落語、マンガ、手塚治虫の初原稿料のことなどー釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』より(1)
2018年 01月 17日
釈徹宗著『おてらくごー落語の中の浄土真宗ー』(本願寺出版社)
先日、古書店で発見した本。
残念ながら、附属CDはついてなかったが、格安の値段で手に入れることができた。
著者の釈さんは、浄土真宗本願寺派如来寺住職で、節談説教研究会副会長であり、相愛大学人文学部教授でもある。専門は宗教学、比較宗教思想。この方が落語と仏教との関係を興味深く説いていたNHK Eテレの「落語でブッダ」で見て知っていた人だ。
あの番組について書いた記事にも、釈さんのプロフィールを載せた。
2013年12月12日のブログ
他に落語と仏教に関する本に、「落語でブッダ」で取り上げた『お文さん』に関して書いた記事で引用した関山和夫著『落語風俗帳』がある。
2014年1月15日のブログ
その記事でいただいたコメントで『おてらくご』のことを紹介されていたのだが、四年経って、ようやく読むことができた次第。
本書は、本願寺出版より2010年9月初版で、私が入手したのは昨年発行の第四版。こういう本が版を重ねていているのは、珍しいことではないだろうか。
大判の本で読みやすく、釈さんの丁寧な説明で、あらためて落語と仏教(浄土真宗)の深い関係を理解することができる。
また、仏教との関係を縦糸としているが、横糸には、落語に対する釈さんの深い造詣をが多重に張り巡らされていて、この日本ならではの一人話芸発展の背景を探る意味でも、大いに参考となる書である。
次のような構成。
第一章 仏教と芸能
第二章 説教と落語
第三章 落語の宗教性
第四章 落語の中の浄土真宗
第五章 シンクロする場
まず紹介したいのは、第二章の中の“なぜ「落語」は世界唯一の話芸なのか?”である。
落語の起源に関する、おさらい、とも言える部分。
私たちの日常生活の中にはさまざまな形で仏教が息づいています。生活様式から、思考傾向、死生観、衣・食・住にいたるまで、肌感覚にように仏教が脈々と息づいています。伝統的な芸能においても、仏教を基盤として成立しているものや、仏教の影響を強く受け手展開しているものが大部分なのです。そして、落語もその中のひとつです。この後に、安楽庵策伝が浄土宗の説教師であり、露の五郎兵衛が元・日蓮宗の僧であったと書き加えられている。
落語はお説教の形態を色濃く残しているとても特別な芸能です。わざわざ本書を書いたもの、ここに動機があります。
話者側にはメークアップや衣装の演出もなく、背景や舞台装置もない。ただ、座布団一枚だけであり、その上に和装で正座し、たった一人で語ります。持ち物は扇子と手ぬぐい(符丁ではカゼとマンダラ)のみです。制限された動きの中で、さまざまな人物を表現し、あらゆる場面を創出します。このような話芸の形態は、世界で「落語」だけだそうです。なぜ日本にだけこんな芸能が生まれたのか、それは日本仏教のお説教を起源としているから、というわけです。
その後の部分に、なぜ日本に落語という話芸が発展したのかについて、あの枝雀によるユニークな視点をきっかけとして、日本独自の話芸、落語成立のナゾが明かされていく。
では、落語の特性について考えてみましょう。
桂枝雀氏は、「なぜ落語というスタイルが日本だけに生まれたのか」というナゾについて、「それは日本に“正座”があったからじゃないか」と答えています。正座して語ることによって、よりイマジネーションできる範囲が大きくなる、という理論を語っていました。確かに、正座は日本礼法の特徴です。中国は椅子に座りますし、韓国ではあぐらや立て膝ですもんね。日本でも、昔のお坊さんを描いた絵巻や肖像画をみると、衣を着てあぐらをかいています。貴族や武士もあぐらで座っていたようです。
ところで、仏教には江戸時代以前から正座する作法がありました。茶道では、これをうけて成立当初から正座を取り入れていたようです。落語もこの流れにあるということですね。それにしても、“正座”という制限多い状況が、かえって豊かな「見立て」を生み出すんですから、文化というのは、ほんと、不合理なこのなんですねぇ。
つまり、落語は「見立て」を活用する、ということなのです。
この部分を読んで、落語愛好家の多くは、ネタの『お見立て』を連想するだろうが、ここで言う「見立て」は、もちろん、女郎の見立てではない。
「見立て」は日本文化における特徴のひとつだと言われています。例えば、枯山水とか、借景とかね。いわば「記号」を使ったイマジネーションを楽しむという文化です。記号を得意とするのは、日本人の脳の特性と関係があるという人もいます。
落語は記号を使って情報を圧縮できます。カゼ(扇子)を箸に見立てたり、マンダラ(日本手ぬぐい)を財布に見立てたりするのは、みなさんご存じでしょう。お約束ですよね。枝雀さんは、落語を“いくつかの決まり事と想像力”による芸能だと表現しています。これ、マンガも同じなんですね。マンガは多様で洗練された記号を駆使した表現方法です。そのことを世界で最も早く喝破したのは手塚治虫という人でした。日本だけにマンガがこれほど発達したのはゆえなきことではありません。
だから世界の仏教の中で、日本のお説教だけが独特の展開をして、さらにそこから落語が誕生したということかもしれません。
このように、仏教のみならず、記号論から落語とマンガの共通性にまで話は展開するのが、釈さんの引出しの多さなのである。
“いくつかの決まり事と想像力”による芸能、という枝雀の言葉、落語という芸を簡潔かつ過不足なく表現した名言だと思う。
枝雀の音源のマクラで、想像力という言葉はよく使われているねぇ。
この文章で手塚治虫の名を発見し、ある新聞記事を思い出した。
それは、三代目春団治が亡くなった後、その遺品から、父親である二代目の依頼で手塚治虫が学生時代に書いた落語に関する絵が発見された、というものだった。
その記事には、手塚が落語を練習した、という逸話も紹介されている。
毎日新聞の該当記事
毎日新聞のその記事から、引用する。
手塚治虫
学生時代の肉筆画見つかる 春団治さん遺品から
毎日新聞2016年12月19日 16時02分(最終更新 12月19日 17時33分)
漫画家の手塚治虫(1928~89年)が、大正から戦後にかけ活躍した落語家の二代目桂春団治(1894~1953年)の依頼で描いた肉筆画9枚(各縦14センチ、横20センチ)が見つかった。学生時代の手塚が、春団治の興行ポスター用に落語や芝居の場面を描いた墨絵。竹内オサム同志社大教授(マンガ史)は「珍しいタッチ。子ども向けと大人向けの両方を使い分け、模索していた時期の画風が見て取れる」と指摘する。
肉筆画は、二代目春団治の実子で今年1月に亡くなった三代目春団治さんの遺品から見つかった。ポスター制作後に改めて描いたもので、春団治の似顔絵以外の9カット。戦後間もない45~46年、春団治が地方興行で演じていた芝居「明烏(あけがらす)夢の泡雪」の場面などが描かれている。
手塚は自伝「ぼくはマンガ家」の中で「大阪落語の重鎮」二代目春団治のポスターを描いたこと、春団治に声をほめられ、落語家の道に誘われたことをきっかけに、こっそり落語の練習をしたことなどを記している。
描いたのは手塚が46年1月、現在の毎日小学生新聞の連載でデビューする前後とみられる。春団治の妻、河本寿栄(かわもと・ひさえ)さん(90)によると、手塚とは大阪市内の写真館の紹介で知り合い、謝礼を支払った際、手塚は「絵を描いてお金を頂くのは、これが初めてです」と話したという。手塚プロダクションの松谷孝征社長は「すばらしい原稿が出てきた。春団治師匠がずっと大事にしてくださっていたのはありがたい」と話している。肉筆画は来年4月22、23日の「いけだ春団治まつり」(大阪府池田市民文化会館)などで公開される。【山田夢留】
なんと、手塚治虫が、初めて原稿料をもらったのが、この落語の絵だったのか。
手塚治虫は、田河水泡の影響を強く受け、その田河が『猫と金魚』などの落語作家でもあったことから、落語も好きだったとのこと。
この本を読んで、この記事を思い出すことができた。
仏教との関係のみならず、落語を取り巻くさまざまな世界への“想像力”をめぐらせてくれるのが、この本と言える。
次回は、本書の副題、落語の中の浄土真宗、の章から紹介したい。
そして手塚治虫による春団治のポスターや落語の肉筆画の記事も、意外なようで実はそうではないと。
この続きも楽しみにしています。
たしかに、正座という形式であるからこそ、そこから想像力をかき立てるための芸が磨かれていった、ということですね。
その点を指摘した噺家って、他にいないんじゃないでしょうか。
手塚治虫が落語を稽古する姿、見たかったなぁ^^