がどのようなものだったかは、本書でお確かめのほどを。

 小満んは、堀口大學について、「根が明るい。底抜けに明るい。快楽はひたすら肯定。美酒美食にもバンザイ。人生を謳歌するために、どこまでも前向き。」と賞賛する。
 勉強不足の私は、今から大學に通おう、と思う次第である(^^)

 次は、吉井勇。

 吉井勇に関しては、小満んは、とにかく「固まる」のだ。

 小満んが、文楽に入門して付けてもらった名前の小勇が、吉井勇に由来していることは有名。
 そのあたりのことからご紹介。

 私の名前に、吉井勇先生の名前から一文字付いた件、また吉井先生に関わるエピソードをかいつまんで津綴る。
 黒門町の師匠に入門してから、しばらく名前が付かなかった。普通だったらすぐ付く。名前がないと、呼びつけるにも不便だから、名前がもらえなかったのは、不安だった。自分じゃだめかなって。
 だから最初は“横浜の”って、馬方みたいに呼ばれていた(笑)。これで若造の青春のプライドはきれいさっぱりズタズタ。実に良いものだ。私が入門させてもらった時期が、ちょうど吉井勇先生が逝かれて一年くらい経った頃で、何かのはずみで小勇とつけられた。

 『あばらかべっそん』を読んで名前とその邂逅は知っていたが、作品にふれたことは無かった。いつぞや師匠が吉井先生の京都に電話した際には、電話口から奥さんに挨拶をしたけれど、当時は何も話せやしない。

 受話器を持ったまま固まっている姿が目に浮かぶ。
 固まる経験は、その後にもあったようだ.

 以前、師匠と、橘ノ圓都さんの米寿記念の落語会(1970年5月、於・宮川町歌舞練場)で、師匠のお供で京都に行った際、“吉井先生のお宅にいくから、お前のつれていく”と、師匠のお供でご挨拶に伺ったことがある。

 石段を二、三段あがった所に玄関がある屋敷。師匠は到着前から“玄関で失礼するから”と言っていた。
 奥様に“これが小勇でございます”とご紹介を頂いたけど、こっちはただ固まっているだけ・・・・・・。

 そんな吉井勇について、次のような文章があった。

 吉井勇をいま、著作で案内するのは難しい。全集、歌集はある。気違い馬楽、盲の小せんとか、そういう風狂な噺家の生き様を小説『句楽の手紙』『師走空』『蝶花楼物語』等に描いている。私はその世界にぞっこんほれこんでいた。噺家の血が騒いだのか、破滅していった風流人と同じことをやりたくて仕方がなかった。
 
 小満んが、そんな気持ちでいたのか・・・と意外な思いもしたが、よ~く考えると、時折江戸っ子の啖呵ですごんでみせる高座には、そういった噺家の血が小満んに流れているのだなぁ、と分かるような気がする。


 堀口大學、吉井勇については、まだまだ興味深いことが書かれている。

 もちろん、全体として、「酒・肴・人・噺」に関する“ご馳走”がてんこ盛り。

 この本、そのご馳走の味が実に深いし、後味が良い。

 あらためて、落語愛好家の方のみならず、お奨めします。


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by kogotokoubei | 2015-07-25 16:55 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
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「東京かわら版」サイトの該当ページ

 関内での柳家小満んの会の出張販売で購入した本。編集人の田村さん自ら販売されていた。
 
 東京かわら版が、今年五月に同時二冊刊行した新書は、一冊は長井好弘著のもので、もう一冊がこの本。

 まだ、Amazonには載っていなかったので、上記のリンク先は東京かわら版のサイトである。

 「東京人」や東京有名百味会の「百味」など、さまざまな雑誌や会報などに掲載されてきた内容を編集したもの。

 東京かわら版のサイトにある宣伝文を引用。
多くの雑誌に発表された原稿を再構成し、書きおろしも加えました。とても美味しそうな食べ物の描写、様々な食(酒・肴)の蘊蓄に加え、小満んが出逢った、人、アートへの思いも綴られました。堀口大學、吉井勇への思いも披露されています。収録された48篇のエッセイは、博識の小満んならではの、気品ある世界観を堪能出来る非常に貴重な内容。ゆったりとした読み心地が、なんとも気分の良い一冊です。小満んの素敵な俳句、イラストも掲載しています。

 このように書かれているように、必ずしも「食」のみに関する内容ではなく、幅広いテーマについて書かれたエッセイ集と思った方がよいだろう。
 副題の「酒・肴・人・噺」とあるのが、読みながら頷ける。

 当初「落語の本」のカテゴリーにしようと思っていたが、読了後は、「今週の一冊、あるいは二冊」が相応しいと思った。

 なぜか・・・・・・。

 私は、この本で初めて香月泰男という画家を知った。

 沼津の文化を語る会が発行している「沼声」に掲載された内容をご紹介。
 香月は山口出身なのだが、それも良し、としよう。


 命の豆の木

 香月泰男の画境はシベリア抑留の日々が魂となって昇華したものに違いない。
 山口県大津郡三隅町にある町立「香月美術館」へはすでに数回立ち寄っており、軽いタッチの明るい作品や、戦前の各種入選作にも親しみを覚えるのだが、やはり、あの重厚な黒基調としたシベリア・シリーズの作品には、切々たる命の叫びを感じて、背筋を正さずにはいられない。
 シベリアでの抑留生活の過酷さ、悲惨さは想像を絶したようだが、香月泰男を画家とし知ったロシア兵は、絵具のないまま収容所の壁にスターリンの肖像画を画けと命じ、そこから生まれたのが煙や廃油で作った黒の絵具で、復員後、数多の非難を押し切って、独自の黒絵具を使って画き続けたシベリア・シリーズは、かつて類のない美の世界を創り上げたのだった。
 シベリアから持ち帰った命の糧であった豆の何粒から“サン・ジュアン”の木となって、美術館の庭にも植えられている。

 シベリア・シリーズ57点は、遺族により45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、1979年開館の山口県立美術館に展示されているようだ。

 小満んが数回訪れたという香月泰男美術館は、三隅町が現在は長門市になったので、長門市の管理である。
 サイトによると、現在「香月泰男 海・山 展」が開催されているようだ。
香月泰男美術館のサイト
 同サイトには、次のような奥さんの言葉が紹介されている。

  主人は口下手でしたから
  シベリヤでの体験は絵で語るしか
  なかったのでしょう。


 山口県立美術館のサイトからプロフィールをご紹介。
山口県立美術館サイトの該当ページ


三隅町(現:長門市三隅)出身。東京美術学校卒業。国画会を中心に数多くの展覧会に出品。最初期は梅原龍三郎の影響を受けた作風であったが、徐々に透明な色調の独自の作風を確立。1943年に応召、シベリア抑留を経て47年帰国。戦後、シベリア抑留体験テーマに<シベリア・シリーズ>を発表し、1950年代末から炭と方解末を使った材質感あるモノクロームの画面と、深い人間性の洞察をふまえた制作で著名になる。1974年3月8日死去。62歳

 昨年、没後40年記念展が開かれたようだ。美術館のサイトのページの「原画から探る、シベリア・シリーズ」が、実に興味深い。
「山口県立美術館」サイトの該当ページ

 山口県のサイトに「北へ西へ」が掲載してあったので、お借りした。
山口県サイトの該当ページ

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 ソ連兵から「帰国する」と言われながら,祖国とは違う方向(北、西)へ向かう列車に乗せられた、日本軍捕虜たちの不安感や絶望感の高まりを描いたものだ。

 この本には、数多くの食、酒、肴のご馳走のことが、小満んならではの文章と自作、他作を含む多くの俳句、川柳などを交えて書かれているが、私は香月泰男について書かれたこの短い文章を、まっさきに紹介したいと思った。

 もちろん、絵画なので、‘見る’ご馳走ということで本書に加わったのだろう。
 しかし、ご馳走として味わえるかどうかは、その人の味覚次第でもある。
 この人類にとって貴重なご馳走を、同じ山口出身のあの男は味わうことができるだろうか。

 そもそも、安倍晋三は、香月泰男と彼が描いたシベリアを、さて、知っているのだろうか。

 昨今、噺家さんによっては、マクラで時事的な風刺をふって本編に入る方も少なくない。
 その舌鋒が似合うのは、やはり、それ相応の年齢、見識がある噺家さんだ。

 小満んは、ほとんど、時事的な要素をマクラでは含まず、あくまで、噺の内容に沿った俳句や川柳などをふって、江戸の香りを漂わせて本編に誘い込む。
 きっと、江戸の噺をするのに、平成の世の雑音は野暮、と思っているような気がする。

 しかし、このエッセイ集の小品を読むだけでも、小満んの戦争に関する思いは、しっかり伝わってくる。

 過去から現在にかけて、多くの学者、作家、芸術家、一般庶民が、それぞれの経験や考えから反戦を訴えてきた。
 敗戦から70年。もう70年、あるいは、まだ、70年。
 江戸から明治維新、日清、日露の戦争、そして太平洋戦争という歴史の中で記された貴重な反戦へのメッセージを、埋没させてはならないと思う。
 もちろん、香月泰男という画家も、その中に入るだろう。
 私のような者を含め、一人でも多くの方が知ることは大事だと思う。
 小満んと編集の田村さん、東京かわら版に感謝したい。
 
 本書には、もちろん、楽しく読める食べ物のネタなども豊富だ。「寄席がハネたら行きたい店」など、涎が出てきた。
 しかし、ところどころに、こういった食とは違う‘ご馳走’が挟まれているのが、程よいアクセントになっている。

 小満んと料理人や陶芸作家、漆芸家などとの交流や、同好の士との舟遊びや旅行記なども楽しい。
 この本のための書き下ろし、「私の母校、堀口大学。宿命の縁、吉井勇。」も貴重だ。

 そのどれもが、小満んの別な著作のお題を借りるなら、「べけんや」なのだ。
 
 こういう本こそ、売れて欲しいと思う。

 
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by kogotokoubei | 2015-07-24 21:26 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛