噺の話

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2015年 04月 11日 ( 1 )

落語協会のホームページは、いまだに工事中の無残な姿をさらしている。

 噺家さんのブログや、拙ブログにいただいたコメントに、協会幹部はせいぜい6月頃までにリニューアルできれればいいと思っており、それまで「粛々」と作業を進めるつもりらしい、との情報もある。

 私は、ネット時代におけるビラやチラシであり、幟とも言えるホームページに関し、もし落語協会の幹部がそんないい加減な態度で臨んでいるのなら、それはとんでもない間違いであると指摘したい。

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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 そもそも、落語協会という組織は、いつどのように出来上がったのかを、暉峻康隆著『落語の年輪』の「大正・昭和・資料篇」で確認したい。

 そのためには、落語協会設立前の東京の落語界の状況を確認したい。
 まず、会社派、について。

 “落語研究会”が支えとなって、小康を保っていた東京落語界も、大正六年八月に“東京寄席演芸株式会社”が設立されたのをきっかけに、落語史上またとない戦国時代がおとずれることとなった。
 この演芸会社の株主は、神田の立花、白梅、下谷の鈴本、人形町の鈴本、末広、京橋の金沢、浅草の並木、両国の立花、麹町の青柳をはじめとする落語席二十八軒と、小さん、円右、燕枝、小勝、円蔵らの咄家連で、柳・三遊派と契約して、新たに月給制度を採用するという新体制であった。


 この月給制の会社派の運営は、発足当初から苦難の道を歩むことになる。

 ところが八月上席から、その制度で興行をはじめてみると、内外の苦情が持ちあがり、現在株主たる席亭の中にさえ、折を見て脱会しようとする者があらわれ、左楽のごときは高座で反対を唱える始末であった。
 契約をした者が、上席の給金を受け取ったままで出演しなかったり、柳枝、小柳枝、年枝、錦生などは、公然と反旗をひるがえし、寄席会社は出発と同時に大騒ぎとなった。


 結果として、会社派に反対する、別な組織が出来る。

 反対派は、寄席会社が発足した同じ大正六年八月一日に、神楽坂上の演芸館に集合し、三遊・柳両派を存続せしめて旧慣を重んじ、寄席とも協定して円満に落語の改革を図ることになった。柳派の頭取の柳枝をはじめ、雷門橘之助、円遊その他六、七十名が調印して会社へは辞表を出し、政治家の三木武吉氏を顧問として、“落語 睦会”を結成した。会長は五代目柳枝、副会長は五代目左楽と決定し、同時に睦会の強化を図り、同月中旬に大阪から桂小南を迎えた。


 会社派と睦会が対立する状況の中で、、神戸の興行師吉原政太郎が上京し、東西芸人の融和を図るという名目で“東西落語会”ができた。また、睦会は内部分裂を起し、誠睦会が出来た。
 東京の落語界が、そういった混沌とした中で、大震災を迎える。その前後のことを、紹介。

4 大正大震災前後
  
    まだおさまらぬ離合集散

 咄が聞きたくば会社派へ、見物したくば東西派へ、にぎやかなのがよければ睦会へ、浪人不平党がよければ新睦会へ、というのが大正十年(1921)三月一日付の「都新聞」の評判である。ところがそれから半月後には、新睦会と円右の三遊派が“東西落語会”に合併したので、これでまた東京落語界は、会社派と睦会と三派合同の“東西落語会”の三派になったわけである。
 ところが、三派でしばらくおちついていた大正十年の東京落語界も、秋になるとまた一騒ぎが持ち上がった。それは神戸の吉原派が、鈴本一派の東西落語会から分立し、神田の入道館と浅草の江戸館などを根城として“扇風会”と称し、競争することになったからである。その扇風会は、明けて大正十一年の一月の下席から、事務所を日本橋蠣殻町に設け、扇風会改め“東西落語演芸会”と称することになったので、東西落語会ではたまりかねて、七月になると“東洋会”と改称している。


 こういった離合集散が続く中で、その日がやってきた。

 九月一日の関東大震災という天災地変によって、東京落語界は壊滅してしまった。
 まず市内の寄席では、会社派に属している神田の立花亭、両国の立花家、本郷の若竹亭、雷門の並木亭、京橋の金沢亭は焼失、わずかに駒込の山谷亭、四谷の若柳亭の二、三が残るのみとなった。
 睦会の席では、四谷の喜よし、駒込の動坂亭、青山の富岳座、同じく新富岳、牛込の神楽坂演芸場、小石川紅梅亭、渋谷演芸場などを残し、他は全部焼けてしまった。
 多くの落語家が焼け出された中で、運わるく本所被服廠跡に避難したために死亡したのは、坐り踊りの名手であった麗々亭柳橋、それに古今亭志ん橋、音曲師の三遊亭花遊、手品師の帰天斎小正一、柴笛の山田天心であった。この四人の合同追善法要は、翌月十九日、浅草観音堂で営まれた。
 また市内の寄席の看板およびビラを扱っていた専業者は、三光新道のビラ辰、神田三崎町のビラ万、それに廓橋の村田などであったが、三軒ともにこの大震災で類焼してしまったので、当分は江戸趣味の木版のビラは見られないことになってしまった。

 
 落語協会は、この大震災からの東京落語界の復興を目指し、設立された。

 大正十二年九月一日の関東大震災で、一時支離滅裂となった東京落語界であったが、翌十月には早くも大同団結に着手し、“落語協会”が誕生した。それは“落語睦会”と“会社派”の大部分が合同したもので、四代目柳枝こと華柳を顧問にいただき、左楽が頭取に就任し、馬生、三語楼などもすでに加入して、一日から睦会の席であった八席に出演し、成績は上々であった。旅に出ていた小勝、文治も加入のはずであり、また隠退したのを借り出されて大阪へ出演中の小さんも、別格の大看板として落語協会に迎えることになった。


 この後、旧会社派と旧睦会での葛藤などもあり組織の変動があったのだが、私が注目したいのは、落語協会が、関東大震災後の東京落語界の復興を目指し、分かれていた会派が、いっときでも大同団結して出来た組織である、ということだ。

 その時、彼らの視線は荒廃した東京でたたずむ人達を、落語の笑いで救いたい、という思いが強かっただろう。
 もちろん、自分達が生きていくためでもあったろうが、笑顔に飢えた寄席のお客さんへの思いも強かったと思う。

 寄席の出演情報などをビラにし、きっと街頭で配る努力をしたであろうし、寄席には幟も立てただろう。
 震災後の物資が払底している状況において、苦労して、震災後でも落語を待っていた人々のために情報を発信したと察する。

 かつてのビラ、チラシであり幟とも言えるのがホームページである。
 街頭に出向いて配らなくても、寄席に設置しなくても、ホームページには落語の好きな人達が、自ら訪ねてくれる。
 そして、毎日どれだけの人が、「まだか・・・・・・」「何やってんだ!」と、ため息をつき、怒っているかを、協会幹部は想像すべきだ。

 あらためて確認するが、落語協会は、関東大震災からの復興を思い、それまで仲たがいしていた組織が合同して発足した組織だ。
 協会幹部の方々には、発足時の、東京の絶望的な姿を思い起こして欲しい。焼け野原からの復興を目指し、異なる会派が一緒になってつくった、先人たちに思いを馳せて欲しい。

 ホームページの運営、管理のための費用面での問題はあるだろう。
 しかし、今の状況は、発足当時の大正十二年九月より厳しい状況にあるのか。否である。

 物資や人手の問題は、焼け野原から落語を復興させようとした先人たちの苦労より、厳しいのか。否である。

 落語協会幹部は、自分達の組織が、長く辛い歴史を経て今に至ったということを思い起して欲しい。
 
 長期的に広く落語界全体を見据え、協会に求められる使命が何か、どこを向いて協会は活動すべきかを考えて欲しい。

 ホームページ問題をこのまま長く放置しておくことが、落語愛好家、お客さんのためであるかどうか、真剣に考えるべきだ。

 そして、ホームページ委員会の旧メンバーたちの嘆きを、感じて欲しい。彼らは心で泣いているのだ。
 
 落語愛好家は、もちろん怒っている。しかし、怒っているうちに、間違いを正すべきだろう。そのうち、無視をし、落語協会の定席から客は減るに違いない。

 この度のホームページ問題は、、落語協会の歴史と伝統を汚すことになりかねず、組織の岐路となるかもしれないと、私は思っている。
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by kogotokoubei | 2015-04-11 09:18 | 落語協会 | Comments(2)

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