江國滋さんが説く、「落語哲学」(3)ー『落語美学』より。
2017年 12月 11日
江國滋著『落語美学』
このシリーズの三回目。
その前に、「哲学」という固い題が気になる方もいらっしゃるだろうから、江國さんが「序説」で書いていることを紹介しておきたい。
われわれがいま耳にするのは、要するに二百年にわたって磨きぬいた芸であり、その芸に裏打ちされたすぐれた表現なのだ。これを称して「落語哲学」と、ぼくは勝手にそう名付けたのだが、何を大げさなといわれるかたには、八っつあんの倫理、熊さんの知恵といい直してもいい。それもお厭なら、落語・温故知新とでもいおうかー。
ということで、あまり「哲学」という言葉に目くじらを立てずに、ご覧のほどを。
では、「第二章 色について」から。
まずは、志ん生の高座を思い浮かべてお読みのほどを。
「あんまりやさしくすると当人が図にのぼせてしまう、といって、小言をいやァふくれるし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る・・・・・・どうも困るそうですなァ、女というものは、見たところは大変綺麗で、いいようですが、外面如菩薩内心如夜叉なんてえまして、見たとこは菩薩のように綺麗だけれども、腹ン中は鬼か蛇だって、これァお釈迦様がそういったんで、苦情はむこうのほうへもってってくださいよ」(『お直し』)
あくまで志ん生がマクラで使っているから、外面如菩薩内心如夜叉(げめんにょぼさつないしんにょやしゃ)なんてぇ言葉を引用しているので、私がそう思っているのではないことを、強くおことわりしておきます^^
江國さんは、次のように続けている。
外面如菩薩内心如夜叉という言葉そのものは別に珍しくもない。仏教の「華厳経」が出典だそうだが、この言葉を志ん生が、あのめんどくさいような、どうでもいいような調子で喋ると、とたんにおかしくなってくる。ただおかしいだけではなく、どことなく真実味が加わってくるから妙である。聴いているうちにぼくは、劇作家ボーマルシェーがフィガロにいわせた有名な独白を思い出す。
「噫々、女! 弱ああい、当(あて)にならねえ代物だなあ! およそ生きとし生けるものは本能に縛られるが、手前の本能は男を誑かすことか?」(『フィガロの結婚』第五章第三幕。辰野隆焼く)
女性よ、期せずして似通った彼我の女性観に腹を立ててはいけない。一見女性蔑視のように聞こえるこの二つの言葉の底に流れているものは、蔑視どころか実は、徹底した女性崇拝の思想なのだから。
志ん生の『お直し』で、『フィガロの結婚』を連想するところが、江國さんなのである。
この後を続ける。
同じ『お直し』の中にこんな言葉もある。先月の柳家小満の会で、この噺を聴いた。
「この、女ってえのァそういう時に慰められるてえと、いちばんうれしい。ああこの人は親切だなッと思う・・・・・・親切と慰めとこんがらがってきますね、そうすると、二人の間でもって、なにかそこにできあがってくる」
今も昔も変らぬ男女間の微妙な心理。その本質を衝いた至言ある。
“男女間の微妙な心理”を描いた、好高座だった。
かつては売れっ子だった吉原の花魁が、年を重ねてお茶をひくことが多くなり沈んでいるところを、同じ店で妓夫として働く男が優しく声をかける。
男は、この時、夜叉ではなく菩薩を彼女に見たのだろうねぇ。
男は、その外面如菩薩に、弱いのだ。
それが独身だったりすると、大きな勘違い、あるいは都合の良い錯覚をしてしまう。
そういった、スケベ心から女に騙される男のだらしなさは、数多くの落語で明らかにされている。
引用を続ける。
「ああそうだよ、それァおればっかしじゃないよ。あすこの家ィ稽古にくるものは、みんなあわよくばってのがもうずうッとそろってるんだ。ああ、あわよか連だ。そういうおまえだってあわよか連だよ。おまえなんざァ、あわよかが着物を着て下駄ァはいているようなもんだよ。だけどそのことについてはもう心配しなくてもいいよ。師匠はあたしに惚れてんだから」(『猫忠』)
美人で愛想のいい遊芸の師匠が稽古所を出すと、町内の若い衆がたちまち競争で通ってくる。もちろん、芸なんぞどうだっていいという手合いだ。師匠も心得たもので、適当に「スジがよござんす」だの「お声がよろしい」だの、心にもないお世辞をそれぞれに配合する。いわれたほうは「こりゃ、ことによると・・・・・・」と、勝手にうぬぼれる。三回も通ううちに、あわよくば金的をという野心を抱きはじめる。
馬鹿馬鹿しい、と嗤う資格はわれわれにはない。毎日美人喫茶にやってきて珈琲一杯で三時間もねばる学生。どうせ会社の金だから痛くも何ともないのだろうが、それにしては法外に高い金を出して、せっせと高級バーに通勤するサラリーマン。いい齢をして小料理屋のおかみに目をつけて、何とかして旅行・・・・・・それも東京都内一拍旅行に誘い出そうとヤッキになっている好色おやじ。即ち悉く「あわよか連」である。
“美人喫茶”というのが、この本が昭和四十年発行ということを思い出させるねぇ。
盛り場の様子も平成の今では変わっているにしても、「あわよか連」が夜の街を彷徨っていることには、変わりがなかろう。
キャバクラで「あわよくば」と鼻の下を伸ばしている男は、少なくなかろうし、好色おやじが通う、昔は美人だったであろう女将のいる小料理屋も、少なくはなったとはいえ、ないことはない。
「あわよか連」のマクラは、『あくび指南』『稽古屋』『汲み立て』など稽古ごとが登場するネタでよく聞くことができる。
炬燵の中で手を握っていたのが美人の師匠ではなく、同じ「あわよか連」野郎だったことが判明した時の男に同情を禁じ得ない人が、少なくないだろう。
しかし、淡い期待が裏切られたとしても、「あわよか連」のショックは、そう大きなものではない。
江國さんも、こう書いている。
あわよくばということは、失敗してモトモトだということにほかならない。ごく安直にちょっかいを出すかわりに、望みがないとわかればいささかの未練もなく引下がるー男性の助平根性は、おしなべてまあそんなところである。
見事にふられた後で、「あわよか連」の面々の中にも、「外面如菩薩内心如夜叉」を痛感する者がいるだろうなぁ。
くどいようだが、この言葉、お釈迦様が言ったので、苦情はむこうのほうへもってってくださいよ^^