噺の話

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カテゴリ:小説家と落語( 2 )


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 池波正太郎のエッセイは好きだ。

 最近になって古書店で入手した『小説の散歩みち』(昭和62年発行、朝日文芸文庫)を、読み終えた。
 この本は、朝日新聞社から出版された二冊の単行本、『新年の二つの別れ』(1977年発行)、『一年の風景』(1982年発行)が底本らしい。
 
 この本に、明日12月12日が祥月命日の八代目桂文楽に関する内容が含まれていた。

 池波正太郎と落語家、ということでは、古今亭志ん朝が「鬼平犯科帳」の木村忠吾役を演じていたことを思い出す。逸話として、池波正太郎が新国劇の脚本を書いていた頃、落語家になったばかりの志ん朝に「若いころの六代目尾上菊五郎」を重ね合わせて、新国劇の将来の後継者に育てたいと本気で考えていた、という話がある。
 しかし、池波のエッセイでは落語や落語家に関する内容を目にしたことがなかった。志ん朝のことではなかったが、落語愛好家として嬉しかった。

 その章には、池波の子供の頃、そして敗戦後に復員してからの、それぞれに印象深い文楽の高座の思い出が記されている。

 「桂文楽のおもい出」から引用。

 戦前の東京の下町に生まれ育ったものは、いずれも早熟で、やたらに、大人のまねをしたがったものだ。
 私なども、十か十一になると、芝居・映画・寄席へは、それこそ、キャラメルを買うようなつもりで出かけたものだし、母も、これを咎めなかった。
 つまりは母も、そうした少女時代を送ってきたからであろう。
 少年のころ、私が住んでいたのは浅草の永住町であった。
 この町名は、いま〔元浅草〕という、吐気をもよおすような町名に木端役人どもが変えてしまった。
 浅草へ歩いて十五分、上野へ十分という便利な町で、そのころは寄席もずいぶんあった。
 私は、いまも残っている上野広小路の〔鈴本〕へ、よく出かけた。
 あれは、小学校五年生のころだったろう。
 鈴本へ入って、高座の、すぐ下へ陣取り、大好きな故・桂文楽の出を待ちかまえる。
 当時の文楽は、まだ四十そこそこであったろうが、私には、この人の落語をきくと、他の落語家が、みんな色褪せてみえたものだ。
 その夜も、文楽が出て来ると、私は夢中で手を叩き、
「よかちょろ演(や)って」
 と注文した。
 すると文楽は、
(おや?)
 というように、私は見下ろして、
「坊や。そんなこといっちゃいけません。そんな、あなた、ませたことをいうと、お母さんに叱られますよ」
 あきれたように、いった。
 申すまでもなく、落語の「よかちょろ」は、商家の若旦那が吉原の花魁に夢中になるはなしである。
 客が、どっと笑う。 
「よかちょろ演って」
 と、また、私が叫ぶ。
 文楽は困惑顔に、客席へ向かって、
「どうも、この坊やにはかないません。いかがいたしましょう?」
 客が、おもしろがって、
「演ってやれ、演ってやれ」
 と、こたえる。
「それでは・・・・・・」
 と、文楽は、ちょっと形をあらためるようにして、私に、
「坊や、耳をふさいでおききなさいよ」
 と、いったのである。
 いまも、そのころの、血気さかんな桂文楽の高座が、私の瞼に浮かんでくる。


 池波正太郎は関東大震災があった大正12年の生まれだから、昭和一桁の頃の思い出だろう。
 
 十歳か十一歳にして「よかちょろ」を文楽にリクエストするなんざぁ、なるほどその後の時代小説の巨匠となる萌芽と言えるなぁ。
 
 このあと池波は文楽のネタの中では「心眼」も好きだ、と書いたあと、復員してからの思い出を綴っている。
 あの太平洋戦争が終って、海軍の基地から復員して間もなく、私は人形町の〔末広〕で、桂文楽の独演会があるときき、飛んで行った。
 焼野原の東京で、空腹を抱えている客が、ぎっしりとつめかけた中で、文楽は精気にあふれ、たっぷりと「明烏」と「心眼」と「王子の幇間」をやった。いずれも戦時中はゆるされなかったであろうものだけに、文楽も張り切っていたにちがいない。
 助(スケ)は柳家三亀松に円鏡。三亀松もまた、水に帰った魚のように、おもうさま色気を出しての快演だったが、文楽が最後に「心眼」をやって、夢さめた按摩の梅喜が、
「あゝ・・・・・・」
 おもわず、ためいきを吐いたとき、突然、驟雨が寄席の屋根を叩いてきた。
 その雨音に文楽が・・・・・・いや梅喜が凝(じっ)と聴き入ってから、
「めくらてえのは、妙なもんだ。眠っているうちだけ、よく見える」
 しんみりと演じ終えたとき、私は梅喜の胸の内のさびしさに、おぼえず泪ぐんでしまった。
 以前にも何度も聞いた「心眼」では、こんなおもいをしたことがない。
 私も、いくらか大人になっていたのだろうか。
 そしてまた、偶然の驟雨が、文楽の名人芸の、ちょうど、うまいところへやって来て、おもわぬ効果をあげたからでもあろう。
 (文楽の高座を、生きて帰ってきて聞けようとはおもわなかった。おれも生きている、文楽も生きていた・・・・・・)
 その感動をかみしめながら、私は焼け残った下町の一角にある小さな部屋へ帰って行ったのだった。

 ( )に括られた心情は、百の言葉で反戦を唱えるよりも、生き残った者として平和の尊さを伝えているように思う。

 戦争中、禁演落語五十三種が本法寺境内のはなし塚に葬られたが、その中には、「明烏」「よかちょろ」「つるつる」なども含まれていた。
 無事復員して文楽の高座を聴くことのできた池波や他のお客さんのみならず、ようやく十八番ネタを演じることのできた文楽も、この独演会への思いは特別だったのではなかろうか。加えて、文楽はご子息を戦争で亡くしている。

 桂文楽は明治25(1982)年生まれなので、‘まだ四十そこそこ’の頃、「よかちょろ演って」という大人びたおねだりを叶えてあげて、正太郎少年が終生忘れられない思い出をつくった。

 そして、戦後の焼け跡の中、文楽は五十代半ばにして、復員してきた池波青年の前で披露した「心眼」の名演によって、生きることの尊さを深く噛みしめさせることとなった。


 落語に限らず、人生のある時点で出会った優れた音楽、映画や芸能は、当時の生活の情景とともに忘れられない思い出となる。
 
 文楽の名人芸とともに池波正太郎の脳裏に深く刻まれた二つの思い出を読んで、正太郎少年と池波青年との間に挟まれた戦争と平和ということにも、思いを馳せる。
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by kogotokoubei | 2014-12-11 19:11 | 小説家と落語 | Comments(2)

夏目漱石と落語

先週7日(土)、私は吉祥寺にいたのだが、漱石ゆかりの土地である新宿では区の主催で『漱石千思万考』というイベントが開催されたようだ。企画メンバーの一人である大友浩さんのブログによると、次のようなプログラムだったらしい。
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○日時:2009年2月7日(土) 14:00開演
○会場:四谷区民ホール
○主催:新宿区
○制作:社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)
○番組:
 第一部 創作落語
    「『坊っちゃん』外伝」三遊亭圓窓
 第二部 日本舞踊
     「吾輩は猫である」花柳寿南海
 第三部 大喜利
    五明楼玉の輔・桂平治・三遊亭萬窓・三遊亭丈二・三遊亭遊雀
    司会=三遊亭圓窓
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大友浩さんのブログ_芸の不思議、人の不思議

 『坊ちゃん』が落語になり、『吾輩~』が日本舞踊になったようである。このメンバーでの大喜利も、さぞ楽しかっただろうなぁ。

 夏目漱石は、新暦では今日2月9日の生まれである。慶応3(1867)年旧暦1月5日の生まれ、大正5(1916)年の12月9日没。本名は夏目金之助。
 余談だが、日本の旧暦(正確には天保暦)は明治5年12月2日(新暦で1872年12月31日)まで使われて、その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改暦された。旧暦(太陰太陽暦)については堀井憲一郎さんの『落語の国からのぞいてみれば』(講談社現代新書)に詳しく説明されている。
堀井憲一郎_落語の国からのぞいてみれば
 
 さて、ご紹介したイベントでも物語るように、夏目漱石と落語の関係は深い。特に有名な『三四郎』で登場人物に語らせる名人三代目柳家小さん評は、ずいぶん多くの評論家や落語家に引用されている。
 少し筋書きを説明すると、三四郎が東大に入学し専攻課目以外の授業も含め週に四十時間も大学に通っていても物足らないと言うのを聞いた友人の佐々木与次郎が、「電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちに自ら物足りる様になるさ」と電車に乗せた後、日本橋の料理屋へ連れて行き晩飯を食べ酒を呑んだ後の記述である。

 次に本場の寄席へ連れて行ってやると云って、又細い横町へ這入って、木原店(きはらだな)と云う寄席へ上った。此処で小さんという落語家を聞いた。十時過通りへ出た与次郎は、又「どうだ」と聞いた。三四郎は物足りたとは答えなかった。然し満更物足りない心持もしなかった。すると与次郎は大に小さん論を始めた。小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。


 夏目漱石の作品自体への落語の影響は、『吾輩は猫である』のほうがはるかに大きい。作品そのものが”落語的”と言ってもいいだろうし、あちこちに優れたパロディが見られる。
たとえば、強盗が入れられた翌朝、苦沙弥夫婦が盗まれた物を確認する会話は、まさに『「花色木綿(出来心)』のパロディである。

「帯までとって行ったのか、にくい奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか。黒繻子と縮緬の腹合の帯です」
「黒繻子と縮緬の腹合の帯一筋—価はいくら位だ」
「六円位でしょう」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭位のにしておけ」
(中 略)
「それから?」
「山の芋が一箱」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒の所へ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまで知りません」
「そんなら十二円五十銭位にしておこう」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」


 なぜ、漱石の(初期の)小説に落語の香りがこんなに漂うか、ということについては矢野誠一さんの『文人たちの寄席』からヒントが得られる。
矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。正則中学校、二松学舎、成立学舎をへて東京帝国大学英文科と、漱石の学生生活は一方で寄席通いの歴史でもあった。正岡子規との交遊が始まったのは、1889(明治22)年1月からだが、そのきっかけとなったのはふたりで交わした寄席談義だったとされている。


 晩年の作品は落語とは次第に無縁となっていったが(もちろん、それぞれ傑作であるが)、若かりし頃の漱石の作品には、落語ファンにはたまらない魅力がある。それは、寄席が大好きだった少年時代の思い出が大きく影響しているのだろう。
 漱石作品は『こころ』をきっかけに、中学から高校にかけて夢中に貪った懐かしい思い出がある。それは、その小説としての魅力はもちろんだが、敗戦を終戦と誤魔化され、昭和30年代以降の世界しか知らなかった世代にとって、その作品に広がる明治の東京が新鮮に、そして美しく思えたことが大きな理由でもある。団子坂の菊人形などのキーワードが今も思い出される。

 あらためて久しぶりに漱石を読み返してみよう、と思う記念日であった。

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by kogotokoubei | 2009-02-09 15:03 | 小説家と落語 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛