噺の話

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落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。

2012年 06月 18日 ( 1 )

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笑福亭松枝著『ためいき坂 くちぶえ坂』(浪速社)

 このブログにコメントをいただく上方落語愛好家の方に教えていただいた本を、ようやく読み終えた。実は、先週の土曜に池袋演芸場での芸術協会の真打昇進披露興行に出向いたのは、ちょうどこの本を読んでいたことも動機の一つ。笑福亭松鶴の孫弟子が東京で初の真打昇進、ということで、久しぶりに師匠の鶴光の顔と一緒に里光なる噺家の高座を見ることも目的の一つだった。

 1994年に初版が発行され、昨年6月に改版発行。副題が「松鶴と弟子たちのドガチャガ」。まさに、その“ドガチャガ”は何とも可笑しかったり、理不尽だったり、そして感動的であったりする。

目次から章の名前をご紹介。
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「増刷にあたり」
序章  凍てついた時間
第一章 ためいき坂、くちぶえ坂
第二章 「昭和ブルース」
第三章 粉浜村「虎の穴」
第四章 それぞれの彷徨
終章  溶け始めた時間
あとがき
<付録>松鶴一門の推移・一門系図
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 巻末に松鶴一門が紹介されているが、なんという人数なのだろうか。筆頭弟子仁鶴から順に並べてみる。

仁鶴-鶴光-福笑-松喬-松枝-呂鶴-故・松葉(七代目松鶴)-鶴瓶-鶴志-小つる(六代目枝鶴)-伯鶴-和鶴-竹林-円笑-鶴松-岐代松-伯枝-忍笑-福輔(廃業)-鶴笑-鶴二-小松(廃業)

 物故者一名、廃業者二名を除いても、十九名が六代目松鶴の直弟子として現役で活躍しているわけだ。

 本書で松枝が書いているが、五代目松鶴の苦労を知っている六代目は、上方落語が盛んになるには、まず噺家の層が厚くなることが必要と考え、弟子に関しては「来る者を拒まず」「去る者を追わず」という主義だったようだ。他の一門が、入門段階で適性などをふるいにかけるのに比べると、まず取り込んでから、あえて理不尽なことも含めた困難を味わわせて、それに耐える者だけが自然に残る、というのが松鶴の考えであったのだろう。この「虎の穴」の修行に途中挫折した者を除いても二十人近いこの顔ぶれというのは、米朝一門に匹敵する層の厚さを誇っている。

 著者松枝は、すでに見たように五番目の弟子。昭和25年生まれ、昭和44年3月1日入門。

 松枝が本書を書く気持ちになったことは、本文の終章において、松葉との会話として語られている。「平成五年十二月三十一日」の章から抜粋。

「あれから色々考えた。此の時期にこれ程の難儀に遭うとは・・・・・・、筆頭弟子もエライ爆弾を持ち込んでくれたな・・・・・・」
 松葉も苦笑した。
「これから暫く、いやその後も、“しんどい事”になりそうや・・・・・・」
互いのそれは、趣を変える。しかしその説明も必要無く思える。
「君は無論、僕・・・・・・、いやお互い、重い十字架を背負う事になる・・・・・・。辛い事になりそうやな・・・・・・」
 松葉は殆ど無言でいる。言葉を探しあぐねているのではない。無言でいる事が、松枝への全面的な同意なのである。
「我々は、改めてその真価を問われる。その関係も・・・・・・。そこでな・・・・・・」
「・・・・・・はい」
「“その日”が、来るかどうかは分からんが、来た時に俺は心の底から“その事”を、“君”を祝う・・・・・・祝える自分、になって置かんといかん・・・・・・。分かるな」
「はい」
「“本”を書こうと思う」
「・・・・・・本」
「自分が入門した頃の事、君の事。他の兄弟弟子の事。何より、師匠の事。此の際、整理しておきたい。それらの事を思い出す。もう一度それらの意味を考え直して置きたい。(後略)」


 
 “筆頭弟子”仁鶴による“爆弾”は三日前に落とされた。どんな“爆弾”だったのかは序章に書かれている。本書は次のように始まる。

平成五年十二月二十八日

「ええか・・・・・・。これからワシ、『ある事』を言う。三人共、賛成してや」
 仁鶴が声を潜めて言った。三人とは松喬・松枝・呂鶴である。その気配にただならぬ物を感じ、松枝は不安を覚えた。
『ある事』とは何なのか、何に賛成せよというのか・・・・・・。
 平成五年十二月二十八日、笑福亭一門の忘年会、今まさに乾杯を前にしての事であった。


 この忘年会には二番弟子鶴光、三番弟子の福笑が欠席していた。よって、四番弟子、五番弟子、六番弟子の三人に、仁鶴は乾杯直前に、声をかけたのだった。そして、『ある事』とは、何だったのかが、筆頭弟子から明かされた。

「先日、松竹芸能・勝社長よりお話があり、早く『笑福亭松鶴』の名前を復活させるべきではないか・・・・・・私も、尤もと思い・・・・・・そこで、その候補を六代目松鶴の直弟子であり、松竹芸能所属である者に絞り考えました・・・・・・。本日、その名前をここに発表します」
 凍結では無く、さらに仁鶴(吉本所属)本人で無いと言う。ならば・・・・・・。
(中 略)
「私は熟考しました。そして苦しいながらも、結論を出しました・・・・・・」
 鍋が煮えたぎりグツグツ音を立てた。自分の心臓の鼓動に似ていると松枝は思った。
 音にせきたてられたかのように、仁鶴は一息に言った。
「熟考を重ねた結果、『七代目・松鶴』は・・・・・・七番弟子の『松葉君』に」
空気が氷った。時間が凍てついた。



 松葉は、結局七代目を継ぐことになったのだが、癌にむしばまれ、当初昇進披露興行を予定していた日に亡くなった。松葉については昨年の命日に書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2011年9月22日のブログ

 さて本書のことに戻る。先にエピローグとプロローグの一部を紹介した。「ネタバレか?」との思いもあるが、この件はある程度巷間に伝わっていると思うので、あえて引用させてもらった。
 松枝が描く笑福亭松鶴一門の最大の“ドガチャガ”が、この「七代目・松鶴」襲名問題であることは間違いがない。しかし、本書には師匠松鶴と何とも多彩な弟子たちとの“ドガチャガ”が、まだまだたくさん書かれている。
 第一章は、松枝が入門するために南海本線「粉浜(こはま)駅」からほど近い坂道の上にある長屋の松鶴宅を訪ねる場面を振り返ることから始まる。この「坂」に二つの名を松枝はつけた。朝松鶴宅に行く時の「ためいき坂」であり、帰りの「くちぶえ坂」である。この坂の名がタイトルになったわけである。

 松鶴と弟子たちの“ドガチャガ”は、時に「そんなアホな!?」という想像を超えた芸人ならではのエピソードであったり、「そりゃ、あかんで!」という犯罪一歩手前の事件であったり、「ええ話やなぁ・・・・・・」という涙を誘う逸話であったり、とにかく盛りだくさん。

 盛りだくさんの最初は、松鶴の弟子への罵りのボキャブラリー(?)から。

「アホンダラ、ボケ、カス、間抜け・・・・。エライ奴弟子に持って(し)もた、一生の不作や、情け無い・・・・・・。三文の値打ちも無いガキ。(やる)気が無い、愚図い、イタイ・・・・・・この腐れ弟子・・・・・・。。やめい、去ね、死ね、出ていきさらせ・・・・・・」


 この言葉でひるんでいては、六代目の弟子などは勤まらない。

 松鶴の数々の逸話は、章の途中に「松鶴の腹巻」と題して挟まれている。一つだけご紹介。

酔って帰宅した松鶴が、出迎えた弟子達に言った。
「ワシ、今朝“黒”の靴出せ言うたのに、“白”の靴履かして出しよったん、誰や」
見ると“黒”の靴を履いている。伯枝が恐るおそる言った。
「あの、師匠“黒”の靴履いてはりますけど・・・・・・」
「・・・・・・情け無い。お前はまだワシのイキが分かってない。ええか、師匠が“白”いうたら、“白”やねん。たとえ“黒”でもそれは“白”やねん。師匠と弟子とはそう言うもんやねん。・・・・・・猿笑、此の靴は何色や」
「“白”で御座居ます」
「うん。さすがに兄弟子だけの事は有る。忍笑、“烏”は何色や」
「白です」
「岐代松、“炭”は何色や」
「白です」
「うん。伯枝、此の靴は何色や」」
「白です」
「・・・・・・、お前、阿呆と違うか。これは、“黒”や。・・・・・・お前ら皆阿呆じゃ。“烏や炭が白い”なんて言うたら笑われるで。誰が何と言おうと“白は白”、“黒は黒”。あ—、阿呆な弟子仰山持ってもた、情けない。もう寝る・・・・・・」


 権太楼のマクラを思い出す、なかなか味のある楽しい逸話ではないか。

 昭和47年に鶴瓶が入門した頃から、松鶴を慕って入門する弟子が急増した。弟子は“年季”が明けるまで通いで師匠宅で修行をするのだが、遠くから通う者たちのために松鶴は一計を案じた。

 弟子の増えた松鶴は、権利金を払ってやり、溜息坂の下の長屋の一棟に連中を住まわす事にした。
「朝と昼はうちで食べたらええ。晩飯と家賃はアルバイトでかせいでやっていけ。ええか、仲良う真面目にせえよ・・・・・・」
「たおれ荘」と名付けられた此の長屋で共同生活を始めたのは、「小松」「松橋」「一鶴」「遊鶴」「鶴志」の五人である。全員二十歳以下であった。ただでさえ危ない。
(中略)
 建物の古さは度を越していた。壁土は無数無残にこぼれ堕ち、数ヵ所畳に腐りが見え、部屋の中程には空いたか空けたか、床が陥没して下の土が覗ける所もある。布団は敷きっ放して垢じみ、すえた匂がする。畳は即ゴミ箱でチリ紙、カップ麺の殻、いかがわしい雑誌のいかがわしいグラビア等で足の踏み場も無い。極め付けは便所に戸が無かった事である。彼らは小も大も“”さらけ出し”で用を足して居たのである。又、その光景を横に見て食事をしていたと言う。驚嘆を通り越して尊敬すらしてしまう。


 ちなみに、『たおれ荘』の五人の弟子達は、鶴志以外は現役として残っていない。それは、もちろん『たおれ荘』に居たからではない。弟子ラッシュの頃に入門した人たちは、たとえば人前では緊張で何もしゃべることのできない若者や、師匠の好物がタバコの“ピース缶(ピー缶)”だと聞いて、実家に頼んで“ピーマン”の缶詰を送らせる弟子などもおり、全員が残るほうが不思議なのだ。ある意味では、修業中に自分の適性を早く見極めることで新たな人生を歩むことのできた若者も多かったのだろう。

 著者松枝は、自分自身のしくじりも披露するし、もちろん先輩後輩たちのさまざまな“ドガチャガ”が明かされる。現在人気者の鶴瓶に関する、ちょっと恥ずかしいエピソードなども含まれているが、ここでは明かさない。

 松枝本人に関するエピソードの中で印象深い話が、第二章の「涙の中に顔がある」で書かれている。名古屋の松鶴独演会に、他の兄弟子もいる中で前座と付添として抜擢された松枝と師匠との話なのだが、この部分、私は電車の中で読んでいて涙をこらえるのに苦労した。100ページ近くなったら、人前で読まないことをお奨めする。

 六代目のことを思う時、どうしても父五代目松鶴のことも知っておく必要があるだろう。明治から大正、昭和の初めにかけて上方落語界再興のために奮闘した五代目のことをWikipediaから引用したい。Wikipedia「五代目笑福亭松鶴」

 松鶴は、1936年4月1日に私財を投げ売って『上方はなし』を創刊。1937年には、遂に吉本興業を離脱。2代目桂米之助(後の4代目桂米團治)らと共に、上方落語の復興を模索し始める。その後、東成区大今里の自宅を「楽語荘」と名付け、若手の育成に力を入れる。なお、『上方はなし』は1940年4月、49号を最後に資金不足、紙不足等の理由で廃刊。
その他にも1937年9月には京都・大阪で『上方はなしを聴く会』を開いたり落語をやれる場所があればどこでも駆け付けた。1943年3月吉本の高座に復帰するが、戦争の空襲で大阪が焦土と化した。
戦後も、終戦の年にいち早く「楽語荘」の再開や上方落語の会を四天王寺本坊で開催。1947年3月、文楽座での興行の成功や、9月の戎橋松竹開館にこぎつけるなど活躍。1949年には関西落語協会の副会長に就任したが、翌年病で倒れる。享年67。


 六代目の弟子や若手落語家、それも東京落語界を含む噺家達への面倒見の良さは、この偉大な父のことを考えずに説明できないように思う。それは、偉大な父を持つ同じ境遇の古今亭志ん朝との関係にも現れる。
 昨年、六代目の命日に紹介した『志ん朝と上方』から、あらためて紹介したい。
岡本和明著『志ん朝と上方』(アスペクト)
2011年9月5日のブログ
六代目松鶴という人
   志ん朝が最も敬愛した上方の咄家は、六代目笑福亭松鶴である。
   父親は五代目笑福亭松鶴。志ん生の息子として生まれた志ん朝に
   とっては、同じような雰囲気を持った松鶴はそれだけ親近感を
   覚えたに違いない。現在でも“六代目”と呼ばれ、多くの落語
   ファンに愛されている松鶴についてまず語ってもらおう。

—志ん朝師匠とは知り合うきっかけは?
仁鶴 うちの師匠(六代目笑福亭松鶴)を通じてです。
—紹介されたわけですか?
仁鶴 松鶴がよく仕事をしている三栄企画という事務所があるんですよ。うちの師匠は松竹芸能に体を預けてるけど、営業はその事務所を通じてやったんです。
 うちの師匠と志ん朝師匠は気が合いますわなあ。お互い血ぃ引いてるから、われわれにはわからない、共感というのがありますよ。そやから仕事もよく、その三栄企画という事務所を通じて、よくやられたみたいです。
 僕は松鶴の弟子ですけど吉本(興業)の所属やけど松鶴とも一緒に落語会をやったし、志ん朝師匠ともやってたんです。で、師匠が亡くなってからは志ん朝師匠と“二人会”という形で数多く、全国でやるようなったんです。
—志ん朝師匠を語る時、松鶴師匠を抜きには語れないと思いますが、松鶴師匠はどんな方でしたか?
仁鶴 非常に面倒見のいい人でしたよ。だから、東京の咄家さんにもずいぶんと友達が多かったですよ。そやから、僕なんか、ずいぶんと得をしましたよ。大阪に来た時・・・・・・文楽師匠(八代目)、志ん生師匠(五代目)、可楽師匠(八代目)、みな、“名人会”で来ておられたんですが、かわいがっていただきました。
 (中 略)
—志ん朝師匠は、昭和三十四年十一月に初めて松鶴師匠に会っていますが、このころはまだ枝鶴の時代ということになりますね。
仁鶴 ですから、何か責任感というか、咄家の血を引いたための責任感みたいなんがあった。・・・・・・性分もあるし、お酒っちゅうこともあって、東京の師匠達との付き合いは一番多かったんと違いますか。
—六代目はお酒についての逸話がずいぶんありますが?
仁鶴 いっぺん、師匠に言うたことがあるんですよ。
「お酒、もう、適当にしはったらどうですか?」
って一門が揃ってるところで、毎晩ですから。で、その後、
「師匠は夜も仕事してはりますな」
って言うたんです。
「もう、終わったら自分一人ですっと嗜んで、家へ帰ることがあってもええと思う」
 みなを連れてって、わっと騒ぐというのが半分仕事みたいになってました。
—本当はあまり楽しんでいなかったわけですか?
仁鶴 まあ、楽しんでるのは半分ですなあ。・・・・・・半分はがんばりですな。そやから家ではお飲みにならないんですよ、うちの師匠は。晩酌はやらないんです。
 

 名人と言われた父を師匠とする松鶴と志ん朝の年令差は、ちょうど20歳。父と子というよりは、年の離れた兄弟という感じだったのかもしれない。志ん朝の酒の呑み方も凄かったらしいから、酒でもつながっていたのだろう。二人だけにしか共有できない空間と時間が、きっとあったはずだ。

 志ん朝が、「とても親父のようには出来ない」と思い、円生や文楽の高座を目標にしたと察することはできる。そして六代目も、「とてもおやっさんのような立派なことはでけへん・・・・・・」と悩み考え抜いていたと思うのだ。

・偉大な父五代目松鶴のように、俺は上方落語に貢献できるんやろか?
・とても、博識のある親父のようには、でけんやろなぁ・・・・・・。
・上方落語が賑やかになるには、ともかく噺家が大勢おらんことには始まらん。
・よっしゃ、どんどん弟子とって、苛め抜いて、そこから這い上がる奴を育てたろ!

 こういう思いが、あったのではないだろうか。もちろん、酔って帰った時には、“高邁”な師匠の信条などには関係なく、弟子に罵声も浴びせ鉄拳も飛んだであろう。しかし、数多くの弟子を松鶴と奥さんである“アーちゃん”が抱え続けたことの基本には、上方落語界への熱い思いがあったはずだ。とんでもない弟子達に、豊富な表現力(?)で罵声を浴びせながらも、松鶴という人の本質には繊細な優しさがあり、まさに慈父の目を注いでいたことは、本書でもよく伝わる。それは、七代目を継がそうと期待した実子(当初光鶴、その後五代目枝鶴、現在行方不明)が、その重圧に耐えられず落語の世界から逃げ出したことと無関係ではないだろう。
 だからこそ、弟子にとって「松鶴」は、あくまで六代目の「おやっさん」のことであり、自分達が元気なうちは、「松鶴」の名を止めておいて欲しかったのだ。
 
 七代目襲名をめぐる“ドガチャガ”のことを書き残したいという松枝の思いは、松鶴と弟子たちの数多くの“ドガチャガ”を包含し、上方落語の一大勢力を誇る一門を知るための貴重な記録、記憶で溢れた好著につながったと思う。
 この“ドガチャガ”は、なかなかに凄い。上方に関わらず落語愛好家の方にぜひお奨めです。
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by kogotokoubei | 2012-06-18 22:56 | 落語の本 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛