噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

2015年 07月 09日 ( 1 )

 さて、この噺の二回目。
 志ん生の音源後半の③④⑤は、『円朝ざんまい』の題で言えば「神田の勇亥太郎の話」だ。
 NHKの15分づつの連続ラジオのため、毎回、文治の説明、前回の内容の要約が入るので、通しならば30~35分ほどになるかと思う。

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森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)

 『円朝ざんまい』から引用。

   其頃婀娜(あだ)は深川、勇みは神田と端唄の文句にも唄ひ
   まして、婀娜は深川と云ふのは、其頃深川で繁昌で芸妓が
   沢山居りました。夏向座敷へ出ます姿(なり)は絽でも縮緬
   でも襦袢なしの素肌へ着まして、汗でビショ濡になりますと、
   直ぐに脱ぎ、一度切りで後は着ないのが見えでございました
   ・・・・・・
 
 すけすけルック(あ、古いか)というわけね、よほど体の線に自信がないとできないこと。深川芸者は白粉気なしで、潰しの島田に新藁か丈長を掛け、笄(こうがい)は昔風に幅八分長さ一尺もあり、狭い路地は頭を横にしなければ通れないくらい。
 一方、神田の勇みの男たちは皆腕力がある。ワン力といっても犬の力ではない。

    腕を突張り己(おれ)は強いと云ふ者が、開けない野蛮の
   世の中には流行ましたもので、神田の十二人の勇(いさお)は
   皆十二支を其の名前に付けて十二支の刺青(ほりもの)をいた
   しました。

 その中でも一番強いのが神田豊島町に住む左官の亥太郎。馬喰町四丁目に吉川という居酒屋があって、そこで「名前にハバをきかせて食い逃げしよう」としたところから悶着となり、また業平文治が柔術で取り抑え、「覚えていろ」と亥太郎は浅草見附へ駆け込む。

 う~ん、森まゆみさんにしては、ちょっと亥太郎が「食い逃げ」という部分、ひっかかるなぁ。
 原作にあるが、亥太郎は十四日晦日に左官仕事の手間賃が入ると、飲み屋のつけをきちんと払っている固い男。あくまで、つけ、なのである。ここは訂正させていただく。

 それにしても、深川芸者の‘すけすけ’姿、見たかった(^^)

 「婀娜」なんて言葉、死語だなぁ。「新明解国語辞典」では、「婀」も「娜」も美しい意で、〔女性が〕性的魅力をからだ全体から発散する様子、と説明している。この魅力、‘すけすけ’だからいいのであって、今の時代のように、なんでもかんでもあけっぴろげでは、とても「婀娜」とは言えない。だから、こういう言葉自体が滅びてしまう、ということだろう。

 「婀娜」に対する「勇」は、男(の色)気たっぷり、ということだ。
 そんな勇の代表格、亥太郎と文治の一戦、原作から紹介。騒ぎを知った文治は、子分である番場の森松に、亥太郎の飲み代を建て替えさせようとする。しかし、亥太郎は後で払うつもりだし、勇の江戸っ子、受け取るはずもない。そして、文治が七人力なら、亥太郎は二十人力という腕力の持ち主。
青空文庫『業平文治漂流奇談』


「おや生意気な事を云うな、銭がねえってから己が払ってやろうってんだ、何(なん)でえ」
「なに此の野郎め」
 と力に任せてポーンと森松の横面(よこっつら)を打(ぶ)ちましたから、森松はひょろ/\石垣の所へ転がりました。文治は見兼てツカ/\とそれへ参り、
「これ/\何(なん)だ、何も此の者を打擲する事はない、これは己の子分だ、少しの云い損いがあったればとて、手前が喧嘩をしている処へ仲人に入った者を無闇に打擲すると云うのは無法ではないか、今日(こんにち)の処は許すが以後は気を注(つ)けろ、さっさと行(ゆ)け」
「なに手前(てめえ)なんだ、これ己の名前目(なめえもく)を聞いて肝っ玉を天上へ飛ばせるな、神田豊島町の左官の亥太郎だ、己を知らねえかい」
「そんな奴は知らん、己は業平橋の文治郎を知らんか」
「なにそんな奴は知らねえ、此の野郎」
 と文治郎の胸ぐらを取って浅草見附の処へとつゝゝゝゝと押して行(ゆ)きました。廿人力ある奴が力を入れて押したから流石(さすが)の文治も踉(よろ)めきながら石垣の処へ押付けられましたが、そこは文治郎柔術(やわら)を心得て居りますから少しも騒がず、懐中から取出した銀の延煙管(のべぎせる)を以て胸ぐらを取っている亥太郎の手の上へ当てゝ、ヤッと声を掛けて逆に捻(ねじ)ると、力を入れる程腕の折れるようになるのが柔術(じゅうじゅつ)の妙でありますから、亥太郎は脆(もろ)くもばらりっと手を放すや否や、何(ど)ういう機(はずみ)か其処(そこ)へドーンと投げられました。力があるだけに尚(な)お強く投げられましたが、柔術で投げられたから起ることが出来ません。流石の亥太郎も息が止ったと見えましたが、暫(しばら)くすると、
「此の野郎、己を投げやアがったな、覚えていろ」
 と云いながら立上ってばら/\/\と駈出しましたから、彼奴(あいつ)逃げるかと思って見て居りますと、亥太郎は浅草見附へ駈込みました。

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古今亭志ん生_業平文治漂流奇談

 志ん生の音源では、亥太郎が行った居酒屋を浅草見附の吉田、としているが、それはその後の展開につながりやすいからかもしれない。あるいは、実際に行きつけの店でもあったのかな(^^)

 さぁ、亥太郎は、浅草見附で何をしようとしたのか。『円朝ざんまい』では原作を引用して次のように書いている。

    只今見附はございませんが、其頃は立派なもので、見張所には幕を
   張り、鉄砲が十挺、槍が十本ぐらゐ立て並べてありまして、此処は
   市ヶ谷長円寺谷の中根守様御出役になり・・・・・・

 そこへ亥太郎がとびこんで、いきなり鉄砲を持ち出す。これを無鉄砲といいます。見附に詰め合わせた役人が追いかけてきて、天下の飾り道具を持ち出した廉(かど)で入牢申しつけられる。

 下記の写真は、PORTAL TOKYO「東京ガイド」から借用したが、『円朝ざんまい』にも、この浅草見附跡に建つ石碑の写真が掲載されている。
PORTAL TOKYO「東京ガイド」サイトの該当ページ

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 明暦の大火では、ここが閉ざされて多くの死者を出すことになったんだねぇ。

 よくお世話になる「落語の舞台を歩く」のこの噺のページからは、江戸時代の浅草見附の様子を拝借。
「落語の舞台を歩く」の該当ページ

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 志ん生の音源③は、亥太郎が浅草見附から奪った鉄砲を文治に向けた、という場面で終わっていて、④の冒頭で地の語りで亥太郎が入牢したと説明している。

 文治は、亥太郎が入牢した二日後、病身の父親がいると聞く亥太郎の家に見舞金十両を持って訪ねる。
 父の長蔵は、日々食べるものにも困り、首でもくくろうかと思っていたと話す。文治、なんとか人助けができた。
 この場面、長蔵が耳が遠いので、森松、文治と長蔵との会話が可笑しく、この噺では少ない笑いが起こる場面。
 志ん生の音源④は、文治が長蔵に十両を渡すまで。
 では、最終の⑤は、どうなるのか。

 亥太郎が入牢したのが師走二十六日。鉄砲を持ち出しただけの罪なので、二か月の牢暮らしで二月二十六日には解放されるのだが、その際、「百叩き」の刑を受けなければならない。
 しかし、勇の亥太郎、二十人力の亥太郎である。彼が、そんな罰はものともしない様子以降を原作からご紹介。
翌年の二月二十六日に出牢致しましたが、別に科(とが)はないから牢舎(ろうや)の表門で一百の重打(おもたゝ)きと云うので、莚(むしろ)を敷き、腹這(はらんばい)に寝かして箒尻(ほうきじり)で脊中を打(ぶ)つのです。其の打人(うちて)は打(たゝ)き役小市(こいち)と云う人が上手です。此の人の打(う)つのは痛くって身体に障らんように打ちますが、刺青(ほりもの)のある者は何(ど)うしても強そうに見えるから苛(ひど)く打ちまして、弱そうな者は柔かに打(ぶ)ちます。亥太郎は少しも恐れないで「早く打(ぶ)ってお呉(く)んねえ」などと云い、脊中に猪の刺青が刺(ほ)ってあり、悪々(にく/\)しいからぴしーり/\と打(う)ちます。大概(たいがい)の者なら一百打つとうーんと云って死んで仕舞うから五十打つと気付けを飲まして、又後(あと)を五十打つが、亥太郎は少しも痛がらんから、
獄吏「気付けを戴くか」
「気付なんざア入らねえ、さっさとやって仕舞ってくんねえ」
 と云うから尚お強く打つが、少しも疲(よわ)りませんで、打って仕舞うとずーっと立って衣服(きもの)をぽん/\とはたいて、
「小市さん誠にお蔭様で肩の凝(こり)が癒(なお)りました」
 と云ったが、脊中の刺青が腫(は)れまして猪(しゝ)が滅茶(めっちゃ)になりましたから、直ぐ帰りに刺青師(ほりものし)へ寄って熊に刺(ほり)かえて貰い、これから猪(い)の熊(くま)の亥太郎と云われました。

 百叩きの後「お陰様で肩の凝りが治りました」とは、なんともすごい勇の亥太郎だ。
 胴体は猪、頭は熊なんてぇ刺青も、凄いねぇ。

 志ん生は、牢の近くに酒屋があって、百叩きに遭った囚人が出てくると、焼酎を背中にかけてやった、と説明する。
  
 さて、牢を出た亥太郎、次の行動を原作から引用。
牢から出ると、喧嘩の相手の文治郎のどてっ腹を抉(えぐ)らなければならんと云うので胴金(どうがね)造りの脇差を差して直ぐに往(ゆ)こうと思ったが、そんな乱暴の男でも親の事が気に掛ると見えまして、家(うち)へ帰って見ると、親父はすや/\と能く寝て居りますから、
「爺(ちゃん)能く寝ているな、勘忍してくんねえ、己(おら)ア復(ま)た牢へ往(ゆ)くかも知れねえ、業平橋の文治を殺して亥太郎の面(つら)を磨くから、己(おれ)が牢へ往って不自由だろうが勘忍して呉んねえ」
 と云われ長藏は目を覚し、
「手前(てめえ)は牢から出て来ても家(うち)に一日も落付いていず、やれ相談だの、やれ何(なん)だのと云ってひょこ/\出歩きやアがって、何(なん)だ権幕(けんまく)を変えて脇差なんどを提(さ)げて、また喧嘩に往(ゆ)くのだろうが、喧嘩に往くと今度は助かりゃアしねえぞ、喧嘩に往くのなら己(おら)ア見るのが辛(つれ)えから、手前(てめえ)今度出たら再び生きて帰(けえ)るな」
「爺(ちゃん)、己(おら)ア了簡があって業平橋の文治郎のどてっ腹を抉って腹癒(はらい)せをして来るのだ」
「何だ、腹が痛(いて)えと」
「そうじゃアねえ、業平橋の文治郎を打(たゝ)っ斬って仕舞うのだ」
「此の野郎とんでもねえ奴だ、業平橋の文治郎様の所へは己(おれ)がやらねえ、死んでもやらねえ、業平文治郎さまと云うのは見附前(めえ)の喧嘩の相手だろう、其の方(かた)を斬りに往(ゆ)くんなら己を殺して往け」
「なんだって文治郎を殺すのにお前(めえ)を殺して往くのだ」
「何もあるものか、手前(てめえ)は知るめえが、去年の暮の廿六日に手前(てめえ)が牢へ往って其の留守に、忘れもしねえ廿八日、業平橋の文治郎様が来て金を十両見舞に持って来てくれた、手前(てめえ)が牢へ往って己が煩っていて気の毒だ、勘忍してくれと云って十両の金をくれた、其の金があったればこそ己が今まで斯うやって露命を繋(つな)いで来た、其の大恩ある文治郎様に刃物を向けて済もうと思うか、さア往(ゆ)くなら己の首を斬って往け、殺して往け、恩を仇(あだ)で返(けえ)すのは済まねえから殺して往け、さア殺せ」
「待ちねえ爺(ちゃん)、何か全く文治郎さんがお前(めえ)の所へ金を持って来てくれたに違(ちげ)えねえか、爺」
「暮になって何(ど)うも仕様のねえ所へ十両の金をくれて、それで己が今まで食っていたのだよ」
「そうとは知らずにどてっ腹をえぐろうと思っていた」

 (中 略)

「直ぐに詫に往くよ」
「嘘をつけ、そんなことを云ってまた喧嘩に往くんだろう、己やらねえ」
「大丈夫だよ、案じねえように脇差をお前(めえ)に預けるから」
「何処(どこ)でこんな物を買って来(き)やがった、詫に往かなければ己を殺せ」
「何か土産を持って往きてえが何がいゝだろう、本所は酒がよくねえから鎌倉河岸(かまくらがし)の豐島屋(としまや)で酒を半駄(かたうま)買って往こう」
「なんだ、年増と酒を飲みに往く、そんなことはしねえでもいゝ」
「そうじゃアねえ、済まねえから詫に行(ゆ)くのだ、安心して寝ていねえ」
「己も往きてえが腰が立たねえからとそう云ってくれ」
「それじゃア往って来るよ」
 と正直の男だから鎌倉川岸(がし)の豐島屋へ往って銘酒を一樽(たる)買って、力があるから人に持たせずに自分で担(かつ)いで本所業平橋の文治の宅へ参り、玄関口から、
「御免なせえ/\」
「おゝ、こりゃアお出(いで)なせえ」
「いやなんとか云ったっけ、森松さんか、誠に面目ねえ」
「己の所の旦那が阿兄(あにき)のことを彼(あ)ア云う気性だから大丈夫だと安心していたがねえ、まア出牢で目出度(めでてえ)や」
「去年の暮お前(めえ)を手込(てごめ)にして済まなかった、面目次第もねえ、勘忍してくんねえ、己(おら)ア知らねえで旦那のどてっ腹をえぐりに来(き)ようと思ったら、己の所(とこ)の爺(とっ)さんの所(ところ)へ旦那が見舞(みめえ)をくれたと云うことを聞いて面目次第もねえ、旦那にそう云ってくんねえ、土産を持って来るのだが、本所には碌(ろく)な酒はあるめえと思って」
「酷(ひど)い事を云うぜ」
「豐島屋の酒を持って来た、旦那に一杯(ぺい)上げて盃を貰(もれ)えてえってそう云ってくんねえ」
「少し待っていねえ、お母様(ふくろさん)に喧嘩の事なんぞを云うと善(よ)くねえから、旦那に内証(ないしょ)で話して来るから」
 と森松は奥へ往きますと、文治は母親に孝行を尽して居りますから、森松はそっと、
「旦那え/\」
「何(なん)だ」
「見附前(めえ)の鉄砲が来ましたよ」
「亥太郎が来たか」

 (中 略)

「私(わし)も衆人(しゅうじん)と附合うが、お前のような強い人に出会ったことはない、どうも強いねえ」
「私(わっち)も旦那のような強い人に出会ったことはねえ、初めてだ」
「見張所の鉄砲を持ち出したのはえらい」
「どうも面目もございません、旦那は喧嘩の相手を憎いとも思わず、私(わっち)の爺(ちゃん)の所へ金を十両持って来てくれたそうで、随分牢へは差入物をよこす人もあるが、爺の所へ見舞(みめえ)に来て下すったはお前(めえ)さんばかりで、私(わっち)のような乱暴な人間でも恩を忘れたことはねえから、旦那え、これから出入(でいり)の左官と思って末長く目をかけておくんなせえ、お前(めえ)さんに金を貰ったから有難いのじゃアねえ、お前(めえ)さんの志に感じたからどうか末長く願います」
 と云うので、文治郎が盃を取って亥太郎に献(さ)して、主(しゅう)家来同様の固めの盃を致しましたが、人は助けておきたいもので、後に此の亥太郎が文治の見替りに立ってお奉行と論をすると云うお話でありますが、次回(つぎ)にたっぷり演(の)べましょう。

 ここで、原作の七話が終了。

 志ん生の音源では、亥太郎が父の長蔵に諌められて、酒を買って業平の文治の家に向う、というところまでで、その後、文治が亥太郎のお蔭で命を助けられる、とサゲている。
 だから、文治の家の場面は割愛。

 ちなみに、亥太郎が酒を‘半駄(かたうま)’買う、と言っているが、片駄、片馬とも書き、酒の取引用語で、四斗樽一本のこと。酒が四斗樽詰めで取引されていたころ、四斗樽二本を一駄という単位で呼んだ。四斗樽二本を振り分けにして馬の背に積んだのが由来。そこから片馬は四斗樽一本ということになる。
 それにしても、たいそうな土産だ。
 亥太郎がその酒を買った鎌倉河岸の豊島屋について、Wikipedia「豊島屋本店」から引用。
Wikipedia「豊島屋本店」
創業
慶長元年(1596年)、常陸国出身の初代豊島屋十右衛門が鎌倉河岸神田橋辺、現在の内神田二丁目2-1で酒屋を創業した。

鎌倉河岸は江戸城普請のための荷揚場として建造され、石材が鎌倉を経由して運び込まれた、或いは普請の職人に鎌倉出身者が多かったことから名付けられた。豊島屋はこうした普請に関わる職人などを対象に下り酒を安価で提供した。

 ひな祭りに飲む白酒は豊島屋が発祥。主人豊島十右衛門の夢枕に紙雛が現れて、白酒の製法を伝授された、という由来がある。「山なれば富士、白酒ならば豊島屋」と謳われた。
 長谷川雪旦の「江戸名所図会」にも「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」がある。
 「落語の舞台を歩く」に、この豊島屋の絵があるので、ご覧のほどを。

 なんと、この豊島屋は、今もある。詳しくは豊島屋のサイトでご確認を。
豊島屋のサイト

 『円朝ざんまい』では、森まゆみさんと相棒のぽん太さんが噺の舞台を歩いて、豊島屋の酒ではないが、旨い酒と肴を楽しみ、次のようにこの章を締めている。

 私とぽん太は半日、神田、浅草、本所を歩き回り、結局、三ツ目通りと春日通りの角にある大好きなW亭にふたたび沈没した。
「あわびと三ツ葉のおひたし、ほや、エリンギのにんにく焼き・・・・・・」
「ネギ玉、塩らっきょう、いわしのたたき・・・・・・」
 と三つずつ好きなつまみをたのみ、ぽん太いわく、
「お酒は『美少年』がいいですかね、文治にちなんで」
 飲むほどに、
「ちょっとお金を恵みすぎですよう」
 酔うほどに、
「あんな簡単に人をぶったり殺しちゃいけない」
 と気焔をあげて寒い夜は更けていった。
 芥川龍之介は「本所両国」(『大東京繁盛記』下町篇)で次のように書いている。
「明治二、三十年代の本所は今日のような工業地帯ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多数住んでいた町である」
 浪人文治もそういう意味で、幕藩体制の落伍者であったかもしれない。しかしそういう暇も金もある義の人こそ、社会がまともに回っていくための潤滑油であった。
 芥川の叔父は神道無念流の剣客で、戊辰の年には彰義隊に加わる志を持っていた。維新後は大小を差して本所の堀で釣竿を垂れ、さいごは猫背の測量技師となり、大正の末年に食道癌で死んだという。業平文治はいくつまで、いつごろまで生きたのだろうか。
  -知らず、生れ死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る(「方丈記」)

 あらっ?
 本書で「きわめつき、すっきりしたいい男」と副題をつけたほどの文治なのに、アルコールが入ってからのお二人が、なんとも文治にきついこと。
 たしかに、紹介した「杉の湯の場」で浮草のお浪を七人力で二度ぶったり、紹介しなかったが、おあさという女は、あばら骨を折って殺してしまうのだよ、文治は。
 
 だから、高座で文治を描く際、その剛腕ぶりを強調すると、決して‘いい男’と伝わらないかもしれない。これは、演者の力が試されるところだなぁ。

 森さんが、芥川龍之介の文章からかつての本所の姿を紹介したのは、剛腕な文治という男の存在意義を、当時の環境を踏まえて見出したかったからなのだと思う。

 志ん生も演じた「亥太郎」の話については、これにてお開き。

 志ん生が演じなかった他の話も、少しは最終回で紹介予定。

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by kogotokoubei | 2015-07-09 21:22 | 落語のネタ | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛