噺の話

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百年前は、東京落語界の“戦国時代”(2)ー暉峻康隆著『落語の年輪』などより。

 大正六年に勃発した東京落語界の戦国模様について、暉峻康隆さんの本の続きの前に、別の本からも、百年前の様子に関する記述を引用しておきたい。

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今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)
 今村信雄著『落語の世界』に「三派に分裂」という章があり、東京寄席演芸株式会社(会社)側と落語睦会(睦会)との争いの状況が、興味深く書かれている。

 会社創立の理由は種々あったが、根本は落語家の月給制度であり、睦会の反対理由もやはりそこにあった。睦会側は普通では会社側に及ばないと考え、伊藤痴遊に応援を頼んだ。ところが会社側に貞山が加わったので、睦会では伯山を応援に頼むというわけで、両軍しのぎを削ってゆずらなかったが、面白いのは、顧問弁護士に会社側が鈴木富士弥氏を頼めば、睦会では三木武士吉氏を頼むという具合だった。

 同書の注を元に何名かについて補足する。
 伊藤痴遊は、元自由民権運動家で、明治の元勲らを題材にした新講談を得意として人気のあった人。
 貞山は、六代目一龍齋貞山で、「義士伝」など本格講釈の名手。
 伯山は、三代目神田伯山。「次郎長伝」で人気だった。

 暉峻さんの本では、この弁護士や講釈師における両派の対抗の姿は書かれていなかったので、この本で知り、あの戦国の様子が、より理解が深まった。

 そして、戦いが上方をも巻き込んでいったことについて、次のように書かれている。

 この競争は大阪にまでのびて、会社側は三友派の紅梅亭と手を結べば、睦会では反対派の吉本花月亭と提携、会社派が飽くまで本格の芸を看板に進めば、睦会はどこまでも陽気に、踊れる者は落語のあとで必ず踊るという方針にした。

 三友派と反対派、そして反対派と手を握った吉本については、以前何度も書いた通り。
 NHKのあの番組からはサヨナラしたので、今どうなっているか分からない。きっと、綺麗ごとばかりなのだろう。
 三友派との戦いをしていた吉本せい、そして吉本興業は、大正前半には、東京の戦争にも敵の敵は味方、として担ぎ出される存在になっていた。

 今村信雄の父親、次郎もこの戦いにどっぷり浸かっていた。

 そのうちに会社側が弱ったのは、睦会のなかに会社の株券を持っている者がいて、株主の権利とたてにとって会社の帳簿を調べに来ることで、その結果、会社側の芸人の月給がすっかりわかり、睦会ではそれ以上の金を出して買収にかかった。会社の重役は鈴木顧問の意見を容れて株式会社を解散して合資会社に改めた。その際、今まで主事として頼んでいた今村次郎を代表社員に就任せしめ、無限責任者には、小さん、円右、円蔵、貞山、鈴木富士弥、京橋の金沢亭、神田の立花亭、両国の立花亭等、有限写真としては本郷の若竹、上野の鈴本、人形町の鈴本、浅草の並木、四谷の若柳、金馬、つばめ、文治、円窓、小円朝、小勝、英昌、三語楼、貞吉、岡鬼太郎であった。
 さすがに、お父上が会社側の代表社員であっただけあり、詳しい。
 ちなみに、金馬は二代目、つばめも二代目、文治は八代目(山路の文治)、円窓は後の五代目円生、小円朝は二代目、小勝は五代目、三語楼は初代である。

 すでに「三派」という言葉が出てしまったが、あらためて、ここからは、前回の続き。

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暉峻康隆著『落語の年輪-大正・昭和・資料篇』(河出文庫)

 前回は『落語の年輪』より、東京寄席演芸株式会社と睦会の争いが激しさを増し、事態は訴訟にまで発展したところまで紹介した。

 では、その訴訟の理由から再開。

 その理由は、会社を設立した立花亭が小柳枝は月給六十円、しん馬は二十五円と定めて、八月から原告指定の寄席に出演すべき雇傭(こよう)契約を結び、すでに広告までしたにもかかわらず、両人は反対派の寄席に出演したために、円歌・りう馬の二人を臨時にやとい入れて穴埋めしたが、顧客の攻撃ははなはだしく、すくなからざる損害および名誉を傷つけられというにあった。会社派を睦派の芸人争奪戦が表沙汰になったわけである。
 要するに古典派とか新作派とかいう傾向によるグループの結成ではなく、主として利害と派閥による団体であるから、動揺がはげしいのも無理はない。なお十一月には金原亭馬生(五代目古今亭志ん生)も会社を脱し、“睦会”へ移っている。
 
 この小柳枝は三代目。会長となった師匠の四代目柳枝について睦会に入った人。その後、五代目を飛ばして六代目柳枝となったのがこの人。
 当時馬生だった志ん生は、まだ人気が出る前。いずれにせよ、あの方に月給をもらう姿は、似合わないね^^
 次のように、会社派と睦会の噺家争奪戦は、相当激しかったんだ。
 会社側と睦会の競争は、いよいよ激しさを加え、十月になると寄席演芸会社は大阪へ手をのばし、紅梅亭へ芸人の交換を申しこんだ結果、七代目桂文治門下の桂米丸が一ヵ月の約束で上京したが、そのまま東京にとどまることになり、翌七年の春、矢の倉の福井楼で桂小文治を襲名したのが、後の“芸術協会”の最高幹部の小文治である。このとき米丸とともに上京した大阪の咄家で、橘ノ円(まどか)門の橘家円歌は、談洲燕枝、師匠の円、先代三遊亭円歌、円子(えんこ)、馬生その他の宴会で、橘家と三遊亭と亭号はちがうけれども、円歌が二人あってはややこしいから改名してくれという燕枝の要請にしたがい、師の円と相談の上で、橘ノ円都と改名したといういきさつは、昭和三十九年(1964)二月、神戸市灘区に八十二歳で健在であった円都師よりの私信で知ることができた。その私信は、巻末の「年譜考証」の最初に資料として転載しておいたから、参照していただきたい。

 ワァを! である。
 まったく予期していなかったが、二代目小南の記事で書いた、小南の上方咄の師匠、橘ノ円都のことが書かれているではないか。

 こうなると、巻末の資料を見ないわけにはいかなくなる。

 暉峻さんは、落語の通史を書くため、当時ご健在だった多くの噺家さんにアンケートを送っていた。転載された内容の前に、暉峻さんはこう記している。

 なお橘ノ円都さんからのアンケートに対する返事はわざわざ封書で、自分が橘家円歌を橘ノ円都と改名するに至った事情や略歴がしたためてあり、かけがいのない資料と思うので、とくに転載することにした。昭和三十九年当時、円都さんは八十二歳、すでに引退して発信先は神戸市灘区深田町五ー二十九であった。

 ちなみに、本書の初版は昭和53(1978)年である。

 円都師匠の手紙の内容は・・・別途、この方について書く際にご紹介したい。

 ますます、この人のことをもっと知る必要性を感じている。

 さて、初代小南を睦会が呼び、その後に小文治となる米丸や円都を演芸会社が呼ぶ、という上方の噺家をも巻き込んだ派手な戦いは、相手がやるならこっちも、という終わりの見えない泥沼の様相。
 一方睦会の方でも、人寄せに狂奔し、会社の月給制とちがって、うちはワリ制度だから、腕次第で客さえふえればいくれでも収入がふえるという口実で誘いをかけたので、腕に自信のある咄家が睦会に心をひかれたのも自然のなりゆきであった。翌大正七年四月に、柳亭燕枝と小燕枝改め六代目林家正蔵が睦会に移ったのは、その一例である。また会社側の顔付けをしていた二代目三遊亭金馬が会社を辞任したのは、その翌五月のことであった。

 これだけ会社側から噺家が離れていっては、株主の中にも、不安が広がるのが道理。
 そうこうしているうちに、十一月になると鈴本一派と京橋金沢亭が寄席会社から脱退し、“落語席中立会”を設立した。このため会社側は中立会を憎み、かえって一ヵ年間も敵視してきた睦会とよしみを通ずることになり、円右を相談づくて睦会へ貸し、横浜の新富亭で三本に一本は会社側が興行することになった。
 一方中立会では、主要な看板どころの真打連は、おおむね会社・睦に属しているので形勢がふるわない。そこで体制の立て直しを図り、翌大正八年(1919)の春になると、柳派の五厘大与枝を主任にかつぎ上げて、寄席会社と同様に月給制で芸人を集め、会名も“誠睦会”と改めたが、形勢は依然としてふるわない。
 この後に、五厘の説明があるが、割愛。

 会社が睦と手を握ったのは、“敵の敵は味方”ということだなぁ。
 さて、二十八の寄席の席亭が結束した設立したはずの演芸会社だが、席亭たちの足並みが揃わなくなり、まさに群雄割拠、なるほど戦国時代の様相。
 こうなると、漁夫の利を得ようとする者が現われるのは、歴史の必然か。

 するとそこへ、神戸の興行師吉原政太郎が上京し、東西芸人の融和を図るという名目で誠睦会に働きかけたので、たちまちこれと結んで、“東西落語会”を作り上げた。そこで鈴本一派は勢いを得て、寄席会社の転覆をくわだて、第一着手に小さんに白羽の矢を立て、弟子の燕枝に泣きを入れさせて、首尾よく鈴本へ小さん燕枝親子会の看板をあげることに成功した。
 小さんは、もちろん名人と謳われた三代目。寄席演芸会社の無限責任者の一人なのに、会社を脱退して鈴本が中心となって作った誠睦会の芝居に出るとはなぇ。

 ついに、三派に分裂し、上方の芸人や興行主まで巻き込んだ、百年前の東京落語界。

 今回は、このへんで、お開き。
 三代目の小さんが誠睦会の芝居に出た後のことは、次回のお楽しみ。

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Commented by saheizi-inokori at 2018-02-09 09:25
どんどん深入りしていきますね、迷子にならないように^^。
Commented by kogotokoubei at 2018-02-09 11:02
>佐平次さんへ

いつもの芋づる式で、どんどんはまってしまうのです^^
この後も、百年前の東京の落語界は、すごいことになっていきます。
ある意味では、群雄割拠による競争により、盛り上がりのあった時代かもしれません。
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by kogotokoubei | 2018-02-09 08:30 | 江戸・東京落語界 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛