噺の話

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一日十席の猛稽古、文楽からもらった名前、などー桂小南著『落語案内』より(8)

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桂小南著『落語案内』(立風書房)
 この本からの、八回目、最終回。

 大阪で橘ノ円都や、文の家かしく、桂文団治などから三ヵ月に渡り集中して上方落語の稽古をつけてもらった金太郎。
 しかし、東京ですぐに上方落語を演じるわけにもいかなかった。まだ、自分のものになっていなかったし、東京の寄席の客が上方落語を受け入れるかは疑問だ。

 仕方がない。東京では、それまでの咄を慰安会などで演ってました。
 そして寄席では、相も変わらず予備でね。
 もう決心するよりない。
<大阪落語しか生きる道はない>とね。
 一日、十席の上方咄を稽古することにしました。
 表を拵えましてね。覚えて来た咄の題名をずらっと紙に書き連ねまして、稽古すると、その題名の上に一の字を書く。つまり正の字を書こうというわけです。
 百幾つありましたね。
 さ、壁に向かって稽古をはじめました。
 朝、目が醒めたら三席。飯食って二席。寄席へ行く前にやる。寄席から帰って二席。寝る前に二席。これで十席。
 でも、一日十席はきつかったですねえ。
  (中 略)
 浦和には、柳家金蔵、本名を中村良三。上方落語の出身で、金語楼師匠の番頭をしていた人です。ここを訪ねて七つか八ついただきました。
 これがきっかけで、円都師匠も、金蔵師匠も、「わしも、もういっぺん落語やってみる。できるわなア」と、大阪で復帰されました。
 おかげさまで、円都師匠は、長生きされ、幸せな晩年を過ごされました。
 考えてみますと、あのままやめてたら、ああいう幸せな、ニコニコとした高座はみられなかったんじゃないかと思います。
 さ、この稽古が実を結びました。

 一日十席の稽古とは、凄い。
 また、金太郎へ稽古をつけたことから円都が現役に復帰したことは、ご本人のみならず、上方の噺家への芸の継承の面でも大きな副次的効果だったと言えるだろう。

 まずは、色物扱いであっても、高座で上方咄を演る機会ができたことは、金太郎にとって、大きな前進。

 一番受けたのが『ドクトル』という咄(奇病にかかった男女と医者の咄)。
 いま思えばくだらない咄なんですが、お客さんが引っくり返って笑うんです。
 なぜ受けたか。どうも一生懸命演ったからなんでしょう。夢中で演ったからでしょう。
 楽屋でも、あんな面白い咄があったのかと皆が驚くほどでしたからね。

 この『ドクトル』は、私が小南治を初めて聞いた際のネタだ。
 2012年の12月、横浜にぎわい座での「芸術祭受賞者」の会だった。
2012年12月1日のブログ
 あの時の小南治の高座は、上述のようなバカ受けはしていなかった。
 当時の記事にも書いたのだが、今の時代にあの内容をそのままというのは、無理がある。
 もう少し現代風にアレンジする工夫が欲しかった、という印象。
 当代小南、昨年の襲名披露以降は聴いていないので、そのうち、ぜひ彼ならではの小南落語を聴きたいものだ。

 さて、その『ドクトル』のこと。

 それが、三月くらい経つと、受けなくなるんです。
 そういうものなんです、落語というものはね。
 無心で演っているうちはいいが、こうすればもっと受けるだろう。こうしたらもっと面白くなるだろうと、つまり邪心が入るから、咄に理屈がつく。これがいけません。
 それだったんですね。つまり、受けなくなったのは。

 この受けようとする“邪心”と、咄を今の時代に相応しいものとするための“工夫”は、似て非なるものだ。しかし、工夫が度を越すと、ウケだけを狙う理屈っぽい咄にしてしまう。
 また、特定の時代に合わせて作られた新作落語は、その分、時の経過によって内容と環境との乖離が大きくなる。
 たとえば、小南の十八番の一つ『ぜんざい公社』を例にとると、今の時代なら、もっと改作の余地があるように思うが、大胆に改作した高座を聴いたことがない。
 それは、噺本来が持つ可笑しさを、下手な改作で壊したくない、という気持ちも働くからだろう。この辺は、難しいなぁ。

 さて、金太郎は、その頃、あの文楽から呼ばれた。
 
 飛んで行きましたよ。文楽師匠の側なんかちょっとやそっとでは行けませんからね。ましてや落語協会といって、協会が違うんですから。それが向うから声をかけてくれた。
 行ってみると、
「お前さんが上方咄をはじめた。まことに結構だ。ついては、大阪へ五、六年行ってみたらどうだい」
 という話。
「はい・・・・・・」
 とは、いったものの生返事。そりゃあねえ、自分一人の生活なら、どうにでもなりますが、所帯はあるし、小さいながらも本屋をやってましたんで、俄かに決心がつきません。
 つまるところ、金馬師匠のところへ相談に参りました。
 と、師匠がいいました。
「東京で本当の大阪落語は受けないよ」
 ここが金馬師匠です。ちゃんと見ているんです。
 東京で生の大阪落語を演っても駄目だ。お前の思うようにやってみろというんです。
 と、いうのは、師匠は、江戸落語であって江戸落語でないような咄をずいぶん演りましたからね。
 ですから、北は北海道から南は九州の、どこへ行っても、客を外しません。大阪なんかには一番行ってたでしょう。東京の落語家としてはね。
 それで、文楽師匠に、
「師匠にこんなふうにいわれましたので、東京でやってみます」
 と、返事をしたんです。
 文楽師匠は、一言、「そうかい」といわれただけでしたね。
 この時、文楽は、なぜ金太郎をわざわざ呼んで、上方へ行くことを勧めたのか・・・・・・。
 金太郎のことを認めていたが、まだ、本物の上方落語とは言えない。だから、彼が本気で上方落語を演りたいのなら、金太郎のことを思い、誰かを紹介して上方で修業させようとしたのだろうか。
 実は、文楽とのこの時のやりとりは、その後、大きな実を結ぶ伏線とも言える。

 京都生まれで、最初は東京落語を覚え、その後、三ヵ月の猛稽古で上方落語を覚えたとはいえ、金太郎の落語は純粋な上方落語とは言えなかった。

 そうなのです。私の咄は、私の上方咄。
 ですから、私は、場所によっては、関西弁をより多く使うようにしたり、東京弁でやったり、土地土地によって変えて演っています。
 (中 略)
 さて、芸術協会の二ツ目を六年ばかりやってまして、そろそろ真打ちにという話が出て来ました。
 真打ちになるならいい名前を継ぎたい。そのこと右女助師匠が、三升家小勝を襲名しましたので、右女助が空いてる。これを継げればと思って、金馬師匠に相談すると、
「右女助なら並河君(文楽師)のとこだから話してやろう。その前にいっぺん様子を見に行って来い」
 という。
 早速、文楽師匠のところへ行きまして、
「右女助をいただくわけにはまいりませんでしょうか」
 と、おそるおそる、おうかがいを立てました。と、文楽師匠が、
「右女助?お前なら小南をやるよ」
 というんでしょう。
 驚きましたよ。
 桂小南といえば、文楽師匠のそのまた師匠の名前ですからね。
 それはもう、大変有難く頂戴して、金馬師匠に、
「小南をいただいてきました」
 といったら、
「小南をねえ。よくくれたなア」
 驚いてましたね。
 小南を襲名して真打ちになったのが、昭和三十九年九月です。
 ときに、文治、柳昇、小円馬、夢楽、柳好さんも一緒に昇進しました。
 いまは、大勢で真打ちになることも珍しくありませんが、当時は異例でした。
 初代桂小南は、東京生まれだが幼少時に大阪に移り、二代目桂南光に弟子入り。師匠の上京を追いかけて東京にやって来たが、上方落語が受けないため、独自の「電気踊り」を考案して人気が爆発し、「八丁あらし」と呼ばれた人だ。
 
 文楽が、その師匠の名を、協会も違う金太郎に譲ったのは、やはり、彼のことを評価していたからとしか思えない。
 襲名後、二代目小南は、順調にその名を高めていった。

 以来、少しづつですが、上方の大きな咄に取り組み、おかげさまで、四十三年に『三十石』で芸術祭奨励賞。四十四年に『菊江の仏壇』『胴乱幸助』『箒屋娘』で、芸術祭大賞をいただきました。五十六年にも芸術祭奨励賞をいただきました。
 その後も、私の落語を集めた本やレコードを出していただき、独演会、地方の学校廻りも続けさせていただいております。 弟子も、文朝と南喬が真打ちとなり、以下、南治、南なん、南てん、南らくと、まアまアいい弟子揃いです。
 早いもので、落語家になって四十六年、歳も六十を数えるところまで参りました。
 これを機会に、なお修業するつもりでおります。 
 噺家には終点というものがございませんので。

 この本の出版は、昭和57(1982)年。
 その後、平成2(1990)年に紫綬褒章授章。平成8(1996)年5月4日に七十六歳で旅立った。
 弟子の文朝、南喬は、その後、芸術協会から落語協会に転じた。
 昭和59年の騒動についご興味のある方は、以前の記事をご覧のほどを。
2014年3月5日のブログ

 南てんは、その後師匠の最初の名、山遊亭金太郎を名乗った。
 南らくは、南楽を経て小南治となり、昨年三代目小南を襲名したのは、ご存知の通り。


 つい、八回に分けての紹介になったが、あくまで、これは、「第二章 私の落語修業」の内容をかいつまんだのみ。
「第一章 寄席ばなし」は、落語を知りたい方への良き入門書になるし、「第三章 芸談よもやま」では、落語をより寄り深く知ることができる。「第四章 忘れえぬ芸人」には、小南ゆかりの人々の興味深い逸話などが紹介されている。

 この本、三代目小南が誕生したこともあるし、ぜひ、どこかの文庫で再刊を期待するなぁ。

 長らくのお付き合い、誠にありがとうございます。

 二代目小南の物語、これにてお開き。

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Commented by 寿限無 at 2018-02-05 16:52 x
桂小南の半生の話、たっぷりと聞かせていただきました。
ありがとうございます。
京都から出てきて言葉で苦労したことは知っておりました。
本当に苦労人なのですね。
私は、上野の本牧亭での小南の独演会に行っていました。
なつかしいですね。
Commented by kogotokoubei at 2018-02-05 21:06
>寿限無さんへ

お付き合い、誠にありがとうございます。
表面的にしか知らなかった二代目小南のことについて、私も本書で多くの発見がありました。
秦豊吉さんなどの恩人、低迷する上方落語界において、橘ノ円都師匠など、金太郎に稽古してくれた噺家さんの存在、そして、師匠金馬の弟子への深い洞察力などをどうしてもご紹介したくなって、長講(?)となりました。
生の高座の体験はありませんが、まるで、その高座を聴いたような錯覚を覚える読書体験でもありました。
また、新たな落語家さんの発見があった時、記事を書きます。
懲りずに、お付き合いくださいね。
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by kogotokoubei | 2018-02-05 12:45 | 落語の本 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛