噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

カテゴリ:今日は何の日( 79 )

 いろんな“記念日”があるものだが、今日7月21日が、古今亭志ん生のある記念日であることを、文春オンラインで知ることになった。

 近藤正高さんという若手のライターの方が、結城昌治の『志ん生一代』から拾った逸話を元にして書いた記事を引用したい。
文春オンラインの該当記事

 いまから70年前のきょう、1947(昭和22)年7月21日、戦時中に満州(現在の中国東北部)に渡っていた落語家の古今亭志ん生(5代目)が、東京・日本橋の寄席・人形町末広に帰国後初めて出演した。

 結城昌治『志ん生一代』によれば、大の酒好きだった志ん生は、この日も朝から飲んでおり、昼席のあと贔屓に呼ばれてまた飲み、夜席のトリに上がるときにはそうとう酔っていたという。それでもこのときの演目「ずっこけ」は酔っ払いの噺とあって、無事に務めた。彼が伝説に残る“失態”をしでかしたのは、このあとの大喜利での席だった。

 大喜利では、客席から帽子やマッチなどを借り、落語家たちがそれらの品をシャレに織り込んで噺をつなげ、最後の演者がサゲをつけるというお題噺が披露された。ところが、志ん生まで番が回ってきたところで、噺が止まってしまう。下を向いたきり顔を上げないので、最初はどうしゃべるか考えているのだろうと皆は思ったが、そのうち軽いいびきが聞こえてきた。何と、志ん生は酔っぱらって、坐ったまま眠ってしまったのだ。客にもやがて気づかれ、笑い声が起こる。共演していた桂文楽(8代目)があわてて「志ん生は満州の疲れがとれておりません。なにとぞご勘弁のほどを――」と頭を下げると、客は文句も言わず、「ゆっくり寝かしてやれよ」という声がいくつもかかったという(結城昌治『志ん生一代(下)』小学館)。

 戦時中、旧満州へ慰問のため三遊亭圓生(6代目)とともに渡った志ん生は、その後、ソ連軍の侵攻で九死に一生を得る。終戦から1年以上経った46年末にようやく引き揚げ船に乗りこみ、この年1月に帰国した(圓生は3月に帰国)。戦前からの貧乏暮らしで働かねば食っていけず、帰国後6日目にして、体がまだふらついたまま新宿末広亭に出演。3月31日には上野鈴本で独演会を開き、昼も夜も大入の客を集めた。帰国後の志ん生は「芸が大きくなった」と言われ、人気も高まっていく。「大きいやかんは沸きが遅い」と大器晩成を自認した志ん生は、57歳にして大輪の花を咲かせたのである。


 志ん生が高座で寝てしまって、前座が起こそうとすると、客席から「寝かせてやれ」と声がかかったという逸話は、少なくない。
 しかし、大喜利の途中と言うのは、他にはないのではなかろうか。

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 この部分、この記事の補足として、『志ん生一代』から、引用する。

 その晩のお題ばなしは志ん生が真ん中で、左右に文楽、馬楽、円太郎、それと志ん朝からもとの芸名むかし家今松に改名した清が坐っていた。即席で落語をつくるといっても、およその定石さえ心得ていればそう難しいことはなかった。
 ところが、円太郎から馬楽まではいつもの通りで快調に運んだが、志ん生のところではなしが止まってしまった。下を向いたきり顔をあげないのである。
 初めは、誰しも出題の品をどう工夫して喋るか考えているのだろうと思っていた。
 そのうち軽い鼾が聞こえてきた。酔っていたので眠くなり、坐ったままで眠ってしまったのだ。
 びっくりしたのは隣にいた清だった。文楽や馬楽も驚いたにちがいない。
 間もなく満員の客にも眠っていることが分かって、あちこちで笑い声がした。
 おそらく満州で苦労した疲れがどっと出たのである。
「志ん生は満州の疲れがとれておりません。なにとぞご勘弁のほどを・・・・・・」
 文楽があわてて頭をさげた。
 それに対して、客は文句を言わなかった。
「ゆっくり寝かしてやれよ」
 という声がいくつも掛かった。
 清は父を抱きかかえて楽屋へ下り、それからお題ばなしのあとをつづけた。


 「満州の疲れがとれておりません」と頭を下げた文楽の言葉は、決して、その場の洒落ではなく、本音の部分があったと思う。

 満州の疲れは、生半可なものではなかったはずであり、文楽はそれを十分に感じていたに違いない。

 『志ん生一代』については、拙ブログを初めて間もない、2008年10月13日に書いた。
2008年10月13日のブログ
 また、2012年には、祥月命日の翌日に、「替わり目」という章を中心に記事を書いた。
2012年9月22日のブログ

 しかし、この記事を読むまで、戦後、人形町末広復帰初日の大喜利での失敗談は、忘れていた。

 それにしても、この記事の写真が、実にいいね。

 りん夫人を中央に、左に志ん生、志ん朝、右に馬生・・・みんなが笑っている。
 馬生の隣は馬生夫人で、膝の上にちょこんと座っているのは、池波志乃に違いない。
 右端は、長女の美津子さんだろう。

 しかし、昭和22年の志ん生の姿に近いのは、2012年の祥月命日の記事で紹介した、昭和24年公開の「銀座カンカン娘」で『替り目』を披露している、もっと痩せた姿に近いと思う。
2012年9月21日のブログ

 志ん生の一般的なイメージは、文春オンラインに掲載されているような、晩年の丸みを帯びた好々爺然とした姿だろう。
 私は、「銀座カンカン娘」で、満州から帰国後二年経っての表情を最初に見て、少なからず衝撃を受けた。

 あんなに、痩せていたんだぁ・・・・・・・。

 志ん生と円生の満州行脚は、志ん生への聞き書き本や『志ん生一代』でも書かれているし、井上ひさしの『円生と志ん生』は舞台にもなっていて、今年も9月にサザンシアターで予定されている。
 私はテレビでではあるが、この舞台を見ている。

 しかし、本や舞台にはならなかった事実や、志ん生と円生が語らなかった、あるいは、語れなかった面も多いに違いない。
 
 人形町末広での大喜利での失態は、もちろん酒を飲んでから高座に上がったことが直接的な原因ではあろうが、文楽が庇った「満州の疲れ」の深さも影響していたと思う。

 五十半ばで、満州で死をも覚悟するような体験をしてきたのだ。

 いろんな逸話、そして記念日を遺した志ん生だが、今後、7月21日は、大喜利で居眠りをした記念日、として覚えておこう。
 それは、「満州の疲れ」という文楽の科白とともに、戦争の記録、記憶と切り離すことができない記念日だと、私は思う。


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by kogotokoubei | 2017-07-21 21:36 | 今日は何の日 | Comments(2)
 今日三月一日は、旧暦二月四日。
 
 元禄十六年(西暦1703年)のこの日、赤穂義士四十六人が切腹した。

 先日行った落語会で、三遊亭時松が一席目に柳家喬太郎作『白日の約束』を演じた。
 この噺は、今ではホワイトデーという実に迷惑な日(?)となっている三月十四日が、浅野内匠頭の命日(元禄十四年)であるということがネタの骨子になっているのだが、もちろん本来は旧暦三月十四日なので、ホワイトデーとはまったく重ならない。

 忠臣蔵としてあまりにも知れ渡っている事件に関しては、吉良邸討ち入りの十二月十四日に義士たちが眠る泉岳寺などで「義士祭」があるが、命日の行事はあまり聞かない。

 そう思って少し検索したところ、故郷の赤穂の大石神社で、先月二月四日に「御命日祭」が行われたというニュースが見つかった。

 神戸新聞から引用。

神戸新聞の該当記事

2017/2/5 05:30神戸新聞NEXT
赤穂義士しのび御命日祭 大根炊き振る舞う

 討ち入りを果たした赤穂義士が切腹してから314年目の命日に当たる4日、兵庫県赤穂市上仮屋の大石神社で「御命日祭」が行われた。神社総代ら約20人が参列して47本の大ろうそくに火をともし、参拝客に厄よけの大根炊きが振る舞われた。

 同神社で1912(大正元)年の創建時から続く伝統行事だが、かつては、義士が吉良邸に討ち入った12月14日に比べ、切腹した2月4日は知名度が低かった。行事を盛り上げようと、2005年から大根炊きの振る舞いや大ろうそくの点火を始めたところ、近年、参拝客が増えてきたという。

 この日、午前10時から拝殿で神事があり、参列者が大ろうそくに火をつけた。参拝者も次々と訪れ、手を合わせて義士の遺徳をしのびつつ、温かい大根炊きを笑顔で味わった。

 毎年訪れるという市内の女性(75)は「赤穂が有名になったのも義士のおかげ。命日ももっと有名になってほしい」と話していた。(古根川淳也)

 “切腹した2月4日は知名度が低かった。行事を盛り上げようと、2005年から大根炊きの振る舞いや大ろうそくの点火を始めたところ、近年、参拝客が増えてきた”、とあるが、参列者は、約20名とのこと・・・・・・。

 思い出したが、先月放送されたNHK「鶴瓶の家族に乾杯」で、鶴瓶が武井咲と一緒にこの神社を訪ねていたなぁ。
 武井咲は、あの番組では実に可愛かったのだが、土曜時代劇「忠臣蔵の恋ー四十八人目の忠臣ー」で礒貝十郎左衛門の恋人きよ(後の月光院)の役は、彼女にとって少し荷が重すぎた。

 討ち入りの日のみならず、主君の暴挙(?)でお家断絶となり、命を懸けて討ち入りを挙行した四十六人の命日が話題になることは、悪いことではないだろう。

 しかし、どうしてもこういう記念日については、新暦に置き換える現代日本の風習に馴染めない。

 ちなみに、浅野長矩の命日旧暦三月十四日は、今年は新暦なら四月十日。
 辞世、「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」は、その時期にこそ相応しい。

 再来週の新暦三月十四日は、“春の名残り”ではなく、せいぜい“春めく”頃、であろう。
 来週8日は、旧暦二月最初の午の日、いわゆる初午。
 だから、先日志ん吉で聴いた『明烏』が、まさに旬の噺と言える。

 
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by kogotokoubei | 2017-03-01 12:36 | 今日は何の日 | Comments(0)

半夏生で思ういろいろ。


 今日7月2日は、雑節の半夏生で、おまけに満月なのだが、残念ながら曇っている。

 半夏生については、昨年も書いているので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年7月2日のブログ

 昨年の記事で紹介したように、地域により半夏生に食べるものの風習が違うが、福井では鯖。
 昨年は福井新聞から引用したが、今年は中日新聞からご紹介。
中日新聞の該当記事

 夏至から数えて十一日目の「半夏生(はんげしょう)」を翌日に控えた一日、大野市内の鮮魚店ではサバの丸焼き「半夏生サバ」の準備が進んだ。夏のスタミナ食が次々と焼き上がり、香ばしい香りに包まれた。

 大野市では江戸時代ごろから、農作業の疲れを癒やすため半夏生にサバの丸焼きを食べる風習がある。市内各地の二十軒ほどの鮮魚店や仕出し料理店でサバの丸焼きが並ぶ。

 同市明倫町の鮮魚料理店「うおまさカフェ」では焼き台を店頭に出し、体長四〇センチの特大サイズのサバを炭火で焼き上げた。

 サバの脂の焼ける香りが立ちこめると、近所の人も集まり岩本美恵子さん(78)は「最高の味だし、栄養も付くし、どうでも食べなあかんです」と話した。半夏生当日は毎年、夕方前に完売してしまうという。(尾嶋隆宏)

 私は鯖が大好きだ。この記事の写真を見て、涎がでてきた(^^)

 昨年の今日の記事にいただいた福井の方のコメントから、福井に地域寄席「きたまえ亭」ができたことを教えていただいたことを思い出す。

 しかし、同寄席は、残念ながら昨年一杯で閉鎖とのこと。
 福井新聞の昨年師走の記事から引用する。
福井新聞の該当記事

福井の寄席小屋「きたまえ亭」休止 ファンが惜しみながら笑い納め
(2014年12月28日午前7時00分)

 常設のとして親しまれてきた福井市中央1丁目の「きたまえ亭」の定期寄席が27日、千秋楽を迎えた。客席を埋めた落語ファンが、今年1月の開設以来、この日まで47回の公演に延べ2千人以上が訪れた小屋の休止を惜しみながら、「笑い納め」をした。

 この日は、上方落語家の桂蝶六さん、月亭文都さん、市内のアマチュア落語家らが出演。通りに呼び込みの口上と拍子木が響くと、約100人のファンが続々訪れ、会場はすぐに満席になった。

 最初に「上七亭らっこ」こと福井工大准教授の木川剛志さん(38)が、壊れた扇風機やほこりだらけの笛などを売る若者と客とのやりとりを描いた「道具屋」を披露し、笑いを誘った。

 1年間、プロの落語家の世話役を務めてきた桂蝶六さんは2度高座に上がった。トリで披露した「猫の忠信」のオチでは、客席からこの日最も大きい拍手が送られた。

 毎月きたまえ亭を訪れていた常連の鈴木真人さん(65)=永平寺町=は、こけら落としの時と同じ最前列で千秋楽を楽しんだ。これまで巧みな話術に「自分も江戸時代にいるように感じられることがあった」と振り返った。山岡俊男さん(75)=福井市=は「家から歩いてくると、拍子木の音が聞こえ、まちがにぎやかでよかった。これから寂しくなる」と惜しんだ。

 きたまえ亭は、県内の落語愛好家らでつくる運営協議会が西武福井店本館前の空き店舗を改修。地方都市では珍しい常設の小屋として1月に設けられた。運営には「応援志金」として県内外の約160個人・団体から約250万円が寄せられた。しかし収益源として見込んでいた貸し館利用が伸びず、行政支援が今年で終わることから、休止が決まった。

 運営協議会の鳴尾健代表(54)は「お客さんには春夏秋冬の約350のはなしを楽しんでもらえたと思う。1年間続けられたのは市民の大きな支援とボランティアのおかげ」と感謝した。

 地元の落語愛好家の方に親しまれていたようだ。

 私は、自宅近所の「ざま昼席落語会」を楽しんでいるし、先日初めて行った「しんゆり寄席」では、交流会を含め、地域寄席を支えている地元の方の熱い思いに感動すら覚えた。

 もちろん、座間や川崎は会場を含め行政そのものが深く関わっているので、「きたまえ亭」と同列には比較できない。
「きたまえ亭」は、どちらかと言えば、神田連雀亭・巣鴨獅子座に近い存在だったのだろう。
 詳しくは知らないが、福井は、なかなか落語愛好家の方が多いようで、テレビ局が後援する落語会や、民間の方が主宰する会などもあるようだ。

 せっかく「きたまえ亭」が点けた新たな灯を消さずに、行政と一緒になって「きたまえ亭」が形を変えても復活することを祈りたい。

 福井の関係者の方は半夏生の今日、焼き鯖を食べて復活に備えているに違いない!

 鯖だけに、夕食で食べているかな。
 (英語のシャレだが、今ひとつ)

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by kogotokoubei | 2015-07-02 21:21 | 今日は何の日 | Comments(2)
 先週7日の土曜日は、ざま昼席落語会で、入船亭扇遊の『鼠穴』を堪能した。

 落語のマクラでよく耳にする江戸の名物が、「武士、鰹、大名小路、広小路、茶店、紫、火消、錦絵、火事に喧嘩に中っ腹、伊勢屋、稲荷に犬のくそ」と最後はやや下品になるが、もちろん火事は欠かせない。

 火事にまつわる小咄は多いが、ネタとしては、先日の『鼠穴』以外に、『富久』、『大坂屋花鳥』、『火事息子』、江戸ではないが『厩火事』なんてぇのもある。

 江戸の大火で被害が大きかったものを、Wikipedia「江戸の火事」を元にご紹介。Wikipedia「江戸の火事」

明暦3年1月18日・19日 (1657年)  明暦の大火(別名、振袖火事) 死者数は最大で107000との推計

天和2年12月28日 (1682年) 天和の大火(別名、八百屋お七の火事)  死者数830-3500

明和9年2月29日(1772年) 明和の大火(別名、行人坂の火事)死者数14700、行方不明者数4060

天保5年2月7日 (1834年) 甲午火事 死者数4000

安政2年10月2日(1855年) 地震火事 死者数4500-26000


 
 2月16日は、旧暦で12月28日。天和2年のこの日に「天和の大火」があった。

 なぜ「八百屋お七の火事」と言われているかはWikipediaにも書かれているのだが、「歴史人」のサイトの昨年12月28日の「今日は何の日?歴史人カレンダー」からご紹介する。
「歴史人」サイトの該当記事

お七火事=天和の大火が起こる (天和2年=1683年1月25日) 12月28日 

 331年前の今日(旧暦)、天和の大火が江戸の町を焼いた。お七火事とも呼ばれる。
 天和2年(1683)、駒込大円寺が火元という大火が江戸の町を襲い、死者3500名にも及ぶという大惨事となった。
 井原西鶴の『好色五人女』を始め、歌舞伎や文楽などで名高い八百屋お七の物語は、この天和の大火に始まる。
 天和の大火で焼け出された江戸・本郷の八百屋、八兵衛なる男は、檀那寺であった駒込の吉祥寺に避難した(本郷の円乗寺ともいう)。八兵衛にはお七という16歳になる娘がいた。お七は避難場所で出会った寺小性、生田庄之介と恋仲となる。
 やがて八兵衛は新居を再建、一家は寺を引き払うが、お七の庄之介への恋情はやみがたかった。
 お七は、火事になればまた庄之介に会えるかもと、なんと自宅に放火をしたのである。
 お七の火付けによる火事は幸い大火にはならずすぐに消し止められて小火で済んだ。
 しかし、当時、火付けは大罪である。
 お七は捕われ、鈴ヶ森で火あぶりの刑に処される。
 天和3年のことだった。
 この事件の3年後の貞享3年(1686)、井原西鶴が『好色五人女』でお七を取り上げたことにより、お七の名は全国に広く知られるようになる。
 歌舞伎や文楽などの悲恋のヒロインがこうして誕生したのである。
(文/宮本次郎=コラムライター)



 お七が小姓の庄之介(佐兵衛とも言われている)に会いたい一心で放火をしたのは、天和3年の3月2日とされている。
 ぼやで済んだようだが、放火は大罪。

 お分かりのように、別名「八百屋お七火事」と言われる「天和の大火」は、あくまでお七を吉祥寺(あるいは円乗寺)に避難させ、小姓に合わせるきっかけになった火事だ。

 実際のお七という人物に関しては、天和3年の3月に放火で断罪された女性がいたことだけは事実のようだが、詳細は謎に包まれている。

 西鶴の本、その後の人形浄瑠璃、歌舞伎によって、お七の姿が、あくまでフィクションとして伝説化したと思ったほうがよいだろう。

 ネットで調べているうちに、お七の墓は、生まれ故郷である八千代市の長妙寺にあるらしいことが分かった。「長妙寺」サイトの該当ページ
 しかし、このお寺のサイトでは、お七の放火で江戸の町が焼かれた、とある。‘小姓吉三’で説明されていることもあり、大変失礼だが、もう少し史実に沿った内容に訂正してもらいたいものだ。

 史実と、その後に読み物や浄瑠璃、歌舞伎などで脚色されて世に流布している内容とが大きく違うことは多い。
 忠臣蔵の討ち入りの時は前日までの雪がやんでいた、とか、堀部安兵衛が高田の馬場で倒した相手は多くても五人である、とか。人々は、どうしても、物語として大袈裟に脚色(歪曲?)されたり美化されたりするフィクションの方を好みがちだ。

 八百屋お七についても、お七の放火で江戸の大火になったと勘違いしている方も多かろう。

 ことほど、史実がフィクションによって歪曲され、それが、事実のように広まることもあるのは、実に恐ろしいことだ。

 しかし、よ~く考えると、フィクションと分かった上で、一つの物語を楽しむのであれば、お七も浮ばれるかもしれない。

 落語では、円生が得意にしていた『お七』があるし、『七段目』でも重要な演出の一こまをつくっている。『くしゃみ講釈』では覗きカラクリが大事な要素である。小姓と胡椒だよね^^


 八百屋お七のことから、史実(ノンフィクション)とフィクションのことに思いが至る。

 たとえば、史実(史伝)の吉村昭、歴史小説の司馬遼太郎という二人の対比を思い浮かべるが、最近は、そういう二者択一的な考え方ではまずいのではないか、と思い始めた。

 たとえば、藤沢周平や葉室麟は、どう位置づけられるのか、ということ。

 いわば、ノンフィクションとフィクションの狭間にある作品は存在すると思う。

 たとえば、定説のある歴史的な事実に、まったく別な角度から光を当てる試みは貴重だ。
 また、無名の庶民を題材としていながら、当時の世相なども巧みに織り込み、リアリティのある人間像を描き出し読者を魅了するフィクションも存在する。藤沢や葉室は、そういった作品の代表的作家だと思う。

 時代小説、あるいは歴史小説において、肝腎なことはいったい何なのだろうか・・・・・・。

 描かれた作品が人の心に迫ってくるかどうかは、作者の想像力と了見によって決まるのだと思う。

 視聴率だけがその番組を測る指標とは思わないが、NHKの大河の低い視聴率が話題になるのは、当然の帰結である。想像力と了見の両方に問題があり、観る者の心を揺さぶらない。

 それに比べて葉室麟の原作『銀漢の賦』を元にした、同じNHKの木曜時代劇「風の峠」は違う。原作の良さを、映像化する人達も的確に演出しており、実に観る者の心を揺さぶるではないか。そこには、定めの中で必死に生きる男や女が、侍も農民も含め描かれている。脚本家や演出家の想像力と了見が大河とは違うのだろう。今週で最終回なのが惜しくてならない。

 ノンフィクションがフィクションより上とか下とかの問題ではなく、小説やドラマ、映画という作品において、どれほど読者や視聴者に、その時代や環境において、悩み、もがき、葛藤する、生きた人間が描けているかが大事なのだろう。
 その結果、読む者、観る者に、感動や、それこそ勇気を与えることができる作品こそが傑作なのだと思う。

 昨今、テレビのスポーツ番組で「勇気」や「感動」という言葉が大安売りされている。「勇気と感動をありがとう!」という軽~いノリのアナウンサーの言葉を聞くと、興醒めだ。
 しかし、優れた文章や映像から、本当に勇気や感動を受けた場合、しばらく何も言えず、じ~んと胸に沁みてくるものだと思う。目が潤むこともある。とても、軽々しく言葉など発せられないのが、心から感動した時の状況のはずだ。


 「八百屋お七の火事」の日、最近の時代劇ドラマなどのことも含め、いろんなことを考えていた。
 相当発散してしまったが、じ~んとくる、小説や映像に一つでも多く出会いたいと思う。それは、ノンフィクションでもフィクションでも、もちろん構わない。
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by kogotokoubei | 2015-02-16 19:45 | 今日は何の日 | Comments(0)
一年前の師走も押し迫った時期に、まさか大瀧詠一の訃報を目にするとは思わなかった。

 私の携帯音楽プレーヤーに、「A Long Vacation」をはじめ、大瀧詠一の曲を外すことができない。
 
 大瀧詠一は、漫才やモノマネ、そして落語などの演芸が好きだった。

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『増補新版 大瀧詠一』(文藝別冊 KAWADE夢ムック) 
 今年1月に版を重ねたKAWADE夢ムック『大瀧詠一』から、いくつか引用したい。
 初版は2005年11月である。

 まず、自ら、“ナイヤガラー”と称する内田樹との、2005年8月16日に行われた対談から。

内田 大瀧さんの声には実に複数の層があって、喉からだけでなく、たとえば鼻骨や頭骨が時間差をもって震動しているということがあると思うんです。だから「一人交響楽」みたいな感じになる。歌唱における説得力というのは、単音がその前後で空間的な厚みと時間的な幅をどれだけ持って成立するかということが重要なのじゃないかと思うんです。すぐれた歌い手は声を出す前にすでに「予兆」のようなものを発信しますね。
大瀧 戦う前にわかるということだね。松井でも打席に入る前にスウィングしているだけで調子がわかる。今日は上手く歌えそうだとかダメだといったことは歌う前にわかるんだよね。
内田 録音状態のよい音源を聴いたときの、ギターの弦を指がスッと滑る音や発声前のブレス音が好きなのですが、これから先にいい音が出てくるという場合は、息を吸い込む瞬間の音がとても色っぽい。
大瀧 最近はブレスを強調する平井堅など流行ってるね。
内田 あれは録音技術が上がっているから拾っているということなのですか?
大瀧 わざとやっているんですよ。昔から三田明とか、ブレスを強調する歌手はいたんですよ。それを息継ぎでやっているのが山本富士子ですね(実演してみせる)。
内田 それは誰かのモノマネじゃないですか?
大瀧 桜井長一郎でやる山本富士子のマネ。
内田 山本富士子はそんなことやらないです!(爆笑)
大瀧 この突っ込みができるかどうかが僕の相手になるかどうかのポイント(笑)。


 この“予兆”って、よく分かるなぁ。
 いい曲って、昔なら、レコードの針を落とした最初の音から、予感させる何かがあった。

 しかし、大瀧詠一が桜井長一郎の山本富士子を演じるとは。聞いてみたかった^^

 次に、星セントとの対談から。

セント 初めて会ったのは、何年前ぐらいでしたっけ?
大瀧 えーっと、ラジオで一日だけスペシャル・パーソナリティをやってたときだから・・・・・・。
大瀧のマネージャー氏 77年3月の春分の日です(と即座に返答)。
大瀧 すごい記憶力だね(笑)。そうそう三波春夫の「東京五輪音頭」をかけたんだ。で、その番組にゲストで来てもらったんだ。えらい風邪ひきでね。ぐしゃぐしゃの鼻声だから間がもたないでしょ。で、これは色モノを間に入れようってんで、お願いして、わざわざ来てもらったんですよ。
 忙しい人達でしょ。来てくれないんじゃないかなと思ってたのね。でも来てくれて・・・・・・もう、その頃は人気の絶頂期は過ぎてたんですいか?
セント ・・・・・・!?
大瀧 てなことはないね、ハハハ。
セント アハハハハハ(ブキミな笑)。
大瀧 そのときは、すごく面白かった。ちょうど、その半年前に初めてテレビでセント・ルイスを見てね。
セント あの頃、どんな出しものをやってましたっけ?
大瀧 「美人の論理」ちか「幸せの論理」とか。とにかく異常な面白さだったね。何をいってるんだかよくわからなかったんだけど(笑)。
セント ほんと、わかんなかった。俺にもわかんなかったぐらい(笑)。
大瀧 何をいってんのかわかんないというのは、ここ四、五年のマンザイの人の特徴だね。たけしも紳助もわかんない。言葉が明瞭じゃないし、テンポがやたらに早い。
セント みんな、間が恐いんですね。シラケの間ってヤツが、一秒でもあると恐いんだ。
大瀧 でも勉強になるね。わかんないことでも早くパッとやって次に移ってしまえば、それでいいんだってことを学んだし(笑)。
セント 何をいってんだかわかんないというのが、何回も聞かせられるコツですよ(笑)。
大瀧 初めてテレビで見たとき、偶然にテープに録ってたんだ。何いってんだろうって何回も聞いたね。
セント 暗号解読だね(笑)。
大瀧 それまで、マンザイのテープをくり返し聞くことはあったけど、10回も20回も聞いたのは、あれが初めてだったねえ。でも結局、何いってんのかわからないもんね(笑)。


 セント・ルイスのテープを何度も聴き直す大瀧詠一の姿を想像すると、笑えてくる。

 「間が恐い」という指摘、何か深いものを感じる。

 高田文夫が「冷麺で恋をして」と題して、次のようなことを書いている。

意外に思われるかも知れないが大瀧詠一氏と私はツーカーの仲。この本ではありとあらゆる方達が大瀧氏のゴー・ゴー・ナイアガラ的な音楽界における大巨人ぶりをお書きになっていると思うが、ここでは案外知られていない笑芸的見地からの私と大瀧氏とのふれあいについてふれたい。お互いに昭和23年のネズミ年生まれという事もありますが、その事がふたりの中ではっぴいいえんどという訳ではない(ン?いきなり訳が分からなくなってきたぞ、しっかりしろ五十七歳)。まっこの本全体の中で私の頁がイロモノ的という事を含めて河出的にはOKでしょう。私の耳に“大瀧”なる男の名前が届いてきたのが、私が脚本等で参加していた「オレたちひょうきん族」。漫才の駄目な方の相方ばかり三人を集めた“うなずきトリオ”で出した曲の作詞作曲が誰あろうこの匿名のO氏。その名曲「うなずきマーチ」は小さなヒットを飛ばし、イモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」に追いつきたいけど追いつけない情なさでした。その詞その曲は私のハートをつかんではなさないアイアンクローな出来栄えでした。大瀧詠一恐るべし。

 

 お笑い好きな大瀧詠一の一面をうかがわせる。

 高田文夫作詞「冷麺で恋をして」を、「A面で恋をして」の曲で発売することを大瀧は快諾した。


 もちろん、落語も好きだった。
 今年3月のお別れ会で、奥さんの静子さんが、最後の姿について語る言葉が、音楽ナタリーの記事に載っていた。
 「音楽ナタリー」の該当記事

静子さんは「夕食前だからリンゴでも食べるかなと思い皮を剥いていたとき、突然『ママ、ありがとう!』と大きな声で言われました。そんなことを突然言われましたので、びっくりして主人のほうを見ますと、イスにもたれかかり、ぐったりしていました」と当時の様子を克明に語ってくれた。その後救急車に乗せて病院へ行っても、大瀧が息を吹き返すことはなかった。静子さんは続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。


 年末、好きな落語を聴きながら、スタジオの片付けをしている時、きっと大瀧詠一は、何事にも替えられない至福の時間を過ごしていたのだろう。

 大瀧詠一が、“落語は哲学であり、哲学書など読まなくても、落語を聞けば哲学的な思索はできる”、というようなことをつぶやいていたのをネットで目にしたことがある。

 まったく同感だ。

 大瀧詠一の歌を聴くたびに、落語や漫才など大衆芸能好きの彼が、微笑んでいる姿を思い浮かべる。

 さて、一周忌の歌は何にしようか、悩んだ末に、これにした。
 CM集!
 大瀧詠一を知らない人も、彼の名曲をコマーシャルで聞いたことのある人は多いのではなかろうか。それにしても、同じ曲がたくさん使われてるね。

 彼は、天国で“長いバケーション”を、今楽しんでいるに違いない。

 大瀧詠一さん、ありがとう。


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by kogotokoubei | 2014-12-30 07:01 | 今日は何の日 | Comments(2)
12月18日は、旧暦10月27日。今年は閏の9月があったので、まだ10月である。

 旧暦10月27日は、吉田松陰の命日。安政6年のこの日、29歳で旅立った。

 NHKの来年の大河は、松陰の妹が主人公とのこと。「八重の桜」に続き、女性を主人公とする大河は「花燃ゆ」というお題らしい。花つながり、か。原作はなく、女性の脚本家二人の書下ろし、とのこと。NHK「花燃ゆ」の公式サイト

 女性主役の大河ドラマ、どうもNHKが安倍政権にヨイショしているような気がしないでもない。企画段階では安陪が、女性の社会進出云々を叫んでいたのではなかろうか。あの会長なら、迎合しないこともないだろう。

 それはさておいて、吉田松陰のこと。

 NHKの大河が妹のことなら、命日に、同じ女性でも、松陰ご本人の‘幻の恋人’のことを書いてみたい。

 通説では、独身を通し、身の回りの女性問題は潔癖、という風評に包まれている松陰。しかし、同じ長州下関出身の作家の古川薫は、発見した松陰の和歌と俳句から、松陰が幽閉された野山獄(のやまごく)における、松陰と一人の女性との淡い恋を小説にした。

 当初『野山獄相聞抄』としてあった短編は、その後『吉田松陰の恋』と改題された。
 この原作を元に、下関の映画制作会社が、「獄(ひとや)に咲く花」という映画を四年前に製作している。

 映画の公式サイトは、こちら。「獄(ひとや)に咲く花」公式サイト

 山口経済月報のサイトに、この映画の説明書PDFがあり、原作者の文章も含まれているので、長くなるが、全文を紹介したい。山口経済月報による「獄に咲く花」の資料

吉田松陰の恋

古 川 薫
映画『獄に咲く花』原作者

 松陰・吉田寅次郎が海外密航未遂の罪で捕らえられ、江戸の獄から萩に護送され、野山獄に入ったのは、安政元年(1854)10月だった。野山獄には12の独房があり、松陰の入獄で満室となる。獄には女囚が1人収容されていて、300石取り藩士の奥方だった高須久子という美貌の未亡人である。37歳だった。このとき松陰は25歳だ。
 久子は姦淫の罪というが、音曲の好きな彼女は、歌を流して正業としている若い芸人を屋敷内に入れて歌わせていた。武家の女が身分低き者と親しくすることを不行跡と咎める親戚の借牢願いによって野山獄に収容された。すでに在獄4年である。松陰は久子の境遇に同情し、自信をもって生きよとはげました。人間平等の思想に徹する松陰は、やがて主宰する松下村塾でも、身分の別を問わず向学心にもえる若者たちを受け入れた。
 高須久子は獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性である。彼女の松陰にたいする尊敬と感謝の念は、自由を奪われた獄囚の身にもだえ苦しむ憂国の青年への母性本能をふくむ恋愛感情に昇華していく。久子の一途な恋慕に、戸惑
いつつもこたえていくうちに、安政大獄の魔手は松陰にせまり、極限状況に近づいていくのだ。
 2年足らずの短い期間、松陰と久子の間にプラトニックな恋が交わされたと信ずるに足る相聞の歌句が存在することは、早くから研究者のあいだでささやかれていたが、「講談者流の憶測にすぎない」と否定され、とくに戦前においては神格化された松陰の逸事として話題にすることも避けられていた。それは松陰の人間像が現代によみがえり、戦後おびただしく出た新しい松陰伝にも語られることはなかった。やはり松陰の神聖を冒すものとの考え方がただよっていたのである。

 清らかな夏木のかげにやすらへど人ぞ
 いふらん花に迷ふと


 これは「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」と前書きして、久子に渡した松陰の和歌である。松陰と久子が親しく語りあっているのを、同囚たちからなにかと噂された事情をうかがわせる。
 また「未亡人の贈られし発句の脇とて」と前書きされた松陰の和歌2首もある。俳諧の心得のある久子は、ときに(あるいはしばしばか)発句(俳句)を松陰に送っていたのであろう。
 松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会の久子の句は、

 「鴫 立つて あと淋しさの夜明けかな」

 というのである。
 鴫は松陰のあざな「子義」にかけている。

 二度目の投獄、そして江戸評定所に召喚され、死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別に手布巾を贈った。
 「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ」と前書きした松陰の和歌。

 箱根山越すとき汗の出でやせん君を思
 ひてふき清めてん


 久子が松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの相聞の句は「手のとはぬ雲に樗の 咲く日かな」で、それにたいする松陰の返し歌は、「高須うしに申し上ぐるとて」として振りしぼるような一句を吐いている。

 一声を いかで忘れん ほととぎす

 わたくしが松陰と久子のことを小説化し、『野山獄相聞抄』の題で、「別冊文藝春秋」に発表したのは、昭和53年(1978)夏だった。その当時でさえ、読者からの抗議の手紙が送られてきたのは予想したとおりだったが、多くはたしかな手ごたえを得た。
 2年後、同書が文庫となったとき、わたくしの読者としてはめずらしく23歳の女性から感動したという熱心な読後感が送られてきた。
 史実に基づき吉田寅次郎という青年の一瞬にもひとしい時間を彩った青春を、幕末動乱を背景として淡彩画のように描いた作品にたいする賛辞であったか。いや維新革命の途次、非業の死をとげた孤高の志士の短い人生の終末に、純粋なおんなの愛を捧げた高須久子という美しく教養ある女囚への深い共感であったろう。


 作者古川薫は、野山獄での二人の俳句のやり取りが、まさに相聞歌であると考え、松陰と久子につかの間の恋を味わわせる小説を構想した。

 補足するが、高須久子について、‘音曲の好きな彼女は、歌を流して正業としている若い芸人を屋敷内に入れて歌わせていた。武家の女が身分低き者と親しくすることを不行跡と咎める親戚の借牢願いによって野山獄に収容’とあるが、その芸人は、いわゆる被差別民であった。
 結婚し、夫が亡くなった後も貞操を守るのが当たり前という時代、音曲好きの久子が被差別民である芸人を座敷に上げた行動は、嫁ぎ先から毛嫌いされ、久子は実家に戻された。そして、親の命で監獄生活を強いられたのである。

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古川薫『吉田松陰の恋』(文春文庫)

 小説『吉田松陰の恋』からも、少し引用したい。
 一度、野山獄から出て、松下村塾で数多く人材を育てた後、老中間部詮勝の暗殺疑惑で野山獄に戻り、安政の大獄により江戸に召喚される直前の場面。この作品は高須久子の一人称で語られる。

 最後の夜-その夜を、わたしは震える心で待っておりました。大胆にも、寅次郎様の房に、もう一度忍んで行くつもりでした。最早どのように思われても、ここで身を投げ出さずにはおかない、でなければこの牢獄で送る残りの生涯を悔いで塗りつぶすことにことになる。それならいっそ死んだほうがましだ・・・・・・わたしは噴き出してくるものを、もはや抑えもやらず身悶えしながら、待っていたのでございます。
 ところが、ついにあの人は獄に帰って来られず。実家のご両親と供に、その夜をすごされたのでした。
 (中 略)
 寅次郎様は、早朝、野山獄へ戻られるとすぐ、江戸へ向けて出発されることになりました。

 手のとはぬ雲に樗(おうち)の咲く日かな   久子

 司獄官の執務部屋から出て来られるのを待ち構えて、このはなむけの句をお渡ししますと、寅次郎様は頷いて、「これは昨夜、家でつくりました。あとで見て下さい」と、一通の封書を、搏(う)つようにわたくしの掌に載せ、慌しく庭に降りて行かれました。「久殿」と宛名書きされ、寅次郎様のふところの温みが残るそれを素早く胸元に押しこみ、わたくしは見送りの人の列に加わりました。家に帰られた夜、たとえわずかな間でも、わたくしひに思いをむけて下さっていたことを知ったよろこびの絶頂で、たちまち別離のときを迎えたのでございます。



 封書に入っていたものはご想像がつくと思うが、ぜひ実際に読んでご確認のほどを。

 私は、古川薫のこの作品が好きだ。
 あの吉田松陰だって、男である。
 
 運命のいたずらで、野山獄にただ一人の女性がいたことは事実だ。
 そして、この二人の和歌と俳句が残っている。
 
 幕末の激動期、若き命を燃やした松陰の人生に、ほのかながら‘艶’を与える小説。

 「花燃ゆ」での高須久子役は、井川遥。好きな女優だ。
 しかし、登場する回数は、そんなに多くないだろうなぁ。
 
 幕末に、家の恥として、親から牢に送り込まれた娘がいたというのも、歴史上の事実。

 久子と野山獄での松陰との物語。高須久子は、‘幻の恋人’かもしれないが、血なまぐさい印象が強い松陰をめぐる貴重な逸話だと思う。
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by kogotokoubei | 2014-12-18 19:24 | 今日は何の日 | Comments(2)
12月10日は、早いもので、小沢昭一さんの三回忌になる。

 訃報を目にした二年前の今日、小沢さんの著作(『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』)とKAWADE夢ムックの特集のことなどについて、記事を書いた。
2012年12月10日のブログ
 『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』については、ブログを書き始めてから間もなく記事にしたことがある。ご興味のある方はご覧のほどを。
2008年10月4日のブログ

 あれからもう二年・・・いや、まだ二年・・・なんとも微妙な感じだ。

 二年前の師走には、他に何があっただろうか。
 12月16日に衆議院選挙があり、自民党圧勝で政権が交代した。同じ日に東京都知事選もあり、猪瀬が当選した。
 この二つの政治的な出来事だけでも、二年間経過してみて、ある側面からは「もう」であり、別な観点からは「まだ」とも言えそうな気がする。

 そして、今年も選挙がある。

 小沢さんは、ラジオなどで「正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい」と発言されていたらしい。

 実は、この言葉は、小沢さんも出演された今村昌平監督の映画『黒い雨』において、北村和夫が演じた主人公である閑間重松の言葉。

 井伏鱒二の原作にある言葉の文学碑が、モデルとなったの重松静馬さんの故郷、広島県神石高原町にある。同町のサイトから引用する。
広島県神石高原町サイトの該当ページ

平和への祈り
戦争の本当の恐ろしさを知る人こそ,平和への祈りは尽きません。
被爆者の体験談をもとに,旧三和町に生まれ育った実在の人物をモデルに描かれた「黒い雨」は,優れた文学作品であるとともに,私たちに平和の尊さを教えてくれるのです。

文学碑
戦争はいやだ
勝敗はどちらでもいい
早く済みさえすればいい
いわゆる正義の
戦争よりも
不正義の
平和の方がいい

井伏鱒二著「黒い雨」の一節より



 昨年の芒種の前日に、『黒い雨』について記事を書いたが、その中で、猪瀬前東京都知事が、かつて『黒い雨』を盗作であるかのように批判していたことも紹介した。
2013年6月4日のブログ

 神石高原町の文学碑の紹介サイトから、再度引用する。この内容を読めば、モデルとなった重松静馬さんと井伏鱒二は釣り仲間として懇意にしており、二人の友好関係から、戦争の悲劇を伝える傑作が生まれたのであって、あの作品が盗作などではないことが分かろうと言うものだ。二人が語らう写真も掲載されている。

黒い雨
旧三和町小畠の商店街裏の丘に,重松静馬さんの生家があります。
「この数年来,小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た」
この書き出しで始まる井伏鱒二の代表作「黒い雨」は,昭和三六年春に完成した重松静馬さんの作品をもとに書かれました。

主人公「閑間重松」は,重松さんがモデルになっています。
小畠には代官所があり(現在の役場があるところ),たくさんの古文書が残されていました。井伏氏は,この古文書をもとに作品を書いたこともあり,三和町に関係する小説は,「黒い雨」以外にもたくさんあります。

井伏氏はそんなことから知り合いになった重松さんと一緒に釣り宿に泊まったとき,原爆を受けた姪の話になり,自分の記録もあるからというので,後に「黒い雨」と改題される,「姪の結婚」を書くことになりました。
重松さんの被爆日記や,広島や小畠の人々の体験談などをもとに,昭和四〇年一月,井伏氏は「新潮」に「姪の結婚」の連載をはじめ,八月に「黒い雨」に改題。翌年九月に作品は完成しました。

現在重松さんの息子さん夫婦が住まれている家には,当時の井伏氏からの書簡が多数保存されています。「父は井伏さんの作品が好きで,自分もよく似た表現をしていたのですよ」
父,静馬さんのこと,井伏氏のことなど,思い出は尽きません。

「黒い雨」が映画化,ドラマ化された時には出演者がお墓参りに来そうです。
戦後60年。
実際に戦争を体験した人は少なくなり,あの悲しみ,あの怒りを忘れつつある現在,「黒い雨」が伝えようとしたものを,私たちはもう一度考えなければならない時代を迎えています。


 重松さんのお墓参りに来た出演者の中に、小沢昭一さんもきっと含まれていたと思う。

 ますます、「正義の戦争」に突き進もうとする世相のことを、小沢さんがご健在だったなら、どうおっしゃるだろうか。
 きっと、平和の方がいい、という思いには変わりがないだろう。

 小沢さんは、「東京やなぎ句会」の一員で、俳人としても有名。

 この季節にちなんだ、小沢昭一さんの俳句をご紹介。なお、俳号の変哲は、お父さんの川柳の号が由来である。

 
 ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり 変哲

 小沢さんは「NEKOの唄」を作詞作曲するほどの猫好き。

 それでは、私も小沢さんを偲んで、一句。
 我が家は、連れ合いも私も犬好き。

 ふろふきや犬嗅ぎ寄りて食べにけり 幸兵衛

 これを・・・盗作と言う。
 小沢さんごめんなさい^^
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by kogotokoubei | 2014-12-10 06:02 | 今日は何の日 | Comments(4)
また10月1日がやって来た。

 古今亭志ん朝が旅立って、13年が経つ。

 最初に父、志ん生のこと。今年は命日9月21日になにも書かなかったからね。

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名演 古典落語CD BOOK_牡丹燈籠(宝島社)

 先日、柳家小満んの会で『牡丹燈籠・お札はがし』を聴いてから、志ん生のこの音源を聴いた。
 その音源は円朝の原作とCDのセットになっていた宝島社発行のCD BOOKで、CDには時期の違う次の二つが収録されていた。
 ① 『牡丹燈籠 ~お露新三郎~』(昭和32年7月10日ニッポン放送/28分20秒)
 ② 『牡丹燈籠 ~お札はがし~』(昭和35年7月27日ニッポン放送/27分34秒)

 どちらも倒れる前の高座。
 ①は、お露新三郎の出会いから、新三郎がお露に会いたいあまりに夢を見る場面、山本志丈が久し振りにやって来てお露が死んだことを告げ、その後、お露とお米の幽霊がやって来る最初の夜まで。
 ②は、お露新三郎の出会いの場面を地を交えて振り返ってから、お露とお米の幽霊が毎夜やって来る場面。そして、伴蔵がその光景を観て、お露とお米の腰から下がないことに気づき驚いて白翁堂に伝え、白翁堂が新三郎の死相を見る。その後、新三郎は谷中新幡随院の墓場でお露とお米の墓、お露が毎夜持ってくる牡丹燈籠を見つけてお露が幽霊だと知る。新幡随院の良石からお札と仏像を借り受けて家のあらゆる入口にお札を貼ったので、幽霊の二人は入ることができない、というところまでを演じ、その後にお札はがしになると地で説明してサゲ。

 この二作、共通して語られる場面で、時期の説明に違いがある。
 それは、萩原新三郎がお幇間医者である山本志丈と2月に亀戸の臥龍梅を観に行った帰りに、柳橋のお露の住む寮(別荘)に立ち寄って、二人とも一目ぼれした後、山本志丈が、次に新三郎を訪ねる時期である。
 原作では、6月23日となっている。

 ①の方は、6月で、ほぼ原作通り。無沙汰の理由を志丈は風邪が流行って忙しかったと言った後で、柳橋のお露の寮を訪ねた際の新三郎とお露の様子から、自分が仲介して二人が惚れ合ったなどということが、出入りしているお露の実家飯島家に知れると面倒なことになるので足が遠くなった、と付け加えている。お露が新三郎に恋焦がれて死んだのが5月ということも含め、ほぼ原作通り。
 しかし、②では、志丈は4月に新三郎を訪ねて、無沙汰の理由は風邪が流行ってと言うが、二人の仲を案ずるという表現はない。お露が死んだのは3月になっている。

 あえて譬えるが、文楽はこの噺を持っていなかったが、几帳面な文楽ならこんな間違いはしない。
 
 『お札はがし』の昭和35年は倒れる前年、ちょうど70歳の時だ。そろそろ、もの忘れをする年齢であったこともあるだろうが、志ん生の大雑把な性格にもよるのだと思う。いつ志丈が新三郎を再訪しようが、噺の大筋には影響しない、という思いもあったのではなかろうか。

 私は、時期設定に間違いがあろうと、古希を過ぎてなお円朝に挑戦した志ん生は凄いと思う。

 そう考えると、72歳での先日の小満んの高座もたいしたものだ。やや言いよどみはあったが、時期的な経緯は原作に沿っていたし、前半のお露新三郎の出会いの場面や、後半の幽霊となったお露とお米の新三郎訪問の場面も、しっかりと演じられていたように思う。


 さて、古今亭のこと。
 馬生の口癖「何でもいいんだよ」は、父譲りであろう。たしかに、そういった大らかさは芸人には大事だろうと思うが、志ん生のそれは、スケールが違う。

 そんな父であり師匠であった志ん生について、馬生と志ん朝の兄弟が同じ席で語っている記録がある。

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『世の中ついでに生きてたい』(河出書房新社)

 『世の中ついでに生きてたい』は平成17(2005)年の発行。

 この中に、昭和52(1977)年に週刊朝日に掲載された、結城昌治と馬生、志ん朝との対談があるので、引用したい。朝日新聞から『志ん生一代』が発売されたばかりのことだろう。その本のことから対談が始まる。

 対談当時、馬生は49歳、志ん朝は39歳の若さ。結城昌治は馬生より一歳年上なので、50歳。

結城 ご身内のことを好き勝手に書かせていただいて、いろいろご迷惑をおかけしたんじゃないかと思って恐縮してますが、とにかくわからないことだらけでね。今まで自伝などに書かれているのは、志ん生師匠の生まれた日からご両親の名前まで違っているんですよ。これは驚きでした。
志ん朝 実の子の私たちがあんまりよく知らないですものね(笑)。
結城 取材に協力していただいた皆さんは、五、六十年前の記憶をたどるわけでしょう。いろんな方に会って聞けば聞くほど話がゴチャゴチャになっちゃうんですよ。それぞれ記憶が違ってるんですね。だから周りから固めていって、このへんだなと思って書くしかない場合が多かった。四十過ぎまではほとんど無名でしたからね。
志ん朝 ぼくなんか初めて聞くような話がずい分とありましたね。知らないことのほうが多いですよ。
結城 馬生さんから見たお父さんはどういう人でしたか。
馬生 あの通りですよ。ほんとに豪放なところを他人に見せるけれども、内心は非常に気の小さい人だったしね。そういうところがよく描けてましたよ。
結城 内ヅラと外ヅラのちがいはありませんでしたか。
馬生 そういうことはなかったですね。内も外もたいして変わんないんです。
結城 家の中でも明るくて?
志ん朝 いや、明るくないんです。
結城 志ん朝さんが生まれてからだいぶ明るくなったと聞いてますが。
志ん朝 明るくなったといってもわりに仏頂面してるときのほうが多いですね。たまに機嫌がいいとシャレ言ったりしてますけど。
馬生 確かにね、弟が生まれてからかなり明るくなりましたよ。それ以前はうちに帰ってこない日のほうが多かったり、帰ってきてもおふくろさんと言い合ったりもしましたしね。



 志ん朝が生まれた当時の父親の喜びようは、本人が知るはずもない。高座では『桃太郎』ばかり演じていたらしい。

 紹介した対談中、馬生は、弟の発言を聞きながら、「お前が生まれる前は、親父はもっとひどかったんだぞ」と心の中で呟いていたような気がする。

 十歳違いの兄弟。馬生には、“うちに帰ってこない日のほうが多かったり、帰ってきてもおふくろさんと言い合ったり”していた志ん生の思い出はばかりが強く残っていたのだろう。
 それに反して、志ん朝には、機嫌が良かったり悪かったりはしていても、ほとんど家にいる志ん生の面影が強かったはずだ。

 冒頭に書いた志ん生の『牡丹燈籠』について、こんな会話がある。

結城 人情ばなしを最後までものにしたがってたでしょう。志ん生師匠の人情ばなしはうまく笑わせてくれましたけど、それでもワーッというのは無理ですよね。
馬生 人情ばなしをやっても笑わせなければダメだといってましたね。確実に笑わせるところを一ヵ所残してましたよ。これには感心しましたね。『牡丹燈籠』をやったって一ヵ所笑わせるんですから。『牡丹燈籠』は笑わせるものじゃないでしょう、怪談だから。
結城 それは客を喜ばせなければならないということと、もし受けなかったらという気の小ささ、両方合わさってたんですかね。
馬生 さあ、そこまでいくとちょっとわからないんですけどねえ。たとえばね、飯島平左衛門に萩原新三郎は首を切られるところをね、「ザッと切ると首がコロコロッと・・・・・・」-みんなワッと笑うんですよ、そういう描写が非常におかしんですね。普通だったら、首を切られてその首がコロコロなんておかしいわけがないんです。おやじさんがやるとおかしいんですよ、ねえ。「エーッ」と笑いの静まるのを待つくらい受けるんです。で、「これは夢でした」というとまたワーッと受ける。
志ん朝 それとね、うちのおやじさんの人情ばなしというのは、むずかしくやらないんです。構えないんですね。普通は、講釈と人情ばなしはどう違うのと聞かれるくらい構えるでしょう。しゃべるときの態度もスッとやりながらツーッとしゃべっていくでしょう。そこがうちのやじは緩急自在でしたね。世間ばなしをするような感じなんですね。「実は、皆様にこういうようなことを・・・・・・」という言い方じゃなくて、「この間ね、あそこに行ったんですよ。そうしたらね・・・・・・」という調子なんですね。
 ところがこれをね、ぼくらがやったんじゃダメです。世間ばなしをするように軽くはできないですよ。おやじは構えないでできるんですね。
 これはとてもすばらしいことだと思うんです。大概の人は構えますよ。そのときのなりだってかなり気にするでしょう。それをうちのおやじは、前はだけちゃっても平気で、どんどん落語じゃなくて人情ばなしをやってっちゃうんですね。これがすごいなと思いますね。



 そうそう、首が落ちてコロコロッ、で笑った。

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『よってたかって古今亭志ん朝』(志ん朝一門、文春文庫)

 『よってたかって古今亭志ん朝』(志ん朝一門、文春文庫)の巻末には、「古今亭志ん朝 主要演目一覧」が記載されている。主要なホール落語会における全演目一覧で、非常に有益な情報だ。

 回数の多い順にネタを並べると、次のようになる。

12回( 1) 愛宕山
11回( 2) 黄金餅・夢金
10回( 4) 付き馬・火焔太鼓・品川心中・化け物使い
 9回( 9) 船徳・搗屋幸兵衛・富久・酢豆腐・抜け雀・大工調べ・三枚起請・明烏・
       唐茄子屋政談
 8回( 4) 井戸の茶碗・居残り佐平次・鰻の幇間・三年目
 7回( 4) 大山詣り・厩火事・柳田格之進・お若伊之助
 6回( 7) お化け長屋・文違い・干物箱・五人廻し・二番煎じ・宿屋の富・芝浜
 5回(14) 巌流島・お直し・今戸の狐・火事息子・子別れ・甲府い・締め込み・茶金・
       お見立て・寝床・碁泥・刀屋・首提灯・四段目
 4回(11) 粗忽の使者・猫の皿・小言幸兵衛・稽古屋・三方一両損・幾代餅・
      宗珉の滝・佃祭り・もう半分・百年目・坊主の遊び
 3回(12) 花見の仇討ち・そば清・高田馬場・試し酒・妾馬・駒長・
      口入屋(引越しの夢)・崇徳院・三軒長屋・蒟蒻問答・文七元結・
      水屋の富
 2回(20) 王子の狐・風呂敷・錦の袈裟・替り目・らくだ・花色木綿・中村仲蔵・
      おかめ団子・お茶汲み・雛鍔・ぞろぞろ・紙入れ・たがや・御慶・
      へっつい幽霊・豊志賀の死・百川・真田小僧・
      蔵前駕籠・浜野矩随
 1回(38) 天災・元犬・粗忽の釘・ずっこけ・のめる・二人かしまし・和歌三神・
      近日息子・蛙茶番・麻のれん・三助の遊び・たぬき・つるつる・疝気の虫・
      因果塚の由来・宮戸川・夏の医者・三人無筆・しびん・禁酒番屋・
      紺屋高尾・長屋の花見・ちきり伊勢屋・素人鰻・首ったけ・佐々木政談・
      反魂香・近江八景・代脈・堀の内・羽織の遊び・幇間腹・千両みかん・
      野ざらし・あくび指南・強情灸・藁人形・時そば

 志ん朝が約400回のホール落語会における演目の中で、円朝の怪談噺は『豊志賀の死』が2回のみ。
 昭和56(1981)年7月31日の東横落語会と昭和57(1982)年6月22日の志ん朝の会である。

 『牡丹燈籠』は演じていない。
 ネタの好みもあるだろうが、とても父志ん生のようには出来ない、という思いが強かったようにも思う。

 『世の中ついでに生きてたい』の対談の内容を読むと、馬生と志ん朝との、志ん生の芸に関する見解の違いが分かって興味深い。
 馬生は、志ん生の音源を聴かない、と語っている。志ん朝は、倒れる前の音源を中心に聴いているようだ。

 この本には、志ん朝と江國滋さんとの対談も含まれており、『船徳』や『明烏』は志ん生から稽古をしてもらっており、当時、文楽に稽古をつけてもらうのは、はなから諦めていたと発言している。

 馬生は、志ん生に近づこうとして、また離れ、最終的に独自の芸風を築いたように思うが、果たして志ん朝は、どうだったのか。

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美濃部美津子『三人噺』(文春文庫) 
 美濃部家の長女、美津子さんへの聞き書きによる『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』。
 この表紙、実にいいねぇ。
 単行本は、志ん朝の一周忌にあたる平成14(2002)年の10月に発行され、その後文庫にもなった本。
 ニッポン放送アナウンサーだった塚越孝の聞書き。あの、ツカちゃんも、今はもういない。ポッドキャストで、ずいぶん多くの噺を知ることができた。
  
 さて、美津子さんが、志ん朝の芸風について語っている部分をご紹介。

 志ん朝の場合は、明るくて派手なしゃべり口調はお父さんの系統ですよ。志ん朝の芸風を「完璧な文楽型を目指した」と言っている人がいるらしいんですが、あたしはちょっと違うんじゃないかと思ってるんです。確かに噺としては完璧でしたが、その日の気分によってくすぐりの入れ方が違ったり、いい加減というかフラ(持って生まれた個性や味)のいいところはお父さんと同し。志ん朝は文楽さん的なキッチリした部分と、お父さんの雰囲気を混ぜるつもりでいたんじゃないでしょうか。


 さすが、実の姉はよく分かっている。

 昭和48年、志ん生が旅立った。馬生が45歳、志ん朝、35歳の秋のことだ。

 その五年後に起こった落語協会分裂騒ぎ。結局、志ん朝は尊敬していた円生と袂を分かち、兄が副会長であった協会に復帰した。真打昇進に関する考え方では、大量真打昇進を行う会長の小さんではなく、厳しく吟味すべしという円生と思いが近かっただろうから、内心、忸怩たる思いであったと察することができる。

 私は、馬生が父であり師匠である志ん生に対して複雑な思いがあったように、志ん朝も、兄については相克する二重の思いがあったと察する。
 それは、戦前、戦中の厳しい世の中で、美濃部家の屋台骨を支えてくれた兄、美濃部清への感謝の思いという一面。もう一面は、落語協会において、自分とは父志ん生の評価、真打昇進規準などに対する考え方が違い、やや保守的とも思える噺家馬生に対して煮え切らなさを感じる思い。若かりし日の志ん朝は、「兄貴世話になった」という感謝の念と、「馬生師匠、それじゃ落語界は変わらないよ!」という思いも混在していたのではあるまいか。

 四十路を迎えた昭和53年の騒動の後、志ん朝は自分の芸を磨き上げることに邁進し、政治的な行動から遠ざかって行ったように見受けられる。
 兄への複雑な思いの相克も、時間の経過とともに次第に解消されていったのだろう。

 しかし、師匠である志ん生への思いは、兄と別であり、あの「構え」のない芸風を最後まで目指していたのではなかろうか。
 
 晩年、その思いは実りつつあったと思う。
 それは、大須演芸場での独演会の音源から感じる。
 マクラの楽しさも含め、志ん生の芸風のように、構えのない実にのびやかな雰囲気で高座をつとめる志ん朝の姿を想像することができる。
 古希を過ぎた志ん朝の高座を聴くことはできなかったが、大須の音源で、その将来を察することができる楽しいマクラや、何とも自由な雰囲気で演じられるネタを味わうことができる。

 大須のマクラ集、河出さんで出版してくれないかなぁ。でも、無理か、結構文字では書けない内容もあるからね。

 志ん朝の命日は、父や兄のことも含む美濃部家のことに、いろいろと思いが至るのであった。
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by kogotokoubei | 2014-10-01 00:24 | 今日は何の日 | Comments(8)
9月29日は、旧暦の9月6日。安政5年のこの日は歌川広重が旅立った日である。
 Wikipediaから引用。
Wikipedia「歌川広重」

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、浮世絵師。本名安藤鉄蔵。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。また、ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。


 あくまで、歌川広重であって、安藤広重ではない。
 定火消しの家に生まれたんだぁ。
 正直なところ、広重については勉強不足。今回は、ある特定の作品を中心のお話。

 ゴッホが模写した作品の中に、先週金曜26日に柳家小満んで聴いた『牡丹燈籠』の舞台の一つである亀戸の梅の絵がある。

 あの噺では、萩原新三郎がお幇間医者である山本志丈と亀戸の臥龍梅を観に行った帰りに、志丈がお露の住む柳橋の寮(別荘)に新三郎を連れて行き、二人は運命の出会いとなった。

 亀戸の梅って、そんなに有名だったのか。

 Public Domain Museum Of Artの歌川広重「名所江戸百景」から、「亀戸梅屋舗」をお借りした。
Public Domain Museum Of Artサイトの該当ページ

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 「臥龍梅」の由来について、亀戸梅屋敷のサイトからご紹介。
 なお、現在の亀戸梅屋敷は、亀戸に点在する商店街の有志の方たちにより建設され、昨年から運営されているらしい。

亀戸梅屋敷サイトの該当ページ

江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋(いせや)彦右衛門(ひこうえもん)の別荘「清香庵(せいきょうあん)」があり、
その庭には見事な梅の木々が生えていました。

立春の頃になると江戸中から人々が北十間川や竪川を舟でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。

特に、庭園のなかを数十丈(150m)にわたり枝が地中に入ったり出たりする一本の梅が名高く、評判を聞きつけこの地を訪れた水戸光圀は、まるで竜が臥せているようであると感嘆し、その木に「臥竜梅(がりゅうばい)」の名を与えました。また、八代将軍・徳川吉宗は、一旦土に入った枝が、再び地上に這い出る様を生命の循環になぞらえ、「世継(よつ)ぎの梅(うめ)」と命名し賞賛したそうです。



 水戸光圀、そして徳川吉宗も愛でた梅なのだなぁ。

 梅屋敷のサイトには、歌川広重の浮世絵のことも、もちろん紹介されている。

「亀戸梅屋敷(かめいどうめやしき)」の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重(うたがわひろしげ)が安政三年(1857年)に描いた『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホが模写(作品名「日本趣味 : 梅の花」/1887年)するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。

粋な江戸っ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。

当時の如き賑わいの場として、そして、江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化を世界へ発信する拠点として、当館を「亀戸梅屋敷」と名付けました。


 亀戸の商店の方々が、自分たちの住む街の歴史をしっかり継承するために造られたのが、梅屋敷ということなのだろう。

 では、ゴッホの模写と並べてみよう。(Wkipediaより)

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 左が広重、右がゴッホ。


 梅は春だが、亀戸梅屋敷では、10月8日、旧暦の9月15日の満月の日に、月見の会を催すらしい。
亀戸梅屋敷サイトの該当ページ

2014.09.19
10月8日は梅屋敷でお月見をどうぞ!
秋の夜長に亀戸梅屋敷では「お月見の夕べ」を
開催します。お琴を聴きながら和菓子をどうぞ。

日時:10月8日(水)18:00~21:00

・広場にてお琴の音色でお茶会を楽しんで下さい。
・和菓子が付いて 500円です。(前売り券450円)
・雨天の場合は 、館内となります。
・屋台フードやソフトドリンク、お酒も販売致します。

お問い合わせ:亀戸梅屋敷 03-6802-9550
(月曜日 定休日(休日の場合は、火曜日))



 実は、8日の二日前6日が旧暦9月13日で「十三夜」なんだけどね。
 別名、「後の月(のちのつき)」(中秋の名月の後、だから)、あるいは「豆名月」「栗名月」。

 中秋の名月は旧暦8月15日で、今年は9月8日だった。この行事は中国由来で、中国では国民の祝日。家族集まって月餅を食べる風習がある。しかし、十三夜は日本独自の風習。

 まぁ、これから満ちて行く月を観るのも良し、真ん丸お月様を観て一杯呑むのも、また良し。(酒飲みの屁理屈^^)

 私としては、亀戸でのデモ→「牡丹燈籠」亀戸の梅→歌川広重の浮世絵、という連想ゲームでの記事であった。

 10月8日の月見の会、私は行けそうにないので、我が家からの月見で一杯やろう!
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by kogotokoubei | 2014-09-29 06:10 | 今日は何の日 | Comments(4)
9月25日は、玉川 スミ師匠の命日。
 このブログは、いつもは敬称略なのだが、この方には“師匠”をつけたい。

 大正9(1920)年7月17日生まれで、2年前、平成24( 2012)年9月25日に満92歳で旅立たれた。

 2010年のNHK戦争特集番組の「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いた。
2010年8月11日のブログ

 あの番組で玉川スミ師匠がどうおっしゃっていたか、以前の自分の記事から、喜味こいしさん、森光子さんのことも含めて引用したい。

 NHKの番組では、この慰問団のこと、そして慰問団「わらわし隊」のスーパースターであったミス・ワカナのことを、生き残られた数少ない当時の兵士の方々への取材で振り返るとともに、芸能人からは、今年で83歳になる喜味こいしさん、そして共に今年90歳になる森光子さん、玉川スミさんが当時の回想を貴重な映像として残してくれた。
 喜味こいしさんは当時を振り返り、有無を言わせず慰問団に順番に派遣されていく先輩達の顔を見ると、「これが最後か・・・・・・」という万感の思いだった、と語る。
 玉川スミさんが、いまだに艶やかな舞台を勤めた後で、たぶん滅多に口にされないはずの、残酷な戦争という名の殺人シーンを回顧された言葉は、胸に重く突き刺さる。
 そして、ミス・ワカナに可愛がってもらい、舞台『おもろい女』でワカナを演じた森光子さん。正直な感想として、この番組を見ながら、「森さんの遺言か・・・・・・」という思いが募った。彼女が語る戦争体験とワカナへの思慕、結果として伝わる強烈な反戦の主張。演技ではない、人間“森光子”として語り残したいことを振り絞っている、という印象を強く受けた。


 4年前のブログだ。このお三方とも、旅立たれた。

 さて、湿っぽい話は、ご本人もお嫌いだろうから、その芸について、少し書きたい。
 私は生でスミ師匠の芸に触れたことは、一度だけ。しかし、テレビではよく拝見したし、その芸が好きだった。
 
 
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 昭和63年に出版された、「The DODOITSU おスミの艶歌記念日 愛のメッセージ」(博美館出版)という本が手元にある。この本、都々逸を少しは知りたいと思って古書店で買ったのだが、実に良いのだ。

 いくつか紹介したい。都々逸の後に、スミ師匠の味のあるコメントがある。( )の中がそれ。
 まず、 「おスミの 人間“ラブ”を忘れちゃおしまいですよ」の章から。

   ぬしとわたしは 玉子の仲よ
        わたしゃ白味で きみを抱く
       
          (いやっ、ヒヨコができちゃう!)

 いいでしょう!

 この章から、もう一つ。

   ぬしとわたしは 羽織の紐よ
        かたく結んで 胸におく
      
         (今のヤングは羽織の紐も結べない)
  

 次に、「おスミの 棹をさしたい流されてみたい!」の章より。

   私しゃお前に 火事場のまとい
        ふられながらも 熱くなる
 
         (しっかり水をぶっかけておやりよ) 

   枕出せとは つれない言葉
        そばにある膝 しりながら
 
         (文句いわず、枕を二つ出せばよい) 


 こういった都々逸が、た~くさん収録されている。

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 裏表紙(いわゆる表4)にあるプロフィールをご紹介。

ご存知、高座の人気者、三味線漫談の第一人者。1920年福島県郡山市在で生まれる。女流歌舞伎「市川牡丹一座」曾我廼家五九郎劇団の子役を振出しに、漫才界で活躍、のちに三味線漫談でユニークな芸風を確立、昭和46年芸術祭優秀賞受賞。現在寄席・ラジオ・テレビで人気を博している。


 くどいようだが、この本、昭和63(1988)年発行。スミ師匠68歳のときだ。その時から、四半世紀近く、現役として寄席に出演された。

 この本には、ところどころに「おスミのひと言」というコラムがあり、昭和46年の芸術祭受賞について、このような述懐がある。

おスミのひと言
 昭和46年(1971)「松づくし」の演技で、芸術祭優秀賞を受賞。その受賞パーティーで、司会者に促され、謝辞を述べる段になって、必死に涙をこらえていた私はとうとうたまらずにいいました。
「みなさん、ちょっと泣かせてください」
 集まった人たちは、わたしが泣き終わるまでただだまって待っていてくれました・・・・・・いまでも感謝しています。


 読んでいるこっちの目が潤んでくる。

 浪曲師であった父の影響で天才少女浪曲師として初舞台を踏んだのが3歳。14歳までに13回親が替わるという少女時代を経て、歌舞伎、新派や幅広い寄席の芸を修得し、51歳で芸術祭優秀賞を受賞した時に、こみあげるものがあったに違いない。

 この本、都々逸坊扇歌などの都々逸や扇歌が影響を受けた「よしこの節」、都々逸の元祖とも言われる「神戸節(こうどぶし)」なども巻末には掲載されており、都々逸好きには、たまりません。

 玉川スミ師匠の三味線と都々逸を含む俗曲の芸は、現役の小菊、小円歌、そして桧山 うめ吉などにも伝わっているのだと思う。しかし、あの何ともいえない三味線漫談の芸は、スミ師匠でしかありえない。

 もちろん、スミ師匠の前に、俗曲の歴史をつくった二人の先輩の存在も大きい。

 柳家三亀松 明治34(1901)年9月1日~昭和43(1968)年1月20日
 都家かつ江 明治42(1909)年3月5日~昭和58(1983)年9月29日

 そして、三大巨匠の最後のスミ師匠が、二年前・・・・・・。

 玉川スミ師匠の三回忌、都々逸の良さ楽しさとともに、偉大な寄席芸人のことを思う日でもあった。
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by kogotokoubei | 2014-09-25 18:38 | 今日は何の日 | Comments(9)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛