噺の話

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2010年 03月 25日 ( 1 )

五代目 柳亭左楽

 今日3月25日は、五代目柳亭左楽の命日である。本名中山千太郎、明治5(1872)年3月5日に生まれ、昭和28(1953)年の3月25日に亡くなっている。その壮大な葬儀の記録なども掲載された『落語百景』をすいぶん前に取り上げたことがある。
2008年8月23日のブログ

 八代目桂文楽は、芸の上では三代目の三遊亭円馬に数々のネタを授かったが、人生の師としてはこの五代目左楽を挙げている。他にも八代目の三笑亭可楽、四代目柳亭痴楽などが弟子だった。一時隆盛を誇った「睦会」の会長として時の落語界における重鎮であった人物。関東大震災後の左楽の活動により現在の落語協会につながる「東京落語協会」ができたことや、その後の睦会のことなどが落語協会のホームページに紹介されているので引用する。落語協会HP 「協会沿革」
 大正12年10月関東大震災の後に、五代目柳亭左楽が奔走した結果、大同団結し「東京落語協会」を設立する。これが現在の社団法人落語協会のルーツとなる。
しかし、翌13年6月には、またまた分裂。旧睦会が独立し「東京落語睦会」として復活する。その後も、両会派はさらに小さな分裂や解散を繰り返す。その団体名を挙げるだけでも「落語演芸東西会」「柳三遊研成社」「日本演芸協会」「東京演芸組合」「三語楼協会」「金語楼一座」「東京落語組合」など、正確に把握する事さえ困難なありさまである。
昭和5年、六代目春風亭柳橋と柳家金語楼が「日本芸術協会」を創設する。これが現在の社団法人落語芸術協会の母体である。

 どんな噺家であり、どんな人物だったか、『続聞書き 寄席末広亭』から深く親交のあった北村銀太郎の回想で紹介。続聞書き 寄席末広亭 -席主北村銀太郎述-(富田均)

 五代目が高座で脚光を浴びたってのは、日露戦争から帰ってからなんだ。当時三十代の半ばで、若手のバリバリだ。銀座の夜店で『原田重吉玄武門破り』という一冊二銭の豆本を買って来て、これを一席にまとめて高座にかけたら、やんやの喝采だ。話は原田が玄武門を超えて中に入り、閂を外したっていう、例の肉弾三勇士みたいな戦勲物なんだ。この話は五代目の尾上菊五郎も芝居でやったくらいに、当時は誰もが知っている有名な話で、聞いたところで珍しくもなんともないっていう代物だったんだけど、そこが芸というか、話術のおもしろさというもんで、お客が沸きたっちゃった。なにしろ本人が戦線に行ってたんだから、話に迫力がある。それから『乃木大将』、これも大当たりだ。例の二百三高地の話なんだけど、時代が時代だから大人気だ。とにかく機を見るに敏で、もともとが講釈師だから歯切れがいい。戦勲物なんて、持って来いなんだ。
 そのあと暫くは大当たりが出なかったけど、大正の末にもう一度左楽人気が訪れた。鬼熊事件というのがあって、それを高座にかけたのが大ヒットしたわけだ。人を殺して、千葉の多古の山中に逃げ込んだ犯人を追って大捜査が布かれたんだけど、山中ということもあってなかなかつかまらない。多古というのは成田から南東に二十キロばかり入ったところにある山村でね。なんで鬼熊かっていうと、これがよく出来ていて、犯人の名前が熊次郎なんだよ。この男が飲み屋上州屋に勤めるおけいという情婦がほかの男に心を寄せたのを怒って復縁を迫ったが結局は駄目、おけいは浮気もん、おととい来いってはねつけた。で、とどのつまりが撲殺よ。焚火か鍬で殴ったんだろう。ところが、熊はそれでもおさまらない。おけいを横どりした男の家に突っ走って、その家に火をつけた。そして、山の中へ、とこうなったわけなんだ。千葉県警と近くの消防団員、こういう連中までが総動員されて、いつかの虎探しじゃないけど、熊を求めて山狩りが行われた。(中 略)この熊探しを、五代目がルポしたわけなんだよ。
 五代目は毎日、昼前に出かけて行っちゃ、夕方東京に戻って来て、すぐ高座にそれをかける。こまかいんだよ、話が。山のどこそこに大便がしてあったとか、やれ、足跡がどこそこにあったとか、どこから逃げ込んで、今日の昼の状況はこうだとか・・・・・・。それをお客が目当てで連日聞きに来る。(中略)
 五代目は古典もやって、「五人まわし」なんてかなりよかったけど、ま、落語一席となると、どうしても弱かった。三代目小さん、初代円右、二代目燕枝、こんな名人たちと比べりゃ、ずっと下だったよ。どう贔屓目に見ても、高座じゃ名人と呼ばれるような噺家じゃないんだよ。ところが、なぜかそれでいて重鎮なんだ。実に不思議な、一般の人にはない不思議な魅力があった。大体、気骨があったという点じゃ、すば抜けてたよ。だから、小さん、円右、燕枝なんてところも、芸でははるかに上まわっていながら、五代目には結局かなわなかった。明治、大正、昭和の三代で、私の知る限りあの人以上の器量人は、ほかにいないね。

 噺家としては、本寸法とは言えず時流にのった新作派であり、それも当時としては非常にオリジナリティがある噺を語っていたようだ。北村翁が語るように、芸人としてより人物としての評価が高い人。その“器量人”の具体像を次のように回想している。
 あのころで月三回、市内の席亭が全員神田の花月に集まっちゃ、どの芸人をどの寄席にまわす、いや、まわさないって、俗にいう顔づけ、早く言えば、いい芸人のとり合いをやってたわけだ。むろん席亭だけじゃなくて、協会の方からも小さんを初め大幹部が出て来る。一応平等らしくやらなきゃおさまらないから、まず一流の寄席にとりあえずひとりずついい噺家を配る。四谷喜よし、神楽坂演芸場、芝恵智十、神田花月、白梅、立花、こんなところから決まってゆくわけだよ。一流はのんびりとしていても、ひとりは必ずいいのがまわって来るのはわかっているから煙草吸ったり、おしゃべりしたりで余裕しゃくしゃくだ。
 ところが、それが一流から二流、三流へと下りてゆくに従い、灰皿は飛ぶ、椅子は飛ぶ、殴り合いは始まるの大騒ぎに変わって行っちゃう。あのころで何十って寄席があって、いい芸人は何十人もいないから、そりゃあ凄いとり合いなんだ。喧嘩は席亭同士だけじゃない、芸人も芸人で格下の寄席にはまわされたくねえって、あれこれいちゃもんつけちゃゴタを巻き、とっくみ合いを始めちゃう。しかし、騒ぎの中心はなんと言っても席亭の方だ。お膳なんかあっちこっちでひっくり返されて、至るところ滅茶苦茶。みんなどうかしちゃったんじゃねえかと思うくらいの荒れ放題なんだ。そりゃあ、そうしてもそうなるよ。隣の寄席にいいのが出て、こっちに出ないじゃ、やる前から商売上の勝負がついちゃってるわけなんだから。私はどうでもいいですなんて顔してたら、すぐ廃業だよ。まあ、ここでも結局、五代目が割って入るようなことで決着をつけることになる。また、五代目がいなきゃ、まとまらない。席亭と芸人で五十人近くもいるんだもの、それがみんな自分にいいことばかり考えてんだから・・・・・・。とにかく、小さんがいても駄目、燕枝がいても駄目。小さんがいくら夏目漱石に絶賛されるほどの名人だとしても駄目。また、横山大観が燕枝の人格をどれほど称讃していようとも、これも駄目。外部の声なんぞ、内側に入ってみればなんていうことないんだよ。芸もあることながら、たくさんの人間がそこに寄って来ると、とどのつまりは人間としての大きさ、深さ、暖かみ、こんなものしか通用しなくなっちゃう。

 当時の寄席は鳶や北村銀太郎のように大工の棟梁などが経営していることも多く、顔づけが修羅場になったことは容易に推察できる。そして、その修羅場を治めるだけの器量人が五代目左楽だったというわけだ。

 弟子の八代目桂文楽の芸談『あばらかべっそん』からも引用。
*この本、私は朝日ソノラマの昭和44年初版を古本屋で買ったが、その後でちくま文庫から出ているのだが現在品切れ状態。ちくまが重版してくれるか、“落語本復刊”の河出書房新社に期待している。
 ところで左楽師の話ですが、年のくれになって我々がどうにもしょうがないから、師匠のところへ借金にゆきます。
 そうすると、
 「いつ返すかイ?」
 「ヘィ正月早々お返しに・・・・・・」
 こんなことでもいってごらんなさい。
 「冗談いうなイ。正月早々に返せるわけがないだろう」
 とやられてしまいます。
 そりゃお正月は、初席(はつせき)といって大へんにお客さまが来ますから、ふだんの何倍という収入があるにはちがいないが、何しろ年のくれで乾き切ったあとだから、先ず自分の身の廻りのことにつかいたかろう。
 だから正月早々に返せるわけがないと、苦労人の師匠はこういうのです。
 急所を突かれて、
 「へっ・・・・・・へィ・・・・・・」
 と、こっちがヘドモドしていると、
 「二月の一日に返しねえ」
 師匠の方からハッキリとこういわれます。
  (中 略)
 師匠が、まだオットセイ(四代目)のところにいて、仙台の開汽館(かいきかん-汽は喜だったかもしれません)へ興行にいったとき大へんな入りで、初日に酒がでる、モートロ(ばくち)をはじめて、大へんな景気でいるところへ、警察の手入れがあってみんな縛られてしまった。
 このときに師匠はいちはやく証拠の品をみな破いたり何かしてしまい、自分ひとりが罪をしょって七十五日だか未決に入りました。
 そうしたら、でて来るときに検事が師匠の肩を叩いて、
 「お前はえらい人だなぁ」
 といったそうです。

 この義侠心というか、自らを犠牲にして師匠や仲間を救おうとする精神には頭が下がるじゃないか。盗撮をしながらしらばっくれて病気などと嘘をつき、バレてから空虚な言葉だけの詫びを入れ、まだ一年の謹慎が明けないのに練馬の方の地域寄席で、予想通りコッソリと復活している正朝などとは、器があまりにも違う。まぁ、比べるのも五代目に失礼な相手だった。
*IMAホールのサイトには“公式情報”として顔写真入りでこの人の参加するイベント情報が掲載されている。この件、この寄席が社会福祉的なイベントであるようだが落語協会の許しを得ているのか・・・・・・。落語協会のホームページに彼の名前はまだ復活していない。もし特定の目的などで出演するのであれば、自分のブログで明言すべきでしょう。ブログはいまだに年頭のお詫びの挨拶からの更新がない。
光が丘IMAホール 公式情報

 命日ということもあるが、なぜ五代目左楽を取り上げたかというと今回の七代目円生襲名騒動があったからでもある。前代未聞の「襲名対決」という興行そのものはユニークで外野も楽しめるのだが、この噺にはサゲが見えない。どうも大山鳴動して両者とも襲名せず、円生の名跡はしばらく空席のままになる予感がする。

 修羅場とまではとても言えないレベルの混乱も、五代目のような器量人が不在だから起ったと言うこともできるだろう。噺家でも席亭でも、そして評論家でもご意見番でも誰でもいいが、その人物の器量・度量をもって周囲を鎮め納得させて一つの結論を導き出すだけの人物がいない。協会も芸協の現会長も犬の遠吠えのような寝言を吐いているだけに見える。

 さて五代目左楽ならどう仕切っただろうか、という思いから命日の今日取り上げてみた次第。もちろん、今のような事態になる前に何らかの解決策を引き出したに違いない。“できた”人物、“器量人”というのは、問題が発生する前に芽をつむことができるから偉いのだ。あまりに器量人を欠く現在の落語界を思うと、古(いにしえ)の偉人へのノスタルジーが募る。
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by kogotokoubei | 2010-03-25 12:39 | 落語家 | Comments(4)

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