二列目の異才たち(3)高頭式ー池内紀著『二列目の人生ー隠れた異才たちー』より。
2018年 01月 02日
池内紀著『二列目の人生-隠れた異才たちー』(集英社文庫)
池内紀さんのこの本から、三人目のご紹介。
その名は、高頭式(たかとう しょく)。
実はこの本で初めて知ったのだが、私が六年住んだことのある、越後長岡出身だ。
同じ姓のお店などがあるのは知っていたが、この人のことは知らなかった。
ちょうど、富士山が舞台のブラタモリの再放送を観たところだが、この高頭式、山に深く関係のある異才だ。
まず、本書の冒頭から引用。
東京・市ヶ谷の閑静な一角、少し古びたビルの中に日本山岳会の本部がある。玄関を入った左手がフロアになっていて、壁にずらりと顔写真が並んでいる。歴代の山岳会会長というといかめしい。むしろ人一倍、山好きだった面々のポートレート集といっていい。初代の小島鳥水にはじまって、木暮理太郎、槇有恒、松方三郎・・・・・・。槇隊長によるマナスル初登頂をはじめとして、日本山岳会は数々の輝かしい偉業をなしとげた。あるいは遠征にあたり背後から強力に支援した。槇有恒(まき ありつね)の名は、マナスル初登頂を成し遂げた日本隊の隊長として、教科書で習った。その名は、まきゆうこう、と覚えている。
歴代の「顔」のなかに見慣れぬ一つがまじっている。二代目の位置にあって、ツルリとした頭にまん丸い童顔、きちんとした和服姿だが、病床にあったものか、うしろに枕のようなものが見える。名前まで風変わりだーつまり、高頭式。
他の会長の名は、正直なところ知らない。
もちろん、高頭式も。
どんな人だったのか。
明治三十八(1905)年の日本山岳会発足時の規則に、こんな内容が記されている。
「高頭氏は山岳会の会計に欠損ある場合、向う十年間、毎年千円(会費千人分)を提供する」
この文の前に、当時の東京帝国大学文科大学講師夏目金之助の年俸が八百円、啄木石川一(はじめ)の岩手の尋常小学校代用教員の月俸が八円、と紹介されている。
山岳会が赤字なら、毎年千円、それを十年続けると規定された高頭式という人間は、なぜ、そんな大金を拠出できたのだろう。
その生い立ちについて、ご紹介。
『越後豪農めぐり』(新潟日報事業社)といった本によると、県内関川村の渡辺家は江戸末期には三千八百石規模の大地主だった。豊浦町の市島家は最盛期には田地二千町歩を数えた。そして高頭式の生家はそんな一つで、長岡郊外深沢村の豪農だった。
明治十年(1877)の生まれ。本名式次郎。二十歳のとき父が亡くなって家督を継ぎ、家名仁兵衛を名のった。自分では式、あるいは義明を使った。
長岡に六年住んでいた頃、渡辺家は、訪れたことがある。
しかし、深沢村の豪農高頭家のことは、まったく知らなかったなぁ。
式、あるいは義明は、豪農の家を継ぎながら、何がきっかけで山岳会に関わることになったのか。
高頭式は十三のとき弥彦山に登って山に開眼した。そのときの体験があずかっていたのかもしれない。のちに『日本山獄志』を著したとき、標高はたいしてないが眺望の大きいことを力説した。『・・・・・・眼界忽ち開けて、北に佐渡島を望み、陸・羽の遠山は模糊として水天髣髴の間に在り』。十三歳の少年はきっと、ひたすら目を輝かせて周りの景観に見入っていたのだろう。『天気晴朗』の日の山頂を述べて、「其爽快なること言語に堪えず」と書きそえている。
この『日本山獄志』という本が凄い。
全千ページをこえ、厚さ十五センチ、六十点にあまる写真図版と数十のペン画山岳図、加えて二色刷り・百三十ページに「山獄表」つき、とのこと。
原稿はすべて和紙に毛筆で書かれていた。積み上げると、まさしく天にとどいただろう。二十世紀初頭に、一国の山を収めて、これだけ完璧な山岳事典が世界のどこかにあったものか。少なくとも、もっとも早い、もっともすぐれた一つだったにちがいない。発行は博文館となっているが、出版費用の全額を高頭式自身が負った。
有志と一緒に日本山岳会を発足させた翌年の明治三十九年に、この本が、山岳会誌『山岳』と一緒に、世に出された。
その後、日本山岳会の運営に、高頭の財力は、欠かせないものとなっていた。
昭和八年(1933)、小島鳥水のあとを受けて日本山岳会第二代会長につく。ながらくの援助に対する山岳会からの返礼であって、高頭式自身には意にそわない役まわりだったらしく、二年後に早々と退いた。役員の一人が回想している。「・・・・・・いつも高頭さんは役員会に出席しておられた。他の会合でもそうであったように、いつも黙々として語られるところは極めて寡く、談論風発する若い者の言葉を専らに聴き入って、会が終ると音もなく静かに帰って行かれるのであった」。来迎寺駅を唯一の連絡場所とするその旅館は、世に知られることもなく、近在の者がたまに泊まる、贅沢な空間だった。
大半が名士の息子たちで、その都会っ子の自慢話を、高頭式がどんな思いで聞いていたのかはわからない。戦後の「農地解放」で大地主があわてふためくなか、彼は自邸を開放して旅館にした。宿の名を「山岳」といって、玄関に高島北海画の槍・穂高屏風、次の間に中村清太郎筆「伯耆大山」、廊下には木下藤次郎の水彩「中禅寺湖」が飾られていた。奥の間は二十畳敷き。昭和二十九年(1954)に訪れた槇有恒が報告しているが。「旅館は御令息夫妻と、令嬢とによって営まれているが、全く旅館といった空気など微塵もない」。
槇がその「山岳」を訪ねた同じ年、高頭式は中風で倒れた。
日本山岳会のロビーに飾られている写真は。この前後のようだ。
昭和三十三年(1958)四月没、享年八十一。
越後の豪農の倅が、酒や博打、女道楽にうつつを抜かすのではなく、日本山岳会という組織のために、家を危うくしてしまった。しかし、彼は“山岳”だけに家財を投入したわけではなかった。
長岡の日本山岳会事務所を預かる室賀さんや、弥彦山岳会の渡辺さんの回想で、それは証明されている。
生家跡には背をこす草が茂っていた。昔の写真では松林ごしに冠木門が見え、その奥に白壁をめぐらして堂々とした屋敷が控えていた。今はただ、うっそうと影をつくった藪があるばかり。
「度量の大きな人でしたね」
室賀さのことばに渡辺さんが無言のまま何度もうなずいた。地区の学校、組合、山の手入れ、道路づくり。一人で費用のおおかたをまかなった。支配人がしぶるのを押しきって、たのまれるとこころよく請け判を捺した。その好人物ぶりを笑う人がいたのだろう、高頭式は大正十四年(1925)に出した『御国の咄し』のはじまりに自分の生い立ちをつづり、そのなかで「馬鹿」といわれたことについて触れている。いかにも自分はノロマで、ボンヤリで、安本丹(アンポンタン)であるが、だからといって馬でも鹿でもない。むしろ「先祖から伝わりました家宝を売りましたり、家屋を壊しましたり致しまするから、それが訛りまして破家(ばか)となりましたものと確信を致して居りまする」。
大正デモクラシーと労働争議の高まりのなかで、地方では小作争議が頻発していた。隣県富山からはじまった米騒動が、またたくまに全国に波及する。そんな時代相を見つめながら、この「越後の旦那様」は、大地主といったものの行く末をはっきり見定めていたのではあるまいか。
どんな豪農も、時代の流れには逆らえなかったかもしれない。
しかし、その趨勢の中で、自分の趣味から大きく発展させて、高頭式は、二列目ではあったが、独力でつくった山岳大辞典とも言える著書を著し名を残した。
高頭式を知っていたら、もう少し、長岡時代に訪ねるべき場所や人もいたのに、と悔やむ。
このシリーズ、これにてお開き。
他の異才たちについては、ぜひ、実際に本書をお読みのほどを。
書いている時に、ブラタモリの富士山篇の再放送でした。
もちろん、正月を意識した訳ではなく、たまたま三回目の記事が今日になった次第です。
他の人たちも、よくぞ池内さんが取り上げてくれた、と思う異才ばかり。
歴史の教科書には載らないでしょうが、我々日本人が知っておくべき人たちだと思います。