噺の話

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2013年 09月 08日 ( 1 )

2020年のオリンピック開催地が東京に決まった。

 テレビで手を取り合って喜ぶ人達の姿を見ても、私はまったく素直に喜べない。

 決定後の会見で猪瀬知事が「ホスピタリティ」の言葉を繰り返す。滝川クリステルはフランス語のプレゼンテーションの中で「お・も・て・な・し」と語る。安倍首相は放射能汚染水は「完全にブロックされている」と嘘をつく・・・・・・。

 大震災とフクシマからの復興が優先されずに、外国からの客への「もてなし」のために、多くのの予算と労力を費やすことが許されるのか。

 経済効果(三兆円?!)が叫ばれ、やたら「スポーツの素晴らしさ」や「感動」「元気」といった言葉が口にされる。

 私もスポーツが好きで実際にプレーするが、スポーツを楽しむためには、まず「衣食住」の基本的な生活基盤があってこそ、である。


 震災や原発事故で故郷を失った人々は、「別な国」の出来事のよう、と昨夜のテレビで表現していたなぁ。

 マドリッドにおける財政的不安、イスタンブールにおける反政府勢力による安全面での不安が、僅差で東京における放射能不安より大きかった、ということか。
 すでにオリンピックは「都市」での開催ではなく「国」による開催である。加えて、ロサンゼルス・オリンピック以降、オリンピックは、完全なイベント・ビジネスとなっている。ビジネスである以上は、IOC委員の票を獲得するための取引もあるだろう。

 「おもてなし」という言葉より、世界で通用する言葉としてもっと大事なのか「もったいない」のはずだ。

 しかし、開催が決定した以上、それを、日本が抱えている問題を解決する方向に活用しなければ、それこそ「もったいない」だろう。

 マドリッドとイスタンブールのマイナス要因が大きかったことによる決定も、一つの「縁」だろうし、失われた日本人のさまざまな「縁」を、五輪開催を契機に新たに繋ぐことにならなければ意味がないように思う。

 日本人は、かつて存在していた「血縁」「地縁」を進んで崩してきた。

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佐伯啓思著『反・幸福論』(新潮新書)

 本書は、『新潮45』の2010年12月号から2011年8月号に連載された内容に加筆されて2012年1月に新潮新書から発行されたもの。

 五輪のことへの関連のみならず、少しこの本からダラダラ引用してしまうが、ご容赦のほどを。

「第三章 『無縁社会』で何が悪い」から引用。

 都市再生機構がもっている全国76万戸の賃貸住宅で孤独死した65歳以上の老人は、1999年で94人だったのが、2008年には426人へと急増しています。政府の調査によると(『高齢社会白書』)、65歳以上の高齢者のうちで一人暮しの割合は、1990年には162万人で男性5.2%、女性14.7%でした。162万人でもかなり多いと思いますが、これは2010年にはおおよそ465万人で男性11.0%、女性19.4%へと急拡大しています。10年後には、この人数は631万人へと増加すると見込まれています。今日、65歳以上の老人のおおよそ6人に1人が独居しているわけです。
 もちろん、独居は老人だけの特権というわけではありませ4ん。結婚しない若者が増加しています。まだしも資産をもっている親に寄生してパラサイト・シングルという結構な立場でフリーターをしていたとしても、親が死ねばたちまち「無縁」状態に放り出されてしまうこともある。あるいは、いままで20年、30年働いてきた会社がいきなり倒産したり、解雇されたりで、突如さしたる所得も資産もない状態で「無縁社会」へ放り出されてみれば、いまさら新たな「縁」を作ることさえ困難になるでしょう。
 こうなると、誰もが「無縁社会」と無縁ではなくなってしまうのです。


 まったく他人事ではない話だ。私より連れ合いが「独居」になる可能性が高いだろう。

 学生時代から、私は北海道、連れ合いは新潟の実家を出ている。現在もおかげさまで両親がともに実家で健在だが、二人は関東圏で暮している。

 故郷を離れて暮しているもっともらしい理由は挙げられるが、もっと、「地縁」「血縁」を大事にすることはできなかったのか、と思わないでもない。しかし、そういった「縁」を繋ぎとめておく社会ではなくなってきたのも事実だろう。何世代もが同居する家族は減少し、「味噌」「醤油」を借りあうほど親しくお付き合いをしていた「隣組」という共同体は、ほとんど消滅した。

 佐伯は次のように指摘する。

 実は、戦後の日本人はこぞってこの「縁」なるものをうっとうしく想い、放棄することに邁進してきたのではないでしょうか。さらにさかのぼれば、これは明治という近代の夜明け以来、というべきかもしれません。
 今はそこまでさかのぼるのはやめても、少なくとも戦後日本社会は、まずは「血縁」と「地縁」を断ち切ることから始めたのです。いうまでもなく「イエ」は「血縁」でできています。その「イエ」こそ、日本の前近代性そのものとされました。「イエ」を基軸に作られている旧民法は封建制の象徴とみなされ、個人の観念を軸にすえた新民法へ移行するとともに、「イエ」こそ攻撃の対象になりました。
 もちろん「血縁」がまったく解体したわけではありません。「血」の流れは細々と続いてはいますが、「イエ」は「マイホーム」に代わり、「家族」は「家庭」になってゆきました。大きな「イエ」から解放されると、まずは「家庭」が出現し、「父」と「母」と「子供」というフロイトが喜びそうなこぢんまりした三角形ができました。大家族から核家族への変化です。しかし「自由に自分の幸福を追求する権利をもった個人」からすればそれも窮屈なものです。
 そしてその次はといえば、核家族の中で、毎日のように小さな核分裂が起きてしまったのです。個人主義は、家庭というものに安住できません。そしてこの分裂は、今日ではいたるところで家庭崩壊をもたらしています。
 (中 略)
 実際には、歴然として「血」というものがあるにもかかわらず、戦後日本人は、皇室から「イエ」にいたるまで、ともかくも「血」というものに目をふさぎ、できるだけその意味を軽視しようとしたのでした。


 たまにメディアで、“三世代同居大家族”などが“珍しい”こととして紹介されたりするが、かつてはニュースになりえなたっか大家族はそれだけ珍しいものになってきた。地方から都市への移動を含め、日本人が「血縁」を崩してきたのは事実だろう。そして「地縁」はどうだったのか。佐伯はこう続ける。

 「地縁」についても同じです。もはやあれこれいうまでもないでしょう。前章にも書きましたが、日本の近代化とは、とりわけ地方の「土地」から人々を切り離し、土地をもたない都会へと人々を移動させることでした。生まれた場所というだけで「縁」があるというのはいかにも前近代的で封建的だとみなされました。「イエ」も「ムラ」も戦後もっともきらわれた言葉でした。



 都市化をすることが近代化であると信じて、「イエ」「ムラ」を積極的に崩し、今や食糧自給率は四割を切り、本来は農耕民族としての強みであった協調性や相互扶助の精神を失ってきた日本。
 
 失った「地縁」や「血縁」を過去のように復活させるのは難しい。いや、無理だろう。だからこそ、「縁」に替わる言葉として「絆」という言葉がもてはやされるようになった。

 しかし、今の段階では「絆」という言葉や「希望」なども、とても空虚に感じられる。五輪開催決定で「血縁」「地縁」の関係のない者同士が喜び合う光景に、私は正直なところ軽薄さを感じる。彼らの姿を目にした震災と原発事故の被災者の方の心境への想像力の存在を、飛び上がって喜ぶ人には感じない。

 しかし、オリンピック開催を意義あるものとして考えるなら、震災やフクシマで被災した人々と国との間に失った「縁」を、本物の「絆」で繋ぐことができなければいけないだろう。

 そして、本当に「おもてなし」をするなら、安倍の放射能「完全にブロック」という嘘を嘘のままに終わらせず、たとえば全ての格納タンクをステンレスと溶接によるタンクに替えるなどで実現しなければならない。安倍が言うように「ここからが本番」である。安倍は世界に「完全にブロック」すると約束したと考えるべきだろう。その約束を守ることが「おもてなし」の第一歩だ。

 五輪開催により、まだまだ続く被災者の方々の苦悩や、フクシマがまったく収束の道を歩んでいない実態が、今まで以上に海外の目にさらされることが、開催決定の最大の収穫になるような気がする。3.11は、まだまだ大きな傷跡を残したままだ。実態が海外メディアを通じて世界に明らかになるのなら、それも効用である。日本のメディアが近づかない現場で、海外の勇敢なジャーナリストは隠された問題を掘り起こしてくれるかもしれない。

 そして、五輪ホスト国は、ゲストを「おもてなし」するためには、自国の国民が他人をもてなすだけの心の余裕を持てる状態でなければならないということを、十分に考え行動すべきだろう。その余裕は「衣食住」の基盤が安定することからしか生まれない。「おもてなし!?それどころではない!」という状態の国民の生活の安定化を最優先しないのなら、とても五輪を開催する資格などない。
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by kogotokoubei | 2013-09-08 06:10 | 責任者出て来い! | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛