噺の話

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2015年 06月 01日 ( 1 )


 錦織が、全仏オープンで、ベスト8に入った。サンスポの記事を一部ご紹介。
サンスポの該当記事
錦織、佐藤次郎以来の日本男子82年ぶり8強!/全仏テニス
 テニス・全仏オープン第8日(31日、パリ)男子単4回戦などが行われ、第5シードで世界ランキング5位の錦織圭(25)=日清食品=は同74位のテイムラズ・ガバシビリ(30)=ロシア=を6-3、6-4、6-2で下し、日本男子では1933年にベスト4入りした佐藤次郎以来82年ぶりの全仏8強入り。四大大会で自身4度目、全仏では初の準々決勝進出を果たした。

 錦織の活躍で、その昔、今のように恵まれた環境ではない中で世界を相手に戦っていた往年の名選手の名がメディアを賑わすのが、嬉しい。

 昨年、全米オープンの際にも、この副次的効果について書いた。
2014年9月9日のブログ

 重複する部分もあるが、佐藤次郎という選手のことを、あらためて書きたい。
 その昔のテニスプレーヤーの多くは、最初は軟式テニスから始め、その後に硬式に転向している。佐藤次郎もその一人。
 私は、学生時代に軟式テニス部に所属し、社会人になってから硬式を始めているので、かつて活躍された軟式上がりのテニスプレーヤーのことが話題になるのは、結構、嬉しいのである。

 昨年の記事で引用したNHK NEWS WEBの9月4日の記事、すでにリンクが切れているが、自分のブログから再度引用する。
81年前4強 佐藤選手地元は
09月04日 18時42分
 テニスの全米オープンでベストフォーに進出した錦織圭選手より81年も前にテニスの4大大会でベストフォーに進んだ、群馬県渋川市出身の佐藤次郎さんの母校の高校では、佐藤さんが使っていたラケットが残され、後輩たちが先輩の偉業を改めて感じるとともに、錦織選手に声援を送りました。
 佐藤次郎さんはいまの群馬県渋川市出身で、旧制の渋川中学校、いまの県立渋川高校では軟式テニス部に所属し、そのあと進学した早稲田大学で硬式テニスを始めました。
そして81年前の1933年、ウィンブルドン選手権でベストフォーに進むなど数多くの大会で好成績を残しました。
 母校の渋川高校には佐藤さんが使っていた木製のラケット5本が残っているほか、昭和10年に作られたとみられる銅像も設置されています。
 高校2年の硬式テニス部の男子生徒は「佐藤次郎さんのことは偉大な先輩としてみんな知っています。
 佐藤さんの意志を受け継いで、自分たちも頑張っていきたいし、錦織選手には優勝してほしい」と話していました。
 また渋川高校の卒業生で、硬式テニス部の顧問の荒井宏之教諭は「錦織選手が偉大な佐藤先輩に並び、今後のテニス界が楽しみです。生徒たちの励みにもなると思っています」と話していました。
 佐藤さんが生まれた渋川市の住宅には、いまは佐藤さんの兄の親族が住んでいて、佐藤さんがテニスをしている写真や、海外遠征のときに使っていた木製のトランクケースなどを大切に保管しています。
 佐藤さんのおいの妻の佐藤節子さん(81)は「次郎さんの記録を錦織選手が破ってくれれば、親族としても、日本人としてもとてもうれしいことなので、ぜひこれからもがんばってほしい」と話していました。
 また、節子さんの娘の理夏さん(40)は「錦織選手の活躍を次郎さんも天国で喜んでいると思います。錦織選手には優勝を目指してもらいたい」と話していました。

 繰り返すが、これは昨年9月の記事。

 日本テニス協会のサイトから佐藤次郎の主な戦績をご紹介。
「日本テニス協会」サイトの該当ページ

主な戦績
全日本選手権 単優勝(1930年)/複優勝(1932年)
デビスカップ 1931~33年出場/シングルス14勝4敗、ダブルス8勝2敗
4大大会シングルス本戦 全豪(1932年/最高ベスト4)、全仏(1931~33年/最高ベスト4)ウィンブルドン(1931~33年/最高ベスト4)、全米(1932,33年/最高4回戦)

 補足すると、全仏は1931年と1933年がベスト4、全英は1932年と1933年にベスト4である。四大大会通算32勝の記録は、昨年の全米で錦織が更新した。

 これだけの戦線を残していた佐藤次郎は、昭和9(1934)年、デビスカップの日本チーム主将として「箱根丸」でヨーロッパ遠征の途上の4月5日、マラッカ海峡にて船から投身自殺し、26歳の短い生涯を閉じた。

 婚約を発表した直後のこと、と言われているが、その相手の女性は、実は佐藤が一方的に発表したことであったと、その後語っている。
 日本テニス協会のサイトに、その婚約の相手とされている井上(旧姓岡田)早苗さんへの対談記事が載っているので、一部引用する。早苗さんは、日本初の女子プロテニスプレーヤーである。
日本テニス協会サイトの「岡田早苗さん」のページ
岡田さんが最初に握ったラケットは軟式だった。東京府立第二高女(現竹早高校)4年の時に硬式に転向。放課後、同級生の林さんらと一緒に、東京・小石川にあった三井財閥の三井高修邸のテニスコートで練習した。「そこでは元デ杯選手の福田雅之助さんや安部民雄さんたちがのんびりテニスをなさっていて、手ほどきも受けました」。シーズンオフには、佐藤次郎氏ら現役デ杯選手も顔を見せた。佐藤氏といえば全仏や全英でベスト4入りし、1933年には世界ランク3位を記録している。だが、1934年4月5日、デ杯遠征途上のマラッカ海峡で船から身を投げ、26歳でこの世を去った。この時、彼の「婚約者」として、岡田さんの元に海外からも弔電が届けられた。だが、「彼が一方的に婚約を発表しただけ。本当は婚約者ではなかった」と明かす。1934年、デ杯出発を控えたある日、岡田さん父娘は佐藤氏に呼ばれて銀座の喫茶店「富士アイス」に出かけた。そこは婚約発表の席だった。婚約を交わした覚えはない。2人きりで話したことすらほとんどなかった。だが、「デ杯出発前に動揺させてはいけない」と考え、その場で否定することは控えた。秋までは帰国しないから、後でどうにかなるだろう」と思っていた。だが、彼が自殺したことで、否定する機会は二度と訪れなかった。

 早苗さんは四年前亡くなっているので、この対談は貴重な記録だろう。

 佐藤次郎は、どんな思いで婚約を一方的に発表したのか・・・・・・。

 そして、なぜ、輝かしいテニス人生の途中で、自らを葬ったのか。

 テニスを「庭球は人を生かす戦争だ」と」と発言し、対戦相手からは‘ブルドック佐藤’と恐れられた男に、何が起こったのか。

 佐藤次郎は、亡くなる数年前から、神経性の胃炎に悩んでいたようだ。
 前年のデビスカップでは、佐藤自身の成績がふるわず、テニス協会からは、結構きつい言葉が浴びせられていたらしい。

 国別対抗戦における重圧は、現在の比ではないだろう。

 昭和9(1934)年、ヨーロッパ遠征に向かう直前まで、佐藤は学業への専念などの理由から代表選出を固辞していたと言われる。しかし、他の代表が辞退する中で参加を決意。
 出発後も体調不良に加え精神的にも不安定で、途中のシンガポールで下船しようとしたが、慰留を受けて思い留まったと言われる。

 日本テニス協会のサイトに「佐藤次郎の歩んだ道」というページがあるので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。
日本テニス協会サイトの「佐藤次郎の歩んだ道」

 今の時代と同じには語ることのできない、国の代表への圧力などのさまざまな事情が、佐藤次郎を追いつめていった可能性は高いだろう。

 佐藤次郎は、昭和8(1933)年のウィンブルドンでダブルスで日本人として初めて決勝に進出し準優勝だったが、そのパートナーであった布井良助のことも、少しだけ紹介したい。

 布井は、神戸出身で、佐藤次郎の一歳年下。佐藤のライバルであり、また親友でもあった。昭和7(1932)年の全日本シングルス決勝では、佐藤を破って優勝している。
 佐藤と布井は、昭和8(1933)年のデビスカップのオーストラリア戦で、ダブルスを組んで挑んだが負けており、団体としても2勝3敗で敗れていた。ちなみに、この試合で佐藤はシングルスで当時世界ランキング1位であったジャック・クロフォードを破ったが、布井が勝った17歳の天才少年ビビアン・マグラス(日本テニス協会サイトでの表記はマックグラー)に敗れている。

 布井は、翌年佐藤が亡くなった後にテニスをやめた。布井は、1934年のデビスカップを辞退した選手の一人だった。
 その後、太平洋戦争に従軍し、もうじき戦争が終ろうとしていた昭和20(1945)年7月21日、ビルマでピストル自殺を遂げた。
 
 なぜ、布井は、戦場で36歳の生涯を閉じてしまったのだろうか。少なくとも布井は、戦争の犠牲者と言えるだろうが、胸の奥に佐藤次郎のことがあったように、思えてならない。

 いずれにしても、佐藤次郎や布井良助の残した輝かしい戦績は、色褪せることはない。しかし、錦織が活躍するまで、彼らの名がメディアに登場するのは、実に稀なことであった。


 昭和8(1933)年の全仏シングルで、佐藤次郎は、ベスト4まで進出している。それも、準々決勝で、イギリスで‘テニスの神様’と言われていたフレッド・ペリーに勝っての準決勝進出。スコアは、1-6, 7-5, 6-4, 2-6, 6-2のフルセットだった。
 フレッド・ペリーと言うと、テニスウェアなどを思い浮かべる人も多いだろう。

 錦織が、次の戦いで地元フランスのツォンガに勝って、佐藤次郎の名とともに、ニュースとなることを期待している。
 錦織の名とともに再び佐藤や布井、その他多くの先人の名が思い出されるのは、その時代の歴史的、社会的な背景を考える機会になることを含め、さまざまな意味で良いことだと思う。

 
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by kogotokoubei | 2015-06-01 21:56 | 幸兵衛の独り言 | Comments(0)

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