噺の話

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2017年 09月 12日 ( 1 )

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磯田道史著『殿様の通信簿』(新潮文庫)

 さて、加賀前田藩が、なぜ江戸時代を生き延びることができたのか、磯田道史著『殿様の通信簿』を元に振り返る記事の二回目。

 前回の記事では、利家の長男で二代目の利長が、その客観的な自己分析や「三州割拠」という戦略で前田家の存続を図ったことを紹介した。

 今回は、利長の異母弟であり、利長の後を継いだ利常について。

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 写真は、那谷寺の「奇岩遊仙境」。

 利常の名は、この度の同期会加賀の旅の最終日に訪れた那谷寺で目にした。
那谷寺のサイト
 那谷寺のサイトには、寛永年間に、火災で衰退していた那谷寺を利常が鷹狩りの時に見つけて、本殿、唐門、拝殿などを造ったと紹介されている。
 利常は、この那谷寺がある那谷村付近を自身の隠居領としたほどだった。

 さて、その利常、すんなりと兄の利長の後を継いだわけではない。

 『殿様の通信簿』には、その出生につながる出来事について次のように書かれている。
 そもそも、この前田利常という男、その生い立ちからして、歴史に登場するはずの人物ではなかった。産声をあげ、へその緒を切ったときには、誰も、その赤ん坊が加賀百二十万石の太守になる、とは思っていなかった。前田利家の胤(たね)ではあったけれども、あまりにも、母親の身分が低すぎた。
 天正二十(1592)年、豊臣秀吉は朝鮮への出兵をはかり、日本中の大名を九州に集めた。
 -肥前名護屋
 というところに築城し、男くさい武将たちをそっくり集めたのである。陣中だから、当然、女はいない。女がいなければ、男の不満はつのる。それでなくても、朝鮮への出兵には異論が多いのに、女もいない、となれば、まったく目もあてられないことになる。喧嘩狼藉さもなくば脱走がはじまる。そのあたり、さすがに秀吉は人物のい機微に通じている。一つの命令を下した。
「陣中では、さぞ不自由であろう。ここで洗濯女を雇うように、国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」
 秀吉は機智がはたらく、そう言っておいて、次の一言を付け加えるのを忘れなかった。
「嫉妬するような妻で、下女を遣わさないようなところは、妻本人が来なさい」
 こういわれると、妻は来られない。のこのこ出て行けば「私は嫉妬する妻」ということになり、物笑いの種になる。それをいいことに、武将たちはこぞって、妻よりも若く見目の良い女を洗濯女として呼び寄せはじめた。

 あの朝鮮出兵が、前田利常の出生に関係していたのだ。
 戦地での大名たちの気を紛らわすための秀吉の知恵が、妻ではなく洗濯女呼び寄せだったのだが、前田家でもその洗濯女の“応募”が始まった。

 しかし、前田家では困ったことになった。前田利家の妻まつは、まさに「嫉妬するような妻」で、気が強い。ほかの女が夫に近づくなど許せないたちである。しかし、秀吉に言われ、下女を肥前名護屋に送らぬわけにはいかなくなった。『残嚢拾玉集』という古書によれば、金沢城にあって、まつは下女たちに言ったらしい。
「誰か、肥前名護屋に下るものはいないか」
 ところが、女たちは誰一人として、声をあげるものがいない。まつの性格のきつさは天下に知れ渡っている。
(下手のことをいいだせば、まつ様に殺される)
 そのぐらいに思っていたのであろう。


 前田利家の正室、まつ。その後の芳春院は、NHKの大河「利家とまつ」でも描かれたように、実に気丈な女。いくつも逸話は残っているが、たとえば天正十一(1583)年、あの賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方に与した利家が敗走した危機一髪の時に、越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じ、夫利家の危機を救ったことは有名。また、翌天正十二年には、佐々成政に末森城を強襲された際、蓄財に努めていた利家に対し「金銀を召し連れて槍を突かせたら」と皮肉って鼓舞したと言われている。
 利家の出世、いわば加賀百二十万石には、まつの存在が大きい。
 
 誰も肥前名護屋に行くとは、言い出しかねる状況であったことは、十分に察することができる。
 しかし・・・だった。

 しばらく、沈黙が流れた。末席から声がした。
「私が行きましょうか(私、まかり下るべきや)」
 という二十二歳の娘があらわれた。名を「ちよ」。皆は「ちよぼ。ちよぼ」とゆんでいた。下女である。
 まつは表向き喜んだふりをして、
「それならば、名護屋陣中に下っておくれ」
 といったが、その内心は穏やかではなかった。ちよに対して、まつが笑顔をみせたのは、この日一日だけであり、その後、何十年にもわたって、無視しつづけ、無言の苛めをやりつくし、最後に、再会したときには、
「おまえ!いざという時は前田家の為に死になさい。それを言いたかっただけ」
 そうピシリといって、さっさと対面をきりあげたと記録にはある。
 まさに、恐れ知らずの行動。
 著者磯田道史は、その強烈な遺伝子こそが、その後の前田家の運命を左右することになる、と書いている。

 そう、この下女ちよこそが、前田利常の母。
 文禄二(1593)年、ちよは名護屋の陣中で利家の子をひっそりと産み落とす。
 利家とまつの間には多くの子が産まれ、男の子も多かったから、下女の産んだ子はまったく大事にされることはなかった。
 だが、この子に転機が訪れる。とはいっても、利常には何度も運命を変える“あの時”があるのだが、その最初の転機は、怖い存在である、まつのいる加賀の地から離れたことだと思う。
 この赤子は母親のちよと、ひっそりと暮らしていた。ところが、だいぶん育ってきて、かわいくなってきた盛りに、突然、父の利家がこういった。
「この子は越中の前田対馬に預ける」
 この一言で、母親と引き離された。当時、大名の子が、里子に出されるのは、珍しいことではなかったが、城下の家臣のところに遣るのが普通で、遠い隣国に遣るのはめずらしかった。一説によると、利家がまつに遠慮したため、そんな遠くへ遣ったのだという。
 まつが利常の母ちよに最後に語った言葉から察しても、もし、金沢城下に母子が住んでいたなら、利常が前田家の三代目の太守になることはありえなかったと思う。
 
 そもそも、利常の幼年期につけられた名が、当時の利常への扱い方を示していた。
 このとき、利常は「お猿」とよばれていた。誰がそう名づけたのかはわからない。父・利家の幼名は「犬千代」であって「お犬」とよばれていた。大名の子どもの幼名は、そのまま身分をあらわす。徳川家では家康の幼名「竹千代」が、前田家では利家の幼名「犬千代」が重んぜられた。家をうけぐ嫡子には、必ずといってよいほど、この名がつけられた。実際、幕末まで、前田家では嫡子には「犬千代」とつけ、「高徳院(利家)様のようにおなりなさいませ」
 と、奥の女たちに常に言われながら育てられた。だから、前田家の奥向きでは「犬」とよばれている子どもだけが特別の存在で、それ以外は、どうでもよい子どもであった。犬とは疎遠の「猿」などと名づけられ利常のような子は、生きようが死のうがどうでもよいあつかいであった。

 では、越中で暮らす「猿」に、その後なにが起こったのか。

 六歳になったとき、急に、父の利家が「会いたい」といってきた。慶長三(1598)年三月下旬のことである。
「これから草津の湯に入りに行く。越中を通るから、お猿を宿につれてこい」 
 利家はそういい、にわかに親子の対面がきまった。「御成人にて初で大納言(利家)様に御対面」(『陳善録』)とあるから、それまで一度も会っていなかったのは確かである。お猿をみて、利家は大層よろこんだらしい。
 -ご機嫌よく、御いとおしがり、大方ならず
 と伝わっている。利家はお猿の姿をみるや、大声でいった。
「刀と脇差を持ってまいれ!」
 利家はお猿に与える刀と脇差を用意していた。運ばれてきた刀が豪華なものであった。金箔が打ってあって、金色にピカピカ光っていた。お猿(利常)はのどをゴクリとならし、夢心地でその刀を父の手から受け取っている。

 
 この内容からしても、利家は、たんに思い付きで、草津に湯治に行くついでに「お札」に会おうとしていたわけではないような気がする。
 女房まつの性格を思い、遠く越中に遣ったものの、寂しく暮らす子への思いが日々募っていたのではなかろうか。


 そうそう、この後に、今回の旅行でも箔座本店を訪ねたが、加賀の金への執着のルーツについて記されているのでご紹介。

 前田家には、信長ゆずりの華美な家風がある。信長の家中は武具が派手で、赤や金色の刀や槍で衆目を驚かした。前田家中は信長軍団の「破片(はへん)」といってよい。信長の残した軍団がそのまま北国の地に根付いたもので、思想も、美意識も、信長の好みを受け継ぎ、金箔の文化もその一つであった。信長は居城安土城の屋根に金箔を貼りまくったように異様に金を好んだ。金を愛でる美意識は、信長・秀吉・利家ときて、利常とうけつがれていく。ともかくも、幼い日、利常の目に焼きついた金箔の光はのちのちまで加賀の文化に影響した。


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      *箔座本店の「金の茶室」

 箔座本店には、上のような「金の茶室」があって、つい、「秀吉と箔座さんだけですねぇ」なんて軽口をたたいたのだが、あくまで、前田家の金の伝統は、織田信長譲り、ということだね。
 箔座では金箔入りのお茶をいただき、金粉を手や顔に塗り、金箔で表面を覆ったチョコレートケーキを土産に買った。なかなか美味かったよ、あのケーキ。

 さて、「お猿」と呼ばれていた利常に初めて対面した利家は、ただ、刀や脇差を与えただけではなかった。

 このとき、利家は、余程、お猿が気に入ったらしく、思わず抱きついたらしい。面白いのは、現代の我々のように、ただ抱きついただけではないことである。戦国武将らしく、我が子の肉付きをみた。
 -ふところまでも御さすり御覧なされ候
 利家はお猿のふところに手を入れ、丈夫な子であるかどうか、肉を触ってみたのである。戦国の武士にとって、筋肉は死活をわけるこのであり、我が子の肉付きをみて、その戦士としての性能をみるという究極のリアリズムが利家にはあった。
 事実、お猿は、どの子よりも利家の体つきをよく受け継いでいた。六歳にしては異様に体が大きく、頑強にみえる。利家がお猿をみて、はしゃいだのは。そのせいもあった。利家が死んだのは、そのちょうど一年後のことであった。

 利家の妻、怖い怖いまつに恐れることなく、肥前名護屋に洗濯女として利家の寵愛を受けることになった、母ちよの豪胆さ。
 その妻まつから遠ざけるため、越中で母ちよと暮すことになった、お猿と呼ばれた利常。
 そして、草津の湯治の通り道ということで、その頑強な体を見た利家が喜んだ初の対面。

 そういった幼少年期を過ごした利常が、加賀藩三代目太守となるその後のいきさつは、次の三回目の記事でご紹介することにしよう。

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by kogotokoubei | 2017-09-12 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛