噺の話

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2018年 01月 04日 ( 1 )


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麻生芳伸著『落語百選ー冬ー』

 大晦日の冬の噺に関する記事で参照した、麻生芳伸さんの『落語百選ー冬ー』の解説を、岡部伊都子さんが書いていた。

 随筆家の岡部さんは、関東大震災の年、大正12(1923)年に生まれ、2008年に85歳で亡くなっている。
 そのエッセイへのファンは、少なくない。
 

 この解説も、そのエッセイ同様に、なかなか味わい深いのである。
 紹介したい。

  庶民の力・平和の笑い

 思いがけなく、貴重な『落語百選 冬』に何か書くように言っていただき、どうしたものか、長くおせわになっている麻生芳伸氏のお心にお報いするには、余りにも力無き自分を知っていますだけに、途方に暮れています。
 大阪は西横堀、西区立売堀(いたちぼり)北通一丁目にありましたタイル問屋に生まれて、幼い頃から漫才や落語、文楽人形浄瑠璃や、中座歌舞伎など、大阪の伝統芸能には親戚の長老や、親、兄姉、従兄姉などが、よく連れ廻ってくれたものです。
 あれはどうして母にねだったのでしょう、初代桂春団治師匠の『阿弥陀池』がレコードになった一枚を買ってもらって、何度も何度も飽きもせずに聞いていました。実際の細やかな思い出は、すっかり記憶にありません。
 でも、新町の寄席によく連れてゆかれたようでした。よう空いてる席にころんとねころんできている男の人を見たり、そのまま寝入っている人もありました。

 岡部さんの子供自分、ということは、昭和一桁だろう。
 初代春団治が亡くなったのは昭和9年。だから、ラジオでは聞いたはずだし、もしかすると、生の高座にも接しているかもしれないなぁ。

 引用を続ける。

 このたび、落語研究の大家でいらっしゃる宇治市の中島平八郎様にお電話して、桂春団治師匠のレコードをきいていた幼い話をいたしました。
 すると、早速に初代春団治のレコードから採ってくださった、独特の『阿弥陀池』のカセットと、桂米朝全集の文コピーを送って下さいました。
 家が近かったせいももあって、堀江の「阿弥陀池」のあった和光寺へ連れていってもらったこともあり、尊敬する方の坊やが、落語は全くご存じ無かったのに、「尼さんって、アマイからそういうのか」ときかれたなつかしい記憶が重なって、忘れられない「阿弥陀が行け!」の全貌をよみがえらせました。
 中島様は、カセットの余裕に、やはり初代春団治師匠の『チリトテシャン』(長崎みやげ)と、B面には、五代目古今亭志ん生師匠の『火焔太鼓』を入れて下さっていました。
 立春の雪の舞うた京で、この『百選 冬』を二十四年前の初版本で、また一つ一つ読み直していますと、『火焔太鼓』もはいっているではありませんか。
 江戸の華は、火事。いなせな江戸っ子の日常、町のしくみ、人間関係のくふう、愛ゆえのおどけの呼吸が身に添う実感として語られつづけています。
 名作『火焔太鼓』はもとより、文七元結、芝浜、鼠穴、初天神、粗忽長屋・・・・・・いいなあ、わかり易くて。大阪落語の言葉のニュアンスをしっかりわかる若者より、今では江戸落語の方が身近くなっているのでしょうか。
 中島平八郎という名を、初めて知った。
 少し検索してみたら、『生きている上方落語』という著書があり、雑誌『上方芸能』の編集部にいらっしゃった方のようだ。

 『チリトテチン』は、かつては『チリトテシャン』だったんだ^^

 この解説は文庫初版の1999年に書かれている。よって、二十五年前の初版は、三省堂から1975年に発行された単行本のことになる。

 その当時から、岡部さんは落語ファンだったということか。

 関西出身の方が、年齢を重ね、江戸落語を身近に感じるという話は、あまり聞くことがないので、江戸も上方も好きな私としては、素直に嬉しくなる。

 この後に、やや唐突な感じで、岡部さんと、あの落語家たちとの遭遇体験が書かれている。
 ふと、個人的にせつなかった時代に、初めて五代目柳家小さん師匠と、三代目桂三木助師匠とに、大阪は四つ橋のすぐ近く、炭屋町に建てたばかりの家に来ていただいたことを思い出しました。
 私が結婚していた相手は、どうしてお二人の師匠を招かれることになったのでしょうか。1951年、その当時は大阪に江戸落語が出演されることは少なかったと思うのですが、どういう成行きからか、うちの二階の八畳座敷で一つづつ話してもらうことになっていました。

 岡部さんは、婚約者をあの戦争で、亡くしている。
 戦後にご結婚されたが、数年後に離婚。
 まだ、その方と別れる前に、旦那さんのおかげで、こんな贅沢な出会いがあったということか。

 引用を続ける。
 その時に二階に来られた客人の中には、覚えておられる方もあるでしょうが、それぞれが義太夫の稽古をしたり、芝居もどきの物真似をしたり、たのしい気楽な雰囲気でした。
 私は、これでも主婦でしたから、こんな賑やかな行事となると、忙しくて用意に追われました。店の間には知人たちが腰をかけ、初めての方々は二階に上ってお座布団をしいていただく。その頃はまだ賑やかな巷にも食事の店が少なく、取り寄せられる店も無く、客人方にもてなす料理は、つなない私の手料理でした。
 控の四畳半の間、台所のそばの三畳、とても考えられない小さな空間で、それでもみんな、三、四十人は来られましたか・・・・・・、にこにこうれしそうで。
 私は、お手伝いの人々と一緒に、まず主客である小さん師匠と、三木助師匠のお食事を作りました。幼い頃から器が好きだった瀬戸物町の子、「おいしそうなごちそう」には心がこもりました。
 優しい方々でした。台所そばの小間でお二人召上りながら、今時他には無いといたわられたことが、大きな喜びでした。
 二階への上り降りで、私自身は客人のようにゆっくり坐ってきかせていただけませんでした。でも、ふだんの客人たちのいつもとちがう喜びようや、ふざけようには、この人がマア!と思う表情の発見がありました。
 あの時、柳家小さん師匠は何を演じて下さったのでしょうか。桂三木助師匠は多分、芝浜だったと思うのですが、そのあとで、ふっと立ち上って、所作美しい踊りを舞われた。きれいな切れ味がのこっています。お舞にすぐれたお方だったそうですが、仲よしお二人を迎えたあの日、四つ橋の橋詰でスナップをとられたことも、ぼんやり覚えています。四つ橋と文楽座の間の家でしたから。でも私はやがてそこから出て、一人になって生きることになったのです。
 なんとも贅沢な時間、空間であったことだろう。

 しかし、全体の構成の中で、私はこの体験の登場に、若干違和感を抱いた。
 なぜ、この回想を挟んだのか・・・・・・。

 落語本の解説として、小さん、三木助と出会った体験は書かないわけにはいかない、という意識もあっただろうが、それよりも、「今、書いておきゃなきゃ」という、岡部さんの思いがあったような気がしている。
 1999年、岡部さんは76歳。
 後で引用する毎日新聞の対談の中であるように、岡部さんは幼少より病弱で、長生きできるとは思っていなかったようなのだ。
 だからこそ、小さん、三木助との出会いを書くなら今、ということだったような気がする。
 この回想の後は、次のようになっている。

『ちくま』1999年3月号に、麻生芳伸氏が、「活字落語ー人間の『素型』」といういきいきした文章を書いておられます。『活字で読む落語』に活写されている生ま身の肌あたりの人間像をみごとに説明して下さっています。
   いわゆる町人と呼ばれる人びとは、地主、家持階級に限られ、
   裏店の借家住いの八っつぁん、熊さんは公式には・・・・・・
   法律的には一人前の町人とは扱われていなかった。租税の対象外、
   人数外の人間たちであった・・・・・・
 と。
 そうか、胸いたいこうした差別は、人類各地の歴史に、現状に、のこっています。藪入りなんか商家であった家の習慣でした。
 大阪の、漫才弁、大阪弁は平和論だといわれてきました。
 つまり、真実を貫き、本音を語って、ありのままの姿、嘘のない率直な面白さが、平等を願う尊い「平和の笑い」なんです。この「笑いこそ平和」の力が、世界中にみなぎりますように・・・・・・。
 江戸に、なにわに、喜びの笑いを創作する力が、お互い誰もの日々のすべてに宿っているはずです。
 『落語百選 春・夏・秋・冬』、麻生芳伸様、ありがとうございました。
                                    1999年3月10日

 この「平和の笑い」、「笑いこそ平和」という言葉は、岡部さんの体験、そして信念に根ざしているとい思う。

 毎日新聞に、亡くなる三年前に行われた岡部さんへのインタビュー記事が、再掲載されている。
 毎日新聞の該当記事

 この記事から、引用したい。

 京都・賀茂川近くの家を引き払い、2月に移ったというJR京都駅近くのマンション。岡部伊都子さん(82)ははりの治療を終えたところだった。

 「今日は何のお話ですやろ。私はちょっと長生きしすぎるほど、年がいきましたけど」

 慌てて「いやそんな」と言いかけると、か細い声で「そんなことあるのよ」。

 「私は体が弱くて、この子はすぐ死ぬ、死ぬ言われて育った。ほんまやったら『お前、まだ生きとんのか』って言われるわ。自分でも不思議でしょうがない。14、15歳のころから、何度も自殺しようと思いましたし」とさらり。再び慌ててしまい「それはどういう気持ちで……」などと間抜けた質問をした。平然と一言。

 「いなくなりたいの」


 こういう少女時代を過ごした岡部さんだからこそ、古希を超えた時期に依頼された落語本の解説に、随筆家としてはどうかな、と思われる唐突さを度外視して、先に紹介したような小さん、三木助との回想を、あえて書き加えたと察するのだ。

 そして、「平和」への岡部さんの強い思いは、次のような悲しい体験があるからなのだ。文中の邦夫さんとは、婚約者のお名前。

 岡部さんは68年に沖縄を訪れた。負傷した邦夫さんが置き去りにされた病院では一緒に約2000人が死んだ。「毒を飲まされた」という証言もある。沖縄戦の悲惨さをじかに感じた。自らを「加害者」と断じ、反戦を強く訴えるのはそれからだ。

 沖縄にとって、日本復帰の大きな理由。それは戦争放棄を定めた日本国憲法だった。なのに自民党は改憲案を発表し、在日米軍再編協議では本島北部への基地の集中を一層進める方針が確認された。

 「沖縄にとって、日本って何やろな」

 ため息のように言った。

 「思うこと、言うこと、自由になったはず。せやけど、その自由が間違った方向にいかされたら、どないしまんのやろ。そうは言っても、自分の考えを押しつけがましく言われへんしな。自分自身を含めて、人間をよく信用せんわ」

 沖縄という忘れることのできない地、自由になったはずなのに、その沖縄は、今どうなっているのか・・・・・・。

 自らを「加害者」とする岡部さんの思いは、深い。

 記事の最後の部分を、引用。

 「神の国」から民主主義へ、軍国主義から反戦平和へ。鮮やかに転じたのは、上から与えられたものをただ信じただけなのかもしれない。

 でも岡部さんは、長い月日をかけて上からのものを信じた罪を検証していった。この人は、今も、あの戦争を許していない。あの時の日本を許していない。何より、あの時「喜んで死ぬ」と口にした自分自身が許せない。戦争は被害者だけでなく、加害者を生む。誠実な者ほど自らの罪に苦しみ続ける。

 あの時代なら、私も「消火訓練のバケツリレーに来ない者は非国民だ」などと記事に書いたかも、とふと思った。岡部さんといると、いつの間にか自分自身と向かい合っている。

 でも、自分さえ信じられないとしたら、どう生きていけばいいのだろう。

 「今、いろんな問題があるやろ。家庭、教育、政党……。でも、一番せんならんのは、自分を育てることやろな」

 ……自分を育てる?

 「自分にある未来を。まだ、あるならな。私は病気ばっかりしていますけどな、最期の瞬間まで人としての自分を育てたいと、私はまだそう思っています。今の呼吸より次の呼吸の方が、心が開かれているように」

 帰り際、西本願寺の前を通った。門はもう閉じていて、黒く大きな屋根の上に、夕日が透けたばら色の大きな雲がたなびいていた。【太田阿利佐】

 岡部さんは、たくさん珠玉の言葉を残している。
 その中で、「平和の意味」について、次のように表現していた。

“ 自分が殺されないだけのものではない。人も殺さず、人間以外の生命体をも、無用に殺きなくても済むことが、平和の意味ではないか”

 その「平和」という言葉と「笑い」を結びつけた言葉を、岡部さんが残していることは、落語愛好家としては、なんとも嬉しいことでもあるが、実に重い言葉でもあると思う。

 「平和の笑い」「笑いこそ平和」、そして、嘘のない、平等な世界を、岡部さんは落語に見出していた。

 落語愛好家だった一人の随筆家の言葉を、忘れていけないだろう。

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by kogotokoubei | 2018-01-04 09:36 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛