江國滋さんが説く、「落語哲学」(4)-『落語美学』より。
2017年 12月 12日
江國滋著『落語美学』
このシリーズの最後、四回目。
「第三章 金について」より。
国会でプロレスごっこをしていればどんどん金が入ってくる人とか、泥棒にくれてやる大金を枕もとにおいて寝る人などは、金なんか自然に湧いてくるとでも思っているのだろうが、本当は、
「けッ、馬鹿にしやがって、三文べえの銭、なくすもなくさねえもねえ、こんだなもの・・・・・・しかし、地べたァ掘っても三文の銭ァ出ねえちィ譬(たとえ)がある。これで商(あきね)えぶてねえことあるめえ、よし、やってみべえ」(『鼠穴』)
というくらい尊いのが金である。
そこでまたこんなことがいわれる。
「何をいってんだねえこの人ァ、夫婦の仲で水くさいことおいいでないやね、そんな礼なんぞいわなくたって」
「いや、なんの仲でも銭金は他人てえことがある。おめえのおかげでおれも本当にありがてえ、これでまァ病気がなおるんだから・・・・・・」(『文違い』)
これもまた至言には違いないが、それにしても「なんの仲でも銭金は他人」とは厭な言葉である。人生が索然としてくるような、そんな響きを持っている。だが、金の世の中という現実に目をつむるわけにはいかない。だいいち、法律でさえ「夫婦ノ一方ガ婚姻前カラ有スル財産及ビ婚姻中自己ノ名デ得タ財産ハソノ特有財産トスル」(民法 第七百六十二条)と定めている。なんとも味気ない話だが、いまさら反対してみてもはじまらない。「なんの仲でも・・・・・・」という『文違い』の科白は、このようにちゃんと民法精神にのとっているわけだが、しかし金というもの、それほどまでに執着しなければならないものだろうか。
「国会でプロレスごっこ」は、この本の初版発行が昭和40年であることから、あの時代の政治状況を察することができる。
今では、良くも悪くも、そういった体を張った議員さんたちの応酬は見かけないが、それは、今が平和だからではないと思うぞ。
「真摯」とか「丁寧」という言葉の大安売りに対しては、野党議員も少しは体を張って欲しかった、と私は思っている。
話を戻そう。
『文違い』に出て来る、「なんの仲でも銭金は他人」は、落語愛好家の方はご存知のように、目の病気と偽って新宿遊郭のお杉を騙す、芳次郎の言葉だ。
そう考えると、この「なんの仲でも」という言葉には、より一層、厭な響きを感じるなぁ。
江國さんは、上記のように金への執着に関する疑問をふった後、こう続けている。
極道の限りをつくす大工の熊公が、その疑問に答えてくれる。
「人間てえものァ、ちィちィして銭ばかり貯めたってしょうがねえじゃねえか、え?いくらおめえ、山のように金ェ貯めたって、もういま息を引きとるてえ場合(ばやい)になて一文だって銭ァ使わねえだろう、そう考えてみりゃつまらねえや、なァ、何万両残したって、死んで背負ってけやしねえんだ」(『子別れ・上』)
隠居の葬式酒にのんだくれた熊公が、これから女郎買いに行くという場面で、こんな怪気炎をあげる。
とんでもない無類の徒ではあるが、「何万両残しても死んで背負っていけない」という言葉は正鵠を射ている。
熊が仕事の金を前借りした後なので、言える言葉かもしれないが、たしかに、貯めた金を背負って三途の川を渡ることはできない。
しかし、現実には、なかなかこう割り切ることは、そう簡単ではないのも人情。
江國さんは、ある実体験をこの後に披露している。
本郷にNという旅館がある。京都風の落着いた宿だが、熊公の言葉を聴くと、ぼくはいつもここの女将を思い出す。彼女は六十九歳になって、ソ連とどこだかに旅行をしてきたという変りものだが、“外遊”がよほど気にいったとみえて、近く印度を中心に六カ国旅行に出掛けるという。さぞ費用がかかるだろうね、とい尋ねたら、この女将、ニヤリと笑っていった。
「なんぼお金を残してみたところで、死んで背負っていけるものやおまへん。生きてるうちに使うたほうがトクでおます」
この旅館の女将さんの言葉は、古希を前にした達観が言わせるものだろう。
しかし、江國さんも、つい“変りもの”と形容する位、なかなか達観できないのが、生身の人間。
江國さんはこの後、落語の中にも、なかなか言えないことを言う主がいることを、紹介している。
「いやいや、そんな言訳をしなくてもいい、お前が金を出して遊んでいるか、他人(しと)のお供か見てわからないあたしじゃない。しかしまァきのうのお前がお供で遊んでいたんでしょう。どうか、他人さまとつきあって遊ぶときには、充分に金は使っておくれ。いいかむこうで二百両出して遊んだときはお前は三百両お出し。五百両使ったら千両お使い。どうかそうしてくれないと、いざというときに商売の切ッ先が鈍(なま)っていけない。そんなことでつぶす身代なら、あたしァなんともいわない」(『百年目』)
かくれ遊びをしている番頭に主人がこんなことをいう。おだてたり、やんわりと叱ったり、ちくりと皮肉をいったり緩急自在にあやつりながら、しかも情理を尽した説諭の、これはほんの一部であるが、さすがに大店の主人の言である。商売をしたことのないぼくにはよくわからないが、いかにもそうかもしれないという気がする。とくに「切ッ先が鈍っていけない」という表現がおもしろい。
こんな主人も、なかなかいるものではない。
しかし、実に見事な指導、教育の姿ではなかろうか。
こう言われてしまうと、無駄な金の使い方などできようもないだろう。
『百年目』では、かつて立川志の輔がパルコで演じた映像を見たことがあるが、主人が泣いて番頭に辞めないでくれ、と頼む場面があり、閉口した。
泣くような主人では、ないのだ。
志の輔がその後、演出を変えたかどうかは知らないが、あの時の人物造形は、腑に落ちなかったなぁ。
江國さんは、この章の最後に、あのネタを持ってきた。
さて、金の項の最後に、万人だれでもが共感を覚える会話を紹介しよう。
「あのじじいが、まァいけッ太えじじいだな、あん畜生ァ、門跡さまのお茶屋へでも行ってころがってやがる年ごろで・・・・・・囲い者をしやがるとはどうもあきれ返ったじじいだなァ、・・・・・・大体なんですね、あの女はあんなじじいいに惚れてるんですかねえ」
「惚れてやしねえやな、お面もぼんくらだなァ・・・・・・金だよ」
「あ、そうか、金ですかねえ・・・・・・いい女だなァ、まったく。ああいうのが金があれば自由になるんだなァ。金さえありァいいんだ(と目をつむって嘆息して)ああ、ああ、金がほしいや、どうも」(『三軒長屋』)
これこそ、まさしく、お説ごもっとも、であろう。
金のこと一つとっても、『鼠穴』で描くように、地べた掘っても三文の銭が出てくるわけでもない、という教えももっともだし、厭な言葉とはいえ、なんの仲でも銭金は他人、という『文違い』の教えも否定し切れるものではない。
また、『子別れ』で熊が酒の勢い言ったとはいえ、死んで金を背負って行けるわけでもないというのも、名言に違いない。
『百年目』の主人の大店の主人としての説諭には、こんな上司に仕えたい、と思わせる。
そして、『三軒長屋』では、人間の本音が顔を出す。
金をめぐっても、こういった多様な人間の姿が描かれるところに、落語の素晴らしさがあるのだろう。
ということで、このシリーズはこれにてお開き。
いやぁ、落語って、ほんとにいいもんですねぇ!