噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

2013年 04月 02日 ( 1 )

4月2日は、初代桂文枝の命日。まず、Wikipediaから引用。Wikipedia「桂文枝」

初代 桂文枝(1819年 - 1874年4月2日)は、本名同じ。明治維新で戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。通称(あだ名)は「藤兵衛」。

近年、大阪市天王寺区の全慶院から墓碑が発見され、子孫の過去帳からも新たに出身や背景が確認された。それによると、生家は大阪市中央区心斎橋界隈にあったらしい。文献では鍛冶職人と伝わっているが、子孫には家具職人三文字屋で道具も残されている。また、掛け軸による肖像画も発見されている。



 何度か引用している関山和夫著『落語名人伝』から、あらためて初代文枝について紹介したい。

e0337777_08135620.jpg

関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 明治初年の大阪落語界で最高の名人といわれた初代桂文枝は、明治7年4月3日に没した。惜しいことだったが定命はやむをえない。この人が自分の得意とした落語『三十石』を百両で質入れしたという話は有名で、なかなか面白い。初代文枝は三代目文治の弟子で、上方落語の歴史の上では、桂派中興の祖と賛える人が多い。すぐれた人物は幾多の門弟を育成するもので、年とともに人格の方も深みを増すことがある。初代文枝の門下から多数のすぐれた噺家が出たために上方落語は黄金時代を迎えることができた。


 本文のまま引用しているが、4月3日は4月2日の誤りだと思う。

 その名人初代文枝門下の弟子達は次のような顔ぶれ。

文枝門下の四天王は、初代文三(のちに二代目文枝となる)、初代文之助(のちに曾呂利新左衛門となる)、初代文団治、初代文都(のちの月亭文都)である。これらの人々がそれぞれ一家をなして、はじめて初代文枝が目ざした桂派全盛時代が現出したのである。


 その後、この弟子達により壮絶な襲名争いがあったのが、この文枝という名跡である。

 二代目の文枝を含む上方落語黄金期に活躍した噺家とバラエティに富んだ得意ネタも紹介したい。文枝は、あくまで“素噺”なのである。

 「桂派」「浪花三友派」が対抗して芸を競ったころ、一体噺家たちはどのような噺を演じていたのであろうか。前田勇著『上方落語の歴史』に番付などによる名人・上手の十八番が掲げられている。実に興味深い。それによれば、「桂派」では、二代目文枝は素噺、二代目文三は「百年目」「掛取り」、二代目南光は「稽古屋」「先の仏」「猿回し」、燕枝は「ない物買い」、談枝は「軒付け浄瑠璃」、万光「一休」「松茸山」「背虫茶屋」、二代目梅光はオッペケペー節、小文枝は「質屋蔵」「後家殺し」、枝太郎は「理屈按摩」「土橋万歳」、枝雀は「船弁慶」「野崎参り」、扇枝は「掛取り」、文屋は「辻八卦」「書生車」、伯枝は「立切れ線香」、三五郎は「春雨茶屋」「密合酒」<以上の人々の亭号は、すべて「桂」>、林家花丸は「新辻占」、五代目林家正楽は「鉄砲勇助」、笑福亭福助は「米揚げいかき」「口合小町」などであり、「浪花三友派」では、月亭文都が「背虫の住吉参り」「当世浮世床」、笑福亭福松が「紙屑選り」、笑福亭松光が「反魂丹」「化物長屋」「引導鐘」、艶文亭かしくが「たちぎえ」「辻占」、二代目桂文団治が「野崎参り」「三十石」「佐々木信濃守」、二代目桂米団治が「五人裁き」「三人兄弟」「立切れ」、二代目桂米喬が「鋳掛屋」「胴乱の幸助」、桂梅団治が「乙女狐」「稽古屋」、桂篤団治が「綿屋の火事」、三代目笑福亭松鶴が「大塩」、三代目笑福亭松竹は素噺、五代目笑福亭吾竹は「清水景清」、桂文我は「愛宕参り」「按摩芝居」、曽呂利新左衛門は「下の関水」「虱茶屋」などである。


 並んだネタ、半分以上は聴いたことがない。それはともかく、初代文枝についてもう少し別の情報源をたどりたい。
 
e0337777_11091628.jpg

小学館のサイトの該当ページ
 山本進著『落語の履歴書』(小学館101新書)には、初代桂文枝について、次のようにある。

 幕末期の上方落語界については、信頼できる史料が乏しいが、その少ない史料に目を凝らして見ると、天保から安政にかけては、桂、笑福亭、立川、江戸から分派した林家の四派が主流を占め、なかでも林家派が、大きな勢力だったことがうかがえる。
 慶応から明治になると、ようやく桂派が台頭し、林家派を越える気配を示す。そのころの形勢を表す貴重な史料に、明治三、四年の作成と思われる「桂派・川喜派連名表」がある。
 川喜派とは、明治の初年、川喜席という寄席を拠点に、二代目笑福亭松鶴、初代林家染丸らを中心とした一派。この連名表で、川喜派に対し、桂派の中心になっているのが、初代桂文枝である。桂派の始祖は桂文治だが、このころには、文治の名跡が江戸に行ってしまい、文枝が桂派の中心になっていた。



 同じ山本進さん編集による三省堂『落語ハンドブック』には、初代文枝についてこう記してある。
e0337777_11095714.jpg

山本進編『落語ハンドブック』(三省堂)

 もと大坂鰻谷の家具職で俗称を万兵衛。二二歳ごろ笑福亭梅花門で万光、のち上方四代(三代トモ)桂文治門に移り文枝となった。この間梅花、梅香を名のったともいう。安政期(1854-60)にはすでに文枝で「素噺の名人」の評があった。入込噺「東の旅」の一部であった『三十石』に工夫を加え大ネタに仕上げ得意物とした。この噺を質入れした逸話が伝えられている。人望に富み、四天王といわれる文之助、文都・文三・文團治のほか多くの門弟を育てた。桂の家元名の文治が江戸へ移ったあとの一派に再び盛況をもたらした桂派中興の祖とされる。この点江戸三遊派の圓朝に比すこともできる。



 最後の部分を強調したい。“江戸三遊派の圓朝に比すことのできる”名跡が、文枝である。

 これまで何度も書いているが、古典をできない文枝は当代で初である。継承すべき、文枝の名にふさわしい噺は、何もできない。

 また、「六代目」は松鶴を示すので、「六代」とするなどという奇妙な肩書きを本人は主張しているが、それでは「文枝」という名跡に対して失礼ではないのか。「六代目」は「六代目」である。

 吉本は襲名に便乗し、全国で安くない木戸銭で披露興行をしたようだ。襲名披露興行は、今年もあちこちでまだ続いている。商売、商売、だなぁ。

 さて、初代の命日に、「六代」は天王寺の全慶院を訪れただろうか。あるいはお墓のある大阪市下寺町の円成院にお参りしただろうか・・・・・・。
「日本の墓」サイトの該当ページ

 私は、「セコ文枝」としか言えない襲名は、結果として、襲名しなければ残ったであろう「創作落語の三枝」という名声をも潰してしまったように思えてならない。

 さて、十一代目の文治は別だ。彼は師匠の精神(スピリッツ)と芸の両方を継承している。もちろんプレッシャーもあるのだろう、襲名発表後に、「おや?」という高座もないではなかった。しかし、根っ子のところでは、十分に“文治”につながっているように私は思うし、期待もしている。
 しかし、当代の文枝には、たとえば『三十石』や『立切れ』への期待はできない。五代目の精神を継いでいるのかもしれないが、芸は・・・・・・。

 大きな名跡の襲名は、継ぐ方にも大きな覚悟を強いる。だから、十一代目の馬生の襲名について、五街道雲助や、むかし家今松が名乗りを挙げなかったことにこそ、私は感じるものがある。

 初代文枝の命日に、あらためて“六代目”の襲名について、くどい小言を書いてしまった。でも、「セコ文枝」と私は呼ばせてもらう。
[PR]
by kogotokoubei | 2013-04-02 20:58 | 今日は何の日 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛