『子別れ』の「中」-榎本滋民著『落語小劇場』や音源より。
2018年 01月 15日
吉原に居続け、四日ぶりに帰宅した熊さんと女房の会話が中心。
女房に詰問された挙句、熊さんが吉原で品川にいた時分に馴染みだった女郎と出会って、つい長逗留になったと白状。
そこで、謝ればまだ良かったものを、つい、のろけ話になってしまい、出来た女房の堪忍袋の緒が切れ、売り言葉に買い言葉、熊さんが「出て行け」の一言を発してしまう。
最後は別れ話になることや、父に「謝っちまいなよ」と懇願しながらも母親と一緒に家を出て行くことになる亀ちゃんの寂しそうな姿もあって、笑いが少なく、また、救いのない筋書きでもある。
前の記事でリンクした記事で紹介したように、柳家権太楼が、東京落語会で「中」だけを演じた高座が「日本の話芸」で放送されたのを見た。馴染みの女郎の名をお勝としていて、題は「浮名のお勝」。
やはりこれだけを演じるのは、全体があって初めて噺としての骨格が出来上がるので、演る方も聴く方も、どこか物足りなさを感じるように思う。
なお、権太楼も通しで演じたことはあって、三田落語会の前身、ビクター落語会の高座がDVDで発売されているが、私は持っていない。
榎本滋民さんの『落語小劇場』で、「中」の内容を確認。
熊さんの女房が、「ふだん亭主の帰りがどんなに遅くても起きていて、路地の木戸をたたく音に『熊さんかい?』と開けに行く早さは、とんとんまでたたかせない、とん熊さんというぐらいのよくできた女」と説明しておいて、こう続けている。
だから、ひと晩泊まりの朝帰りならお目こぼしもあろうに、三日四日と居続けのあとでは神田竪大工町のわが家の敷居は高く、のぞいてみれば女房はふて寝もせずにせっせと針仕事の最中とあっては、
「ええ、少々うかがいます。大工の熊五郎さんのお住まいはこちらでござんしょうか」
ふざけてみせでもしなければ、うしろめたくてとても入れない。
小三治も、熊さんを、この科白で帰宅させているが、その前に、
朝帰り だんだん家が 近くなり
の川柳を挟む。
そして、「おかみさんがいる方でないと、その怖さは伝わってこないかもしれませんね」と付け加えている。実体験に基づいているのかどうかは、不明^^
女房から、「どこへ行ってたんだい」と聞かれて熊さん、小さな消え入るような声で、「とむらい・・・・・・」と答える。「お店(たな)の旦那の弔いに行ったのは知ってるよ。弔いってのは、三日も四日もかかるのかい」と突っ込まれるが、なかなか本当のことを明かすことができない。
小三治の音源では、焼き場にまで付き合ったものの、96で亡くなった伊勢六の旦那の亡きがらが、ほとんど油っ気がない。旦那の遺言で、よ~く焼いてくれとあったので、薪をさんざん燃やして、三日目の朝にようやく焼け落ちた、などと嘘をつく。
しかし、女房が紙屑屋の長さんから熊と一緒に吉原に行ったことを聞いたことを知り、熊も観念し、吉原での成り行きを白状するのだが・・・・・・。
のろけから、女房の堪忍袋の緒が切れる場面について、榎本さんの本より。榎本さんは、女房の名を、お住としている。
敵娼(あいかた)にきまった女郎のひどさにやけのがぶ飲みから便所へ行っての帰り、廊下でいきなり胸ぐらをとられて、やらずの雨、鍋の差し向かい、という表現で、『唐茄子屋政談』の徳の回想場面を思い出す落語愛好家の方も多いだろう。
「男なんて薄情なもんだねえ。わちきの顔をよくごらん」
涙ぐんだ女は、もと品川でなじんだお松。
ひところは、やらずの雨に降りこめられて仕事を休んでしまい、たのしみ鍋の差し向かいで飲んだ朝もあるほどの仲で、わちきがいくらのぼせてもお前(ま)はんにはかわいいおかみさんや子どもがあるんだからどうせ末のとげられる見こみはないと泣くのを、合わせものは離れもの、かかあなんぞたたき出してみせると喜ばせたこともある。
もとより出まかせの口約束、一人息子の亀坊が回らない舌で、
「とっちゃん、お仕事(ちごと)かい。とんとんかい」
とかなんとかいうようになったかわいさにとりまぎれ、いつかすっかり忘れていたのを、お松の方では真(ま)に受けて、熊に会いたさに方々鞍替えしながら尋ねていたとのこと。
「あんな気休めをどの口でおいいなんだよ」
と責められて、
「ほかにもち合わせはござんせんから、多分この口でござんしょう」
顔を突き出したら思いっきりつねり上げられたー。
こうべらべらいってのけた上に、
「どうかなってやしねえか?こう、見つくて。よ、おっかあ」
ほっぺたを向ける色男ぶり、たまりかねたお住はいきなり平手打ちを食わせて離縁を望む。
それにしても、熊の話、いくら出来た女房でも、怒るのは道理。
そうなると、熊も居直る。
「あとがつけえてらあ。裏のどぶじゃねえがな、かかあだのぼうふらなんてものァ棒を突っこんでかき回しゃァいくらだって出てくるんだ。気に入らなけりゃとっとと出て行け!」
名調子である。さすがに女性上位時代のマイホーム亭主なんかとはオクタン価がちがう。くやしかったら今夜にでも早速やってみるがいい。こっちのいうせりふなんてどなられて、うなだれるのが落ちだろう。
榎本さんも、なかなかの名調子^^
この後に、当時の夫婦のことについて、三行半を含め解説されている。
江戸時代の夫婦関係を律する法的観念は夫権絶対だった。どれほど夫が横暴でも、妻の側から離婚を宣言することはできない。
そのために、縁切り榎に願をかけるせつねい俗信も行なわれたし、鎌倉松ケ岡の東慶寺へ駈けこんで三年間(実際には二十四カ月すなわり足かけ三年)の有髪(うはつ)の尼僧生活を送れば認められる救済便法も存在したのだが、この場合ですら最終的には亭主が離縁状を発行しなければ離縁は成立せず、里で逃げ帰ったところで再縁もできないので、
「出て行くから、仲人にどういうわけで出てきたと聞かれたとき証拠になるように、去り状を一本書いとくれ、たった今、目の前で、さあ」
という請求がせめてもの主張なのである。去り状・退(の)き状・離縁状などともいう縁切り証文は、こんな文言を三行半に書く。
そのもと儀、われら勝手につき離縁
いたし候上は、何方(いずかた)へ縁づき候とも
われら方にては一切差し構え御座な
く候。仍(よっ)て件(くだん)の如し。
三下り半の俗称はこれによる。
江戸時代の男尊女卑が離縁状の背景にあったのかもしれないが、当時は、女性人口が少なかったことも、一つの仕組みとして、三行半につながったように思う。
簡単には、離縁させない。もし、離縁されても、女性がすぐ再婚できやすい仕組み、ということではなかろうか。
なお、小三治は、かな文字しか書けない熊なので、四下り半になった、と笑わせる。
隣りに住んでいる住人が仲裁に入るが、熊も一度上げた拳を下げることができない。
ついに離縁か、という時の亀の言葉は、なんともせつない。
榎本さんの本から、ご紹介。
「お父っつァん、お前(めい)が悪いんだ。あやまっちゃいなよ。おいらだのおっかあだのがいなくなると、お酒を買いに行く者ァなくなっちゃうぜ。今あやまるんなら、おいらもともに口をそえるからさ」この場面は、亀の言葉にどんなクスグリを入れても、そうは笑えない。
これをたしなめてお住は、男の子は男親につくのが法だろうけれど、お前さんのところへ残して行くのは心配でたまらないからとむせび泣いて、
「さあ、亀坊。ながなか御厄介になりましたってお父っつァんに御挨拶をおし」
「いやだなぁ。するよ。ながなが・・・・・・ながなが亭主にわずらわれ・・・・・・」
と青っぱなをこする亀坊の手を引き、小さい風呂敷包み一つもって、世帯やつれした薄い肩を路地口に消した。
やはり、切ない、暗い話なのだ。
その後、熊は吉原通いを続け、年季が空けた馴染み女郎をうちへ引っぱりこんだのだが・・・・・・。
ここでお決まりの句が挟まれる。
「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」
この句、調べてみると、遊女を身うけしようとした人をいさめて、播磨の瓢水(ひようすい)という人が作ったといわれている。
「れんげ草のような野の花は、やはり野原に咲いているのが似つかわしい。ものには、本来それにふさわしい場所というものがある。取らずともやはり野に置け蓮華草」という意。
手に取ってしまった蓮華草が、いったいどんなものだったか。
朝寝をして昼寝をした上に宵寝までするネゴイストで、せめて飯でも炊かせようと思えば、
「おまんまが炊けるくらいなら、お前(ま)はんとこへきやしないよ。吉ちゃんとこへ行きたかったんだけども、お前はんがおまんまなんぞおれが炊くってえからきたんじゃないの」
はじめて目がさめたら、追い出すまでもなく女は出て行った。ここまでが中、『子別れ』の題名のよってきたるくだりである。
中、やはり暗い噺なのだ。
もちろん、暗いなりに聴かせどころはある。
熊と女房の会話、亀のなんとも切ない言葉などに、演者の技量が問われる。
さて、上とつなぐべきか、それとも、下の前に短めに演じるべきか。
書きながら、次の口演(?)への悩みが増してきたではないか^^
次回は、お馴染み「下」の「子は鎹」。