噺の話

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2016年 11月 15日 ( 1 )

 さて、後編。

 まずは、「坂」である。
 そして、その坂を形成する元(?)は、「上町台地」だ。
 Wikipedia「上町台地」から、引用する。
Wikipedia「上町台地」

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上町台地(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。北部は中央区の大阪城付近・天満橋の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、天王寺区・阿倍野区周辺を経て、南部の住吉区・住吉大社付近に至り、その辺りでほぼ平地になり清水丘を以て終わり、長さ12kmに及ぶ。大阪(大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。

 この台地の西側にそって、多くのお寺があり、あちこちに坂があるというわけだ。

 しかし、坂の前に、昨日の忘れ物について。

 天王寺区のサイトから、某ホテルのページにリンクして「上町台地周遊マップ」をダウンロードできる。
天王寺区サイトの該当ページ

 そのマップを少しトリミングしたのが、これ。

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 この地図を見て、思い出した。

 空堀商店街のある谷町六丁目周辺から南に下り、谷町九丁目駅近くに、あの神社があった。
 前篇の最後にご紹介した「赤穂義士の寺 吉祥寺」を訪ねる前に、実は山茶花さんと生國魂神社に寄っていたのだ。

 正確には「いくくにたまじんじゃ」、略称「いくたまじんじゃ」。
 いや、地元の人は「いくたまさん」か。
 大阪の人は、神社には親しみをこめて、戎神社は「えべっさん」、住吉大社は「すみよっさん」だからね。

 Wikipedia「生國魂神社」から、写真と概要説明を引用。
Wikipedia「生國魂神社」

 なお、私も山茶花さんも、自分の目で見て足で歩くことを優先しているので、写真はほとんど撮っていない。
 よって、補足のために、こういった公開されている情報の助けをお借りするのだ。
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概要

大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。

この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つである。

古くからの社殿・神宝は幾多の火災・戦災によって失われたが、現本殿には「生國魂造(いくたまづくり)」と称する桃山時代の独特の建築様式が継承されている。また、7月11日・12日の夏祭など古くからの祭りが現在まで続けられている。

 元は大阪城の場所にあったんだね。

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 この鳥居の前に大型バスが止まり、「あら、ここも観光ツアーで外人さんの団体か」と山茶花さんと話していたら、バスからは、結婚式に参加する方々が、ぞろぞろ降りてきた。
 
 境内に入ると、昔ながらの姿で花婿さんと花嫁さんが歩く姿を拝見。
 今ではホテル内の神前結婚場が圧倒的に多いだろうが(私もそうだった^^)、なかなか由緒正しい結婚式だねぇ。

 ここは、落語愛好家にも馴染みの神社。

 そう、あの米沢彦八の碑があり、上方落語協会が「彦八まつり」を開催する神社である。

 彦八が、境内の小屋に「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して落語を演じた頃は、生玉神社。
 近松門左衛門の『曽根崎心中』にも彦八と神社は登場する。お初を生玉に連れ出した田舎者が一人で見に行くのも彼の物真似だった。

 私は、彦八の碑の横にある喫煙所で、山茶花さんに断って、まだやめられない煙草を一服したのだった。

 さて、この後に、「赤穂義士の寺 吉祥寺」を経て、「天王寺七坂」めぐり。

 ふたたび、「上町台地周遊マップ」から。

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 吉祥寺の通りの反対側に「坂」の表記がたくさんあるのを確認できる。

 北から順に「真言坂(しんごんざか)」、「源聖寺坂(げんしょうじざか)」、「口縄坂(くちなわざか)」、「愛染坂(あいぜんざか)」、「清水坂(きよみずざか)」、天神坂(てんじんざか)」、「逢坂(おうさか)」の七つ。


 坂の一部を散策しながら、天王寺方面に向かったのであった。

 なお、「上六 うえいくネット」というサイトに「天王寺七坂めぐり」について詳しい情報があるので、ご興味のある方はご参照のほどを。
「上六 うえいくネット」の該当ページ

 
 時間の関係もあるので、七坂すべて散策、というわけにはいかなかったが、まず、「愛染坂」を下って、大阪で最初に夏祭りがあると山茶花さんが説明してくれた、「愛染堂勝鬘院」へ。

 天王寺区のサイトに、天王寺七坂の説明ページがある。
天王寺区サイトの該当ページ

 愛染坂の説明文をお借りする。
愛染坂(あいぜんざか)
[2013年4月9日]

その名のとおり、坂の下り口ある愛染堂勝鬘院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(六月三十日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄三年)の建造物で、重要文化財と指定されている。
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。

 サイト内の三枚目の写真の左側(南側)の建物は星光学院。
 山茶花さんと私は、ここから下って行った。

 Wikipedia「天王寺七坂」から、愛染坂の写真を拝借。
Wikipedia「天王寺七坂」

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 空堀商店街の坂から始まり、この天王寺七坂を歩き始めて、私は山茶花さんが力説する、「大阪の地元でも知らない人が多いですが、大阪は坂の街ですよ」に、十分、心と体で納得していた。

 愛染堂勝鬘院を訪ねた。
「愛染堂勝鬘院」のホームページ
 愛染かつらがあった。山茶花さんが「ご夫婦円満のために拝まれたら」と笑っておっしゃったが、今さら、と見ただけであった^^

 哲学の椅子、があった。愛染堂勝鬘院のホームページには、こう説明されている。

哲学の椅子

そもそも、仏教とは、宗教であると同時に、正しい心で生きていくための哲学であるともいわれています。

心を穏やかに保ち、落ち着かせることによって、恨みや憎しみが消えたり、平穏で真っ直ぐな考え方が生まれるのです。

この哲学の椅子に坐り、観察・思索を普段から思考をめぐらせて新たな発明や発見をしてください。

 どうも気が進まず、座らなかった^^

 次は、清水坂。
 天王寺区のサイトから引用。
清水坂(きよみずざか)
[2013年4月9日]

新清水清水院に登る坂道をいう。高台にある新清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側のがけから流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の滝として知られている。
また、この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、増井・逢坂・玉手・安井・土佐(有栖)・金龍・亀井の清水は七名泉と呼ばれている。

 あっ、ということは「スーパー玉出」は、玉出の滝が由来か。
 見た目も含め、てっきりパチンコの玉が出る、をかけているのかと思ったが。
 さて、どちらが正解かは、不勉強で分からない。

 Wikipediaから、清水坂の写真を拝借。

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 「七坂」すべてを歩いていると、真田幸村ゆかりの地をめぐる時間がなくなるので、坂の散策は二つまで。

 歩かなかったが、Wikipedia「上町台地」から源聖寺坂の写真を借用。

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 上町台地についても、引用する。

空堀跡以南の変化において屋敷地・町人地の破却に増して大きかったものは、四天王寺にかけて寺町群が形成されたことである。大坂市中に点在していた寺院のうち浄土真宗以外の寺院が上町台地上に移転され、東成郡小橋村・東高津村・天王寺村・西成郡西高津村領内に、小橋寺町(12ヶ寺)・八丁目東寺町(11ヶ寺)・八丁目中寺町(15ヶ寺)・八丁目寺町(13ヶ寺)・谷町八丁目筋寺町(16ヶ寺)・生玉筋中寺町(24ヶ寺)・生玉中寺町(12ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)・天王寺寺町(14ヶ寺)・下寺町(25ヶ寺)が形成された。

以後今日に至るまで寺院の木々の緑が上町台地を彩っている。歴史のある寺や神社、「天王寺七坂」と呼ばれる台地西端の崖地を降りる坂道、空襲から焼け残った空堀や谷町六丁目付近の長屋の家並みや商店街、上六の繁華街、昭和町・田辺・帝塚山などの戦前の郊外にあたる屋敷町、天王寺公園など、上町台地には緑の少ないと言われている大阪の都心でありながら、風情や緑のあるところが数多く残されている。

 というわけで、空堀から天王寺七坂は、まさに大阪の都心でありながら、緑も多く、風情があったのだよ。

 なにより、山茶花さんの名ガイドで、大阪が坂の街であることを、しっかり歩きながら体感した。
 埋立地の梅田や難波しか知らない大阪の人は、大阪がこんなに坂のある街とは思わないだろう。
 さて、坂めぐりをしながら、山茶花さんと私は、落語『天王寺詣り』や『鷺とり』の舞台、四天王寺へやって来た。

 昼食をとった「惣」で、山茶花さんから大阪市交通局作成のチラシ「幸村が駆け抜けた大阪-真田幸村(信繁)決戦の地マップ-」をいただいていた。

 このチラシは同局のサイトからもダウンロードできる。
大阪市交通局サイトの該当ページ

これが、中央の地図部分。
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 この中の右上の「天王寺エリア」が、今回の「真田の大阪」散策のお目当て。

 まずは、四天王寺に立ち寄る。

 大坂交通局のマップには、こんな説明があった。

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 Wikipedia「四天王寺」から、文章と写真を拝借。
Wikipedia「四天王寺」

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四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
 何と言っても、聖徳太子だからね。
 歴史について、もう少し引用。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

 蘇我氏、物部氏と聞くと、落語『お血脈』を思い浮かべてしまうのだ。

 この地域は、聖徳太子にゆかりの地名などがあって、たとえば、夕陽ケ丘は地名にも駅名にもなっているが、それは、聖徳太子がその場所で夕陽を眺めたとされているから、と名ガイドの山茶花さんにお聞きした。

 また、飛び出し注意の標識まで、聖徳太子^^


 その「てんのうじさん」に入る。
 広い境内。
 さすがに、落語に登場するような覗きカラクリはなかったなぁ。

 日本三大鳥居の一つの大鳥居には、しっかりとチリトリがついていた^^

 Wikipediaから、亀の池の写真を借用。

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 山茶花さんによると、ミドリガメを捨てる人が多いらしい。
 カメだって、大事なペット。しっかり飼って欲しいものだ。

 少し休憩をとって、次は一心寺。

 交通局のマップの説明は、次のように説明されている。

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 抜け穴の井戸の跡を見た。
 う~ん・・・という感じ。

 しかし、一心寺では、その見事な現代風の仁王像に圧倒された。
 Wikipediaから借用する。
Wikipedia「一心寺」
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 なぜ、こんな現代彫刻の仁王なのかということや、「骨仏の寺」と言われる理由などについて、Wikipediaから引用する。
小堀遠州好みの数奇屋「八窓の茶室」や、大坂城の三の丸玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな山門も有名であったが、大阪大空襲ですべて焼失した。戦後伽藍の再建と10年毎の骨仏作りが徐々に進んだが、特に建築家でもある現長老(高口恭行)の作った鉄とコンクリートの斬新な山門(1997年(平成9年)完成。彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像や、日本画家・秋野不矩による天女像がある)や、庫裏・信徒会館である日想殿(1977年(昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つである。

骨仏

盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年(嘉永4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年(明治20年)以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。

太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作りを再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)から2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。

宇野浩二の小説にもしばしば骨仏が描かれている(『思ひ草』など参照)。

 山茶花さんからも、長老が一級建築士であると説明があったなぁ。

 一心寺は、空襲の被害に遭っているんだねぇ。
 そう考えると、空堀周辺の街並は、実に貴重だなぁ。

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 さて、一心寺は、上の交通局のマップで分かるように、茶臼山のすぐ麓。

 しかし、そろそろ足腰に疲れの出てきた幸兵衛は、茶臼山ではなく、幸村終焉の地、安居神社を、今回の散策のトリと選んだのだった。

 よって、茶臼山は、以前に山茶花さんが訪ねて撮った写真をお借りすることにしよう。

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 一心寺から、多くの他の観光客の方にまじって、道をへだてた安居神社へ。

 まず、この神社のことを、Wikipediaから引用。
Wikipedia「安居神社」

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安井神社(やすいじんじゃ)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。

創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。

明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。

大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。

また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。

上方落語の「天神山」の噺の舞台としても登場する。同じく登場する一心寺とは国道25号線を挟んで向かい合わせにある。

 しっかり、落語『天神山』のことも書かれている。
 かつて、小高い場所にある安居神社のあたり一帯を天神山と言っていたのが、落語のお題になったのだ。

 枝雀のこの噺を思い出すねぇ。この日は、狐は見かけなかった^^

 こちらが、幸村戦死跡之碑。

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 歴史に「もし」はタブーとはいえ、夏の陣で、幸村と後藤又兵衛の戦略が一致していたら、大勢には影響はなかったかもしれないが、幸村の死に場所は違っていただろう。


 さてさて、今回のブラ幸兵衛は、幸村終焉の地、安居神社でお開き。
 
 この後、山茶花さんと私は、地下鉄御堂筋線に乗る前に通天閣近くでお茶を飲んだ。
 散策を振り返ったり、落語や幸村のこと、大河のことなどで、ふたたび話に花が咲く。

 NHK大河「真田丸」を見ていると、どうしても「?」と思うことが多いのだが、山茶花さん曰く、「史実を元にしたフィクション」とNHKも言っているらしいので、目くじらを立てて見るのは大人気ないかな・・・・・・。

 でも・・・私の場合は、気になるのですよ^^

 これまた山茶花さんによると、あの番組は時代考証の担当が大筋をつくって、三谷幸喜はそれに科白などをつけているだけのようで、もし史実と違っているなら、それは三谷の責任ではないのでしょう、とのこと。

 そうか。
 時代考証の人が、たとえば、大野治長を悪者にしたくないのか^^
 私は、秀頼は大野と茶々の子だと思っている。


 とにかく、大いに有意義な大阪めぐりだった。

 拙ブログを介したご縁は、これまでにも「居残り会」のお仲間などにつながっているのだが、範囲は関東地区どまりだった。

 まさか、ブログのご縁で上方にお友達ができ、一緒に大阪を散策できるとは思わなかったなぁ。

 山茶花さん、本当にありがとうございます。


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by kogotokoubei | 2016-11-15 22:08 | 小さな旅ー2016坂の街大阪の旅 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛