『子別れ』の「上」ー榎本滋民著『落語小劇場』や音源より。
2018年 01月 14日
前の記事に続き、この噺のことについて、
別に今から稽古しよう、ということではない^^
何かの機会に、落語家や落語のネタについて少し考えてみるのは、拙ブログの常。
前の記事では、柳家小三治が、ネタおろしで「通し」をするために山籠りまでしたことを以前の記事から紹介したが、その少し前に、権太楼の『子別れー中(浮名のお勝)ー』をテレビで観たことから、この噺の作者、初代春風亭柳枝のことなどについて、記事を書いた。
2009年4月18日のブログ
柳家の御本家とも言える初代柳枝の作品であるから、もちろん、柳家の噺家にとっては大事なネタだ。
とはいえ、今日では、「上(強飯の女郎買い)」「中(浮名のお勝)」「下(子は鎹)」のうち、「下」を演じることが中心で、なかなか通しで聴くことはできない。
私が、生の高座で聴けたのは、むかし家今松と柳家小満んの二人。
持っている音源は、あの小三治の高座と、鈴本での権太楼(上と中)・さん喬(下)のリレー。
ちなみに権太楼・さん喬のリレーは、2006年8月、恒例の二人が交互にトリを取る「鈴本夏祭り」で、8月19日が、上と中を権太楼、下、さん喬、翌20日はその逆で演じられたものの収録。よって、私が所有しているのは、19日のもの。
ちなみに、古今亭志ん朝の大須の「上」「下」を持っているが、ほとんど「中」は割愛といった内容なので、今回は、本家の柳家の音源二つを元に辿りたい。
さて、生でも音源でも、通しとなると珍しいが、落語関連の本でも、あるようでないのが、通しについて詳しく書かれた本。
本棚を探して、見つけた。
榎本滋民著『落語小劇場』(上)だ。
私の持っているのは、上と下の二巻になっている、三樹書房発行の昭和58年版。
ご覧のように、目次にしっかり入っていた。
さっそく、冒頭からご紹介。
■子別れこのとっかかりのところを読んで、はた、と思った。
告別式会場へちょっと行くだけですむ今の安直システムとつがって、昔の会葬は丁寧なものだったから、新仏(にいぼとけ)の菩提寺が遠いと半日一日つぶれてしまう。職人や零細商人には大恐慌で、
弔いが麻布と聞いて人頼み
香莫を託して御免こうむる。ところが、
弔いが山谷と聞いて親父行き
今はもう「山谷」は堀と橋ぐらいに名残りをとどめるあわれな末路だが、以前はずいぶん広い地域を指していた。吉原通いのことを山谷通いともいったほどで、あの歓楽街を連想しない男はいない。
こりゃ事だ寺は山谷で七つ(四時)過ぎ
大勢ならなお行きやすいから、「弱ったね」などとにやにやする。
吉原へ回らぬ者は施主ばかり
私が持っている通しの音源で引っかかった部分があるのだ。
「弔いを山谷と聞いて親父行き」の川柳は、小三治も権太楼も使っているが、二人とも、若い者を行かせて間違いがあってはいけないから、という解釈を語っている。
えっ?親父自身が行きたいからなんじゃないの?
と聞いていて思ったのだが、榎本さんの文章は、私の見解の正しさを裏付けてくれているような気がして、少し嬉しかった^^
山谷の近くに、あの原っぱがあるから、親父が行きたいということだろう。
もちろん、どちらともとれるのではある。
また、この章、榎本さんは、あえて『子別れー通しー』とはせず、単に『子別れ』としている。
本来は、上・中・下と全部で一つの噺、ということなのだろう。
あらためて、その「上」「中」「下」のそれぞれの噺の山場と思しき部分を、榎本さんの本で確認したい。
まず、「上」。別名「強飯の女郎買い」。
大往生した大店の大旦那の葬式に参列した熊五郎が、しこたま般若湯を飲んで酔っ払う。
冒頭は、この熊の酔っ払いぶりが聴かせどころ。
榎本さんの本から。
酔えばまるで分別を失う飲んだくれなのを心配した年寄りが、無駄遣いする金があるのなら、かみさんにうまいもんでも食わせるか子どもに着るもんの一枚でも着せるかしておやりとたしなめれば、叺なんてのも、落語でしか聞かない言葉になってきたなぁ。
「きいたふうなことをいうねえ。かかあを屋根へ上げて風を食わせとこうと、餓鬼を叺(かます)へ入れてぶらさげようと、手前の世話になんぞなるか。この赤茄子」
という勢いである。
亡くなった大旦那の年齢は、小三治が96歳、権太楼では94歳。
どちらにしても、あの時代では、大往生だ。
さて、酔った勢いで外に出た熊は、出会った紙屑屋の長さんと一緒に、吉原へ。
葬式で出た弁松の弁当を、たんまりと持ち帰っていることが、笑いを呼び込む道具立てである。
気前がよかった仏の遺言で弁松に別あしらえした強飯の上弁当が出た。強飯すなわちおこわで、不祝儀のときは黒豆が入る。たっぷり汁を含んだがんもどきもそえてある特製が寺の庫裡に残っていたのを、背中に七つ、左右の袂に五つ、懐中に三つ、七五三の形で失敬している。落語に登場する江戸時代のお店の中で、弁松は、今でも営業している貴重な存在。
ホームページには、しっかりと「赤飯弁当」が載っているので、ご確認のほどを。
弁松総本店のサイト
この弁当、小三治は、榎本さんの本と同様に、背中に七つ、袂に五つ、懐中に三つ持って帰っており、「七五三の、担ぎ分け」と言って笑わせる。
ちなみに、権太楼は、背中に七つのみ。
紙屑屋の長さんは、途中で買い物をしたので、三銭しか持ち合わせがない。
対して熊は、仕事の前受け金の五十円が懐にあるので、気が大きい。奢ってやるからと、この二人が吉原へ行く道すがらの会話が、なんとも可笑しい。
熊は、何度も「紙屑屋!」と長さんを呼んで、からかいっぱなし。
榎本さんの本では、こういう科白が紹介されている。
「お前が紙屑屋だから紙屑屋ってんだ。不思議はねえだろ。それとも気に入らねえのか、紙屑屋。大きに悪かったな、紙屑屋。じゃァ紙屑屋といわねえから行け、紙屑屋」さて、たどり着いた吉原。
そこで出会た、客引きをしていた妓夫(牛)太郎。
抹香くさい寺帰りだと断っても、弁松の弁当を妓夫に祝儀に渡して、店に上るまでが、「強飯の女郎買い」。
「手前どもは果(はか、墓)行きがいいお客さまだと喜びますぐらいで、へへ、どうぞお上がりを願います。宵見世のお徳用で御愉快をいかがさま。棟梁。色男。おいらん殺し。よっ」
なんてんで離すもんじゃない。
切れ場は、小三治では、こんな感じ。
店に上がると花魁見習いの豆どん(禿)がいて、居眠りして花魁につねられた痣があるのを見た熊が、弁松の弁当をあげようとすると、豆どんが断る。怒った熊が大きな声を出すと、さっきの妓夫が出てきて、彼女たちは客からもらい物をしてはいけないと躾られていると詫び、代りに私がもらいましょう、と言う。「おめぇさっき二つやったじゃねえか」「ご馳走さまで。へい、美味しく頂戴しました。ただ、がんもどきの汁が少なかったような・・・」「そうだろう、さっきこいつ(紙屑屋)に背中を押されて汁が褌に染み込んだんだ。こっちへ持って来い」「取り替えていただけるんで」「いや、褌、絞ってやる」「冗談言っちゃいけない」で、サゲ。
実際に、小三治は、ここでいったん高座を後にする。
権太楼は、「上」と「中」を続けているので、この後に、居続けした熊が、遣り手婆さんに体よく追い返されたと地で説明して「中」につなげている。
「上」「中」「下」のうち、しっかり演じることができれば、もっとも笑いが多いのが、この「上」だろう。
では、「中」は、どんな噺なのか・・・は次回。
ってのは、息子に行かせたくないが七分、自分が行きたいのが三分、なんというかシャレ、逆説みたいなもので、そりゃ親父も行きたかったに決まってる。
これを三遊亭圓朝が、女房の方が父親と息子を置いて出て行ってしまうという風に改作した『女の子別れ』は、その後二代目三遊亭円馬を通じて上方に伝わったのですが、現在では鶴瓶しか演じていない様です。私も未聴です。
幸兵衛さんも随分と難しいネタに挑戦されるんですね。
私も円朝作『女の子別れ』を聴いたことがありません。
やはり、柳の噺なのでしょうね。
先日の『二番煎じ』が、思って以上に好評でして、つい、次のリクエストを受けることになってしまったのですが、このネタ、知れば知るほど、難しい。
居残り会リーダーSさん、その頭文字のように、少しSかな^^
黒門亭で1回と池袋のトリで1回。45分くらいだったかなと思います。
情報ありがとうございます。
そうでしたか。
残念ながら、まだ小里んの高座は聴いたことがありません。
45分、ですか。
「中」は、地で説明する型なのかなぁ。
そのうち、ぜひ出会いたいものです。