噺の話

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カテゴリ:歴史上の人物と落語( 1 )

正岡子規と寄席・落語

NHKの『坂の上の雲』第一部は次の12月27日放送の第五回で終了するので、また来年末までこのドラマとは間が空く。第一部第二回で、試験が終わってからご一同が寄席に繰り出し、下手な落語家を演じた古今亭菊六が彼らに野次られたシーンがあった。よく言われることだが、正岡子規と夏目漱石が懇意になったきっかけは寄席の話題で意気投合したからであった。すでにこのブログでは漱石と落語について書いたことがあるし、漱石の落語好きは彼の多くの作品にも反映されていて、いわば“物証”がたくさん残っている。それでは子規は、寄席や落語についてどんな記録を残しているかを、少しだけ書きたい。
 すでに先週の第一部第四回、日清戦争従軍記者として帰途にあった船上での喀血が、子規の病状が決して軽くないことを伝えているが、彼は病に伏せてからも、恩人である陸渇南が発行する新聞『日本』に随筆を発表していた。その内容の多くは岩波文庫で今日でも読むことができるが、もっとも若い時分から書き溜めていた随筆も『筆まかせ(抄)』として岩波文庫から発行されている。これは子規が東京にやって来た明治16年の翌年、明治17年2月13日から、新聞『日本』に俳句論を連載し始め、大学中退を決意した明治25年まで書き続けたものだ。慶応3(1867)年生まれの子規は、明治と年齢が一緒なので、17歳から25歳までの記録である。その中から第一編、明治19年に書かれた「寄席」と題した内容を抜粋。
正岡子規 筆まかせ(抄)

寄 席
  余はこの頃井林氏と共に寄席に遊ぶことしげく 寄席は白梅亭か
  立花亭を常とす しかれども懐中の黄衣公子意にまかせざること
  多ければ あるいは松木氏のもとに至りあるいは豊島氏の許に到り
  多少を借り来りてこれをイラッシャイという門口に投じることしば
  しばなれども未だかつて後にその人に返済したることなし 必ずや
  うたてき人やとうとまれけん また人をして余らの道楽心を満足
  せしむることは度々出来ることにあらざれば 時として井林氏は
  着物を質に置きその金にて落語家の一笑を買ふることもありたり 
  寄席につとめたりといふべし


 すでに大学予備門(明治19年からは第一高等中学校と名称変更)で夏目漱石(金之助)と出会っているはずなのだが、彼の名はこの文章にはまだ出てこない。寄席や落語の話題で仲良くなったのはこの後なのだろう。しかし、借金までして寄席へ通ったというのだから、相当の熱の入れようだ。その後、子規が債権者に返済したかどうかは不明。
 ちなみに「黄衣公子(きんいこうし)」は「うぐいす」のことなので、うぐいす色をしたお金のことを、洒落てこう呼んだのだろうと思う。(この件、幸兵衛は自信なし・・・・・・)
 “しゃれ”といえば、地口に関心のあった子規は、この『筆まかせ(抄)』には残念ながら割愛されているのだが、第二編の「一口話し」に、落語家が高座にかける「一分線香即席ばなし」を真似た作品を書いている。これは矢野誠一さんの『文人たちの寄席』から引用する。
矢野誠一 文人たちの寄席
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 ・ラムプがこわれた「ホヤ~
 ・あの木村の親父は死んだといふねヘ「オヤ~
 ・あの男も英雄だったが 哀れな西郷をしたなァ
 ・若竹亭へいかんか「よせ~
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 なぜか、我々凡人をホッとさせてくれる作品ではないか(笑)

 次に、彼にとっての晩年の文章から。新聞『日本』に明治34(1901)年1月16日から7月2日までの期間、途中たった四日だけ休み計164回にわたって連載された『墨汁一滴』より抜粋する。子規34歳、亡くなる前年である。
正岡子規 墨汁一滴
 

散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見世物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治に行く楽、紅灯緑酒美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯を鼓する楽、道灌山に武蔵野の広さを眺めて崖端の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥の自由、寝返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠に行く自由、書籍を読む自由、癇癪の起りし時腹いせに外に出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。・・・・・総ての楽、総ての自由は尽(ことごと)く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。
(後 略)                            (3月15日)


 病に伏せる身の上であっても、彼の筆は決して暗くない。もちろん書いている内容そのものは健常者から見れば誠に可哀想ではあるが、彼はユーモアたっぷりに身の上を表現し、そして「まだ、食べて、そして書くことができる」と自分自身を鼓舞しているようにも読み取れる。
 そして、この時期には、いろいろと昔の回想もネタになる。5月30日付けで次のような文章がある。

  (前 略) 
余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃ンお事であったろう。そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったという事である。都人士(とじんし)の菽麦(しゅくばく)を弁ぜざる事は往々にしてこの類である。もし都(みやこ)の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居(ひなずまい)をせねばならぬ。 (後 略)


 田の苗が米になることを知らぬ漱石に、子規はよほど驚いたことだろう。その時は笑いころげたのではなかろうか。ちなみに「菽麦(しゅくばく)を弁ぜず」とは、三省堂の「大辞林」によると、中国の左氏伝(成公十八年)にある言葉で、「豆と麦との区別さえつかない。非常に愚かなことのたとえ。」とのこと。私は四十歳くらいまで、カリフラワーとブロッコリーの違いが分からなかった。どっちも嫌いなので覚えようとしなかった、とも言える。しかし、苗が米になることは、田舎で生まれて田圃や畑に囲まれた環境だったので幼い時分から知っていた。かといって、私の方が漱石より偉いということにはならない。当たり前だ。

 さて、正岡子規はその短い生涯を俳句に捧げたわけだが、その背景には寄席・落語から獲得したユーモア精神や、漱石をはじめとする同好の士との交流が大いに影響していると思うのだ。そして「坂の上の雲」を追いかけながら、秋山真之や母、妹に暖かく見守られ、35歳とはいえ幸せな生涯を送ったのだと思うし、そう思いたい。
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by kogotokoubei | 2009-12-22 17:31 | 歴史上の人物と落語 | Comments(0)

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