噺の話

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2015年 06月 21日 ( 1 )


 雨で恒例のテニスは休み。
 今ほど、録画していた昨夜のBSジャパンの寅さん、第23作、昭和54(1979)年夏公開の「翔んでる寅次郎」を観たところだ。マドンナは桃井かおり。
 昭和26年生まれの桃井かおりは、当時、二十八歳。前年制作された二つ前の作品「寅次郎わが道をゆく」に武田鉄也が登場したが、二人は昭和52年に松竹の「幸せの黄色いハンカチ」に出演した仲間(?)なので、ご褒美的な抜擢の意味もあるだろうが、十分にマドンナの資格はあったと思う。
 映画「卒業」のように、邦男(布施明)との結婚披露宴(会場はホテル・ニューオータニでっせ)からひとみ(桃井かおり)が逃亡し、ウェディングドレス姿のままで柴又のとらやに登場するのは、やや奇抜ではあるが(^^)

 この作品は、どちらかと言うと、48作のうちでは、評価は低いほうだろう。しかし、私はこの作品への思い入れが強い。
 まず、私の故郷である北海道がロケ地になっていること。それも、満男の作文をきっかけにとらやを飛び出した寅さんが向かったのは、なんと、虎杖浜。私の故郷から遠くない。虎杖浜神社での啖呵バイのあと、支笏湖畔で一人湖を眺めている寅さんに声をかけるのが、マリッジブルーで一人旅中のひとみだ。
 もう一つ、私個人としてこの作品が印象深いのが、車。ひとみを旅館の若旦那役の湯原昌幸がナンパする時の車が、私が独身時代に乗っていた、いすゞの117クーペなのだ。私の場合は、モデルも違うし中古でみすぼらしかったのだが、あの車は好きだったなぁ。
 寅さんとさくらが仲人を務めた川千屋でのひとみと邦男の結婚式、ひとみのスピーチで、私は泣けてしまった。

 さて、この作品のことは、ここまで。

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小林信彦著『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)

 この本から、最終の第三回目。
 
 以前紹介したように、テレビ版「男はつらいよ」の放送が終了し、寅さんがハブに噛まれて死んだことへの反響が大きかったこともあるが、大船のスタジオに“とらや”のセットが残っていたため、松竹では映画化を計画する。

 しかし、メディアの反応は決して良くはなかった。

 さて、「男はつらいよ」のクランク・インの初日。取材したのは日刊スポーツの記者一人と伝えられるが、渥美清は次のように語った。
 -おかげさんで、また寅をやれることになりました。こんな役は私の生涯で二度とないですから。
  <渥美は元気だったが、山田洋次監督の表情は厳しかった>
 
と記者は書き残している。
  <・・・・・・四面楚歌(の中で)のスタートだったことはハッキリ言っておきたい。>
 山田監督はいつも<厳し>い表情の人のように思われるが、この時は一段と複雑な想いだったにちがいない。
 1971年(というのは二年後であるが)に、品田雄吉の質問に答えて、山田洋次は次のように語っている。
  <脚本(ほん)というのは、テレビでこういうのをやる場合は、小林(俊一)さんなんかと一緒に出て、ワイワイいいながらつくるのが通常ですよね。そういうものがなければ、テレビの仕事というのは楽しくならないし、それが取り柄なんじゃないですか。(中略)しょせん一時間のものを二日で撮り上げるみたいなことで、完璧なものができるわけがない。>
映画化について-
  <渥美ちゃんで一本という話は前々から会社でもありまして、この辺でそれをやらないかという話が来て、いろいろ考えたけれども、テレビのラストで(寅が)死んだときの抗議の殺到のしかたを見ると、かなりいい線いっているのではないかと。
 (中 略)
最初はずいぶん反対されたし、題名についてもいろいろ反対されましたけれども、ばくはいけるんじゃないかと。特に深夜興行が松竹はだめでしたから、この作品なら、テレビの観客も、場末のあんちゃんたち、あるいはレストランのコックさんとか、バーのバーテンが大きなファンだったから、土曜の夜中なんかにドッとお客さんが来てくれることをかなり期待して、わりに強引に押しきってつくったんです。>(キネマ旬報社「世界の映画作家14 加藤泰・山田洋次」)

 このように、主演の渥美清の嬉しそうな言葉とは対照的に、山田洋次が、決して周囲に歓迎される中で船出をしたわけではなかったことがうかがえる。
 また、実に具体的に客層を狙っていたのが、興味深い。

 さて、映画化の結果だが、以前紹介したように、四作まで作られたが、観客動員は、決して良くなかった。三作目と四作目は、山田洋次は監督ではなかった。山田は、“良い悪いではなく、寅さんのにおいがしない”という思いがあったため、完結篇を作るつもりで、第5作「望郷篇」のメガホンを取る。

 そして、想定外のヒット、そしてシリーズの継続となったのだが、小林信彦は、渥美清の他の作品との比較を含め、ヒットの要因を次のように書いている。

 久しぶりにビデオで「男はつらいよ」を観て、こんなに上出来の喜劇だったのか、と興奮した。なにしろ映画館で観たのは1969年、約三十年前である。
 三十年前の映画でありながら、少しもずれていない。寅次郎が<BG>という言葉を口にする以外、ずれは感じられない。(注:BGは今のOLの意味。)
 (中 略)
 渥美清が主演した他の喜劇がなぜ失敗したかというこもわかった。プログラム・ピクチャアのルーティーンである<主人公が善人でなぜか女性にもてる>というパターンが、彼の場合、いかにも無理なのである。あの顔がアップになった時、ある種の違和感が生じることはすでに述べた。
「男はつらいよ」はこの三点を逆転させている。
  1 寅は中折れ帽子、チェックの上着とネクタイ、白黒のコンビネー
    ションの靴で江戸川に面した土手に登場する。この<扮装>は、
    例えばチャップリンの放浪者の衣裳のように、渥美清の素顔
    (=本質)をカヴァーしてしまう。
    アップになったとしても、それは人嫌いのコメディアンの顔では
    なく、奇妙なテキ屋の顔として認識される。
  2 彼は決して<善人>ではない。ハナ肇が演じてきたような
    (はた迷惑な善人)と違い、職業柄か、どこか悪そうな感じも
    ある。
  3 女性にはモテない。
 この三つは、それまでの渥美喜劇を百八十度回転させたもので、テレビに続く役柄とはいえ、山田・渥美コンビの独創である。

 さすがに、ネクタイはその後締めなくなったが、渥美清の“本質”をカヴァーする衣裳は定番となった。しかし、<善人>ではなく、どこか悪そうな感じは、次第に薄められていった。
 完結篇のつもりの第五作<望郷篇>(マドンナは長山藍子)のヒットに続き、昭和46(1971)年には第六作<純情篇>(マドンナは若尾文子)、第七作<奮闘篇>(マドンアは榊原るみ)、第八作<寅次郎恋歌>(マドンナは池内淳子)が公開された。
 第七作までを観た時点で、小林信彦が雑誌に書いた文章が紹介されている。
 これが、私にとっては、「あ、そうだ!」と膝を打つ内容なのだ。

 主として松竹の喜劇に触れているが、始まったばかりの「男はつらいよ」について、次の二点を指摘している。
 <1>は、葛飾柴又を舞台に選んだことの<巧み>さで、ぼくのような東京の下町生れの人間でも<葛飾>といわれると、はるか遠い、幻想の世界のように考える。以下引用-。

  <柴又は、ここにおいて殆ど象徴的なものと化する。東京の中の
  田舎-しかも、ひょっとしたら粋というような感情の動きが残っている
  かも知れない、と錯覚させる土地である。いや、それどころか、ブルドー
  ザーと大気汚染によって、日本人の大半が喪失してしまった、あの
  <ふるさと>というものが残っていそうな幻想を抱かせる-ここに、
  「男はつらいよ」が大衆に迎えられた秘密があった。>
 <2>は、これがやくざ映画のパロディであるのを指摘して、こう結んでいる。
  <そういうぼくが-「男はつらいよ」を観に行くのは、架空のふるさとに
  眩惑されたためではなく、嘘と知りながら、そこでくりひろげられる
  鮮やかな芸に身を浸らせたいためである。そこに、ぼくを含めた、
  時代の不幸があると思われるが、ここまでくると、すでに喜劇の
  枠をふみこえてしまうようだ。

 第六作が出たあたりで、すでに、プロットがマンネリズムだという批評が出ていたと思う。これも当然の話で、ぼくは第八作を観た時に、これはもう、無限のくりかえしになるな、と思った。渥美清も新鮮さを失ってくる。
<時代の不幸>と、ぼくが書いているのは、三十代終りごろのぼくにとって、日本の喜劇がこうも保守的になっては困る、ということであった。保守的な「男はつらいよ」の反対側に鋭い喜劇(極端な例は「幕末太陽伝」だが、そういう名作はめったに出ない)があって、初めてバランスがとれる。しかし、そういう喜劇がないから、高度成長に疲れた大衆は「男はつらいよ」に吸い込まれてゆく。それは、不幸なことではないか、と言っているのだ。

<柴又><架空のふるさと>という指摘は、実にこの映画のファンの心理の背景を巧みに捉えているように思う。

 「幕末太陽伝」は昭和32年の作品で、小林が言うように、めったに出ない名作。
 いぜん記事を書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年1月9日のブログ

 たしかに、「男はつらいよ」は、日本人向け究極の保守的・マンネリズム映画かも知れない。
 とは言うものの、作品によっては特筆すべき場面があることや、その作品の舞台裏などについて、小林は興味深いことをいくつか書いている。
 私も好きで、マイベスト十作をつくるなら、確実に入る第32作「口笛を吹く寅次郎」について。
 1983年(昭和58年)晩秋、岡山県備中高梁にロケしていた。作品は三十二作目の「口笛を吹く寅次郎」。渥美清が最後のコメディアンぶりを見せたことで知られる。
 寺でのロケが終っての帰り道、和尚の衣裳のままの渥美は突然、車を止めさせた。そのまま、法雲堂という仏具店に入ってゆく。店の人は渥美清と関敬六を見て、びっくりしたにちがいない。渥美はいきなり位牌を作りたいと言った。
 以下、関敬六の文章。
<「水子の供養かなにかですか?」
「そうじゃなくて、自分のを。それと、こいつのも作りたいんだ」
 渥美やんが俺のほうを振り返って指を差したので、俺はあわてて「要らない要らない」と手を振った。ところが、渥美やんは、
「おまえ、『俺たちはどっちが早く死ぬか分からないよ』って、いつもそう言ってるじゃないか。だから、今のうちに作っておこう。それにこういうのは験(げん)のもので、生きてるうちに作っとくと、逆に長生きするって言うぞ」
 と例のごとく渥美やんに説得される形になった。俺はずいぶん妙なことをするなと思ったのだが、渥美やんが、
「俺が作ってやる。おまえが先に死んだら、俺がこれを作っといてやったんだっていう証拠になるからな」
 などと言うので、結局、押し切られてしまった。
 位牌はその場ではなく、四~五日後にでき上がったのだが、届いたふたつの位牌には「田所康雄之霊」「関敬六之霊」と」表書きされていた。
 それぞれの位牌の裏には「昭和五十八年十一月二日 岡山県総社市 関敬六と之を作る」「朋友 渥美清と之を作る」と刻まれていた。
 その時は気づかなかったのだが、渥美やんはなぜ、自分の位牌だけに本名を記したのだろうか。俺は関谷敬二(本名)ではなく、なぜ、関敬六だったのか・・・・・・。>

 
 関敬六の文章は、『さらば友よ』(ザ・マサダ出版)からの引用。

 あの作品は、竹下景子がマドンナで、松村達雄が扮する住職の代わりに法事を務める寅さんの演技は絶品だった。納所(なっしょ)なんていう死語に近い言葉も出てくる。
 竹下恵子のマドンナ役は、個人的にベスト3に入る。この作品は、実に楽しくもあるし、せつなくもある、傑作だと思う。

 ロケの途中で、渥美清が、関敬六を誘ってまで自分の位牌を作ったのには、もちろん、そうさせる背景がある。この作品を制作する前年のことだ。

 重大な変化は1982年(昭和57年)にきた。
 この年の八月に封切られた第二十九作「寅次郎あじさいの恋」について、山田監督は、
「大きなターニング・ポイントです」
 と語っている。
 渥美清、五十四歳。肝臓に異変が生じていたとのことである。
<「本格的に病院に通いだしたのに気がついているんですよ。どの辺からとははっきり言えないけれども、私も彼が治療を開始しているのは知っていました」
 「第二十九作はつらかった。渥美さんは元気がなくって、芝居がはずまないんです。まいったな、と思った。二十九作がどこかに暗い話になっているのは、渥美さんの体調と関係あるかもしれませんよ。確実に、このころから病気が始まってるんです」>
 この件はNHKのドキュメンタリー番組(1999年2月)でも、山田洋次自身によって語られていた。「男はつらいよ」は二十六年間の真ん中で変貌せざるを得なかった、と。

 第二十九作「あじさいの恋」は、マドンナが、かがり役のいしだあゆみ。
 ラスト近くの重要な場面は、ちょうど今のような季節、鎌倉のあじさい寺が舞台。
 かがりから呼び出された寅は、一人では出かけにくく、満男を連れて行ったのだったなぁ。
 たしかに、あの作品は全体に暗いトーンがあったと思うが、その背景には、こんな事情があったのだ。

 それから二作品を挟んで「口笛を吹く寅次郎」のロケにおいて、渥美清は「まだ、できる!」と自信を取り戻したかもしれない。しかし、すぐに「いつどうなるかわからない・・・・・・」という思いが去来したのではなかろうか。

 そういった心情が、ロケからの帰り道、「田所康雄」の位牌を作らせることになったような気がする。

 この作品あたりから、田所康雄は、車寅次郎の渥美清だけは、なんとか頑張ろう、と心を決めたように思う。
 昭和58(1983)年の第三十二作のあとに、渥美清が「男はつらいよ」以外の映画に名を連ねたのは、次の四作品のみ。
 「キネマの天地」(昭和61年、喜八役)、「二十四の瞳」(昭和62年、ナレーター)、「ダウンタウン・ヒーローズ」(昭和63年、春之助役)、「学校」(平成5年、八百屋のオヤジ役)、だけである。 ちなみに、テレビはNHKの「花へんろ」のナレーターのみ。

 位牌が田所康雄と、“関谷敬二”ではなく、関敬六であったのが、関敬六という役者は辞めても、関谷敬二という男は長生きしてくれ、という思いが込められていたのかどうかは、今となっては、誰も分からない。

 しかし、大事なことは、田所康雄という一人の男、そして渥美清という役者は亡くなったが、車寅次郎は、いまだに元気に生きた姿を見せて、我々を楽しませてくれているということである。

 このシリーズ、これにてお開きとします。
 長々のお付き合い、誠にありがとうございます。
 
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by kogotokoubei | 2015-06-21 11:07 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛