噺の話

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2013年 09月 02日 ( 1 )

このシリーズの三回目。湯河原で自分の出生の秘密を知った長二が、お柳と幸兵衛に、意を決して自分の実の親だと名乗って欲しい、と懇願したにもかかわらず、二人は否定して長二の家を出て行った。さぁ、その後どうなるのか。

 今回のお題は、「請地の土手 スカイツリー」とでもしておこうか。なぜ「スカイツリー」かは、後半に判明(?)します。

まずは、森まゆみ著『円朝ざんまい』から。

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森まゆみ著『円朝ざんまい』(文春文庫)
 
 『円朝ざんまい』では、「請地の土手」の件は要約なので話の進みが早い。

「無慈悲な親だが、会って見ると懐かしいから、名告(なの)つてもれえてぇと思つたに」
 と長二はどっと溜息をつく。「おお左様だ、此の金を貰つちア済まねえ」。腹掛のどんぶりに五十両を押し込み、田圃径から請地の土手伝いに麻裏草履で先回りする。
「此方(こちら)は幸兵衛夫婦丁度霜月九日の晩で、宵から陰(くも)る雲催しに、正北風(まならひ)の強い請地の堤(どて)を、男は山岡頭巾をかぶり、女はお高祖頭巾に顔を包んで柳島へ・・・・・・」
 そこへ大の男がいきなりヌッとあらわれた。長二である。
「決して他には云わねえから、お前を産んだお母だといってくだせい・・・・・・お願ひです・・・・・・また旦那は私(わっち)の本当のお父さんか、それとも義理のお父さんか聞かせてくだせい」
 この涙下る懇請をあくまできかず、幸兵衛、長二の横面を殴りつける。長二、五十両の包みを幸兵衛に投げつけると、額に当って血が流れる。幸兵衛、長二をつき倒し、土足で頭を蹴る。長二、逆上して拳固を振り廻す。幸兵衛、紙入留の短刀を抜いて切り払う。危ねぇと長二、刃物をもぎ取ろうとする。幸兵衛、引くはずみに我と吾手で胸先を刺貫く。お柳、長二に組みつくが、その拍子に乳の下を深く突かれてアッと倒れる。
「さて幸兵衛夫婦は遂に命を落しました。其の翌日、丁度十一月十日の事でございます」
 円朝の語りは息もつかせない。



 こんな物語を、円朝は用意してしまうのだ。

 しかし、著者森まゆみが“円朝の語りは息もつかせない”と書いているので、この噺を円朝は高座にかけたと誤解されている人も多いと思う。
 
実は、この噺は円朝が高座に出るのを引退してからの作品。

 
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永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)

永井啓夫の『新版 三遊亭円朝』から引用したい。

 この頃の円朝は寄席に出勤していなかったので、湯河原よりの二年半後の中央新聞に連載したのが最初の公開であった。原稿も速記ではなく、円朝自身の簿記であった。


 と言うことで、この作品は高座の速記ではなく、円朝自ら書いた作品なのである。

 『円朝ざんまい』では、お約束として、著者森と相棒ぽん太が、噺の舞台を訪ねる。

 ぽん太と私、本所吾妻橋へ降り立ち、この立ち回りの現場を検分することに。北十間川源森橋を渡り、小梅橋を戻ったが、すっかり市街化がすすみ、川はコンクリの防波堤でさえぎられ、昔をしのぶよすがもない。向うに京成線の押上駅が見える。少し高い所に立ち、やっと川面を眺めた、黄色いブタ草が川岸にへばりついている。業平橋を渡る。場所が特定できないから、
「まあ、この辺でもみ合いがあったということで」
 そろそろ空は暗くなり、道に人気はない。横川には日本たばこの巨大な工場があった。家具職人が店先で仕事中。
「柳島はどこでしょうか」
 ときくと、
「お?なつかしいことをいうねえ」
 と道を教えてくれた。土地に古い方らしい。「こっちはもと武家屋敷で、そっちは田んぼさ」。いまの業平五丁目、そういえば同潤会柳島アパートに住人のお話を聞きに来たことがあったっけ。その古い共同住宅はプリメール柳島なる超高層マンションに姿を変えていた。ともかくこのあたりに幸兵衛夫妻の別荘はあったのだ。



 そうか、“土地に古い方”でなければ、かつて“柳島”だった場所が分からないのだなぁ。江戸時代から続く地名がどんどんなくなる、という件に関しては後でまた書くことにする。

 さて、請地の土手の“立ち回り”、『円朝ざんまい』ではあっさりとした紹介だったので、青空文庫の原作から引用したい。
*ルビが漢字に続いてしまい読みづらくもありますが、そのままにさせていただくことご容赦のほどを。
青空文庫「名人長二」

請地の土手伝いに柳島へ帰ろうという途中、往来ゆきゝも途絶えて物淋しい所へ、大の男がいきなりヌッとあらわれましたので、幸兵衞はぎょっとして遁にげようと思いましたが、女を連れて居りますから、度胸を据えてお柳を擁かばいながら、二足ふたあし三足みあし後退あとじさりして、
 幸「誰だ、何をするんだ」
 長「誰でもございません長二です」
 幸「ムヽ長二だ……長二、手前何なんしに来たんだ」
 長「何しに来たとはお情なさけねえ……私わっちは九月の廿八日、背中の傷を見せた時、棄てられたお母っかさんだと察したが、奉公人の前めえがあるから黙って帰けえって、三月越みつきごしお前めえさん方の身上みじょうを聞糺きゝたゞして、確たしかに相違無ねえと思うところへ、お二人で尋ねて来てくだすったのは、親子の名告なのりをしてくんなさるのかと思ったら、そうで無えから我慢が出来ず、私の方から云出したのが気に触ったのか、但しは無慈悲を通す気か、気違だの騙りだのと人に悪名あくみょうを付けて帰けえって行くような酷むごい親達から、金なんぞ貰う因縁が無えから、先刻さっきの五十両を返けえそうと捷径ちかみちをして此処こゝに待受け、おもわず聞いた今の話、もう隠す事ア出来ねえだろう、お母さん、何うかお前めえさんに云い難にくい事があるかア知りませんが、決して他ひとには云わねえから、お前めえを産んだお母ふくろだといってくだせい……お願いです……また旦那は私の本当のお父とっさんか、それとも義理のお父さんか聞かしてくだせい」
 と段々幸兵衞の傍そばへ進んで、袂に縋る手先を幸兵衛は振払いまして、
 幸「何をしやアがる気違奴め……去年谷中の菩提所で初めて会った指物屋、仕事が上手で心がけが奇特きどくだというので贔屓にして、仕事をさせ、過分な手間料を払ってやれば附けあがり、途方もねえ言いがゝりをして金にする了簡だな、其様そんな事に悸びくともする幸兵衞じゃア無ねえぞ……えゝ何をするんだ、放せ、袂が切きれるア、放さねえと打擲ぶんなぐるぞ」
 と拳を振上げました。
 長「打ぶつなら打ちなせえ、お前めえさんは本当の親じゃアねえか知らねえが、お母っかさんは本当のお母さんだ……お母さん、何故私わっちを湯河原へ棄てたんです」
 とお柳の傍へ進もうとするを、幸兵衛が遮さえぎりながら、
 幸「何をしやアがる」
 と云いさま拳固で長二の横面よこつらを殴りつけました。そうでなくッても憎い奴だと思ってる所でございますから、長二は赫かっと怒いかりまして、打った幸兵衛の手を引ひとらえまして、
 長「打ぶちゃアがったな」
 幸「打たなくッて泥坊め」
 長「何だと、何時己が盗人ぬすっとをした」
 幸「盗人だ、此様こんな事を云いかけて己の金を奪とろうとするのだ」
 長「金が欲ほしいくれえなら、此の金を持って来きやアしねえ、汝うぬのような義理も人情も知らねえ畜生の持った、穢けがらわしい金は要いらねえ、返けえすから受取っておけ」
 と腹掛のかくしから五十両の金包を取出し、幸兵衛に投付けると額に中あたりましたから堪りません、金の角で額が打切ぶちきれ、血が流れる痛さに、幸兵衞は益々怒おこって、突然いきなり長二を衝倒つきたおして、土足で頭を蹴ましたから、砂埃が眼に入って長二は物を見る事が出来ませんが、余りの口惜くやしさに手探りで幸兵衞の足を引捉ひっとらえて起上り、
 長「汝うぬウ蹴やアがッたな、此の義理知らずめ、最もう合点がってんがならねえ」
 と盲擲めくらなぐりで拳固を振廻すを、幸兵衞は右に避よけ左に躱かわし、空くうを打たして其の手を捉え捻上ねじあげるを、そうはさせぬと長二は左を働かせて幸兵衛の領頸えりくびを掴み、引倒そうとする糞力に幸兵衛は敵かないませんから、挿さして居ります紙入留かみいれどめの短刀を引抜いて切払おうとする白刄しらはが長二の眼先へ閃ひらめいたから、長二もぎょッとしましたが、敵手あいてが刄物を持って居るのを見ては油断が出来ませんから、幸兵衞にひしと組付いて、両手を働かせないように致しました。


 この後、正当防衛とは言え、長二は幸兵衛とお柳夫婦の命を奪ってしまうのだ。

“腹掛のかくしから五十両の金包を取出し、幸兵衛に投付けると額に中あたりましたから堪りません、金の角で額が打切ぶちきれ、血が流れる痛さに、幸兵衞は益々怒おこって、突然いきなり長二を衝倒つきたおして、土足で頭を蹴ましたから、砂埃が眼に入って長二は物を見る事が出来ませんが、余りの口惜くやしさに手探りで幸兵衞の足を引捉ひっとらえて起上り、”と、なるほど「息もつかせぬ」円朝の語りである。

 この場面、今松と雲助は果たしてどんな高座を見せてくれるのだろうか。楽しみだなぁ。

 さて、今回は噺の内容についてはここまで、として、地名のことについて書きたい。

 まず、噺の舞台である「請地の土手」だが、この周辺にはかつて「請地」の名のついた駅があった。Wikipedia「請地駅」から引用。Wikipedia「請地駅」

当駅開業の翌年(1932年)に京成請地駅が開業したことにより乗換駅となる。これは浅草乗り入れを巡って対立した東武と京成との歩み寄りによるものであったが、実際の乗り換えは業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー駅)と押上駅との間で行われる場合が多く、請地駅は1946年に休止となり、京成請地駅が1947年に廃止された後の1949年に廃止された。



 円朝の名作の舞台の名や、古今亭志ん生極貧時代の代名詞とも言える「業平橋」の名が、駅名から消えるのは寂しいかぎりだ。しかし、志ん生も、あの場所にスカイツリーなんてぇもんが出来るとは思いもしなかったろうなぁ。

 たびたびお世話になる「落語の舞台を歩く」では、志ん生の高座を元に、この噺の舞台となった地域が紹介されている。「落語の舞台を歩く」の該当ページ

 掲載されている地図を引用したい。志ん生は「請地の土手」とは言わず、「押上堤」と言っているので、このサイトでも「押上の土手」と説明している。
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 この地図にある「本所〆切」が長二の家。幸兵衛とお柳の別荘が柳島にある。その中間に「請地の土手」(押上の土手)があるのが確認できる。
 同サイトから、ほぼ十年前の押上の土手の写真をご紹介。
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 『円朝ざんまい』の中で、“土地に古い方”が「なつかしい」と表現した柳橋という名は、すでに行政における地名としては存在していない。せいぜい柳島小学校などに、その名を残すのみ。

 今年1月29日の八代目正蔵の命日の記事で、正蔵や“留さん文治”が住んでいた稲荷町の長屋の写真を「二邑亭駄菓子のよろず話」のサイトからお借りした。2013年1月29日のブログ
 同サイトの「東京-昭和の記憶-」にある「押上~業平橋(同潤会中之郷アパート)」には、押上から柳島方面に向かう都電23番の写真が掲載されている。現在の写真では、バックに東京スカイツリーが見える。
「二邑亭駄菓子のよろず話」サイトの該当ページ
 「同潤会柳島アパート」ではなく、「同潤会中之郷アパート」の写真と、現在の同じ場所の写真が確認できる。やはり近代的なマンションに変っている。


 こういった時代の変遷から思うのは、もし将来、古今亭の一門が志ん生のことを語る時、あの「なめくじ長屋」のことを「業平橋近くにあった、なめくじ長屋」と言わずに、「スカイツリー駅近くにあった、なめくじ長屋」と説明することになりそうだなぁ、ということ。

 スカイツリーはともかく、江戸時代ゆかりの地名などが、野暮な役人たちなどのせいでどんどん消えていく。これって「文化的な損失」ではないかと思うのだがなぁ。

 「請地の土手」から脱線したが、このシリーズは次回で最終回としたい。お白洲での名裁きをご期待のほどを。
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by kogotokoubei | 2013-09-02 00:03 | 落語のネタ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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