噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

2013年 01月 30日 ( 1 )

 八代目正蔵に続き、その正蔵とも縁のあった噺家について、明日の命日を前にして書きたいと思う。

 十代目の桂文治のことである。大正13(1924)年1月14日生まれで、平成16(2004)年の1月31日、ちょうど落語芸術協会会長の任期満了日に旅立った。東京都豊島区出身の落語家で南画家でもあり、新宿末広亭で販売している高座扇子の着物姿の女性の後ろ姿など、私は好きだ。「友の会」の更新の際は、必ずこの扇子をいただく。父親も噺家で初代柳家蝠丸。出囃子の『武蔵名物』は十一代目にも継承された。

 八代目正蔵との縁、というのは十代目襲名の際に、正蔵の大きな力添えがあったからである。九代目桂文治は、本名の高安留吉から、通称「留さん文治」と呼ばれた。この「留さん」が正蔵と同じ稲荷町の長屋暮らしで、それも隣同士で、正蔵とは兄弟分の間柄だった。正蔵は一時、「留さん文治」の最初の師匠四代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。この四代目橘家圓蔵一門には、正蔵の“天敵”、六代目円生もいた。


 十代目文治の師匠は、五代目古今亭今輔や桂小金治などの師匠でもあった上方出身の二代目桂小文治。小文治が七代目文治門下だったとは言え、当時の伸治が大名跡を継ぐ立場にいたとは言えないだろう。
 しかし、九代目の「留さん」が亡くなった後で、正蔵の強い推薦があって十代目を継ぐことができたのである。「留さん文治」は落語協会所属だったから、師匠小文治と同じ落語芸術協会所属の桂伸治がこの大名跡を継ぐことなど、今日の両協会の関係を考えると、非常に思い切った襲名と言えよう。十代目文治と八代目正蔵の縁は、非常に深いものと言える。

 私にとっては、ご本人には申し訳ないが、文治よりも伸治の名で記憶されている。桂伸治(二代目)の名は、昭和23(1948)年から昭和54(1979)年まで30年以上の長期間名乗っていた。ちなみに文治としての在籍期間は25年。小学生時代に見た「お笑いタッグマッチ」が懐かしい。


 さて、十代目文治の弟子の一人で、大師匠の名を継いだ三代目桂小文治が、ホームページ「桂小文治は噺家で!」に、師匠が亡くなった時の状況などを書いているの引用したい。冒頭の秀美さんとは、師匠の御子息の名である。
桂小文治のホームページ

 秀実さんから「ちょっと話しておきたい事があるんだ。皆、都合はどうかなあ?」「はい、私から連絡します」1月27日昼、師匠宅に蝠丸・伸治・小文治・平治・右團治の真打5人が集まりました。皆、洒落も笑顔もなく重々しい雰囲気です。

 「お父さんの病気なんだけど、肺炎じゃあないんだ・・・。白血病なんだ」「ええっ、白血病?」病気の詳しい説明を聞きました。31日から抗がん剤を投与する予定。もしかしたら、意識不明になる恐れがある。感染症が心配なので本来は見舞いは出来ないけど、師匠も会いたがってるから、抗がん剤投与前日の30日に師匠に会って元気付けてもらいたいとの事。皆、ただただ驚くばかり、この現実を受け入れたくない気持ちでいっぱいです。「それで色々騒がれたくないから、今まで通り、インフルエンザをこじらせて肺炎になったと言う事にしておいてね」「はい、承知しました」

 30日昼、5人で待ち合わせて東京女子医大に行きました。皆、口数少なく本館のエレベーターを上がり師匠の病室へ。ドアを軽くノックしたら秀実さんが出てきて「ちょっと待ってね」しばらくぼ~っと待って中へ入りました。師匠は「ハア、ハア」と息苦しそうにベットに横たわっています。私達の姿を見て、ベットを起こし座るような姿勢になり、開口一番「誰が会長になった?」「歌丸師匠です」「そうか、俺はもう~これからは好きにやるよ」常に血圧や心電を計っています。後で聞いた話ですが、私達がいた時だけ正常値になったそうです。かなり気を張ったのではないのでしょうか。長居はできません、弟子一人一人が師匠と話しをし、元気付けて失礼する事にしました。先ずは私から「師匠、私達一門だけじゃあありません。芸術協会の為にも落語会の為にも早く元気になって下さい」涙をこらえるのがやっとです。続いて右團治「師匠噺の稽古をお願いします」次の平治「・・・師匠~・・ううぇ~」泣き始めちゃった。師匠は目をぱちくりして何が何だかわからない様子。何とか終らせて伸治兄さん、蝠丸兄さん・・・。病室を出たらもう~皆涙が止まりません。「師匠の死期を早めたのは平治だ」と言うのは本当かもしれません。

 感染症の心配はあるけれど、これからは弟子が交替でそばにいて師匠の世話をし、元気付けようと言う事になりました。その割り振りを私がすることになり、何の気なしに2月1日から決めたのです。まさか31日に亡くなってしまうとは・・・。



 師匠の死期を早めた、といじられている平治が、十一代目文治を継いだ。もちろん、芸も継承していて『源平』や『禁酒番屋』『鼻ほしい』などの滑稽噺で会場を爆笑の渦にする実力者と、私は認めている。

 さて、小文治のサイトには、あの「ラッキーおじさん」の逸話も書かれているので、ご紹介したい。

 師匠は小柄で威勢がいい、それに何と言ってもあの大きな目玉をくりくりっと動かす、これが大変な魅力だったのではないでしょうか。ファン層にも幅があり、女子中・高に「かわいい!」なんて言われてたんですよ。西武池袋線沿線で(ラッキーおじさん)に会うと、その日一日が幸せになると言う噂がラジオで紹介され、若者の間に広まっていますが、どうやらその(ラッキーおじさん)がうちの師匠らしいのです。上は着物で、下は変ったずぼん(もんぺ)、帽子をかぶって草履を履いて、変なカバンを持って杖ついてる・・・こんな人、師匠の他に滅多にいませんからね。



 「ラッキーおじさん」のネタは、文治一門に限らず噺家がマクラで使うことがある。

 さて次に、高田文夫が「日刊スポーツ」に書いていたコラム「娯楽 極道 お道楽」をまとめた『毎日が大衆芸能』という本のシリーズの第二巻から引用。

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高田文夫『毎日が大衆芸能-しょの2-』(中公文庫)

正しい東京人

 桂文治師匠が風邪で入院しているといううわさは聞いていた。しかしこんなにいきなり亡くなってしまうとは。去り方までが、江戸っ子らしくあっさりと。80歳。小柄で丸くて大きなかわいい目をしていて、晩年はそのいなせな角刈りの髪も真っ白で、高座は愛嬌たっぷりで、そのくせ人一倍、江戸の暮らし、言葉などにはうるさくて、私などが東京っ子として間違った言葉遣いをしてインタビューすると、ピシッとその場で小言、これがまた含蓄があって楽しくて勉強になった。日本一かわいいおじいちゃんだと思っていた。心のアイドルだった。365日、常に着物で暮らしていた。「堀之内」「道具屋」「源平」など軽い噺がバツグンにユーモラスでホールではなく寄席が一番似合った師匠だった。楽屋の火鉢の所にいるだけでそこはもう江戸から明治の空気、風情だった。また正しい東京人を一人失った。お年寄りが一人亡くなるということは図書館が10軒つぶれることだという。もっともっと何でも聞いておけば良かったかなぁ。



 十一代桂文治も、日常着物で通している。芸のみならず、師匠の精神の継承なのだろう。

 お年寄りが一人亡くなるということは図書館が10軒つぶれることだ、という言葉、なかなか味があるし説得力があると思う。

 八代目林家正蔵は、五代目柳家小さんの名には縁がなかった。文楽という強力な後ろ盾のあった九代目小三治が継ぐことになった。その正蔵が、小さんにも負けないだけの大名跡である文治の襲名において、今度は後ろ盾になったという歴史の巡り合わせに、なんとも不思議なものを感じる。

 八代目正蔵のこと、そしてこの記事を書いた後、ネットで稲荷町の長屋の写真を発見。「二邑亭駄菓子のよろず話」というホームページの「東京-昭和の記録-」における、東上野の写真の中にあった。あまりにも貴重で雰囲気の出ている写真なので、管理者の方にお願いし許諾を得て掲載させていただく。
 昭和59(1984)年4月当時の写真。その昔、奥の四軒長屋に「トンガリ」と「留さん」が住んでいたんだね。

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「二邑亭駄菓子のよろず話」の「東京 -昭和の記録-」

 この長屋で「トンガリの正蔵」の隣りにいた「留さん文治」は、その十八番の中に十代目文治の父である初代柳家蝠丸の作『大蔵次官』があった。そういった縁も含め、きっと稲荷町の長屋で、次のような会話があったのではなかろうか。

文治 正蔵さん、俺も、もう長くはねぇよ。
正蔵 おい、留さん、何を言ってんだ。そもそも、おめぇさんの大きな名を継ぐ者が
   決まらねぇままでは、逝っちゃいけねぇよ。
文治 ・・・それなら、伸治がいい。あいつがいいやね。
正蔵 ・・・それは、難しかろう。協会が違ってるよ。
文治 そんなことは関係ねぇよ。問題は人だよ。第一、俺には継がせるだけの弟子は
   いないよ。伸治は親の代からの噺家・・・あいつでいいんだよ。


 まったくの想像である。
 
 本来なら継ぐことのできなかったであろう大名跡を、「トンガリ」正蔵の後押しで継承することのできたことを考えると、ご本人こそが、まさに“ラッキーおじさん”であったといえるだろう。
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by kogotokoubei | 2013-01-30 19:30 | 今日は何の日 | Comments(4)

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by 小言幸兵衛