里見弴と初代柳家小せん。
2018年 07月 14日
矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)
先日、宇野信夫のことで引用した矢野誠一さんの『文人たちの寄席』には、里見弴の章もある。
なお、本書の初版は、平成9(1997)年4月に白水社から発行され、私が持っている文春文庫版の発行は、平成16(2004)年10月。
引用する。
里見弴が熱心に寄席通いしたのは明治の末から大正改元頃の四、五年間、年齢で言うと二十歳前後のことだという。あの娘義太夫こそその全盛期をすぎてはいたが、色物席とよばれただけあってその時分の寄席には落語ばかりでなく、常磐津の岸沢式多津(西川たつ)、新内の三代目柳家紫朝、浮世節の立花家橘之助、講釈の神田松鯉(初代)、中国手品の吉慶堂李彩などなど絢爛たる藝人だちが名人上手ぶりを高座に競っていた。
立花橘之助の名も出た。
色物が、今よりもなんとバラエティに富んでいることか。
もちろん落語家も華々しい名が並んでいた時代だ。
落語のほうでは、橘家圓喬、初代三遊亭圓右、四代目の橘家圓蔵といった三遊派の大看板が顔をそろえたいた時代で、里見弴も圓喬の十八番中の十八番だった『鰍沢』をきいている。
このように、三遊派全盛の時代なのだが、里見弴は、こんなことをしていた。
里見弴の家では年に一度氏神祭を催していたのだが、ある年父親に言いつかってその余興をつとめたことがある。脳脊髄梅毒症に白内障を患って失明した廓噺の名手初代柳家小せんを招いて好評だったのだが、当日来ていた親戚の医者に「ありゃあ梅毒のひどいやつだ、あんなものを座敷に連れてきて」と、さんざ油をしぼられたという。
当時活躍していた名のある三遊派の噺家ではなく、小せんを選ぶあたり、里見弴は並の落語愛好家ではないと感じるねぇ。
そうそう、里見弴と言えば、有島武郎、生馬の弟だが、有島家には落語と縁がある。
永井啓夫著『新版 三遊亭円朝』(青蛙房)
以前、圓朝の翻案作品について書いた記事で、永井啓夫の『三遊亭円朝』から、『名人長二』について次の内容を紹介した。
2013年8月11日のブログ
明治二十五年、大阪より帰京後、怪我をした円朝が湯河原で湯治中創作にとりかかった作品である。
題材は、有島武夫人幸子から教えられたフランスの小説家モーパッサンの小説『親殺し』(Un parricide、1884年作)を翻案、作話したといわれている。
有島武(1840-1914、有島武郎、生馬、里見弴の父)が横浜で税関長をしていた頃、部下にフランス文学の研究者があり、その人から聞いた話を有島夫人幸子が書きとめて円朝に送ったのである。これに対する円朝の礼状が、有島家に所蔵されている。
モーパッサンの作品がわが国で始めて翻訳紹介されたのは、明治三十三年「帝国文学」に掲載された「ゐろり火」である。翻案にしても、円朝がその八年前にモーパッサン作品を手がけていることは注目すべき事であろう。
里見弴の母親が、圓朝の『名人長二』誕生に、貢献していたのである。
その母親の実家は山内という名だが、里見弴の本名は山内英夫。生後すぐに母の実家の養子となったためだが、育ったのは有島家である。なぜそうなったかは、分からない。
学習院から東大英文科に進んだが、中退して「白樺」の同人になった。
先輩志賀直哉の影響を受けたが、一度、絶交状態になった。
志賀直哉との絶交状態はその後解消したが、矢野さんは『大佛次郎敗戦日記』からの引用を含め、次のように書いている。
里見氏の作風に対し志賀氏は小せん(落語)にならねばよいがと云った由。
という記述がある。
戦時風景の記録はさておき、里見弴の作風が柳家小せんにならねばとの志賀直哉のいだいた危惧の念とは、どういうことなのだろう。
実は、矢野さんの本、この里見弴の章の後「仲入り」の章があり、矢野さんは阿川弘之の『志賀直哉』を読んで、志賀直哉の言葉の謎が解けたことを記してくれていた。
昨年の春、結局四百五十枚ばかしになったその評伝の一応の完結を見て、ほっとした気分で楽しみにしていた封印切りをしたとたんにぶつかったくだりというのが、
里見弴についても、自分の柄にあるものは中々上手だから、「若し盲目になって、
脚が立たなくなれば、小説家の小せんになれる」と、芸人見立てで揶揄した。
なる一節なのである。
孫引きのかたちになった鍵括弧内の志賀直哉の言の出典は、雑誌「人間」に寄せた「『人間』の合評家に」なのだが、志賀直哉というひとの他人の仕事に対するきびしい物言いに、あらためて感心させられる。
実家の宴会の余興に初代小せんを呼んだ里見弴。
そして、先輩志賀直哉からは、その小せんの名で評されたというのは、落語好きな里見弴らしい、とも言えるかもしれない。