噺の話

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江國滋著『落語美学』

 このシリーズの三回目。

 その前に、「哲学」という固い題が気になる方もいらっしゃるだろうから、江國さんが「序説」で書いていることを紹介しておきたい。

 われわれがいま耳にするのは、要するに二百年にわたって磨きぬいた芸であり、その芸に裏打ちされたすぐれた表現なのだ。これを称して「落語哲学」と、ぼくは勝手にそう名付けたのだが、何を大げさなといわれるかたには、八っつあんの倫理、熊さんの知恵といい直してもいい。それもお厭なら、落語・温故知新とでもいおうかー。

 ということで、あまり「哲学」という言葉に目くじらを立てずに、ご覧のほどを。

 では、「第二章 色について」から。

 まずは、志ん生の高座を思い浮かべてお読みのほどを。

「あんまりやさしくすると当人が図にのぼせてしまう、といって、小言をいやァふくれるし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る・・・・・・どうも困るそうですなァ、女というものは、見たところは大変綺麗で、いいようですが、外面如菩薩内心如夜叉なんてえまして、見たとこは菩薩のように綺麗だけれども、腹ン中は鬼か蛇だって、これァお釈迦様がそういったんで、苦情はむこうのほうへもってってくださいよ」(『お直し』)


 あくまで志ん生がマクラで使っているから、外面如菩薩内心如夜叉(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)なんてぇ言葉を引用しているので、私がそう思っているのではないことを、強くおことわりしておきます^^

 江國さんは、次のように続けている。

 外面如菩薩内心如夜叉という言葉そのものは別に珍しくもない。仏教の「華厳経」が出典だそうだが、この言葉を志ん生が、あのめんどくさいような、どうでもいいような調子で喋ると、とたんにおかしくなってくる。ただおかしいだけではなく、どことなく真実味が加わってくるから妙である。聴いているうちにぼくは、劇作家ボーマルシェーがフィガロにいわせた有名な独白を思い出す。
「噫々、女! 弱ああい、当(あて)にならねえ代物だなあ! およそ生きとし生けるものは本能に縛られるが、手前の本能は男を誑かすことか?」(『フィガロの結婚』第五章第三幕。辰野隆焼く)
 女性よ、期せずして似通った彼我の女性観に腹を立ててはいけない。一見女性蔑視のように聞こえるこの二つの言葉の底に流れているものは、蔑視どころか実は、徹底した女性崇拝の思想なのだから。


 志ん生の『お直し』で、『フィガロの結婚』を連想するところが、江國さんなのである。
 この後を続ける。
 同じ『お直し』の中にこんな言葉もある。
「この、女ってえのァそういう時に慰められるてえと、いちばんうれしい。ああこの人は親切だなッと思う・・・・・・親切と慰めとこんがらがってきますね、そうすると、二人の間でもって、なにかそこにできあがってくる」
 今も昔も変らぬ男女間の微妙な心理。その本質を衝いた至言ある。
 先月の柳家小満の会で、この噺を聴いた。
 “男女間の微妙な心理”を描いた、好高座だった。
 かつては売れっ子だった吉原の花魁が、年を重ねてお茶をひくことが多くなり沈んでいるところを、同じ店で妓夫として働く男が優しく声をかける。

 男は、この時、夜叉ではなく菩薩を彼女に見たのだろうねぇ。

 男は、その外面如菩薩に、弱いのだ。

 それが独身だったりすると、大きな勘違い、あるいは都合の良い錯覚をしてしまう。

 そういった、スケベ心から女に騙される男のだらしなさは、数多くの落語で明らかにされている。
 引用を続ける。
「ああそうだよ、それァおればっかしじゃないよ。あすこの家ィ稽古にくるものは、みんなあわよくばってのがもうずうッとそろってるんだ。ああ、あわよか連だ。そういうおまえだってあわよか連だよ。おまえなんざァ、あわよかが着物を着て下駄ァはいているようなもんだよ。だけどそのことについてはもう心配しなくてもいいよ。師匠はあたしに惚れてんだから」(『猫忠』)
 美人で愛想のいい遊芸の師匠が稽古所を出すと、町内の若い衆がたちまち競争で通ってくる。もちろん、芸なんぞどうだっていいという手合いだ。師匠も心得たもので、適当に「スジがよござんす」だの「お声がよろしい」だの、心にもないお世辞をそれぞれに配合する。いわれたほうは「こりゃ、ことによると・・・・・・」と、勝手にうぬぼれる。三回も通ううちに、あわよくば金的をという野心を抱きはじめる。
 馬鹿馬鹿しい、と嗤う資格はわれわれにはない。毎日美人喫茶にやってきて珈琲一杯で三時間もねばる学生。どうせ会社の金だから痛くも何ともないのだろうが、それにしては法外に高い金を出して、せっせと高級バーに通勤するサラリーマン。いい齢をして小料理屋のおかみに目をつけて、何とかして旅行・・・・・・それも東京都内一拍旅行に誘い出そうとヤッキになっている好色おやじ。即ち悉く「あわよか連」である。
 
 “美人喫茶”というのが、この本が昭和四十年発行ということを思い出させるねぇ。

 盛り場の様子も平成の今では変わっているにしても、「あわよか連」が夜の街を彷徨っていることには、変わりがなかろう。
 キャバクラで「あわよくば」と鼻の下を伸ばしている男は、少なくなかろうし、好色おやじが通う、昔は美人だったであろう女将のいる小料理屋も、少なくはなったとはいえ、ないことはない。

 「あわよか連」のマクラは、『あくび指南』『稽古屋』『汲み立て』など稽古ごとが登場するネタでよく聞くことができる。

 炬燵の中で手を握っていたのが美人の師匠ではなく、同じ「あわよか連」野郎だったことが判明した時の男に同情を禁じ得ない人が、少なくないだろう。

 しかし、淡い期待が裏切られたとしても、「あわよか連」のショックは、そう大きなものではない。
 江國さんも、こう書いている。
 あわよくばということは、失敗してモトモトだということにほかならない。ごく安直にちょっかいを出すかわりに、望みがないとわかればいささかの未練もなく引下がるー男性の助平根性は、おしなべてまあそんなところである。

 見事にふられた後で、「あわよか連」の面々の中にも、「外面如菩薩内心如夜叉」を痛感する者がいるだろうなぁ。

 くどいようだが、この言葉、お釈迦様が言ったので、苦情はむこうのほうへもってってくださいよ^^

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# by kogotokoubei | 2017-12-11 12:39 | 落語の本 | Comments(0)
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江國滋著『落語美学』

 このシリーズの二回目は、「第四章 生活の知恵」から。

「おばあさん、なんか着るものを出してやんな、え?印半纏、うん、古いやつでいいよ(略)ああ結構、結構、じゃそいつを出しといてやんな。それから紐のついた財布を出して、それから、かぶり笠はあるかい?ああ、ふたッつある、浅いのと深いのと、そうだなァ、浅いほうがいいだろう、うん、笠の底に青ッ葉を二、三枚入れといてやんなよ。暑さにやられねえように・・・・・・」(『唐茄子屋』)
 というのには、ちょっとしたおもむきがある。苦労人の伯父さんが、ぐうたら野郎の根性をたたき直そうとして、きついことばかりいいながら、時折り、言葉のはしにちらりと、甥に対するいたわりが顔を出す。その人情味もさることながら、暑気ふせぎに青ッ葉をという民間衛生をきくとつい「ふうん、そういうものかなァ」という気になってくる。たとえ科学的根拠はなくても「俺は青ッ葉を入れているから大丈夫だ」という自信によって、もし気力が出てくるとすれば、それはもはや「迷信」ではなくて一つの立派な「知恵」である。

 『唐茄子屋』でこの「青ッ葉」を聞くまでは、そういう知恵があることを、私は知らなかった。

 この後の江國さんの体験が興味深い。
 昨年の夏、ぼくは日本橋のY病院に入院して痔の手術を受けた。生来弱虫の上に、堪え性がないので、あたりかまわず痛い痛いを連発して、病院中に勇名を馳せてしまったのだが、痛がるたびに院長は看護婦に命じて、惜し気もなくモルヒネなどの麻薬注射をしてくれた。痛み止めの散薬も普通の患者の三倍近くのませてくれた。薬石効あって、いよいよ数日後にはめでたく退院というある日、回診のあとで院長が笑いながらいった。
「キミが有難がってのんだ薬ね、あれの三分の二はただの重曹だよ」
 ほんとですかというぼくの言葉をさえぎって院長はさらにいった。
「注射だって、ほんとの麻薬を打ったのは二、三本だよ。あとはみんな食塩注射さ。それでピタリと静かになるんだからキミも不思議だねえ、ハハハ」
 “真相”を告げられて、無念、はかられしかという口惜しさは全然感じなかった。といって、ころりと暗示にかかるおのれの単純な神経をはずかしいとも思わなかった。院長は不思議だといったが、ぼくはちっとも不思議だとは思わない。患者の神経なんて、みんなあんなものではあるまいか。
 近代医学でもこの通りである。「青ッ葉を二、三枚・・・・・・」という教えも、あながち軽蔑したものではない、と、これは自分の体験からいうのである。

 う~ん、なるほどねぇ。

 江國さんにとっての“青ッ葉”は、院長の見事な暗示だったわけだ。

 病は気から、ということか。

 この後には、こんな落語の中の一言が紹介されている。

「で、この品川あたりまではうちの者はもちろん、親類友達なんてえものが見送ってくれまして、『じゃァ、道中気をつけて・・・・・・水が変るぜ』」(『三人旅』)
 これは青ッ葉に比べれば、ある程度科学的な根拠がある言葉かもしれない。例えば、都会の子供がいきなり田舎へ行って井戸水をのんでお腹をこわすというのは、いまでも充分あり得ることだ。だが、ここでは、そのこと自体よりも、「水が変るぜ」という些細な注意を別れぎわのきまり文句にした古人の知恵に感心する。どんな場合でも、別離の時というものはしめっぽくて、厭な感じのするものである。もっともっと話しておきたいことがありそうでいて、実際にこの瞬間にはもう何もいうことがない。といって、ここで何かいわなくては間がもてない。悲しみをやわらげようと下手な冗談をとばしてみても、むなしさがあるだけで、うっかりすると笑いが涙に変ってしまう。どうも仕様がない。しかし発車のベルまであと三分あるーそんな片づかない雰囲気を「水が変るぜ」の一言がみごとに救ってくれる。情がこもっていて、しかも適当に突き放したような感じもあって、いったん口に出してしまうと発つ人、送る人の間にくっきりと線が引かれて、そこに諦めの感情が生じる。こんなすばらしい別離の言葉が、外国語にあるだろうか。いろいろきいてみたが、中国語の「水土不服(スイトウプーフウ)」が、わずかに雁行するといえばいえようか。
 「水が変るぜ」という言葉の持つ深い味わいを、このように説く人は、そういないだろう。

 私は被害にあったことはないが、海外で水で被害にあった人の話は、数多く耳にしている。

 青ッ葉よりは、たしかに科学的根拠があるだろう。


 今では、落語以外では聞かことがほとんどのない、青ッ葉、水が変る、などの言葉、大事にしたいねぇ。

 思うのは、そういう言葉が残るということは、そういう言葉をかける気持ち、気配りや優しさも残るということだ。

 落語の世界には、そういう庶民の暮らしの温かさ、柔らかさがあるということが、紹介した内容から強く感じるなぁ。

 もう一、二回、このシリーズは続く予定。

 
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# by kogotokoubei | 2017-12-09 11:50 | 落語の本 | Comments(0)
 前の記事で冒頭に引用した『二十四孝』の科白は、実は、江國滋さんの落語三部作の一つ『落語美学』を再読していて、目についたものだった。

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江國滋著『落語美学』


 三部作は、『落語手帖』が昭和36年に普通社から初版が発行され、この『落語美学』が四年後昭和40年、『落語無学』がそれからまた四年後昭和44年に東京書房から発行された。
 旺文社文庫での再版後、今ではちくま文庫で読むことができる。

 最初の『落語手帖』は、昭和9年生まれの江國さんが二十代で書いた本であるから、恐れ入る。

 前の記事で引用した『二十四孝』の科白は、「落語哲学」の中の「第五章 道徳について」で登場する。
 その少し前から、ご紹介。

 「何処(どけ)ェ奉公するにしてもつまんねこンだ。それよりも自分で商売ぶってみろ。奉公ぶつより商えぶてや」(『鼠穴』)
 成功した兄が、おちぶれた弟をさとす場面で、こんな言葉が朴訥な兄貴の口からすらりとでる。これをそのまま、これから就職する学生諸君に贈りたい気がする。将来が一応安全で、小ぎれいで、体裁だけは頗るいいホワイトカラーになりたがって、われもわれもと大会社に殺到する、その気持ちはわからないでもないが、しかし、めでたく大会社に就職したその瞬間から、人生の墓場へ片足ふみ入れたことになる事実を、学生諸君ご存知か。

 これは、慶應を卒業して新潮社に入社し「週刊新潮」の編集部員などを経て独立した江國さんの、本音なのだろうか。

 今なら、「起業のすすめ」とでも言い換えられそうな江國さんの言葉、今の学生諸君にも聞かせたいような気がする。

 最近の新入社員の安定志向は、その昔を思わせるものがある。

 大企業志向や長期勤務を要望する傾向が強い。

 海外留学は年々減少しているし、たとえば、アメリカのシリコンバレーで活躍するアジア人は中国やインドの若者ばかり。

 さて、この後。

上役の目をたえず気にしてびくびくしながら、スポーツ新聞と麻雀とヤケ酒とでずるずると日を送り、やっとこさ課長になって気がついた時には五十五歳の定年、というのがホワイトカラーの大多数の運命である。「奉公ぶつより商えぶて」といいたくなるではないか。
 逆に大学当局のお耳に入れたい言葉もある。
「おまえの親父は、食べる道は教えた、人間の道というものを教えないから、貴様のようなべらぼうものができたんだ。ええ?」(『二十四孝』)
 与太郎に対する伯父さんの小言だが、「親父」を「大学」と置きかえるだけで、立派に現代にも通用する言葉である。

 この部分を読んで、私は「大学」を「親方」と置き換えても、十分に通用すると思った次第。

 これ、本来の「親父」あるいは「母親」においても、もちろん現代でも通用するのは、当然のこと。

 「道徳教育」とか「礼儀」とか「礼節」とか「躾」などという言葉を使うと、すぐ、右寄りだとかなんとか指摘されかねないので敬遠されるが、親でも先生でも、師匠でも親方でも、「食べる道」のみならず、それらの言葉を包含した「人間の道」を教えることが、今の時代に欠如しているのではないか。

 しかし、それは学校の「道徳」の授業を増やせばいい、という問題ではないのは明らか。

 そもそも、先生が生徒、学生に信頼されているのかどうか。
 何を言っても、言っている先生自身に戻ってくるばかり、というのが実態ではないか。
 江國さんは、紹介した文章のしばらく後で、こんなことを書いている。

 学校の教育があまりアテにならないとなると、家庭で教育するしか方法はなくなるが、その家庭の躾けがまた恐れ入る。どこの家庭も、早期才能教育と自由放任教育の二本立てばかり。
「・・・・・・あ、これ、商売もんの算盤またぐんじゃない。脇ィやっときな」(『金明竹』)
「へえ、へえ」
「重ね返事はよしなよ。へえへえというのはいけない」(『小言幸兵衛』)
 こういうなつかしい躾けは一体どこへいってしまったのだろう。

 こういう文章を読んでいると、しみじみ、落語っていいよね、と言いたくなる。

 ということで、何度かに分けて、この「落語哲学」の部分を紹介するつもり。

 私の名前が出たところで、今回はお開き。

 
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# by kogotokoubei | 2017-12-08 19:54 | 落語の本 | Comments(0)
 今回の相撲界の騒動について、先にオチャラケ版の記事をマクラ(?)でふったが、それでは本編を。

 落語の『二十四孝』の科白に次のようなものがある。

「おまえの親父は、食べる道は教えたが、人間の道というものを教えないから、貴様のようなべらぼうものができたんだ。ええ?」

 今回の相撲界の事件で、この科白を思い出した。

 この「人間の道」という言葉は、やや重すぎて、言ってみれば、生涯かかって教わり、教えるものかと思う。これは、一生続く授業なのかな。

 常識や礼儀、礼節なども、この「人間の道」という授業の重要教科となるだろう。

 日馬富士の引退会見で、彼は貴ノ岩に暴行を働いた理由について、「礼儀と礼節がなってないと、ただしてあげたかった」と言った。

 加害者である日馬富士から、「礼儀」「礼節」という言葉が出るあたりに、あの世界の特殊性がかいま見える。

 あの世界での常識は、外の世界のそれとは、違うのだ。

 日馬富士は、三十路を少し過ぎたばかりの、べらぼうものであることは間違いない。

 あの引退会見で、傷害事件の被害者貴ノ岩への詫びがあったとは思えない。

 それは、次のような本音が、腹の底に渦巻いていたからだろう。

 「なぜ、こんなに大袈裟になったのか・・・・・・」
 「内々に済ませられたはずなのに・・・・・・」

 本人も親方も、これが本音だろう。
 
 それにしても、今回の騒動において、これまでの不祥事の時と同様に、メディアやコメンテーターなる人々が、相撲界に透明性を求めたり、他のスポーツと同じように扱う発言には、閉口する。

 コメンテータなる人たちが、「なぜ同じ過ちを繰り返すのか」という言葉は、彼らにこそ突きつけたい。

 興行の場所の名に「国技館」とつけたがために、「国技」として論じられるのには、閉口する。
 日本は、法令で国技を定めているわけではない。
 また、国民にもっとも普及しているスポーツでもない。
 そもそも、スポーツではなく、興行なのである。

 七年前に野球賭博事件が起こった際、記事を書いた。
2010年7月8日のブログ
 実は、ここ数日、この記事へのアクセスが急増している。

 同記事は、朝日新聞の2010年7月7日付け朝刊の特集に、小沢昭一さんの「正論」と言うべきコメントが掲載されたことがきっかけで書いた。

 あらためて、小沢さんの主張の一部を紹介したい。

 特集ページのタイトルは「大相撲は何に負けたのか」、となっていて大学教授などのコメントなどと併せて、小沢さんのまっとうなお話が次のように載っていた。
 神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見世物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
 明治になりますと、断髪例でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓をたたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
 芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。
 美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。
 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろとおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。

 どうです、この本質を突いた発言。

 他のスポーツと大相撲は、成り立ちからして違うのである。

 地方の興行では、暴力団、今で言う反社会的組織の力を借りるのが当たり前だったし、かつてのタニマチには、その筋の人も多かった。
 
 相撲が閉じられた世界であり、興行、もっと言うなら、見世物としての歴史を刻んできたのは、紛れもない事実だ。

 閉じられた世界、という表現はネガティブな印象を与えるかもしれないが、言い換えれば、その組織が共通の価値観を元に強く結びついている、とも言えるわけで、外とは分離された固有の世界なのだ。

 だから、あの世界での常識が、世の中一般の常識とは限らない。
 
 しかし、そういう固有の世界は、必ずしも悪い面ばかりがあるわけではない。

 その固有の世界にいる人たちだからこそ、伝え続けることができることがある。

 たとえば、「可愛いがる」という名での稽古は、まさに伝統である。

 その激しい稽古については、誰も「暴力」とは言わない。

 “教育”や“指導”はどのスポーツの世界にもあるが、かつては竹刀で叩かれながら稽古で鍛えられてきた相撲は、やはり、他のスポーツとは異質なのだ。

 まさに、閉じられた世界だからこそ、相撲という興行は伝統をつないできた。

 今回の事件、“閉じられた世界”の人々は、できれば内々に処理したかった。

 もし、被害者が貴乃花部屋の力士じゃなければ、今回の件は、公けにはならなかったかもしれない。

 協会幹部側の最初の貴乃花批判は、警察への被害届の前に、協会に届けるべきだった、ということ。

 その背景にある本音は、あくまで内々に処理したかったということであり、決して、再発防止対策を検討するためではない。

 私は、協会側、貴乃花、どちらの味方でもない。
 
 あえて言えば、客観的にこの事件を眺めている。

 相撲という世界は、好き嫌いは別にして、閉じられたままでいいと思う。
 というか、そうじゃなければ、あの興行は成り立たないとも思う。

 問題は、その伝統の世界が閉じられているかどうかではない。

 若くしてあの世界に入り、稽古して、食べて、眠って・・・という特異な日常を送ってきた、十代、二十代の若者に、「食べる道」のみならず、「人間の道」を叩き込むことが、今の相撲界ではできていない、ということが問題なのである。

 そうした、「食べる道」は身についたものの、常識や礼節など「人間の道」には疎いままの若者が、番付が上がり周囲からチヤホヤされて、勘違いしたままで精神的には未成熟な人間になってしまう。

 スポーツや芸能の世界である程度の活躍をした人の不祥事は、人間的に未成熟なままに周囲に甘やかされて、「何やっても許される」と勘違いした結果であることが多い。

 これは、どの世界でも同じだろう。

 相撲界において、その勘違いを正し、世間一般の常識や礼儀を教えるべきなのは、親方や女将さん、タニマチなどの役割になるはずなのだが、残念ながら、そういう環境にはなかったことが、問題の根源にある。

 親方を含め、部屋の関係者にとって、横綱、大関などは大事な稼ぎ頭であるので、つい甘やかす。

 加えて、部屋のみならず、相撲界全体でも、幕内上位の力士を甘やかす体質になっているのが、現状ではないか。

 伊勢ヶ浜親方は、日馬富士の酒癖の悪さを知らなかったと言う。
 そりゃあ、自分の前では、大人しくしているだろう。
 親方が嘘をついているのではなくて、自分がいない酒席や飲み会での横綱の酒癖の悪さが親方の耳に入らなかったとするなら、本来は通じているべき、閉じられた世界のコミュニケーションのパイプが詰まっているということだろう。
 タニマチは、知っていても忖度したのか。
 女将さんは、悪い噂を、本当に耳にしなかったのか。

 日馬富士にしろ、白鵬にしろ、まだ三十歳を少し過ぎたばかりの、若者なのである。
 スポーツと同一視して透明性を求めることなどは、何ら解決の道につながらない。
 
 親方はもちろん、女将さん、タニマチなど周囲が、彼らに「食べる道」のみならず、「人間の道」を教える努力をしていたかが、問われるべきだ。

 たまには、『二十四孝』など落語を聴かせるのも、大事ではないかな^^

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# by kogotokoubei | 2017-12-07 12:36 | 幸兵衛の独り言 | Comments(4)

ある日の鳥取の夜。

 この度の相撲界の暴力事件について何か書こうと思っているが、その前に、オチャラケから。


 10月のある夜、鳥取のカラオケスナック「寿限無」で、こんなことがあった。

158.pngムンフバティーン・ダワージャルガル 
  おい、ダワーニャミーン・ビャンバドルジ、最近生意気なアデヤギーン・バーサンドルジを、
  少し可愛がってやれ。

159.pngダワーニャミーン・ビャンバドルジ
  へい、分かりやした、ムンフバティーン・ダワージャルガル。最近生意気な、アデヤギーン・
  バーサンドルジを、少し可愛がってやります。
  こら、アデヤギーン・バーサンドルジ、スマホなんかやらずに、こっちを向け!
 (やおら、カラオケのリモコンを持って、一発、アデヤギーン・バーサンドルジの頭をなぐる)

141.pngアデヤギーン・バーサンドルジ
  痛っ!痛いじゃないですか、ダワーニャミーン・ビャンバドルジ。
  瘤(コブ)ができました。

159.pngダワーニャミーン・ビャンバドルジ
  アデヤギーン・バーサンドルジ、最近、お前が生意気だから、可愛がってやってるんだ。
 (今度は素手で、アデヤギーン・バーサンドルジの頬を数発なぐった)
  こら、アデヤギーン・バーサンドルジ、これからは先輩への礼儀をわきまえろ。
  分かったか!

141.pngアデヤギーン・バーサンドルジ
  何で、こんなにぶたれなきゃならないんですか、ダワーニャミーン・ビャンバドルジ。
  (と、ムンフバティーン・ダワージャルガルとダワーニャミーン・ビャンバドルジの
   顔をにらむ)

159.pngダワーニャミーン・ビャンバドルジ
  なんだ、その目は、アデヤギーン・バーサンドルジ!
 (また、素手でアデヤギーン・バーサンドルジを、殴り続ける)
  これで分かったか、ムンフバティーン・ダワージャルガルや俺の言うことが、
  アデヤギーン・バーサンドルジ!

158.pngムンフバティーン・ダワージャルガル 
  おいおい、ダワーニャミーン・ビャンバドルジ、アデヤギーン・バーサンドルジが
  大怪我しない程度にしておけよ。
  アデヤギーン・バーサンドルジの親方はあの人だ。瘤なんかあったんじゃまずいぞ。

159.pngダワーニャミーン・ビャンバドルジ
  いえ、大丈夫です、ムンフバティーン・ダワージャルガル。
  モンゴルの長い本名を言っているうちに、瘤が引っ込みました。


 こうだったら、表沙汰にならずに収まったのにね^^

(どの名が誰の本名かは、ご想像のほどを)

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# by kogotokoubei | 2017-12-04 20:54 | 幸兵衛の独り言 | Comments(2)
 池袋の記事が先になったので、遅ればせながら先月の記事別アクセスランキング。

1.三遊亭小円歌が、二代目立花家橘之助を襲名(2016年11月24日)
2.NHK新人落語大賞の“動画”を見て。(2017年11月7日)
3.二代目立花家橘之助のこと(1)ー秋山真志著『寄席の人たち』より。(2017年11月23日)
4.NHKアナザーストーリーズで、志ん朝を見た。(2017年11月1日)
5.健さんが愛した歌、「ミスター・ボージャングル」についての補足。(2014年11月25日)
6.二代目林家正樂のこと。(2017年11月9日)
7.さん喬、鰻初体験の思い出ー
『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』より(1) (2017年11月16日)
8.東雲寺寄席 さん喬・新治二人会 成瀬・東雲寺 11月5日 (2017年11月6日)
9.NHK「超入門!落語 THE MOVIE」は、いつ収録しているのか。(2017年10月27日)
10.山田五十鈴の代表的な舞台、『たぬき』について。(2012年7月11日)


 1、3、10が、橘之助関連。

 まず、9月、10月に続き、昨年書いた小円歌の橘之助襲名に関する記事が、約700のアクセス数でトップ。

 次は、録画予約を忘れながら、ネットで動画を見ることで書けた、NHK新人落語大賞の記事。くどくなるが、あの審査員は問題だぞ^^

 三番目には、秋山真志著『寄席の人たち』から二代目橘之助について書いた記事。これも、披露目の効果なのだろう。

 NHKのアナザーストーリーズ再放送では、志ん朝の貴重な記録を見ることができた。

 高倉健の記事は、命日が近くなると読まれる、ということなのだろう。
 
 二代目正楽の記事に予想以上にアクセスがあったのは、嬉しい。

 7位は東雲寺でさん喬ご本人からいただいた本の記事で、8位はその落語会のこと。
 あの本、副題に“キッチン”とあるだけに、なかなか味のある内容だった。

 NHKの落語THE MOVIEがいつ収録されているのか、という疑問を書いた記事にいただいたコメントで、その謎が解けた。鍵コメさんに感謝。

 山田五十鈴の記事も、橘之助効果ということだろう。
 NHKは、舞台の映像をぜひ再放送して欲しいものだ。
 肖像権とかいろいろ難しいのかなぁ。

 
 師走の初日に、なんとか橘之助の披露目に行けて良かった。
 年内、あと一、二度は寄席、落語会に行きたいものだが、果たしてどうなるものやら。

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# by kogotokoubei | 2017-12-04 08:54 | アクセスランキング | Comments(0)
 仕事を休み、池袋へ。

 行きたかった、橘之助の襲名披露興行の初日だ。

 この興行では、「二代目」ではなく「二代」としているので、それに従うことにする。
 少し早めに池袋に着き、熊本復興のために(?)桂花ラーメンの昼食をとって、会場へ。

 すでに、五割ほど席が埋まっていただろうか。平日の池袋にしては異例。やはり、披露目の効果か。
 結果として、終演時には八割ほどは入っていた。

 高座の上手には、菰樽(爛漫)、下手には、初代橘之助の楽屋用箱鏡台が置いてあり、「贈 山田五十鈴」とあった。

 二代本人から何か説明があるかと期待していたのだが、残念ながら何ら解説はなかったなぁ。

 今年一月、初代橘之助の看板を預かっていたのは、寄席文字の橘右近だったことを書いた。
2017年1月7日のブログ
 後で調べたところ、看板同様この鏡台も右近が仲が良かった“横浜の志ん馬”(四代目志ん馬)から譲られたらしいが、右近が「たぬき」を演じた山田五十鈴に贈呈したらしい。その後、橘流に戻ったようだが、なかなか由緒ある代物だ。

 さて、そんな演出のある高座での披露目。
 腕時計が壊れてしまい、修理に出そうか買おうか迷っていたので、各高座の所要時間は、今回は記録しない。開演と終演時刻のみ、会場の時計で確認した。
 とはいえ、仲入りまでは、ほぼ15分づつであったと思う。

 出演順に感想などを記す。

柳家小多け『寿限無』 (12:15~)
 開口一番は、この人。久し振りに聴く、小里んの弟子。
 昨年3月、紀伊國屋での権太楼独演会で初めて聴いた時の印象は、そう悪くない。
 さて、今回はどうかと言うと・・・言い立ては何度も間違わずに言えたし、客席からも若干の笑いがあったのだが、どうも、一年半という時間の流れを感じさせないのだ。
 また、しばらくして別のネタを聴いてみたいものだ。

古今亭駒次『ガールトーク』
 師匠志ん駒の逸話から、この自作へ。
 喫茶店でたむろしている奥さん達が、途中で帰って行く人を順にネタにしていく、という十分にありそうな話。客席は結構笑いが出ていた。
 初めて聴いたが、サゲが結構早くに分かってしまった。もう少し、磨く必要があるような気がする。
 この人も、来秋真打昇進だ。たまには、古典も聴いてみたいなぁ。

三遊亭歌奴『宮戸川』
 圓歌一門のトップバッター。
 開口一番の小多け、そして駒次の後に、この人のような実力者が出て来ると、真打ちという格の高さが明白に客席にも伝わるようだ。
 これが、落語だ、と頷きながら聴いていた。
 島崎又玄の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」なんてぇ句を挟まれると、嬉しくなる。
 お花の白い足の形容、「雪にカンナをかけて、トクサで磨いたような」なんてぇのも、いいね。
 また、筋書きを披露目用に替えたのも、楽しかった。
 こう変わった。
 なんでも飲み込むから「うわばみ」と呼ばれる霊岸島の叔父さんの家の二階で結ばれたお花と半七は、その後、うわばみ叔父さんの仲介で晴れて夫婦になった。そして、玉のような女の子が生まれた。小さい頃から三味線や踊りが好きで・・・二代橘之助誕生物語の一席。
 ねぇ、なかなかいい趣向でしょ^^

マギー隆司 奇術
 この人のなんとも言えない味、だんだん好きになってきた^^

古今亭志ん陽『のめる(二人癖)』
 ご隠居に大根と醤油樽の策を授かった後の男が、相手の男を訪ねた際、「これで騙せる」と思うのだろう、ついふくみ笑いが止まらなくなる場面は、たとえば『つる』で白酒が演じるご隠居の姿を思わせ、なかなか可笑しかった。

三遊亭歌武蔵 漫談
 圓歌一門の、二人目。
 いつものようなマクラに加え、この時期である、あの事件のことに触れないわけにはいかない。
 この“旬”の話題、あの世界にいた人間だからこそ、説得力もある。
 今回は、ネタをやって欲しかったとの小言は、書かない。
 「第一ラウンドは終了、これからいろいろ出てくる・・・私は知っているが、これ以上は池袋の木戸銭位では話せない」と言っていたが、ホントに知ってんの^^

林家ペー 漫談
 赤い衣装に、例の赤いバッグを下げて登場。
 初代三平一門のことやら、最近のニュースにちなむ、彼ならではの一人語り。
 私は「ミュージシャンですから」というペーの、ギター抱えての「前座ブルース」を聴きたかったのだが。

五明楼玉の輔『マキシム・ド・のん兵衛』
 昔の池袋演芸場のことなどから、白鳥作のこの噺へ。
 この人では二度目か。ほぼ、自分のネタにしている、という印象だが、やはり、作者の創作能力の高さを感じるなぁ。

三遊亭歌る多『松山鏡』
 圓歌一門、三人目。
 先日秋山真志著『寄席の人たち』を元に二代橘之助のことを書いたが、あの本で、先のおくさんを亡くした後、圓歌にとって当時の小円朝とこの人の存在が大きかったことを知り、この人、見直した。
 だから、芸風と言っても良いのだろう、途中で筋書きをフィードバックして解説するのもくどく感じなくなった。この人の、優しさなのだろう、と思ってしまう。
 仲入りでも、その気配りを感じたのだが、それは後で記す。

ロケット団 漫才
 十八番の四字熟語ネタを中心に。
 山形出身の方、と聞かれて、すぐ隣の方々が手を挙げたのには、少しビックリ^^

金原亭伯楽『猫の皿』
 仲入りは、この人。
 橘之助のことにふれ、色物でのトリは初めて、と言ったのは勘違い。
 この日も出演する当代の正楽が襲名披露でトリをとっている。
 この件は、後でまた書く。
 志ん生のカバン持ち時代の道具屋での逸話をふって本編へ。
 端師(はたし)が一服する茶屋の場所を、八王子としていたが、志ん生は尊敬する円喬を元に中山道熊谷在の石原としていたはず。馬生のこの噺を聴いていないが、師匠の型か。
 舞台設定はともかく、短縮版ながら、この噺の楽しさを無駄、無理なく描いていたと思う。佳品、と言えるだろう。
 
 仲入りで、楽屋横喫煙場所に行くと、歌武蔵と歌る多が小さい声で話している。
 どうも、相撲界のあの件のような雰囲気。木戸銭では話せないことか^^
 ソファーで一服していると、正楽師匠が登場。
 楽屋に荷物を置いて、一服しに来られ歌る多の横に座った。
 つい、「師匠、よろしいですか。伯楽師匠が色物でのトリは橘之助が初めて、とおっしゃいましたが、師匠が襲名披露でトリをとられましたよね」とお聞きした。
 すると、歌る多が私を見て、「そうそう」と言うようにっこり笑って頷いた。
 一拍おいてから正し楽師匠、「まぁ、お客さんに橘之助さんを立てたんでしょう」とおっしゃったが、歌る多が、「こういうことは早く言ってあげなきゃ」と楽屋に入った。時間をあまり置かず歌る多が戻ってきて、私に向かい「伯楽師匠、ご存知ありませんでした。ありがとうございました」と礼を言われた。
 伯楽はこの芝居で仲入りを続けるのだから、やはり、そういうことは間違わないにこしたことはなかろう。
 歌る多の素早い対応を含め、実に気持ち良く、席に戻ることができた。

二代立花家橘之助襲名披露口上
 幕が上がり、下手から、司会役の玉の輔、本人、歌司、市馬の四人。
 後ろ幕は、贔屓与り、に替わった。
 最近出向いた披露目の口上では、最小数だが、狭い高座では、それほど寂しくは感じない。
 玉の輔の「楽屋に、この口上を見にたくさんの噺家が来ています。これを、口上見学」は、すべった。
 印象深かったのは、圓歌一門総領弟子である歌司が、三味線という芸について京都の芸妓さんに聞いた、「調子三年、勘どころ八年」、という話。そして、小円歌が初代橘之助の墓詣りに行ったところ、その墓を守っているのが師匠圓歌の弟分だったという話で、橘之助の目が少し潤んだように、私には見えた。
 市馬は、実に久し振りなのだが、こういう席に似合う噺家になってきたなぁ、という印象。会長の貫禄か。
 
三遊亭歌司『長短』
 口上の後、圓歌門下四人目は、総領弟子。
 「86になりまして・・・ウェストが」は、お決まりのツカミ。
 「十人十色と言いまして・・・といえば、池袋のお客様なら、どの噺かはお分かりでしょう。柳家の噺で」とこのネタへ。
 へぇ、こんな噺も演るんだぁ、と思っていたら、とんでもない、実に見事な高座だった。
 長さんを与太郎にはせず、特に間合いの長い言い方ばかりではなく演じながら、短七の早い科白とリズムで、この二人の味のある会話を描いてくれた。
 この噺では南喬の末広亭での高座が印象に残るが、甲乙つけがたい味があった。
 寄席の逸品賞候補としたい。

林家正楽 紙切り
 相合傘・橘之助・たぬき・襲名披露・餅つき
 実に気持ちよさそうに五作。
 もしかすると、仲入りでの私の一言が、嬉しかったのか、と勝手に解釈していた。

柳亭市馬『厄払い』br>
 この人のこのネタ、以前、横浜にぎわい座で聴いて以来か。
2010年1月8日のブログ
 白酒の独演会に、スケが市馬。七年前だからありえたことだろう。
 あの日、初めて生でこのネタを聴くことができたことが嬉しかった。
 そして、この高座も、短縮版とはいえ、この人の持ち味を十分感じることができた。
 以前ほど、必要以上に首を左右にふることもなくなった。
 一人の噺家としては、やはり高く評価できる人だ。
 会長と思うから、いろいろ邪念が入るのだろう。

二代立花家橘之助 浮世節 (~16:32)
 茶の鮮やかな着物が映える。
 初代は、三歳で都々逸を演じ、五歳で入門し、八歳で真打となった名人、と説明。
 「でも、昭和10年に亡くなっているので、知っている人がいないからねぇ」と笑う。
 いやいや、今はその音源を聴くこともできるのだよ^^
 流石に、高い調子は苦しそう。
 しかし、しっかりと伝統を継いでくれそうだ、と確認できた好高座。
 たぶん、語りを交えて30分ほどだったと思う。
 三味線と唄の芸は次の三作。
 ①浮世節(「かんちろりん」)
 ②吹き寄せ
 ③たぬき
 特に、「たぬき」は圧巻で、10分以上の大作だった。
 一作目は、師匠圓歌が「こういうのがある」と教えてくれたらしいが、「きっと、芸者さんの膝枕で聴いたんでしょう」。
 二作目は、吹き寄せとはどういうものかを説明して演ってくれた。私はそれほど小唄や長唄に詳しくないが、その転調(?)のおもしろさは、分かった。
 途中、下座のやまとが狸の着ぐるみで鼓の叩いたが、この絶妙な共演を含む長編。
 考えてみれば、「たぬき」の“さわり”は以前から演じてきているが、その全編は、まったく異次元の作品だ。
 橘之助の左手の指使いの妙、そして、右手の撥の強さを感じた熱演。
 最後には、寄席の膝の時のような、かっぽれ、奴さんではなく、『稽古屋』に登場する道成寺の手まり唄を艶っぽく踊ってくれた。まさに(名)トリの踊りである。今は、師範だけどね。
 五十日間連続興行の三十一日目の疲れは、微塵にも感じなかった。
 色物とはいえ、三味に唄に踊りにと、多彩にして充実の高座、今年のマイベスト十席候補としたい。


 なんとか、橘之助の披露目にも行くことができた。
 圓歌一門全員がトリの橘之助までをしっかりつなぐ、絆を感じた。
 池袋ならではの一体感のある空間の余韻に浸りながら、帰路についた。

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# by kogotokoubei | 2017-12-02 22:05 | 落語会 | Comments(10)
 NHKの朝ドラ「わろてんか」は、とても私には笑えないドラマになっている。

 “モチーフ”である吉本せいも夫も、あまりにも実際の彼らとはかけ離れすぎているし、フィクションとしても、このドラマはつまらない。

 主役夫婦を含め、人間の描き方が、なんとも薄っぺらなのだ。
 
 当時の大阪の空気、上方芸能界の息吹きを、感じることができない。
 

 これまで、このドラマの「チェックポイント」という記事を三回と、関連する記事を三回書いた。
2017年9月25日のブログ
2017年9月27日のブログ
2017年9月28日のブログ
2017年10月5日のブログ
2017年10月21日のブログ
2017年10月29日のブログ

 また、初代桂春団治と吉本せい、という題でも三回記事を書いた。
2017年10月6日のブログ
2017年10月8日のブログ
2017年10月10日のブログ

 矢野誠一さんの本、富士正晴の本、そして山崎豊子の本、などを頼りに書いた記事である。
 それらは、当時の上方の大衆芸能界、落語界の姿を少しでも分かりたいという思いで読んだ本である。

 まったくそういった内容の片鱗をも伝わらないドラマが、「わろてんか」である。
 あるいは、脚色の度が過ぎて、史実や人物の実際の姿を歪曲しているとも思え、誤解を与えかねないドラマになっている。

 たとえば、チェックポイントの三回目、9月28日の記事では、吉本吉兵衛(泰三)とせい夫婦の寄席経営にとって重要な支援者であった、浪速反対派の岡田政太郎がどう描かれるかがポイント、と書いた。

 岡田政太郎を“モチーフ”にしているのは、寺ギンという「オチャラケ派」の大夫元だろう。

 その名も、「オチャラケ派」・・・・・・。

 対するのは、「伝統派」とは、なんとも直球の酷いネーミング。

 実際は、伝統のある古典重視の桂派と、元桂派にいた噺家によって組織された、笑いを優先する三友派の二大派閥があって、その二つに岡田の浪花反対派安い木戸銭で対抗しようとしていた。

 寄席を手にした吉本夫婦は、その反対派の岡田と手を組んだのである。

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矢野誠一著『女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

 あらためて、矢野誠一さんの本から、そのへんのところを確認したい。

 吉本吉兵衛とせい夫婦が第二文藝館を手に入れて寄席経営を始めた頃の、大阪の落語界の勢力関係について。

 当時の大阪寄席演藝界は、両立する落語の桂派・三友派に対して、上本町富貴席の太夫元岡田政太郎の浪花反対派が、その勢力を競うというよりのばしつつあるといった状況にあった。
 吉本せいと吉兵衛夫妻の手になる第二文藝館は、この浪花反対派との提携で出発したのだが、このときの顔ぶれを、『大阪百年史』は、
<落語には桂輔六・桂金之助・桂花団治・立花家円好、色物に物真似の友浦庵三尺坊・女講談の青柳華嬢、音曲の久の家登美嬢、剣舞の有村謹吾、曲芸の春本助次(ママ)郎、琵琶の旭花月、怪力の明治金時、新内の鶴賀呂光・若呂光・富士松高蝶・小高、軽口の鶴屋団七・団鶴、義太夫の竹本巴麻吉・巴津昇、女道楽の桐家友吉・福助らであった>
 と記している。
 無論、開場興行にこれらの藝人全員が顔をそろえたというわけではなく、岡田政太郎の浪花反対派との提携によって、これだけの顔ぶれが用意されたという意味であろう。のちに、ひとつ毬の名人といわれ、むしろ東京で活躍した春本助治郎の名を見出したりするものの、一流とはいいかねる顔ぶれである。

 桂派と三友派については、ほぼ六年ほど前に初代春団治のことを書く中でふれた。
2011年10月6日のブログ

 桂派は、初代桂文枝の流れを引き継ぐ一派。

 その初代桂文枝の弟子が二代目文枝襲名を競う中で、文三に敗れた文都(のちの月亭文都)が桂派を抜けて出来たのが、三友派である。

 そういった、上方落語界が脈々と胎動していたダイナミズムなども、あのドラマからはまったく伝わることがない。

 三友派ができて二十年近く後に、吉本せいと吉兵衛夫妻は第二文藝館を手に入れたのだが、当時の桂派と三友派を向こうに回して、まったくの端席であったから、岡田の反対派との提携は、吉本せいと吉兵衛夫婦にとって生き残りを賭けた重要な転機であった。


 そして、時は流れ、隆盛を誇った桂派は次第に人気が陰って三友派に吸収される形となった。
 そして、勢力を伸ばした吉本は、ついに、その三友派を代表する桂春団治を陣営に取り込むことになる。

 だから、単純に「伝統派」と「オチャラケ派」の対立構造ではない。

 その後、岡田の事業も、吉本興行は吸収することになる。

 寺ギンが元僧侶という設定も、なんとも無理があるなぁ。

 岡田政太郎と同じ、風呂屋の倅でもいいじゃないか。

 “モチーフ”のある“フィクション”と謳っているがために、無理に設定を変えているような、そんな気がしてならない。

 たまには、史実通りの設定でも、いいじゃないか。

 そもそも、「オチャラケ派」という名前を聞いた段階で、私は気が抜けた。

 そして、寺ギンと吉本夫婦との取り分をめぐるギスギスした関係が描かれるのを見て、「これじゃだめだ。吉本夫婦も岡田政太郎も浮かばれない」と思った。

 あの当時、桂派と三友派に対抗するには、売れない落語家や若手、そして、たくさんの色物さんで顔付けした、木戸銭の安い寄席で勝負するしかなく、吉本夫婦にとって、岡田の反対派は、重要なパートナーであっても、敵対する間ではない。

 ある特定の人物を“モチーフ”とするフィクションとことわっているが、その“モチーフ”を描く上で、変えてはいけない部分もあると思う。

 生家の場所の脚色(大阪ではなく京都)、家族構成の脚色(後に事業を手伝う弟たちの不在)も、史実と変える必然性をまったく感じないが、寄席経営の最初の一歩に関し、ここまで“オチャラケ”にされたんでは、ついていけない。

 上方芸能にとって重要な人物たち、そしてその歴史まで“オチャラケ”にされている気がして、見ていてストレスがたまるようになった。

 それでは、健康にも良くない^^

 今週は、落語『堪忍袋』を“モチーフ”にした筋書きのようだが、見ている方の堪忍袋も破れる寸前なのである。

 ということで、さよなら、とても笑えない「わろてんか」!


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# by kogotokoubei | 2017-11-28 21:47 | 歴史ドラマや時代劇 | Comments(0)
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秋山真志著『寄席の人たち』

 さて、この本から二代目橘之助のこと、最終回。

 圓歌は先のおかみさんを亡くしてから、酒に溺れるようになった。
 ご多聞に漏れず、男は女房を亡くすと、からきし弱くなる。
 女は・・・・・・ここでは書かないことにしよう。

 橘之助(当時、小円歌)の内弟子時代の回想をご紹介。

「内弟子は、家のこと全般をするんです。まず、師匠が起きる十時ぐらいまでに新聞とお水を持って部屋まで届けるんです。
 (中 略)
師匠は師匠でおかみさんが亡くなって淋しかったのもあるんでしょうけど、毎晩夜中にベロベロに酔って帰ってくるんです。私と歌る多が両脇を抱えて二階の師匠の部屋まで連れて行って寝かせて・・・・・・お~って呼ぶから行くと、オレが寝るまでマッサージしろっていうんです」
 圓歌は当時の生活を自著の『これが圓歌の道標(みちしるべ)』の中で振り返っている。
「私は、いまでも思うんですよ。小円歌と歌る多がいなかったら、おまんまも食えなかったって・・・・・・。そのころは二階で寝てましたから、階下に降りてくる途中で、パンツからみんな脱いで風呂場へ入っちまって、出てくるとい、下着やなんか、そこに出してあるのを着て、部屋へ入ると、もう朝からすき焼きでビールでしたからね。それから寄席へ行って、ちゃんとつとめてたんですから・・・・・・。いまだったら、ひっくり返っちまいますよ。
 こんな生活を送っていたもんですから、いまでも小円歌と歌る多には言うんですよ、『おまえたちのおかげで、おれは生きられたって・・・・・・』ね」

 あの圓歌が、こんなことを書いていたとは。
 
 私は、橘之助、そして、歌る多と師匠と間にこのような師弟の絆があったことを、初めて知った。

 彼女たちが、師匠圓歌を失った時、どれほど深い悲しみに陥ったものかと察せざるを得ない。

 さて、あす歌から小円歌となって、彼女の修業は続く。芸に悩みもした。
 そんなある日、あの人から一喝されたらしい。

「すごくウケたときもかなりあったんです。でもどちらかというと、笑え、笑え、という感じで、笑いを強要してました。若かったからえげつなかった。ある日、小三治師匠に池袋演芸場の楽屋で叱られました。なんだ!あの高座は、なんなんだ!あのネタは。オレたちが聞いていて恥ずかしくなる。あんなネタやめろ、しゃべるな!オマエは高座に出てきて、ポロンと弾いて、踊ります、って踊って、ああキレイだなって、これでいいんだよ。ウケるようなヤツじゃないんだ!っていわれて・・・・・・そのときはすごく悔しかった。でもこの世界、裏で悪口をいってる人はたくさんいるけど、当人にピシッと直言してくださるのは貴重な方だと思って、小三治師匠には本当に感謝しているんです」
 それでしばらく、小三治のいう通りにやってみた。でもそれまでに、拙いながらもウケているというお客の反応を見てしまっているので、物足りなくてしょうがなかった。これだったらいっそのことやめたっていいな、とも思った。
「私はどちらかというと、三味線とか唄がへただから、しゃべりでカバーしていく、っていうのがあって・・・・・・それは間に合わせでやった初高座のスタンスから変わってないわけですよ。三味線は短くて、そのつなぎのしゃべりが長くて、どんどんウケるじゃないですか。そっちが楽しくなっちゃって、だから小三治師匠のいう通りにやってみても全然おもしろくないんですよ。こんなんだったらやめちゃってもいいな、どうせやめるのなら何いわれてもいいからもう一回もどしちゃえ、そう思ってもどしたんです。ただし、えげつないことをいうのはやめて自分の持ち味、江戸っ子のチャキチャキッとしたところを出していけばいいんじゃないかなと。それに師匠が、オレの悪口はどんどんいっていいから、あとでオレが出て行ってフォローするから、といってくれて・・・・・・そういた師匠の後押しにもずいぶん助けられました」
 それからお客が少し聴いてくれるようになり、だんだんと小円歌の芸風が浸透していった。
 小三治の一喝は、いずれにしても小円歌の転機となったと思う。
 
 もちろん、師匠圓唄のアドバイスも大きい。

 私は、小円歌の芸について批判的な声があるのを知っているが、もうじき、“偉大なくマンネリ”になる一歩、あるいは二歩手前位にあり、今後が楽しみだと思っていた。

 しかし、まさか橘之助の名を継ぐとは予想もしていなかった。

 この本では初代橘之助のことにも触れているので、ご紹介したい。

「大師匠の圓朝にも可愛がられ、真打の看板を上げたのが明治八年、なんと数え年八歳の時であった。とにかく大変な天才で、清元・長唄・常磐津・小唄・端唄・・・何でも自由に弾きこなし、自ら名付けた浮世節の家元となり、楽屋内でも女大名と言われて一世を風靡した」(文・都家歌六 『全集・日本吹込み事始』監修・都家歌六、岡田則夫、山本進、千野喜資)。山田五十鈴の代表的な舞台『たぬき』のモデルとしても名高い。圓生の『明治の寄席芸人』でも絶賛されている。「芸については申し分のない、たいした人だと思います。三味線を持って弾き違えをしたことがない。撥をはずしたことも、あたくしは一度も聞いたことがない。実にどうも大した名人でしたが」
 ただ大変な浮気者で別名“千人斬り”。(のちの)六代目朝寝坊むらくと駆け落ちしたり、艶っぽい話は枚挙にいとまがない。
 この六代目朝寝坊むらくという噺家は、何度も改名している人だが、永井荷風が弟子入りしたことでも知られている。

 さて、その恋多き初代橘之助の芸についての引用を続けながら、当代橘之助の言葉もご紹介。

 橘之助の浮世節はいまもCDやテープで聴くことができる。長唄かと思えば常磐津になり、いつしか小唄・端唄になったかと思うと清元に変わり・・・・・・変幻自在にさまざまな邦楽をつなぎ合わせて唄う“吹き寄せ”が特徴で、すさまじいテクニシャンだ。無論、明治・大正のお客は邦楽にもい通じており、耳が肥えていたからこそできた芸だともいえる。彼女のしゃべりが唯一入っている『文句入り都々逸』という唄が残っているが、なかなか諧謔味がある。橘之助は噺家の二代目三遊亭圓橘の門下であり、前座に噺を教えていたという伝説もあるほどなのでおそらくしゃべりも達者だったのではないか。この時代にもし三味線漫談という言葉があり、軽妙なしゃべりを挟んでいたとしたら、彼女が三味線漫談の嚆矢だったかも知れない。小円歌も「いまの人にもわかる音曲吹き寄せの現代バージョンをつくれないかと思っています」。これが完成したら、三味線漫談の新たなトビラを開くことになるだろう。

 たしかに、今の時代と明治、大正時代とは、客の邦楽の知識も大きく違う。

 しかし、寄席が好き、落語が好き、邦楽も好きという人も少なからずいる。

 私は、初代の芸を今に生かした、二代目橘之助のならではの“吹き寄せ”を聴いてみたい。

 そんな期待、希望をもって、このシリーズをお開きとする。

 今席の浅草の後、来月上席は池袋で披露目が続く。

 そう、小三治に楽屋で叱られた、池袋だ。

 なんとか行きたいと思っている。

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# by kogotokoubei | 2017-11-26 15:20 | ある芸人さんのこと | Comments(4)

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秋山真志著『寄席の人たち』
 シリーズ三回目。

 将来、二代目立花家橘之助となる女性の高校時代のこと。
 女優かバレーボールの道か、あるいは学校で習っている和裁洋裁の仕事に進むのか、など迷った挙句、取りあえず短大に進んで二年生のとき、大きな人生の岐路に直面するのであった。

 短大生となってもバレーを続けていたが、二年のときに神楽坂にある俳優養成所の東京放映に入った。夏期ゼミナールに三遊亭圓歌が特別講師としてやってきた。運命の出会いだった。
「圓歌師匠のことは、小さいときにテレビで見て、黒縁の眼鏡をかけてやまのあなな・・・・・・っていうのを覚えていたけれど、あ、この人テレビに出ているすごく有名な人だ、ぐらいの認識しかなかったですね」
 そこで圓歌が小噺をみんなに教えてひとりずつ前に出てやらされた。落語というのはひとり芝居なので、こういうことも芝居の勉強になるからと、二、三日かけてひとりひとりにアドバイスしてくれた。圓歌はこの中でいいのがいたら弟子に取るよ、といって、古株の生徒を誘ったが逆に断られてしまった。いよいよ最終日の抗議も終わり、圓歌と生徒たちが連れ立って神楽坂を下っていった。タクシーの拾える広い通りまでくると、圓歌が「オレはこれから上野の鈴本まで行くけど、あっち方面のヤツがいたら乗せてってあげるよ」といった。そこで小円歌ひとりが手を挙げた。
 タクシーの中ですっかり仲良くなってしまった。圓歌には、ピンとくるものがあったようだ。まず、浅草育ちということ。江戸っ子は圓歌にとってもステータスだった。しかも日舞の名取で、母親やおばあちゃんも三味線をやっている。
「そんなに女優になりたいんなら、紹介してやるよっていわれたんです。どうだ、圓歌事務所っていうのがあるから、事務所に入ってオレ付き人をやってみたら。そのうちに女優さんを紹介してやるからさ。なんのツテもないのにそんなこといわれたら、あ~やりますって一も二もなく返事して、じゃあ、一週間後に来いよっていわれて、母親と行ったんです。母親はまた私に輪をかけてべらんめい調なんですよ。普通にしゃべっていても、するてえと、なんていう人で、とにかくまるっきり江戸っ子なの。師匠が私よりも母親を気に入っちゃって、親が三味線やってるならできるだろう。日本舞踊もできるんだし、じゃあオマエ、三味線漫談やれ、付き人じゃなくてオレの弟子になれって話になって、エ~ってビックリしちゃいました」
 一緒にタクシーに乗ったのが運の尽きだったのか幸いしたのか、あれよあれよという間に話しが進んでしまった。
 あら、マクラで彼女がいつも言っている「女優にならせてやる」と圓歌が言って騙された、というのはホントだったんだ。

 それにしても、本当に運命というものは、不思議なものだねぇ。

 柳家さん喬が、70年安保の頃の高校時代、大学生のアジ演説を聞いて大学への夢を失い、好きな落語の道を志してから、数々の縁に導かれて目白の小さん宅を訪ねることになったことは紹介した通り。

 小円歌にとっては、まさに師匠が神楽坂から乗るタクシーに同乗してから、運命の歯車が回り出した、と言うべきか。

 これも圓歌、もとい、縁か^^

 さて、この後どうなるのか。

 しかし、小円歌は三味線漫談のなんたるかを知らなかった。一方、圓歌はかつて前座時代、都家かつ江の家に居候するなどかわいがってもらっていたことがあり、三味線漫談の後継者を育てたいという気持ちがあった。当時、かつ江は寄席には出ておらず、そのあとがいない、という状況もあった。
「しょうがないからかう江師匠のテープを買ってきて聴いたんですけど・・・・・・エッ、こんなことやるのって感じで。かつ江師匠はそう三味線がうまいほうではなかったから、あ、三味線はこれでもいいのか、これならできるんじゃないのかと。三味線のうまさではなくて、話し口調とか、ネタのおもしろさとか、その人個人の魅力でいけるんだな、と思いました。けれど、弟子になれという話にはさすがに、考えさせてくださいと答えたんです。それで三日間考えてから入門することにしました。おじいちゃんがすごく乗り気で、一度師匠を家に呼んだらおじいちゃんと気が合ってしまって・・・・・・そのあともふたりでよく飲みに行ったみたいです。とはいえ急に入門というのは無理なので、大学を卒業してから入門することにしました」
 昔から三味線は好きではなかったが、家の中に身近にあった楽器なので、持って爪弾くことはできた。母親から教わったが、圓歌と仲のよい小唄の師匠のところに稽古に通った。三月に正式に入門して、五月二十九日の国立演芸場の圓歌独演会が初高座というスピードぶるだった。芸名は三遊亭あす歌。

 タクシーに一緒に乗ってから、なんというジェットコースター的な日々だったことか。

 それにしても、圓歌が、なぜそこまでに彼女の弟子入りを希望したのだろうか、というのは当然の疑問。

 まさか、俳優養成所での小噺の課題が良かったから、ということはあるまい。

 この本には、あす歌時代の写真が載っていて、結構可愛いのだが、だからつい傍におきたくなった・・・ということでもあるまい。

 実は、圓歌の周辺でのある出来事が、弟子、それも女性の弟子をとりたくさせる要因であると察するし、なんとも早すぎる初高座の理由だったのだ。

「師匠の先のおかみさんが癌でいくばくもなくて、おかみさんは私のことをかわいがってくださっていたんですが・・・・・・あす歌ちゃんの初高座を見たい、っていう話になりまして・・・・・・師匠が毎日マンツーマンで稽古をつけてくれました。踊りはできるので、小唄を二つか三つ覚えて来いといわれて、小唄の合間を持たす小噺を師匠が教えてくれました。小唄と踊りと小噺を組み合わせてひと高座。全然あがらなかったけど、人前に出てお金を取ってしゃべるという経験は初めてのこと。出番は七分だったのにやたらと長く感じて、笑わせているというより、笑われている、という感じでした」
 おかみさんが有名な呉服屋に頼んで色も全部決めて、着物をあつらえてくれた。入院先から点滴を打ちながら見にきてくれた。おかみさんはその年の八月六日に亡くなった。それから小円歌とお手伝いさんが交互に泊まって圓歌の世話をするようになった。
そのうちに歌る多(女性で初めて真打ちになった噺家)が弟子入りし、十月からふたりが本格的に内弟子になった。

 先のおかみさんの話、結構、目がうるうるするねぇ。

 さて、妻を亡くした圓歌は、その寂しさを酒で紛らわせるようになる。
 彼自身がその頃を著書で振り返っているのだが、その内容を含め、その後小円歌を名乗ることになる、あす歌の修業時代のことは、次回最終回でご紹介したい。

 今日も、土曜の浅草の二代目立花家橘之助の襲名披露興行はきっと大入りではなかろうか。

 もしかすると、今回の襲名を天国で一番喜んでいるのは、圓歌よりも、先のおかみさんなのかもしれない。

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# by kogotokoubei | 2017-11-25 13:30 | ある芸人さんのこと | Comments(2)

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by 小言幸兵衛