“シンクロする場”のことー釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』より(4)
2018年 01月 22日
釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)
釈さんのこの本からの最終回は、いわば、“一期一会”のこと。
「第五章 シンクロする場」から、ご紹介。
そんなことは不可能ですが、もし、話し手の頭の中、聞き手たちのそれぞれの頭の中のイマジメーションを取り出して並べたら、みんなバラバラのはずです。驚くほど違うかもね。それはそうでしょう。各人の生活史や環境や能力や体験など、千差万別な基盤の上に展開しているんですから。
すなわち、聞き手の人生経験や人間観察や自己分析が豊かであればあるほど、落語の世界は広がり、堪能できるというわけです。そして、この点も、仏教のお説教と通じる部分でしょう。
ところが、あるとき、その場にいる人たちのイマジネーションがシンクロし出すことがあるんですよね。それはもう、“宗教の場”と言っても過言ではありません。私は今まで何度か体験しました。うまく説明できませんが、その場にいるとわかります。何か話し手と聞き手、その場にいる人たちみんなの反応がすごく素早くて、なおかつ息が合っている、呼吸が合っている、そんな感じです。ある種の宗教的熱狂に近い雰囲気だと言えるかもしれません。そして、それはやはり「名人」「上手」と呼ばれる噺家さんの高座で起こりやすいですね。もちろん節談説教においても、同じような状態が起こります。
釈さんの「うまく説明できませんが、その場にいるとわかります」という表現、大いに同感。
あるのですよ、そういった“一期一会”を体感できる高座が。
私の経験では、近いところで、2016年3月、都民劇場創立70周年記念「第48回 とみん特選小劇場」の柳家権太楼独演会(紀伊国屋ホール)を思い出す。
2016年3月9日のブログ
十八番の『代書屋』、そしてトリの『百年目』におけるあの会場こそ、“シンクロする場”であったと思う。
また、その前の年、2015年1月の、ざま昼席落語会の「鯉昇・喜多八 二人会」の印象も強い。
2015年1月11日のブログ
鯉昇の『御神酒徳利』も良かったし、喜多八は、正しい立飲みについて詳細を語ったマクラが秀逸だった。
380名という当時の最多入場者数を記録した客席も、皆、ほぼ同じリズムと呼吸で二人の高座を楽しんでいた。
もう少し遡ると、2013年9月県民ホール寄席の三百回記念、柳家小三治独演会がある。
2013年9月26日のブログ
『道灌』も良かったし、第一回でも演じた噺『付き馬』の見事だったこと、そして、客席の一体感を十分に体感した。
そう考えると、単に人気者を集めて大ホールで開催される木戸銭の高い、商売っ気たっぷりの落語会ではなく、手作り感たっぷりの地域落語会の方が、そういう“一期一会”への遭遇が多いように思う。
長年通っている固定のお客さんが多い地域落語会は、話し手も聞き手も、呼吸が合いやすい。そういった空間でなければ、なかなか“シンクロ”しないだろう。
やや、私的な落語体験のことに話が広がったので、釈さんの本から、ふたたび。
考えてみれば、語りの名手はまだまだ成熟していない聞き手の「聞く能力」を引き出します。洗練された語りと、共振現象が起こるような時空間に、繰り返し出会うことで、私たちは次第に「聞く」ことができるようになりま。かすかな記号や噛めば噛むほど深まる味わいを受けとる心身への育つ。それはきっと、生と死を豊かなものにしてくれることでしょう。また聞く名手は、未熟な語り手の言葉を引き出します。聞き手とのコミュニケーションによってしか語り手は育ちません。聞き手を物語を共有することで、語り手は新しい扉が開くのを実感します。つまり、語り手と聞き手とは相互依存関係なのです。これを“仏教の場”と言わずして、何と言いましょうや。
まさに、釈さんのおっしゃる通りだ。
優れた語り手が、聞き手の聞く能力を引き出す、ということは、落語を長年聴いてきて納得である。
また、その逆は、つい最近、落語愛好家仲間との新年会で体感している。
私とYさんが演じた『二番煎じ』は、優れた聞き手が、未熟な語り手の言葉を引き出してくれたのだと思う。
時折、高座の噺家に、落語の神様が舞い降りることがあるようだが、神様も客席の様子をしっかり見た上で降りてくるのだろう。
そんな機会が数多く訪れるように、良き聞き手でありたい、と思う。
宗教的な高揚感に浸ることのできる“一期一会”、釈さんの言葉では“シンクロする場”を体験したい、というのが、すべての落語愛好家の願いではなかろうか。
釈さんのこの本からは、このへんでお開き。
あぁ、早く良き語り手の今年初高座を聞きに行かねば。
こんどはもっと静かに聴きまっせ。