噺の話

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2016年 12月 14日 ( 1 )


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森銑三著『明治人物閑話』(中公文庫)

 さて、本書から初代燕枝についての記事、後編。

 前編は、森さんが明治三十三年二月十三日、初代燕枝が亡くなって二日後の「東京朝日新聞」を踏まえて書かれた内容から紹介したのだが、この東京朝日という新聞を読み調べることで、森さんは“今一つ拾いもの”をしたと書いている。

 いったい、どんな拾いものだったのだろうか。
 明治三十年代の同紙には、弥生山人という人が、飛び飛びに随筆を連載しているが、その弥生山人の何人かは、ついに知るべくもない。ところが、三十四年の九月二十日と二十一日との両日に、「弥生の弟」という別人が、その随筆に割り込んで、円朝、燕枝両人のことを併叙しているので、「弥生の弟」の署名がおかしい。これもまた何人なのか、分かりっこないものとして、それを読んだのであるが、文中に、筆者は円朝とも燕枝とも面識があったので、追善かたがた、その二人のことを、少しばかり書くとしようと断っている。そんなことから、「弥生の弟」というのは、『明治世相百話』の著者山本笑月老ではなかったかという気がして来た。あるいは間違っているかも知れないが、ひょっとしたら笑月さんではなかろうかとだけいわせて貰って、その文の中から、一二条をここに紹介して置きたい。
 森さんが推理した山本笑月は、木場の材木商の長男として明治6(1873)年に生まれ、東京朝日の記者をしていた人のようで、長谷川如是閑や日本画家大野靜方の兄にあたるらしい。

 さて、その笑月さんと思しき「弥生の弟」さんの円朝と燕枝の評とは。
「高座に於ける燕枝が、到底円朝の敵ではないことは、世上既に公論ありだが、其代り酒間茶後、膝組みの話と来ては、また所詮円朝の及ぶところではなかった。要するに円朝は、芸に於て名人と呼ばれただけ、物事に分別があつて、随つて人と対話の際も分別臭く、且つ芸人気質あると免れなかったが、これに反して燕枝といふ男は、真率洒脱、些の俗気なしで、しかも滑稽百出、談論風発といふたちであつた。」
 記者は燕枝の話が、円朝に一籌を輸したことを認めている。しかしこれは、円朝の方が並外れた芸の持主だったからで、円朝一人を除いたら、燕枝が第一位を占めることになる。その一事は、記者も十分に認めていたことと思われる。

 “酒間茶後”とか“膝組み”の話という表現は、要するに、酒や茶などを飲みながら、くつろいで聴く話、という意味なのだろう。
 円朝の高座は、“分別”ある円朝の姿に合わせて客の側も膝を正し、飲食などもってのほか、という空気の中で聴いていたような印象だ。一方、燕枝のそれは、肩の力を抜いて、軽い気持ちで楽しく聴く、ということか。

 芝居好きの燕枝の一面については、「弥生の弟」さん、こう書いている。

「或時彼がいふには、どうかして勧進帳がして見たいが、おいらはトコトンが利かないから、舞になつてからが困ると。すると座に円遊があつて、言下に答ふるやう、いいぢやァげえせんか。舞のところから、あッしが代つて出やせうと。
 これを聴ける燕枝は、世にも苦々しげな顔をしていへるやう、お前達はそれだから困る。さういふチョンキナだから、ほんとの芝居が出来ないといふ。畢って気を吐く、虹の如しであつたといふことだ。なるほど弁慶のステテコもあやまるが、燕枝にまじめで勧進帳をやられても、見物は頗る恐れるであらう。」
 その見物の恐れるに違いない「勧進帳」を、まじめに演じてみたいと思っていたというのだからおかしい。
 円遊は師匠の円朝の歿後、三遊派の第一人者だったのであるが、他派の燕枝から、お前扱いされていたこと、右に記されたるごとくだったのであろう。

 この“トコトンが利かない”とは、“飛び六方”ができない、という意味なのだろうなぁ。
 “チョンキナ”は、調べてみると、狐拳(きつねけん)を打つ際に唱える言葉らしい。「ちょんきなちょんきな、ちょんちょんきなきな、ちょんがなのはで、ちょちょんがほい」と唱え,その終わりを合図に拳を打つ、と説明がある。
 上の文脈では、せいぜい狐拳の合いの手程度だから、ほんとの芝居ができない、の意かと思うが、自信はない。

 次に、この章の題である“文才”に関わる部分。
 燕枝は円朝と同じく、話の新作をした。それについて、弥生の弟氏は、また次のようにいっている。
「燕枝はこれらの材料に用ひるために、古板の本や、芝居関係の噺書籍類を夥しく所蔵して居つた。其中にも、元禄板の『にぎりこぶし』の如きは、稀世の珍書である。」
 『にぎりこぶし』は、その書名から考えて、話本だったかと思われるが、さような本のあることなどこれまでついぞ耳にしない。燕枝旧蔵のその書が、その後いかが成り行いたかが気にかかる。
 燕枝の蔵書家であったことは、右の記述にみ見えているが、その蔵書印のある古書を、今でも時々みかけて、なつかしい感じに打たれることがある。書巻の気を有した一事においても、燕枝は一層の親しみの持たれる芸人として、私等の眼に映ずる。
 弥生の弟氏は、「気が楽のつらね」に拠って、燕枝の文才を称し、それについで、また次のようにいっている。
「此頃或処で燕枝のしやれ手紙を加藤漣西が見て、燕枝はこんなものを書くと、魯文よりも旨いといつたが、実によく出来たのは、魯文を凌ぐほどである。」
 加藤漣西という人物は、私は知らない。魯文はその本筋の戯作よりも、即興的な引札の文などに面白いものがるのであるが、燕枝も魯文の向うを張るだけの文才の持主だったのである。

 博覧強記の森さんにして『にぎりこぶし』という、弥生の弟さん曰く“稀世の珍書”を知らなかったようで、逆にどんな本なのか興味が募る。また、加藤漣西とは、どんな人物だったのだろう。
 いずれにしても、燕枝の文才は高く評価されていたのは間違いなさそうだ。円朝の作品のほとんどが高座の速記であることを考えると、燕枝の方が才能の幅は広いと言えるのではなかろうか。

 さて、次は、弥生の弟さんが紹介する、燕枝の好事家としての逸話など。
「享保中に八十の高齢で歿した俳諧師岩本乾什といふは、河東の浄瑠璃を多く作つた竹婦人だといふことだが、浅草の奥山に、其辞世の碑が建ててあつた。
『雪解けや八十年の作り物』とあつて、昔は三尺の童子も知つた碑であつたが、どうしたわけでか、久しい跡に石屋の手へ渡つて、すんでのことに磨り潰されて、庭石か何かになるところを、燕枝が発見して大いに慨嘆し、数金を抛つて、本所の自宅の庭へ建てて置いたが、これをば彼れのいまはに、如電老人が所望して、譲り受けたさうだ。此一事を以て、彼れはまた好事家であつたのを見るに足るべしだ。」
 燕枝の好事家であったことの知られるのは、いかにも嬉しい。如電老人も大槻修翁であることは、註記するまでもないだろう。私なども、この如電翁の顔だけは知っている。
 最後に、弥生の弟氏は、その文の結びとして、次のようにいっている。
「要するに円朝は、徹頭徹尾まじめに一生を送った男で、燕枝は人生を遊戯場としたものと思はれる。」

 如電老人、大槻修翁について、私のような凡人には註記が必要だ。
 Wikipediaの「大槻如電」から引用。
Wikipedia「大槻如電」
大槻 如電(おおつき じょでん、弘化2年8月17日(1845年9月18日) - 1931年(昭和6年)1月12日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍した学者・著述家。本名は清修。字(あざな)は念卿。通称は修二。如電は号。仙台藩士大槻磐渓の子。

略歴・業績

仙台藩の儒学者大槻磐渓の次男として江戸に生まれる。『言海』の執筆で著名な大槻文彦の兄にあたる。

家学をうけて林家で漢学を学び、仙台藩の藩校養賢堂では国学も学んだ。明治4年(1871年)海軍兵学寮の教官となり、文部省に勤務して仙台藩から文部省に引き継がれた『新撰字書』編集事業にたずさわる。1874年(明治7年)、文部省を退官したのちは在野の学者として著述に専心した。明治8年には家督を弟の文彦に譲っているが、これは自由奔放な生き方の自分よりも、弟に家を任せた方が適切だと考えたことによる。

和漢洋の学や文芸に通じ、『東西年表』や『洋学年表』、『駅路通』などの著作があり、父大槻磐渓の著作『近古史談』の改訂をおこなっている(刪修標注および刊行は弟の大槻文彦)。また、祖父大槻玄沢と親交のあった工藤平助の小伝も著している。

如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊や雅楽、また平曲から俗曲にいたる日本の伝統音楽には精通しており、『俗曲の由来』や日本の雅楽研究の嚆矢となる『舞楽図説』を発表している。また、博識とともにその奇行で知られた。1931年(昭和6年)、腎炎のため87歳で没した。

 弟の大槻文彦の名は知っていたが、お兄さんは知らなかったなぁ。

 弥生の弟さん、山本笑月と思しき人は、円朝を“徹頭徹尾まじめに一生を送った男”と形容したが、どうもこういう人たちの評が、円朝という人の像を実物よりも一層大きなものとして世に印象づけてきたように思う。
 私は、松井今朝子の『円朝の女』や、小島政二郎さんの『円朝』に描かれるような、一人の出淵次郎吉という男の姿にこそ、親近感もわくのだが・・・おっと、円朝のことではなく燕枝のことだった。

 ちなみに、二年前の円朝の命日に、あえて円朝の“まじめ”ではない面を中心に短い記事を書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2014年8月11日のブログ

 さて、森銑三さんは、新聞のみではなく、ある貴重な本も題材としている。
 以上は「東京朝日新聞」に出た二つの記事を主として書いたのであるが、燕枝についての第一資料としては、明治の雑誌『歌舞伎』に連載せられたその自伝『燕之巣立実痴必読』というもののあるのを閑却してはならぬ。ただしそれは、明治十三年に草して人に贈ったもので、その後の二十年間の動静のそれでは知るべくもないことを遺憾としなければならないが、落語家などという稼業は、明治に入ってから、社会的に認められるに至ったので、旧幕時代には小間物業とか、貸本屋だとか、時の物売だとか、曖昧なことを人別帳に記して、お上をごまかしていたのだったという。だから落語家の内にも、話を専一にせず、他にも手を染めた者が多かったのであろうと思われる。
 陸軍医総監の松本順は、よく芸人達を庇護した人だったが、明治十年に自邸で狂言二幕を演ずるようにと、人を通じて円朝に依頼した。しかし円朝は、自重するところがあるものだから、それを断った。すると順は、自ら円朝を本所二葉町のその宅に訪うて、親しく懇願した。それには円朝も恐縮して承諾に及び、燕枝にすべてを一任して、己れも一役を演じて、興を添えた。燕枝の自伝には、そうしたことなども見えている。
 『古今東西落語家事典』にも書かれていた、『燕之巣立実痴必読』、通称『燕枝日記』が登場。

 私にとっては懐かしい松本順の名も出てきた。
 2013年の命日3月12日に、松本順(良順)を主人公とする吉村昭の『暁の旅人』と司馬遼太郎『胡蝶の夢』を比較する記事を書いた。
2013年3月12日のブログ
 
 その松本順が直々に訪問しての依頼を受け、円朝が松本邸で催す狂言を燕枝に一任したというのは、円朝と燕枝との関係を知る有益な事実であろう。

 
 森さんは、『燕枝日記』から二人の親愛の度合いを物語る内容を紹介している。
 両雄並び立たずというが、円朝と燕枝とは、円満な交際を続けていた。年齢では燕枝の方が上だのに、自伝では円朝を「業兄円朝」とも「円朝業兄」ともして重んじて居る。「円朝は一見識ある人ゆゑ」云々ともしている。そんなところにも、燕枝の人物に、対抗意識などというべきもののなかったことの知られるのが快い。

 この部分を読んで、たとえば、円朝一門を中心とする三遊派に“抗する”柳派の頭取燕枝、というような表現は、あくまで芸に関することであり、円朝と燕枝の人間同士の付き合い方には、対抗する、というよりお互いを尊敬し合うような関係を察することができる。
 
 森さんが言うように、たしかに“快い”ところで後篇はお開き、としたい思いもあるのだが、最後にあのお寺のこと。
 燕枝が葬られた源空寺は、幡随院長兵衛のほかに、高橋東岡、伊能忠敬の墓があり、谷文晁一家の墓もあるので、私はこれまで何度か往訪して居るが、燕枝の墓は、さらに記憶に存しない。それで去年もあと三四日につまった日の午前に、わざわざ往訪したところが、燕枝の墓は、大正の震災に痛んで、片附けられてしまったらしく、本堂の前に、新しい「談洲楼燕枝之塚」という自然石の碑が建って居るのに過ぎなかった。しかもその碑は、雅味も何もないものなのに、失望してしまった。

 40年ほど前のことなので、今も源空寺の燕枝の塚が同じ状態なのかは、分からない。
 
 もしそうならば、円朝の全生庵とは、あまりにもの違いだ。

 毎年、円朝の命日近くには、三遊派のみならず、柳派も含む噺家さんが全生庵にお詣りしたり、円朝の作品を奉じたりして、盛大に名人と呼ばれた噺家を偲んでいる。

 しかし、燕枝に関しては、どうだろう。

 柳派の方々は、二月二十一日の命日に源空寺で初代燕枝を偲ぶことのできる、少しは雅味のある石碑でも建ててあげてはどうか、と思う。

 三三の『嶋鵆沖白浪』最終口演から発した初代談洲楼燕枝シリーズ的な記事、これにて、ひとまずお開き。

p.s.
この記事を書いた後で、本書の「文筆家悟道軒円玉」の章に、こんな文章を発見した。
追記 先に書いた「談洲楼燕枝」の中でその所蔵した『にぎりこぶし』という書物を、話本かなどとしたのは大間違いで、それは役者評判記で、『歌舞伎評判記集成』の第二巻中に収められていることを川崎氏から教えられた。
 燕枝の墓は、私の探し様が悪かったので、源空寺に現存している。その外いろいろのことを、柳亭燕路氏から教えられた。柳亭さんは、現に燕枝の研究を熱心に進められて居る。遠からずその詳伝の刊行せられる日が来よう。私の文ははなはだ不確なものだったが、それが縁になって柳亭さんという特別の研究家を知ることを得た。私はそれを大きな喜びとして居る。
 森銑三さんという人の真摯なお人柄が偲ばれる追記と言えるだろう。なお、川崎氏とは川崎市蔵さんのこと。邦楽研究家の方かと思う。柳亭燕路は、『落語家の歴史』や『子ども落語』などの著書があり落語研究家としても著名だった六代目だろう。
 遅ればせながら、拙ブログでも、以上を追記とします。
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by kogotokoubei | 2016-12-14 21:36 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛