噺の話

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2017年 07月 04日 ( 1 )

 富士山の山開きの日に『富士詣り』について記事を書いた。
 私が寄席で聴いたことがないので、“消えかかっている”噺、と形容したのだが、多くの方からコメントをいただき、今でもベテランや若手によって演じられているとご指摘いただいた。

 勉強不足を恥じ入るばかりだ。

 その山詣でについて、少し考えた。
 なぜ、落語のネタになるほど、日本人は山詣でをしてきたのか。

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神崎宣武著『旬の日本文化』(角川ソフィア文庫)
 
 何度か紹介している本に目が留まった。
 岡山宇佐八幡神社宮司で民俗学者、神崎宣武著「『旬』の日本文化」から、引用したい。

 山開き

 現在、山開きといえば、夏山登山の開始日とする印象が強い。その登山は、スポーツであり行楽である。
 しかし、歴史的にみると、それは明治以降のことであり、たかだか100年ほどの流行現象にほかならない。
 「山開き」という言葉は、さらに古い歴史をもつ。旧暦での六月一日に行なう例が一般的であったが、五月の末日に行なう例も少なくなかった。そして、そこでの登山は、信仰行事であった。
 登山などとはいわない。山詣で、あるいは登拝。個別には、富士詣でや大山詣で、白山詣でや熊野詣でなど。山開きから約一か月のあいだ、各地で善男善女が霊山霊峰に登拝する。右に示したような名高い山では、その登拝を斡旋する先達たちもいて、山腹には宿坊も発達した。

 落語愛好家の方は、こういったことは、先刻ご承知。
 『富士詣り』でも『大山詣り』でも、先達さんが存在する。
 
 それでは、なぜ山詣でをするのか、について。
 なぜ、各地で山詣でが盛んであったか。それは、日本が山国であったからである。現在でも国土の六十数パーセントが森林である。島国というよりも「山島」というのがふさわしい地形である。
 ほとんどの土地で、山を眺めながら暮らす。その山なみのなかで、とくに山容のすぐれた高峰をカミの山とみるのは、当然といえば当然のことだ。そこには、もろもろの精霊が棲む、とする。死霊も棲む、とする。仏教や神道が成立する以前からの、日本人の信仰観の原型が、そこにあった。

 いわゆる、八百万の神の一つの象徴が、山詣で、ということだろう。
 
 その山の“カミ”は、山にとどまってはいない。
 山に棲むのは、さまざまなカミであり、もろもろの精霊である。が、総じていえば、「山のカミ」。あるいは、象徴的な存在として山のカミ。その山のカミは、正月には歳神(歳徳神-トシトクジン-)となって里に降り、家々をめぐる、とさえた。また、節分(二月三日)を過ぎて八朔(八月一日)のあたりまでは田のカミとして稲作を守護する、とされた。たとえば、「正月くれば歳神さん、田植えのときは田のカミさん、八朔過ぎれば山のカミ」という中国山地に伝わる俚諺(りげん)があるが、山のカミの性格をよくあらわしている。山のカミは、いうなれば原始日本の万能神だったのである。

 今や、そのカミは家にいる・・・という冗談はさておき、日本のカミはどこにでもいる。
 
 山詣での噺を聴くと、それが長屋の仲間とのリクリエーションの一環であろうと、日本人の心情の奥底にある自然への信仰心の強さ、日本人の遺伝子、というものに思いが至る。

 山に詣でる前には水垢離をして体を清めるのも、大事な準備。

 『富士詣り』では、急な天候の崩れは、登山する中に五戒(ごかい)を破りながら懺悔の足らない者がいるからだと先達さんに言われ、湯屋で下駄泥棒したことなどや、人妻と深い仲になったことを白状する者が出てくる。

 先達さんが語る、五戒とは次の通り。
 ◇妄語戒(もうごかい):嘘を付いたり人を騙したりすること。
 ◇偸盗戒(ちゅうとうかい):人の物を盗んだり取ったりすること。
 ◇殺生戒(せっしょうかい):殺生して山に登ってはいけない。
 ◇飲酒戒(おんじゅかい):酒を飲んで山に登ってはいけない。
 ◇邪淫戒(じゃいんかい):女を騙したり泣かしたこと。連れ合い以外と交渉を持つこと。

 湯屋の下駄泥棒は偸盗戒、人妻野郎は邪淫戒の罪。

 そうそう、永田町には、妄語戒の罪人であふれている。

 反面教師が、あそこにはたくさんいるなぁ。

 日本は、八百万の神の国だ。
 どこにでも、その行いを凝視しているカミがいる、ということを忘れてはならないだろう。
 もちろん、家にいるカミも、忘れてはならない^^


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by kogotokoubei | 2017-07-04 12:39 | 年中行事 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛