古今亭志ん駒のこと。
2018年 01月 23日
新聞などで、志ん生最後の弟子、とか、海上自衛隊出身などのプロフィールが紹介されている。
ところで、Googleで検索しようとして、「古今亭志ん」まで入れると、志ん生、志ん朝はもちろん、志ん五も選択肢として出て来るが、「駒」は登場しない。
それだけ、ここ数年静養していた、ということを物語る。
残念ながら、たった一人の弟子である駒次の9月の真打昇進披露興行に、間に合わなかった。
私の生で出会った志ん駒の高座は、同じ2010年の近い期間に二度。
どちらも、弟子の駒次が付き添って高座に上がっていた光景を思い出す。
一つは、厚木。
2010年7月24日のブログ
「志ん生落語の四季」と題した会。
漫談で、最後の弟子として志ん生の思い出を語り、「落語はこの後で権ちゃんが、ちゃんと締めてくれますから」という、言葉を残し、登場の際と同様に弟子の駒次に助けられて高座を後にした。
その時の記事。
昭和12年1月生まれの73歳。助六、権太楼の10歳年上だから、かつてテレビの時代劇で「瓦版屋」を演じた時のイメージからは、当り前だが時の流れを感じる。
しかし、“口”は見た目と違って若々しく、海上自衛隊時代の思い出話や、巻紙に自ら書いてきた志ん生の略歴を読みながら語るエピソードは、なかなか楽しかった。「落語はこの後で権ちゃんが、ちゃんと締めてくれますから。もう名人だね!ご馳走になってるからヨイショしないとね」というところが、この人の本領発揮なのだろう。
まだまだ元気に古今亭の歴史を語り残していただきたい。
もう一回は、横浜にぎわい座で、三三の会での客演。
2010年9月2日のブログ
この会は「柳家さんと○○さん」と題して、三三が昭和の名人と近しい噺家をゲストに招く企画の一つだった。志ん生最後の弟子として三三の指名を受けた志ん駒が、楽しそうに語る姿が印象に残る。
厚木の時よりは元気な高座だった。
ブログには、次のように書いていた。
前半は“あつぎ寄席”とほぼ同じ。覚悟していたので落胆はなかったが、体調も出来も客の反応も今夜の方が数段良かったようだ。途中で「志ん生を見たことがある人?」という会場への質問に、隣の席のご高齢の男性が即応して手を上げた。少しだけ、嫉妬した。
杉良太郎の遠山の金さんの舞台を再現をしたあたりでやや息切れしたようで前座さんを呼び出し、「まだ時間あんのぉ、一緒になぞかけでもするか!」と始まり、慌てたように三三が登場。前座さんが下がり急遽対談モードに入った。たぶん、本来の予定は中入り後に対談だったのだろうが、流れを読んでの変更だろう。結果はオーライだった。厚木では志ん駒師匠が会場に「何か質問ある~?」とばかり尋ねたのだが、大ホールである。なかなか盛り上がらなかった。しかし、三三はツボを押さえて志ん生との思い出を志ん駒師匠から手繰り寄せる。「志ん生とかけて?」のお題でのなぞかけの解き方を含め、三三の如才なさが光った。志ん駒師匠が同じこをを何度も繰り返すところも、結構楽しい演出になったほどだ。
残念ながら、元気な時の高座には巡り合っていない。
しかし、弟子の駒次が甲斐甲斐しく師匠に肩を貸していた姿が、この師匠と弟子の信頼関係の深さを目の当たりにするようで、嬉しかった。
昭和12年生まれは、談志より一年若く、志ん朝より一歳上になる。
12日に42歳という若さで亡くなった柳家小蝠に続く訃報。
比べてはいけないことだろうが、志ん駒の傘寿を過ぎての旅立ちは、往生と言って良いのかもしれない。
「ヨイショの志ん駒」の、ご冥福をお祈りします。
子供の頃、大喜利(もちろん、『笑点』ではない、何の番組だったか)に出ていたのを覚えています。
落語家の原イメージは私にとって先代文治、圓蔵(圓鏡)、そして志ん駒です。いずれもサービス精神の権化です。
菊之丞と文菊(当時は菊六)の二人会で、菊之丞の一人真打昇進披露興行の時、
文菊はタマネギばかり切っていたという話がマクラでありました。
それは、志ん駒がリーダーとなって、楽屋の皆さんにサンドウィッチを作って配って
いたのですってね。
古今亭にとって、大事な人だったのだと思います。
ヨイショを売りにするというところがある種の鬱屈も感じさせて、あの明るさがいい味わいでした。