噺の話

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2014年 06月 16日 ( 1 )

吉原関係の“芋づる読書”が続いている。

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福田利子著『吉原はこんな所でございました』(ちくま文庫)
 
 はとバスのコースにもなっている花魁道中。現在では六本木のお店で行われているようだが、元祖(?)は、吉原の松葉屋である。引手茶屋からの歴史を誇った料亭松葉屋は、惜しまれながら平成10(1998)年に廃業した。

 その松葉屋の女将さんだった福田利子さんが、吉原の貴重な記録を遺してくれた本が、『吉原はこんな所でごじました-廓の女たちの昭和史-』である。

 初版は昭和61(1986)年の主婦と生活社から単行本、その後平成5(1993)に社会思想社の現代教養文庫で再刊、そして平成22(2010)年にちくま文庫にて発行された。

 落語や時代劇で吉原について語られていることは遠い江戸時代のこと、と私も長らく思い込んでいた。明治維新以降に大きな変化があったに違いない、という思い込みがあった。

 しかし、昭和の前半まで、吉原には江戸のか名残りが色濃く残っていたことが、本書を読んでよく分かった。

 吉村平吉と同じ大正9(1920)年生まれの著者は、三歳で吉原の引手茶屋松葉屋の養女となる。
 父が兜町に証券取引の店を出して羽振りがよい時期、福田やえが芝神明で芸者だった頃に出会った。大正2年のころ、吉原仲之町通り、京町一丁目に辰巳屋という引手茶屋の売り物があったので福田やえが手に入れ、父親は主人のように茶屋の仕事についても相談を受けていた。祖父は埼玉県行田の松平子爵家の“ご家政協議員”なる役をしていた厳格な人で、なんとか息子を福田やえから引き離そうとしたのだが・・・・・・。

 祖父はいつしか福田やえの気骨のあるところや、さっぱりした気性が気に入ってしまったのでした。何よりも、父へのつくし方に感じ入ったようで、ほかに何人も愛人をつくられるくらいなら、いっそのこと、この人と一緒にいてくれた方がいい、どうか息子を守ってやってください、と父を預けるような形で帰ったのだそうです。
 今ではとても考えられないような話ですが、当時はさほど驚くようなことでもなかったようでございます。
 私は養女として吉原に連れてこられたものの、父がほんとうの父ですから、買われてきたという感じがなかったように憶えています。


 父親と養母との関係、たしかに今では考えられない話だ。

 かつては、不倫は良くないが妾を持つのは男の甲斐性と、どちらかと言うと肯定的に世間に受容されてきたと思う。しかし、お妾さんの社会的地位(?)が次第に変わってきた。私の子供時代の記憶では、昭和の三十年代でも、お妾さんの存在には世間は今よりは寛大だった。中には本妻と妾と同じ屋根の下で一緒に住んでいることもあった。社会人になってからの昭和五十年代でさえ、越後のとある田舎の料理屋さんでは、本妻と妾が助け合って店を切り盛りしている店があった。主人と二人が川の字で寝ているとも言われていた。

  お妾さん(上方では、おてかけさん、と呼ぶらしい)が関係する落語ネタは少なくない。『悋気の火の玉』『悋気の独楽』『転宅』『権助提灯』『権助魚』『三軒長屋』、侍社会も含めて『妾馬』など。

 男がそれだけの甲斐性がなくなったとも言える。もちろん相対的に、女性と靴下が強くなった(古いね^^)のも間違いない。金銭面の余裕とともに、精神面でのゆとりがなくなってきたことも関係していると思う。
 
 さて、大正7年には、江戸町に松葉屋という店が売りに出された。

 福田やえは哥沢(-うたざわ-、哥沢節のこと、端唄の一種)の名取りとして芝美八重を名乗るようになっていましたが、哥沢の紋どころが松葉巴だったものですから、その店が気に入りまして、京町から江戸町のほうに店を替えたのでした。
 そんなときも、父は福田やえにとって何かと頼りになる相手だったようです。でも、することは派手で、当時の都新聞に花柳界の記事として書かれたことがあるんですよ。今でいう芸能記事のようなものだと思うのですが、歌舞伎役者や相撲取りと同じように、花柳界のことも盛んに書かれていたらしんです。
 記事というのは、お風呂へ行くにも相合傘で連れだって行き、入口で一旦は別れるけれども、出てくるとまた、一つの傘に入って帰る仲の良い二人連れ、といった内容のものなんです。一つの傘に二人が入ってお風呂に行くなんて、今では珍しいことでもなんでもないのに、当時は新聞で書きたてられたくらいですから、随分思い切ったことだったのでしょうね。


 父親と養母の相合傘での銭湯通い、状況はまったく違うが、フォークソングの『神田川』の歌詞を思い出す。
 私なんぞ連れ合いはもちろん他の女性とも相合傘で歩いたことなどないので、当時のこの二人、相当進んでいたと思う。大正時代には、“モガ”“モボ”という言葉も流行ったらしいから、吉原のモダンガール、モダンボーイだったと言えるかもしれない。

 当時は、花柳界のことが記事になる時代だったのだ。今ではいわゆる“風俗”に関する夕刊紙の記事はあっても、花柳界とは言えないなぁ。そもそも、花柳界とか花街という言葉自体が死語になりつつある・・・・・・。

 さて、吉原の引手茶屋の養女になった著者のこと。養女に入ったのは大正12年、まさに関東大震災の年である。

 三歳になったばかりの私が連れてこられ、関東大震災に遭って店の再建にかかる間を一時、浦和に預けられましたが、小学校に入学にするのを機に昭和2年、再び吉原に戻り、昭和26年に養母が亡くなるまでの25年をともに過ごしてまいりました。そして、親子として松葉屋を守ってきたのですから、深い縁を感じずにはいられないのでございます。


 本書では、著者自身の経験のみならず、一緒に暮らした養母から伝わるいろいろや、他の土地の芸者とは一枚も二枚も上に見られていた吉原芸者たちからの伝聞なども含め、吉原の歴史が語られている。

 まず最初に本書から紹介したいのは、昭和にも江戸時代からの伝統がしっかり残っていた、廓の流儀について。

 馴染みのお客からの紹介で初めてのお客が引手茶屋に来た場合の対応がどうであったか。

 お客に花魁を会わせるときは、このお客にはこの花魁が合うのではないかと、女将の裁量で決めたものででした。好みが合い、うまが合いますと、贔屓としてそれからも足を運んでもらえますから、女将の勘の働かせどころ、そして当たり外れはほとんどなかったようでした。
 大切なお客さまをお連れしたというのに、招待なさった方が、引手茶屋だけで貸座敷まではお供できない、という場合もあります。このときには、引手茶屋では女将に代わって、古くからいる女中さんが主賓だけを貸座敷にお連れし、そこでお職の花魁を頼みます。
 江戸時代から“初会”“裏を返す”“馴染み”というしきたりが、大見世にはございました。“初会”といいますのは、お客さまが紹介者に連れてこられた初めての日のことで、この日お客は、芸者衆や幇間をあげて、花魁の本部屋で遊びますが、寝所まで入ることはなく、このまま帰ります。二度目を“裏を返す”といい、初会と同じことをして、そのまま帰ります。三度目ではじめて“馴染み”となって寝所に入ることができます。このしきたりは、昭和に入っても、守られていました。


 私などは、江戸時代の“初会”“裏を返す”“馴染み”といった吉原大見世のしきたりなど、昭和の世にはとうになくなっていただろうと思っていた。

 ところがどっこい、吉原の文化はしっかり伝承されていたんだ。

 “戦争を知らない子供たち”の一人である私にとっては、中学時代に漱石を読んで、それまで知らなかった明治、大正の頃の日本を“発見”した驚きがあった。戦後の日本しか実態として感じることのできない自分にとって、漱石が描く明治の日本が、なんともまぶしく感じたものだ。それは、まさに発見だった。

 本書にも、まったく知らなかった昭和初期の吉原を“発見”する思いがする。

 花魁、芸者、幇間たちを身近に見てきた著者にしか書けない花柳界の歴史が一杯詰まっている貴重な本。今後も他の本からの関連情報をまじえて、いくつか紹介したい。
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by kogotokoubei | 2014-06-16 00:04 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛