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初代桂小南のことー暉峻康隆『落語藝談』などより。

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暉峻康隆『落語藝談』(小学館ライブラリー)

 長々と二代目桂小南の『落語案内』より、小南の半生について書いてきたら、どうしても、初代小南のことが気になってきた。

 まず、当時の金太郎に二代目襲名を許した文楽が、その師匠のことを語っている本を読むことにした。

 では、暉峻康隆さんとの対談集『落語藝談』より。

文楽 父が亡くなったので、私は小学校を三年でやめたんです。九つか十でしたろうか。しばらくボンヤリ家で暮らしていると、おふくろの二度目の、つまりコレ(亭主)ですめ。コレなるものが昔でいう次男、三男ですよ。道楽者で、三味線の一つも弾いて、頭がはげている、はげているけれども、鼓の一つも打ったりなんかするという道楽者ですよ。それと古着屋をしている私の知り合いの人がいて、それが落語のほうの縁引きー落語界に商いに行って出入りしていた。はなし家のみなさんの寄り合いがあると、そこへ「いかがでしょう」というやつですよ。そうすると、それがいまの小円朝さんのおとっつぁんが会長している時分ですから。
暉峻 先代小円朝さん(大12・8・13没。円朝門の古老、三遊派頭取)は頭取でした。
文楽 そうでした。その時分「頭取」といっていました。その縁引きで、大阪から来たばかりの桂小南(昭22・11・21没)というはなし家に、その人と親父の世話で、あたくしは弟子入りしてはなし家になったというわけです。どうです、筋が通っていましょう(笑)
 なるほど、こういう背景、いきさつがあったんだ。
 それにしても、“はげているけれども”鼓や三味線をたしなむことに文楽が疑問を抱いているようなのは、果たして“筋が通って”いるのかどうか^^

暉峻 大正六年ですね。落語睦会(大6・8・1結成。五代目柳枝が会長、五代目左楽が副会長)が桂小南を迎えたのは。
文楽 その睦会へ迎えた前です。あたくしが弟子になったのは。-睦会じゃないでしょう。
暉峻 東京寄席演芸株式会社(大6・8神田の立花、人形町鈴本など寄席二十八軒と小さん、円右、燕枝、円蔵らを株主として発足。月給制を志向する)というのがあって・・・・・・。
文楽 睦会かな。とにかく小南さんがそのときによしましたんです。睦会ができる前に。自分が営業をよしちゃった。小南さんはいいお客さんがありましたから。

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 文楽の記憶が曖昧なようなので、『古今東西落語家事典』を開いて確認。

 文楽については、こうなっている。

 明治四十一年初代桂小南に入門し小莚の名を与えられた。同四十三年二ツ目に昇進したが、その後小南が大阪に帰ったことから旅廻りをし、一時名古屋の三遊亭円都門で小円都を名乗った。


 次に初代小南。
 ちなみに、上方ではなく「江戸・東京」の落語家として載っている。

 小南は、明治三十八年に師匠の南光(二代目、のちの桂仁左衛門)のあとを追って上京したが、その後のこと。
 
 羽振りがよかった野心家の小南は、三代目三遊亭円橘(塚本伊勢吉)、月の家円鏡(伊藤金三)らとともに三遊派を脱し、三遊分派をつくったが、座組(出演者の顔触れ)に変化がないので、しだいに客に飽きられ、仲間の信用を失ない、多額の借金を背負い、追われるように地方巡業に出た。旅は失敗の連続で、小南は大阪に帰った。
 しかし、大正時代に席亭と噺家が東京寄席演芸株式会社を設立した際には、小南の人気は魅力があり、反対派の睦会に呼ばれている。その後も、ほぼ東京に在住して、新睦、扇風会などと転々とし、震災後も睦会から東京落語協会へ移るなどしているうちに、だんだんと看板も下がり、晩年は人気がすたれ、不遇のうちに歿した。

 となっている。

 だから、睦会も寄席演芸株式会社も大正に入ってからであって、文楽の入門は、それ以前の明治末。

 文楽も暉峻さんも、やや勘違いしたままの会話だったようだ。

 さて、『落語藝談』に戻る。

暉峻 ところで最初のお師匠さんの桂小南さん、この人は電気踊りの「奴凧」で売り出した。
文楽 ええ、「奴凧」の電気踊り、「夜這星(よばいぼし)」、それから獅子頭をもって踊る「勢獅子(きおいじし)」。獅子の頭へ豆電球をつけて、踏み線といいまして、今から見るとなんでもないことなんですが、その時分、実にたくさん客を取りましたね。足袋の裏底に、こういう横の線が縫いつけてあって、舞台にも線が引いてある。舞台の線とこの線とがこう合うとパッと電気がつくわけです。
暉峻 そうすると、踊りながらピカピカするわけですね。
文楽 ちょうどサワリのところへきて、見えになるところで踏むとパッとつく。これでどのくらい客を取ったか。それも素人で、研究心があるんですね。そういうような頭があった人ですよ。なるほど、東京へきて売れるわけだということは、わかりました。
暉峻 咄はどうなんですか。
文楽 咄は、今でいえばたいした人ですね。つまり、大阪でふつうの修業をしたはなし家ですよ。けれども踊りで売り出した。「松づくし」をやって、一尺ぐらいの一本歯の下駄をはいて、碁盤の上へその一本歯でこういうふうにして(立ちあがってしぐさをする)足の親指と人差指のあいだに扇子をはさんで、はち巻きして、ここへもはさんで、こうもって「松づくし」を踊る。それから「与三郎」とか、そういう粋なものね。それからまた二枚扇を使う、上品な踊りも心得ているし、第一芝居咄がうもうございましたね。だから鳴りものがそっくりはいっている。
暉峻 鳴りもの入り芝居咄ですね。
文楽 だから連れ下座していました。お囃は東京のお囃じゃ勤まらない。だから大阪から連れてきた。それでずいぶん客を取りました。それでふしぎに、これがいけないことだったんでしょうけれども、その時分の芸能人というものは、俳優といい、なんといい、みんなそのたぐいでした。
暉峻 やっぱりね、咄だけではなくて。
文楽 まあ、いえば、名利の悪いことばかりでしたよ。ですから、それをあたくしはお手本にしていました。ああ、いくら自分が出世しても、こういうことはいかんことだと。
暉峻 つまり、一種のゲテものだということですか。
文楽 つまり一種の横暴ですね。横車。横車でも、すべてが通っちまうんですから。
暉峻 うぬぼれですか。
文楽 ですから、いくらあたくしが世の中へ出ようが、この真似だけはしたくないと思っていました。いまだにそのとおりいっていますよ。
暉峻 ところでね、小南さんに前座ではいったとき、文楽さんの芸名は小莚(こえん)ですね。小南さんが小円朝さんと旅回りに出て、そのあいだ文楽さんは、名古屋に行ったことあるでしょう。名古屋の橘の円都(大阪の落語家。橘の円の門人)さんを頼って。
文楽 それはね、つまり小南さんがよしちゃったわけです。会社ができたために。いままで売れていて・・・・・・月給取りになるのはばかばかしいでしょう。そうなると自分はよしたいというので、いいお客もあったしするから、大阪へ帰っちゃった。弟子はみんなクビですよ。それであたくしが名古屋へはじめて旅に出たわけです。
 
 やはり、文楽の話は、寄席演芸株式会社発足が、大阪へ帰った理由となっているが、それは、文楽が名古屋に旅に出た時期より後のことなのだ。

 まぁ、そういう記憶違いは、さておいて、ここでも橘ノ円都の名が出てきた。
 とはいえ、この名古屋への旅で円都との詳しい交流は書かれていない。
 名古屋では、小金井蘆洲の名人芸に触れたことが、文楽の芸に大きな影響を与えたようだ。

 いずれにしても、初代小南という人は、一時期爆発的な人気を得、多くの固定客がいたようだが、いわば、うぬぼれが強すぎて、所属も頻繁に替え、最後はあまり幸せとは言えなかったようだ。

 歴史に名を残す名跡ではあるが、高座の話芸ではなく、電気踊りなどの演出の妙で特筆される芸人さん、ということか。

 文楽は、最初の師匠小南には、結構複雑な思いがあったかもしれない。
 早い話が、弟子を見捨てる師匠だったのだから。

 とはいえ、一時は「八丁あらし」と言われた人だ、尊敬もしただろう。

 では、なぜ、その名を協会も違う金馬門下の山遊亭金太郎のい与えたのか。

 初代小南は、上方出身で東京で活躍した。
 同じような経歴を持つ金太郎に相応しいと考え、名を譲ったのではなかろうか。

 そんな気がしている。

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by kogotokoubei | 2018-02-07 12:27 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛