噺の話

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2017年 09月 07日 ( 1 )

 9月4日の二日目の記事の前に、使用する一部の写真について説明したい。

 昨日の記事で掲載した地図は、金沢市観光協会の「金沢旅物語」からお借りしている。
 問い合わせメールでは返事が遅くなるかもしれないので、窓口にお電話をした。
 個人ブログでの使用なら掲載可能で、ぜひ金沢をPRして欲しいと言われ、実に嬉しかった。

 同サイトには、数多くの写真も掲載されているが、使用については次のように記載されている。
金沢市観光協会「金沢旅物語」のサイト

使用について

 本写真素材集に収録されている画像データについては、金沢市の観光をPRする目的において、ご利用いただくことができ、データはそのまま、又は加工してご使用いただけます。
 画像データ(ダウンロード画像を含む)を掲載する場合には、写真の下などに「写真提供:金沢市」と掲載してください。
 なお、雑誌等で使用された場合は、完成品を1部ご恵送いただけると幸いです。

 金沢市、太っ腹でしょう!

 ますます、金沢が好きになる。

 ということで、自分で写真を撮っていな場所などは、金沢市のご好意に甘えてお借りすることにした。

 さっそく、初日に金沢21世紀美術館の後に立ち寄った、西茶屋街の写真を、お借りした。

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「写真提供:金沢市」

 なかなか、趣きのある佇まい。

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「地図提供:金沢市」

 初日は、上の地図の金沢21世紀美術館から長町武家屋敷を経由して、犀川をわたって西茶屋街に行ったのであった。

 言うまでもなく、茶屋街とは、昔の遊郭を含む“花街”のあった場所。
 少し調べてみると、金沢の遊郭は、最盛期には、東新地、西新地、北新地、主計町、愛宕の五か所あったらしい。

 その中で、今、茶屋街として観光客が多く訪れるのが、犀川の西岸の西茶屋街と浅野川の東岸の東茶屋街。東茶屋街の近くには、料亭が多い主計町茶屋街もある。
 
 先輩のガイドによれば、金沢の西、東は、あくまでお城を中心にした方角とのこと。

 花街は、料亭・待合茶屋・芸者置屋という三業で構成されている。そこで働く女性には、芸妓と娼妓がいるわけだが、東と主計はその割合がほぼ半々、西は娼妓の方が多かったらしい。

 それが、現在の姿にも反映しているのだろうか、観光客で賑やかなのは、この日の昼食後に訪ねた東茶屋街だった。
 

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 この日の最初の金沢巡りは、宿のロビーに七時に集合して行った近江町市場。

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「地図提供:金沢市」

 尾崎神社近くの宿から徒歩で十分もかからない近さ。

 当初はお寿司の朝食をと思い、昨夜先輩から聞いていた七時半開店のお寿司屋さんを、ひとまず訪ねたが、遅い夏休みなのか、なんとお休みだった。

 開いていたとしても、昨夜の酒が残っている者も私も含め多いし、皆がコーヒーを飲みたいで一致し、武蔵の辻の近くの、一人の時は滅多に入らないスタバへ。
 私は、コーヒーとパンケーキのようなバターミルクビスケットを食す。ハチミツをかけて、なかなか旨かった。他のメンバーは、コーヒーとサンドイッチが多かったかな。

 その後、近江町市場に戻り、土産を買いたい人もいれば、そうじゃない人もいるので、先輩が宿に来られる九時に宿で集合ということで、解散。
 私は土産をまとめて買って宿に戻ったが、仲間の数名はお寿司を食べたようだ。元気だね^^
 さて、先輩も宿にいらっしゃって、金沢城公園、そして兼六園に向かう。

 石川県が管理する「金沢城と兼六園」というサイトがある。
「金沢城と兼六園」のサイト

 同サイトからはパンフレットがダウンロードできるので、PDFデータから金沢城公園の地図を抽出して掲載。
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 宿から近い地図左上の黒門口から入り、右中央少し上の石川門から兼六園へ、というコースを歩く。

 新丸広場の緑が、なんとも鮮やかで、つい記念写真を撮ろう、と提案した。

 河北門、橋爪門をくぐる際も先輩の名ガイドが続く。
 
 金沢は落雷が多く、金沢城も落雷によって焼失したことや、石垣の作り方にもいろいろあること、門が二重になっていて、敵が攻めてきたら門を閉め、門と門との間に閉じ込めて攻撃する、などなど。
 先輩のガイドの内容にもあったこの城のことについて、Wikipediaの「金沢城」から引用したい。
Wikipedia「金沢城」
概要

金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。

この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園である。

なお、金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していたことが知られているが、尾山御坊時代は金沢の小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあったことから尾山の呼称が使われていた。佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。だが、金沢の地名が広く知られていたために尾山城の名前は普及せず(豊臣政権の公文書でもほとんど用いられていない)、利家自身も再び金沢の城名を用い始めたと推測されている。

 「尾山御坊」は、先輩のガイドで何度もお聞きした言葉。。

 上記のように、金沢の街は犀川と浅野川に挟まれた一帯に作られたお城を中心に発展した。

 そのお城の見学は、ほどほどにして、お目当ての兼六園を目指し、一行は石川門へ急ぐ。

 石川門から出て兼六園につながる石川橋の下の道路は、かつての百間堀だった場所だったと、先輩の説明。

 佐久間盛政の時代につくられ、前田利家の入城後、その子利長により改修されたと言われている。銃弾が飛ばないだけの幅のあった、防衛上重要な堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4m、その大きさから百間堀の呼び名がついたとのこと。

 その百間堀を越えて到着した兼六園。

 先輩から「兼六」の由来は「六勝」であるとお聞きしたが、「六勝」の内容は宿題として残された^^

「金沢城と兼六園」のサイトに次のような説明が載っていた。
すぐれた景観の代名詞「六勝(ろくしょう)」

六勝とは、[宏大(こうだい)][幽邃(ゆうすい)][人力(じんりょく)][蒼古(そうこ)][水泉(すいせん)][眺望(ちょうぼう)]のこと。宋の時代の書物『洛陽名園記(らくようめいえんき)』には、「洛人云う園圃(えんぽ)の勝 相兼ぬる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ」という記述があります。その伝えるところは、以下の通りです。「庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(宏大)を表そうとすれば、静寂と奥深さ(幽邃)が少なくなってしまう。人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(蒼古)が乏しい。また、滝や池など(水泉)を多くすれば、遠くを眺めることができない」そして、「この六つの景観が共存しているのは湖園(こえん)だけだ」と結ぶのです。すばらしい景観を持した庭園として賞された湖園。兼六園は、この湖園に似つかわしく、六勝を兼ね備えているという理由から、文政5年(1822)、その名を与えられました。

 要するに、宏大<->幽邃、人力<->蒼古、水泉<->眺望は、それぞれ「あちらを立てれば、こちらが立たず」、英語の「トレードオフ」の関係にあるが、洛陽の湖園だけはその六つを兼ね備えている、と言われた、その湖園に似つかわしいから兼六園、ということか。

 園の名の由来だけでも、実に深~い^^

地図を「金沢城と兼六園」のサイトからご紹介。
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 金沢城公園の石川門を出てから、この地図の上にある桂坂口から入る。
 もちろん、入園料310円を払って。
 仲間の一人が、「六十五歳以上は、無料か。もうすぐその年齢になるんだなぁ」
 と、やや感慨深く呟く。
 たしかに、映画なども含め、六十五歳が一つの境目になっているが、自分たちがその区切り目に近いとは、誰ひとり実感がないのだよ。
 久しぶりに会うと、一気に四十年前に戻っているので、皆、二十歳そこそこの自分と同化しているのだ^^

 最初の写真スポットは、霞ヶ池。

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 私のガラケーで少し離れた場所から撮った、徽軫灯籠(ことじとうろう)。

 金沢旅物語の綺麗な写真もご紹介。
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「写真提供:金沢市」

 徽軫灯籠は、形が楽器の琴の糸を支え音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたと言われていると先輩のガイドもあり、全員で灯籠をバックに撮った写真は・・・個人情報になるので掲載しないよ^^

 その後、雁が渡る姿に似た雁行橋などを眺めながら、園内を散策。

 途中に、芭蕉の句碑。
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  あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風

 奥の細道にある句で、旧暦七月の晩夏から初秋にかけた時期に、夕陽を見ながら詠んだとされている。
 訪れたのが旧暦七月十四日で、ちょうど同じ頃、同じような季節といえるだろう。
 
 現代語訳は、立秋も過ぎたというのに、夕日は相変わらず赤々と照りつけ残暑はきびしいが、さすがに風だけは秋の気配を感じさせる、という意味のようだ。
 たしかに、今はそういう時期といえるだろう。
「秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」という『古今和歌集』の歌を念頭に置いて詠んでいるとされている。

 途中で休憩を挟んで、一時間ほど園内を散策しただろうか。

 宿に戻って、駐車場の京都からやって来た仲間の車、そして先輩の車の2台に乗り込み、向かったのは、先輩お奨めの金沢の伝統工芸のお店。

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 それは、金箔と金箔製品の製造、販売の「箔座」本店だった。
「箔座」のサイト
 箔座のコーポレートサイトから、引用。
社名であり、ブランド名でもある「箔座」は、金箔の歴史において実際に存在した金銀箔類の統制機関「箔座」に由来。
そこには、世界に誇る技を残しながら質の高い箔をつくり、日本の伝統文化に貢献できる箔のギルドの中心でありたい、という思いがこめられています。

 お店の方と先輩は懇意にされているようで、他の見学者もちょうどいなかったこともあり、九人は店の中に入って、金箔のお勉強。

 このお店の方が、実に流暢に金箔の歴史から製法、そして、店にある「黄金の茶室」のこと、そして、ちょうど職人さんが働いていたので、その仕事ぶりを見ながらの解説をしていただいた。

 この人の名調子を聴いて、仲間からは昨日の私の落語の大スベリをからかう声、多数^^

 写真が、「黄金の茶室」。

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 もっと鮮やかな写真は、コーポレートサイトでご確認のほどを。

 同サイトによると、国宝修復に使われる最高級の「縁付金箔」約4万枚を用い、職人たちの技術の粋をあつめてつくり上げた「黄金の茶室」。

 つい、「秀吉と箔座だけですねぇ」、なんて言っちゃった^^

 皆は、思い思いのお買い物。
 奥さんにアクセサリーを買った仲間もいたが、私は、金箔入りのチョコレートケーキ。

 さて、ここまでが、二日目の午前中・・・フーッ(と、ため息)。

 お店のご好意により駐車場に車を置かせていただき、徒歩で昼食に向かったのであった。

 昼食から午後の散策については、明日(か、明後日)の心だ!


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by kogotokoubei | 2017-09-07 21:37 | 小さな旅ー2017同期会加賀の旅 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛