噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

カテゴリ:幸兵衛の独り言( 250 )

 肥田舜太郎の訃報を目にした。
 毎日新聞から引用。
毎日新聞の該当記事

肥田舜太郎さん100歳=広島原爆で被爆の医師
毎日新聞2017年3月20日 20時49分(最終更新 3月20日 22時10分)

 広島原爆で被爆し、医師として被爆者医療に尽力した肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)さんが20日、肺炎のため亡くなった。100歳。葬儀は26日午前10時半、さいたま市浦和区瀬ケ崎3の16の10のさがみ典礼北浦和葬斎センターで営まれる。喪主は元全日本民医連会長の長男泰(ゆたか)さん。

 軍医として広島陸軍病院在勤中の1945年8月6日に被爆し、直後から被災者救護にあたった。戦後、東京や埼玉で低所得者向けの診療所を開設し被爆者を診察。30年にわたって日本被団協原爆被爆者中央相談所(既に解散)の理事長を務め、全国の被爆者への医療相談に取り組んだ。医師の立場から原爆被害の実態を伝えるため、欧米など海外約30カ国も訪問。各国の反核団体と連携して核兵器廃絶を訴えた。

 2000年代の原爆症認定集団訴訟では証人として出廷し、長年の臨床経験と海外の文献研究を基に証言。原爆投下後に広島・長崎に入った「入市被爆者」が、飛散した放射性物質を呼吸や飲食で体内に摂取し、「内部被ばく」を起こしてがんなどの原因になったと訴えた。国の認定手法の問題点を突き、原告勝訴の判決を引き出す力になった。

 09年に医療の第一線から退いた後も、各地で精力的に講演活動を展開。毎日新聞が06年から続けている記録報道「ヒバクシャ」でも反核や平和への思いを語っていた。

 百歳での大往生。

 その長寿を天が肥田さんに与えたのは、原爆の悲惨さ、内部被曝の実態を世に知らしめるという仕事をしてもらうためではなかっただろうか。

 肥田さんは、まさに、「被爆」と「被曝」の恐怖を伝えてきた“語り部”と言えるだろう。

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肥田舜太郎・鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』

 肥田舜太郎さんと鎌仲ひとみさんの共著『内部被曝の脅威-原爆から劣化ウラン弾まで』から引用したい。

 本書は2005年に刊行されたものだが、私は3.11の後で読み、何度か拙ブログ(現在は兄弟ブログ「幸兵衛の小言」)で紹介している。

 肥田さんが執筆担当の「第2章 爆心地からもういちど考える」より。

 ここでは被曝から60年後の時点での状況が書かれているが、さて、どれほど事態は改善されているのか、大いに疑問だ。

 引用文の最期の部分で、肥田さんは、国の対応を「差別」と糾弾する。
2000年代の被ばく者 
 中級の建設会社の社長で根っからの酒好き、じっとしていることが嫌いでいつも忙しく何か活動しているという友人がいる。定年で会社を退いてから町内会の役員を引き受けて、祭りの準備から消毒の世話まで目まぐるしく動きまわっているうちに、健康診断で血小板減少を指摘された。
 気になることがあって無理やり精密検査をすすめたところ、骨髄異型性症候群という厄介な病気のあることが分かった。専門学校時代、原爆投下の広島に何日かたって入市したと聞いたことを思い出し、確かめたところ1945年の8月9日に五人の級友と海軍のトラックで広島に入市し、海田市からは徒歩で千田町の県立広島工業学校まで行き、誰もいない崩れた校舎に入って散乱している機械器具を片付けたり防水布を掛けたり、三時間くらい作業をした。近辺は学校ばかりが集まっている地域で人は一人も見かけず、日が暮れたので呉へ帰ったという。
 彼らは1944年秋から呉の海軍施設に勤労動員で派遣されていたのである。明らかに入市被ばく者なので、早速、被ばく者健康手帳交付の申請を勧めたが、億劫なのか、なかなか手続きをしないでいるうち、今度は大腸癌が見つかって入院手術となり、観念して手帳を申請、証人の依頼に手間取って、数カ月かかってやっと広島の被ばく者と認められた。
 現在、血色素の一定数を目安に輸血を繰り返しているが治癒の見込みはなかなかむずかしい。厚生大臣の認める認定患者認定を申請したが四月末、永眠した。

被ばく者の六十年 
 2005年の今年、生き残っている約二十七万人の被ばく者の多くは二つ、三つの病気を持ちながら、様々な不安や悩みを抱えて生き続けている。
 彼らの多くは被ばくの前は病気を知らず、健康優良児として表彰までされたのが、被ばく後はからだがすっかり変わり、病気がちで思うように働けず、少し動くとからだがだるくて根気が続かずに仕事を休みがちになった。医師に相談していろいろ検査を受けても、どこも異常がないと診断され、当時、よく使われたぶらぶら病の状態が続き、仲間や家族からは怠け者というレッテルを貼られたつらい記憶を持つものが少なくない。事実、「からだがこんなになったのは原爆のせい」とひそかに思いながら被ばく事実を隠し続け、誰からも理解されずに社会の底辺で不本意な人生を歩いた被ばく者を私は何人も診ている。

占領米軍による被ばく者の敵視と差別 
 被ばく者は敗戦直後から米占領軍総司令官の命令で広島・長崎で見、聞き、体験した被ばくの実相を語ること、書くことの一切を禁止された。違反者を取り締まるため、日本の警察に言動を監視された経験のある被ばく者は少なくない。また、1956年に日本核団協(各都道府県にある被ばく者の団体の協議会)が結成された前後は、被ばく者は反米活動の危険があるとして警戒され、各地で監視体制が強められた。1957年、埼玉県で被ばく者の会を結成した小笹寿会長の回顧録のなかに、当時の執拗な埼玉県警の干渉があったことを書き残している。私自身も1950年から数年間、東京の杉並区でひそかに広島の被ばく体験を語り歩いたとき、米軍憲兵のしつこい監視と威嚇を受けた覚えがある。

日本政府による差別 
 敗戦後、辛うじて死を免れた被ばく者は家族、住居、財産、仕事の全てを失った絶望的な状態のなかから廃墟に掘っ立て小屋を建てて生き延びる努力をはじめた。故郷のある者は故郷に、ない者は遠縁や知人を頼って全国へ散って行った。被ばく地に残った者にも、去った者にも餓死寸前の過酷な日々が続いた。政府は1957年に医療法を制定し、被ばく者健康手帳を交付するまでの十二年間、被ばく者に何の援護もせず、地獄のなかに放置した。
 なお、被ばく者手帳を発行して被ばく者を登録したとき、政府は被ばく者を①爆心地近くの直下で被ばくした者、②爆発後二週間以内に入市した者および所定の区域外の遠距離で被ばくした者、③多数の被ばく者を治療・介護した者、④当時、上記の被ばく者の胎内にあった者に区分して被ばく者のなかに差別を持ち込んだ。

 肥田さんの指摘するごとく、これは「差別」である。

 戦後70年経っても、被爆者の苦しみは終わっていない。
 
 永田町や霞が関は、「新たな被爆者」を増やそうとはしないし、内部被曝の脅威を正しく評価しようとしない。

 年間20ミリシーベルトなどという基準を変えようとせず、自主避難する人々への支援を放棄しようとしていることに、肥田さんはどんな思いを抱いていたのだろうか。


 貴重な著作や記録、記憶を残してくれた肥田さんのご冥福を心よりお祈りする。

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by kogotokoubei | 2017-03-21 17:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

 明日一月二十五日は、初天神。
 初天神には「うそ替え」が行われる。

 落語の『初天神』や、うそ替えについては、八年前の今日、記事を書いた。
2009年1月24日のブログ

 今では、湯島にしろ亀戸、本家(?)の北野にしても、学問の神様として、受験シーズンということから多くの参拝者が絵馬を奉納することで有名か。

 柳家小満んの『質屋庫』のサゲに、その天神さまで祭られている菅原道真が登場する。

 天神さまは、他の神社とは違って、菅原道真という実在の人物を祭っている。
 今では、学問の神様、として何ら疑問もなく認識されているが、道真が祭られるようになった背景を、初天神を前に確認しておこうと、ある本を開いた。

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『日本の神々と仏』(岩井宏實監修、プレイブックス)

 『日本の神々と仏』(岩井宏實監修、青春出版社プレイブックス)は、神社やお寺について、日本人の信仰の歴史を含めて分かりやすく解説してくれる本。
 副題が「信仰の起源と系譜をたどる宗教民俗学」となっている。

 監修を担当した岩井宏實さんは昨年亡くなられたが、民俗学者で、国立歴史民俗博物館や帝塚山大学の名誉教授、大分県立歴史博物館顧問などであった方。

 あらためて、この本の「天神さま」の部分を引用。

天神さま

ー通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神さまの細道じゃ・・・・・・
 童謡「通りゃんせ」は天神さまへ子どもの七歳のお参りに行く様子が歌われている。
 しかし、この歌はよく聞くと怖い。「行きはよいよい、帰りは怖い」といって、子どもを捕まえてしまうのである。


 冒頭にある童謡「通りゃんせ」のことについては、この歌詞の解釈だけでも一つの記事になりそうなので、それは後日に譲り、あくまで、天神さまと道真について、あらためて引用。

 天神さまといえば、学問の神として名高い。しかし、神なのに天神さまには怖いイメージがついてくる。
 なぜなのか。
 じつは天神さまは、ほかの神とは性格と生い立ちがちがう。多くの神社は自然や神話に出てくる神や天皇を祭っている。ところが、天神さまはそのどれにも当てはまらないのである。
 天神さまはもとは天皇の臣下で、名を菅原道真といった。平安時代の秀才で、認められて右大臣まで出世したエリートである。書にもすぐれ、弘法大師空海、小野道風らと日本の三筆に数えられる。天神さまの「学問や書道の神さま」という性格づけは、生前の道真の資質に由来している。
 道真は恵まれた人生を送るはずだった。だが朝廷の政争に巻き込まれ、落とし穴にはまる。左大臣・藤原時平の讒言によって九州の大宰府に左遷され、あげく失意のうちに亡くなった。かれの死は、都の人々にとって後味の悪いものだった。その後、都に疫病が流行り、落雷や火災が相次ぎ、示し合わせたように道真を陥れた政敵が次々と不慮の死を遂げると、道真の怨霊の仕業にちがいないと人々は考え、その祟りにおののいた。
 当時は御霊信仰が盛んだった。不遇の死を遂げた者が怨霊となって人々に祟り、疫病を流行らせ、厄難を招くとい信じられていた。そのため、霊を神さまとして祭って怒りを鎮めようしたのだった。
 道真の家があった京都の桑原の地だけが落雷の被害に遭わなかったこともあって、かれを火雷天神とする御霊信仰が起こった。雷が鳴ると、身を守るために「桑原、桑原」と唱えるのは、このことに由来している。のちに道真の祟りを恐れた人々は、霊をなぐさめるために京都北野にあった天神社のかたわらに霊を祭る社(やしろ)を建てたのだが、これが北野天満宮(北野天神社)の始まりである。
 ここで、おやっと思われるかもしれない。道真の霊を祭るまえから、天神さまがすでにあったからである。じつは、天神さまはもとはあまつかみ、すなわち天の神として祭られていたのだ。時が経つにつれて、天神社と道真を火雷天神とする御霊信仰がひとつになった。ややこしい話だが、このように長い時を溶炉のなかで、いろいろな信仰がひとつに溶け合ってゆくのは珍しいことではない。
 今では学問の神さまとして高名な菅原道真も、「天神さま」として祭られた当時は、何をしでかすかわからない怨霊として恐れられていたのである。

 右大臣藤原時平が「しへい」という通称だったので、という小咄を『質屋庫』のマクラで柳家小満んが披露したことを思い出す。

 あの噺、最後に幽霊として掛け軸の道真が登場する場面、昔の人の受け取り方は、現代をは大きく違っていただろう。間違いなく、怨霊としての怖いイメージが強かったはず。

 天神さまにその霊を祭ったのは、道真の怨霊を鎮めるためなのだ。学問の神様、という存在になったのは、ずいぶん後のこと。

 ちなみに、今も京都市中京区に「桑原」という地名が残っている。
 しかし、この場所、道路部分の一角で、住居はない。
 なぜ、そんなところに地名を残したのか・・・・・・。
 それも、道真の霊を鎮めるためなのか。

 過去に何かったのか・・・など探るのはよそう。

 くわばら、くわばら。


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by kogotokoubei | 2017-01-24 21:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

 昨日1月22日が、実は「ジャズの日」だったということを、今日になって知った。

 Wikipedia「ジャズの日」から引用する。
Wikipedia「ジャズの日」

ジャズの日

ジャズの日(じゃずのひ)は、日本で JAZZ DAY実行委員会が制定した記念日である。毎年1月22日。

概要
東京都内の老舗ジャズクラブ「バードランド」「サテンドール」「オールオブミークラブ」のオーナーらによる「JAZZ DAY実行委員会」が2001年から実施。

JAZZの"JA"が"January"(1月)の先頭2文字であり、"ZZ"が"22"に似ていることから。

 以前は、あちらこちらで記念のコンサートが行われたようだが、果たして、昨日はどうだったのだろう・・・・・。


 そういえば、それほど気合いを入れて(?)は見ていなかったNHK朝の連続小説「べっぴんさん」で、主人公すみれの娘さくらが、ジャズ喫茶やナイトクラブのライブで聴く曲が、Sonny Clarkのアルバム「Cool Struttin'」のタイトル曲と“Blue Minor”だったのは、少し嬉しかった。

 「ブルーノート 1500番台」の名盤中の名盤と言われる「1588」番。
 
 もっともジャケットが有名なアルバムかもしれない。

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 ちなみに、柳家小ゑんは、自分のCDのジャケットをジャズ・アルバムのパロディでデザインすることで有名(?)だが、もちろん、このアルバムも対象となっている。
「落語くらぶ」サイトの該当ページ


 次の四曲のうち、1と2がソニー・クラークの自作。

1."Cool Struttin'" – 9:23
2."Blue Minor" – 10:19
3."Sippin' at Bells" (Miles Davis) – 8:18
4."Deep Night" (Charles Henderson, Rudy Vallée) – 9:34

パーソネルは、次の通り。

Sonny Clark – piano
Jackie McLean – alto saxophone
Art Farmer – trumpet
Paul Chambers – bass
Philly Joe Jones – drums

 昭和33(1958)年1月5日収録の同アルバムは、当時の日本で、本国を上回るほどに流行ったと言われ、特にタイトル曲は有名だ。
 しかし、私は、(レコードでは)裏面の“Deep Night”が好きだったなぁ。


 ちなみに、ソニー・クラークがヘロイン過剰摂取で31年の短い命を終えたのは、1963年の1月13日。


 ビル・エバンスは、ソニーへの鎮魂歌“NYC's No Lark” (ニューヨーク・シティーズ・ノー・ラーク)を作った。
 ニューヨークの街に雲雀(ひばり)が居なくなった、と言う意味で、巧妙なアナグラムになっている。

 つまり、「N・Y・C・S・N・O・L・A・R・K」の十文字を並べ替えると、「S・O・N・N・Y・C・L・A・R・K」になるのだ。

 遅ればせながら、私が大好きなジャズ・ピアニストを偲びたい。

 ソニー・クラークは亡くなった後も日本で人気があって、1986年の第1回マウント・フジ・ジャズ・フェスティバルでトリビュートバンドが『クール・ストラッティン』を演奏した時は、ジャッキー・マクリーン(アルトサックス)が驚くほどに、会場は盛り上がったらしい。

 一日遅れで「ジャズの日」を祝い、「べっぴんさん」で演奏された“Blue Minor”をお聴きのほどを。





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by kogotokoubei | 2017-01-23 21:45 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

 メリル・ストリープのゴールデングローブ賞授賞式でのスピーチが話題になっている。
 
 いくつかのネット・メディアが、翻訳文を掲載している。

 「ハフィントンポスト」にもスピーチの全文が掲載されている。
「ハフィントンポスト」の該当記事

 訳文は「クーリエ・ジャポン」が良さそうなので、少し紹介したい。
「クーリエ・ジャポン」の該当記事

ここにいる皆さん、私たち全員はいま、米国社会のなかで最も中傷されている層に属しています。だって、ハリウッド、外国人、記者ですよ。

それにしても、私たちは何者なんでしょう。ハリウッドとはそもそも何なんでしょう。いろんなところから来た人たちの集まりでしかありません。

私はニュージャージーで生まれ育ち、公立学校で教育を受けました。ヴィオラ・デイヴィスはサウスカロライナの小作人の小屋で生まれ、ロード・アイランドのセントラルフォールズで世に出ました。サラ・ポールソンはフロリダで生まれ、ブルックリンでシングルマザーに育てられました。サラ・ジェシカ・パーカーはオハイオで8人兄弟のなかで育ちました。

エイミー・アダムスはイタリアのヴィチェンツァ生まれです。ナタリー・ポートマンはエルサレム生まれです。

この人たちの出生証明書はどこにあるんでしょう。

あの美しいルース・ネッガはエチオピアのアディス・アババで生まれ、ロンドンで育ち──あれ、アイルランドだったかしら──今回、ヴァージニアの片田舎の女の子役で受賞候補になっています。

ライアン・ゴズリングは、いい人たちばかりのカナダ人ですし、デヴ・パテルはケニアで生まれ、ロンドンで育ち、今回はタスマニア育ちのインド人を演じています。

そう、ハリウッドにはよそ者と外国人がうじゃうじゃしているんです。その人たちを追い出したら、あとは、アメフトと総合格闘技(マーシャルアーツ)くらいしか見るものはないですが、それは芸術(アーツ)ではありません。

こうした皆さんが私に3秒間くれたのは、次のことを言うためです。

役者の唯一の仕事は、自分たちと異なる人々の人生に入っていくことで、それはどんな感じなのかを見ている人に感じさせることです。まさにその役目を果たした力強い演技が、この1年もいっぱい、いっぱい、いっぱいありました。息をのむ、心のこもった仕事ばかりです。

しかし、この1年の間に、仰天させられた一つの演技がありました。私の心にはその「釣り針」が深く刺さったままです。

それがいい演技だったからではありません。いいところなど何ひとつありませんでした。なのに、それは効果的で、果たすべき役目を果たしました。想定された観衆を笑わせ、歯をむき出しにさせたのです。

我が国で最も尊敬される座に就こうとするその人物が、障害をもつリポーターの真似をした瞬間のことです。

特権、権力、抵抗する能力において彼がはるかに勝っている相手に対してです。心打ち砕かれる思いがしました。

その光景がまだ頭から離れません。映画ではなくて、現実の話だからです。

このような他者を侮辱する衝動が、公的な舞台に立つ者、権力者によって演じられるならば、人々の生活に浸透することになり、他の人も同じことをしていいということになってしまいます。

軽蔑は軽蔑を招きます。暴力は暴力を呼びます。力ある者が他の人をいじめるためにその立場を利用するとき、私たちはみな負けるのです。

さあ、やりたければやればいいでしょう。

さて、この話が記者につながります。私たちには信念をもった記者が必要です。ペンの力を保ち、どんな暴虐に対しても叱責を怠らない記者たちが──。建国の父祖たちが報道の自由を憲法に制定したゆえんです。


 私は、ストリープの発言内容、そして彼女の勇気に拍手を送りたい。

 ロバート・デ・ニーロが、賞賛する手紙をストリープに送ったことがニュースになっている。
「朝日新聞デジタル」の該当記事
 朝日新聞デジタルから、引用されている米ピープル電子版の内容を紹介する。

デ・ニーロは手紙の中で、「君が言ったことは素晴らしい。君は、言われる必要があったことを見事に言ってのけた。世界が君の業績をたたえている時に、発言したことを非常に尊敬している。私も君とまったく同意見で、(トランプ氏の)くだらないたわごとや、弱い者いじめには本当にウンザリしている」と書いている。

 過去に2度、オスカーを受賞しているデ・ニーロと、3度にわたりオスカーを受賞しているストリープは、映画「ディア・ハンター」(1978年)や「恋に落ちて」(1984年)など、4本の作品で共演している。


 「ディア・ハンター」、懐かしいなぁ。

 印象に残っているのは、あのロシアン・ルーレットもそうだが、ラストシーンで、葬儀の後に仲間が集まって食事をしている場面だったりする。


 さて、ストリープのスピーチについて、ネットでは批判的な内容も飛び交っているようだ。

 それは、ハリウッドの“セレブ”たちへの妬みも背景にあるのだろう。

 たしかに、ストリープやデ・ニーロのレベルの俳優は、裕福な部類に入るだろう。
 日々の暮しに困ることもないだろうし、ましたや仕事を移民などに奪われる恐れもないだろう。

 しかし、重要なことは財布の中身ではなく、心の中身なのだと思う。

 いくら有名な俳優であろうと、次期大統領に対する反対意見を、大衆が注目する場で敢然と表明することは、大きな危険を伴う行為である。

 それでも、言わずにはいられない、そんな強い衝動と覚悟がストリープにはあったのだろう。

 さて、そこで日本だ。

 今まさに「共謀罪」を成立させようとする安倍政権に対し、俳優やタレント、あるいはメディアの従事者は、いったいどう発言、行動しようとしているのか・・・・・・。

 テロ対策、2020年オリンピック、国際的な条約批准、などという理由を元に、600を超える犯罪を対象にして、恣意的に拡大解釈して国民を逮捕できる法律をつくろうとしている。

 
 日本弁護士連合会(日弁連)のサイトから、共謀罪に関するパンフレットがダウンロードできる。
「日弁連」サイトの該当ページ

 一部をコピペでご紹介。
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 まさに、“警察国家”“監視社会”に向かう恐れがある。

 レッドパージ、東宝争議などの悪夢が繰り返されようとしているのではなかろうか。

 「言論の自由」「表現の自由」の危機である。

 昨年後半から年初にかけて、紅白(あかしろ)がどうしたとか、あの四人組が解散するとか、誰かが不倫したとか、あるバンドがしばらく休むなど、私にとってどうでもいいことでメディアは賑わっているが、その背後で着々と暗い時代への逆コースへの道を日本が辿ろうとしているという危機感を、どれほどの人が抱いているのだろうか。

 昨年、お上に批判的な人物が相次いでメディアから去って行った。
 それは、さまざまな政府からの圧力があったり、メディアの経営陣が「忖度」しての結果なのだろう。

 そして、NHKも、いわば民放化し、民放はますますバラエティ番組ばかりとなる。

 引用したメリル・ストリープのスピーチの最後に、「報道の自由」という言葉があり、「記者」の奮起を求めている。

 アメリカでさえ、次期大統領に反旗を翻すのが容易ではないことが察せられる。

 日本でもそうかもしれない。
 
 もし反政府的な発言をしたら、仕事を奪われる危険性もあるだろう。

 しかし、今、沈黙していていいのだろうか。

 メディアの関係者や、影響力のある俳優やタレントは、いつまで頭を下げて、自分に火の粉が飛んでこないように屈んでいるのだろうか・・・・・・。


 日本には、ストリープもデ・ニーロも、いないのか・・・・・・。

 成人の日に、大人ってなんだろう、という素朴な疑問を感じて記事を書いた。

 自分の意見を持つこと、そして然るべき時にはその思いを勇気を出して表明すること、その発言に責任を持つこと、なども大人としての重要な条件ではないか、と思う。

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by kogotokoubei | 2017-01-11 12:46 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)

 1月15日ではなく、“ハッピーマンデー”とやらの悪法(?)で、今日が成人の日。

 ここ数年、成人式が荒れる、というニュースが目立つ。
 一日早く昨日式典を実施した会場でも、ひと騒動あったようだ。

 還暦を過ぎ、ずいぶん前になった自分の二十歳の成人の日を思い起こす。

 大学で運動部に所属していて、いわゆるオフは遠征費稼ぎにアルバイトに明け暮れた。
 京都という土地柄、修学旅行生や観光客のお客さんで忙しかった、三条のある旅館でのアルバイトが長かった。

 あの成人の日にも、その旅館でアルバイトをしていた。
 
 そういえば、先輩アルバイトでその後は社員になった方には、卒業後その旅館に来ないかと誘われたなぁ。

 数年前、その旅館は廃業したということを知り、なんとも寂しい思いがしたものだ。

 二十歳のころ、自分なりに「大人とは何か?」を模索し、山口瞳の本を読んで、ジッポーのライターを持ったりしたものだ。

 形から入る、というやつ^^

 社会人になり、いわば地方の勤務地で長く務めたが、良い先輩に恵まれたこともあり、大人、あるいは“男”のあり方を学ぶことができたように思う。

 その当時、先輩の薦めで読んだ本がある。
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池波正太郎著『男の作法』

 池波正太郎の『男の作法』だ。
 昭和59年、新潮文庫の初版発行。
 二十代最後の年で、ちょうど転職を考えていた頃だった。

 池波正太郎が編集者たちとの旅行で語り合ったことが元になっている本。
 外で何かを食べる時のことなどを中心に、本来、大人の男がとるべき“作法”が、並んでいる。
 初めて読んだ時、「これこそ、大人の男のバイブル!」と感動しながら読んだものだ。

 今思うと、その当時の私は、実に生意気な男で、酒の席でも、この本から得た“作法”を会社の同僚などに無理やり“伝授”したものだ。

 例えば、次のようなこと。

ちゃんとした鮨屋は“通”ぶる客を軽蔑する

  (よく鮨屋で、飯におことをシャリと言ったり、生姜のことをガリ
   と言ったりする客がいますが、やっぱりああいうほうが、「通」
   なんでしょうか・・・・・・)

 いや、客がそういうことばを使って通ぶるのを喜ぶような鮨屋だったら駄目だね。ちゃんとした鮨屋だったら、客がそんなことを言ったらかえって軽蔑されちゃう。
 だからね、鮨屋へ行ったときはシャリだなんて言わないで普通に「ゴハン」と言えばいいんですよ。トロぐらいは、いま、どこでもそう言うんでしょうから「中トロください」と言えばいいけれども、ぼくらの時分はトロのところなんかでも、
「少し脂のところを・・・・・・」
 と、こういうふうに言ったものだよ。
 飯のことをシャリとか、箸のことをオテモトとか、醤油のことをムラサキとか、あるいはお茶のことをアガリとか、そういうことを言われたら、昔の本当の鮨屋だったらいやな顔をしたものです。それは鮨屋仲間の隠語なんだからね。お客が使うことはない。
 普通に、
「お茶をください」
 と言えば、鮨屋のほうでちゃんとしてくれる。だけど、いま、みんなそういうことを言うね。鮨屋に限らず、万事にそういう知ったかぶりが多い。


 今思うと、良き先輩の教えや、こういう本に巡り会う前の二十代、鮨屋で平気で「アガリください」なんて言っていた自分が、なんとも恥ずかしい^^

 あらためて「大人ってなに?」と問うなら、そういう恥や失敗の数々を積み重ねた“子供”時代の体験を、少しでもその後の人生に生かすことができるのが大人、なのかなぁ。

 あとは、“常識”と“非常識”の区別ができる、ということも大人の条件かもしれない。

 成人の日の残念なニュースに接して思うのは、「大人とは」「男とは」ということを、行動や言葉で示してくれる“大人”が周囲に少なくなった、ということだ。

 子供の頃、親以外にも、近所には親身になってくれる大人や、悪さをすると叱ってくれる怖いおじさんやおばさんがいたものだ。

 では、自分はあの頃出会ったような“大人”になれているのだろうか。

 まだまだ子供から大人になる途中のままでいるように思う。

 知ったかぶりから始まって、それがしっかりと身につけば良いのだろうが、まだまだ“形”だけのような気がする。

 たぶん、それは一生変わらないのだろう。

 大人になる、男になる、というのは、永遠に続く課題かもしれない。

 どうも、しっくりこない、1月15日ではない成人の日、こんなことを考えていた。


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by kogotokoubei | 2017-01-09 11:33 | 幸兵衛の独り言 | Comments(8)
 ここ数年は、連れ合いの越後長岡の実家で年を越す。

 そこから近い金峯(きんぷ)神社、地元の方の愛称で蔵王様に昨日元旦の午後に出向いたのだが、今年は雪がなく足元が良いからなのだろう、いつにない人の出があって長い行列があったので、出直した。

 これが、本日2日の午前中の金峯神社の鳥居を望む、雪のない珍しい風景。

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 こちらの写真の左側にあるのは、「松代藩士の墓」の案内板。

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 五年前にこの案内板に初めて気づき、記事を書いた。
2012年1月3日のブログ

 案内板のアップ。
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 ちなみに、五年前、蔵王様の鳥居を望む写真が、これ。こっちが越後の正月なんだけどねぇ。
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 さて、案内板には、松代藩が、「東軍」(徳川幕府側)ではなく、「西軍」として戦ったと記されている。

 松代藩は元和8(1622)年に上田藩から真田信之が入封した後、明治まで真田が十代治めた藩である。

 父昌幸、弟信繁と袂を分けてまで徳川への忠誠を誓った信之から続く真田の松代藩が、なぜ戊辰戦争で徳川と戦うことになったのだろう・・・・・・。

 実は九代目の藩主幸教が病弱だったため、伊予宇和島藩主伊達宗城の長男であった幸民を養嗣子に迎えた段階で、男系も女系でも信之とは血がつながらなくなったのである。

 この幸民が十代藩主となった翌年に、幕府が崩壊。

 もはや、信之の徳川への忠誠心を継ごうとする思いは、血が途切れたこともあり消え去ったのだろう。松代藩は速やかに新政府に対して恭順の姿勢を示し、戊辰戦争では官軍の一員として奥羽戦線に藩兵を送り出したのである。

 池波正太郎は、信之が九十を過ぎても松代藩の永続のために奮闘する姿を『獅子』で描き、その後の同藩存続の危機をどのように耐えて真田が永らえてきたかを、『真田騒動-恩田木工ー』として記した。

 果たして、あの世で信之は、戊辰の役で徳川方と戦う松代藩の姿をどんな思いで眺めていたのだろう。

 雪のない蔵王様へのお詣りの帰り道に、そんなことを思っていた。


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by kogotokoubei | 2017-01-02 15:24 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 本年も、我が家のシーズーの年始のご挨拶です。
 左がミミー(Mimy)、今年四月で八歳になる、永遠のお嬢さん。
 右がユウ(You)、今年九月で七歳になるヤンチャ坊主。

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 江ノ島のイルミネーションをバッグにした写真なのですが、これではどこにいるか不明^^

 いつものように、越後長岡での正月ですが、雪は雨に流され、街の中には積雪がありません。

 昨年、いろいろあった悪いことや何やらも、この雪のように水に流したいものですね。

 皆さんにとって今年が良い年でありますことをお祈りいたします。
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by kogotokoubei | 2017-01-01 10:23 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

 真珠湾訪問のニュースは、別として、政府の悪行について。

 「統合型リゾート(IR)整備推進法案」なんて誤魔化しのお題をつけ、与党が賭場(博打場)の開設を推進しようとしている。

 法案の実態は、「博打推進法」である。

 そもそも「IR」は、“Investor Relations”という株主・投資家向けの情報活動という言葉の略として定着している。言葉自体が、混乱の種になっている。

 衆議院のサイトに、この法案の内容が掲載されている。
衆議院サイトの該当ページ

 「第一章 総則」から引用する。

第一章 総則

 (目的)
第一条 この法律は、特定複合観光施設区域の整備の推進が、観光及び地域経済の振興に寄与するとともに、財政の改善に資するものであることに鑑み、特定複合観光施設区域の整備の推進に関する基本理念及び基本方針その他の基本となる事項を定めるとともに、特定複合観光施設区域整備推進本部を設置することにより、これを総合的かつ集中的に行うことを目的とする。

 (定義)
第二条 この法律において「特定複合観光施設」とは、カジノ施設(別に法律で定めるところにより第十一条のカジノ管理委員会の許可を受けた民間事業者により特定複合観光施設区域において設置され、及び運営されるものに限る。以下同じ。)及び会議場施設、レクリエーション施設、展示施設、宿泊施設その他の観光の振興に寄与すると認められる施設が一体となっている施設であって、民間事業者が設置及び運営をするものをいう。

 第一条の(目的)、“特定複合観光施設区域の整備の推進が、観光及び地域経済の振興に寄与するとともに、財政の改善に資するものであることに鑑み”という前提が、そもそも間違いではないのか。

 「特定複合観光施設」に限らず、地域経済の振興のためには、他にもいろんな対策が検討されてしかるべきである。

 第二条で「特定複合観光施設」が、“カジノ施設及び会議場施設、レクリエーション施設、展示施設、宿泊施設その他の観光の振興に寄与すると認められる施設が一体となっている施設”と定義されているが、カジノが必然なのだろうか。

 兄弟ブログの「幸兵衛の小言」の2014年10月28日の記事で、「内田樹の研究室」の記事の引用を中心に、カジノ法案に関する記事を書いた。
「幸兵衛の小言」の該当記事
 同記事と重複するが、あらためて、今回の政府の暴挙について。

 昔の人は、寄席に行くのにも、後ろめたい思いを抱いていた、ということを本などで読むことがある。

 悪場所、悪所、という表現もある。

 さすがに、今日の寄席通いには、そういった心情と縁遠くなってきたが、賭場に行く場合は、この‘後ろめたさ’を感じるだろうし、そういう感覚、結構大事なのではなかろうか。

 人によっては、地下に潜る感覚が、楽しみを倍加させる効果もあるだろう。

 本来、そこは秘密の場所なのである。

 落語では、たとえば『品川心中』などで博打をしている場面で、「大きな声を出すな。俺たちゃ親孝行してるんじゃねえんだ」という科白を挟むことが多いが、この感覚である。

 博打は、そもそも陽の当たる場所で行うものではないのだ。
 それこそ、国が率先して賭場を作ろうなんてことは、大間違い。

 ギャンブル依存症者を増やすだけである。

 立川談春は『文七元結』において佐野槌の女将に、「その場で朽ちるから、博打なんだ」と言わせる。

 勝つにしたって、まさにあぶく銭。

 あぶく銭か、その場で朽ちるか、という世界は決して真っ当な場所とは言えまい。

 『文七元結』は落語だから、左官の長兵衛が博打で首が回らなくなっても、吉原に沈んでくれようとする娘のお久がいて、五十両貸してくれる佐野槌の女将がいる。
 そして、長兵衛がその五十両を、吾妻橋から飛び込もうとしている初対面の文七に恵んでくれたことに感謝し、お久を請け出してくれる鼈甲問屋、近江屋卯兵衛がいるのだ。

 現実の世界なら、長兵衛一家には悲惨な末路が待っているに違いない。

 
 石破茂は、当初否定的だったがシンガポールのカジノの管理体制を見て、考えが変わったらしい。
朝日新聞の該当記事

 では、韓国の実態も見ろ、といいたい。
 
 あの国に一か所だけある韓国の人が行くことのできる賭場「江原ランドカジノ」が、どれほど多くの不幸を作っているのかを。

 昨日の「報道ステーション SUNDAY」でも長野智子が現地で取材した内容を取り上げていたが、「Business Journal」の記事から引用する。
「Business Journal」の該当記事

 1967年、韓国では外貨獲得のためにカジノが解禁され、当初は韓国人も使用できたが、さまざまな不正が発覚し、2年後には外国人専用となり韓国人は出入り禁止になってしまう。その後、70年~90年にかけてカジノ建設ラッシュとなり、外国人専用カジノが全国に16カ所も建設されたのだ。2000年になり、ようやく韓国人でも楽しめるカジノ「江原ランドカジノ」がオープンし、1年目に約170億円もの利益を上げた。

「一時は炭鉱の町として栄えていた江原に活気を取り戻すべく、カジノを誘致しました。毎年300万人の人々が訪れるようになり、街に活気は戻ったのですが、カジノ中毒に陥る韓国人が続出したのです」(韓国一般紙記者)

 韓国政府は月15回までの入場制限を定め、2カ月続けて15回通うと「賭博中毒センター」でのカウンセリングが義務付けられ、現在までに約5万人の人が利用したという。

「江原ランドカジノの近くには質屋が立ち並び、異様な雰囲気が漂っています。貴金属や宝石を売り払うならまだしも、自分が乗ってきた自動車を売り払う人もいます。今、問題になっているのは“カジノホームレス”。カジノで財産を失った人が行く当てもなく、カジノ周辺に住み込み、その数は100人以上に上るといわれています」(同)

 昨日の「報道ステーション SUNDAY」では、質屋への取材が放送され、駐車場に多くの車が並んでいる映像も紹介された。

 小さな韓国の町の賭博場を石破が見て、果たして、彼はどう言うだろう。

 「日本は、韓国とは違う」とでも言うかもしれない。

 しかし、同じ人間なのだ。

 射幸心をあおられ、ついつい抜けられなくなり、質屋に通い、あげくの果てにホームレスになる日本人も間違いなく増えるだろう。
 最近では、高齢者のパチンコ、パチスロ依存症者が増えているらしい。
 きっと、そういう人たちも、“カジノ”に行くことだろう。

 ‘カジノ’とか統合型リゾートなどというカタカナで誤魔化されてはいけない。

 博打であり、賭場なのだ。

 横浜の林市長まで、賛成しているようだ。
日本経済新聞の該当記事

 おいおい、ちょっと待って欲しい。

 地域“経済”は、別な方法で活性化させることを考えようじゃないか。
 博打の上がりに頼らない方法は、必ずあるはずだ。

 真っ当に税金を払えない国民を増やしては、元も子もなくなるじゃないか。


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by kogotokoubei | 2016-12-05 21:16 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)
 昨日と今日は、テニス仲間との合宿だった。
 年に二回行っており、今回は、初めての場所。
 宿泊は、あしがら温泉の宿、テニスコートはその近くの公営の運動場のコート。
 テニスコートもオム二で問題なかったし、宿も料理、温泉を含めなかなか良かった。
 チェックアウトの際、来年5月の予約をした。

 夕食後はカラオケで懐かしい曲を皆で歌ってから幹事部屋で三次会。
 そして、余興の落語を披露。
 
 同期会とテニス合宿のそれぞれの高座(?)において、一度演じたネタはやりたくないので、最近はネタ選びに悩む。

 これまでは、こんな噺を酒の勢いで披露してきた。

 『道灌』・『金明竹』・『寿限無』・『牛ほめ』・『替り目』・
 『小言念仏』・『千早ふる』・『代書屋』・『高砂や』・
 『居酒屋』・『うどん屋』・『雑排』・『厩火事』・『買い物ブギ』・
 『看板のピン』・『天災』・『目黒のさんま』・『紙入れ』・
 『元犬』・『持参金』・『三方一両損』・『たらちね』・『そば清』・
 『親子酒』・『藪入り』・『子ほめ』・『夜の慣用句』・
 『あくび指南』・『転失気』

 これに、先月の同期会で演じた『二人癖(のめる)』が加わる。京都でのもう一席は、テニス合宿でウケた『夜の慣用句』だった。

 しかし、この喬太郎の新作、京都でのウケは今一つだった。すべった、あるいは、蹴られたと言って良いだろう。少し油断していたのかもしれない。
 飲みすぎたこともあり、飛ばした部分もあった。
 なんとか、『二人癖』で面目は保った、と自分では思っている。

 今回の一席は、京都でまあまあだった『二人癖』に決めていた。元になる音源は八代目春風亭柳枝。
 もう一席は何にするか迷っていた。
 最近はラジオ番組を録音しておいて、後で携帯音楽プレーヤーで聞くことが多く、NHKラジオの「すっぴん」で喬太郎二人会という企画の日に、林家彦いちが、彼がNHK新人演芸大賞で優勝した時の新作『睨み合い』を披露していたのを聞いた。
 短縮版でもなかなか楽しく、「これかな」と思い、京浜東北線を田園都市線に替えるなどして演じることにした。

 さて、昨夜どうなったのか。

 まず、『睨み合い』を10分ほどで披露。おばちゃん達の会話のギャグ(缶詰に蛾が入って解雇(蚕)になった)などは結構ウケた。
 続いて『二人癖』。こちらもまあまあ。
 テーブルの上に座布団を敷いた高座から降りようとすると、いつもは寝る人が、「もう、終わるの・・・・・・」。
 他の人からも、「もう一席!」という無茶ぶり。
 要するに、短くした『睨み合い』は、少し長いマクラという理解だったようだ。
 
 ゲッ、と思ったが、これも酒の勢いだろうなぁ、やる気になった^^
 実は、最近よく聴いていたのが、志ん朝と小三治の『子別れ』だった。
 志ん朝は大須での「上」「下」で、「中」の部分は地での説明が中心。
 小三治は、しっかり「中」も語った、本多劇場での歴史的な名作。
 次回のネタとしては「下」の『子は鎹』を考えていたものの、今回披露するつもりはなかった。もちろん、聴くだけで稽古もしていない。

 しかし、せっかくのアンコール(?)の声。
 思い切って、小三治版を元に『子は鎹』を始めたのだった。

 番頭さんが熊さんを長屋に訪ねる場面から。
 どうなるかと思いながら進めたのだが、この噺、結構頭に入っていた。
 また、演っていて、自分で楽しくなったのだ。
 熊さんにも、亀にも、お徳さんにも、結構感情移入できたように思う。

 一瞬だが、登場人物が勝手に話し出す、という感覚もあった。

 聞き手は皆、鎹も玄能も知っている年齢層^^
 サゲも無理なく分かってもらえたようで、終わってからも「良かったよ」の」声。

 不思議だねぇ。
 演るつもりのなかった噺なのだが・・・・・・。

 以前演じてウケたネタは、やはり甘く見た部分があるのだろう、先月の『夜の慣用句』は、すべった。

 そして、次回のネタのつもりで、小満んの高座との違いを確認するためもあり、結構集中して小三治の音源を聴いたこと、そして、あの小満んの名演に出会ったことが、予想外の三席目を、なんとか無事に演じさせてくれたように思う。

 自分で演じてみて、あらためて落語という芸の難しさを京都で感じ、今回の合宿では、その楽しさを味わった。

 しかし、来年9月開催となった同期会で、図に乗って甘く見ると、またすべるに違いない。

 とはいえ、人情噺への扉を開いてくれた今回の『子は鎹』の経験は、きっと忘れないだろう。
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by kogotokoubei | 2016-12-04 17:59 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

平尾誠二の死を悼む。

 平尾誠二の訃報には、心底、驚いた。

 まだ、53歳・・・・・・。

 私は、あの昭和60年1月15日に、国立競技場にいた62000人の一人だ。
 その頃住んでいた越後の町から、歴史的な一戦を生で観るため、そして同志社を応援するために駆けつけたのだった。
 
 大学選手権三連覇の同志社と、日本選手権七連覇を目指す新日鉄釜石の試合は、それだけの魅力があった。
 また、まだ独身で、そういう行動が可能な時期でもあった。

 松尾雄治の引退試合ともなる決戦は、前半を13対12で同志社がリード。
 日本ラグビーのリーダーが、松尾から平尾に引き継がれる試合、という思いに胸が躍った。
 しかし、後半には新日鉄釜石の“鉄の男たち”に逆転され31対17でノーサイド。

 それでも、両チームの持ち味を十分に発揮した素晴らしい試合だった。
 今のように肩パッドをしていない時代の、体と頭を極限まで使っての死闘だったと思う。

 説明するまでもなく、平尾はその後、神戸製鋼の七連覇に貢献し、日本代表の監督も務め、協会の幹部としての役割も担った。
 2019年に迫ったワールドカップ日本大会において、彼の活躍が大いに期待されていた。

 しかし・・・・・・。

 私は知らなかったが、昨秋から急に痩せたことが話題になっていたようだ。

 つい、思い出すのは、他の一時代を築いたラガーマンのこと。
 上田昭夫が昨年、満62歳で旅立った。
 十年前には、宿沢広朗が、55歳で逝去。
 
 短絡的にラガーマンが早死にする、などと言うわけでは、毛頭ない。それぞれに、惜しんで余りある早世だ。
 
 日本ラグビー代表の昨年のワールドカップでの活躍は、平尾誠二や上田昭夫、宿沢広朗といった人々が積み重ねてきた歴史の上に為し得たことだと思う。

 そして、まだまだ挑戦すべき課題があることも事実。そのために、平尾誠二の存在は大きかったはずだ。

 まだ、空虚感から脱することができない。

 2012年の1月にNHK BSで、あの1985年1月15日の死闘を、松尾と平尾が振り返るという実に興味深い番組があったことを思い出す。

 松尾雄治のコメントは、まだ目にしないが、落胆は小さくないだろう。

 平尾誠二という素晴らしいラガーマンの冥福を心より祈りたい。


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by kogotokoubei | 2016-10-20 21:18 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛