噺の話

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2018年 01月 11日 ( 1 )

新聞のコラムと、落語。

 新聞のコラムには、時折、落語が素材として登場する。

 コラムの筆者が、落語が好きなんだなぁ、と読んでいて微笑ましくなることもある。

 今日の東京新聞の「筆洗」も、そういう記事。
 引用したい。

東京新聞コラム「筆洗」の該当記事

筆洗
2017年1月11日

「権助魚(ごんすけざかな)」「権助提灯(ごんすけぢょうちん)」に、「悋気(りんき)の独楽(こま)」…。落語には嫉妬を明るく笑う噺(はなし)が少なくないが、そんな噺のまくらによく使われるのが、こんな文句。<焼きもちは遠火に焼けよ 焼く人の胸も焦がさず味わいもよし>▼だが、焼きもちというのは、そう加減よくは焼けないもので、気がつけば我を忘れ真っ黒に焦がしてしまう。恋愛のことならまだかわいげもあろうが、出世やらをめぐっての嫉妬となると陰湿になり、胸の中の暗い炎で自分自身をも焼いてしまう▼今、そういう嫉妬の恐ろしさを、それこそ身を焼くような思いで感じているのは、カヌーの日本代表だった鈴木康大(やすひろ)さん(32)だろう。後輩の後塵(こうじん)を拝することに耐えられなかったのか、その選手がドーピング検査に引っ掛かるように細工をしたという▼何ともやりきれぬ出来事だが、それでも少し救われる思いがするのは、本人が良心の呵責(かしゃく)に耐えかね真相を話し、「実力が無いにもかかわらず、努力することを怠った」と反省、謝罪していることだ▼落語家の立川談志さんは生前、嫉妬について愛弟子に、こう説いたそうだ。「己が努力、行動を起こさずに自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです…本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ」(立川談春著『赤めだか』)▼懐中に入れておきたい、嫉妬の処方箋である。

 この事件を取り上げるにあたり、必ずしも「権助魚」や「権助提灯」など落語の悋気ネタを持ち出す必然性はないだろう。
 もしかすると、『赤めだか』に登場する談志の言葉を先に思い浮かべて、落語ネタのマクラを持ってきたかな。

 いずれにしても、落語が好きだからこその内容。

 以前も、このコラムと毎日新聞の「余録」が一日違いで落語を素材にしていたことを紹介したことがある。
2016年1月6日のブログ

 そこで、今日の「余録」を見てみた。
毎日新聞コラム「余録」の該当記事

 同じ件を扱っていた。
「勝利は技と努力によって手に入れるべきもので、金や後ろ暗い方法で手に入れてはならない」という、古代オリンピックの競技場近くにあったゼウス像の碑文から始まる内容。
 ちょっと、固い。

 どっちが、読ませるものか、味わいがあるか。
 私は、「筆洗」に軍配を上げる。

 落語が好き、ということもあるが、読後に何が残るかと言うと、ゼウスの碑文より、談志の言葉なのだ。

 「余録」は、やや、直球すぎる。
 今回は、落語好きの筆者ではなかったのかもしれないけどね。

 コラムには、いくつかの顔がある。
 時事的なテーマを扱い、その内容を分かりやすく説明することもある。
 また、社説を補足し、あるテーマに関する社としての見解を示すこともある。
 そして、あるテーマを、そのコラムニストならではの切り口で語ることで、読み物としての味わいを出すこともある。

 いずれの場合も、そのテーマに関する意見や感想を書くにあたり、自分の引出しから関連するもの、あるいは一見関係がなさそうなものを取り出して、読む者の興味をつなぐ技が重要だと思う。

 もちろん、テーマの選定そのものにも、センスが求められよう。

 他の記事や社説とは違うので、直球ではなく変化球のイメージだし、ほっと一息させてくれる内容であって欲しい。

 最近朝日の「天声人語」がつまらなくなったのは、まるで社説のような固い内容で、ほっとさせてくれないからだ。

 コラムニストの引出しに落語があることは、その新聞の懐の深さを示すような気がする。

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by kogotokoubei | 2018-01-11 12:27 | メディアでの落語 | Comments(6)

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by 小言幸兵衛