噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

カテゴリ:幸兵衛の独り言( 251 )

 このブログを書き始めてからの年月について、自分で少し勘違いをしていた。

 2008年6月から始めたので、丸九年がすぎ、なんと十年目に入っている。
 てっきり、まだ九年目に入ったところ、と思っていた。

 ちょうど九年前の七月十日に、『船徳』のことを書いていた。
 今まで通算1620の記事の、12本目だった。
2008年7月10日のブログ

 昨日と今日は、今年も浅草寺の「ほおずき市」。
 あらためて、浅草寺のサイトから引用。
浅草寺サイトの該当ページ

平安時代頃より、観世音菩薩の縁日には毎月18日があてられてきたが、室町時代末期(16世紀半ば)頃から、「功徳日」といわれる縁日が設けられるようになった。功徳日とは、その日に参拝すると、100日、1,000日分などの功徳が得られるという特別な日を指す。功徳日は寺社によって異なるが、現在、浅草寺では月に1度、年に12回の功徳日を設けている。このうち7月10日は最大のもので、46,000日分の功徳があるとされることから、特に「四万六千日」と呼ばれる。この数の由来は諸説あり、米の一升が米粒46,000粒にあたり、一升と一生をかけたともいわれるが、定かではない。46,000日はおよそ126年に相当し、人の寿命の限界ともいえるため、「一生分の功徳が得られる縁日」である。 四万六千日の縁日の参拝は江戸時代には定着し、われ先に参拝しようという気持ちから、前日9日から境内は参拝者で賑わうようになった。このため、9日、10日の両日が縁日とされ、現在に至る。 四万六千日にともなうほおずき市の起源は、明和年間(1764〜72)とされる。四万六千日の縁日は浅草寺にならって他の寺社でも行なわれるようになり、芝の愛宕神社では四万六千日の縁日にほおずきの市が立った。「ほおずきの実を水で鵜呑み(丸飲み)すれば、大人は癪(なかなか治らない持病)を切り、子供は虫気(腹の中にいると考えられた虫による腹痛など)を去る」という民間信仰があり、ほおずきを求める人で賑わったそうである。その愛宕神社のほおずき市の影響を受け、四万六千日の大本である浅草寺にもほおずき市が立った。ちょうどお盆の季節でもあり、ほおずきを盆棚飾りに用いる方も多い。 かつては、四万六千日の縁日に赤とうもろこしを売る屋台もあった。これは赤とうもろこしが落雷除けのお守りになる由の民間信仰により、文化年間(1804〜18)頃に境内で売られるようになったという。ところが明治初年(1868)頃、不作によって赤とうもろこしが出回らないことがあった。これに困ったご信徒が浅草寺に雷除けのお守りを求めた縁から、浅草寺では竹串に挟んだ三角形の守護札を授与するようになった。これが今も四万六千日に授与されている雷除札【かみなりよけ】である。 9日・10日の両日、いなせな恰好の売り子たちが声をあげてほおずきを売り、境内は朝から晩まで参拝者で埋まる。観世音菩薩の功徳に感謝して参拝し、ほおずき市を散策して江戸情緒を味わいたい。

 126年分の功徳、ですよ!

 かつての「四万六千日」は、もちろん旧暦の七月十日。
 今年は閏五月があったこともあり、旧暦七月十日は、新暦八月三十一日。

 七夕が秋の季語であるように、季節は秋だ。

 だから、桂文楽の科白で有名な『船徳』の「四万六千日、お暑いさかりでございます」は、新暦の七月十日でなければ当てはまらない。

 同じ功徳日の歳時だが、浅草より先に「ほおづき市」(なぜか、「ず」ではなく「づ」)を開いていた芝の愛宕神社では、今でも6月に「夏越しの祓え」の一環として催されている。
 同神社のサイトから引用。
愛宕神社サイトの該当ページ

【千日詣り ほおづき縁日】6月23日~24日この両日に社殿前にしつらえた茅の輪(ちのわ)をくぐりお参りすれば千日分の御利益(ごりやく)があると昔から信仰され、境内で自生してていたほおづきを飲めば子供の癇・婦人病に効くと言われていた。
現在はお祓い済みのほおづきを受けると特別に社殿の中で本人もお祓いしてくれる。
ほおづき市と言うと浅草が有名だが、もともと愛宕神社から始まったもの。蛇足ながら羽子板市も当社が発祥。
その賑わいは平岩弓枝氏著「犬張り子の謎」にも記されている。

【中祭式】6月24日 11時自分の厄を移した形代(ひとがた)を神社に納め半年間の厄を祓い清める行事。年末の大祓いに対し、夏越し(なごし)の祓えと言う。

 ほおづき市のみならず、羽子板市も愛宕神社が先であると、“蛇足ながら”主張している^^
 
 ほおずき市で思い出すのは、落語を題材とした2007年の映画『しゃべれども しゃべれども』だ。
allcinameサイト「しゃべれども しゃべれども」

 国分太一演じる二つ目の落語家今昔亭三つ葉が、ひょんなことから開くことになる「話し方教室」に通う女性、十河五月(香里菜)との淡い恋の舞台として、ほおずき市が登場する。

 あの映画では、原作では主人公が演じる師匠の十八番ネタが『茶の湯』であるのに、『火焔太鼓』に替えていたなぁ。

 「話し方教室」に通う生徒は他にもいて、元プロ野球選手で野球解説者の湯河原太一(松重豊)と、関西育ちで東京の小学校でいじめられているのが森永悠希演じる村林優少年。
 優は、桂枝雀にぞっこん惚れており枝雀版の『まんじゅうこわい』を演じる。実に上手い。凄い、と言っても良い。
 森永悠希という俳優さんは、この映画の後にテレビや映画に数多く出演して存在感のある役者に成長しているが、私は、十年前のデビュー作村林優役が、もっとも輝いているのではなかろうかと思っている。
 同じ発表会で「まんじゅうこわい」対決をするはずの五月が、ネタを急遽変更して、科白を立て板に水とはいえ、登場人物すべて同じ口調の『火焔太鼓』を演じる。
 その五月の『火焔太鼓』を酷評する三つ葉は、自分自身が師匠小三文十八番のそのネタに挑む。
 今昔丁小三文役の伊東四朗は、とにかく上手い。
 三つ葉の祖母役で八千草薫も、実に良いアクセント。

 ほおずきのことに戻るが、三ツ葉と五月は、実際に浅草寺のほおずき市でほおずきを買うわけではない。
 しかし、ほおずきは大事な小道具として登場する。
 そうだ、大川と船、ということでこの映画と『船徳』は共通点があるなぁ。
 監督は平山秀幸で、同じ2007年に『やじきた道中 てれすこ』も撮っている。
 この映画については以前記事を書いた。
2012年12月8日のブログ

 ほおずき市のことから映画に発散してしまったが、落語に話を戻す。

 『船徳』の時期を七月十日に設定したのは、三代目小さんだと言われている。
 新暦の七月十日、ほんとに今日もお暑いさかりだった。

 この時期の年中行事で思い出したが、先週、近所の幼稚園に七夕飾りがあって、園児のさまざまな願いが短冊に書かれて吊るしてあった。
 しかし、先週七月七日は、旧暦閏五月十四日で、月齢十三の月が明るく輝き、天の川を見ることはできなかった。

 園児に、天の川が見れないことを、旧暦のことなどを含めて説明できる先生は、果たしていただろうか。

 昨夜の閏五月十六日の満月、そして今夜の月齢十六日の月も、実に綺麗だった。

 以前にも書いたが、旧暦七月七日の半月は、満月の約十二分の一の明るさだからこそ、天の川も牽牛と織姫星も、きれいに見えるのである。

 今年は、八月三十一日に、ぜひ天の川を見るのを忘れないようにしなきゃ。


 さて、今年もすでに半分が過ぎ、来週19日から、夏の土用入り。
 今年は土用の丑の日が二日あるので、スーパーもコンビニも中国産ウナギの販売ノルマが増えて、働く方は大変だろうなぁ。

 私の場合は、一年で鰻を食べないと決めているのが、土用の丑の日。

 鰻にまつわる噺はいくつかあるが、同じ原話から、文楽で有名な『素人鰻』と、志ん生が得意にした滑稽噺の『うなぎ屋』がある。
 
 私は、『うなぎ屋』にならって、鰻職人がいない鰻屋を、なんとか見つけたいと思っている^^
 間違っても、神田川の金のような酒乱の職人のいる鰻屋には行きたくない。

 四万六千日のお暑いさかり、落語や映画など、鰻のようにいろんなことに思いがいったりきたり、であった。

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by kogotokoubei | 2017-07-10 20:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 昨日のアクセスレポートの数字に驚いた。
 全体のアクセス数が1000を超え、ダントツで一位の記事が四年ほど前に書いた、「成田屋のこと。」だった。
2013年2月4日のブログ

 この記事へのアクセスがほぼ200。
 異例だ。
 海老蔵の奥さんのことでのアクセス増であることは、間違いないだろう。

 この記事は、十二代目の団十郎の訃報に関し、成田屋は短命が多いとか、ケネディ家にたとえて、呪われているというニュアンスの記事が多かったので、本当にそうなのか、と思って調べたことから書いた記事。

 私の調べの結果は、若くして団十郎を襲名した場合は夭折した人はいるが、決して呪われているわけでも、際立って短命であるとも言えない、ということ。

 それはそうとして、当代海老蔵の亡妻については、そのブログの読者(アクセス数?固定ファン?)が200万人を超えていた、とのことでブロガーとして、驚くばかりだ。

 彼女が出演していたテレビは、まったくと言ってよいほど見ていないし、あまり関心もなかったので、特に何か感想などを書くつもりも、その資格もない私だが、同じブロガーとして凄い管理人だったなぁ、とは思う。

 拙ブログは落語を中心としているものの、いろんなことを書きなぐっている。

 果たして、病で旅立つ直前まで書き続けることができようか・・・・・・。
 まず、無理だろうと思う。
 気力も体力もなくなるだろう。

 不謹慎なことかもしれないが、今思うことは、ブログとブロガーの寿命。
 ブログの生命は、もちろん管理人のそれに準じる。
 読者のアクセスも、また然り。
 このブログも、書き始めて丸九年が経った。

 以前頻繁にコメントをいただいていた方からの音信がなくなり、寂しく思うこともある。

 コメントが途絶えた理由としては、いろんな事情があるだろう。

 私と同様に還暦過ぎ、あるいはそれ以上高齢の方も読者として数多くいらしゃると察する。

 介護やご本人の体調なども、関係してくる年齢だ。

 そういった読者の方がこの記事をご覧になっていて、お元気ならば、管理人だけ閲覧モードでもいいので、ご一報いただければ、大変嬉しい。
 実に勝手な願いを綴ってしまったが、今回のことで思っている素直な心境である。

 一人の素晴らしいブロガーが旅立った。

 ご冥福をお祈りする。
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by kogotokoubei | 2017-06-24 14:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 今日は、「寄席の日」。

 その由来などは別として、定席寄席で木戸銭の値引きや記念品の配布などがある日だ。

 落語協会ホームページから「寄席の日」の案内記事を紹介する。
落語協会HPの該当ページ

今年の寄席の日は6月5日(月)です

毎年6月第一月曜日は「寄席の日」、今年は6月5日(月)です。

各寄席では下記のような入場料となります。

・鈴本演芸場 入場料半額 ¥1,400(学生も一律)
・末広亭 入場料半額 ¥1,500(学生・シニアとも一律)
・浅草演芸ホール(芸術協会の興行です) 入場料半額 ¥1,400(学生も一律)
・池袋演芸場 入場料半額 ¥1,200(学生・シニア・着物とも一律)
・国立演芸場 入場料 ¥1,470円(前売チケットには適用されません)

 私は行くことができないが、落語愛好家の中には、この記念の日に寄席に駆けつける方もいるだろう。

 ところが、その日に、落語芸術協会のホームページは、夕方までサーバーメンテナンスを行なっており、サイトを見ることができない。
落語芸術協会のホームページ
 トップページにこう案内されている。

サーバーメンテナンスのお知らせ

日頃より、当会ホームページをご覧いただき、誠にありがとうございます。
只今、サーバーメンテナンスを実施しております。

期間:2017年6月5日(月) 9:00~16:00
※作業状況により期間が前後する場合がございます。

上記時間中は、本サイトの閲覧が出来ません。
ご不便をおかけいたしますが、何卒ご理解いただきます様よろしくお願い申し上げます。

本日の定席スケジュールは以下のPDFファイルにてご覧いただけます。

 主催する寄席の番組をPDFで見ることはできるようにしているが、この平日の日中でのサーバーメンテナンスは、ちょっといただけない。

 日頃、落語協会のホームページへの小言を書くのに比べ、数年前から落語芸術協会のホームページが充実してきたことを高く評価してきた私としては、実に残念なメンテナンスの日程選択である。

 通常サーバーメンテナンスは、担当者にとっては大変な作業となるかもしれないが、あくまでお客様であるサイト来訪者の便宜を優先して、深夜などに行うことが多い。
 あるいは、メンテナンス中は別なサーバーに間借りすることもある。

 どういう理由があるのか知らないが、平日真昼間、それも「寄席の日」にサーバーメンテナンスでサイトが見れないというのは、落語愛好家にととっては、実によろしくないことで、今後、ぜひ改めてもらいたい。


p.s.
16時過ぎには、通常に戻ってたが、今後の改善を期待し、この記事の公開は継続する。
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by kogotokoubei | 2017-06-05 12:29 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 安倍昭恵という人は、いろいろとお忙しいらしい。

 半月ほど前の朝日新聞の記事よりご紹介。
朝日新聞の該当記事

昭恵氏、加計学園でも「名誉園長」 職員連れて催し参加
2017年5月17日22時41分

 獣医学部の新設計画に関し、文部科学省が内閣府から「総理のご意向だと聞いている」などと言われたとする文書が明らかになった加計学園については、加計孝太郎理事長と安倍晋三首相が懇意にしているほか、妻の昭恵氏も関わりがある。

 学園によると、昭恵氏は15年6月から、学園が神戸市で運営する認可外保育施設「御影インターナショナルこども園」の名誉園長を務めている。これまでの国会の質疑で、15年9月には政府職員2人を連れて施設のイベントに参加していたことも明らかになっている。

 国有地売却の経緯が問題視されている学校法人「森友学園」でも、昭恵氏は開設予定だった小学校の名誉校長に就任していた。財務省や国交省が、そうした事情を踏まえて、売却交渉などを学園側に有利になるように運んだのではないかと野党が追及している。


 夫婦揃って、お友達へは実に義理堅いのだ。

 「友達ファースト」が、ご夫婦共通の信条。

 神田で「uzu(うず)」という居酒屋を経営しているのは有名。

 旦那は、早く店を閉めて欲しいらしいが、アッキーはそんな夫の言うことを聞くような、お姐ぇさんとは、お姐ぇさんの出来が違う。

 「昔の名前で出ています」を借りてみた。

 169.png大阪にいるときゃ 名誉校長と呼ばれたの
   神戸じゃ 名誉園長と名乗ったの
   神田のお店で お酒を飲みながら
   あなたがさがして くれるの待つわ
   いろいろ名前が 出ています


 オソマツ。


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by kogotokoubei | 2017-06-02 12:58 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 女優、月丘夢路さんの訃報に接した。
朝日新聞の該当記事

 大正11年生まれ、94歳での旅立ち。

 先日帰郷して会ってきた北海道の父と同じ戌年の生まれだ。

 宝塚出身で、数多くの映画に出演された。

 原爆に関する映画に出演されたことでも知られている。

 昭和25(1950)年の「長崎の鐘」は、戦後最初に原爆をテーマとして日本映画だ。当時の長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井隆の随筆に基づいている。永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながらも被爆者の救護活動に当たる姿などが描かれている。
 GHQの検閲もあり原爆を直接批判する映画には出来なかったので、永井の半生を描く映画となっており、月丘さんは永井の妻役を演じた。

 そして、出身地でもある広島に関する映画、その名も映画「ひろしま」に、ノーギャラで主演された。

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                (写真はWikipedia「ひろしま」より)
Wikipedia「ひろしま」

 同映画は、日教組プロにより昭和28(1953)年に製作され、昭和30(1955)年に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞した。

 この映画は、後に新藤兼人監督・脚本で映画化された『原爆の子』と同じ長田新編纂による文集『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(岩波書店、1951年)を原作としている。

 八万人の広島市民がエキストラで出演している、市民参加の反戦映画と言えるだろう。

 上映にあたっては、GHQへの忖度などから批判的な意見も出たようだ。

 しかし、フランクリン・ルーズベルトの妻、エレノア・ルーズベルトが高く評価したり、ベルリン国際映画祭で長編映画賞を受賞したことが、この映画の価値の証左である。

 月丘さんが、この映画について語っているYoutubeを見つけたので、掲載する。



 松竹専属だったが何度も嘆願して出演した映画だったことや、現地で目にしたアメリカの映画人や歌手のように、富を得た者が何等かの形で社会に還元することの大切さなどが語られている。

 残念ながら、この二つの映画を見ていない。

 「長崎の鐘」、「ひろしま」をぜひ見たい。

 月丘さんの追悼の意味でも、ぜひ地上波でもBSでもCSでもいいので、放送して欲しいと思う。


 月丘夢路さんのご冥福を、心よりお祈りする。


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by kogotokoubei | 2017-05-08 20:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 NHKの朝のドラマ「ひよっこ」の一週間分(通算で第五週)をBSで見た。
NHKサイト番組ページの該当週のあらすじ

 このドラマの評価はいろいろあるだろうが、少なくとも効能があるとしたら、かつての日本の電気製品やその作られ方を知ることができることだろう。

 主人公は茨城から東京に出て、向島電機に就職。
 トランジスタ・ラジオのプリント基板に部品を手作業で挿入していくラインで仕事をすることになる。

 足がついた部品(DIP:Dual Inline Package)を基板に順に差し込んで行く製造ラインの建物は、「鳥小屋」と呼ばれいた。
 なぜなら、二本足の部品を基板に差し込む様子が、鳥がエサを啄(ついば)む姿に似ていたから。

 主人公のみね子は不器用で、最初はラインを止めてばかりいる。
 後に続く人が間違いに気づくとブザーを鳴らしてラインを止めるのだが、みね子は何度もブザーを鳴らす張本人となる。

 この番組では、かつての女性マラソンランナーがナレーションを務めていて、当時のトランジスタラジオについて、どんな部品で構成されているか説明もあった。

 なかなか、ためになる。
 
 東京オリンピック開催時期の頃が時代だが、日本で最初の携帯型のトランジスタラジオは、昭和30(1955)年にソニーから発売された「TR-55」だ。
 ソニーのサイトに、その写真を含め説明されている。
ソニーのサイトの該当ページ

 ソニーのラインにも、多くの女性社員が並んで、基板にトランジスタや抵抗、コンデンサなどを流れ作業で装着していた。

 彼女たちは、トランジスタ・ガール(トランジスタ・グラマー、ではなく^^)、と呼ばれていた。
 

 今、スマホが当たり前の道具と考える若者こそ、この番組を見るべきかな、などと思って見ていた。

 世界最初のコンピュータは、アメリカが第二次世界大戦でのミサイルの弾道計算に使おうとしていた「ENIAC(エニアック)」。しかし、完成は戦中には間に合わなかった。
Wikipedia「ENIAC(エニアック)」

 エニアックは、1秒間に10万回のパルスで各電子機器の同期をとっていたので、動作周波数0.1メガヘルツ(MHz)となる。
 現在のパソコンのマイクロ・プロセッサの動作周波数はギガヘルツ(GHz)の単位となっていて、1GHz=1,000MHz。
 動作原理が異なるので単純比較はできないが、同期をとる周波数で考えると、今日のパソコンはエニアックの1万倍以上速いということになる。

 もちろんスマホに搭載されているプロセッサも、もちろんギガヘルツのレベルだ。
 エニアックで使用された真空管は17,468本、その広さは、床面積450㎡で136坪だ。なんと、重さは30トン。
 Wikipediaによれば、ペンシルベニア大学の学生が1995年にENIACを7.44mm x 5.29mmのシリコン基板上にエニアックを再現した、とのこと。

 「TR-55」は、ソニーで8ミリビデオの製品名でも復活した栄誉ある名。
 昭和30年生まれなので、トランジスタラジオの「TR-55」は、私と同じ年に生まれたことになる。
 私はラジオ、カセットデッキ、βビデオ、8ミリビデオなど、ソニー製品の愛用者だった。
 そのソニーが、今のような停滞した状況になるのは、どうにも残念でならない。
 
 向島電機は、ソニーが先鞭をつけた後に続くトランジスタラジオの町工場の風景を、ある程度のデフォルメを許せば、結構大事な日本の戦後の復興の姿として再現してくれている。

 
 個人的なノスタルジーもあるが、たしかに、あの頃を懐かしく思うであろう視聴者を期待して作られた作品なのかもしれない。

 ドラマとしての「ひよっこ」は、失踪した主人公の父親が田舎の人間にはどうしても見ることができないなど不満もあるが、かつての日本の電気産業勃興期の製品のことや、それを作ってきた多くの人々のことを知る効能はあるようだ。

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by kogotokoubei | 2017-05-06 12:55 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 三代目三遊亭円歌の訃報を、旅の空の下で知った。
 落語協会のHPによれば、今日がお通夜、明日が告別式のようだ。喪主は奥さん。
落語協会HPの訃報

 拙ブログの「三遊亭小円歌が、二代目立花家橘之助を襲名」という記事へのアクセスが急増しているのは、師匠の訃報と無関係ではないだろう。


 実は、日曜から昨日まで、二泊三日で北海道の両親の家に、十三年ぶりに帰っていた。記事の間隔が空いたのは、そのせいなので、ご容赦のほどを。

 九十五歳の父は、昨年転んだ際に古傷の膝の皿を痛め車椅子ではあったが、内臓には悪いところはなく、一緒に酒も飲めた。
 九十歳の母も、歩くと腰が痛いとは言うが、いたって元気。
 その母の喜寿の祝い以来の帰郷だった。

 近くに住む兄二人や、兄の子どもと孫たち(両親にとっては曾孫)も集まっての宴会は、大いに盛り上がった。


 さて、そうそう円歌のこと。

 私が訃報に接してすぐに思い出した彼の言葉がある。

 それは、春風亭一之輔の真打昇進披露興行における口上でも述べられた言葉だ。
 私は、大千秋楽の前日、5年前5月19日に聞いた。
2012年5月19日のブログ

 かつての名人たちは、それぞれ個性的な口上の言葉を持っていた。

 円歌の「手を取って 共に登らん 花の山」は、真打になってからあらためて始まる落語家としての人生は、奥さんとの二人三脚である、ということを言いたかったのだろう。

 きっと、会場の片隅にいた一之輔の奥さんにも聞いてもらいたかったであろうこの言葉は、私の胸に深く沁み込んだ。きっと同じような感慨を抱いたお客さんも多かったと思う。
 真打昇進披露の口上において、あれほど厳粛な一瞬を今まで感じたことはない。


 円歌の傑作『中沢家の人々』は、内容は老人たちの行動や言葉の滑稽さで笑いを取るものだが、親子の愛情が底流に流れている前提があるからこそ、いつ聴いても楽しめる普遍性を持つネタになったのだと思う。


 円歌は、奥さんと一緒に、手を取り合って花の山に登ることができたのだろう。

 実は、北海道の両親が、周囲の草木やツツジなどの花が眺められるお寺に墓を用意してあると聞いた後で円歌の訃報に接したため、あの言葉がすぐに頭に浮かんだのだった。


 「北の湘南」と言われる地域ではあるが、桜はまだ咲いていなかった。
 
 しかし、庭のツツジが綺麗だった。
 町(市)の花にもなっている。
 私のガラケーでは上手く撮れなかったので市のホームページから拝借。
北海道伊達市のHPの該当ページ

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 老いた両親は、しっかり手を取り合って人生の花の山を登ってきたように思う。

 円歌の言葉をしみじみ思い出す、北への旅だった。

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by kogotokoubei | 2017-04-26 12:47 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)
 ものぐさなせいで、普段持ち歩くバックの中に古い資料などが詰まったままになっており、紙も量が増えると、結構重くなる。

 少し中身を整理した。

 落語会のチラシや自分のメモやら寄席のプログラムやらに交じって、ずいぶん前に、落語愛好家仲間のIさんからいただいた新聞の切り抜きが出てきた。

 それが、これ。
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 「親父の小言」として普及していた内容の元となる資料が発見された、という記事。

 調べてみると、この新聞の記事は、NHKの解説者による情報が元になっていたようだ。
 「視点・論点」でも取り上げたらしいが、NHKサイトの解説者のページに、嘉永版と昭和版との違いなどを含めて載っていた。一部を紹介する。
NHKサイトの該当ページ

 結局、仏教図書館の写本は、江戸末期までに出版された教訓書10点を写して合本したものでした。その一つが「親父之小言」で、本文は嘉永5年板と同じ81カ条です。正確な書写年代は不明ですが、他の教訓書の内容から、江戸末期から明治初年にかけての写本と推定されます。
 したがって、江戸時代の「親父の小言」は、今のところ嘉永5年板の81カ条以外には存在しません。さらに古いものが見つかる可能性は十分ありますが、81カ条と同系統のものと考えられます。いずれにしても今回の発見で、『親父の小言』は昭和3年を約80年遡る嘉永年間には成立していたことが明らかとなったのです。
 この情報をマスコミ数社に伝えたところ、ある新聞社がいちはやく取り上げてくれ、東京版では「親父の小言、起源は江戸」、大阪版では「ガミガミ親父、江戸にいた」の見出しで報道していたのが印象的でした。

 さて、嘉永5年板『親父の小ごと』は、思いつくままに81カ条を列挙したようで、関連する箇条が前後に分散しがちです。また、嘉永板と昭和版とでは箇条数が大幅に異なるため、各箇条を分類・整理してみました。
 すると、両者の小言の構成比は大差ないことが分かりました。

 この分類では、①の対人関係の心得が最も多く全体の2割を占めます。その三分の一は、老人、病人、困窮者、身寄りのない人など弱者に対するものです。この点は「小言」の大きな特徴です。
 ②の家業・家政の心得が多いのは当時の教訓書の通例です。また、③の危機管理も家業・家政と関連しますが、特に、火事や天災に対する心構えは「小言」の強調点の一つです。
 その一方で、⑥の修己・修身や、⑦の家族・家庭の心得が極端に少ない点が目立ちます。当時の教訓書では、むしろ⑥や⑦に関する事柄に比重を置くのが一般的です。
 このように、「親父の小言」は、対人関係の箇条が際立っています。そこには、世間の人を「人様」と呼ぶ精神が息づいているように思います。「小言」を読むと、私はいつも評論家の草柳大蔵さんの逸話を思い出します。
 石屋に生まれ育った大蔵少年が中学三年のある夏の日。これから銭湯へ行こうというのに、わざわざ父親が井戸端で行水をして、体を奇麗に拭いていました。それを見た大蔵少年は、「銭湯へ行くのに、どうして体を拭くの。それは不合理じゃないの」と言いました。すると、父親は「銭湯で着物を脱いで汗臭かったら、人様の迷惑だろうが!」と叱ったそうです。
 私もそうですが、現代人の多くの人が、大蔵少年と同じ発想になるのではないのでしょうか。
 そう言えば、最近は「人様」という言葉もあまり聞かなくなりました。ややもすると、「人様」より「俺様」の時代かもしれません。江戸時代に庶民道徳を説いた「石門心学」の教えも、「俺が俺がが増長すると、一生おかしな人間になる」と戒めています。

 嘉永板を公開後、多くの方々から感想を頂きました。160年前の『小ごと』は今や懐かしい「頑固親父」の象徴であり、そこから、多くの人が日本人の心を感じ取っているようです。特に、対人関係を重視する『小ごと』は、江戸の「もてなし」や「ふるまい」の心を現代に伝えるメッセージと言ってもよいでしょう。
 本来、無名の「小言」を国民的な格言に引き上げたのは、紛れもなく大聖寺の45カ条であり、暁仙和尚の尽力によるものです。そして、今回の嘉永板の発見は、江戸時代の文化や歴史の痕跡が意外と身近な所に残っている事を示す一つの証であり、江戸文化の奥行きを感じさせるものでしょう。
 45カ条にしろ、81カ条にしろ、「親父の小言」が時空を超えて語り継がれ、近い将来、その文言が「ことわざ辞典」に採録されることを密かに願う次第です。

 小言という言葉を名前に持つ身としては、実に貴重な資料の発見と、あらためて感じ入っている次第。
 Iさん、遅ればせながら、切り抜き記事ありがとうございます。

 嘉永版を入手された小泉吉永さんは、『江戸に学ぶ人育て人づくり』(角川SSC新書)や『江戸の子育て十カ条』(柏書房)など、往来物を元にした著作を多数書かれている。
 「往来物倶楽部」というサイトも運営されており、嘉永版の古書の写真や、「八十一カ条」の内容も、同サイトで紹介されている。希望者には冊子も送ってくれる。
 
「往来物倶楽部」の該当ページ

 NHKで取り上げたことや、毎日や他のメディアでの掲載についても、このサイトで紹介されている。
 実は、Iさんからいただいた新聞の切り抜きは、ところどころ破けてしまっていたので、小泉さんのサイトに掲載されていた新聞画像を拝借して掲載した次第。

 一つ一つの小言は、あくまで「庶民」の立場での処世訓であり、「俺様」という発想を排し、目上の人や相手を敬う「人様」という姿勢が根底に貫かれている。


 昭和版の普及に貢献した大聖寺は、あの福島県浪江町にある。
 
 その浪江町では、20ミリシーベルトというとんでもない基準を基に、3月末をもって多くの地域で避難指示が解除されるという状況になっている。

 こちらも、毎日から引用。

毎日新聞の該当記事

浪江町
避難指示解除へ 町長「苦渋の決断」 危機感も

毎日新聞2017年2月28日 09時59分(最終更新 2月28日 10時08分)

 東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町に出ている帰還困難区域を除く避難指示について、馬場有町長は27日、3月31日に解除する政府案を受け入れた。町民説明会などでは町内の除染の効果や生活インフラへの不安から解除を疑問視する声が目立つものの、町長は、町に帰りたい住民の思いを尊重した「苦渋の決断」であることを説明。住民帰還を進めて人口を確保しないと、将来的に町が存続できなくなるという危機感もうかがえた。【土江洋範】

 同県二本松市の仮役場であった町議会全員協議会の冒頭、馬場町長は町議の意見を聞いた上で自らの考えを述べると説明。一部町議は「解除は時期尚早」と訴えた。

 「空間放射線量が比較的低い場所だけを解除すべきだ」、「避難指示が解除されると、避難者への支援策が打ち切られる不安を拭えない」、「第1原発の廃炉作業は安全が確保されているのか」--。町長は腕を組んでうつむき、時々顔を上げた。

 町議から賛否両論の意見が出た後、町長は立ち上がり、政府案の容認を表明。声を詰まらせながら「町を残すためには、今この時期に解除することが必要だ。この6年間、町民の塗炭の苦しみを振り返ると、悲しみ、悔しさ、無念の思いがあふれ、言葉にすることもできない。その中で誰もが強く願ってきたのは、浪江をなくしてはいけないということだ」と語った。意思表明は約12分にわたった。

 復興庁などが昨年9月に実施した世帯アンケートでは「戻りたい」17.5%▽「判断がつかない」28.2%▽「戻らない」52.6%--との結果になり、前年より帰還意欲が下がった。

 全員協議会後、町長は報道陣に対し、「これまで『町長。早く戻してくれ』という町民の声が頭にこびりついている。その言葉があったので苦渋の決断をした。これ以上(避難指示の期間を)長くすると帰りたいという方の心が折れてしまう」と述べた。解除のタイミングの限界を「今回が最終ステージ」と表現した。一方で、住まいや買い物などの生活環境は最低限との認識を示し、住民帰還を促進するために環境整備を急ぐ考えを説明した。

 町は27日、町長名で「避難指示解除に関する町民の皆さまへのメッセージ」をホームページに公開した。


 兄弟ブログ「幸兵衛の小言」に、20ミリシーベルト基準の問題などを書いた。
「幸兵衛の小言」2017年3月8日の記事

 国が「大丈夫」と言ったって、まだ放射線量は危険値を上回っている。
 チェルノブイリの基準と比べてみれば、20ミリシーベルトという基準がどれほど問題かは明白だ。

 なぜ、日本政府がチェルノブイリに学ぶことができないのか、不思議でならない。

 それは、「人様」という考え方が欠落しているからではないのか。

 浪江町の人々にとっては、戻りたくても戻れない故郷なのだ。

 その浪江町のことを忘れないためにも、「親父の小言」の内容を噛みしめたい。

 教育勅語を復活させようとする「俺様」たちがいるが、「人様」への気配りを最優先にする「親父の小言」の方が、はるかに「教育」的だと思う。


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by kogotokoubei | 2017-04-17 12:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)
 加川良の訃報に接した。

 デイリースポーツから引用する。
デイリースポーツの該当記事
加川良さん 急性骨髄性白血病で死去 判明から4カ月、前夜容体急変
デイリースポーツ 4/6(木) 5:59配信

「教訓1」などで知られ、日本フォーク界の先駆け的存在だったフォーク歌手・加川良(かがわ・りょう)=本名小斎喜弘=さんが5日午前9時39分、急性骨髄性白血病のため都内の病院で死去した。69歳。滋賀県出身。所属事務所によると、昨年12月9日の検査入院で急性白血病が判明。今月4日夜にに容体が急変し、妻・富士子さんに見守られて息を引き取った。葬儀・告別式は親族のみで行い、後日、追悼ライブを開く予定。

 訃報は一人息子でミュージシャンのgnkosai=本名小斎元希=が自身のフェイスブックで伝えた。

 加川さんは昨年12月14日、公式サイトで「12月9日 山梨県下の病院に検査入院、少々つかれ気味でした。本日6日目、今しばらくの入院生活となりそうです」と、恒例の直筆メッセージで報告していた。メッセージは「また お会いします」と結ばれていたが、約束は果たされることなく、これが最後のメッセージとなった。

 所属事務所の阪本正義社長によると、加川さんはそれまで普通にライブを行っていたが、検査入院で急性白血病が判明。1月に入って都内の病院に移り、闘病生活を送っていた。病状は「穏やかな日もあり、ムラのある日々だった」が、4日夜に容体が急変。静かに息を引き取った。

 加川さんは昨年6月、ニューアルバム「みらい」を発表。10月には米シカゴでライブを行った。その後も12月4日の福岡までライブを行ったが、同17日の大阪、18日の岡山を入院のため延期した。

 今年は古希を迎えることもあって、いろいろなイベントが予定されており、ライブの予定も多く入っていたという。阪本氏は「本人も夢にも思っていなかったと思います」と、加川さんの無念を思いやった。

 加川さんはセミプロのグループサウンズのボーカルを経て、高石ともや、岡林信康や故高田渡さんが所属していた日本のインディーズレーベルの先駆け「URCレコード」の出版会社「アート音楽出版」に就職した。

 1970年、伝説の第2回中津川フォークジャンボリーに飛び入りして「教訓1」を歌いデビュー。小室等、友部正人、大塚まさじらと共に日本のフォークの先駆けとして活躍した。吉田拓郎が72年に発表したアルバム「元気です」には「加川良の手紙」という楽曲が収録されている。


 残念だ。

 もっと歌って欲しかった。

 しかし、彼の歌は、生きている。

 今の時代、まさに必要とされる歌が、「教訓Ⅰ」だ。

 二十代で越後にいた時、あるお店で加川良のライブがあり、彼の歌を聴くことができた。

 ジャズのライブなども開くそのお店のご主人と懇意にしていたので、打ち上げにも参加させてもらった。
 実に腰が低く、その場にいたお客さんたちに酒を注いで回っていた加川良の姿を。今でも思い出す。

 たぶん、昭和57年か58年だったと思う。

 生で聴いた「教訓Ⅰ」は、素晴らしかった。

 今、まさにこの歌が求められているのではなかろうか。

 歌詞を紹介し、加川良のご冥福を祈りたい。


「教訓Ⅰ」

作詞:加川良
作曲:加川良
唄 加川良

 命はひとつ 人生は1回
 だから 命をすてないようにネ
 あわてると つい フラフラと
 御国のためなのと 言われるとネ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 御国は俺達 死んだとて
 ずっと後まで 残りますヨネ
 失礼しましたで 終るだけ
 命の スペアは ありませんヨ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 命をすてて 男になれと
 言われた時には ふるえましょうヨネ
 そうよ 私しゃ 私しゃ 女で結構
 女のくさったので かまいませんよ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 死んで神様と 言われるよりも
 生きてバカだと いわれましょうヨネ
 きれいごと ならべられた時も
 この命を すてないようにネ
 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 青くなって しりごみなさい
 にげなさい かくれなさい

 国のために命を捨てよ、などという言葉には、震えよう。
 教育勅語などには、青くなってしりごみしよう。

 そして、戦争からは、徹底的に逃げようじゃないか。

 合掌
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by kogotokoubei | 2017-04-06 12:51 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 今日の毎日新聞「記者の目」で、東京学芸部の濱田元子という記者による、“落語ブーム?”という記事を掲載している。

 まず、冒頭から少し引用。

毎日新聞の該当記事

記者の目
落語ブーム?=濱田元子(東京学芸部)
毎日新聞2017年4月5日 東京朝刊
.
波が来た今が正念場

 落語の話題がさまざまなメディアをにぎわせている。この3月には落語協会(柳亭市馬会長)から5人、5月には落語芸術協会(桂歌丸会長)から2人が二つ目から真打ちに昇進。落語協会の真打ちは200人となった。東西合わせて落語家は約800人に上る。観客動員も好調だ。大ヒットミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」になぞらえ、「ら・ら・らくご」なんて声も聞こえてきたりする。

 こうした隆盛ぶりは演芸担当記者、そして落語を楽しむ一人として、うれしい限りである。一度に何千人も動員する芸ではないが、観客が多彩な個性を楽しめる環境もできてきた。400年続く古くて新しい芸をより広く浸透させるチャンスであり、この機に寄席や落語会に足を運ぶ人がもっと増えてほしい。

 一方で「ブーム」と呼ばれることに一抹の不安がないわけではない。いずれ熱は冷めてしまうのではないか、と。 江戸時代中期、落語家の祖といわれる露の五郎兵衛、米沢彦八、鹿野武左衛門が京都、大坂、江戸の3都にほぼ同時に現れ、小屋掛けやお座敷など興行のスタイルこそ違え人気を集めて以来、落語は浮沈を繰り返してきた。

 直近で“ブーム”と呼ばれたのは約10年前、2005年前後。落語家を主人公にした宮藤官九郎さん脚本のテレビドラマ「タイガー&ドラゴン」(05年)や、上方落語を舞台にしたNHK連続テレビ小説「ちりとてちん」(07~08年)で、落語が一気にお茶の間に浸透した。

 今回、火が付くきっかけになったのは、人気と実力を兼ね備えた立川談春さんが師匠談志の下での修業時代をつづったエッセー「赤めだか」の2時間ドラマ(15年)、そして漫画原作のテレビアニメ「昭和元禄落語心中」(16~17年)だといわれる。

 2015年12月28日に放送されたドラマ「赤めだか」についての私の感想は、以前書いた通り。
2015年12月30日のブログ

 あまり良い印象はないのだが、とはいえ、落語を知らない人を落語に振り向かせたという意味で、ジャニーズ系の人気者が落語家に扮したドラマの効果は否定しない。

 さすがに、談春が役者をするよりは、役者が談春に扮した方が上手い^^

 そして、漫画とテレビアニメ「昭和元禄落語心中」が、その物語の魅力によって、若者に落語という芸の世界や個々のネタを知らしめた効果は大きいだろう。

 あのアニメ、初心者のみならず、長年の落語愛好家の中にもファンはいるからね。
 私は二度ほど観ただけだが、なるほど、巧いこと漫画にしたものだ、とは思う。

 記事の引用を続ける。

若い観客層が二つ目を支持

 前回と同じくドラマにけん引されてはいるが、目を引くのが二つ目と呼ぶ若手落語家の人気、そして若い観客層の支持である。寄席の一つ、末広亭(東京都新宿区)の真山由光席亭は「ブームというのは大げさだが、たしかに若い人が増えている。二つ目あたりがお客さんをつかんでいる」。落語協会も「右肩上がりです」と手応えを話す。

 受け皿となる落語会も飛躍的に増えた。首都圏だけで月1000件が開催され、寄席やホール以外にも小さなカフェなど落語を聴ける場所が多様化。間口も確実に広がっている。

 ぴあ総研の調べでも、寄席・演芸の動員数は、東日本大震災があった11年に前年比減となり、12年には129万人に落ち込んだが、13年に156万人、15年には151万人と堅調に推移している。

 そんな活況を象徴的に示したのが今年1月31日、落語協会が都内の寄席3軒に呼びかけて実現した「昭和元禄落語心中寄席」だ。アニメに絡めた落語を特集し、チケットは発売から10日で完売した。「普段の寄席とはまったく違う(若い)お客様がきた。どういう入り口であれ、寄席にお客さんを呼びたい。そのうち10%でも残ってくれればいい」と協会は期待をかける。

 寄席も動いている。昼間はどうしても年配層が中心になるが、末広亭では若い層を取り込もうと、数年前から夜の部で、午後7時以降入場料を半額の1500円にした。トリの演者によっては、半額狙いで行列ができる。

 ブームかどうかはさておき、波が来ているのは確かだろう。落語に注目が集まっているからこそ、落語家にとってもここが正念場だ。多数の中から頭一つ抜け出すためには目先の笑いを取ることに走るだけでなく、波に左右されない芸の積み重ねが必要だ。

 五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生ら「昭和の名人」はとうになく、その次の世代である、東京の古今亭志ん朝、立川談志ら、大阪の笑福亭松鶴、桂米朝ら、それぞれ東西の「四天王」と呼ばれた絶対的な規範も失った。

 今回の値上げがどう影響しているかは確認していないが、末広亭の深夜寄席にも、若い人たちの長い行列ができる。
 
 “しぶらく”に触れてないのは、何か理由があるのか・・・・・・。

 加えて、どうも、この記事は落語協会寄りに思えるが落語芸術協会には取材したのだろうか。

 記事内容について小言を言うが、東西の四天王も、名前を出すなら全員の名を載せて欲しいものだ。
 これでは、柳朝(あるいは円鏡)、円楽、そして春団治、小文枝(文枝)は、立川談四楼の本を記事にした際に紹介した、「ら族」ではないか^^

 さて、ここまできたら、記事を最後まで紹介しよう。
言葉の復権の鍵を握るかも

 その一方で、東京では柳家小三治さんや、立川志の輔さんらベテランから、柳家喬太郎さんや桃月庵白酒さん、春風亭一之輔さんといった中堅・若手まで、人気、実力ともに充実した層の厚さがある。二つ目人気も、その裏打ちがあってのことだ。

 生のコミュニケーションが希薄な時代。「ご隠居さん、こんちはあ」「おや、八つぁんかい。まあまあ、お上がり」という会話で始まる落語は、緊密な人間関係をベースに、喜怒哀楽、庶民の心のひだに優しく寄り添う。若い客層に響く魅力の一つではないだろうか。落語復権は、言葉を根幹にしたコミュニケーション復権の鍵を握っているのかもしれない。

 舞台装置もなにもないところに、演者の言葉だけで、観客が想像力で噺(はなし)の世界を描く。いたってシンプルな芸、だが奥は深い。今ちょうど、東京都内の寄席では50日間にわたる落語協会の真打ち昇進披露興行の真っ最中。普段とはまた違う華やいだお祝いムードに包まれているから、これを機に寄席デビューも悪くない。ブームとやらであろうが、あるまいが、息長く見守っていきたい。

 う~ん、小三治と志の輔を同じ“ベテラン”で括るな、と言いたくなるなぁ。

 この記者は、ご自身が落語が好きで、若いファンが増えることを喜んでいるのは分かるのだが、良くも悪くも若さが記事に露呈しているように思う。

 とはいえ、“言葉の復権”という指摘は悪くない。

 できれば、そこから一歩進んで、江戸時代の季節や自然と調和した生活を知ることができる、そして、士農工商と言われたタテマエとは別の、落語の世界の住人の“たくましさ”や“生きる知恵”の発見などにも、落語を知ることによる効能を膨らませて欲しいものだ。

 小言が多いのは管理人の名前からしてそうなので、許して。

 真打昇進披露興行を機に寄席デビューも悪くはないだろう。

 口上はなかなか観ることができないし、ハレの雰囲気が会場全体に溢れている時間と空間を共有するのは、悪いことではない。

 そこで知った新真打と、長い付き合いが始まるかもしれない。
 

 たしかに、ブームとは言えなくても“波”は来ているのだろう。

 今来ている“波”は、いったい何を運び、何を“上げ潮のごみ”として残していくのだろうか。

 私は、“波”や“ブーム”という現象によって、優れた噺家が一人でも多くなることを期待している。
 そのためには、定席や大小の落語会を開く場という、環境も重要。
 しかし、場が増えたところで、一人でいくら稽古していても、成長は限られている。
 それぞれの一門で師匠や他の師匠たちの稽古で芸を磨くことも大事だが、もっと重要なことは、いわば“他流試合”を多くこなすことだと思う。

 流行を表す“boom(ブーム)”には、“とどろく”とか“景気づく”という意味がある。
 ドラマ「タイガー&ドラゴン」は、2004年から2008年まで開催された「大銀座落語祭」と時期が重なる。

 大いに、落語は“景気づいた”のだった。

 大銀座落語祭りは、春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、林家正蔵、立川志の輔、春風亭昇太、柳家花緑の六人の会が主催で、小朝というプロデューサーの力によって、東西と東京の両協会を越えた落語家たちの結託が背景にあった。

 今、博多などでも、大同連合的な落語会は開催されていて、それはそれで結構だと思うが、大銀座ほど“ブーム”を牽引する力はないだろう。

 私は、また大銀座をやれば良い、と思っているのではない。

 新たな落語界の胎動があっても良いと思っていて、それがなければ“ブーム”とは言えないだろうと思っている。

 そういう意味で、私が期待しているのは、以前、横浜にぎわい座・のげシャーレで聴いた「東西交流落語会」のような、若手の活動だ。
2015年11月26日のブログ

 博多での出会いをきっかけとしたこの六人は、横浜にぎわい座や天満天神繁昌亭で交流落語会を開いている。

 六人のメンバー(春風亭昇也、桂二乗、三遊亭橘也、桂佐ん吉、笑福亭鉄瓶、そして柳亭小痴楽)は、東京の三人のうち落語芸術協会が二人、円楽一門が一人。上方は米朝(米二&吉朝)一門が二人、松鶴(鶴瓶)一門が一人。

 佐ん吉が一昨年のNHKで優勝するなど、なかなかの実力者揃い。

 こういった威勢の良い若手が、一門や東西の隙間を越えて交流することで、何かが生まれるような気がするし、期待している。

 中堅どころが一門や東西の壁を乗り越えて、というのはなかなか難しいし、今さら、という感もあるだろう。

 どんな芸能やスポーツもそうだが、有望な若手に落語の将来はかかっている。
 
 かつては、ある一門にいても、その師匠の裁量で一門以外の他の師匠のところへも稽古に出すことはあったし、東京と大阪の交流も今日より日常的なものではなかっただろうか。

 良い意味で、そして潜在能力の高い若手が、良い意味で「危機感」を持って壁を越えた交流をすることで、自分の芸を磨くための師匠の数も広がっていくはずだ。

 あえて具体的なネタの例を挙げるが、昨今、上方の噺家さんが東京版の『時そば』を演じることがある。
 私の好みは、上方版は、やはりあの二人連れのからみだろう、と思うのだが、試みとしてはいいと思う。
 ならば、東京の噺家さんが、旬のネタ『長屋の花見』を、上方版の『貧乏花見』で演じるなどの試みなども面白いだろう。

 そういったことに挑戦せきるのも、若いうちではなかろうか。

 小痴楽が、佐ん吉や二乗から米朝の源をたどれる『貧乏花見』を上野に置き換えて演じる、なんて高座は、ぜひ聴きたいものだ。

 そんなことも、この季節にこの新聞記事を読んで、考えてしまうのだった。


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by kogotokoubei | 2017-04-05 21:27 | 幸兵衛の独り言 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛