噺の話

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2017年 11月 20日 ( 1 )

 日馬富士の暴行事件の報道が、なんとも言えない暗い気持ちにさせる。

 真相はどんどんグレイになっているなぁ。
 それにしても、貴乃花親方バッシングになりつつあるのが、実に嫌だ。
 協会が裏で、どんどんネタをリークしているのだろう。
 
 ここは、熊さんとご隠居の会話で、シャレのめしたい。

熊五郎 ご隠居、こんどの事件、ビール瓶じゃなくて素手だろうと、ありゃあ
    横綱のするこっちゃねぇでしょう。
ご隠居 そりゃそうだ、とてもプロの中の最上位の人間がやることではないな。
熊五郎 そうか、プロじゃないはずだ。
ご隠居 どうしてだい。
熊五郎 前の名前が「アマ(安馬)」でした!

 第二弾。

熊五郎 それにしても、相撲協会は、こんなことが公けになって困ってんで
    しょうね。
ご隠居 そうだよ、理事長だって、名前のように、ハッカクして欲しくなかった!

 オソマツ・・・・・・。

 では、気分をかえて。

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柳家さん喬『噺家の卵 煮ても焼いても-落語キッチンへようこそ!-』

 さん喬の著書からの三回目。

 今回は、本所の洋食屋「キッチンイナバ」の倅だった稲葉稔が、なぜ噺家の世界に飛び込むことになったのか、ということについて。

 さん喬は昭和23(1948)年生まれ。まさに、“団塊の世代”だ。
 
 彼が子供の頃、昭和20年代後半から30年代には、ラジオでは落語がたくさん流れていた。

 そのころはもちろんテレビなどはありません。ラジオが何よりも庶民の楽しみでした。今とはちがい、どの局に合わせても演芸番組が花盛り、幼い私でも、金語楼・柳橋・志ん生・文楽・金馬・痴楽・エンタツアチャコ・牧野周一・木下華声・千太万吉・英二喜美江等々の師匠方の名前は聞き覚えていました。のちに芸人の世界に入って、中のは、まだお元気に高座をお務めになっておられるそんな師匠方のお身回りのお世話をさせていただけるのは、なんとも心躍る気持ちでした。
 ラジオにかじりついていたのは、六、七歳の頃ですが、私は小学校の卒業作文に「将来は人を楽しませる職業につきたい、喜劇役者、落語家、映画監督や俳優」などと書いた覚えがあります。そのころはテレビも普及し始めて、八波むと志や三木のり平などにあこがれていました。

 芸人への憧れ・・・分かるなぁ、この気持ち。

 私も、小学校時代からお笑いが好きで、ベニヤ板で作ったウクレレもどきを学校に持って行って「あ~ぁ、やんなっちゃったぁ」なんて友達の前でやっていたものだ。
 そんな少年の高校時代は、70年安保闘争が始まっていた。

 そういう時代性が、彼の人生に大きく影響した。

 学生運動華やかなりし頃で、毎日のように学生運動の報道がなされていました。そんな高校二年のある日の授業中のこと、親大学の学生が、突然校庭にトラックで乗りつけ、スピーカーのボリュウム一杯に、
「君たちは、やがて大学に進学し学問をおさめようと、大きな夢を描いているだろうが、今、わが大学はそのような価値もなく、ただ漫然と・・・・・・しかるにわが国家の政治家どもは・・・・・・」
 とか訳のわからないアジ演説をとうとうと始める。もちろん授業にはならず、先生や職員がやめさせようと校庭に出てはみるものの収まろうはずもない。多くの人に迷惑をかけている自分勝手な行動に、少年の心の中にあった大きな夢は大阪城が焼け落ちるがごとく大きな音を立てて崩れ落ちた・・・・・・のであります。自分の憧れていた大学と目の前で見せつけられた大学生の姿、すべての学生がそうでないことはわかっていても、自分の中で憧れががらがら崩れたことはまちがいありません。

 昭和23(1948)年8月生まれだから、稔少年が中央大学附属高校に在籍していたのは、昭和39(1964)年から42(1967)年までだろう。

 70年安保闘争の先がけ的な時期であるとともに、当時、中央や他のいくつかの大学では、学費値上げ反対運動が盛んだったはず。

 同級生の中には、大学生のアジ演説に感化され学生運動に走った人もいたに違いない。そして、さん喬のように、大学に進学する意欲を失った人も少なくなかろう。

 さて、その後、稲葉稔少年はどうなったのか。

 私は目標もなくなり勉強する気にもならず、成績はどんどん落ち、とうとうクラスで最後から二番目。私より下がいたのが驚きだが、ゴルフならブービー。コンペなら賞品が出ますが、学校じゃ出ません。出てきたのは心配した担任の先生、何か悩みでもあるのではないかと私は職員室に呼び出し、
「稲葉!こんな成績では、いくら附属高校でも、学内選考で落とされて大学に進学できないぞ、お前どうするつもりだ?」
 返事もせずにうつむいている私に、先生が肩に優しく手をかけて、
「どうするつもりなんだ?」
 とさらに言いつのります。先生の気持ちを思うと、何かすぐに答えをださなくてはいけないような脅迫観念にかられた私は思わず、
「大丈夫です先生、僕、落語家になるんです!」
 と口にしていました。
 えっ、なんで、おれが噺家?どうして?自分の中に潜在的にひそんでいたものが、追い込まれたその時に、窮鼠猫をかむが如くピュッと飛び出したのか?自分でもわかりません。
 そのとき、私の肩に置かれた先生の優しい手が一瞬離れました。
「おい、稲葉!何を言ってるんだ、そんなこと言わずに頑張れ。お前なら上にいけるんだから」
 当然そんな言葉が返ってくると思っていたその瞬間、
「そうか、お前ならいいかもな」
 と、先生の手は私の肩には戻らず自分の膝に戻ったのでした。

 まことに失礼ながら、この部分を読んで、私はプッと噴出してしまった^^

 先生も、稲葉稔少年のことをよく見ていて、その適性を感じていたということなのだろうが、なんともあっさりと落語家志望に同意したものだ。

 もし、担任の先生が強力に反対したら、いったいどうなっていたのかは、歴史のタブーの「IF」だね。

 ともかく、この歴史的瞬間を経て、稔少年は次の段階に進むことになる。

 さて、その後、目白に弟子入り志願するまでに、どんな物語があったのか・・・は、次回のお楽しみ。

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by kogotokoubei | 2017-11-20 12:27 | 落語の本 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛