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二代目立花家橘之助のこと(4)ー秋山真志著『寄席の人たち』より。

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秋山真志著『寄席の人たち』

 さて、この本から二代目橘之助のこと、最終回。

 圓歌は先のおかみさんを亡くしてから、酒に溺れるようになった。
 ご多聞に漏れず、男は女房を亡くすと、からきし弱くなる。
 女は・・・・・・ここでは書かないことにしよう。

 橘之助(当時、小円歌)の内弟子時代の回想をご紹介。

「内弟子は、家のこと全般をするんです。まず、師匠が起きる十時ぐらいまでに新聞とお水を持って部屋まで届けるんです。
 (中 略)
師匠は師匠でおかみさんが亡くなって淋しかったのもあるんでしょうけど、毎晩夜中にベロベロに酔って帰ってくるんです。私と歌る多が両脇を抱えて二階の師匠の部屋まで連れて行って寝かせて・・・・・・お~って呼ぶから行くと、オレが寝るまでマッサージしろっていうんです」
 圓歌は当時の生活を自著の『これが圓歌の道標(みちしるべ)』の中で振り返っている。
「私は、いまでも思うんですよ。小円歌と歌る多がいなかったら、おまんまも食えなかったって・・・・・・。そのころは二階で寝てましたから、階下に降りてくる途中で、パンツからみんな脱いで風呂場へ入っちまって、出てくるとい、下着やなんか、そこに出してあるのを着て、部屋へ入ると、もう朝からすき焼きでビールでしたからね。それから寄席へ行って、ちゃんとつとめてたんですから・・・・・・。いまだったら、ひっくり返っちまいますよ。
 こんな生活を送っていたもんですから、いまでも小円歌と歌る多には言うんですよ、『おまえたちのおかげで、おれは生きられたって・・・・・・』ね」

 あの圓歌が、こんなことを書いていたとは。
 
 私は、橘之助、そして、歌る多と師匠と間にこのような師弟の絆があったことを、初めて知った。

 彼女たちが、師匠圓歌を失った時、どれほど深い悲しみに陥ったものかと察せざるを得ない。

 さて、あす歌から小円歌となって、彼女の修業は続く。芸に悩みもした。
 そんなある日、あの人から一喝されたらしい。

「すごくウケたときもかなりあったんです。でもどちらかというと、笑え、笑え、という感じで、笑いを強要してました。若かったからえげつなかった。ある日、小三治師匠に池袋演芸場の楽屋で叱られました。なんだ!あの高座は、なんなんだ!あのネタは。オレたちが聞いていて恥ずかしくなる。あんなネタやめろ、しゃべるな!オマエは高座に出てきて、ポロンと弾いて、踊ります、って踊って、ああキレイだなって、これでいいんだよ。ウケるようなヤツじゃないんだ!っていわれて・・・・・・そのときはすごく悔しかった。でもこの世界、裏で悪口をいってる人はたくさんいるけど、当人にピシッと直言してくださるのは貴重な方だと思って、小三治師匠には本当に感謝しているんです」
 それでしばらく、小三治のいう通りにやってみた。でもそれまでに、拙いながらもウケているというお客の反応を見てしまっているので、物足りなくてしょうがなかった。これだったらいっそのことやめたっていいな、とも思った。
「私はどちらかというと、三味線とか唄がへただから、しゃべりでカバーしていく、っていうのがあって・・・・・・それは間に合わせでやった初高座のスタンスから変わってないわけですよ。三味線は短くて、そのつなぎのしゃべりが長くて、どんどんウケるじゃないですか。そっちが楽しくなっちゃって、だから小三治師匠のいう通りにやってみても全然おもしろくないんですよ。こんなんだったらやめちゃってもいいな、どうせやめるのなら何いわれてもいいからもう一回もどしちゃえ、そう思ってもどしたんです。ただし、えげつないことをいうのはやめて自分の持ち味、江戸っ子のチャキチャキッとしたところを出していけばいいんじゃないかなと。それに師匠が、オレの悪口はどんどんいっていいから、あとでオレが出て行ってフォローするから、といってくれて・・・・・・そういた師匠の後押しにもずいぶん助けられました」
 それからお客が少し聴いてくれるようになり、だんだんと小円歌の芸風が浸透していった。
 小三治の一喝は、いずれにしても小円歌の転機となったと思う。
 
 もちろん、師匠圓唄のアドバイスも大きい。

 私は、小円歌の芸について批判的な声があるのを知っているが、もうじき、“偉大なくマンネリ”になる一歩、あるいは二歩手前位にあり、今後が楽しみだと思っていた。

 しかし、まさか橘之助の名を継ぐとは予想もしていなかった。

 この本では初代橘之助のことにも触れているので、ご紹介したい。

「大師匠の圓朝にも可愛がられ、真打の看板を上げたのが明治八年、なんと数え年八歳の時であった。とにかく大変な天才で、清元・長唄・常磐津・小唄・端唄・・・何でも自由に弾きこなし、自ら名付けた浮世節の家元となり、楽屋内でも女大名と言われて一世を風靡した」(文・都家歌六 『全集・日本吹込み事始』監修・都家歌六、岡田則夫、山本進、千野喜資)。山田五十鈴の代表的な舞台『たぬき』のモデルとしても名高い。圓生の『明治の寄席芸人』でも絶賛されている。「芸については申し分のない、たいした人だと思います。三味線を持って弾き違えをしたことがない。撥をはずしたことも、あたくしは一度も聞いたことがない。実にどうも大した名人でしたが」
 ただ大変な浮気者で別名“千人斬り”。(のちの)六代目朝寝坊むらくと駆け落ちしたり、艶っぽい話は枚挙にいとまがない。
 この六代目朝寝坊むらくという噺家は、何度も改名している人だが、永井荷風が弟子入りしたことでも知られている。

 さて、その恋多き初代橘之助の芸についての引用を続けながら、当代橘之助の言葉もご紹介。

 橘之助の浮世節はいまもCDやテープで聴くことができる。長唄かと思えば常磐津になり、いつしか小唄・端唄になったかと思うと清元に変わり・・・・・・変幻自在にさまざまな邦楽をつなぎ合わせて唄う“吹き寄せ”が特徴で、すさまじいテクニシャンだ。無論、明治・大正のお客は邦楽にもい通じており、耳が肥えていたからこそできた芸だともいえる。彼女のしゃべりが唯一入っている『文句入り都々逸』という唄が残っているが、なかなか諧謔味がある。橘之助は噺家の二代目三遊亭圓橘の門下であり、前座に噺を教えていたという伝説もあるほどなのでおそらくしゃべりも達者だったのではないか。この時代にもし三味線漫談という言葉があり、軽妙なしゃべりを挟んでいたとしたら、彼女が三味線漫談の嚆矢だったかも知れない。小円歌も「いまの人にもわかる音曲吹き寄せの現代バージョンをつくれないかと思っています」。これが完成したら、三味線漫談の新たなトビラを開くことになるだろう。

 たしかに、今の時代と明治、大正時代とは、客の邦楽の知識も大きく違う。

 しかし、寄席が好き、落語が好き、邦楽も好きという人も少なからずいる。

 私は、初代の芸を今に生かした、二代目橘之助のならではの“吹き寄せ”を聴いてみたい。

 そんな期待、希望をもって、このシリーズをお開きとする。

 今席の浅草の後、来月上席は池袋で披露目が続く。

 そう、小三治に楽屋で叱られた、池袋だ。

 なんとか行きたいと思っている。

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Commented by saheizi-inokori at 2017-11-26 21:59
それにしても圓歌はカミさんをなくしてからもいい毎日だったよね。
Commented by kogotokoubei at 2017-11-27 08:55
>佐平次さんへ

たしかに、そうですね。
その頃の小円歌も歌る多も、今よりはもちろん若かった^^
Commented by at 2017-11-30 07:00 x
『東京かわら版11月号(圓歌追悼)』は、諸氏による圓歌の人間臭いエピソードが満載です。さだまさしが弟子とは知らなんだ・・・
ご紹介の本は、「朝からすき焼きとビール」というくだりを読んで吃驚したことを覚えています。小圓歌、いや橘之助も苦労しましたね。
落語家も、私生活の話題の豊富なヒトは後世まで語り継がれますね。

Commented by kogotokoubei at 2017-11-30 10:24
>福さんへ

そうでしたか。
最近は「かわら版」をほとんど読んでいないものでして。
書店で立ち読みして、購入するかどうか考えます^^
ご指摘の部分からは、女房を亡くした男の弱さの一つの姿が伝わります。
橘之助、歌る多の存在は、とんでもなく大きかったのでしょう。
「かわら版」には、彼女たちのコメントなども含んでいるのかな。
さて、書店に行きますか。
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by kogotokoubei | 2017-11-26 15:20 | ある芸人さんのこと | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛