噺の話

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カテゴリ:今週の一冊、あるいは二冊。( 69 )

 積んであった本を読み、野暮用で行けなかった落語会を思い出した。


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森まゆみ著『明治東京畸人傳』(新潮文庫)
 その本は森まゆみさんの『明治東京畸人傳』。
 平成八年単行本、平成十一年の文庫化。森さんの住んでいる‘谷根千’近辺に縁のある人々について書かれた本。
 積ん読の中の一冊だった。

 読み始めて思い出した、行けなかった落語会というのは、4月29日に国立演芸場で開催された、むかし家今松独演会。

 森さんの本を、最初に「円朝・谷根千めぐり」の章から読み始めたのだが、こんな文章に遭遇。
 『怪談牡丹燈籠』の舞台について書かれた後の部分。

 新幡随院の向い側に大円寺という日蓮宗の寺があり、ここでは毎年十月十五日菊まつりが開かれている。境内に笠森稲荷があり、永井荷風による笠森お仙の碑、笹川臨風による鈴木春信の碑があることでも知られる。
「藤川庄三郎、彼(か)の大西徳蔵という車屋に供させて、人力でどっとと降(くだ)る中を谷中の笠森稲荷の手前の横町を曲がって、上にも笠森稲荷というのがありますが、下のほうがなにか瘡毒の願いが効くとか申して女郎衆やなにかがよくお参りにまいって、泥でこしらえたる団子を上げます。あの横町をまっすぐに行き右へ登ると七面坂、左が蛍沢、宗林寺という法華寺があります。その狭い横町をずうっと抜けると田んぼに出て、むこうがずっと駒込のほうの山の手に続き、かすかにまだ藪蕎麦の燈火が残っている。田んぼ道で車の輪がはまってなかなか引きません」
 これは明治四、五年まだ開けない時分の話を断わった語りおろし『松と藤芸妓の替紋』の一節だが当時の情景をほうふつさせる。

 ここまで読んで、「ありゃ、今松が独演会でネタ出ししていた、珍しい噺じゃないか!?」と心の中で叫んだのであった。
 居残り会仲間のIさんから、実に良い高座だったとメールを頂戴したことも思い出し、悔しさが込み上げてきた。

 この後には、その悔しさを倍加させる文章が続いている。
 人力車、フランケット、素敵(ステッキ)、ざんぎり頭などが登場するところが新奇だが、戊辰戦争で生き別れになった会津藩士の兄と妹、元旗本ながら車夫に身を落とした兄と横浜でラシャメンになった妹、二組の運命というところも時代である。

 まさに、実に私にとって興味深い時代背景と舞台設定。

 あの落語会は行けないことが事前にはっきりしていたので、円朝の原作を読むこともなかったが、そういう噺でしたか・・・・・・。

 この本を読んで、未練がましく行けなかった会のことを思い出した次第である。

 師走の末広亭で短縮版でいいので演ってくれないかなぁ。
 無理だろうなぁ。

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by kogotokoubei | 2017-05-20 15:20 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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磯田道史著『徳川がつくった先進国日本』

 著者の磯田道史は、最近ではずいぶん名が通ってきたと思う。

 『武士の家計簿』、『無私の日本人』(映画タイトル「殿、利息でござる」)の二つの著作は映画化された。
 BSプレミアム「英雄たちの選択」のレギュラー出演者。

 出版されてすぐ『武士の家計簿』を読んで、新しいタイプの歴史学者の誕生を喜んだが、まさか、こんなに“売れる”とは思わなかった。

 私が読んだ『殿様の通信簿』や『龍馬史』なども発行されている文春文庫から今年1月に出た『徳川がつくった先進国日本』は、2012年1月にNHK出版から刊行された『NHKさかのぼり日本史⑥江戸 “天下泰平”の礎』の文庫化。Eテレで2011年10月に放送された内容の書籍化だ。
 
 歴史時代の地震津波を研究する「歴史地震研究会」の会員でもある磯田が発案した番組は見逃したが、この本で読むことで、なるほど3.11の後に組まれた好企画だったのだなぁ、と思った次第。

 「第3章 宝永地震 成熟社会への転換 1707年(宝永四年)」から引用したい。

  ターニングポイント③
          1707|宝永の地震・津波
             富士山噴火
          1716|徳川吉宗、将軍となる
          1717|大岡忠相を江戸町奉行に登用
          1722|上米制、新田開発を奨励する
          1742|公事方御定書の完成

 第2章では、天明の大飢饉という未曾有の危機を経験した幕府や諸藩が、それまでの純粋に軍事政権的な性格を変質させて、「民を守る」という政治意識を醸成して、福祉を国家あるいは政府の役割として認識していったことに注目しました。それは「民政」を重んじる政治への転換と言えるでしょう。
 (中 略)
 時代のターニングポイントとして注目したいのは、宝永四年(1707年)に起きた宝永地震と、その地震がもたらした巨大津波です。2011年3月、東日本大地震によって東北・北関東は人類史的な大被害を受けましたが、実はこの宝永地震は、江戸時代最大の地震であり、東日本大震災が起きるまでは、日本史上最大級の大災害でした。地震の揺れだけでなく、沿岸部を襲った津波が甚大な被害をもたらしたということでもこの二つの大地震は共通しています。

 本書では、各地で新田開発が進み、宝永の前十七年間続いた元禄年間に繁栄の時代を迎えていた当時の状況を説明している。

 まさに、バブルの世と似た状況下で、大災害の日に向かっていたのだ。

 さて、大規模な新田開発と背景に右肩上がりの経済成長を続けた江戸時代の社会ですが、この後、国を大きく揺るがす出来事が起こります。
 宝永四年十月四日(新暦では1707年10月28日)に起きた、宝永地震です。この日の午後二時頃、大規模な自信発生帯として知られる南海トラフ(遠州灘沖と紀伊半島から四国沖にかけての浅い海底の溝)を震源地とする巨大地震が発生しました。マグニチュード8.6と推定されていましたが、マグニチュード9とされている東日本大震災との比較研究によって、宝永地震の規模はマグニチュード9.1~9.3の大きさだったとする見解も出されています。
 この巨大地震はまた日本を襲うはずで、その時期やエネルギーを考える場合には、震源地のとくに両端、静岡県と愛媛・宮崎県に残った地震史料が特に重要になります。国民の命のかかっている話ですから、微力ながら、私もライフワークとしてこの地震古文書調査をしていくつもりです。

 マグニチュードの数字からも、宝永地震のとんでもない大きさが察せられる。

 では、どんな被害が実際にあったのか。

 現在の研究では、宝永地震と巨大津波による全国の死者は少なくとも二万人以上にのぼり、地震による倒壊家屋は六万戸、津波による流失家屋は二万戸に達したとされています。有史以来、最悪の規模の震災だったことは間違いありません。
 死者・行方不明者あわせて約二万と推定される東日本大震災で、私たちは地震と津波の恐ろしさを改めて痛感しました。当時の人びともまた、この宝永の地震と津波から計り知れない恐怖を感じたはずです。

 この大地震、大津波による甚大な被害から、江戸の人々はどう立ち直ろうとしたのか。
 3.11を経験した平成の世とは、実に対照的な“震災後”の姿が、そこにあった。

 戦国時代から幕末にかけての新田開発の件数を表した統計があります(木村礎『近世の新田村』吉川弘文館)。これによると、十七世紀はずっと右肩上がりで新田開発が伸びていますが、十八世紀に入ると、宝永地震のころ、明らかに新田開発が下降線をたどることがよくわかります。日本全国の耕地面積は十六世紀末には二百万町歩だったのが、十八世紀の初めに三百万町歩、十九世紀後半には四百万町歩にまで増えていますが、十八世紀には明らかにその増加率は落ち、この時期は耕地拡大が停滞していたことがうかがえます。
 耕地面積の増加が減ったことで、おのずと人口も減っていきます。歴史人口学の鬼頭宏氏の研究によれば、日本全体の人口は、十七世紀初めから十八世紀初めにかけて約二倍の急増を示していますが、十八世紀の前半から末には、逆に4・5パーセントの減少へ転じています(十八世紀末から十九世紀半ばには8・5パーセントの増加)。まさに現在と重なる、低成長時代の訪れといえるのではないでしょうか。それでは、低成長の時代を迎え、人びとの暮らしはどう変化していったのか。
 この時代、北陸の地で村役人・篤農家として活躍した鹿野小四郎という人物がいます。鹿野は加賀国江沼郡吉崎村(加賀市)の貧農の家に生まれましたが、大聖寺藩より大庄屋に抜擢されました。鹿野は晩年の宝永六年(1709年)に、子孫に向けて農書(農業指導書)の『農事遺書』全五巻を著しました。当時の北陸における農業の実態を伝える貴重な史料ですが、そこには「田の耕起は早くしない方がよい。とくに雪解けが遅かった年はまことによくない」といったかたちで、田の耕し方、病害虫の対処法、稲の刈り方など、自らの実験に基づく科学的な農業の心得が記されています。
 たえず年貢の増加を意図する領主に対し、当時の人びとは自らの取り分を確保するために生産量を上げる努力が求められました。鹿野小四郎は、農業には限りがないことを説き、次のように記しています。
「まさに農の益は計り知れない。物にはすべて限りがある、しかし農業は土地から物を生み出すものであり、やり方によって限りがない」(『農業遺書』)。
 十八世紀以降、人びとは農業の効率を高め、全国で多くの農書が普及していきました。さらに農民たちは農書に学ぶだけでなく、農具の改良にも力を注いでいきます。
 まさに、昭和の日本農業の特徴であり、つい最近までは“強み”とされてきた姿が、宝永の地震と津波から復興するための“知恵”と“努力”として具現化したわけだ。

 その努力の結果、単位面積あたりの生産量は増加し、十七世紀には一反あたり一石ほどだった米の収穫高が、十八世紀以降、最大で二石にまでになった。

 同じ耕地から、できるだけ多くの収穫を得ようとするための“学び”の姿勢は、相乗効果を生んでいく。

 農書の普及とともに農村に浸透していったのが「読み書き」の能力です。人びとは農書を読む力をつけるために寺子屋に通い、読み書きを学びました。江戸時代、日本人の庶民の識字率は世界でも突出したものだったことが知られています。教育の普及と識字率の上昇は、人びとの暮らしに変化をもたらしました。各地では、地域のつながりである「講」が相互扶助や自治機能を高めていきます。
 宝暦十二年(1762年)に、出羽国村山郡の村人たちが作成した「念仏契約講年代鑑」という記録帳簿が残されています。そこには、天候、作柄、市場、災害、一揆、政治、対外関係に至るまで、人びとの生活にかかわるあらゆる情報が記録され、村人の間で共有されていたことがわかっています。十八世紀以降、日本各地の農村では、情報が収集・蓄積され、共有化されることで、村の自治力が高まり、人びとの暮らしの質を充実させていく傾向が見られました。

 同じ日本人として、先人の偉大さに大いに感謝すべき歴史の事実ではないだろうか。

 著者は、この時代の江戸社会が「量的な拡大から質的な充実へ」と価値観の大転換を図り、安定して成熟社会へ向かっていった、と説明する。

 そして、今の日本のことを、どうしても思わないではならない。

 現代に置き換えると、右肩上がりの成長を続けた昭和はまさに「元禄」、その後のバブル崩壊後の平成の低成長時代が「宝永」に当たると言えるのではないでしょうか。宝永以後、江戸時代の人びとは与えられた資源のなかで身の丈にあった豊かさを見出していく努力を続けました。そうした思考の転換を図った徳川社会に、昭和元禄をへて平成宝永を生きる現代人が学ぶことはたくさんある、と私は思うのです。

 まったく同感だ。

 バブル崩壊後、低成長時代と言う言葉が氾濫したものの、現代の日本人はその意味することを、江戸時代の人々のように理解しているのだろうか。
 そして、価値観を転換すべき時に、いったい何をしてきたのだろうか。

 転換すべき契機は、もちろん、3.11だ。

 まさに、喉元過ぎれば、という国民性の通りに、平成の日本人はこの六年間を過ごしてきたのではなかろうか。

 今では、NHKのニュースの中のコーナーなども含め、不要不急な製品の紹介が氾濫している。
 アベノミクスなどというまやかしの言葉を担いで、低成長時代は終わった、とばかりのメディアによる情報発信が続いている。

 違うのだ。
 低成長でいいのだ。それは、量から質への転換の契機であり、学ぶ社会への回帰にもなるはずなのだ。

 3.11以後、いったんは取戻すかと思えた宝永後の江戸の人びとのような真摯な姿勢、相互扶助の精神は、どこに行ったのか。

 “身の丈に合った豊かさ” 

 “量的拡大から質的充実へ” 

 こういった言葉を、江戸時代の先人たちから、あらためて学ぶことが大事なのだろう。
 一つ前の記事で、嘉永五年(1853年)の「親父之小言」について書いたが、平成の日本人は、もっともっと、江戸時代、そして歴史に学ぶ必要があると痛感する。

 江戸時代をもろ手を挙げて礼賛しようとは思わない。
 しかし、「歴史は繰り返す」ことを思うと、せっかく先人たちが残してくれた知恵や営みを見逃すことは、実にもったいないことだと思う。

 そういう意味で、学ぶべきものが江戸時代に多い、ということだろう。

 現代の物質文明との対比で江戸時代は自然と共生した社会、と形容されるが、実は、本書でも指摘されているように、この宝永地震以降、自然との共生社会(エコ社会)、学びと助け合いの社会が醸成されていく。


 歴代の復興大臣に失言が多いのは、本人の適性に問題があるのはもちろんだが、政府が復興を真剣に考えていないこと、復興相という役割を軽視していることの証だろう。

 他の無駄な予算をなんとか回してもらってでも、たとえば、自主避難者の方への支援策を考えるべきなのが、復興大臣の仕事ではないのか。

 地震と津波で、もはや耕地の拡大が見込めない状況下、与えられた狭い耕地から、いかに多くの米を収穫し、国には年貢という税金を支払った上で、自分たち家族が飢えないようにするにはどうすべきかを真剣に学び努力した江戸の先人たちの爪の垢を煎じて飲ませたい人が、永田町には大勢いる。

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by kogotokoubei | 2017-04-19 22:21 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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 高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」を読んだ縁(?)で読み返している『江戸前で笑いたい』が、今さらながら、実に興味深い内容が詰まっていることを再確認している。
 単行本は1997年1月に筑摩書房で発行され、私が読んでいる中公文庫の発行は2001年9月。

 目次を、あらためてご紹介。
 ご覧のように、第一部と第二部が落語、第三部では他の“笑芸”をテーマにしている。
---------------------------------------------------------------------
第一部 やっぱし落語だ!
    口上・・・・・・高田文夫
  笑いと二人旅(前編)・・・・・・・・・・高田文夫
  現代ライバル論(1) 志ん朝と談志・・・・・・・・・・・・・・山藤章二
  現代ライバル論(2) 志ん生と文楽・・・・・・・・・・・・・・玉置 宏
  現代ライバル論(3) 高田文夫と藤志楼・・・・・・・・・・・・森田芳光
  小朝、志の輔とそれに続く若手たち・・・・・・・・・・・・・吉川 潮
  変貌する落語−今こそ、新作落語に注目!・・・・・・・・・・渡辺敏正
  談志論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立川志らく
第二部 中入り
   中入り・・・・・・高田文夫
  志ん生と江戸の笑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鴨下信一/高田文夫
  みんな落語が好き・・・・・・・・・・・・篠山紀信/春風亭昇太/高田文夫
  名人に二代なし?・・・東貴博/三波伸一/柳家花緑(司会・高田文夫)
  浅草芸人寿司屋ばなし・・・・・・・・・・・・・内田榮一(聞き手・高田文夫)

第三部 東京の喜劇人
    口上・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝1  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・永 六輔
  東京喜劇人列伝2  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・小野田勇
  東京喜劇人列伝3  由利 徹・・・・・・・・・・・・・・・高平哲郎
  東京喜劇人列伝4  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・長部日出雄
  東京喜劇人列伝5  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝6  クレージーキャッツ・・・・・・・・・・岸野雄一
  東京喜劇人列伝7  萩本欽一・・・・・・・・・・・・・・・ラサール石井
  東京喜劇人列伝8  ビートたけし・・・・・・・・・・・・・井上まさよし
  東京喜劇人列伝9  イッセー尾形・・・・・・・・・・・・・中野 翠
  東京喜劇人列伝10 伊東四朗・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇
  気分はいつもハードボイルド・・・・・・・・・・・・・・・・内藤 陳
  東京の若手お笑い人 自分好みの芸人になること・・・・・・・水道橋博士
  映画に見る東京ブラック喜劇(ユーモア)人事典・・・・・・・・・快楽亭ブラック
  江戸前的? コミック・ソング・・・・・・・・・・・・・・・大瀧詠一

  笑いと二人旅(後編)・・・・・・・・・・高田文夫
  東京芸人ギャグ・フレーズ年表・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇

  編者あとがき
  文庫版のためのあとがき

  解説  笑芸人
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 第三部、長谷部日出雄さんが書いている東京喜劇人列伝の渥美清の章に、興味深い対談が紹介されている。なお、この文章は『東京人』の1995年7月号が初出。

 対談部分の紹介の少し前の部分を、まず引用。

『男はつらいよ』の第一作を撮る前年に、吉行淳之介さんが「週刊アサヒ芸能」でやっている対談に、ゲストで来られた渥美さんの話を、整理者として横で聞いたことがある。
 独特の話術から、この人の本質は、
 -語る詩人、話す短編小説家。
 なんじゃないかな・・・・・・と、そのときおもった。

 浅草時代、渥美さんは結核で数年の療養生活を余儀なくされた。入院した埼玉県の小さな病院について、こんな風に語る。
 -廃工場の跡だから殺風景でね、ことにこっちは病んでいるから、見るものにすぐ感じるでしょう。風船爆弾つくっていたところだから、天井が高い。そこから機械を回すベルトの切れたやつがぶら下がっていて、風が吹くとそいつがピターン、ピターンと鳴る。その下を患者がゲタはいて歩いているのが、もうなんとも空しくてねえ。いまでも、芝居が済んだあと、風の音を聞くと、すぐその光景につながるんです。・・・・・・
 文章には出ない声質と間合いの変化をふくめて、この話を聞いていおると、ピターン、ピターンという音が本当に耳に響き、そこに漂う虚無感が、肌に迫ってくる気がするのである。

 渥美清については、小林信彦の『おかしな男』について、過去に記事を書いている。
 2015年6月に「車寅次郎と渥美清と田所康雄」と題して三回に分かけ書いたものと、昨年、同書巻末にある小林と小沢昭一さんの対談についての記事もある。
2015年6月9日のブログ
2015年6月14日のブログ
2015年6月21日のブログ
2016年8月6日のブログ

 しかし、この“ピターン、ピターン”という音の思い出のことは、小林の本からは知ることができなかった。

 あの映画を撮る前、風の音を聞いた時の田所康雄の心象風景についての、貴重な記録だ。

 引用を続ける。

 病院ではたくさんの患者が死ぬ。霊柩車がないので、リヤカーに棺桶を載せて運ぶのだが・・・・・・。
渥美 前の道をずっと左へ行くと、煉瓦を積んだ焼き場がある。右へ行くと駅がある。だから新しい患者が入ってくると、看護婦が「あの人は右だよ」とか「左だよ」なんていっていた。
吉行 丁か半か、だね。
渥美 その左の道を、何度も送って行った。そのときは、ほんとうにあたりまえのことだけど、死んじゃあいけないなあとおもいましたね。・・・・・・
 この病院が、どんな最高学府でも教えてくれない人生の深淵を覗かせてくれた、渥美さんの大学だったのだろう。
 数年の療養生活で、渥美さんはこの世の涯まで行き、見るべきほどのことは見てしまった。
 そしていわば、祇園精舎の鐘の声・・・・・・の無常感を体に染み込ませて、娑婆へ還ってきたのに違いない。


 車寅次郎のこと、そして渥美清のことを思う時に、結核病棟の田所康雄の姿に思いが至る人は、ほとんどいないだろう。

 かつて“不治の病”と言われた結核病棟の外、右は駅、左は火葬場という状況で、「俺は、どっちに行くことになるのだろう・・・・・・」と言う思いに毎日さいなまされていた田所康雄の姿を想像すると、とても、その後の寅次郎をイメージすることはできない。

『驟雨』で芥川賞を受賞する前に、肺結核で肺を切除している対談相手の吉行淳之介には、他の人よりも渥美の体験を共感できる要素はあったのかもしれない。

 あるいは、吉行だから、渥美が明かしたのだろうか。

 昨年の命日近く8月3日に放送されたNHK BSプレミアムのアナザーストーリーズ「映画“男はつらいよ”~寅さん誕生 知られざるドラマ~」を観た。

 あの番組では、先にテレビ版を作った当時のフジテレビ制作スタッフの証言なども興味深くはあったが、何と言っても、渥美清こと田所康雄と結核療養所で同じ病室にいた梅村三郎さんのお話が貴重だった。

 記事でも紹介したが、あの時、片肺を切除し絶望と闘いながらも、もし生き残って病院から右の駅に向かって娑婆に戻れたとしても、もう体を張ったドタバタは無理と観念した田所康雄が、懸命に香具師の啖呵売の稽古をしている姿を、梅村さんは目撃している。
2016年8月5日のブログ

 少し、話が暗くなってきたの、この後に続く部分を引用する。
 この対談の翌年の夏に封切られた、記念すべき『男はつらいよ』第一作の批評を、ばくは「キネマ旬報」に、こんな風に書いた。
 この映画でいちばん笑ったのは、つぎのようなギャグだ。京都で、帝釈天の御前様(笠智衆)とお嬢さん(光本幸子)に会った寅次郎(渥美清)は、二人の写真を撮ろうとして、御前様に「笑ってください」と頼む。すると御前様はなぜか「バター」という。「チーズ」というところを、間違って覚えていたのだ。
 この場面は「考えオチ」だから、そんなにおかしくはない。爆笑させられるのは、これが伏線となって、あとにくるシーンー。
 妹さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚式で、記念写真を撮る段になったとき、こんどは紋服に威儀正した寅次郎が、大きく口を開けて「バター」という。
 山田監督は好んで単純な人物を主人公に取り上げる。単純な人間というのは、固定観念に取り憑かれている存在で、これまでの山田喜劇の主人公であったハナ肇の役とおなじように、渥美が演ずる寅次郎も、おもいこんだら命懸け、いったんこうと決めたら、二度とその考えを変えず、写真を撮られるときは「バター」というもの、と信じて疑わない人物だ。かれが「バター」という一瞬には、そうした寅次郎の全存在が凝縮されていた。・・・・・・
 笑いとよく知る名監督が、計算しぬいた二段構えのギャグで、絶妙のタイミングでそれを演じたのが、千分の一秒まで間合いを測れる天才的な喜劇役者なのだから、堪ったもんじゃない。物の見事に意表を突かれ、同時にハタと腑に落ちて、引っ繰り返って爆笑せずにはいられなかた。
 いまでは伝説となった、この歴史的なギャグの大成功が、『男はつらいよ』をギネス物の長寿シリーズにするのに、決定的な役割を果たしたのに違いないとおもう。

 さくらの結婚式で寅が「バター」とやった時、御前様は不思議な顔をする。
 「元ネタはあんたでしょ」と突っ込みたくなるね^^

 私には、長谷部さんほど、「バター」のギャグへの深い洞察力はない。
 というか、正直なところ、あの「バター」というギャグに長寿シリーズとなる“決定的”な役割を見出すというのは、さて、どうなのか・・・・・・。
 
 とはいうものの、第一作の作品全体に、続編を作らせるに足るだけの要素が充満していたことは、間違いはない。

 そして、何と言っても、第一作のオープニングは、江戸川に桜が咲いている中、車寅次郎が二十年ぶりに帰って来る場面、まさに今これからの季節。

 桜を見て思うことは人それぞれ違うだろうが、概ね、入学や入社などの時機であり、冬から春本番という、気持ちが明るくなるような思い出が浮かぶ人が多いのではなかろうか。

 桜の花びらを風で飛ばすようになっても、それこそ風流とばかり花見をする人もいるだろう。
 しかし、紹介した対談は第一回を撮影する前年に行われた。

 桜に吹く風の音で、寅さんでも渥美清でもない田所康雄の耳には、あの「ピターン、ピターン」という音がこだましていたのかもしれない。

 田所康雄が渥美清としての地位を確固なものとし、車寅次郎になり切って、風が吹く日でも「ピターン、ピターン」という音が響かなくなったのは、シリーズのいつの頃なのだろうか。

 あるいは、全48作を通して、あの音は消え去ることがなかったのだろうか。

 没後二十年を超え、ますます、一人の人間における、車寅次郎、渥美清、そして田所康雄の所在位置のことに思いが至るのだった。

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by kogotokoubei | 2017-03-31 22:25 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)
 3月26日に、NHK FMの「日曜喫茶室」が終了した。
 録音していた内容を、昨日と今日の通勤時間に聴き、なんとも言えない虚脱感に襲われている。

 はかま満緒さんが亡くなったとはいえ、40年に渡る豊富なライブラリーから選ばれた過去の放送を楽しんでいたのだ。

 最終回、藤本義一さんが語る川島雄三の思い出や、昨年亡くなった江戸家猫八(出演時は小猫)と三宮麻由子さんの鳥の声に関する対談は、実に結構だった。

 まだまだ、聴いていない貴重な音源の宝庫だろうと思うと、終了が寂しくて・・・・・・。

 また、高田文夫の本を読んでいたので、はかま満緒さんや高田文夫という、「笑芸」に関する“目利き”“語り部”“作者”の存在の大きさにも思いが至った。

 “笑芸”作家として、かたやあの林家三平を、かたやビートたけしを支えてきたことや、ラジオで人気長寿番組を持っていたことも、共通する。


 さて、いつものように、私の読書は芋づる式。

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 高田文夫の「誰も書けなかった『笑芸論』」を読んで、彼が編集した『江戸前で笑いたい』を読み返していた。


 この本については、ブログを初めて間もなくの2008年9月に記事を書いた。
2008年9月6日のブログ

 目次をご紹介。
 ご覧のように、第一部と第二部が落語、第三部では他の“笑芸”をテーマにしている。
---------------------------------------------------------------------
第一部 やっぱし落語だ!
    口上・・・・・・高田文夫
  笑いと二人旅(前編)・・・・・・・・・・高田文夫
  現代ライバル論(1) 志ん朝と談志・・・・・・・・・・・・・・山藤章二
  現代ライバル論(2) 志ん生と文楽・・・・・・・・・・・・・・玉置 宏
  現代ライバル論(3) 高田文夫と藤志楼・・・・・・・・・・・・森田芳光
  小朝、志の輔とそれに続く若手たち・・・・・・・・・・・・・吉川 潮
  変貌する落語−今こそ、新作落語に注目!・・・・・・・・・・渡辺敏正
  談志論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・立川志らく
第二部 中入り
   中入り・・・・・・高田文夫
  志ん生と江戸の笑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鴨下信一/高田文夫
  みんな落語が好き・・・・・・・・・・・・篠山紀信/春風亭昇太/高田文夫
  名人に二代なし?・・・東貴博/三波伸一/柳家花緑(司会・高田文夫)
  浅草芸人寿司屋ばなし・・・・・・・・・・・・・内田榮一(聞き手・高田文夫)

第三部 東京の喜劇人
    口上・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝1  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・永 六輔
  東京喜劇人列伝2  三木のり平・・・・・・・・・・・・・・小野田勇
  東京喜劇人列伝3  由利 徹・・・・・・・・・・・・・・・高平哲郎
  東京喜劇人列伝4  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・長部日出雄
  東京喜劇人列伝5  渥美 清・・・・・・・・・・・・・・・高田文夫
  東京喜劇人列伝6  クレージーキャッツ・・・・・・・・・・岸野雄一
  東京喜劇人列伝7  萩本欽一・・・・・・・・・・・・・・・ラサール石井
  東京喜劇人列伝8  ビートたけし・・・・・・・・・・・・・井上まさよし
  東京喜劇人列伝9  イッセー尾形・・・・・・・・・・・・・中野 翠
  東京喜劇人列伝10 伊東四朗・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇
  気分はいつもハードボイルド・・・・・・・・・・・・・・・・内藤 陳
  東京の若手お笑い人 自分好みの芸人になること・・・・・・・水道橋博士
  映画に見る東京ブラック喜劇(ユーモア)人事典・・・・・・・・・快楽亭ブラック
  江戸前的? コミック・ソング・・・・・・・・・・・・・・・大瀧詠一

  笑いと二人旅(後編)・・・・・・・・・・高田文夫
  東京芸人ギャグ・フレーズ年表・・・・・・・・・・・・・・・西条 昇

  編者あとがき
  文庫版のためのあとがき

  解説  笑芸人
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 単行本は1997年1月に筑摩書房で発行され、この中公文庫発行は2001年9月。

 書き下ろし、語り下ろしもあるが、『東京人』などに初出の内容の再録が中心の本。

 なかなか、高田文夫の編集のセンスの良さが見受けられる、落語好き、お笑い好きには実に楽しい本だ。

 読み返してみて、落語家や芸人さんへの懐かしさと、最初にこの本を読んだ時の懐かしさの二重のノスタルジーに浸ってしまった。

 「中入り」で高田文夫は、こう書いている。

まずは私が尊敬してやまないTBSの演出家、“芸”の事を話したらこの人の右に出る人は三人も居るという、あの鴨下信一氏です。
 下町育ちの歯切れのよさを堪能してください。 
 東京人の先輩と後輩が共通して愛する人、志ん生とビートたけしについてじっくり語り合いました。
 この日、呑み屋を三軒ハシゴしたのは言うまでもありません。

 さて、その呑み屋のハシゴの成果(?)を少しご紹介。

鴨下 TBSには出口(一雄)さんという人がいて、ひじょうに落語に力を入れていた。高田さんなんかは、林家三平からはいった世代ですか。
高田 そうですね。ぼくは若き日の三平、立川談志を追いかけまわして、次第に円生に近づき、ありがたいことに志ん生と文楽の生前に間に合いました。でも、やっぱりライブの楽しさは三平さんですね。あの魅力は客席で観ていると、もう最高。だから、志ん生、三平のいいとろこが、みんなたけしさんに入ってますよね。
鴨下 たけしさんのギャグというのは意外に古典的なんですよね。
高田 そう、彼は落語が好きで、ヒマさえあればよく落語のテープを聞いてますよ。
鴨下 彼のギャグのネタそのものは新しいけど、言い回しはクラシックですね。それは志ん生にそっくりです。
 ぼくは放送局(TBS)に入った時、客席の中継なんかをずっとやっていたんです。その時、月の家円鏡(現・円蔵)が、やらなきゃいいのに『四段目』をやったんです(笑)。ぼく黒門町から教わったのかと思ったら、円鏡さんのはちょっと違う、いったいどうしたのと聞いたら、志ん生さんから聞いた噺だと言うんです。へえーと思った、落語家というのは割合自由で、師匠からの噺だけをやらなくてもいいんだね。
高田 そうです。出稽古といって、よそに行って、そこで教われば自分のものにしていいんです。勝手に盗んじゃいけませんが。
鴨下 芝居好きの小僧がお仕置きで土蔵に閉じ込められる、腹へった、腹へったと、円鏡さんはそこがとっても上手なんですよ。それは志ん生師匠からの写しで、「他のことはどうでもいい、腹へったことだけやれ」と言われたらしい。
高田 なるほど、テーマだけなんですね。この噺は飢えなんだと。
鴨下 後々いろいろと聞くと、みんなそういう教え方なんですね。例えば『時そば』なら蕎麦の食い方とか細かい仕種なんかどうでもいい、騙しなさいと教える。そっちのテーマさえしっかりしてればいい。
高田 ずばっと本質を摑まえれば、あとはどうでもいいんだと。

 再読して、こんな対談があったんだ、なんて驚いていた。

 その円蔵も旅立った。志ん生仕込みの『四段目』、聴きたかったなぁ。

 鴨下さんは昭和10年生まれでご健在。
 あの「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などの名ドラマを演出した人だ。

 「日曜喫茶室」の過去のデータを見ると、何度か出演されているんだよねぇ。
 はかま満緒さんの絶妙な進行で、鴨下さんがどんなことを語っていたか、気になるなぁ。


 本書を再読して印象に残ったものについては、今後書くつもり。

 この本の目次を眺めても分かることだが、かつては、噺家にしても、他の“笑芸”にしても、“キラ星のごとく”人材が豊富だった。

 そして、それぞれの芸人について語っている人の名も、錚々たるものだ。
 芸の良さ、本質が分かる人も、多かった。

 それに比べて・・・と思う。

 
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by kogotokoubei | 2017-03-29 22:36 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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高田文夫著「誰も書けなかった『笑芸論』」(講談社文庫)

 先に、古今亭志ん朝の部分をつい記事にしたが、この本、初版は2015年の講談社からの単行本。
 私は加筆・修正されて3月15日初版の文庫で、初めて読んだ次第。

 目次を、あらためてご紹介。
----------------------------------------------------
 開口一番
第一章 体験的「笑芸」六十年史
 はじめに
森繁久彌
三木のり平
青島幸男
渥美 清
林家三平
永 六輔
古今亭志ん朝
森田芳光
立川談志
三波伸介
景山民夫
大瀧詠一
坂本 九

番外編 
 脱線トリオ
 ハナ肇とクレージーキャッツ
 コント55号
 ザ・ドリフターズ

第二章 ビートたけし誕生

第三章 自伝的「東京笑芸論」

 秘蔵フォトアルバム
 はみ出しフォトアルバム
 文庫版の為のあとがき
 解説ー高田文夫になれなかった 宮藤官九郎
----------------------------------------------------


 「第三章 自伝的『東京笑芸論』について、「開口一番」で次のように説明されている。

 一冊の本にするには「小説現代」の連載分だけでは物足らず、この度、この“第三章”はなんと2015年の正月休みに一気に書く下ろしました。私の書き下ろしは珍しいです。

 この描き下ろしの第三章、年齢も違えば生まれ育ちも違う私なのだが、妙に同じような少年時代の体験をしていていることが分かり、共感できる部分が多い。

 たとえば、“一日幼稚園体験”。
 ちなみに高田は渋谷で生まれ、五歳で千歳船橋に引っ越している。

 幼稚園へは一日だけ行ったが、いじめられて泣いて帰ってきた姿を見て、母親が、「そんな嫌な奴が居る処へか行く事ァない。幼稚園なんか行かなくたって人生大丈夫だよ」
 そのひと言で呑気に過ごした。我々の世代、幼稚園行ってない人も多かったような気がする。

 実は私も、幼稚園は一日しか行かなかった。
 隣町の幼稚園で、その近くに住むお金持ちの家の子どもが偉そうにして、たとえば、砂場で遊ぼうとしたら、「そこは、俺の場所だ」とかなんとか言って、遊ばせてくれなかった。
 隣町なので、いつも泥だらけで一緒に遊んでいた仲間もいなかった。
 そして、幼稚園には私の時代も、誰もが通っていたわけでもない。
 その日、高田のように泣いて帰ったわけではないが、翌日いったん行く素振りを見せて家を出たものの途中で引き返してきて「行きたくない」と言ったら、「そんなに嫌なら行かなくていい」と母親が許してくれた。
 それ以来、仲の良い近所の友達(悪ガキ?)達ともっぱら遊んだ。
 缶蹴りにタカタカ鬼、S陣取り、チャンバラごっこ、などなど。

 小学校は、そういった顔見知りの友達も周りにいて、行くのが楽しくてしょうがなかったなぁ。

 私にとっても懐かしいテレビ番組の名を発見。
 私の家の前では、いつも「少年ジェット」のロケをやっていて、お昼の休憩に入ると少年ジェットと敵役のブラックデビルが仲良く弁当を食べ、キャッチボールをしているのを見てショックを受けたりもした。
「本当は仲がいいんだ・・・・・・」と小さくつぶやいた。
 ♪行こうぜ シェーンよ
   とりこになっても負けないぞ
 と元気ハツラツな主題歌。オープニングで愛犬シェーンが買物カゴをくわえ買物に行く酒屋は、我が家がひいきにしていた“石井酒店”。

 「少年ジェット」は、よく覚えている。
 近所の仲間と「少年ジェットごっこ」でも遊んだ。
 黄色いマフラーしたジェットが何人もいて、ブラックデビル役がいない。芝居噺の落語のマクラ、勘平ばかり三十六人、のようなものだ。

 テレビの前に釘づけになって観たものだ。

 引用部分を含め、主題歌のこうだった。

 ♪ 勇気だ力だ 誰にも負けないこの意気だ (ヤー)
  黄色いマフラーは 正義のしるし
  その名はジェット 少年ジェット
  進めジェット 少年ジェット (J! E! T!)
  
  行こうぜシェーンよ とりこになっても負けないぞ
  正しく強いこの快男児
  その名はジェット 少年ジェット
  行こうジェット 少年ジェット (J! E! T!)

 懐かしい^^

 そして、野球体験。
 東映フライヤーズに憧れた悪ガキ達は、少年野球チームを作る。
 私も、小学校入学前は、近所の空き地で三角ベース。小学校に入ってからは、二年生でその仲間たちと野球チームをつくって、憎っくき隣町のチームと試合をしたものだ。
 高田少年達のチームには、すごいコーチ(?)がいた。
時々“花形のお兄ちゃん”がバットを持って現れ、我々「少年シャークス」にノックの嵐を浴びせてくれた。
 このお兄ちゃんこそ誰あろう渋谷の安藤組親分・安藤昇の右腕とも呼ばれた花形敬である。

 へぇ、あの花形敬だよ。
 本田靖春さんが『疵』で書いた、花形だ。
 私は隣町の小学校と試合を重ねたが、高田さんの相手は、あのチームだった。

 花形ノックを受けた小学校の高学年、我々は渋谷は松濤の少年野球チーム“ジャニーズ”と対戦。たしか二戦して二敗している。もうあの頃から何をやってもジャニーズには負けていたのである。
 少年野球で対戦した一、二年後、テレビをつけると彼らは歌っていた。
 そう、あおい輝彦やら飯野おさみでおなじみの四人組、元祖ジャニーズである。

 そうなのだ。ジャニーズは、元々少年野球チームの名前。
 
 さて、高田少年は、野球だけではなく、幅広く活躍していた。

 小学校も三年生くらいになると各学期末に学芸会というか、お楽しみ会の様なものが催された。私は気の合う五人程を集め、口立てで演出をし、一週間位前から毎回毎回稽古にはげんだ。私がリーダーでスリッパの様なものを持ち、これでひっぱたくつっ込みである、一座にアクト講座をするのである。多分、テレビで見たばかりの三木のり平&八波むと志、そして脱線トリオの影響をモロにうけたいたと思う。
 一学期の学芸会、二学期の学芸会、三学期の学芸会と私の作・演出・座長のコント劇団はもの凄い人気となっていき、四年になっても五年になってもこの一座が名物となっていった。

 なるほど、すでに放送作家としての片鱗が小学生であった、ということか。

 私も、学芸会やお楽しみ会で「笑芸」を披露したが、さすがにコント一座までを主宰するには至らず、漫才(てんや・わんや、Wけんじなどの真似)か、一人でべニア板をウクレレに見立て牧伸二の真似をするにとどまっていた。

 とはいえ、中学で卒業生を送る予餞会では、作・演出・座長を務めたので、高田少年の“笑芸”自伝には、他人とは思えない近さを感じてならない。

 “山の手”育ちの高田の寄席初体験は、小学四年生の時、寄席通の友人が、三平を見せてやる、と連れて行ってくれた、新宿末広亭。
 
 第一章の林家三平のページで明かされていることなのだが、第三章でも、こう書いている。
 
 馬の助(早逝)や小さんも出演していた。“山の手小僧”にとって寄席とは上野鈴本でも、浅草演芸ホールでもなく、新宿末広亭なのである。あの建物自体が昔の大人のにおいがして、なんとも魅力的であった。“悪所”の感じもたまらなかった。近所のパチオンコ屋からは守屋浩の「僕は泣いちっち」やら、村田英雄の「人生劇場」が流れていた。

 この感覚も、十分に共有できる。

 池袋の狭い空間も嫌いではないが、私にとって“寄席”としてしっくりくるのは、都内四席の中で、間違いなく末広亭である。

 読んでいるうちに、なぜ私も放送作家にならなかったのか、なんて不思議な思いにかられていた。

 お笑いが好きだった高田文雄(本名)少年時代と、いくつか自分の少年時代が重なり、何度も「そうそう!」なんて相槌を打ちながら読んでいた。

 読了し、なかなか心地よい読後感を味わっている。

 第一章、第二章での個々の芸人さんの高田文夫の思い出や懐かしい写真を含め、私にとっては楽しい書だった。

 もちろん、落語を含む「笑芸」がお好きな方には、お奨めの本と言えるだろう。

 この本からは今後も何度か紹介しようと思っている。

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by kogotokoubei | 2017-03-27 21:18 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

 冷たい雨で、恒例のテニスが休み。

 最近買った本を読んでいた。

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高田文夫著「誰も書けなかった『笑芸論』」(講談社文庫)
 
 講談社文庫で発行されたばかりの高田文夫の本。

 高田文夫の「笑芸」に関する本ということでは、ずいぶん前に、彼が編集した「江戸前で笑いたい」について記事を書いたことがある。
2008年9月6日のブログ

 また、先代の文治について、高田文夫が日刊スポーツに書いていたコラムをまとめた「毎日が大衆芸能」から紹介したことがある。
2013年1月30日のブログ

 この「誰も書けなかった『笑芸論』」は、2012年4月に、不整脈で八時間の心肺停止から奇跡的に助かった後で、リハビリがてら2013年から「小説現代」に連載したコラムと、書き下ろし(第三章)による本。

 真っ先にめくったのが。古今亭志ん朝のページ。

 志ん朝の弟子だった右朝と高田が日大芸術学部の落研で同級だったことは有名な話。
 なんとこのいページの写真は、右朝の葬儀で弔辞を読む志ん朝の姿・・・・・・。
 同じ年の10月1日に、志ん朝も旅立った。

 その志ん朝の葬儀について、新発見。
 
 2001年10月6日、文京区の護国寺での告別式。木遣に先導された棺は江戸前そのものだった。
「名人!」「矢来町!」「朝サマ!」。
 それぞれが心の中で叫んでいた。
 そして静かに、薄く聴き慣れたメロディが流れてきた。なんとサザンオールスターズの曲に送られての出棺だった。あまりにその芸風と生き方にドンピシャで、涙があふれて止まらなかった。
 惣領弟子の志ん五が私に教えてくれた。
「うちのジャリ(娘)が選曲したの。師匠にカラオケ連れてってもらうと、必ずサザン歌うからだって」
 意外だった。言われてみればサザンと志ん朝、おしゃれな青春のにおいがする。

 私にも、この選曲は意外だった。
 好きなジャズなら、さもありなん、だったが。

 ほぼ同世代のサザンは嫌いじゃないが、昭和13年生まれの志ん朝がカラオケでサザンのファンだとは、思わなかった。
 

 以前書いたが、私はしばらく落語を聴くことのない時期があったが、2001年10月1日、その偉大な噺家の旅立ちを契機に、音源を中心に落語をまた聴き、その数年後、かつての赴任地越後ではかなわなかった寄席や落語会に通い始めた。

 だから、護国寺の告別式には行っていない。
 
 行かれた落語ファンの皆さんにとってはご周知のことなのだろうが、本書で初めて志ん朝葬送のBGMを知った次第だ。

 なぜ護国寺だったのか。

 護国寺を選んだのはこの数年前、芝居の師とあおぐ三木のり平先生の葬儀がここでとり行なわれ、とても良かったので自分の時もここでやって欲しいと言い残していたから。

 想い出した。のり平先生のお通夜の清めの席。数ヵ所にビデオが置いてあり、モニターからのり平芝居の名作が次々と流れていた。「らくだの馬さん」やら「文七元結」やら。
 それを観ながら私と高平哲郎が呑んでいるのをみつけた志ん朝師が、「あン、実に弱ったもんで」と例によって鼻を広げながらやって来て、一緒に一杯やりながら、「子の芝居はこうで、この時はこうで」と嬉しそうに教えてくれた。
 志ん朝師は、のり平とジャズが人一倍好きだった。

 この後、高田文夫が学生時代に聴いた「二朝会」の思い出が語られる。
 そして、放送作家となってからの志ん朝との関係などの思い出を語った後、次の言葉で締められている。

 志ん朝がいてくれた豊かな時代、それは我々東京っ子の“若い季節”だったのかおしれない。
 昭和23年生まれの高田文夫は、志ん朝のちょうど十歳年下になる。
 まったくの偶然だが、一昨日の記事で紹介した荒井修さんと同じ年生まれの団塊の世代だ。

 八時間の心肺停止から命を取り戻したのは、天がこの本の内容のように、得難い「笑芸」の記録、記憶を残すことだったのか、などとも思いながら、半分くらいを読み進んだところ。


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by kogotokoubei | 2017-03-26 16:26 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)
 かつて存在し、今は消えつつある下町の季節感あふれる生活の記録として、荒井修さんの『江戸・東京 下町の歳時記』は実に貴重な本だ。
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荒井修著『江戸・東京 下町の歳時記』

 本書は、2010年12月に集英社新書から発行されたが、著者荒井修さんは、私より少し年長の“団塊の世代”で、浅草にある舞扇の老舗、荒井文扇堂の四代目社長さん、だった。
 実は、拙ブログの記事にいただいたコメントで教えていただくまで、荒井さんが昨年二月に亡くなっていたことを知らなかった。

 勘三郎と懇意で、一緒に平成中村座の実現に貢献した荒井さんを、天国から勘三郎が呼んだのか、どうか。

 一周忌にあたっての「しのぶ会」について、東京新聞から紹介したい。
東京新聞の該当記事

浅草の発展に貢献 文扇堂・荒井修さんしのぶ会
2017年3月1日

◆歌舞伎界や地域の300人集まる

 台東区・浅草仲見世の老舗舞扇店「荒井文扇堂」四代目店主、荒井修さんの一周忌を機に二十八日、しのぶ会が近くのホテルで行われた。浅草での歌舞伎公演「平成中村座」を故・十八代中村勘三郎さんとともに実現させるなど、浅草の発展に貢献した荒井さんを慕った歌舞伎界や地域の三百人が集まった。

 発起人代表の浅草観光連盟会長、冨士滋美さん(68)は「長く浅草のことを語り合った仲。あいつは死んでいません。二百年前から生きているようなことを言うやつだったから」と話し、浅草寺が二〇二八年に本尊示現千四百年の節目を迎えることに言及。「そのころには俺たち八十歳だな、とよく話した」としのんだ。

 荒井さんの長男で荒井文扇堂五代目店主の良太さん(37)は「半纏(はんてん)も、基礎ができているから粋な着方ができる、とよく言われた。そんな言葉を常にいえる粋な職人になれるよう精進します」とあいさつした。

 このほか、寛永寺長臈(ちょうろう)の浦井正明さん、作家いとうせいこうさんらがあいさつ。会場には荒井さんが制作した扇子が展示された。

 荒井修さんは昨年二月二十二日、六十七歳で死去した。 (榎本哲也)
 昭和23年生まれ、まさに団塊の世代。
 まだまだ、「二百年前から生きているような」お話を聞かせていただき、読ませていただきたかった人だ。

 先日の小満んの会、絶品の『味噌蔵』のマクラで、「吝嗇家(しわいや)は 七十五日 早く死に」の川柳を小満んがふったが、終演後の居残り会で我々よったりは、なんとか七十五日長生きせんと、初物の初鰹をいただいた。

 その初鰹について、荒井さんの本から引用したい。

 このころは、初鰹の季節でもあります。「初ものを食べると七十五日長生きできる」なんてことを言いますけど、江戸時代に鰹一本買うのにどのぐらいかかるか。
 芝居の好きな人はおわかりでしょう。髪結新三は、「鰹を三分で買う」なんてことを言う。三分ってどのぐらいかっていうと、今のお金で、たぶん四万円ぐらいするだろう。いちばん高いときで、六万四千円だという話もある。初茄子というのも非常に高いんですけどね。
 当時の鰹というのは、陸から江戸へ向かってくるか、海から八挺櫓なんていう八人で漕ぐ舟でもって大急ぎで運んでくるか。早い者勝ちですからね。たとえば1812年(文化九年)は、三月の二十五日に魚河岸に入荷した鰹は全部で七十五本だった。そのうち六本が将軍家へ献上されて、三本は有名な料亭の八百膳が競り落とした。で、残りの八本が魚屋に出るんですけども、そのうちの一本を、三代目・中村歌右衛門が三両で買って、大部屋の役者たちに振る舞った。これは有名な話で、たいへんな評判になったらしいですよ。
「加賀屋っていうのは鰹を買って、弟子にみんな食わせたらしいぞ」って。まあ、この時季は貝はとれるし、うまいものだらけじゃないですか。たまんないよね。
 食べ物でいうと、ほかには千住のねぎや茄子、田端の白瓜、本所の瓜、品川のかぶや目黒のたけのこ、内藤新宿のかぼちゃ、早稲田のみょうがに谷中のしょうが、駒込の茄子に亀戸の大根。とにかく、おいしいものがいっぱいあるわけ。
 それから小松菜。これもね、江戸の人間って早いもの好きじゃない。やっぱり早摘みをつくるんだけど、早摘みだから高いんです。で、やりすぎて、お上が早摘み禁止令を出した。季節感がおかしくなるので、ちゃんと売りなさいっていうことだね。幕府も困ったんでしょう。

 一両が現在の貨幣価値でいくらかというのは時代にもよるし、なかなか簡単ではないのだが、私は一両十二万円で換算しているので、三分は九万円になる。

 とにかく、江戸時代の初鰹は、安いとはいえない。
 しかし、女房を質に入れてでも、という心意気だけは学びたい、なんてぇことは、連れ合いには聞かせたくない^^

 荒井さんが挙げた江戸各地の名物、今でも残っているのは谷中のしょうがくらいかなぁ。
 江戸っ子は、鰹に限らず、美味いものをいち早く食べる、ということに粋を感じていたのだろう。

 チャキチャキの江戸っ子だった荒井さんは、『味噌蔵』の吝嗇家ケチ兵衛のように初鰹や初茄子に金を惜しむような人ではなかっただろう。

 もちろん、勘三郎も三代目歌右衛門のように、中村座の役者たちには気も遣えば、金も使ったことと思う。

 その「七十五日」の積み重ねは決して小さくはなかったはずなのだが・・・・・・。

 しかし、寿命は人智を超えたところで定められるものなのだろう。

 今頃、お二人は高いところから下界を見下ろしながら、どんな初物を肴に一杯やっているのだろうか。

 荒井さんには、もっともっと、江戸の粋を伝えて欲しかったと思う。
 
 本書の「おわりに」で、荒井さんはこう書いている。
 江戸の匂いのする歳時記といっても、役者さんが書いたものや、新吉原に生まれ育った松葉屋の女将さんである福田利子さんが書いた『吉原はこんあ所でございました』(社会思想社刊)などは、個性豊かな世界なので、そのような歳時記に倣って生活してみることはなかなかできません。けれども、あたしの歳時記は現代の人たちにもやってみてもらえるような気がして、「どうです、この季節にはこんなことをやってみませんか」と提案したかったのです。
 史実と違うじゃないか、と思われる方もいらしゃるかもしれませんが、あくまでもあたしが先輩たちから聞いた話ですので、ご容赦いただければ幸いです。

 昔からの歳時記は、一人でも多くの人に体感してもらうことにより生き返るものだと思います。皆さんも、この本の中の一つでも二つでもやってみてください。
 ちょっと江戸人てぇのも、良いと思います。

 福田利子さんの本については、以前記事で紹介した。
2014年6月16日のブログ
 たしかに、良い本なのだが、歳時記とは言えないし、実践できるものだはない。 
 荒井さんはそんなことは百も承知二百も合点で、貴重な本と評価しているのだろう。

 引用して初鰹の前には、潮干狩りのことが、思い出とともに書かれている。
 その最後の部分を紹介したい。

 江戸時代の二月の末から三月ぐらいっていうのは、屋敷勤めの人がお役ご免になったり、戻ってきたりするときなんだね。そうすると、いろいろ奉公していた人が、その奉公先をやめることもあった。そんな季節だから、江戸時代の長屋にも新しい居住者が来る。いなくなったりする人もいるけども、新しく来た人たちと仲良くなるためには、花見だとか潮干狩りって、いちばんいいレクリエーションですよね。そういう、みんなと親しくなる場でもあるんです。これ、いい話だよね。

 そうそう、来週3月30日が旧暦三月三日「上巳(じょうし)の節句」で、この大潮の日、江戸時代では潮干狩りに繰り出し、女の子が白砂を踏んで身を清め、とれたハマグリは栄養分が豊富なので祝いの席に出されたようだ。

 今でも沖縄では旧暦三月三日は「浜下り」(ハマウリ、ハマオリ)と言って、家にこもらず、海に出て干潮を利用して潮干狩りをする。

 旧暦での歳時記、今では沖縄がもっとも江戸時代の風流を残している地と言えないこともない。
 
 また、引用した初鰹の次の部分で、荒井さんは、春彼岸の時季の「六阿弥陀めぐり」のことを説明している。

 そろそろ、散歩には良い陽気になるだろう。
 私も、かつて江戸人たちがそうしたように、じっくりを江戸の名残りをめぐったり、季節にふさわしいものを食べて、自分なりの歳時記を楽しみたいと思っている。

 来週は、ハマグリを食べるぞ、なんて思っている。

 荒井さんが紹介してくれる古き佳き時代の歳時記を、自分なりに実践すること、それが、荒井さんへの供養になるように思うのだ。


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by kogotokoubei | 2017-03-24 21:28 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)
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むのたけじ『99歳一日一言』

 昨年8月に101歳の天寿を全うされた、むのたけじさん。

 むのさんがご子息に遺された色紙を中心に編集され、2013年11月に岩波新書で発行された『99歳一日一言』をめくってみた。

 なお、本書については、巻末に本書の成り立ちについてご子息が説明されている内容を含め、お亡くなりになった翌日の記事で紹介したので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2016年8月22日のブログ


 さて、元旦から今日四日までの言葉は、このようになっている。

  一月一日
拝むなら自分を拝め。
賽銭出すなら自分に渡せ。
自分をいたわれ。
自分こそ一切の原点。

 元旦は行列だったので二日に出直してまで、越後長岡の金峯(きんぷ)神社にお詣りし中途半端な賽銭を投じる前に、読むんだった^^
 というのは冗談として、あくまで自分自身に投資しろ、という言葉として噛みしめたい。

 正月の神頼みに関しては、続きがある。

  一月二日
何かを望むなら、望むにふさわしい行為をすることだ。何かを頼むなら、頼むにふさわしい行為をすることだ。

何万人もの人が一緒くたに述べる願いを受けとめて、その一人ひとりの願いを叶えてやれる人がどこにいますか。お願いの礼金を自分めがけて投げ入れてよこす人の願いを、素直に叶えてやる人がどこにいますか。

 「望むにふさわしい行為」、「頼むにふさわしい行為」・・・深い言葉だなぁ。

  一月三日
おのれを励ます最後の言葉はこれしかあるまい。
「この地球に、オレはこのオレだけだ。がんばれよ、オレ」

自分を救う者は自分であって、他の誰でもないと誰も気付く。
気付く日が必ず来るけど、遅すぎる。
 
 そうそう、春風亭柳昇師匠の有名な言葉を思い出すが、この世界、この地球にオレはオレだけだ。
 「がんばれよ、オレ」と思う。

  一月四日
数百数千の人群れの中にいて、オレは終始キチンと立っていた。人は多数の一単位として生きながら、出るも入るも個体だ。一個体、そこが人間存在の意義と誇りの土台だ。そこをお互いにうんと大切にしなくては。

 むのたけじさんのようにキチンと立っていられるかは別として、なんとか、一個体として、この一年キチンと立っていたいし、それぞれの個人を、互いに大切にしたいものだ


 遅ればせながら四日分をまとめて確認したが、この一年、この本を毎日めくるつもりだ。


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by kogotokoubei | 2017-01-04 19:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)
 秋彼岸の中日、秋分の日の休日。
 久しぶりに連れ合いと駅二つ隣りの町で昼食をとってから、馴染みの古書店へ。

 芸能関係のコーナーで、欲しかったはかま満緒さんの本を発見。
 
 いきなり、ご挨拶代わり(?)に、本書から一つご紹介。

<プレーボーイ>
「君は、うちに泊っている間に娘に子供をつくらせたな、男なら男らしく結婚しろ」
「お父さん、ボクも男です、結婚します」
「その言葉を待っていた」
「で、七人いらっしゃるお嬢さんの、どの方が妊娠しましたんです?」

 すごい豪の者がいたものだ^^

 せっかくなので(?)、もう一つ。
<ある平社員>
「社長、お呼びですか?」
「君はまた酒で失敗したそうだな。君が酒を飲まなければ、とっくに課長、いや部長にはなっておるだろう・・・・・・どうだ酒をやめてみないか、部長席に座った気分はいいぞ」
「お言葉ですが社長、私はビールを三本も飲めば、社長の気分になれますんで、ハイ」

 飲んだくれていた若い頃を思い出すなぁ。


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 紹介した“小咄”は、『はかま満緒のコント笑話史』(徳間文庫、1983年2月発行)からの引用。
 同文庫への書き下ろし。
  
 本書は次の章ごとに、はかまさん作のものを中心に“小咄”が満載。

  男と女のエスプリ
  街角のエスプリ
  親と子のエスプリ
  医者と患者のエスプリ
  結婚のエスプリ
  何となくエスプリ

 最初の作品は「男と女のエスプリ」から、二作目は「何となくエスプリ」から引用した。
 大学の同期やテニス仲間を相手にした宴会の余興で落語を披露する身としては、こういったネタは、マクラで使える貴重な“小咄”なのである。

 本書が発行された1983年は昭和58年、昭和12年生まれのはかまさん、46歳。
 当時、NHK総合テレビ「脱線問答」の司会を務められていた。
 同じNHKのFM「日曜喫茶室」は、毎週日曜の放送。
 2008年4月からは、毎月最終日曜になった。

 実は、はかまさんが亡くなる少し前から、拙ブログをよくご覧いただく方とのご縁がきっかけで、「日曜喫茶室」を録音して聴くようになった。
 もっと、早く聴くんだった、と後悔する好番組。
 昭和52(1977)年4月10日に放送が始まって、来年で40周年になろうという番組を、今になって聴いている。

 はかまさんが亡くなってからは、「40周年名作選」として、過去の放送を聴くことができる。

 今週末の25日は、なんと、永六輔さん出演の回である。
NHKサイトの該当ページ


 本のことに戻る。
 「あとがき」から。

 ジョーク、ユーモア、シャレを一緒のように考えられる向きがあるようですが、三つの笑いはそれぞれ個性を持っております。
 ジョークは、その場でその雰囲気にマッチした笑い話をその場で表現するエスプリであり、ユーモアは笑いの中にちょっぴり涙の入った物語、シャレは粋な会話だとボクは考えています。
 同じ笑いの中にもいろいろ型があるように世界の笑い話にはいろいろな種類があります。
 風俗習慣、季節、宗教、食生活がかわれば笑いの種も異なるわけです。
 (中 略)
 どれが「シャレ」の笑いで、どれが「ユーモア」で、どのコントが「ジョーク」なのかなどと、固いことはこの際やめにして、笑っていただければいいのであります。

 そうそう、哲学者の言葉などを引っ張り出さず、素直に笑いたいものだ。
 しかし、素直に笑える“小咄”は、意外に少ないのだ。
 この本の小咄は、発行から30年以上を経ているので、中には時勢にそぐわないものもある。しかし、そういった当時の世相を思い起こすことも含め、実に読んでいて楽しい。

 明日以降、電車で読みながら、笑いをこらえるのに困る本である。


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by kogotokoubei | 2016-09-22 21:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(2)

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永六輔著『芸人』(岩波新書)

 ふたたび『芸人』(岩波新書、1997年)から。

 前回の記事にいただいコメントへの返信でも紹介したが、本書「口上」にある、芸人語録ベストテンの一つとして、永さんは岡本文弥の次の言葉を紹介している。

「むかし、新内を聴いて、悲しくなって自殺した遊女がいた。わたしも自分の唄で、一人くらいは殺したい」

 「芸人」を考える上で、実に示唆的な言葉だと思う。

 前回の記事で次の文章を紹介した。
 かつて「河原者」と呼ばれた「ヤクザ」「女郎」「芸人」。
 「ヤクザ」は男を売り、「女郎」は身体を売り、そして「芸人」は芸を売るというかたちで、生産手段を持てない人たち。

 同じ「河原者」同志、という認識が、岡本文弥の言葉の背景にはあるように思う。
 「売り物」は違っても、同じように「生産手段」を持たない者同志、という感覚が、間違いなくあっただろう。

 前回の記事で、永さんは「テレビ以前」と「テレビ以後」の芸人の違いを指摘していたことを紹介した。
 「テレビ以後」の芸人には、「河原者」という意識も、「非生産者」という負い目もないだろう。
 
 今回は、「歌」の章からの引用。

 「芸人」という本を、「芸人」という言葉にこだわりながらまとめている僕自身、自分を芸人だと思っているところがあります。
 「講演芸人」という言葉があって、生涯教育のイベントや、文化講演会で売れているなかの一人です。
 僕のなかには、発言の規制がある放送でたまるストレスを、講演で解消するという意味もあります。
 そして、講演そのものが好きというのではなくて、客席の反応を覚えておいて、そのなかから、放送の話題を選ぶようにしてきました。
 僕の講演は、放送のためのリハーサルでもあるわけです。
 そして、ときには役者もやります。
 最近では、『大往生』の映画化で、呆け老人の役を楽しんできました。
 素人芸ということはできますが、役者だといえば役者、歌手だといえば歌手、自分で名乗るのは勝手だし、その評価は観客が決めてくれるものです。

 永さんの、放送と講演との取り組み方の違いが、分かりやすく説明されている。

 たしかに、ラジオにしろ、放送ではストレスがたまるだろう。
 テレビなら、いっそうストレス充満、なのだと思う。

 そして、今日のテレビは、つい本当のこと、お上に対して都合の悪いことを言いそうな人は、はじめから出演させないようにしているだろうから、永さんの活躍の場がラジオ、そして講演が中心になった理由も分かろうというものだ。

 この後、次のように続いている。

 「テレビ以後」の芸人さん達は、永さんが教えてくれる「芸」にまつわる歴史を、知っておく必要があるように思う。
 というわけで、この章では歌手として、歌について考えながら、「芸人」を語ってみようと思います。
 まず、明治以前の場合、たとえば北海道の民謡は北海道でしか聞くことはできず、九州の民謡、沖縄の民謡も同じように、その地域でしか歌われていませんでした。
 旅をする人たち、たとえば参勤交代とか、瞽女(ごぜ)とか、お伊勢参りのときに、その土地その土地の民謡を聞くことはあったとしても、それはあくまで旅で聞いた民謡で、自分たちがそれを歌うということはありません。
 民謡にかぎって、その展開を書いておきますと・・・・・・
 お伊勢参りが幕末に、爆発的に「ええじゃないか」という大衆行動になります。
 この「ええじゃないか」という大衆行動のなかで、たくさんの人がお伊勢参りと称して伊勢に集中するんです。
 そのお伊勢参りの「ええじゃないか」に逆行して、官軍が江戸、そして会津、箱舘(函館)への向かっていくわけです。
 この「ええじゃないか」は自然発生ではなくて、勤皇の志士の知恵者が煽動したという話もありますが、こうして時代は明治へ。
 そして大きく時代が変わったときに、伊勢に集まった多くの、いわば難民に近い人たちが神戸開港という話を聞いて、神戸に集まります。関東からお伊勢参りに行った人たちがそこに集まります。
 このときの兵庫県知事が若き伊藤博文。
 開港するために労働力が必要になり、多くの人たちを使います。
 当時の関西の相撲取りたちが見張り役になって百人部屋という部屋をつくり、朝早くからたたき起こして働かせ、夜になるとめしを食わせ、酒を飲ませ、音頭取りがあらわれて各地の歌を歌うという状況が生まれます。
 日本の民謡が初めてひとつの場所で歌われるようになるのが百人部屋というものです。
 いまの新神戸から下った新川地区あたりに、この小屋がありました。
 この百人部屋が港湾労働者の仕切り場になり、ここから上方漫才の原型となるものが生まれるという場所でもあります。
 さらにいえば、キリスト教社会運動家として有名な賀川豊彦が活躍する場ともなりました。
 スラムから生まれた芸能といえば、ブラジルのカーニバルが代表的ですし、音楽でいえばボサ・ノバがあります。
 日本の場合は、この百人部屋での音頭であり、のちに漫才となる万歳です。
 そして、漫才の祖といわれる玉子屋円辰は、この音頭取りの名手といわれた人です。
 労働者は歌よりも、笑いを求めるという時代になるわけで、この場面はいつか、ミュージカルにまとめてみたいと思っています。
 こうして夜ごと、日本各地の民謡が歌われたであろう百人部屋の存在は、歌謡史のなかでも、重要な位置を占めます。

 情報が、人づてでしか伝わらなかった時代、いろんな人が集まる場、交流する場は、まさに情報交換の重要な空間となった。

 ネット時代の現在においても、いろんな人が集まる場の重要性は変わないと思う。それは、前回の記事で取り上げた「博多・天神落語まつり」のような場にも言えるに違いない。

 「百人部屋」という、まさにスラムにおける人の交流が、お国自慢の民謡をお互い披露し合うことになり、漫才という芸能を生み出す空間にもなった。

 永さんは、百人部屋のあった地域に関連する部落差別問題について、本書においては記していないが、新川地区はその後名前が変わり差別の対象となる。

 関東に生まれ育った人は、なかなか肌で分からないが、関西におけるさまざまな差別の問題は、根が深い。
 
 そして、現在、人間が皆平等であり、どんな差別もしてはならないとする憲法が、危機を迎えている。

 少し話が拡散しそうなので、戻そう。 

 芸能や芸人の歴史を考える上で、「ええじゃないか」のことや神戸開港と「百人部屋」のことなどは忘れてはいけないだろう。

 そういった大事な歴史の語り部でもあった永六輔さんを失った今、私は残された本を読み直すことで、“ご隠居”を偲ぶばかりだ。

 今日は、永さんの一つ年下の大橋巨泉さんの訃報を目にした。

 奥さんは、ショックが大きかろうと、永さんの訃報を巨泉さんに伝えなかったとのこと。

 巨泉さんには、正直なところ、政治家としての活躍を期待していたのだが・・・・・・。

 永さんは、天国にやって来て永さんの姿を見て驚く巨泉さんに、「先に来て、待ってたよ」と笑いながら迎えてくれたのではなかろうか。


 多くの“八五郎”が慕う“ご隠居”が、一人、二人といなくなり、次第に自分がそういう年齢になりつつあることに、戸惑うばかりである。

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by kogotokoubei | 2016-07-20 22:35 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛